いつもと比べれば静かで少し緊張感を帯びた空気の中、今日は雑魚を持って帰ってくることが出来なかった事からラム肉を取り出したテッドがフライパンを片手に、ダイニングテーブルの椅子を引いて片膝を抱えて座るノアを振り返る。
「肉で良いか?」
「……うん、何でも良い」
動いていない事からあまり腹も減っていないと苦笑するノアの横に立ち、空いた手でくすんだ金髪をくしゃくしゃとテッドが撫でると、くすぐったさと心地良さとそれらを遥かに上回る安堵感に溢れた吐息がひとつ、テーブルの上をすべる。
「……テディ」
「何だ?」
立てた膝頭に顎を載せて小さく名を呼ぶノアと視線を合わせるようにしゃがみこんだテッドは、いつまでも情けないよなと自嘲されてしまい、どう返せばいいか考えて口を閉ざしてしまう。
己の自嘲の言葉に返事が無いことにノアが本当にいつまでも情けないと繰り返したことから、今求められているのが沈黙ではない事に気付き、お前が欲しいと思っている言葉を返せるかは分からないがと前置きをした後、俯いているノアの顔を見上げるようにその場に座り込む。
「俺が信じられなくなったと言っていたな?」
「……うん」
「それはあの時拳銃を持っていたからか?」
信じられなくなった理由を良かったら話してくれと問いかけつつノアの頬を手の甲で撫でると、一瞬だけ肩が揺れるが手に手を重ねて己の手と頬でテッドの手を挟み、そうかもしれないと掠れる様な返事を聞かされて無言で頷く。
「じゃあ、あの拳銃が無ければ大丈夫か?」
もしかするとあの拳銃の銃口が己に向けられる、それを想像して恐れているのなら拳銃が無ければ大丈夫かと続けると、重ねられた手に力がこもり、一度開いて閉ざされた後に流れ出した言葉は分からないというものだった。
「……そうか」
「ごめん、テディ」
あの拳銃がお前にとって日常生活の中で当たり前のものだろうが、今まで馴染みが無かった為にこんな事になったと己を責める声にテッドが無言で首を左右に振るが、俯いたままのノアに伝わらないと気付き、さっきも言ったが自分を責めるなと告げて顔を上げさせる。
「ノア、顔を上げろ」
「……」
「お前が俯いたままなのは俺も嫌だ」
だからお前には悪いと思ったが相談させてもらったと続けると誰に相談したという呟きがあり、今までノアの頬に押し当てていた手を離してもらうと今度は掌を少しだけ痩せたように感じる頬に宛がい、お前の最も頼りになる兄だと目を細める。
「リオン……?」
「ああ。……そのリオンから言われた」
お前は独りではない。
その言葉がノアの耳から心の中に到達した時にどのような化学変化が起こるのかなどテッドには予測も出来ない事だったが、ノアが唇を噛み締めて空いている手を握りしめたことに気付き、唇が切れると苦笑しつつ噛み締められたそこにキスをする。
「ひとりで考えこんでも答えなど出ない」
もしも出たとしてもそれはきっと俺たちが本当に望むものではないと、口下手なりに思いが伝われと願いつつテッドがノアの頬を撫でると、微かに震える手が持ち上がって手に重ねられる。
「いつまでも怖いとか……言ってちゃ情けないって……」
お前に呆れられると思って我慢していたけれどと思い切った告白なのかノアの声が感情に震え、伏せられていた顔が漸く挙げられた為、座り込んでいた床から立ち上がったテッドがノアを椅子の背もたれ越しに抱きしめて手触りの良いくすんだ金髪に何度もキスをする。
「……怖かった……!」
いい年をした男が怖いなどといつまでも怯えているのも恥ずかしいと己の腕を両手で縋るように握りながら悲痛な声を上げるノアをただ抱きしめていたテッドだったが、恐怖を覚える事に性別も大人も子供も関係ないと強い口調で断言すると、でもという小さな声が返ってくる。
それがテッドの胸をギュッと握った事に気付き、後ろから抱きしめたまま頬にキスをすると塩味のする感情が流れ落ちている事に気付く。
「素直に感情を出して何が悪い?」
ここは俺とお前が暮らす家で、家というのは何も案じることなく過ごせる空間であるはずだし、外から見ても分からないから感情を露わに出来る場所でもあるはずだと告げ、涙が流れる顔を振り向けられて額に額を重ねると、椅子の上で身を捩ったノアが唇の両端を下げた顔で見上げてくる。
その顔が幼い子供を連想させてしまい、思わず微笑ましさから笑ってしまいそうになるのを渾身の力で堪えて椅子から抱き上げると、それこそ幼い子供を彷彿とさせるように両手両足でしがみつかれてしまう。
「あの時思ったことを今全部話してしまえ」
理不尽な暴力を受けて感じた事を心に押し込めるのではなくすべて吐き出してしまえと、震える背中を撫でながら囁くと、怖かったという言葉が繰り返される。
「ああ、怖かったな」
「痛かった……!」
「そうだな、拳銃で撃たれるなんて初めてのことだから痛かっただろうな」
ノアがひとつひとつ、事件を乗り越えるために必要な感情の吐露という作業をテッドの力を借りて行い、犯人に対する怒りや被害者に対する思い、せっかくの休日の午後を潰されてしまった不満や未成年のミアを巻き込んで恐ろしい思いをさせてしまったことへの怒りなどが吐き出され、その一つ一つにテッドが受け止めた証だと言わんばかりに言葉を返すが、最後に流れ出したそれに対しては咄嗟に返事が出来なかった。
「お前が、ネイビー出身なのは知ってた……だから、あんなことは経験しているって、当たり前だったって分かってるのに……」
それを怖かったからと言って信じられなくなった自分が嫌だと小さく叫ぶノアの背中をそっと撫でたテッドは、もう分かったからそれについては気にするなと苦笑するがノア自身が納得できないのか更に言い募ろうとしたため、一度下りてくれと告げつつノアの顔を真正面から見下ろす。
「知っている事と経験することは違うからな」
「……」
「ノア……俺が過去に何をしてきたのかは今更変えられない。……だから教えてくれ」
ノアの頬を伝う涙を掌で拭きながら青い双眸を見下ろしたテッドが問いかけたのは、一緒に暮らす男が過去に職務とは言え人を殺したことがあり家の中には今でもその当時使っていた拳銃が保管されている、それでもそんな男とこれからも一緒に暮らしていけるのかとの疑問で、極力ノアには負担を掛けないように穏やかに問いかけたつもりだったが、返って来たのは珍しく激高した声だった。
「一緒に暮らしたいに決まってる!」
でも今は事件の光景と普段の顔が入り混じって何が何だか分からないと叫ばれてしまい、告げられた言葉の意味を考えると苦しくなるが、黙って一人で考え込まれていることを思えば一歩も二歩も前進したと素直に息を吐く。
「……そうか」
「……っ!」
「上手く言えないけれど、焦る必要は無い、ノア」
お前の気持ちが落ち着くのに時間を必要とするのならいくらでも時間を掛ければ良いと告げてノアの頬を両手で挟んだテッドは、前を向くのに必要ならば怖かったと叫べば良いし、泣いて気が済むのなら泣けば良いと目を細め、今も涙を溜めている目尻にキスをする。
「それで気が済めば……今までみたいに仕事に行く時に見送ってくれ」
「テディ……!」
板きれ一枚底は地獄、そんな表現をされることもある漁師の仕事に出掛ける前に、海の上で風に吹かれて冷えている身体を温めてくれるミルクティーやランチボックスを持たせるだけでは無く、仕事の無事を祈って首に掛けてくれるノーティカルスターを今までのように掛けてくれと見開かれる目にそっと祈るように囁くと、ノアの両手がテッドの首に回されてしがみつくように抱きしめられる。
「……ごめん」
「謝るな」
その強い口調にノアの身体が竦むが、抱きしめる腕に力を込めて怒っている訳ではないと慌てたように付け足したテッドは、もしそう思うのならごめんよりもありがとうの方が嬉しいと告げ、恐る恐る見上げられて視線を左右に泳がせてしまう。
「テディ?」
「……ごめんと言われたらどうすればいいか分からない。ありがとうと言われれば、その……」
上手く言えないが、そうかと安心出来ると、浅黒い肌を少し赤く染めたテッドが斜め上を見上げながらしどろもどろに本心を伝えると、その様子がおかしかったのかノアの口から小さく吹き出す音が流れ出す。
「ノア?」
「……挙動不審になってる、テディ」
「……それは……どうすればお前が笑ってくれるのか……何でも無い!」
ノアの視線から顔を逸らすようにそっぽを向き、ごにょごにょと口の中で何やら言葉を転がしていたテッドだったが、ノアが己の肩に額をコツンとぶつけながら肩を揺らし始めた事に気付き、笑うなと思わず声を荒げてしまう。
「……うん。……サンクス、テディ」
絶対にお前が望むように仕事に行くときには見送るし帰宅したときにはお帰りと笑顔で出迎えたいから少しだけ時間をくれと告白されてノアの背中をもう一度抱きしめたテッドは、慌てる必要は無いからと繰り返し、その言葉を己の中に閉じ込めたような顔でノアが頷く。
「うん」
「……お前が知りたいと言ってた俺の過去も全て答える」
「うん……サンクス」
さっきはつい興奮して庭で自分だけが何も知らないと叫んでしまったが、今すぐでなくても良いから教えてくれと小さな笑みを浮かべたノアがテッドに凭れるように身を寄せると、勿論との言葉とキスが降ってくる。
そしてそれと同時にどちらのものかは分からないが、ほぼ同時に腹の虫が盛大に鳴く音が響き渡り、どちらからともなくそれぞれの腹を見下ろした後、自然と肩を揺らして笑い出してしまう。
「テディ、ラム肉を焼くって言ってたよな」
「ああ。食うか?」
「うん」
きっとお前と一緒なら前のような気持ちで食事に臨めると思うと頷くノアの髪に何度目かのキスをしたテッドは、床に置いたままのフライパンを拾い上げ、片手はノアの腰に回してキッチンのシンク前に向かうことを伝えると、ノアも準備を見守ると言いたげに大人しくテッドの傍で作業を見守るのだった。
その日、食事を終えて久し振りに二人でリビングのソファの上と下に座って今までノアが撮ってきた写真をスライドショーのようにテレビで流しながらゆったりとした時間を過ごし、気が付けばどちらもリビングのソファをクッションにうたた寝をしてしまうほどの穏やかな時間が流れ、目を覚ました時どちらからともなく照れたように笑みを浮かべあう程だった。
その日、ノアが感情を爆発させるように吐露し、それをしっかりと受け止めながら己の希望も以前よりははっきりと伝えることが出来たテッドだったが、翌日も当然ながら仕事があり、少しの不安を覚えながらもノアが首にノーティカルスターを掛けた後にランチボックスとミルクティーの用意をしてくれた事への感謝をキスとハグで伝えて家を出る。
昨日に比べれば少しだけ軽くなった気持ちで出て行くテッドの背中とピックアップを見送ったノアは、昨日までならばリビングのソファに蹲るか横になることしか出来なかったが、ベッドルームの向かいにある己の作業部屋のドアをそっと開けて中に入り、事件後手にすることが出来なくなっている棚に並べてあるカメラをそっと撫でると、もう少しだけ待っていてくれ、必ずフォトグラファーの仕事に復帰するからとひっそりと誓うように呟くのだった。
ノアが事件に関する感情を吐き出し、それをテッドが受け止めた日から数日後、仕事が終わったはずなのにもうすぐ帰るというメッセージがいつもの時間を過ぎても届かない事から何か問題でも発生したのかと、己の不調を遙かに上回る不安を覚えて思わずラジオを付けたノアは、漁師に関する話題を豊富に流してくれる地元のコミュニティラジオに合わせて情報を得ようとするが、船の沈没などの命に関わるような事故は起きていないのか特に事故情報などは流れてこなかった。
ならばどうしてテッドからの連絡が無いのかと疑問を覚えつつ冷蔵庫を開けた時、玄関の向こうからピックアップのエンジン音が小さく聞こえ、それが大きくなって止まったことに気付き、リビングから廊下に飛び出して玄関のドアを開け放つ。
「テディ!」
玄関から素足のまま飛び出したノアだったが、その勢いのまま飛び出したために前のめりになり、ドアの向こうに立っている人に慌てることなく受け止められて安堵の息を零す。
だがその息が足下に落ちるよりも先に無意識が違和感を覚えたのか、己を受け止めてくれた人に感謝の言葉を伝えようと顔を上げて呆然と目を見張ってしまう。
「アポなしでやって来たからヒヤヒヤしてたけど、そーんなに慌てて出てくるってことは、熱烈大歓迎してくれたって思っても良いのか?」
目の前の現実が俄には信じられない、そんな顔でただ呆然と己を支えてくれる男の顔を見たノアの耳に、この国に移住してからはモニターやスピーカー越しでしか聞くことが出来なかった懐かしい声が面白い姿を見たと言いたげに笑う声が流れ込み、その声にハッと我に返って赤面してしまう。
「よう、兄弟。久し振りだな」
「リオン!?」
ドイツ南部の大都市で今日も大企業の会長秘書として忙しく働いている筈の、己の兄であり誰よりも頼りになる友人のリオンが前のめりになったノアを支えながらにやりと笑みを浮かべ、その後ろではテッドが安堵と微苦笑を顔に浮かべて肩を竦めているのだった。