午前中は晴れていた空が俄に曇り始め、あっという間に雨が降り出してくる。
その雨に濡れながら肩を落として歩いていた千暁は、通り過ぎる人々の好奇の目に晒されながらも本人は全く気付くことは無かった。
雨の中を早足で通り過ぎる人の姿が減り、建物から張り出したテントでさえも片付けられていて、人の姿はまばらな広場が目の前に見えてくるが、それすらもはっきりと理解出来ていなかった。
カインに早く帰れと言われて自分を笑っていた千暁だったが、植え込みの向こうからガードマンが気の毒そうに見つめてきた事に気付き、袖で顔を拭って立ち上がると笑顔で迷惑を掛けたと告げて恋人が働く会社を後にしたのだ。
己のあまりの馬鹿さ加減に呆れつつ歩いていたが、今自分がどこにいるのかに気付いて雨が降る空を見上げてバッグから携帯を取り出そうとした時、ハンカチに包んでおいた大切なピアスがころりと転がり落ちる。
「!!」
石畳の上に転がるピアスを慌てて拾い上げて目に見える傷が付いていない事を確かめると自然と吐息がこぼれ落ちるが、自らが零した吐息の重さに引きずられるように膝が折れそうになる。
ピアスを再度ハンカチに包んでそっとバッグに戻して今度こそ携帯を取り出すと、履歴の上部には当然のように恋人の名前が羅列されていて胸が痛くなる。
会社に来るなと雰囲気でも態度でも教えられたが、何故その言葉を守れなかったのだろうか。
守ってさえいれば、あのように冷たい視線に晒される事もなく、また恋人を怒らせてしまう事もなかったのにと思うと、ただ忸怩たる思いが芽生えてきてそのまま濡れた石畳の上にへたり込みそうになる。
だがそれと同時に、そこまで怒られるような事をしてしまったのだろうかという疑問もわき上がってくる。
確かに彼の言葉を守らずに突然押しかけたことはいけない事だっただろうが、今ここに自分がいる事がこの世の全ての悪を集めたような目で睨まれるほどダメな事だったのだろうか。
あの時見た焦燥感に満ちた横顔が忘れられず、あのような表情をさせたくない思いと、大切にしていることは分かっていてもそれでもピアス一つが無くなっただけで落ち着きを無くすカインの気持ちが理解できなかった。
確かに自分にも帰国する恩師から受け取った大切な宝物があるが、それが無くなったときの気持ちと、もしもそれを恋人が必死になって探したのを千暁の元にいち早く持ってきてくれた時の気持ちを天秤に載せると、いとも容易く天秤は見つけ出してくれた感激と感謝へと傾くのだ。
だが恋人は見つけてくれたことにすら礼も言うどころか、千暁にろくな言葉を発する暇を与えずに真冬の冷たさを連想させる声で帰れと言い放ち、見つかって焦燥感が無くなったのか安堵したのか歓喜したのか、それらの感情の一端すら見せることも無かった。
見つけてくれてありがとうの言葉一つぐらい欲しいと、その時ようやく己の心の奥底でひっそりとしていた思いに気付き、ああ、ただ一言が欲しかったのかと納得した千暁は、それでも何故あのように怒ったのかと言う疑問に対する答えなど持ち合わせていない為、やるせない溜息を零してのろのろと電話を掛ける。
「・・・あ、・・・え、と・・・」
電話が繋がり友人の声が聞こえた為に答えようとしたが、カインの冷たい双眸が脳裏を過ぎり、千暁の喉に蓋をしてしまう。
『アキ?』
「・・・え、と・・・い、・・・今、だ、じょうぶかな・・・っ」
しどろもどろになりながら問いかけた千暁に電話の向こうで苦笑が返されるが、大丈夫だと不思議に安心させる声が流れ出し、安堵に胸を撫で下ろす。
「あ、あのさ、今からそっちに行っても良い・・・かな・・・っ」
カインに帰れと冷たくあしらわれたことが気に掛かり、友人に対しても同じような心持ちになってしまって顔が俯いてしまうが、聞こえてくる柔らかな声に励まされて顔を上げると、気をつけて来いと言われて見えないのに大きく頷くと通話を終え、雨が降る広場を突っ切って友人が開いているクリニックがあるアパートへと駆け込むのだった。
「はい、どうぞ」
「うん・・・ありがとう」
午後の休診を利用して事務仕事を片付けようとしていたのか、受付にあるオルガのデスクには珍しく書類が山積みになっていて、本棚の前のカウチに腰を下ろした千暁は自分に用意されたお茶を受け取りながら肩を小さく丸めて礼を言う。
「少しだけ込み入った仕事をしているから、終わるまでここで待っていてって」
「突然押しかけたぼくが悪いんだから、邪魔じゃないのなら待たせて貰いたい」
オルガの言葉に千暁が苦笑し、突然押しかけてごめんなさいと子どものように謝ると、オルガが首を傾げつつデスクを離れて彼の前に腰を下ろす。
「アキ、何かあったの?」
ボスの伴侶であるリオンほどではないが、あなたがいつもここに来るときはまるで日が差したような明るさを伴うのに、今日は窓の外のように曇っていると目を細められた千暁は、友人が己をその様に思ってくれている事に感謝の思いを抱いてカップを手に取る。
「失敗しちゃった」
カインを随分と怒らせてしまった事をぽつりぽつりと告白し、どうして待てなかったのかなと自嘲した千暁にオルガが何かを言いかけて口を開くが、上手く言えない事に気付いて口を閉ざす。
「・・・そのお茶は昨日買ってきたばかりのフレーバーよ。今日はスコーンを焼いてきたから、ウーヴェの仕事が終わったら一緒に食べましょう」
「うん。本当にありがとう、リア」
このクリニックのボスとそのボスの右腕である女性から本当に大切にして貰っている事を改めて察し、心底の言葉であることを示すように笑顔で告げると、千暁から見て背後にある両開きの重厚なドアが勢いよく押し開く。
「!?」
「・・・もう少し静かに入ってきなさい、とは言っても無駄ね」
己のボスであり仕事を離れれば大切な友人でもあるウーヴェの、永遠の恋人にして人生の伴侶であるリオンが賑やかに飛び込んでくる姿に彼女は何度も口を酸っぱくするほど文句を言い続け、小指の先程も改善される気配はなかった為に諦めの境地に達したのは随分と前の事だったが、それでもやはり時には文句を言いたくなり、溜息混じりに腰に手を宛って立ち上がれば何を怒っているんだよと暢気な声を挙げてオルガの頬にキスをする。
「オーヴェは?」
「カルテをチェックしているわ」
だから診察室に入るなと言外に念を押したオルガにリオンが無言で肩を竦めるが、カウチで小さくなっている年下の友人に気付いて目を丸くする。
「あれ、アキ?どうしたんだよ」
「何が?」
「いつも元気なのに今日は随分と悄気てるな。何かあったのか?」
同類には同類の気持ちが良く理解できるのか、一目で千暁の落ち込みを察したリオンが問い掛けつつ千暁の横に腰を下ろして彼に比べれば長い足を組んで背もたれにもたれ掛かる。
「カインを怒らせちゃった・・・」
「何をしたんだ?」
千暁の恋人のカインとは学生の頃からの付き合いがあるリオンが目を細め、あいつはいつも怒っているようなものだと肩を竦めて先を促すが、会社に来るなと言われていたのに行ってしまって怒られたと千暁が小さな声で告白したため、盛大な溜息を吐いて前髪を掻き上げる。
「・・・そりゃあアキが悪いな。うん」
「・・・・・・うん。でもさ、カインが大切にしてるものだったし・・・早く渡したかったから・・・」
口の中で言い訳を転がしているとやはりあの怒り方は尋常じゃないと気付き、それほど怒らせてしまった事への反省と、あんなにも怒らなくても良いだろうと言う思いが混ざり合って千暁の顔を俯かせてしまう。
「大切なもの?」
お前以外にあいつにとって大切なものがこの世に存在するとは思えないと幼馴染みの心の奥底の思いを知っているリオンが驚きの声を挙げ、その発言に千暁とオルガが軽く驚いてしまうが、二人が驚く気持ちが痛いほど理解出来るリオンが苦笑し、日頃のカインの言動からすれば信じられないだろがあいつにとって本当に大切なのはお前だけだと告げれば、千暁がその言葉を遮るようにバッグの中からハンカチに包んだピアスを取りだしてリオンとオルガの間のテーブルにそっと置く。
「・・・ピアス?」
「朝ご飯を食べているときに外れていることに気付いたんだ」
その後の騒動とピアスを発見して会社にまで届けに行った顛末を語った千暁が、自嘲するように顔を傾け視線も逸らした為にリオンは無言でピアスを手に取って矯めつ眇めつするが、仕方がないと言いたげに溜息を零してピアスをハンカチの上に戻す。
「大切なんだって言ってたし・・・無いとすごく不安そうだったから・・・」
「不安?」
「う、ん、不安というか・・・すごく焦ってる感じがした」
だから気になってしまって会社まで持って行ったと告白すると、リオンが耳朶の上部の奥まった場所できらりと光る青い石のピアスを無意識に手でまさぐりながら焦っているとオウム返しに呟いたため、千暁の頭が上下する。
「あー・・・思い出した。このピアス、俺と交換したものだ」
「・・・交換したもの?」
「そうそう。カインがフランクフルトに行く時に渡したものだ」
リオンが遠い昔を懐かしむように目を細めて掌に拳を打ち付けると、こんな安物をまだ後生大事に取っていたんだなと自嘲に顔を歪める。
「リオン?」
「これは元々俺がしていたピアスで、ゼップと一緒に露店で買ったオモチャみたいなものだ」
それを今でも大切に着けてくれている事は嬉しいが、不安や焦燥を感じるほどだったのかと初めて知らされた真実に軽く驚いて髪に手を宛う。
「今俺が着けてるピアスはオーヴェに初めて買って貰ったピアスだけどさ、カインとその時に交換したピアスが家にある」
俺は外しているがあいつは外していなかったんだなと、昔の自分や幼馴染みを懐かしむ顔で笑みを浮かべるリオンに千暁が腿の上で軽く拳を握る。
二人が顔を合わせれば何かと騒々しく言い合い、時には殴り合い寸前の口論をすることもあるが、心の奥深い場所では理解し合っている事をその表情からも察した千暁が自分との違いを見せつけられているように感じて無意識に唇を噛み締める。
自分が知ることのないカインの過去を教えられて嬉しいはずなのに、どうして嫉妬じみた思いを抱いてしまうのだろうか。
そんな小さな自分が嫌で自嘲に顔を歪める千暁にリオンが目を細めるが、その時診察室のドアがそっと開いて本棚前の人口が一気に二倍になっていることに軽く驚いたウーヴェが苦笑しながらステッキを突いて部屋から出てくる。
「ハロ、オーヴェ!」
本体は黒檀で握りの部分がシルバーの見るからに高級そうなステッキ-ウーヴェが杖がないと歩くことが不自由になると知った家族からプレゼントされたもの-をついてゆったりとカウチに向かおうとするが、それよりも先にリオンがウーヴェの隣に立ってごく自然な動作で腕を差し出せば、やや躊躇いながらもその腕に手を重ねて歩き出す。
「・・・もう仕事は終わったのか?」
「今日は昼からオーヴェが休みなんだ、休みを奪取するのは当然!」
何故か胸を張るリオンにただ苦笑したウーヴェは、オルガと千暁の前だが気にすることなくお疲れさまと労いのキスをリオンに届け、カウチに腰掛けて安堵の溜息を零す。
「リア、何とか終わったよ」
「すぐにお茶の用意をするわね」
ボスの顔から友人の顔になったウーヴェにオルガも友人の顔で答えて立ち上がり、いちごジャムとマーマレードのどちらが良いと笑顔で問い掛け、リオンとウーヴェからそれぞれ返事を貰うものの、千暁が沈黙している事が気になってその顔を覗き込む。
「アキ?」
「・・・ごめん、リア、ぼく・・・帰るからいいや。美味しいお茶をありがとう」
何やら思うところがあるらしい言葉と取り繕ったような笑顔にオルガが不安そうに眉を寄せてウーヴェを窺ったため、その視線に気付いた彼が千暁を見つめて首を傾げる。
「どうした?」
「うん、ちょっと急用を思い出した・・・っ」
「ふぅん?」
千暁の言葉を頭から疑っている顔でウーヴェが足を組み、カウチと直角にオットマンを置いてそこに座ったリオンの表情を視界の端に納めた後、テーブルの上できらりと光るクリスタルのピアスを手に取る。
「・・・カインのピアスか?」
「良く分かったな、オーヴェ」
「これを会社に持っていってカインに怒られたのか?」
「!!」
千暁が一言も発していないにもかかわらずにここに来た理由を当てたウーヴェに三人が一斉に驚くが、そんなに驚く事じゃないと苦笑し、先程の千暁の電話から想像しただけだとピアスを戻しながら肩を竦める。
「電話?」
「きみがここに来るときはリオンと同じように突然やって来ることが多い。それなのに今日に限って電話で確認を取っている。電話でも様子がおかしかったからな」
その辺の事情を考えれば何となく予測がついたと真剣な顔で告げたウーヴェだが、にこりと表情を切り替えて診察室のドアを見つめて千暁を安心させるような笑顔で頷く。
「特別に診察をしようか?」
「・・・ウーヴェ・・・」
「そーだな、診察してやって欲しいなー」
千暁が何と言葉を返そうか思案するように口籠もると、リオンが陽気な声で是非とも見てやってくれと宣って皆の視線を集めてしまう。
「リオン?」
「嫉妬しても仕方がないと思わないか?」
「!!」
「・・・そうか」
「だってさ・・・大切なものだから、早く届けたいなって思ったのに・・・」
持っていったら見たことがないほど怖い顔で睨まれて追い返された後悔の念や悔しさ、感謝の一言もなかった事への腹立たしさと己に対する最大級の自嘲が入り混じった表情で千暁が俯いて拳を握った為、ウーヴェがリオンに合図を送るとそれをしっかりと読みとったリオンが頬杖をついて溜息をつく。
「アーキ。俺に嫉妬してどうすんだ?」
「嫉妬なんか・・・っ」
「じゃあその膨れっ面は何だ?ん?」
千暁が顔を勢いよく上げた後、握った拳を腿に宛って己の本心を誤魔化す言葉を口にすると、言葉とは裏腹に真剣な表情でリオンに見つめられて息を飲む。
「・・・オーヴェにもあんまり言ってねぇけど・・・俺とあいつが出会った頃ってさ、俺たちにとっては本当に最悪の時期だったんだよ」
自分たちがいた環境では生活の底辺で暮らす人や暮らさざるを得ない人たちが多くて、そんな中で成長していた為に周囲の環境を何とも思わない、ませたガキだったと自嘲され、ウーヴェの横顔を見つめたリオンが何かを望むように目を細める。
「あの頃はゼップと三人でマザーやゾフィーを毎日のように泣かせたりしてた」
そんな、汚点とは言わないが可能ならば目を背けたい歴史を持っている自分たちだが、望んでいても届かない為に諦めていたものを今は手にしていると笑みを浮かべてウーヴェの頬に手を宛ったリオンは、掌に軽く頬が押し当てられた事に気付いて一度目を閉じる。
「・・・ガキの頃にオーヴェと出会ってたら・・・俺は嫌われてただろうなぁ」
あの頃ではなくて今こうして出逢えたことは本当に幸運だと、今が本当に幸せだと示す透明な笑みを浮かべてウーヴェの白い髪に口を寄せたリオンは、千暁が驚きに大きな目を更に大きくした事に気付いて声に真摯さを滲ませる。
「お前と出会った意味はあいつが誰よりも分かっている。暗い過去を共有している俺に嫉妬する暇があるのなら、そこを抜け出してお前と一緒にいて笑ってるあいつを信じてやってくれないか」
「・・・っ!」
「アキさえ良ければ、あいつと一緒に前を見てやってくれ」
自分たちが心底望んでいた陽の当たる場所で一緒に笑ってやってくれと、幼馴染みとその恋人を思う気持ちで告げたリオンだったが、ウーヴェの視線に気付いて照れたような笑みを浮かべる。
「恥ずかしいっ!語っちまったぁ!!リア、早くスコーンが食いてぇ!!」
準備はまだかと叫びながら立ち上がってキッチンスペースに駆け込んだリオンに、もうすぐ出来るから待っていてと返す彼女の声が響き渡る。
「・・・アキ」
「・・・っ、ごめん・・・っ」
「謝る必要はない。リオンに嫉妬する気持ちは分かる」
ウーヴェが足を組んで背もたれに寄り掛かり、少し上を見るように顎を上げて目を細めるが、その横顔に千暁は己と似たような感情を見出して驚きに目を瞠る。
「俺もどうして教えてくれないんだとあいつに詰め寄った事がある」
「ウーヴェも・・・?」
今の自分と同じように嫉妬したことがあるのかと呟くとウーヴェの口から苦笑が零れ、俺もまだまだ出来上がっていない人間だから嫉妬から怒ることもあるしその怒りをリオンに直接ぶつけたこともあると自戒の念を込めたような告白を受けて千暁が何かを言いたげに口を開くが、結局拳を握ることでその言葉を押しつぶしてしまう。
「あいつもさっき言っていたが、リオンの過去について俺も深くは教えられていない」
「知りたいとは思わないの?」
「もちろん、同性なのを承知で伴侶に選ぶほどの相手だ。心の裏の裏まで知りたいと思う。でも・・・あいつが知られたくないのと同じように、俺にもリオンにだけは知られたくない過去があった」
眼鏡の下で目を細め、その知られたくなかった過去をリオンに知られた時の痛みや苦しみを思い出している様に眉を寄せたウーヴェだが、不安に顔を顰める千暁に向き直って穏やかな笑みを浮かべると、過去を総て知ったとしても俺はお前を離さないと言われた言葉を脳裏に思い出して小さく頷く。
「俺が過去を話すまでかなりの時間を必要としたし、その間にも色々な事があって口論もしたが、お互いを思う気持ちだけは忘れなかったな」
自分が過去を話すのに時を要したようにリオンが話してくれるのにも同じだけの時間が必要だと気付いたから、あいつが話したいときには黙って聞く事にしたと肩を竦め、無理強いはしなくなったと苦笑される。
「アキが知りたいのはカインとリオンの学生の頃の関係か?」
「・・・う、ん・・・」
多分そうだと、自分でもはっきりと嫉妬の理由が分かっていないと黒髪に手を宛った千暁は、ウーヴェの口から流れ出した穏やかな中にも逃げられない強さを秘めた声に問い掛けられて息を飲む。
「カインの中で自分の存在がリオン以下だ、そう思っているのか?」
「そ、んな事・・・っ!」
「リオンと彼の間ほど深く強い繋がりがない、それが不安なのか?」
ウーヴェの言葉にただただ千暁が胸が痛くて苦しんでいる様な顔で前屈みになり、胸元に拳を握ってきつく目を閉じると、打って変わって不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる声が安心しろと天の啓示のように響いてくる。
「さっきリオンも言っていたが、カインが最も大切だと思っているのはきみだけだ」
もしもきみに万が一のことがあれば、彼は仕事を放り出してでもきみの元へ駆けつけるだろうが、リオンに同じ事があったとしても仕事が一段落着いた後でしかカインは来ないという予測を淡々と告げられて千暁が膝の上で拳を握る。
「形だけが総てじゃない事もきみならば分かっているだろう?」
言葉に出される思いも出されないそれも、カインと一緒にいてつぶさに彼の一挙手一投足を見ていれば分かるだろうと囁かれ、脳裏で今朝の様子や今まで二人で過ごしてきた時の中で繰り広げられた些細なケンカやその後の仲直りの時間などが浮かんでは消えていく。
「・・・もしも不安ならば、今度一緒にピアスを見に行かないか?」
「え?」
「仕事中は今のピアスを外さないだろうが、休みの時はきみが買ったピアスを着けていて欲しいと言って渡せばいい」
きっと彼は死ぬまでそれを手放さないだろうと、間違いなく見えている未来予想図を口に乗せて楽しげに笑うウーヴェにつられた千暁の口からようやく小さな笑い声が流れ出す。
「やっと笑ったな」
「・・・あ」
「やはりきみは笑っている方が良い」
「・・・ありがとう、ウーヴェ」
「ピアスを見に行くのなら声を掛けてくれないか。リオンにプレゼントするピアスを俺も探しているんだ」
「うん、分かった。その時は一緒に買いに行こう」
「ああ」
穏やかな友の声に千暁の昂ぶっていた気持ちが落ち着いたのか、深呼吸を繰り返した後オルガが運んできてくれた紅茶とスコーンを、少しだけ引きつっているもののそれでも心からの笑みを浮かべて待ち構えるのだった。
スコーンを食べ終えて美味しい紅茶のお代わりも堪能した千暁は、ここにやってくるときに比べれは遙かに上を向いて軽くなった心で年上の友人達に頭を下げる。
「心配を掛けて・・・ごめんなさい」
「本当にそうね。今度何かピアノを弾いて欲しいわ」
オルガの言葉にリオンが同意を示しウーヴェも厳かに頷いた為、今度家でパーティをするときに是非来てくれと窺うように告げた千暁だったが、どうしても気になっている事があると切り出して皆の視線を集中させてしまう。
「どうしてあんなに怒ったんだろ」
皆で囲んでいるテーブルの上できらりと光る、リオン曰くのオモチャのようなピアスを大事そうに手に取った千暁が首を傾げつつ問いかける。
「ああ、職場に来たことか?」
千暁の最大にして唯一の疑問とも言えるその言葉にウーヴェがリオンを見つめると、さすがに幼馴染みの事はよく理解しているからか、スコーンの最後の一口に甘さ控えめのホイップをたっぷり載せ大口を開けていままさに食べようとしていたリオンがけろりと言い放つ。
「恥ずかしかったんだろ」
「え!?」
「恥ずかしかった!?」
リオンの一言に一斉に皆が反応し、ぼくはただそれだけの理由であんなにも怖い目に遭わなければならなかったのかと千暁が呆然と呟くと、口の中のスコーンを飲み込んだリオンがもちろんそれだけじゃないと肩を竦める。
「アキの存在を人に教えたくなかったんだろうな」
「・・・それってぼくが男で日本人だから?」
「カインは肌の色に対しての違和感なんてこれっぽっちも感じねぇから安心しろよ、アキ」
今まで、アフリカ大陸から出稼ぎできた女やアジア系の女とも平然と付き合っていたが、どの彼女たちに対するものでも本人の性格や言動以外の不満を聞いた事がないと、そこはさすがに幼馴染みを擁護するように告げたリオンだが、もう一度肩を竦めると意味ありげにウーヴェの横顔を見つめて目を細める。
「まあ、男と付き合うのは初めてだからあいつも戸惑ってるってのもあるだろうけど、ただあいつも俺と同じで、出来る事なら好きな相手は人目に触れない場所に閉じ込めたいって思ってるって事」
「・・・危険な思想だな」
「うん。一歩間違えれば犯罪者だな。・・・でも、惚れた相手には傍にいて欲しいってずっと思ってた」
だから今、こうしてお前の傍にいられることは何よりも幸せだと笑みを浮かべたリオンにウーヴェが咳払いをして視線を泳がせるが、千暁がぽかんと口を開けて二人の顔を交互に見つめる。
「まあ最大の理由は・・・やっぱり恥ずかしかった、これだろうな」
俺が行ったとしても素っ気ない態度で受け取った後に早く帰れと言われるだけだと笑い、千暁だからこそ激しく怒ったのだろうと予測をするが、今頃千暁が傷付いた顔を思い出して落ち込んでいる筈だと笑ったリオンは、あいつが帰ってきたら真っ先に謝ってハグすれば問題ないと太鼓判を押す。
だがリオンほど付き合いのない千暁にしてみればただそれだけの事でカインの怒りが解けるとも思えず、本当に大丈夫なのか、リオンだからそれでいいのではないかと疑問の声を投げ掛けると、心底恐ろしいと言いたげにリオンが激しく頭を振って目眩を引き起こしてウーヴェにもたれ掛かる。
「なんで俺があいつをハグしなきゃならないんだよっ!」
絶対に絶対にそんな恐ろしいことはイヤだとべそを掻いてウーヴェに助けを求めたリオンに呆れた顔を隠さないウーヴェは、それでもそんなリオンを突っぱねることはなく、くすんだ金髪を撫でて気持ちを宥めさせる。
「ハグはアキだからこそ出来る事だって!」
「・・・う、ん」
まだ信じられないし実感がわかないが、リオンが言うのだからそうだろうと幼馴染みを通して恋人を信じることにした千暁は、穏やかな顔で見つめてくるウーヴェと早く仲直りしなさいと苦笑するオルガに笑いかけ、ご迷惑をおかけしましたともう一度頭を下げる。
「今度のパーティで美味しいものとピアノを振る舞うから、絶対に来て!」
「ええ、美味しいタルトを持ってお邪魔するわ」
「もちろん、オーヴェと二人で行く」
それぞれの言葉に大きく頷いた千暁が勢いよく立ち上がり、今日は本当にありがとうと何度目かの感謝の言葉を告げると同時に頭を下げ、カインのピアスを大事そうにバッグに戻して三人の男女に手を挙げる。
「じゃあね!」
「・・・アキ、ケンカをしても手を離すんじゃないぞ」
「・・・忠告ありがとう、ドク」
その言葉を忘れずに二人で一緒に歩いて行こうと思いますと満面の笑みを浮かべて大きく頷いた千暁にウーヴェも安心したように目を伏せて頷き、クリニックを後にする小さな背中を見送ると、誰からともなく溜息を零してしまう。
「・・・俺たちも色々あったけどさ、あそこも色々あるな」
自分たちが二人で歩んできた道を振り返れば、よくぞ別れることなく二人で手を取って歩いてきたと感心してしまう程の辛く苦しい出来事があったが、リオンの幼馴染みとその恋人である日本人留学生の彼の恋もまた様々な事象があるなぁと暢気な声を挙げてオルガに紅茶のお代わりの確認をしたリオンは、自嘲にも近い苦笑を浮かべるウーヴェの髪にキスをし、ダーリン、あまり考え込むなと片目を閉じる。
二人が目の前で仲良くする事に関しては、最早とうの昔に諦めていたオルガがよく冷えた紅茶なら冷蔵庫に入っている事を告げて深く溜息を零す。
「・・・フラウ・オルガ、明日も頼む」
「・・・こちらこそ、よろしくお願いします」
いつもの労いの言葉を視線を交わさずに言葉だけで告げあった二人は、キッチンスペースから聞こえてくるご機嫌の証拠である鼻歌にほぼ同時に溜息を零すのだった。
2011/06/29


