地球の南と北、距離にして18,000キロ以上も離れている街で忙しくしているはずの兄であり友人でもあるリオンが弟の家を突然訪問した時より遡る事数日前、今日も今日とて繁盛しているゲートルートのオーナーの幼馴染だけが利用できるパーテーションの奥のテーブルには同じ姓を持つ年代の違う三人の男が顔を寄せ合って何やら話し込んでいた。
二人の男を説得しているように口を開いているのは三人の中で最も若い男、ウーヴェで、そのウーヴェの話を父であるレオポルドが腕組みをしながら聞き、父の隣では兄のギュンター・ノルベルトが真剣に話を聞く時の癖で目を少し伏せ、時々疑問を解消するかのように口を挟んでいた。
『……つまり、事件に巻き込まれたノアの回復が思わしくない、そのフォローをする為にリオンをニュージーランドに行かせたいという事か?』
ウーヴェが話し終わったと判断したレオポルドが腕を組みかえながら問いかけ、喉の渇きを解消するために己の前にあるグラスを手に取ったウーヴェが父の言葉に頷く。
『ああ』
『……社員一人が休暇を取る事に俺もギュンターも口を挟むことは無いぞ、ウーヴェ』
『そうだぞ、フェリクス』
『それは分かってる』
実務はほぼ社長であるギュンター・ノルベルトが担っていて、いわば名誉職のようなものだがそれでもあいつは会長であるレオポルドの秘書だと眼鏡の下で軽く目を伏せたウーヴェは、リオンが気兼ねなく弟の所に出向くことが出来るようにフォローしてやりたいと今夜急遽集まってくれと頼んだ理由をもう一度説明し、向かいに座る父と兄の顔を交互に見つめる。
『あいつはきっと今回の事で休暇が欲しいとは言いださないはずだ』
『そうなのか?』
いつも出勤してくると同時に、今日は信じられないくらいの晴天だ、なのにどうして働かなければならない、今日は傘を差しても濡れるぐらいの雨が降っているのに何故自分は会社にいるんだと、天気の好悪に関係なく仕事に出てくることに不満を訴えているぞとレオポルドが呆れた様に告げると、己の伴侶が天候に対して不満を垂れ流す癖がある事を誰よりも知っているウーヴェが苦笑ひとつで同意するが、それはあくまでも口先だけの事でありあいつの本質は仕事人間だと口の端を軽く持ち上げる。
『……確かになぁ』
『刑事の頃もぶつぶつ文句を言っていたけれど、体調不良で休んだことも仕事をさぼった事もない』
あいつが仕事を自発的に休んだのは姉と俺が巻き込まれた事件の時だけだと当時のリオンの苦悩を思い出して小さく拳を握ると、そっと伸びてきたギュンター・ノルベルトの大きな手が労わる様に重ねられ、その温もりから幼かった頃の事を思い出して無意識に安堵を覚えて小さく息を吐く。
『休暇を取る事を躊躇うだろうからあいつがニュージーランドに行く切っ掛けが欲しい。それに協力して欲しい』
今日の家族だけの食事会の割には少し重い空気が漂う中でウーヴェが漸く己の希望を口に出し、父と兄が互いに顔を見合わせる前で軽く頭を下げる。
『顔を上げるんだ、フェリクス』
お前が頭を下げる様な事ではないと先程の手の温もりを言葉に宿してそっと弟の顔を上げさせたギュンター・ノルベルトだったが、少し待ちなさいと顔を上げるウーヴェに片目を閉じてスマホを取り出して誰よりも頼りになる秘書であり年下の友人でもあるヘクターに電話を掛ける。
『ヘクター? ニュージーランドに行く案件はなかったか?』
『ニュージーランド? また急だな……』
今夜はゲートルートでディナーだと言っていたのに仕事の話かと、電話の向こうで戸惑っているような声がスピーカーを通して聞こえ、兄がさっそく動いてくれている事に気付いたウーヴェが期待を込めた目で見つめてしまうと、その視線に気付いたギュンター・ノルベルトが口の端を持ち上げる。
『……4日後、シドニーでオセアニア地区担当者の会議ならあるが……』
『シドニーか。そこからなら大丈夫だな……会長の名代としてリオンをその会議に出席させたい。その準備をしてくれ』
『は!?』
ギュンター・ノルベルトの言葉に逆らう事などしたことがないヘクターの素っ頓狂な声に思わずウーヴェが申し訳なさそうに実はと切り出そうとするが、それをレオポルドが手で制し手配をしてくれと告げると、ギュンター・ノルベルトとレオポルドが一緒にいる事を知らなかったヘクターの驚きの声が返ってくる。
『会長!?』
『頼む』
『わ、分かりました……ギュンター、もしかしてニュージーランドにリオンを行かせるのは……』
『俺がワガママを言ったんだ、ヘクター』
『ウーヴェ!?』
いつまでも黙っていられない事から微苦笑しつつヘクターに手短に事情を説明すると、ああ、そういうことかとウーヴェの言葉ですべて納得したような声が返ってくるが、ヴィルマには連絡をしておいた、明日出勤した時に彼女から詳細を聞いてくれと、さすがは多忙を極めるバルツァー社長の右腕だと称賛されるスピードで無理難題を解決する様子にウーヴェが呆気に取られてしまう。
『ダンケ、ヘクター。有能な秘書がいて助かる』
『……そんなに褒められると何だか尻がムズムズするな』
『ははは。シドニーとニュージーランドの土産は何が良いか今から考えておけ』
『ああ、そうさせてもらう』
その言葉で通話を終えたギュンター・ノルベルトがウーヴェに向けて笑みを浮かべ、シドニーに行かせることは出来たから後はお前達で話し合いなさいと弟とその伴侶の仲を見守る顔で頷き、真面目な話はこれで終わりかと問いかけて頷き返されると、背後でこちらの様子をそれとなく窺っているベルトランに体ごと振り返る。
『ベルトラン、話は終わったようだから今夜も美味いものを食べさせてくれ』
『今日はポークソテーだけど、ハニーマスタードソースと赤ワインソースのどちらが良い?』
最近では己が厨房に立つことも少なくなってきたベルトランが腰を下ろしていたスツールから立ち上がって料理の準備を始めた事にスタッフらの顔に緊張が走り、いつも何を食べても美味いけれど久しぶりにお前の料理が食べられるのは楽しみだとウーヴェが頬杖をつくと、お前だけじゃなくておじさんもギュンターもいるんだから腕を奮いたいとにやりと笑みを浮かべる。
『ああ、そうだ、料理長がお前の料理をまた食いたいと言っていたぞ、ベルトラン』
厨房に立つ背中にレオポルドが家の料理長が零した言葉を伝えると、おじさんの家の料理長にそう言ってもらえると本当に嬉しいなと顔だけを振り向けて笑い、バルツァーの男連中の胃袋を満足させるための料理に取り掛かる。
『父さん、ノル……ありがとう』
俺のワガママを聞き入れてくれてありがとうと、幼い頃から己が何かを伝えたいときにはどれほど忙しかろうとも必ず時間を作ってこうして真正面から向き合ってくれる父と兄にただただ感謝の思いから頭を下げたウーヴェだったが、お前が日頃から公私混同するような男ならこんな面倒なことはしなかったと兄が自慢気な笑みを浮かべ、その横の父も確かにそうだと苦笑する。
『さっきヘクターにも言ったが、ニュージーランドの土産をスーツケースに詰めて帰って来いと伝えておいてくれ、フェリクス』
『……うん』
ギュンター・ノルベルトの言葉から己への気遣いを感じ取って素直に頷いたウーヴェは、料理が出来上がるまでこれを食って待っててくれとの言葉と一緒に目の前に置かれた山盛りのポメスに目を見張り、お前の好きな玉ねぎのみじん切りも載せたと幼馴染に笑われ、そちらに対してもいつもとは違って素直に礼を言うと、同じものを持ち帰り用に一人前作ってくれと告げてもちろんと頷かれる。
『帰る前に揚げるように準備してる』
『ダンケ、バート』
『ああ』
父と兄だけではなく幼馴染も自分達の事を気遣ってくれている事実に軽く目を伏せた後、取り出したスマホでメッセージを送り、裏メニューのポメスを食べながら料理が出てくるのを父と兄と一緒に楽しみに待っているのだった。
ウーヴェが父と兄の協力を取り付けた翌日、今日も今日とて患者に誠実に向き合い、その疲れをリアが淹れてくれる紅茶とビスケットで癒していた時、診察室のドアが壊れるのでは無いかと思える程の音を立てる。
その音に慣れてしまったとは言え不意打ちでされてしまうとデザイナーズチェアの上でウーヴェが小さく飛び上がり、その向かいではリアが手にしたカップを揺らして紅茶を零してしまう。
『……どうぞ』
『ハロ、オーヴェ! ってか、聞いてくれよー!』
ウーヴェがやれやれと言いたいのを堪えながらどうぞと声を掛けるとドアが勢いよく開き、金色の嵐と称する伴侶が飛び込んでくる。
『……もう少し静かに出来ないのかしら』
いつまで経ってもあなたは子どものようなものなのだからと、大人になった今では貴重な叱ってくれる存在でもあるリアがじろりとリオンを睨むと、ごめん、でも聞いて欲しいと反省しているとは思われない態度で謝罪をしつつウーヴェの背後に回り込んで椅子の背もたれごと抱きしめる。
『どうした?』
『……親父の代理人で明日シドニーに出張することになった』
お前と離れたくないのにとウーヴェの首筋に顔を押しつけながら鼻水を啜るリオンの言葉にたった今まで怒りを覚えていたリアの顔に驚愕が浮かび、また突然の話ねと心配そうにウーヴェを見つめるが、そこに何某かの感情を見いだした彼女がそっと立ち上がってウーヴェにだけ合図を送って診察室を出て行く。
察しの良い彼女に内心感謝の言葉を伝えたウーヴェが手を持ち上げてリオンの柔らかな髪を撫で、そうかと返したあとに隣に座れともう一つのデザイナーズチェアをポンと叩く。
『……オーヴェ?』
『何だ?』
『うん……親父や兄貴だけじゃなくてヘクターとヴィルマにもニュージーランドの土産を買ってこい、キウィのぬいぐるみは却下だぞって言われた』
己の言葉に従って隣に腰を下ろすリオンに向き直るように椅子の上で姿勢を入れ替えたウーヴェは、俺もニュージーランドの土産、特にワインが欲しいなと眼鏡の下で目を細めると対照的にリオンの青い目が見開かれる。
今朝いつものようにウーヴェに送り出されて出社したリオンを出迎えたのは、明日からシドニーに出張だ、飛行機のチケットは手配済みだから空港のカウンターで手続きをすれば良い、出張は一日だけだ、その後は観光するなりニュージーランドに足を伸ばすなり好きにすればいいとにやりと笑うヘクターで、前日までオーストラリアやましてやニュージーランドの話題など会長室で上がることが無かったのに突然何故だと頭を悩ませた事も思い出す。
『……もしかして、オーヴェ?』
『うん?』
お前が何か言ったのかと問いかける代わりに名を呼んでじっと眼鏡の下のターコイズの双眸を見つめると、全てを知りながらも沈黙することを教えるように小首が傾げられる。
ウーヴェのその態度から全てを察したリオンがチェアの肘置きを乗り越えてウーヴェに抱きつき、さっきとはまた違う声でウーヴェを呼ぶ。
『オーヴェぇ……』
この間も言ったがどうしてお前は俺の気持ちを俺以上に理解してくれているんだと、ウーヴェの手が背中に回ったことに気付きながら問いかけたリオンに返ってきたのは、どうしてだろうなぁという密かな自慢が籠もった声で、グッと一度唇を噛みしめて顔を上げる。
『オーヴェ、大好き。愛してる』
その言葉を真正面から幾度となく告げてきたリオンの顔にじわじわと笑みが浮かび、それを見たウーヴェの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
伴侶が落ち込む顔を見続けていたいと思う男がもしかすると世界の何処かにいるかもしれないが、そんな男とは永遠に友人になれないと素直ではない感想を胸の内で零し、どうしてそこまで理解してくれているとの回答を笑みが浮かぶ頬を撫でて伝えると、その手に手が重ねられて周囲を一瞬で明るくするような笑みが顔中に広がる。
『いつもなら反対だけど、今回はオーヴェが希望するワインを買ってくる』
ワインについては詳しくないからあいつらにオススメを聞いてそれを買ってくると伝え、ウーヴェにもう一度しがみつくように抱きつくと、仕事のついでにノアの様子を見てきてくれとそっと囁かれて素直に頷く。
『……俺が向こうに行ってる間、少しだけ不便だけど我慢してくれ、オーヴェ』
『気にするな』
その代わり、お前がいない数日間の不自由さを帰国後に解消してくれと笑うウーヴェにもう一度素直に頷いたリオンがチェアから立ち上がり、ウーヴェの頬にキスをすると席を外してくれたことに気付いたリアを呼びに診察室を出て行く。
その背中に安堵の溜息を吐いてウーヴェが見送り、取り出したスマホで父と兄に感謝の言葉をメッセージで送るのだった。
いつもの時間になっても帰ってこないテッドを案じて飛び出したノアを受け止めたのが、遠く離れた街で暮らすリオンだという現実が俄には受け入れられなかったノアだったが、中に入らないかというテッドの控え目な声に我に返り、ややぎこちない動きでリビングへと向かう。
「一度来た時以来だけど、変わってねぇなぁ」
二人で暮らすには手頃な家だと、己の家と比べればこちらの家の方が落ち着くと苦笑する言葉に、お前の家が広すぎるんだと前を行くノアと後ろのテッドの二人から同時に指摘されて挟まれていたリオンが肩を竦める。
「あれは俺の家じゃなくてオーヴェの家だ」
もっとも、俺が転がり込むまでの間はリビングとベッドルームしか使ったことが無いみたいだったと付き合いだした当初を思い出し、当時感じていた薄ら寒さも思い出して自然と体を震わせたリオンは、リビングに通されてソファに腰を下ろすと、テッドがお茶の用意をするからとノアにもソファに座れと目で合図を送る。
「それにしても、突然で驚いた」
「連絡をしようと思っていたんだけどな」
何かと忙しくて連絡をする暇がなかった為に突然の訪問になって悪かった、アポが無いために会わないと言われればどうしようかと思ったと反省しているのかいないのかが一見するだけでは分からない顔でリオンが苦笑し、ノアが激しく頭を左右に振る。
「全然問題ない!」
それどころか来てくれて本当に良かったと俯くノアにリオンがそっくりな目を細めて口を開くが、そのタイミングを見計らったのかどうなのか、テッドがミルクティーをマグカップに入れて持ってくる。
「サンクス」
「ああ」
テッドの手からマグカップを受け取り一口飲んだリオンだったが、二人の様子が以前目にしたものと違う事に目敏く気付き、どうしたとどちらが返事をしても良いように問いかけると、ノアの顔が俯きテッドが思案気に視線を逸らす。
「何だ、ケンカでもしたのか?」
二人が想像していた以上にテッドとノアの仲がぎくしゃくしている事に内心でウーヴェに助けを求めたリオンだったが、それを顔に出す事など小さな矜持から出来る訳もなく、平静さを装って問いかけてマグカップ内のミルクティーに口をつけ、この間にどちらかが口を開いてくれればと強く願い、それが通じたのかテッドが本当に来てくれて助かるとぽつりと呟きながらノアが座っている前の床に腰を下ろす。
「ケンカじゃない」
「そうなのか?」
「……俺が、一人で考え込んで……情けないだけで……」
テッドの言葉を受けたノアが膝を抱え込んで顔を押しつけながらくぐもった声で己を責め、それにテッドが苛立ちを感じたのか一瞬険しい顔になったことにリオンが気付き、テッドに掌を向けて押さえるような動きをすると、何を深刻に考え込んでるんだと場違いな朗らかな声を上げる。
「お前の兄貴が聞いてやるから全部話してみろ」
その陽気さすら感じる声にノアが顔を上げて呆然と兄の顔を見つめ、その向こうではテッドも驚きの表情でリオンを見つめると、二人の視線を真正面から受け止めたリオンがにやりと笑みを浮かべ、一人で抱え込んでも良いことは無いと告げてその言葉に息を呑む二人を見つめつつマグカップに口を付けるのだった。