初夏の太陽が今日も一日働くぞと、真冬を思えば張り切っている感すらある早朝、国際線の到着ロビーのベンチにはシルバーの握りが付いたステッキを立てかけ、少しだけ眠そうな目を眼鏡の下で瞬かせた上品そうな身形の男が人待ち顔で腰を下ろしていた。
早朝の便での帰国になってしまうが迎えに来て欲しいとのメッセージを受け取っていた彼は、小さく欠伸をした後に何人かの人達が己の背後にある駅に向かう通路や駐車場へと向かう通路を進む姿を目で追いかけてしまい、メッセージを送って来た伴侶が姿を見せない事にもう一度欠伸をする。
「……ハロ、オーヴェ」
休日の早朝に迎えに来てくれてありがとうと、欠伸をしたために涙で滲む視界の向こうから申し訳なさそうに苦笑されてしまい、眼鏡の下の目を指で擦った彼、ウーヴェは、己の前に佇む伴侶に一つ頷いてベンチから立ち上がる。
「荷物はそれだけか?」
「うん」
立ちあがったウーヴェの前で苦笑しているのは、弟の一大事にニュージーランドにまで文字通り飛んでいったリオンで、リオンの手がスーツケースを二つ引いている事に気付いてスーツケースを向こうで買ったのかと問いかけると、免税店で受け取ったワインを詰め込んであると教えられて軽く目を見張る。
「二人がオーヴェと兄貴たちにワインを買ってくれたんだよ」
「それは楽しみだな」
そのワインもスーツケースに入っているが、残りはホームの子供たちへのお土産だと少しの自慢を込めて笑みを浮かべるリオンに一つ頷くと、その頬を手の甲で撫た同じ場所に労うようなキスをする。
リオンとノアの出会いは兎も角、互いの存在を知ることになった事件は今でも時折二人の間に顔を出すことがあるが、血の繋がりのある兄弟というよりは、同じ児童福祉施設で過ごした兄弟という扱いが良いと宣言したにも関わらず、やはり血は水よりも濃い事を実証するように今回ニュージーランドまで遥々飛んで行ったのだ。
その思いをリオンよりも理解しているウーヴェがお疲れ様だったなと声に出して労うと、リオンの手がスーツケースから離れ、ウーヴェの背中へと回される。
「……意外と元気そうだった」
「そうか。お前が行った甲斐があったな」
「そうかな……まあ、でも喜んでくれたから良かった」
俺がノアの家に行っている間一人にして悪かったと詫びる広い背中をポンと叩き、家に帰ろう、お前の好きな白パンとチーズのモーニングの用意が出来ているが無理に食べなくても構わないと告げてステッキを握ると、リオンも顔に嬉しそうな笑みを浮かべてスーツケースを両手に引っ張る。
「あいつらさぁ、すげぇ仲いいの」
酔っぱらって眠りこけているノアを文字通りお姫様扱いでテッドがベッドに運んでいた事を、まるでとんでもない秘密を見たかのようにウーヴェに話すリオンだったが、俺もダーリンをいつもそうして抱き上げたいなぁと横を見るが、そうか、俺はされたくないというにべもない一言で拒絶されてしまい、がっくりと肩を落とす。
「オーヴェのケチ、トイフェル」
「お姫様抱っこを断っただけで悪魔呼ばわりされるのか?」
ならば自宅で待っている白パンとチーズのモーニングも悪魔だから俺が独り占めしよう、お前はチーズの焼けた端でも食べていろと眼鏡の下の双眸を意地悪そうに細めてウーヴェが言い放つと、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、お願い許してオーヴェというお決まりの言葉が流れ出す。
そんないつもの会話をいつも通りに再開できるようになった安堵と駆け付けた先での弟とその恋人の信頼関係を垣間見れた安堵からついつい口が軽くなったリオンだったが、駐車場へと向かい、スーツケースをトランクに詰め込むと助手席のドアを開けられて目を瞬かせる。
「ああ、そうだ」
今日も暑くなりそうな晴天が広がっている、家でモーニングを食べるつもりだったがどこかのカフェでテイクアウトをして気持ち良さそうな公園で食べて帰らないかと、車の屋根に片手を乗せたウーヴェがリオンに問いかけ、乗り込もうとしていた姿勢のまま動きを止めたリオンだったが、それもいいなぁと顔を綻ばせる。
「パニーニが食いたい」
「パニーニか……店を探そう」
「うん」
その一言で車に乗り込み、ウーヴェがシートベルトを引っ張ったのを確かめたリオンが運転席へと身を乗り出してその頬にキスをし、どうしたと視線で問われて満面の笑みを浮かべる。
「ただーいま、オーヴェ」
「ああ、お帰り、リーオ」
頬へのキスの返事を楽しそうな角度になっている唇に届けたウーヴェは、エンジンを掛けて少しだけアイドリングをした後、己の言葉通りに今日も暑くなりそうな初夏の空の下へと車を走らせるのだった。
遠く離れたドイツから文字通り己のために飛んできてくれたリオンを見送ったその日の午後、胸にぽっかりと穴が開いたような気がしたノアは、横臥していたソファにのそのそと起き上がり、ソファではなく床に置いたクッションに座ってソファを背もたれ代わりにテレビを見ていたテッドの短い髪にそっと手を伸ばす。
さりさりとした手触りに自然と笑みを浮かべたノアだったが、いつだったかこんなことをしていたと思い出し、あの時は確かミアから電話が掛かってきたはずと更に思い出すと二人が巻き込まれた事件の日の事も思い出してしまう。
土曜日の午後、久しぶりにミアとランチを一緒に食べるつもりだったが、嫌な感じがすると彼女が言った為、その不安を少しでも解消してやりたくてカフェの近くの商店を覗いてはテッドの誕生日プレゼントに良さそうなものが売っているのかを彼女と一緒に見て回り、人を食ったようなとしか思えないひょうきんなカエルのパペットを発見し、その店に入って車のキーホルダーにも出来るカエルのぬいぐるみをミアと選んでいたときに事件に巻き込まれたのだ。
「あー!!」
「!?」
己の頭をいつかのように気持ちよさそうに撫でていたノアの口から素っ頓狂な声があがり、至近で聞こえた大声にさすがにテッドの体が驚きに飛び上がってしまう。
「何だ!?」
「カエルのキーホルダー!」
あの後彼女を一応は安全とされている己の車に乗せることしか頭になく、あの時購入していたプレゼントはどうなったと叫ぶノアだったが、テッドの顔に不安と心配が浮かんでいる事に気付き、己の言動がそれを与えたことにも気付く。
リオンがドイツに帰国してしまった寂しさから何やら素っ頓狂な事を言い出したのかと言いたげに見つめてくる恋人に激しく首を左右に振ったノアは、あの時ミアと一緒にお前の誕生日プレゼントを買っていたんだと叫び、結構気に入っていたのにとクッションを抱え込んで頬を膨らませる。
「俺の誕生日プレゼント?」
「そう!」
彼女も一緒に選んでいてラッピングをしてもらったのにと、事件の際にプレゼントを紛失してしまって落ち込んでいるノアだったが、恋人の誕生日が来週に迫っている事を思い出してさらに落ち込むだけではなくその顔には絶望が滲み、せっかくの誕生日なのにプレゼントも何も用意できていないとクッションに対して嘆きの声をぶつけ始める。
その横顔を半ば呆然と見つめていたテッドだったが、子供のように素直な感情表現がノアの持ち味であり長所でもあると感じていた事を思い出し、自然と口角が持ち上がる事に気付く。
己の誕生日など祝うようになったのもノアと付き合いひとつ屋根の下で暮らすようになってからだという事実を今伝えればこの素直な恋人はどのような反応をするのだろうかという悪戯心がむくむくと沸き起こるが、ただでなくとも落ち込んでいるノアが更に落ち込む様子など見たくないとの気持ちも沸き起こり、確かにそうだと己の中で完結させる。
「……何だ、そんなことか」
もっと重大な何かがあるのかと思ったと安堵から思わずぼそりと呟いたテッドだったが、クッションの上辺から湿り気を帯びた青い瞳に睨まれている事に気付き、己のぶっきらぼうな態度が誤解を与えたのだと察すると、ノアが抱えているクッションを奪い取って驚きに目を丸くしたのを確かめると次にその腕を掴んでソファから引きずり下ろすように抱き寄せる。
「言葉足らずだった」
「……何がだよ」
「ああ……お前が誕生日を祝ってくれる事をつまらないと思っている訳じゃない」
「……」
「誕生日プレゼントをくれるんだな?」
抱き寄せた背中がその言葉にピクリと揺れ、体重をかけて寄りかかられて思わず背後に倒れ込んだテッドは、己の顔の横に手をついて体を支えているノアを見上げてその頬に手を宛がう。
「キスしてくれ、ノア」
「え……?」
「誕生日プレゼントはキスでいい」
今年も来年もその先の誕生日プレゼントはお前からのキスで良いと口角を持ち上げると、そんなもので良いのかという疑問が言葉ではなく双眸に浮かべられ、それが良いと頷きながらノアの鼻の頭にキスをする。
「死ぬまでの間、ずっとキスをしてくれ」
勿論、その間にお前が心を動かされてプレゼントしたいと思うものがあればそれを贈ってくれ、俺もお前の誕生日には必ず何かを贈り返すからと笑うテッドの言葉にノアが呆然と目を見張るが、お前が死ぬまでの間と確定の言葉を疑問符付きで問い返し、ああと返されて口の端を持ち上げる。
「おじいちゃんになっても?」
「そうだな、俺が頑固で無口なジジイになっても、だ」
「頑固で無口なジジイなんて嫌だ」
感情表現が苦手でも無口でも構わないが頑固なジジイにだけはならないでくれと、いずれ訪れる未来予想図を思い浮かべて楽し気に肩を揺らすノアの腕を取って抱き寄せると、素直に覆い被さるように上体が伏せられる。
「……テディ」
「何だ?」
「来週から漁に出るんだろう?」
今週はリオンが来てくれたから仕事を休んでいたが来週から元通りの日常が始まるんだろうと問いかけるノアにそうだなと返すと、顔の傍に手をついて再度体を持ち上げたノアがテッドを見下ろしながら口を開く。
「月曜日、漁に出るときに俺も一緒に行きたい」
「海が時化ていなければ一緒に来ればいい」
「うん。サンクス」
漁師を生業とするテッドですらも気分が悪くなりそうな程海が荒れている時には危険すぎてノアを船に乗せるつもりはなかったが、そうでなければ問題ないと頷くと久しぶりにカメラも持っていくと続けられて目を細める。
「三週間もカメラを持っていないなんて、いつ以来かな」
「初めてここに来て帰った時じゃなかったか?」
「あ、そうだった。ここで仕事をして帰国したらすごくあの街がうるさく感じたんだよな」
依頼が来ていた仕事については意地でも完遂したが、以前とは違ってプライベートでカメラを手にする気持ちにならなかったことを思い出し、月曜日にカメラを持って船に乗ればきっと何かがまた変わるはずと期待を込めて囁くノアをテッドが励ますようにその頬を撫でる。
「じゃあ月曜日に写したものをまた見せてくれ」
気に入ったものがあればリビングかベッドルームかどこかに飾ろうと誘うテッドにノアが頷き、どんな一枚になるか不安だけどまた写真を撮る事にするとテッドの胸板に甘えるように頬を宛てると、背中を抱きしめられて安堵の息を零す。
「……リオンが来てくれたから、きっとこんな気持ちになれたんだろうな」
「そうだな……土産のワイン代は必要経費だな」
「本当だな」
この国から時間にすれば30時間以上かかる帰国の途に就いた兄を空港で見送ったノアだったが、本人が言うように何もしていないこともなければ来る必要もなかった訳ではないと思っていて、3日足らずの滞在だったが二人にとっては途轍もなく大きなものを残してくれた事を今もまた実感していた。
土産のワインを選べ、可能ならドイツの空港の免税店で受け取れるワインが良いと注文を付けられたが、世話になっている思いが強くあったために面倒臭がらずにリオンの希望通りのものを購入し、ホームと呼んでいる児童福祉施設の子供たちへの土産にはこちらで良く食べられているお菓子なども購入し、スーツケースに詰め込んだのだ。
ホームに戻りこの土産の山を見せて顔を輝かせる子ども達の顔を想像するだけで顔がにやけると、その子供たちと同じ表情で笑うリオンを見ていると何も言えなかったノアだったが、そのついでにこちらに移住する際にもう一人の母とも慕っているマザー・カタリーナから受け取ったロザリオーこれは先日テッドから教えられたのだが、事件に巻き込まれたと思われる時刻に壁に吊るしておいたロザリオが突然切れて床に散らばったらしい-を持って帰ってもらい、以前と同じように修理をして欲しいとリオンに頼んで預けたのだ。
そのロザリオが早く手元に戻ってくれば良いと笑ったノアにテッドも頷き、ロザリオが突然切れた時は本当に驚いたことをノアを抱きしめながらテッドが苦笑する。
「早く元通りになって返ってくると良いな」
「うん」
その言葉にノアが体を起こしてテッドの腕を引っ張って同じように床に座らせるが、そのまま逆に床に押し倒されてしまい、驚愕に目を丸くする。
「テディ?」
「……いいか?」
短いその一言が何を意味するのか咄嗟に理解できなかったが、見下ろしてくる深い海の色のような双眸に浮かぶ色に気付いて意味を理解した瞬間、さっきは気持ち良さを与えてくれていた頭を抱え込むように腕を回して抱き寄せる。
「……良いけど……」
事件以来久しぶりで少しだけ不安だと素直に気持ちを吐露すると安心させるようなキスが頬の高い場所や鼻の頭をはじめとした顔中に降り注ぎ、そのくすぐったさに肩を揺らして笑ってしまう。
「くすぐったい、テディ!」
止めろと笑いながら制止力も何もない言葉を口にしたノアだったが、テッドが額を重ねてきた事に気付いて自然と目を閉じると同時に唇にキスをされ、首筋の上で重ねていた手を背中に下ろし、不安を霧散させるよなキスを繰り返すテッドの広い背中を抱きしめるのだった。
久し振りに抱き合う事からいつも以上に気持ちが盛り上がっているが、さすがにリビングで抱き合うのはノアへの負担が更に増えることに辛うじて残っていた理性下で考えたテッドが、昨夜に続いてノアをお姫様抱っこでベッドルームに移動した結果、身体の彼方此方に情痕を残したまま失神する様に眠ってしまっていた。
やり過ぎたと反省したテッドだったが、その気持ち以上の満足さを感じていて、眠っているノアの髪を掻き上げた後、大きく欠伸をしてノアの後を追いかけるように眠りに落ちるのだった。
事件から三週間が経過していたが、リオンが自分達のことを思って北半球から飛んできてくれた影響は本人が思う以上に大きなもので、その一端を同じベッドで事件以前のように穏やかな顔で眠れる事で表した二人は、翌日無事に自宅に帰りつき、ウーヴェと一緒にドライブをし公園でモーニングを食べてきたことを教えられて心の底からの感謝の言葉を伝え、そうかという短いが言葉にされない感慨が込められた一言を貰うのだった。