ドイツでは夏に向けて太陽が地上で輝く時間が延びてきているが、ここニュージーランドは南半球のために季節が逆で、これから真冬に向かう事を目覚まし代わりのくしゃみで思い出したリオンは、基本的にノアの仕事部屋だがゲストが来ればゲストルームにもなる部屋のマットレスに座り込んで己のくしゃみで目を覚ましたことに気付いてぐるりを見回す。
お互いの存在を知ってまだ数年という弟ノアとの関係だが、彼が心を揺さ振られたり精魂を込めて撮影をした写真の中でもお気に入りのものが壁に並び、今までの軌跡が分かる様なブックレットがスチール製の本棚に無造作に並べられているそれらを見ながら、ノアがフォトグラファーとして歩んできた道をそれとなく読み取り、あいつも頑張ってきたんだなと感嘆の息を吐いたとき、スマホからピアノ曲が流れ出し、ハロと陽気な声で通話に出る。
『おはよう、リーオ』
「うん、おはよう、オーヴェ。仕事はもう終わったか?」
こちらは朝だがそちらはこれから夜に向かうだろうと伸びをしつつ問いかけたリオンは、ドアがノックされたことに気付いてどうぞとそれに答え、ウーヴェには今日行きたいところがあるからそこに連れて行ってもらうと告げ、そっと入ってきたノアに目を細める。
『何処に行くんだ?』
「ん? まだナイショ」
その言葉にスマホの向こうのウーヴェと目の前のノアが小首を傾げ、何か分からないが楽しんでこいとウーヴェが返したことに気付いてスマホにキスをし、また後でと通話を終える。
「良いのか?」
「ああ、問題ない」
静かに入ってきたノアがリオンの前に座り込み、どのように話そうかと思案する様に視線を左右に泳がせたことに気付き、どうしたと胡座をかいて頬杖を突く。
「うん……昨日、何の役にも立ってないって言ったけどさ、来てくれただけでも本当に嬉しかった」
役に立つ云々ではなく、こうして直接会えたことが本当に嬉しいし気持ちが楽になったと、昨日の夜とは全く違う、リオンが知覚しているノアという青年を端的に表す穏やかな笑みを浮かべて頭を掻く様子にリオンの青い目が軽く見開かれるが、その言葉に対して言葉で思いを伝えるのではなく、前髪の下に見える額を指先で軽く押すだけだった。
「朝飯の用意が出来たから食わないか?」
「お。良いな。いつもメシの用意はテッドがしているのか?」
その仕草に面映ゆそうに顔をくしゃくしゃにしたノアが立ち上がり、テッドが食事の用意をしてくれた、今朝はまだ暖かいから庭で食おうと誘い、同じように立ち上がったリオンがあの厳ついテディベアは何を作ってくれたんだと問いかけながら兄弟揃ってリビングへと向かうと、庭のベンチテーブルに料理を運んでいたテッドが庭から戻ってくる。
「おはよう、テディベア」
「……おはよう」
リオンの親しみを込めた挨拶にどう返そうか一瞬悩んだテッドだったが、ノアが無言で肩を竦めたことに苦笑し、よく眠れたかと問いかけながらリオンではなくノアの頬にキスをする。
「ああ。ノアの仕事の成果を見る事が出来たな」
一枚特に気に入った写真があった、家に飾りたいからその写真が欲しいとリオンが二人に告げると、後で教えてくれとノアがさっきとはまた違う笑みを浮かべ、さあ食べようと二人に笑いかける。
「ダンケ、ノア、テッド」
ベンチテーブルにセッティングされている朝食にしてはボリュームがある料理に口笛を吹いたリオンだったが、向かいのベンチに二人が並んで腰を下ろしたことに気付き、お前達も同じかと笑みを深める。
「ん?」
「いや、俺もオーヴェの隣でメシを食ってるなーって思っただけだ」
向かい合わせで食うのも良し、こうして隣に並んで食うのも良しだと笑う兄に弟とその恋人が顔を見合わせた後、店で食べるときならばともかく、自宅ではこうして食べたいとノアが素直に呟き、テッドも同じ気持ちだと教える顔で頷く。
「このスクランブルエッグ、もしかしてアリーセのレシピか?」
「そう。ウーヴェに教えて貰ったレシピ」
「……そっか」
こうして受け継がれていく料理やそこに込められている思いに気付いたリオンが目を細めるが、時々素朴な味のドーナツをノアが作ってくれる事があるとテッドがスクランブルエッグをライ麦のブレッドに載せながら呟くとリオンの細められた目が見開かれるが、さっきと同じように言葉では何も言わずに手を伸ばしてノアの柔らかな髪をくしゃりと撫でる。
「今度マザーにシュトレンの作り方を聞けよ、ノア」
「シュトレン? 作れるかなぁ」
「お前ならいけるって」
そう言ってウーヴェにもいつか己の母直伝のシュトレンを作らせようと目論んでいるリオンがにやりと笑い、その笑みに二人が顔を見合わせた後、一度食べてみたいなとテッドがノアに珍しく強請ったため、聞いてみると答えることしか出来なかったノアだったが、確かにそうして受け継いでいくものがあっても良いと内心で呟くと、いつもとは比べられないぐらい賑やかな食卓を兄と恋人と一緒に囲むのだった。
リオンが二人に案内して欲しいと言ったのは、ノアが事件に巻き込まれた現場だった。
それを告げた時に間髪入れずに反対したのはテッドで、ノアはどう返事をすれば良いのか悩んでいる様子だったが、そんなノアの肩を抱き寄せながら、やっと傷が癒えてきたばかりだ、その現場にノアを連れて行くことは反対だとリオンと正対する。
「いずれ行かなければならないかも知れないが、それは今じゃないはずだ」
この街で暮らしていく限り町のランドマークでもあるあの施設には否が応でも行かなければならないだろうしあの建物を目にする機会があるだろうが何も今すぐ行かなくても良いはずだと、何かを考えるように目を伏せるリオンに尚も言い募ったテッドの横顔を見つめていたノアだったが、もう大丈夫と告げようとしたのをリオンが目を上げて制止するとテッドの目を真っ直ぐに見つめながら大きく頷く。
「……サンクス、テッド」
でも二人一緒に来て欲しいと睨むように見つめてくるテッドに頼むと小さく頭を下げると、その行為にノアが驚いてテッドの顔を見つめるが、逡巡するような気配が伝わってきた後、テッドがお前はどうだとノアに問いかける。
「事件の現場に行きたいか?」
その問いにノアの口が咄嗟に閉ざされてしまうが、こちらもまた考え込むように青い目を左右に泳がせた後、テッドの腰に腕を回してしっかりと抱きしめつつ重い決断をした事を教えるような顔で頷く。
「……お前と一緒なら、行けると思う」
一人で行くことはまだまだ出来ないと思うがと、テッドの視線に答えるように顔を上げて頷くノアをリオンが無言で見つめ、そうと決まれば出掛けようと二人に背中を向けて出掛ける準備をしてくると言い残してリビングを出て行く。
そんなリオンの背中を見送った二人の顔には困惑と不安とが浮かんでいて、ドイツにいた頃もあんな感じだったのかとテッドが少しの嫌悪感を滲ませた声で呟くと、それに気付いたノアがテッドの顔を見上げながら頭を左右に振る。
「そんな事は無い! ただ……」
ドイツにいた頃は傍にいつもウーヴェがいたからリオンの言動を先読みしていたこと、リオンの言動から考えを読み取るのはウーヴェでなければ難しい事を力説すると、テッドが目を細めてノアの頭に手を載せながらお前を責めている訳でもお前の兄を責めている訳でもないと己の言葉選びが悪かったと苦笑する。
「……本当に、リオンは何を考えているのか分からない……」
でも、きっとあれでも人に対する優しさを持っているはずだから、事件現場に行きたいという思いもきっと何か考えがあるんだろうと兄を無意識にフォローした弟は、恋人がやれやれと言いたげに溜息を吐いた後、お前の車を借りるぞとノアに告げて出掛ける準備をしようと気分を切り替えたような顔で頷き、ノアも何故か慌てて準備をするためにリビングを飛び出すのだった。
約3週間ぶりに訪れた駅舎は既に事件の面影も残っていない、事件前と何も変わらずに訪れた観光客らのざわめきが吹き抜けの二階にまで届く賑やかさに満ちていた。
テッドが運転するノアの車でやって来た三人だったが、駅舎に足を踏み入れる瞬間、隣にいるテッドの手を無意識にぎゅっと握りしめたノアが安心させてくれるように手を握り返されるだけではなく、頬へのキスに安堵の息を零す様子を無言で見守っていたリオンは、ノアが強張った表情で一つのベンチを見つめていることに気付き、その前の床に小さな穴が開いていることにも気付くと、そこが事件現場である事に気付く。
「……ここか」
「……ああ」
観光客が不意に少なくなったタイミングで事件当時ノアが絶望に囚われかけながらも、決して自分はひとりではない、必ずテッドが迎えに来てくれるはずと信じて犯人に従って腰を下ろしていたベンチにリオンが座り、そのベンチを一つ撫でたあと、ノアを手招きして隣に座れと手で示すと、テッドにはノアの前に立っていてくれと申し訳なさそうな顔で告げる。
「リオン?」
「良いから座れ、ノア」
リオンの言葉に逆らえずにおずおずと隣に腰を下ろしたノアだったが、隣に座るのがリオンではなく犯人であるかのような錯覚を覚えて身体を強張らせてしまう。
「もう事件は終わった」
「……!」
「前を見てみろ、ノア」
お前が今座っている場所は事件現場だったが、今顔を上げれば何が見えると、ここに来たいと言った口調からは信じられない程の優しさを秘めた声と双眸に促されて顔を上げたノアは、不安そうに、だけどお前を信じていると伝える代わりにこちらもその双眸にだけ感情を浮かべたようなテッドが見つめている事に気付き、知らず知らずのうちに広げた足の間で手を組んでぎゅっと握りしめる。
「……テディがいる……」
隣にはお前がいると、テッドの顔を見上げながらもその向こうの二階部分のステンドグラスを眩しそうな顔で見上げたノアだったが、隣にリオンがいる現実を今更ながらに実感したのか、ぎこちない動きで顔を横に向け、ドイツにいた頃、リオンが育った児童福祉施設の出身の子どもが己の生きていく道を決めて歩み出したことを知った時に言葉ではなく今と同じ顔で見守っていたことを思い出して目を見開いてしまう。
リオンがノアを半ば強引にここに連れてきたのは、自宅でテッドが言ったようにこの街で暮らしていく限りは避けて通ることの出来ない場所だからで、それならば己がいる間に事件現場になってしまった日常生活の風景から感じ取る恐怖や不安を和らげたかったからだと、ノアがテッドに告げたようにウーヴェがここにいればリオンの思惑を全て理解した上で二人に分かりやすく伝えただろうが、残念ながらウーヴェは12時間時差があるだけではなく季節も真逆のドイツにいるため、リオンは己の思いが伝わってくれますようにと願いつつここにやって来たのだ。
今、己の顔を見つめながら目を見開くノアの様子から少しは伝わったと気付き、にやりと笑みを浮かべたリオンは、ノアの頬をぺちぺちと小さな音を鳴らして軽く叩き、犯人の顔など思い出す必要は無い、これからここに来て思い出すのは俺とテッドの顔だと笑うと、ノアがその手をぎゅっと握りしめて俯いてしまう。
「悪ぃな、ノア。オーヴェがここにいればもっと上手くお前の気持ちも読み取れるしテッドも安心させられたと思う」
でも悲しいかなここにいるのはそんな誰かさんみたいに人の気持ちを読み取ることが上手くない俺だから、強引にここに連れてきたことについては許してくれと肩を竦めると、ノアに握りしめられた手をそのままに逆の手でテッドを手招きし、震え始めたノアの背中をテッドが片手で抱きしめるように回したことに安堵の息を吐く。
「お前がいてくれるからきっと大丈夫だな」
昨日も言ったが、本当は俺が来なくてもお前達ならきっと今回の事件も乗り越えられるはず、だからこれからもこの街で二人仲良く暮らしてくれと、この時ばかりはウーヴェですらも数えるほどしか見たことがない真摯な顔でテッドに弟を頼むと伝え、辿々しい英語ながらもしっかりと気持ちを受け止めたことを伝えるようにテッドが無言で頷くと、自然とリオンの手から離れたノアの手を取ってベンチから立ち上がらせて抱きしめる。
出会った頃から素直に感情表現できる男だと思っていたノアだったが、今己の恋人の腕の中で静かに嗚咽を零す姿を無言で見つめたリオンは、そんなノアを誰よりも力強く受け止めて抱きしめるテッドに安堵の息を吐き、ベンチの背もたれに腕を回して高い天井を見上げる。
「……綺麗な場所だなぁ。次にここに来るときは絶対にオーヴェと一緒が良いなぁ」
俺よりも博識のダーリンだからここの由来などもきっと勉強して教えてくれるだろう、ああ、今ここにオーヴェがいれば良いのになぁと呟くと、人間、泣きたくても泣けない時の方が多いのだ、泣けるときには思う存分泣けばいいと笑みを浮かべ、その言葉に一も二もなく頷くテッドに微苦笑し、あぁ、なぁんでオーヴェがいないんだよぅと、子供じみた不満の声を吐き出すことで胸の奥からせり上がってきそうな感情を押し留めるのだった。
初冬の日が沈み、町から離れた海沿いに建つテッドとノアが暮らす家にも温かさを連想させる明かりが点り、夜になると途端に冷え込む庭のベンチテーブルにリオンとテッドが向かい合わせに座っていた。
ディナー時に開けたワインを鱈腹飲んだからかそれともリオンがいるという安堵からか、ノアが完全に酔い潰れてしまい、昨日は膝を抱えて丸まっていたリビングのソファで赤い顔をして気持ちよさそうにクッションを抱え込み、テッドが過保護だと旧友に揶揄われながらもノアの身体にブランケットを掛けてもらって眠っていた。
その様子を庭から見つめていたリオンが頬杖を突き、思い出しては感心したような息を吐く。
「どうした?」
「いや……元々出会った時から素直だとは思ってたけどなぁ」
お前と一緒に暮らすようになってから更に素直になった気がすると、兄弟でここまで違うものかと己の性格と比べたようで肩を竦めるリオンの言葉にテッドが小首を傾げるが、確かに素直な男だと同意するように頷き、リオンの前のグラスにリオン直伝のホットワインを注ぐ。
「サンクス。……今回の事件、きっとあいつの中ではもう昇華されてると思うけど、事件の裁判はこれからだろう?」
裁判という否が応でも事件を思い出さなければならない事態になった時、あの様子では不安定になるときがあるだろう、その時は今日のようにハグしてやってくれと弟を案じる一心でリオンがぽつりぽつりと零すと、テッドがその一言一言を受け止めようと大きく頷く。
「……分かった」
「お前なら大丈夫だ」
あれほどの愛情と信頼を向けられているお前ならきっと大丈夫と昨日から見続けてきた二人の様子にリオンが太鼓判を押すと、そうだといいなと自信なさげにテッドが口の端を持ち上げるが、そんなテッドに向けてリオンが手をひらひらと振る。
「なぁにを自信なさそうな顔してんだよ、テッド」
お前は間違いなくノアから愛されているし信頼されていると口の端を持ち上げてホットワインを飲んだリオンは、俺のダーリンが言っていた言葉を思い出せとも続け、顔を上げろという事かとテッドが問い返したことに頷く。
「ああ。俯いてちゃ横にいるノアの顔を見て何を考えているのかを知ることも出来ねぇぜ」
顔を上げるのは何も前を見るためだけではない、同じ場所で隣に立つ人の顔を見ることにもなると己の実感がこもった声でテッドを励ましたリオンだったが、柄でもないと照れたように笑みを浮かべ、ホットワインを飲み干す。
「ノアが気持ちよさそうに寝てるから俺も寝るか」
何しろ明日のフライトは朝一番なのだからと、日頃を思えば寝るには早い時間だが明日の出立の時間を思えば早く寝ておかなければと笑い、ベンチテーブルから立ち上がるリオンを首を巡らせて見送ったテッドだったが、確かに明日早かったなと苦笑し、少し遅れて立ち上がる。
「リオン!」
「んー?」
「……来てくれてありがとう」
「礼なら俺をここに来れるように根回しをしてくれたオーヴェに言ってくれ」
俺はあの超絶有能なダーリンの掌の上で転がされただけだと笑い、掃き出し窓に手を掛けたリオンが肩越しに振り返ると、テーブルの上を片付けているテッドにお休みと英語で伝え、明日は早くて悪いが空港まで送ってくれとも告げて片目を閉じるのだった。
そんなリオンの背中を見送ったテッドは、グラス等をシンクに置いて戸締まりを確かめると、ソファで眠っているノアの前に膝を着き、ベッドに行くぞとその肩を揺さ振る。
「んー……? テディ……?」
「ああ。ベッドに行くぞ、ノア」
苦笑交じりの声にノアが眠そうな目を瞬かせるが、のそのそとソファから起き上がったかと思うと、リオンが見れば呆れるか一生涯揶揄い倒しそうな幸せそうな笑みを浮かべてテッドに向けて両手を伸ばす。
「テディ」
「何だ?」
「……うん……事件の時、迎えに来てくれてありがと……」
絶対に来てくれると思っていた、愛していると、寝言のような睦言にテッドが咄嗟にどのような言葉を返すことも出来ずにいるが、リオンのさっきの言葉が脳裏に響き、ノアが一瞬で目を覚ましてしまいそうな強さでその身体を抱きしめる。
「テディ……?」
「……愛してる、ノア」
ノアからのものに比べれば遙かに珍しいテッドからの告白を酔っ払っているノアは気付いているのか、テッドに抱きしめられる心地良さに楽しげな笑い声を上げるが、程なくして穏やかな寝息がその口から流れ出す。
それに気付いたテッドがノアの顔を見下ろして気持ちよさそうな顔で寝ていることを確かめると、その額にそっとキスをし、さっきとは違って今度は起こさずにその身体を横抱きにすると、リビングの明かりも消してベッドルームへと向かうのだった。
明かりが消えたリビングに低い位置に顔を出していた月明かりが静かに入り込み、眠りの園に向かった三人がいた部屋を静かに照らしているのだった。