『・・・これできみはようやく夢の向こうに立つことが出来た。これからの活躍を楽しみにしているよ』
恩師の温かな言葉に看板を付けたばかりのクリニックが入居するアパートを見上げたウーヴェは、その顔を恩師に向けて頭を下げる。
『ありがとうございます。先生のおかげです』
人生を大きく変えた事件の後、医師という道を選ばせ歩ませてくれたのは、あの日姉の部屋で出会った先生の本があったからだと小さく笑うと、幾度か聞かされていた話だが何度聞いても驚いてしまうし嬉しいものだとアイヒェンドルフが穏やかに笑う。
『たった一冊の本がここまで人の人生を左右するのかと思えば少し恐ろしくもなるね』
恩師の述懐に無言で頷いたウーヴェは、時間軸を無視した遠くに感じてしまう昔、誰かの膝の上で本を読んでいたことを思い出すが、まるでそれを阻止するかのように頭の奥に疼痛が生まれ、それを振り払うように頭を振って、皆が開業を祝ってくれる食事会にはまだ時間があるからクリニックに入ってゆっくり話をしようと恩師を誘うと、そうだねぇと授業を受けているときから変わらない温和な声が同意し、二人でアパートの階段を上っていく。
その後ろを、数人の制服警官が談笑しながら通っていくが、同期の中でも優秀なのかそうで無いのかの評価が真っ二つに分かれる男が見習いの刑事になることへの褒め言葉や不満で盛り上がっているようで、ちらりと振り返ったウーヴェが、制服警官が楽しそうに話が出来るのは平和である証だと皮肉気に笑うと、アイヒェンドルフが微笑ましそうに見守りながら同意も否定もしなかった。
『・・・良い場所に開業できて良かった』
アイヒェンドルフが診察室と書かれたプレートを貴重品を扱う手つきで撫でながら問いかけると、ウーヴェがキッチンスペースから顔を出し、少し相談に乗って欲しいのですと告げた為、どんな悩みか今から聞こうかと笑ったアイヒェンドルフが診察室のドアを開き、真新しいデスクとソファ、窓際に置かれたチェアとコーヒーテーブルなどの調度品が愛弟子の好みに添ったものというだけではなく、ここを訪れる患者への配慮が成されているように感じ、ぐるりと室内を見回して納得の吐息を零す。
『先生?』
『居心地の良い部屋だ。ここならば何でも話せそうな気持ちになる』
『・・・そうあって欲しいと思います』
『きみの場合はその気持ちや言葉で人が前を向く手助けが出来るだろう』
皮肉屋で一人が好きだと学生の頃は思われていたが、患者に相対したときのきみは気休めは言わない代わりに患者一人一人の心に誰よりも寄り添っていたと、腰の上で手を組みながらアイヒェンドルフが振り返り、自慢の愛弟子を文字通り手放しで褒めると、ウーヴェの顔が僅かに紅潮する。
『人が嫌がることをしないのは当然だが、自分がして欲しいと思う事であっても相手にとってはそうではないかも知れない。その見極めは難しいものだが、きみになら出来る』
『・・・はい』
『頑張りなさい、ウーヴェ。きみは総ての人を助けられる大きな手を持っているわけでもないし総てを見通す目を持っているわけでもない。でも、ここに来る人は狭い迷路の中で迷って苦しんでいる。その彼らを広い世界へと導くための方法を知っている。だが、知っているのは方法だけだ。本当に人を救うのはその人自身なんだよ』
何よりも簡単で難しいそれを、その人が気付いて行える手助けを出来るだけなんだよ。
己の無力さに打ち拉がれるときがいつか必ず来るだろうが、その時にこの言葉を思い出して欲しいと、最後の教えとばかりにアイヒェンドルフが告げた為、ウーヴェが咄嗟に手を伸ばして彼の心と同じく暖かな手を握りしめる。
『先生・・・・・・!』
『ここに来る患者もそうだが、もちろんきみも一人ではない。困った事があればいつでも大学に来なさい』
私はあの部屋できみが来るのをいつでも待っているし、歓迎すると笑う恩師に黙って頷いたウーヴェは、とにかくお茶を飲もうと笑ってキッチンスペースに戻ると、すぐに二つのマグカップを持って戻って来る。
『そう言えば、部屋のことで悩んでいると言っていたね』
先程の相談とはそのことかと笑うアイヒェンドルフを窓際のチェアに案内し、自らも向かい合うカウチに座ったウーヴェは、強く躊躇った後、母が、祖母がと言い直し、ここの開業にあたって祝いとして資金を提供してくれたこと、この街でも有数の高級住宅街に新しいアパートが完成したのだが、そこを買ったが使わないのでそこに住めと言われたと告げると、アイヒェンドルフの目が一瞬鋭く光る。
『・・・事情を知らないものからすればただただ羨ましいだけの話だな』
『・・・だと思います。資金の提供もアパートのことも断ったのですが・・・』
ウーヴェの顔に浮かぶのが困惑だけではないことをしっかりと見抜いていた彼だが、自ら話させる方が良いと判断をし、何に悩んでいるのかと問えば、それを受けても良いのかどうかと呟くウーヴェに苦笑してしまう。
『先生』
『いくつか問題はあるが、まずは部屋の話だ。その部屋はお祖母様が買ったんだったね?』
『はい。叔母に聞いたところ、新しくアパートが建つので投資目的に購入したそうです。ただ、俺が部屋を探していることをエリーから聞いたようで、それならどこの誰かも分からない相手に貸すのではなく、あなたが使いなさいと・・・』
もう家を出て何年にもなるのに今更家に甘えられない、せめて幾許かの家賃を払うと叔母を通じて祖母に伝えて貰ったのだが、契約書が届いて少し驚いていることをウーヴェが素直に告げると、何に驚いているのだとアイヒェンドルフが足を組む。
『それが・・・部屋の間取り図も入っていたのですが・・・』
部屋と呼ぶには大きすぎるのですと、ウーヴェが心底困惑した顔で恩師を見ると、見られた恩師が首を傾げる。
『大きい?』
『はい。どう考えてみても一部屋では無く、アパート全体というか、あるフロア全体の間取り図のように思えるのです』
届けられた間取り図を広げたとき、まず驚いたのは部屋数の多さで、キッチンやリビング、メインのベッドルーム以外に数え直してしまうほどの部屋数があり、自分一人で住む部屋なのにアパート全体の間取り図を送ってきたのかと思い、アリーセ・エリザベスにすぐさま連絡をしたほどだった。
返ってきた答えは、最上階の二軒を纏めてしまって一軒にしたというもので、聞かされた言葉の衝撃に呆然としてしまったウーヴェは、心配そうに名を呼ぶ姉にどういうことだと震える声で問い返すが、投資目的の部屋にするにはリスクが大きい、だからその部屋はあなたが好きに使いなさい、要らないやダメと言った反論は聞かないが、気になるのなら光熱費だけ払いなさいと笑われ、それぐらいは当然だと返すのが精一杯だった。
先日の衝撃を伝えたウーヴェだったが、アイヒェンドルフが肩を揺らして笑い出したことに目を瞠り、目尻を赤くしながら笑い事ではないと上目遣いになる。
『ああ、いや、反論を許してもらえないというのはなかなか強引なやり方だが、家が広くて困ることなどないのだからその話を受ければ良い』
『でも、一人で暮らすのに、あんなに広い家など・・・・・・』
ルームシェアをするとすれば一体何人で出来るのかと思う程部屋数があり、掃除やメンテナンスが大変だと、心底困惑するウーヴェが珍しくてアイヒェンドルフがなおも笑い続けるが、ベッドルームとリビング、キッチンぐらいで後は本を置く為に使えば良いと提案すると、ウーヴェの目が軽く開かれる。
『そう、ですね』
『ああ。何も悪い方に考えなくても良い。光熱費だけで済むのなら随分と助かるだろう?』
『はい。ただ、それだけだと何だか気持ちが落ち着かないので、いくらか家賃を払うことにします』
『ああ、それも良い案だ。それで気持ちよく住めるのならそうしなさい』
『はい』
悩みと言っても事情を知らない他者からすればなんと贅沢なものだと誹られそうなものだったが、ウーヴェにしてみればギムナジウムに入学以来ほとんど帰っていない家に象徴されるように、気持ちも離れている家族からの資金提供や住宅の提供をそのまま素直に受けることなど考えられないことだった。
だから家賃を払うことで己の中で折り合いを付けたのだが、それでも何か足りない気がしていた。
その思いが顔に出ていたのか、アイヒェンドルフもコーヒーを飲みながら、返さなければと思うものがあるのなら、別の形で別の時に返せば良い、きみの家族はそれを許してくれる人たちばかりだと告げた為、ウーヴェが驚いてしまうが、それについては肯定も否定もしないのだった。
『ともかく、無事にクリニックを開院出来て良かった。今夜はきみの友人達の中に混ぜて貰うが、おめでとう、ウーヴェ』
アイヒェンドルフが様々な思いを内包した笑みを浮かべて手を差し出したため、ウーヴェがそっとその手を握り、この手にその笑顔に今まで支えられここまで導かれたのだと穏やかな笑みを浮かべると、私たちの手は小さいし目も遠くを見通せる訳ではないことを忘れないようにいなさいと、今まで何度か聞かされてきた教えを聞き、真摯な顔でそれを受け止め守っていくと伝えるようにウーヴェも頷くのだった。
ウーヴェがクリニックを開院したという話を妹と母から聞かされたギュンター・ノルベルトは、数年前にも感じた寂寥感を再び覚えつつそうかと短く答えるだけだった。
ギムナジウムの卒業と大学の入学や卒業、そして生涯の職業となるであろう医師の開業など、人生の節目節目を本人から聞かされることのなかった彼だったが、それについては自業自得という思いが強くあったために誰に対しても何も言うつもりはなかった。
ただ、寂寥感だけはどうすることも出来ず、つい妹を前に愚痴ってしまうと、いつかもだったが、バルツァーの中核会社の社長に就任したばかりだが大丈夫か、父さんが会長という立場に収まり一線を退いたのは時期尚早だったのではないかと笑われ、酷いぞと妹を見れば、言葉とは裏腹にやり通せる男だと兄を認識している顔で笑っていて、その笑顔に釣られてギュンター・ノルベルトも笑ってしまう。
『そうだわ。ノル、あなたが買ったあのアパートだけど・・・』
『ああ、どうだった?あの子は受け取ってくれそうか?』
『・・・この間の話では随分驚いていたようだったけど、光熱費と家賃を入れることで折り合いを付けたみたい』
『そうか』
ウーヴェが驚き呆気に取られたアパートだが、アリーセ・エリザベスが説明した投資目的というのは真っ赤な嘘で、そもそもはギュンター・ノルベルトの社長への就任祝いと、肩書きに相応しい家に住めと言うレオポルドの提案で、友人が経営している不動産屋に最上階のワンフロア総てを買い取るから設計の変更をしろと命じ、結果二軒が入る-それでも階下と比べれば遙かに広い部屋だった-はずのフロアにドアが一つだけと言う、恐ろしく贅沢な一室を買うことになったのだ。
大幅な設計の変更がなされ、工期が遅れつつも完成したアパートは、高級住宅街の中でも小高い丘に建つ一昔前のお屋敷の雰囲気を持つもので、その最上階ともなればどんな人が住むのかと、アパートの周辺住民からも羨望と嫉妬の声が聞こえるほどだった。
そのアパートからバルツァーの本社に通うのは、実家から通うのと同じほど時間が掛かってしまう為、ギュンター・ノルベルトは正直な話乗り気ではなかったが、アパートの完成まであと少しの頃、ウーヴェがクリニックを開業する話を母から聞かされ、学生の頃から暮らしている部屋だと資料の本が溢れて手狭になってきたことと通勤に時間が掛かる為に引っ越しを考えていることも教えられ、一も二もなく間もなく完成するアパートを譲ると申し出たのだ。
一人暮らしのギュンター・ノルベルトにとって己の部屋と言えば、今暮らしている会社にも近い古いがしっかりした造りの3LDKで十分だった。
だから自分は良いからウーヴェにあの家を譲り渡すと伝えると、イングリッドが心配そうに頬に手を当てる。
『受け取ってくれるかしら?クリニックの開業資金も受け取ってくれないのよ』
『母さんからの生前贈与の形にすれば良い』
『あなたはそれで良いの、ギュンター?あの部屋はあなたに買った物よ』
イングリッドの言葉にギュンター・ノルベルトが軽く驚くが、買ってくれたことは嬉しいが自分ももう良い歳をした大人だし、社長という肩書きもあるからそれに見合った収入もある、だから俺よりもこれから自立し一人の医師として毎日働いていこうとするウーヴェの日々の暮らしを支えられるのならば自分の家など今暮らしているもので良いと笑うと、イングリッドが安堵か何かの溜息を吐く。
『開業祝いにすれば受け取るだろうし、家も母さんが投資目的で購入したとでも言えば良い』
それであの子は悩みつつも受け取るはずだと、寂寥感を押し殺しつつ笑う息子に母も何度か首を左右に振るが、確かにそうかも知れないと自身を納得させる、そんな会話がウーヴェのあずかり知らない所で交わされていたのだ。
ウーヴェがアイヒェンドルフに語った祖母と叔母とはイングリッドとアリーセ・エリザベスのことで、ウーヴェの家族を襲った悲劇について知っていたし、ウーヴェ自身が話したこともあってか、家庭の事情については良く知っていた。
他の人ならばいざ知らず、ウーヴェはアイヒェンドルフに己とその家族の説明をする際、戸籍上の母が実の祖母であり、兄であるギュンター・ノルベルトが実父であることをアイヒェンドルフにだけは話していたのだ。
何故彼にだけそれを話したのかはウーヴェは己の心の動きながら分からないことだったが、それ以降彼の前では母は祖母になり、姉は叔母として言ウーヴェの話題の中に登場するようになっていた。それ故、母のことを祖母と称しても不思議には思わないで彼は聞いていたのだが、その母から生前贈与という名目で資金も自宅アパートも譲られた形になるウーヴェだが、周囲からすればなかなか理解されない贅沢なことだと陰口を叩かれるだろうし、バルツァーという名前はそんな所でも威力を発揮するのかと笑われるだろうとも思うと、もう少し控えめな形で援助した方が良いのかと、母と息子が顔を寄せて相談するが、娘と一緒に話を聞いていた父が新聞を折りたたみながら言い放った言葉が妻と息子の心配を掻き消してくれる。
『持って死ねるわけではない。だから生きている間に譲るだけだ』
『確かに』
生前どれほどお金を稼ごうが大豪邸に住もうが、死んでしまえばそれで終わりで、相続してくれる人がいなければ望まぬ人に回ってしまうかも知れない。それならば俺たちが生きているうちにあの子に譲っても誰にも何も言われないはずだと、ソファから立ち上がってイングリッドの傍に向かったレオポルドは、ギュンター・ノルベルトにそうだろうと同意を求めて頷かれる。
『・・・私もノルももう十分あるから気にしないで』
世間的には長男長女がいるのに何故資産が総て次男であり末子のウーヴェに行くのかと訝る声も聞こえてくるだろうが、それこそ人の家庭の問題に口を挟むなと一喝すれば済む話だとアリーセ・エリザベスが笑い、イングリッドもようやく納得出来たのか、愁眉を開いて笑みを浮かべる。
『そうね。確かに人の家の問題に口を挟むなと言えば済むことね』
『そうよ。・・・フェル、開業するって言うけれどちゃんと患者は来てくれるのかしら』
大学の成績も人伝にだが、非常に優秀だとは聞いているが、それでも研修を終えたばかりの新米医師の所に患者が来るだろうかと、この先のことを考えて不安を覚えたアリーセ・エリザベスは、ギュンター・ノルベルトが不安など一切ない顔で目を閉じたことに気付き、小首を傾げる。
『ノル?』
『名の通った誰かからの口コミがあれば広まりやすいんだろうな』
『そうね。・・・・・・でもそれはあの子自身が探さなくてはならないものね』
いくら家族とは言え外野が横から口を挟むことではないと肩を竦めたアリーセ・エリザベスは、本当は誰よりも心配しているが、それ以上にウーヴェを信じているから大丈夫と穏やかに笑うギュンター・ノルベルトの様子に安堵し、開業祝いを何にするのかと、いつかも同じような話題で家族で盛り上がったことを思い出すのだった。
子どもの頃以来の大泣きをしたウーヴェは、家族がリビングに勢揃いし、その中にリオンもいる安堵に溜息をついたあと、顔を洗って来るとソファを立つ。
ついでに命の水のお代わりをすると笑うと、リオンが俺も飲みたいから持って来て欲しいと背中に注文し、ウーヴェがオーダーを受けた合図に肩越しに手を上げる。
ウーヴェが静かに出て行った後のリビングは奇妙な静けさに包まれていたが、レオポルドがリオンに向き直り、咳払いを一つしたあと、お前のおかげだと軽く頭を下げた。
ドイツ国内どころか世界でも名の通った企業を一代で築き上げた立身出世の見本のような男に頭を下げられたことでただ驚いたリオンだったが、ここで慌てふためけばその男の背中を追いかけ追い越そうとしていることが大それたことのように思えてしまい、腹にグッと力を込めて軽く頷く。
「俺の力なんてほんのちょっとだ。総てはオーヴェが皆と一緒に笑いたいって気持ちで頑張ったからだ」
だから本当に頑張ったのは他でもないウーヴェだと告げ、俺は少しだけその背中を押しただけだと笑うと、レオポルドの横でギュンター・ノルベルトが意外そうに目を瞠る。
「リオン、ウーヴェが俺たちを庇っていたと言っていたが、あれは本当なのか?」
「ああ、間違いねぇ。オーヴェはあの事件の最中、犯人達に逆らえば家族を傷付けられると思い込まされていただろうし、オーヴェも犯人のそれがただの口から出任せだとは思えなかっただろうからな」
犯人がウーヴェを利用した気持ちとウーヴェの誰の言葉も信じてしまうと言う純粋さを利用された結果、今朝までウーヴェはそれを誰にも、己の主治医にすら話すことなく一人で抱えていたのだと、そのウーヴェが出て行ったドアを見たリオンは、並大抵の根性では出来ないことだし、それだけ親父や兄貴達のことが好きだったんだと、己を愛しまた愛する男の強さの根源を再度感じ取ったリオンは、レオポルドが驚きに染めた目で見てくることに気付いて肩を竦める。
「オーヴェは自分の思いを口にすれば兄貴達が殴られる恐怖と、誰の命を助けて欲しいか選べと迫られたとき、目の前にいるハシムを助けて欲しいと言いたかったが、本当に助けて欲しいのは兄貴達だったから、その場にいた人のことは選べなかったはずだ」
幼いウーヴェが極限の状況下、一人だけ助けてやると言われて咄嗟に思い浮かべた顔はハシムでは無くギュンター・ノルベルトの顔だったはずだと疑う余地を挟めない強い声で告げたリオンは、一人一人の顔をじっと見つめた後、それは10歳の子どもにとって途轍もなく重い決断だっただろうとも告げると、ウーヴェがマグカップを両手に持って戻って来る。
「リオン?」
「お前の強さの話を今してたんだ」
「?」
一体何のことだと小首を傾げるウーヴェを手招きし、マグカップを取り上げてテーブルに置いたリオンは、隣に座ろうとするウーヴェを己の腿に座らせると、色が変わっていても手触りは変わっていないことを想像させる髪を撫でて腰に腕を回して緩く拘束する。
「リオン?」
「・・・兄貴を助けて欲しいとずっと思っていたから、あの時ハシムを助けて欲しいと言えなかったんだよな」
「・・・・・・っ!!」
「事件の間ずっと考えていたのは自分が助かることじゃなかった。家族に危害が加えられないかということだ。ただそれを口にすると殴られるからずっと黙っていた。大人しく犯人達にされるがままになっていた」
「・・・・・・・・・・・・」
「事件の後、兄貴達が誰も怪我をしていないことに安心して助かったと思ったが、ハシムの最期を見てしまった。レジーナがお前を庇って死んだのを見てしまった」
だから事件後に収容された病院で心配そうに病室に駆けつけた家族を見た瞬間、小さな胸の中で二つの思いが渦巻き、どうすることも出来ない苦しさから嗤うことしか出来なかったんだとリオンが静かに告げると、ウーヴェの手が握りしめられて白くなる。
その手に気付いてそっと手の甲を撫でたリオンは、力を抜けというように一本ずつ握りしめられている指を開かせていくと、完全に開ききる前に己の手を宛がい、軽く力を入れて手を組む。
手の甲に食い込むウーヴェの指先の力を何とか堪えつつ、呆然と見つめて来るレオポルドとギュンター・ノルベルトの顔を中心に見回したリオンは、ウーヴェが未だにハシムの墓に花を供えているのは追悼の意志よりも悔悟の思いが強いからだと告げてウーヴェの肩に額を軽くぶつける。
「リーオ・・・・・・っ!」
「死なせて悪いって言うよりも、親父や兄貴達よりも大事だと言えなくて悪いと思ってたんだよな」
「!!」
「それは悪いことじゃねぇし、当たり前っていえば当たり前だ。俺でも同じ状況になったらオーヴェと同じ選択をしてる。でもオーヴェは優しい。優しすぎるから・・・・・・」
命を救えなかったことへの悔悟の念と兄達を守れたという思いに板挟みになった結果、どちらに対しても申し訳ないという気持ちが溢れ、レオポルドやギュンター・ノルベルトの顔を見れば自動的にハシムの顔やレジーナの顔が思い浮かんできてしまい、その苦しさから逃れたい一心で父や兄を避けていたのだとリオンが悲痛な声でウーヴェの心の軌跡を口にすると、ウーヴェの身体が震え、縋るように身を捩ってリオンの首に腕を回してしがみつき、それ以上己の心を代弁するなと悲鳴じみた声を上げる。
「・・・リオン・・・っ・・・ぃ、やだ・・・・・・っ!」
「オーヴェが親父や兄貴を見て頭痛を起こすのもそれが原因だ」
「・・・お前は、どうしてそれに気付いた?」
ウーヴェでさえもはっきりと自覚していなかった頭痛の原因だが、どうしてそれに気付いたとギュンター・ノルベルトが震える声で問いかけると、リオンがウーヴェの背中を宥めるように撫でながら親父の護衛をしたときに違和感を覚えたと告げて皆をただ驚かせる。
「あの事件?」
「ああ。あの時、親父にオーヴェがいるホテルに送って貰って家に帰ったとき、オーヴェと口論になった」
憎んでいる父の護衛という仕事にリオンが全力を傾けた結果、ウーヴェとの先約をすっぽかすことになり、そのことで珍しく感情的になったウーヴェと口論になったのだが、その翌日、前夜は護衛などしなくてもよかったと叫んだウーヴェが、父を助けてくれてありがとうと言ったのだとリオンが告げると、しがみついていたウーヴェですら驚いたのか、リオンと距離を取るように肩に腕をついてその顔を見つめてしまう。
「リオン・・・・・・?」
「あの時さ、俺なら憎んでる相手なら死ねば良いって思うって言ったよな?」
「・・・ああ」
「でも、お前は誰も親父が死んで欲しいなどと思っていないと言った。その後、好きだと言わないから殴らないでって言ったんだよ」
それがいつまでも引っかかっていたのだと告白したリオンは、その時に感じた違和感がずっと胸の中にあったとも告げると、呆れた様な感心したような吐息がリオンの前や横合いで零される。
何年前だったか、会社の合併式典の時にレオポルドを狙うという脅迫状が届いたため、リオンが彼の護衛に就いたのだが、その時に感じた違和感がずっと引っかかっていたのかとウーヴェが問うと、リオンが蒼い目を細めてこれでも刑事だからと小さく笑う。
「小さな違和感も見過ごすなってボスに叩き込まれたからなぁ」
ただ、そのはずなのにゾフィーの事件についてはまったく気付けなかった馬鹿だけどと自嘲するが、今はそれはどうでも良いともう一度肩を竦めると、その時にもしかするとウーヴェは憎んでいるはずの親父や兄貴のことが実は今でも愛しているのではないかと思ったと答え、ウーヴェの頬を撫でて髪を掻き上げてやる。
「それならあの時の相反する言葉も納得出来る。でも、決定的にもうお前が親父達を憎んでいないと思ったのは・・・ジルに対して俺の気持ちを切り替えようとしてくれたときだ」
「なに、を言った・・・・・・?」
「いつまでも人を憎むことは出来ない。憎しみは前に進む力をくれるがそれと同じだけ足枷になる。そんなことを言ってくれるお前なんだ。自分のこともそうじゃねぇのかって思った」
姉を喪った事件の後、リオンが酷く落ち込んだり荒れた時、いつまでも憎めないと優しく諭し抱きしめてくれたのは他でもないお前だ、そんなお前が自分は別だとは思えないとリオンが笑い、ウーヴェのターコイズ色の双眸を覗き込めば、感情を表すように左右に揺れる。
「憎んでいないのに親父達を避ける理由は犯人達が脅していた、それが一番理由としては納得出来る。当時のオーヴェはどうこう言ってもやっぱりガキだ。狡賢い大人の言葉なら鵜呑みにしてしまうだろうしな」
ウーヴェから家族の情報を見聞きしたときに接した感情、事件について少し調べたときに得た感覚を付き合わせ脳内で捏ねくり回した結果、先程の結論に達したと告げてもう一度肩を竦めたリオンは、ここにいる誰一人がそれに気付かなかったのは、当事者故に冷静に客観的に事態を見ることが出来なかったからであり、ウーヴェが己すらだまし通すほどの強い意思と巧妙さで本心を押し隠したからだと、一人一人に語りかけるように顔を見た後、ウーヴェの握りしめられている手の甲にそっと口付ける。
「優しいしオーヴェ。お前が頑張ったおかげで皆が守られた。だからもう・・・・・・一人で頑張る必要はねぇ」
事件に巻き込まれた少年の命よりもお前の家族を優先したことに対し、もう誰も何も言わないしお前を責めることはない。だから一人で抱えるな、俺もいるしお前を愛している家族もいると笑うと、ウーヴェの頭が微かに震えながら上下する。
「・・・リーオ、も、ぅ・・・」
「ああ。・・・・・・ハシムも、ちゃんと分かってるって」
「・・・う、ん」
事件の後のウーヴェの様子に家族の誰も手を付けられず、最も近くにいながら最も遠かった為、本当の意味での解決は成されていなかった。
事件の傷が見えないように覆い隠し、ウーヴェ自身は心の奥深くに閉じ込めたつもりだったが、実際は傷口から血が一滴ずつ流れ出すたびに犯人の嘲笑やハシムの最期が忘れるなと語りかけてきていたのだ。
それら総ては今日をもって終わりを迎える、ハシムやもしも許せるのならばレジーナの墓に花を供えればもう事件はようやく解決するのだと告げ、震えるウーヴェの肩を抱いてこめかみに口付けたリオンは、ウーヴェの名を呼んで目を覗き込むと、ウーヴェが愛してやまない笑みを浮かべて今度は額にキスをする。
「ハシムもさ、無残な最期ばかり思い出すんじゃなくて、事件の中でもお前を助けてくれていた笑顔を思い出して欲しいって思ってるんじゃねぇのかな」
「・・・・・・っ!!」
「これからはハシムを思い出すときはさ、子どもらしいあの写真のような笑顔を思い出してやろうぜ」
俺がハシムなら絶対に悲しい最期では無く笑顔を思い出して欲しいし覚えていて欲しいと笑ったリオンの首に再度腕を回したウーヴェは、本日何度目になるのか数えたくない涙を瞼の下に押し隠そうとするが、リオンの大きな手が優しく背中を撫でたため、迫り上がるそれを抑えることが出来なかった。
「・・・ぅ・・・っ・・・ぁ、あ・・・っ!!」
「うん。事件の時、ハシムがいてくれてよかったよなぁ」
心を殺され肉体的にも殺されかけていた時、同年代の少年の存在はきっとそれだけで救われたはずだ、大人達の思惑がどうであってもそこにいるだけで良かったんだと笑うと、ウーヴェが嗚咽を押し殺す。
「兄貴も親父もみんな無事で良かったなぁ」
「・・・ぅ、・・ん・・・ぁ、・・・ひ・・・・っぅ・・!」
ウーヴェ一人が生存している異様な事件の終わりを迎えた後、本当ならばこうして家族が抱きしめてウーヴェ自身だけではなく家族の傷も癒やす必要があったのに、犯人達の狡猾な方法でそれが出来なかったため、二十数年もの間、家族間に溝が生まれてしまったことは本当に残念だし犯人に対して腹の底からの怒りしか感じないが、それでも本心を、心の軌跡を伝えられて良かったと笑い、ウーヴェの後頭部に手を宛がって己の肩にグッと顔を押しつけたリオンは、震える肩を片手で抱きその耳に口を寄せる。
「お前は本当に強い男だ。誰に聞かれてもそう言える。俺のオーヴェは誰よりも優しく強い男だ。────さすがは、親父と兄貴の血を受け継いだ男だ」
お前が一人で堪えていたのと同じ時間、親父も兄貴も一人で堪えていたんだとも囁くと、レオポルドが目頭を指で押さえて顔を背け、ギュンター・ノルベルトもグッと唇を噛み締めて俯いてしまう。
「そんな親父達の一番近くでずっと見守り、お前達が前のような仲の良い家族に戻れる日が来ることをずっと願っていたムッティやアリーセも強くて優しい。その優しさもちゃんと受け継いでいる」
ここにいる人たちの強さや優しさ、家族を思いやる心は総てお前という形に集約されている、そんな家族が素直に羨ましいとも笑うと、今度はイングリッドとアリーセ・エリザベスが横に座るそれぞれの夫の腕に顔を押しつける。
「さすがは、俺のオーヴェだ」
「リ・・・オン・・・っ!」
朝から泣き通しだったために赤く腫れぼったくなった目を何度も瞬かせたウーヴェは、誰よりも頼りになる男の顔で笑うリオンの額に額を重ねると、俺のリーオと音のない声で囁いて目を閉じる。
「・・・俺や・・・みんなを、解放してくれて、ありがとう・・・・・・」
「今度さ、ハシムの墓に皆で花を供えに行こうな」
「・・・・・・ぅ、ん」
二人が交わす言葉を間近で聞いていたレオポルドやギュンター・ノルベルトは涙を何とか堪えつつ、リオンの存在が自分たちが思ってる以上のものだと言う事実をまざまざと見せつけられるだけではなく、一見すればふざけているだけにしか見えないリオンが実は鋭い観察眼と洞察力を兼ね備えている事実に内心舌を巻いていた。
イングリッドもその思いは同じだったが、ここにいる家族の中で一足早くリオンがその言動や見かけだけでは判断出来ない不可思議な男である事を見抜いていたアリーセ・エリザベスが、涙を拭きながら夫に本当に良かったと笑いかけ、目尻の涙をミカがそっと拭き取る。
「そうだね」
アリーセ・エリザベスから聞かされた過去以上に詳しいことは知らないが、断絶していた家族の間の溝がリオンという一人の男によっていとも容易く埋められた事実にただただ驚愕してしまうが、それ以上にリオンという男に興味が湧いてきたと笑い、妻の白磁のような頬にキスをする。
「ウーヴェがここにいる間はリオンも帰ってくるのかな?」
「どうかしら。後で聞いてみればどう?」
「そうだな。・・・出来れば一緒に飲んでみたいな」
ミカの呟きにアリーセ・エリザベスが呆れた様な顔になるが、男連中で一緒に飲めば良い、その間私たちはハンナと母さんと一緒に美味しい料理を食べに行ってくると告げた為、リオンの耳が犬のそれのように反応する。
「え、何美味いもの食いに行くんだ?」
「・・・リオンちゃんには教えてあげないわ」
「んなー!相変わらずイジワルなんだからなー!」
さっきまでの真剣な顔や嫌がるウーヴェを抱きしめつつ己の思いを口にした時の顔とのギャップにアリーセ・エリザベスとミカが顔を見合わせるが、小さく吹き出してしまい、彼女のそれが部屋にいた皆に伝染したのか、イングリッドが涙を拭いながら夫の肩に手をついて寄りかかり、妻の肩を抱いたレオポルドも知らず知らずのうちに小さな笑い声を立ててしまう。
そんな父と母の横でギュンター・ノルベルトも最初は呆れた様な顔をしていたが、自分一人が不機嫌になっているおかしさと、何よりもウーヴェがリオンの肩に懐くように顔を寄せながら笑みを浮かべているのが嬉しくて、ウーヴェとよく似た顔に笑みを浮かべてしまうのだった。
2016.11.10
望みはやっぱり、笑顔。


