Die Familie -20-

 ギムナジウムに無事入学し、学生生活を送る中でベルトランとはまた違うが、それでも生涯の付き合いが出来る様な友人も出来、その友人達と肩を並べていると、夜ごと夢に出てくる巻き毛の少年の無残な姿も、家を出る直前に肩越しに見えた母と姉の淋しそうな顔と、家の中から見送ってくれていることを教える窓越しのシルエットなどが出てくる余裕はなく、徐々に夢に出てくる回数が減りだしてくる。
 そのおかげで夢の実現を目指す力が将来の負けん気によって増幅され、家庭教師に教わっていた遅れは一切感じないどころか、クラスの中でも成績優秀者として褒められるほどだった。
 ウーヴェが通うギムナジウムは男女共学で、一昔前のように全寮制の男子校ではなかったが、創設者の理念かどうなのか、寮での暮らしを選択する生徒と自宅から通学する生徒とが半数ずつぐらいいた。
 成績優秀で端整な顔立ちとくれば同学年の女子からモテない理由はなく、幾度となく付き合って欲しいと告白されていたが、気持ちはありがたいが今は勉強をしたいと、主に勉強を理由にそれらを悉く断っていた。
 その為、女子達の間ではウーヴェはゲイではないかと陰口を叩かれ、その相手は同じクラスでいつも一緒にいるにんじん色の髪をした、勉強よりも身体を動かすことの方が似合っていると思われながらも実は成績優秀のオイゲンではと噂されていた。
 その噂は回り回ってもちろんウーヴェの耳にも入っていたが、聞かされた瞬間呆然とするが、次いでイェニー-ウーヴェはオイゲンのことをそう呼んでいた-に失礼だと少しだけ気色ばむが、己に対するそれについては侮辱されたの馬鹿にされたのだとは思うことは無かった。
 ギムナジウムに通っている頃のウーヴェは、家庭教師に教わっている時に抱いた夢を叶えるために必死で、正直女性のことなど考えている余裕はなかったし、またあの事件が悲しい終わりを迎えたとき、己を庇って絶命した女性の顔が忘れられないため、彼女を作ることなど考えられないことだった。
 男女に関わらず、ウーヴェはギムナジウムの中で透明な見えない壁を築き上げていて、友人関係の中でも一線を引いていたのだが、その一線を難なく乗り越えて隣で笑っているのがオイゲンだった。
 オイゲン以外の友人は何故かその一線を越えることが出来ないでいたが、周囲に不快感を与えるような言動もあまりしなかったためか、同級生達の間では冷めた一人が好きな男として認識されてしまっていた。
 その同級生達が学期の間の休みになれば家に帰ったり家族と旅行に出かける話などを聞くが、ウーヴェはギムナジウムに入学して以来、自宅に帰ったことは一度としてなかった。
 家を出てここで勉強に励むことで事件の影響を薄れさせようと、また実際問題薄れつつあったため、今家に戻れば今までの努力が水の泡になってしまうのではとの危惧が常にあり、それがウーヴェの足を自宅に向けさせない要因になっていた。
 その気持ちの奥に、事件後間もなくウーヴェが密かに決意をした思いが眠っていたが、己でも気付かないほど巧妙にそれを押し隠し、物理的には眼鏡を掛けることで抑え込んでいた。
 押し隠された秘密は、日々ウーヴェが生活する中で家族のことや兄姉に関することを見聞したときに、水道の蛇口から水が一滴ずつ落ちていくかのように秘密の中に落ちていくが、それが限界まで肥大化していることにもウーヴェは気付いておらず、その結果は心身の不調という形で現れるようになっていた。
 友人達の間で家族の話題が出たとき、オイゲンがいれば注意を払ってくれるのだが、彼ほど仲の良くない友人達はウーヴェの家がバルツァーであると知ると、知己を得たいだの最近開設された研究所で働きたいだのとの話をしてくるが、話が終わると同時に頭痛がし、酷ければ半日以上もそれが続くようになってしまっていた。
 頭痛の原因が己がひた隠す本心にあるとは思わず、憎んでいる父や兄の影を感じたからだと決めつけたウーヴェは、家族の話は嫌だときっぱりと断るようになっていた。
 それが、頭痛を更に酷くさせる結果になるなど、当時のウーヴェも気付けず、また誰一人としてそれに気付けるものもいなかったため、自然とウーヴェの周囲では家族の話をする者はいなくなっていた。
 そんなこともあるためにか、ウーヴェは寝ても覚めても本を読み勉強をする日々を更に送ったため、アビトゥーアの準備に掛かる頃には教師達の間で、ウーヴェと同年代の生徒が受ける試験ではかなりの高得点を取り、それこそドイツ国内の好きな大学に問答無用で入学できるのではと期待されるほどになっていた。
 だから試験の合格後-誰もウーヴェが不合格になるとは思いもしないようだった-、どこの大学に進みたいのかと進路相談を担当の教師と行っていたとき、ウーヴェはきっぱりと一つの大学の名前を挙げた。
 『・・・その大学で学びたいものは?』
 教師の質問にこれ以外はないと、答えは決まっている顔で医学部に進み将来は精神科医になりたいと告げると、教師の顔に驚きの色が見えるが、医師としての将来が有望だと何度も頷く。
 『きみならば大丈夫だな』
 『ありがとうございます』
 『それにしても、精神科医ともう決めているのか?』
 教師の言葉に己でも気付いていなかったのか、確かにそうだと苦笑するが、ウーヴェの脳裏に浮かんでいたのはあの日姉の部屋で見た一冊の本だった。
 あの本との出会いがあったから今自分はここにいて、あの日見た夢に向かっているのだと告げると、夢を叶える事は大変なことだが、やりたいからこそ頑張れると励まされて眼鏡の下で目を瞬かせる。
 『なりたいではなくやりたいことと言えるようになればその夢は叶う』
 だから頑張りなさいと頷かれ、教師の励ましを日頃の皮肉な目で物事を見る心を押し殺して真摯に受け止めたウーヴェは、己の相談が終わった後に友人はどうだと問いかける。
 『ビアホフか?』
 『はい。彼はどうですか?』
 『ああ、彼も問題はないだろう。そう言えばきみと同じ大学に進学したいと言っていたな』
 もっとも、ここの卒業生で大学進学が決まったものは半数近くがきみと同じ大学に進むのだから不思議はないが、同じく医者になりたいとの希望があったことを伝えられると、ウーヴェの顔に僅かに喜色が滲む。
 『・・・そう、ですか』
 『ああ。後一年だが、二人とも頑張りなさい』
 『はい』
 担当との進路相談が終わり部屋を出たウーヴェは、廊下で待っている長身の赤毛の友人に苦笑し、お前も俺も進路には不安はないそうだと肩を竦めると、その肩を友人の手が力強く叩く。
 『良かったな、フェル』
 『・・・ああ。・・・アビに受かれば大学だな。大学で友達が増えるかな?』
 『一人が好きな大人しい皮肉屋のフェルの口から出るとは思えない言葉だな』
 オイゲンがからかうように口笛を吹くと、ウーヴェが悔しそうに僅かに口を曲げてオイゲンの背中に拳をぶつける。
 『うるさい』
 『はは。・・・なあ、アビに合格すれば本当に呼び方を変えるのか?』
 『ああ』
 いつまでも愛称で呼ぶのも何かが違う気がすると苦笑するウーヴェに、オイゲンが俺は今のままでも構わないが、お前がそう望むのならばと白い歯を見せたため、ありがとうと伝える代わりに再度背中に拳を一つ。
 『大学かぁ。医者になるには忙しいだろうけど、山にも行きたいなぁ』
 医者という人生の目標のためには勉強がまず何より大切だが、それと引き替えにしても悔いは無い登山にも学生の間に行きたいと笑うオイゲンにまた山に行くのかと、こればかりは持って生まれたものだから変えようがない心配性で問いかけたウーヴェは、友人の目が意味ありげに細められるが、その真意まで見抜けるはずもなく、次の休みにドンと一緒に行ってくると教えられて口を閉ざす。
 『安心しろよ、フェル。変わった石を見つけたらまた持って帰ってくるし、写真も撮ってくる』
 『・・・お前が無事に帰ってきてくれるだけでいい』
 控えめなウーヴェの本音にオイゲンも素直に頷くと、白とも銀とも付かない髪をくしゃくしゃにする。
 そんなことを出来るのが今やオイゲンぐらいだと知るのものは誰もおらず、ウーヴェも止めろと言いながらも大人しくしていた。
 『・・・家には進路のことを言うのか?』
 髪をくしゃくしゃにしつつそっと問いかけてくる友に何も返さなかったウーヴェだが、無事アビに受かるという確信を得られてからエリーには報告するとだけ返すと、それ以上聞いてはいけない事だと理解しているオイゲンが頷き、その話題にはもう触れないと暗に示す。
 『とにかくあと少し、頑張るか』
 『ああ』
 そうして、人生を大きく左右するアビトゥーアを翌年に控えた二人は、それぞれの夢の実現のために頑張ろうと笑い合い、肩を並べて廊下を歩いて行くのだった。

 

 アビトゥーアにウーヴェが無事に合格したこと、希望の大学の医学部に入学できることをウーヴェの家族が知ったのは、本人の連絡ではなくイングリッドの友人であり経営者でもある女性を通してからだった。
 『無事に卒業できるのね?』
 己自身も経験のあるアビトゥーアの緊張を思い出したアリーセ・エリザベスが胸を撫で下ろし、祝いに食事に行こうと笑うと、その横でギュンター・ノルベルトが複雑な表情を浮かべる。
 食事に一緒に行けることなど望むべくもないが、せめて卒業の報告は自身の口から聞きたかったこと、また己は学生の時に進路を大きく逸れてしまったために妹もウーヴェも経験したアビトゥーアの緊張感が分からないと自嘲すると、アリーセ・エリザベスが冷たい顔で笑いながら兄に指を突きつける。
 『バルツァーの重役様がそんな弱気なことを言うなんて。父さんから代が変わったらどうなるのかしら』
 アリーセ・エリザベスなりの励ましに兄は気付き、確かにそうだと苦笑を切り替えてとにかくウーヴェの卒業はめでたいことだから、祝いで食事に行くのなら楽しんで来いと妹の突きつけられた手を撫でて頬を撫でるために立ち上がると、さすがに妹の顔が曇ってしまう。
 『ノル・・・・・・』
 『俺は行けないが俺の分も祝ってやってくれ』
 ギムナジウムに入学して以来、一度たりとも家に戻ってこなかったウーヴェの気持ちを思えばその祝いの場に顔を出すことは出来ないと自嘲する兄に切なげに溜息をついた妹は、夫との結婚式にも来なかったウーヴェだから、その時に夫を紹介すると話題を切り替えるように告げると、そうすれば良いとギュンター・ノルベルトが頷く。
 そんな兄妹の様子を少し離れた場所から見守っていたレオポルドとイングリッドも子供達と同じ寂寥感を抱いていたがどちらもそれを口には出さず、ただ、卒業をすれば大学に通うことになるが、ウーヴェのことだから家に帰ってくることは無いだろう、どこか良さそうな物件を探さなければと言う、ある意味現実的なことを口にする。
 『大学から近い方が良いのは分かるが、手頃な物件があるかどうかだな』
 ウーヴェが通う大学がある街はドイツ南部だけではなく国内でも有数の大都市で、住宅事情はかなり厳しいものがあった。
 家に帰ってこないとなれば当然どこかで部屋を借りることになるだろうが、ウーヴェの性格からしてルームシェアをするとも思えず、どうするつもりかと頭を悩ませる夫に妻が今度会ったときにそれとなく聞き出すこと、まだ決まっていないのであれば私かアリーセ・エリザベスの紹介だと言って部屋を契約すれば良いと頷き、夫と息子が何度も頭を上下させる。
 『まあ、最悪、見つからないようだったら俺の部屋を譲っても良い』
 『ノル?』
 バルツァーの副社長として文字通り馬車馬のごとく働くギュンター・ノルベルトは、この家から通勤する時間が惜しいとして、街に部屋を借りて一人暮らしをするようになったのだが、ウーヴェの部屋が見つからないようであれば、そこを密かに譲り渡せば良いと告げて父の顔を見ると、レオポルドもその手があったかと手を打ち付ける。
 『俺は最悪家に帰って来れば良いからな』
 『確かにそうね。でも・・・とにかく、あの子に会ってどうするか確かめてみるわ』
 『ああ。そうしてくれ』
 ここでウーヴェ以外の人間が頭を悩ませたところで本人がもうすでに下宿先を見つけていたり、大学の斡旋で安い学生向けのアパートを探しているかも知れないと気づいて苦笑し合うが、ギムナジウム卒業祝いと大学の進学祝いを何にするかで今度は各々考える祝いの品を提案しあい、それを離れた場所で痛ましそうに家族仲の良いことを微笑ましそうに見守っていたハンナとヘクターが、次いで呆れた顔で互いの顔を見合わせるのだった。

 

 珍しいことにリオンが指示を与えてハンナとイングリッドが作った命の水をトレイに乗せて廊下に出たハンナは、懐かしい顔ぶれの家人や最近入ったばかりの人たちにもそれを差し出すが、まだ昼前の時間、車に乗る予定がある人は気をつけなさいと注意をする。
 「アルコールは飛ばしてないから、運転する人は飲まない方が良いかもなぁ」
 ハンナが運んでいるトレイを横合いからひょいと伸ばした手で取り上げたリオンは、運転手は特に注意が必要だが、一口ぐらいなら大丈夫と片目を閉じる。
 その言葉に皆が少しずつ飲もうと笑い合い、グリューワインとも違う、優しい甘さと生姜の辛さが混ざったそれに自然と安堵の表情を浮かべる。
 「何か懐かしい感じがするな」
 「だろー?調子の悪いときにいつも作って貰ってたからさ、風邪もこじらせたことねぇし。おかげでこれだけ元気に育ちましたー」
 リオンが間接的に己の母を褒められていることに気付いて自慢する顔になると、確かに元気に育ったと笑われる。
 この家にリオンが来たのはまだ数えるほどで、この家で働く人たちも全員知っているわけではないが、それでも以前から知っているような気軽さと人懐っこさで皆がリオンと笑い合う姿を少し離れたキッチンの前から見ていたウーヴェは、これこそがリオンを太陽と感じる要因であり、また彼の気性を表すものだと気づき、灰色の世界でも眩しい光を放つ恋人の横顔に目を細める。
 己では決して出来ないことを難なくやってしまえるリオンに感心すると同時に、先程リオンの言葉に促されて長年一人で抱えていた秘密を吐露した心が軽くなり、今ならば何でも話してしまえるとさえ感じていた。
 だが、その思いを打ち消すように声が聞こえ、本当はそれは錯覚だとあざ笑ったため、肩に引っかけていたリオンのシャツをぎゅっと握りしめ、頬でその感触を確かめるように首を傾げると、無意識に落ち着ける匂いが鼻腔を満たす。
 「・・・・・・オーヴェ、大丈夫だな?」
 そっと、だが確信を持って囁かれる言葉にウーヴェが頷くが、シャツの匂いを確かめるだけでは不安なのか、リオンの背中から腕を回して抱きつくと、落ち着いた鼓動が微かに響いてくる。
 「・・・・・・大丈夫、だ」
 「そっか」
 じゃあドアを開けてくれと促すリオンに頷きドアを開けたウーヴェは、室内に満ちている重苦しく緊張感のある空気を入れ換えたいと瞬間的に感じ、少し後ろに立つリオンを肩越しに振り返る。
 自分にこの部屋の空気を変える力は無い、だから頼むと音には出さずに呟くと、それを察したリオンがウーヴェのこめかみにキスをし、はいはーいと陽気な声を上げる。
 「ムッティとハンナが作ってくれた命の水だけど、白ワインを使ってるから車を運転するなら気をつけてくれよな」
 飲酒運転は現役の刑事としては認められませんと笑って一歩を踏み出すリオンの後に付いていったウーヴェは、ソファで一人蒼白な顔で考え込む兄の姿に唇を噛むが、リオンが顔だけを寄せてあれはショックを受けているだけで、何も危害を加えられたわけじゃない、だからお前のやったことは間違っていないと口早に囁かれてそっと目を閉じる。
 「────リーオ」
 「ん?」
 リオンが持つトレイからマグカップを一つ取り上げたウーヴェは、他の家族が見守る前で静かにギュンター・ノルベルトの前に向かい、俯き加減の顔の前にマグカップを突きつける。
 「・・・・・・これ、飲んで・・・欲しい」
 ウーヴェの途切れる声にギュンター・ノルベルトの落ちていた肩がびくりと跳ね、そのついでのように蒼白な顔も上げられるが、それ以上ウーヴェは何も言わずにただ黙ってマグカップを突き出す。
 「・・・フェリクス・・・」
 「これ。・・・俺も、辛いとき、いつもリオンが作ってくれる・・・」
 これを飲めば本当に心も身体も平静さを取り戻すだけではなく力も戻って来るのだと辿々しく伝えるが、ギュンター・ノルベルトの手が上がっては下がるを繰り返したため、リオンが気にくわないように彼が作るものも気にくわないのだろうかと考え込んでしまうが、ギュンター・ノルベルトが前髪を軽く握りしめながら自嘲した事に気付いて目を瞠る。
 「・・・守っていてくれたんだな」
 「・・・・・・分からない。ただ、ノルやエリーが・・・俺と同じ目に遭うのは・・・嫌だった、から」
 ウーヴェの素直な思いにギュンター・ノルベルトが眉根を寄せて苦しそうに顔を歪めるが、ウーヴェの顔に浮かぶ表情を見て限界まで蒼い目を見開いてしまう。
 「ノルが・・・父さんたちも、何もされてなくて、良かった」
 本当ならばあの時ちゃんと伝えなければならなかった言葉だが、今まで長い時間が掛かってしまったと静かに詫びたウーヴェは、それでも今だからこそちゃんとこうして言えるのかも知れないと、事件までは毎日ギュンター・ノルベルトらが見ていた笑顔を彷彿とさせる笑みを浮かべる。
 「リオンの、おかげ、だ」
 ギュンター・ノルベルトがマグカップをウーヴェの手から受け取って一口だけそれを飲むと、温められた白ワインの香りとハチミツに生姜、レモンのそれぞれの香りが口の中で広がり、食道を通って胃に落ち着く頃にはウーヴェが告げた様に身体の内側から暖められていた。
 無意識に吐息を零したギュンター・ノルベルトを見下ろしていたウーヴェは、軽くなった気持ちがそうさせたと己に言い訳するのだが、そっと手を伸ばしたかと思うと、以前は当然のように行っていた大好きだった-心の奥底に眠る思いは今も当時のまま-兄の頬に指先を触れさせる。
 「!?」
 「ノル・・・ずっと、ずっと・・・ごめ、ん」
 頬に触れる温もりが一瞬誰のものかを理解出来なかった兄だったが、指先から順にたどっていけば、ターコイズ色の双眸を申し訳なさに染めた、遠い昔に好きだった女性の面影を遺した端正な顔があり、言葉にすることの出来ない思いに突き動かされてマグカップをテーブルに置くと、そのまま目の前に立つウーヴェの腕をつかみ、引き寄せられる痩躯を力一杯抱きしめる。
 「お前は何も悪くない。だから謝るんじゃない、フェリクス」
 お前は本当に何も悪くない、悪いのは俺をはじめとした大人達だと後悔の念を静かに吐き出すと、いつ以来か覚えていないほど久しぶりに抱きしめたウーヴェの身体が微かに震え、肩口をぎゅっと掴まれてしまう。
 それが幼い頃の癖だったことを思い出し、背中を撫でると小さな小さな吐息がひとつ、耳元に落ちる。
 「・・・うん」
 「フェル・・・フェリクス・・・・・・!」
 ウーヴェの名を呼ぶギュンター・ノルベルトの声に秘められた思いをこの部屋にいる者達で感じ取れないものはおらず、アリーセ・エリザベスとイングリッドがいつか夢に見ていた光景が目の前に広がっていることを未だに信じられない様子だったが、リオンがそっと差し出すカップの湯気と香りから現実に引き戻された瞬間、アリーセ・エリザベスの白磁のような頬に涙が伝い落ちる。
 「・・・アリーセ」
 綺麗な人はやはり泣いても綺麗だと、場違いとは分かっていても素直な感想を口にしたリオンは、ミカにじろりと睨まれて軽く舌を出し、イングリッドとレオポルドの前にトレイを持って向かうが、夫の胸に顔を押しつけて静かに泣くアリーセ・エリザベスのようにイングリッドもレオポルドの肩に顔を寄せて肩を震わせていた。
 俺だけ場違いだなぁと言う暢気な呟きを拾ってくれたのはヘクターで、こんな日が来ることをここにいる皆は夢に見ていたが、まさか本当にこの日が来るとは思わなかったのだからと、涙を目尻に溜めながら苦笑するヘクターにリオンが肩を竦め、コーヒーテーブルにトレイをそっと置くと、昨日仕事が終わってここに来たときはまさかこんな風になるとは思っていなかったと呟き、涙を流すウーヴェを見るのは辛い事だが、笑顔を見るためには仕方が無い、これでもしかするとここにいる皆が望む笑顔が見られるようになるかも知れないとも呟くと、自分用のマグカップを片手にドア近くの壁に寄りかかって恋人の家族の様子を見守ることにする。
 「フェル・・・命の水だったか?ありがとう」
 「・・・リオンが、作ってくれた。あいつは・・・どうすることも出来ないぐらい辛いことでも、簡単だと思える力を、くれる」
 「ああ。さっきもそう言っていたな。────認めたくは無いが、お前の気持ちがリオンに助けられているのなら、それで良い」
 本当は認めたくは無いが、それでもお前が自ら選び、二人だけの関係を築いてきた相手なのだ、その意思は尊重するしその関係も当然尊重すると告げてウーヴェの前髪を掻き上げて撫で付けたギュンター・ノルベルトは、小さなはにかんだような笑みを浮かべるウーヴェの額に震える唇でキスをし、お前が選んだ人と一緒に幸せになりなさい、お前の幸せだけが俺の願いだと告げると、ウーヴェが無言で頷いてギュンター・ノルベルトの首に両腕を回す。
 「ダンケ、ノル・・・俺の好きな人を認めてくれて、受け入れてくれて、ありがとう」
 「本当は認めたくないけれど」
 仕方が無いと繰り返す兄に苦笑したウーヴェは、そっと兄から離れたかと思うと、一人離れた場所で立っているリオンの前に向かい、小首を傾げる恋人の頬を両手で挟んで今は灰色に見える蒼い瞳に己の顔を映し出す。
 「リーオ、俺のリオン・・・・・・ありがとう」
 その言葉にリオンが素っ気なく頷くが、マグカップを足下の床に置くと、その手でウーヴェを抱き上げる。
 「良かったなぁ、オーヴェ!ホントは兄貴も親父もみんな大好きだったもんなぁ」
 「・・・・・・うん」
 「後は、ハシムの弟と会うだけだな」
 ウーヴェの耳に囁いた言葉はその身体を緊張に硬直させるだけの力を持っていたが、今のお前ならば大丈夫、俺も一緒に会いに行くから大丈夫だと繰り返されて緊張がほぐれていく。
 「・・・リオン、一緒に・・・・・・」
 「ああ。お前が一人で行くと言っても一緒に行く。だから心配するな」
 ハシムの弟と会って彼が何を伝えてくるのかは分からないが、どんなことを聞かされたとしても俺が横にいる、だから今から無用の心配をするなと頬にキスをすると、ウーヴェが小さく頷く。
 「・・・命の水を飲もうぜ、オーヴェ」
 「うん」
 もしかするともう冷めてしまったかも知れないが、冷めてしまってもまあ飲めると肩を竦めたリオンは、ウーヴェを下ろして足下に置いたマグカップを手に取ると、その動きに我に返ったのかアリーセ・エリザベスやイングリッドが顔を洗ってくると言い残してほぼ同時にリビングを出て行く。
 部屋に残った男連中は何をどう話せば良いのか分からないと言いたげな顔をしていたが、ウーヴェが父と並んで座る兄に向かい、今まで二人には本当に迷惑を掛けたと詫びたため、二人がほぼ同時にお前は何も悪くないと答え、それを少し離れた場所で聞いていたヘクターも何度も何度も頷く。
 「・・・あの時、ちゃんと聞き出せなかった俺たちも悪い。だからもう謝るな、ウーヴェ」
 「そうだ。お前は本当に何も悪くないんだよ、フェリクス」
 二人の言葉に軽く目を伏せて頷いたウーヴェは、もう一度二人の顔を見た後、子どもの頃を彷彿とさせるあの笑みを浮かべてもう一度頷く。
 「・・・うん。ありがとう」
 二人の父に頷いて満足げに溜息をついたウーヴェだったが、不意に横合いから伸びてきた手に肩を抱かれて身体が揺れ、顔を向けるとリオンが不気味としか言いようのない顔で笑っていて、思わず素直に手を上げてリオンの顔を遮ってしまう。
 「へぶっ!」
 「不気味な顔をするなっ!」
 「んなー!不気味とかひでぇ!」
 「うるさいっ!」
 「さっきまでピーピー泣いてたのは何だったんだよー!俺がいなきゃ無理みたいな顔してたくせにー!!」
 なのに何故同じ顔を遮るんだと、ウーヴェの立てた手を握りしめて吼えるリオンに片耳を塞いだウーヴェは、大きな声を出すなと顔を赤らめてリオンに文句を言うが、オーヴェのイジワルトイフェル悪魔と、おきまりの文句が垂れ流され、リオンに掴まれていた手を振り解いた後、ピアスが填まる耳朶を軽くつまむ。
 「いでー!!!」
 「何か言ったか、リオン・フーベルト?」
 「ごめんごめんごめんっ!ピーピー泣いてるオーヴェが可愛いからまた泣かせようと思ってるとか言いません!」
 「ほぅ、俺の息子を泣かせるつもりだったのか?」
 「今の言葉は聞き捨てならないな、リオン」
 「アリーセに言いつけてやろうかな」
 ウーヴェへの反省になっていない反省の言葉を捲し立てたリオンは、とんでもない言葉をその相手の前で口走ったことに気付き、蒼白になってウーヴェにしがみつく。
 「助けてオーヴェ!」
 「うるさい」
 「オーヴェぇ、ごめーん!もう言わないからマジ助けてっ!!」
 己にしがみついて大騒ぎをするリオンに無慈悲な一言を言い放ったウーヴェだったが、ドアが開いて母と姉が戻ってきたことに気付き、くすんだ金髪を軽く引っ張る。
 「何を騒いでいるの?」
 本当にあなたは騒がしいのだからと、アリーセ・エリザベスがミカの頬にキスをしてその横に自然と腰を下ろすと、イングリッドもレオポルドの腿に軽く腰掛ける。
 「フェリクスをまた泣かせたいとリオンが言ったからな」
 「まぁ・・・・・・。わたくしのウーヴェを泣かせるつもりですの?」
 ギュンター・ノルベルトの言葉にイングリッドが目を丸くしてリオンを見ると、リオンの顔が真っ青になる。
 「ちがっ・・・・・・!オーヴェぇ、本当にごめんっ」
 このままだとここにいる皆からの集中砲火を浴びかねないとウーヴェが気付いて咳払いをし、まったくと呟くことで事態の収拾を図ろうとすることにリオンがいち早くそれを察し、ダンケオーヴェ愛してると叫んでウーヴェの頬に唇を押しつける。
 「・・・・・・まったく」
 本当に騒々しい男だが、ウーヴェのその様子を見れば付き合いを反対することも出来ないとレオポルドが重々しく溜息をつくと、ギュンター・ノルベルトがやはりまだ心のどこかで反対の意志があるのか、まったくと父の言葉に同意を示す。
 「な、オーヴェ」
 「何だっ」
 「うん。・・・・・・命の水、やっぱり美味いな」
 リオンの言葉にキツイ声で返事をしたウーヴェだったが、問われたそれに瞬きを一つした後、満足そうに吐息を零して小さく頷く。
 「────良かったなぁ」
 その短いやり取りに込められている膨大な思いに一瞬感慨深げに目を閉じたウーヴェは、ゆっくりと目を開けると、目の前にギュンター・ノルベルト、その隣に父と母、そして姉とその夫がいて部屋の離れた場所でいつも自分達兄妹を見守り育ててくれたハンナとヘクターがいる事を確かめていくが、最後に隣で窓から差し込む日差しの元に負けず劣らずの光と明るさをもたらしてくれるリオンの顔を見つめて破顔一笑。
 「うん」
 「そっか」
 ウーヴェの笑顔に皆が息を飲むが、そんな中でもいつもとまったく変わらない態度でリオンがウーヴェの髪を撫で頬を撫でて同じ笑みを浮かべる。
その様子をハンナとヘクターが涙を堪えつつ今も見守っているのだった。


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2016.11.06
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