漆黒の世界にオレンジとネイビーブルーが生まれ、一つになって己が持つ言葉では表せなくなっていく。
その変化を船を通り抜けていく風が直接当たらない操縦席に腰を下ろしながら見ているのは、漸くテッドの船に乗って一緒に漁に出ることが出来るようになったノアだった。
リオンが駆けつけてくれ、文字通り飛んで帰った週明けの月曜日、テッドの船に一緒に乗るつもりだったのだが、生憎海が大荒れになり、ノアを乗せるどころかテッドや仲間達も漁に出るのを諦めなければならない悪天候に見舞われてしまったのだ。
窓に叩き付けられる雨粒と吹き付ける風の音を恨めしそうに膝を抱えて聞いていたノアだったが、その日の夜、事件を担当していた刑事達から、恋人とその不倫相手を殺害しノアを負傷させた男の裁判が始まった事を教えられ、証人として裁判に出て貰うかも知れないが大丈夫だろうかとの連絡を受け、今の所大丈夫だと返事をしたが、事件の最中の嫌な気持ちを思いだしてしまい、それを霧散させるために隣で黙ってやりとりを聞いていたテッドにしがみつき、心の平安を何とか取り戻さなければならなかった。
己を事件に巻き込んだ男に対して思う事はそれこそ言葉では言い表せない程胸の中で溢れかえっていたが、負傷した己の身を案じたテッドがリオンとウーヴェに相談した結果、遠いドイツから駆けつけてくれたこともあり、事件後ずっと己を気遣いつつもウーヴェのように人の気持ちに寄り添える言葉を持たないからか、今もただ抱きしめてくれることで己を守ってくれているテッドの存在がノアの中に芽生えそうになっていた憎しみを、まるで砂糖がじわじわと水に溶けるように溶かしていくことを感じていた為、事件直後に男に対して思っていたこととはまた違う気持ちを今は持つようになっていた。
その気持ちを素直にテッドに伝えたところ、自分では考えられないことだがきっとそれがお前らしさだろうと、初めて見るような優しさと称賛するような目で見つめられて額にキスをされ、己の考えが認め受け入れられたことを確信出来たのだ。
だからテッドに、証人として出なければならない時は行ってくること、でもひとりで行くことが難しくなれば一緒に来て欲しいと素直な思いを伝えると、当たり前だとの言葉の代わりに大きな手で髪を撫でられ、安堵の息を零したのは先週の話だった。
裁判に証人として出たノアだったが、いくらテッドやリオンが事件の影響を少しでも薄くさせてくれたとはいえ、やはり犯人の男を直接見ることに不安を覚え、男の顔を見なくても済むようにテッドが警察に相談した結果、直接顔を見なくても済むように配慮をして貰い、胸に秘めていた事件に対する己の思いを緊張しつつも伝えることが出来たのだ。
裁判を傍聴席で聞いていたテッドが今日の閉廷を告げる裁判官の声に静かに立ち上がって法廷を出た時、犯人がまず姿を見せ、何気なくそちらへと顔を向けるとテッドと目が合った男の顔が蒼白になって引き攣ってしまう。
そこまでの恐怖を与えたつもりはないと苦笑しかけたテッドだったが、お前がノアに与えた恐怖や痛みはもっと強かった、だがそれを受けてもノアはお前が罪を償い社会復帰することを望んでいると、法廷で聞いたノアの希望を思い出すと、今拳銃を持っていなくて良かったとノアには絶対に見せないと決めた冷酷な顔で男を見据えてしまう。
己の前を刑事に連れられて歩いて行く男をいっそ哀れみの目で見送ったテッドだったが、ドアが開いて名を呼ばれたことに気付き、つい今し方浮かんでいた冷酷な色を一瞬で掻き消していつもの朴訥な顔で振り返り、己の気持ちを伝えられた、間違っていなかったよなと震える声で問いかけてくるノアの前に駆け寄り、声と同じように震える身体を抱きしめたのだ。
裁判はまだ続くようだったが、ノア自身が出廷する必要はなさそうだと弁護士からの連絡を受け、そして今日やっと念願のテッドの船に乗り込んで漁に出てきたのだ。
ネイビーブルーの空と海面との境界線を顔を出し始めた太陽がオレンジ色に染め始め、ああ、日が昇ると呟いた時、網を設置してひと段落付いたのかテッドが操縦席の横にやって来る。
「一段落付いた?」
「ああ」
今日は少し風が強いと目を細めながら操縦席に置いていたタバコを取り出して火を付けたテッドは、ノアの労いの言葉にひとつ頷き、寒くないかと問いかけながらバスケットの中のボトルを取り出す。
「大丈夫、お前のブルゾンを借りてる」
「それで良ければいくらでも着ていろ」
風邪を引いては大変だと笑うテッドの手からボトルを受け取ったノアは、バスケットの中に用意して置いたブリキのカップを二つ取って貰い、そこにボトルから湯気が立ち上るミルクティーを波の揺れに気を付けつつ入れると、一つをテッドに手渡す。
「……暖かいなぁ」
「そうだな」
ブリキだから熱がすぐに伝わり、自宅であればきっと持つ事が出来ないだろうが船の上で寒さを感じている今はその熱が程良く掌を温めてくれる為、両手で包んで息を吹きかけつつミルクティーを飲み、喉を流れ落ちる温もりを感じて無意識に零してしまう安堵の白い息を吐いたノアだったが、デッキの屋根に手を掛けてミルクティーを飲むテッドの向こう側に果てしない海と空が広がっていることに気づき、アトラスみたいだなと笑みを浮かべる。
「アトラス?」
「そう。ギリシア神話で空を支えている巨人だったかな」
どんな理由で空を支えるようになったのかは覚えていないがと笑うノアの言葉に首を傾げて何やら過去を振り返っているようなテッドだったが、お前ひとりを支えることも出来ていないのに空なんか支えられないと苦く笑って煙草の煙を細く吐き出す。
ノアの言う通り空を支えられるだけの胆力があれば、事件後何週間もノアが苦しみ悩まなくても良かったのにと小さく呟いてしまうが、そっと伸びてきた手が煙草を奪い取ったかと思うと、触れるだけのキスが煙草の代わりに与えられて目を瞬かせてしまう。
「……タバコ臭い」
たった今まで吸っていたのだからと言いたくなるのを堪えて苦いと眉を寄せる恋人を見つめると、いたずらを発見された子供の顔で首を竦めて笑みを浮かべる。
「傍にいてくれたしハグしてくれただろ?」
「それは……」
「他の人は知らないけど、俺はそれで充分支えられてると思った」
だから今の言葉は聞かなかったことにすると笑うノアにただただ驚いたテッドだったが、ブリキのカップを置いたその手でノアの頬を撫でると軽く首が傾げられて掌に熱と重さが伝わってくる。
掌に乗る愛しい重みを失いかけたのかと思うと背筋に嫌な汗が流れ落ちそうになる事に気づいて思わず手に力を籠めそうになるが、その手に手が重ねられて穏やかな顔で見つめられてしまい、何よりも大切なものを手にしている事を改めて認識したテッドの脳裏に焼き付くような笑みをノアが浮かべたため、両手の中にその笑顔を閉じ込めるように頬を包む。
「……ノア」
「……お前の手、暖かいな」
さっきまでブリキのカップを持っていたからかも知れないがそれ以上に暖かいと笑うノアを思わず抱きしめたテッドは、背中にそっと回された手に気付き、その手が齎す優しさや温もりにきつく目を閉ざし、本当に失われなくて良かったと、事件以来ようやく己の中で宙に浮いていたような感情を腹に納められたような気持になるのだった。
テッドが今日の漁から戻ってくるのをリビングのソファではなく、作業部屋でありゲストルームにもなる己の部屋のデスクに向かって待っているのは、事件後初となる仕事の依頼を受けてカメラのメンテナンスや撮影のための準備に勤しんでいるノアだった。
鼻歌交じりにカメラの調子を整え、これで準備は万端と満足げに息を吐いた時、デスクに置いていたスマホが着信を告げたことに気づいて耳に当てる。
「ハロー」
『今終わった』
「うん。お疲れ様、テディ」
『ああ』
これから帰るが何か買った方が良いものはあるかと問われて冷蔵庫の中身を思い浮かべたノアだったが、今日のランチの準備は出来ているしデザートのケーキも冷蔵庫で出番を待っているから大丈夫と返すと、分かったというぶっきらぼうな一言が返ってくる。
「気を付けて」
『ああ』
己が投げかけるものよりも圧倒的に口数も言葉数も少ない恋人の顔を思い浮かべるとついついにやけてしまうのを堪えられなかったノアだったが、異変を感じたのかどうしたと問われて何でもないと慌てて返し、顔を上げてデスクに飾っている写真へと目を向ける。
そこには、あの日、昇り始めた太陽の光を浴びながら仕事に励むテッドを写した写真が飾られてあり、この写真だけは絶対に何があっても手放さないと心に決める程己にとっては会心の一枚だった。
それへと目を向け、ああ、働く男はどうしてこうも男前度が増すんだろうなと呟いたノアだったが、おいと呼びかけられて我に返り、とにかく気をつけて帰ってきてくれと伝え、待っているからとも伝えると呆れているのか安心しているのかどちらにも取れる溜息が落とされたあと、短くああと返される。
その短い相槌のような一言だけでも満足で、通話が終わったスマホをデスクに戻して伸びをしたノアは、同じくデスクの端に置いたカレンダーへと目を向け、今日の日付に丸が付いていることを確かめると、喜んでくれると良いなぁと間もなく訪れる時間を想像して更に顔をにやつかせながら部屋を出てリビングへと向かう。
リビングのソファには一抱え以上もあるラッピングされた一目でプレゼントだと分かるものが鎮座していて、喜んでくれるだろうかと思案しつつそっとそれを撫でる。
冷蔵庫には下拵えをしておいたラム肉を使ったキャセロールが出番を待っていて、思い出したように冷蔵庫の前に向かったノアがそれを取り出してオーブンに投入し、どうか美味しく焼きあがりますようにと祈るような気持ちでオーブンのドアを閉める。
ケーキは二人が食べる分だから小さなもので十分で、スパークリングワインもビールも良く冷えていて、あとは今日の主役であるテッドが戻ってくるだけだ準備万端だった。
テッドの誕生日である今日は天気も良いし風も冷たくないから庭で食べようと決め、庭のベンチテーブルで食べられるように準備を始めたノアだったが、浮かれた気分を増幅させる音楽が欲しいとの思いからスマホでラジオを流すと、ちょうどランチタイム前のニュースの時間だったのか、硬い声が事件の裁判が結審し判決が出たことを報じ、思わずノアが動きを止めてしまう。
ニュースキャスターが読み上げたのは、被疑者のテリー・スミスが己の犯した罪を悔いている事、死亡した二人に対して裁判中も謝罪をしていたこと、そして無関係のノアを巻き込み、彼の親族である少女に対しても怖い思いをさせてしまった事への謝罪と、遺族に対しできうる限りの償いをすることなどを認めている為、仮釈放の可能性を残した終身刑という判決が下ったとの事で、終身刑という言葉の重さにノアの頭が下がってしまう。
二人の命を奪うという凶行が齎したのは終身刑という重い結果だったが、殺された二人の遺族にとっては何故犯人が生きているのだと怨嗟の涙を流してしまうだろう判決だった。
殺されてしまった二人とは違い、右足の負傷だけで済んだ己がその判決についての良し悪しを口にできる筈もなく心が沈みかけたその時、ドアが開く音が微かに聞こえ、開け放ったままの掃き出し窓からリビングに入ったノアは、反対側のドアを開けて入ってくるテッドに気付き、何があっても己を支えてくれる恋人にしがみつくように抱き着く。
「どうした?」
「……ラジオを聞いた」
いつものようにお帰りのハグではない雰囲気を察したテッドが手にしていた荷物を床に置いた手でノアの背中を撫でると、ラジオという言葉が聞こえてきて何かあったのかと問い返すと事件の判決が出たと教えられる。
「そうか」
「……うん」
そう呟くノアの顎を掴んでそっと顔を上げさせたテッドは、そこに残念だという色を見出すが、それ以上の感情らしきものを見出せずに胸を撫で下ろし、そうかともう一度返すと肩に頬を押し当てたノアが一区切りついたと零し、確かにそうだなと頷きながら髪をなでる。
事件を起こしたスミスにとっては長い贖罪の日々が始まり、殺害された二人の遺族にとっては愛する人を喪った後にも続く喪失感を抱えながら生きなければならない日々が始まるのだ。
それを思うだけで気持ちが塞がりそうになるノアだったが、耳を当てた胸から響く落ち着いた鼓動が、己をいついかなる時でも信頼し支えてくれることを知っている為、ギュッとしがみつき、よしと満足げに息を吐く。
「……よし」
その言葉で気持ちを切り替えたのか、少し離れて顔を上げたノアが安心したように目を細めるテッドにお帰りのキスをし、お返しのキスを受け取るとソファの上で出番を待っている大きなプレゼントの前に向かい、抱え上げてテッドに見せつける。
「今年の誕生日プレゼント!」
そう笑う顔はさっき見せた影など一切感じられない屈託のないもので、ああ、本当に恋人の中で何らかの区切りがついたのだと察したテッドは、何だそれはと笑いながらノアの手からそれを受け取り、ラッピングを乱雑に破いていく。
「……」
「可愛いだろー?」
そう笑顔で笑ってテッドが呆然とする様子を楽しんでいるノアは、あの日見つけたカエルのキーホルダーの代わりにと、大きさでは比較できないほど成長したもののそれでも人を食っているような顔に変わりはない手足が長く細身のカエルのぬいぐるみ越しにテッドを見つめ、今年の誕生日プレゼントだと笑みを深める。
「このカエルが?」
「そう!」
キャセロールと小さなケーキと冷やしてあるスパークリングワインもプレゼントだが、大本命はこれだと胸を張ったノアは、テッドの手からカエルのぬいぐるみを奪い取ったかと思うと、プレゼントという割には雑な扱いでソファに座らせ、目を丸くするテッドに再度抱き着いた後、驚きに開く唇にキスをする。
「お前が欲しいって言ってたプレゼント」
「……ああ」
俺とお前の希望が入ったプレゼントを用意したと笑うノアにしばらくの間テッドは無言だったが、細い腰に腕を回したかと思うとその場で勢いよく抱き上げ、慌てて己の肩に手をついてバランスを取るノアを見上げて太い笑みを浮かべる。
「もうひとつくれ」
「……っ、それ、は……」
テッドがもう一つと強請ったものが何であるかを察したノアの頬が赤らむが、まずは誕生日祝いの乾杯をして一緒に料理を食べてケーキも食べてからだと叫ぶように返すと、もちろんそれでいいと笑みを深めたテッドがノアの頬にキスをする。
「庭で食おう」
「ああ」
オーブンに入れたキャセロールが焼きあがるまでにテーブルセッティングを終わらせようとテッドの短い髪にキスをしたノアが床に降り立ち、料理ができるまでに食べるチーズやハムも用意してあるとテッドの腰に腕を回して顔を寄せると、同じように腰を抱かれてお礼のキスを髪にされる。
「誕生日おめでとう、テディ」
「……サンクス、ノア」
冷蔵庫で出番を待っている料理やワインを出し、ワイングラスやカトラリーを庭のテーブルに並べた二人は、キャセロールが完成するまでの間にワインで乾杯をし、チーズやハムを食べて冬の最中の春を思わせる暖かな陽気の中、テッドの誕生日を二人で祝うのだった。
あの日偶然ミアと一緒にショッピングに出掛けたノアが巻き込まれた発砲事件の傷は小さな痕となってノアの右足に存在するだけになるが、それでも嵐の夜に一人きりになったり忙しさから精神的に余裕がなくなると記憶の底から頭を擡げ、その度にテッドが言葉ではなく抱きしめることで落ち着きを取り戻させ、ノアの気持ちが満足するまでただ抱きしめ続けることで信頼を深めていく。
言葉ではなく態度で大切だと思っていることを伝えてくれるテッドをノアもまた深く信頼し、支えてくれるテッドや駆け付けてくれたリオンをこれ以上心配させないように、もう大丈夫だと言えるようになろうと密かに決意をし、そうありたいと願う己になれるようにと、隣にいるテッドと時には笑い、時には泣きながらも、互いへの信頼だけは何がなんでも失わずに日々を生きるのだった。
そんな二人を、海を渡る風と夏に比べれば弱いがそれでも温もりを齎してくれる太陽が見下ろしているのだった。