ノアの足に小さな、それでも消えることのない傷と心にそれ以上に大きな傷を残した事件から2週間後、事件に巻き込まれるという非日常から日常へと生活は戻り、事件の存在など朝晩のニュースでも取り上げられることもなくなっていた。
だが、当事者にとってはただ時間が経過しただけで何も解決などしておらず、それでも流れる時間に乗って否が応でも日常生活へと戻り、地に足が付かない何とも言えない落ち着きのない暮らしを送らなければならなかった。
そんな落ち着きのない時間が流れる中でも生きていくためには働かなければならず、ノアが退院し自宅に戻ってきた翌日からいつものように漁に出たテッドだったが、以前と同じように真夜中に起きて漁に出ていく己の首にお守りがわりのノーティカルスターを掛け、今日も頑張って働いて来いとミルクティーが満たされたポットとサンドイッチの用意をし、玄関先でキスと共に見送ってくれたノアの様子が以前とは比べられないものであることに薄々と気づいていた。
ノアがこの国に移住して数年が経過するが、同棲している己と生活リズムが違い過ぎることからすれ違い、危うく破局という場面を幾度も乗り越えてきた結果、フォトグラファーとして大自然を相手にすることは変わらないが、星空や夜景を中心とした仕事へとシフトし、今ではノアの代名詞と呼べる作品も青空の下で自慢気に咲く大輪の向日葵から南十字星と偶然夜空を横切った流星が写っている自宅庭で撮影したものになっていた。
そんなノアが漁に出るテッドを送り出した後は作業部屋になっている己の部屋に入ることが無いようで、リビングのソファでブランケットを巻き付けてただテッドが戻ってくるのを待っているだけの時間を過ごしているようだった。
その様子に少し前に気付いたテッドが、事件後にノアの心身を気遣う電話やメッセージをくれる旧友たちに相談をしてみたが、銃で撃たれるという心身の衝撃を受けて間もないのだから少し様子を見てやれという言葉しか返ってこなかった。
己が不在の間のノアの様子が心配だったが仕事を休むわけにもいかず、今日もまたいつもの笑み-を浮かべていると本人は思い込んでいる-とキスで送り出してくれたノアを抱きしめた後、帰ってきたら飯を食いに行こうと誘うものの返事は微苦笑交じりの家で食いたいというものだった。
それにどう返せば良いのか分からずにただそうかとだけ返事をしたテッドは、とにかく行ってくるとノアの頬にキスを残して家を出るが、ピックアップのミラーで見えたノアの顔が脳裏に焼き付いていて、漁に出てもその顔が消えることは無いのだった。
思っていることの2割も口に出せば良い傾向だと思っている己の恋人が、実は密かに己の様子で胸を痛めている事に気付いていないノアは、今日もテッドを仕事に送り出した後、一人きりのベッドに戻る気力が起きず、ソファに投げ出してあるブランケットを巻き付けてそこに横臥する。
一人きりの家にいるとどうしても思考が事件へと向いてしまい、あの時の傷から未だに血が流れているような錯覚を覚えてしまうのだ。
いつまでも事件を引きずっていてはいけないと己を叱咤する声もどこからか聞こえてくるが、あの事件の最中は意地だけで犯人に対して膝を屈しなかったのに、事件が解決した今、男がずっとノアに押し付けていた銃口を連想させる黒光りするものを見るだけで足が竦んで何もできなくなってしまったのだ。
そしてその銃口の向こうには、ノアが今まで目にしたことがないような冷酷な目で男の頭に同じものを押し当てるテッドの顔があり、ありえないこととは分かっているが次の瞬間にはその銃口が己の頭に押し当てられている光景がありありと思い浮かび、右足から生まれた痛みと恐怖が体を駆け巡ってしまうようになっていた。
あの時見た光景は己を救出に駆けつけてくれた恋人が犯人の頭に銃口を押し付けるというある意味ショッキングなもので、人生で初めて目撃してしまったそれをどのように己の胸に収めればいいのかが分からず、今もまたソファの上で寝返りを打って体を小さく丸めてしまう。
事件の後搬送された病院でのテッドの様子は今まで通り優しいもので少し前に見た冷酷な顔など想像もできなかったが、一度見てしまった顔を忘れることができず、いつか何かあればあの顔を向けられるのかという今まで覚えることのなかった恐怖を感じている事に気づき、そんな己に苛立ちを覚えて前髪を握りしめる。
どうして己を救出してくれた彼を疑うような事を考えてしまうのか。
愛する人を信じられなくてどうすると奥歯が砕けそうなほど嚙み締めたノアだったが、のそのそと起き上がると膝を抱え込んでブランケットを巻き付ける。
この家で初めて拳銃を見つけてしまったときにも今のような感覚に襲われかけたことがあったが、あの時は形にならない妄想で済んだそれが、今では実態と判別が付かないものとしてノアの脳裏に居座ってしまった事に恐怖とそれ以上に自身への苛立ちを覚え、どうすればいいのか分からない苦しさにブランケットの中に湿り気を帯びた息を吐く。
事件後、ノアの心身を気遣って毎日連絡をくれるアンシェラや、同じく怖い目に遭ったのに自分のことよりもノアを気遣うメッセージをくれるミアの顔が脳裏に浮かび、テッドのあの恐ろしい顔を彼女たちは見たことがあるのだろうかと考えるが、アンシェラは海軍時代の同僚だから見たことがあるどころかあの顔が普通だった日々を一緒に過ごしていたのだと気付くと己一人が取るに足らないことで悩んでいるような錯覚に囚われてしまう。
何年か前に知己を得た神父のアンドルーに何くれとなく相談するようになっていたノアだったが、現場にテッドと一緒に来たことを思い出し、彼も同じ部隊の仲間だったことを思い出すと、日頃の軽剽な言動に不信感を覚えるがいざというときには頼りになるロバートもノアが知らないテッドの顔をいくつも知っている事に思い至り、起き上がったソファに蹲るように身を丸めて横たえる。
「……俺だけ、何も知らない……」
己の恋人が過去にどのような暮らしをしていたのか、どんな事件を乗り越えてきたのかを己以外の友人達は知っているという、ある意味当たり前の事実を受け止めることが出来ない程追い詰められていたノアは、ブランケットを頭から被ることで物理的に生まれた闇の中に閉じこもり、その闇以上に暗い世界に一人取り残されたような孤独を覚えてしまい、顔を上げることが出来ないのだった。
ノアがそうではないのにひとりきりだと思い込み、愛する人を疑ってしまう己に嫌悪感を覚えて笑うことも出来なくなっていた頃、働かなければ生きていけない為に今日も船の上で仕事をしていたテッドだったが、作業がひと段落付いた頃を見計らい、無線で同業者に今日の漁を終えて引き上げることを伝え、同業者も同じく戻ることを無線の向こうから教えられる。
舳先を漁港へと向けてエンジンの出力を上げたテッドだったが、この数日考えてはやはり迷惑だし何よりも己に関する事で人に迷惑を掛けたくは無いとの思いから手を止めてしまっていた事を思い浮かべ、思わず船を止めてしまう。
今日は風もなく海は穏やかで冬の太陽も夏に比べれば遙かに弱いがそれでも燦々と輝いていて、海面に光を反射させていた。
以前のノアならばこの景色もファインダーに収めて自宅用のアルバムに整理するのでは無いかと思える光景だったが、今のノアはカメラを持つ気力もないようだった。
そんなノアを目の当たりにし、アドバイスも励ましも出来ない己に心底苛立ちを覚えていたテッドは、このままではいけないと己の頬を片手で叩き、スマホを取り出して滅多に送ることはないがそれでも時折メッセージを送る相手の連絡先を呼び出してスマホを耳に宛てる。
今まで何度も実行しようとしては手が止まっていたこの通話だが、これが現状に何かしらの変化を齎してくれるものであればと心の底から願いながら声が聞こえてくるのを待っているが、呼び出し音が無情に流れるだけで通話が繋がることは無かった。
スマホを戻してやはり人に頼ろうとするのは安直すぎたかと己の考えが甘すぎたことを自嘲した時スマホが着信を告げ、気怠さを感じつつ通話に応じると遠くから掛かってきていることを教えるような微かなノイズの向こうから久し振り、どうしたという聞く者の心にするりと入り込む不思議な穏やかさを持った声が聞こえてくる。
その声に無意識に安堵を覚えたテッドの口から長い息が零れ落ち、上手く説明できないがと前置きをした後、事件に巻き込まれた事とその後の二週間の様子をなるべく簡潔に伝えると、遠く離れ季節も時間も違う国に暮らしながらも自分達のことをいつも気遣ってくれている事を知っている相手の言葉を待つ。
『……そうだったのか。教えてくれてありがとう、テッド』
その声に籠もるのがテッドを責めるような色であれば反感を覚えるだろうが、聞こえてくる英語はただこちらを心底気遣っている事を教えてくれるような優しさで、無意識に拳を握って感情を堪えてしまう。
「いや……俺こそあんた達を頼ってしまって情けないと思う」
この二週間様子を見守ってきたが俺にはどうすることも出来ないと自嘲交じりに肩を揺らすと、恋人がそんな状態になってしまえば誰しも平常心ではいられなくなる、誰かを頼ることは何も悪いことでは無いと穏やかな声に諭されて心の奥底に小さな消えかけたろうそくの明かりを見いだしたテッドは、知恵を貸してくれと縋るような声で懇願してしまう。
今、たった一人で事件に向き合って今も傷を負っているようなノアを助ける知恵をどうか貸してくれと繰り返すと、テッドが長く息を再度吐ききるのを待っていたようなタイミングでノイズの奥からさっきとは別の陽気さと力強さを感じさせる声が聞こえてくる。
『安心しろ、テッド。お前も一人じゃない』
その声はテッドがまず電話を掛けた相手で、突然会話に横入りされたことに驚いて口を閉ざしてしまうが、車の運転をしていて電話に出られなかった、だが話は全て聞いていたと教えられて肺の中を空にするような息を吐く。
『お前もノアも一人じゃない』
物理的に距離があるが俺たちがいるしそっちにはお前の友人達がいるんだろうと陽気さよりも力強さを感じさせる声にテッドの顔にも力が戻ってきたようで、ああと短く返すとノアに今は辛いだろうが少しだけ顔を上げてみろと言ってくれとも告げられて顔を上げると繰り返す。
『ああ。……これはいつもオーヴェが俺に言ってくれる言葉だ』
顔を上げろ、前を向け。お前が歩いてきた道を蔑むな。
その言葉を今最も必要とするのはノアよりも実はテッドだったが、それに気付かないでその言葉を繰り返したテッドは、腹の底から力が沸き起こってくるような錯覚を覚え、船の舵に額をぶつけて俯いてしまう。
『ノアには俺たちからもメッセージを送る』
だけど今あいつが最も必要としているのは有象無象が吐き出す美辞麗句ではなくどれほど拙くてもお前自身から発せられる言葉であり、お前の存在そのものの筈だと断言されてそうだろうかと不安げに返すと、お前があいつを信じないでどうすると声で背中を殴られてしまう。
「……!」
『ノアを支えられるのはお前だろう?』
友人や知人が例え100人いたとしてもたった一人のお前という存在には勝てないのだからと、今までそれを幾度も実感してきたであろう男の言葉にテッドが腹を括ったように顔を上げて短く返事をするが、その声には先程までの不安や弱々しさは滲んでいなかった。
「サンクス、リオン、ウーヴェ」
お前達に相談して本当に良かったと舵をグッと握りしめたテッドが礼の言葉を伝えると気にするなと気さくな言葉が返ってくるが、その後そっと囁くように俺の弟を頼むと告げられる。
『あいつを頼む、テッド』
その言葉に込められた信頼を裏切らないようにしようとも決意をし、俺に出来る事は何でもする、もしも無理ならまた知恵を貸してくれと笑うと、すぐに電話をしてこい、可能な限りの早さでそっちにすっ飛んでいくと笑われ、いつか何かで見た子ども向けのアニメで今いる場所と目的地をワープできるドアがあれば良いのにと苦笑する。
『そんなものがあればあいつは毎日こっちに帰ってくるぞ』
己の本心を見抜いている男の言葉にそれは困ると即座に返事をしてしまったテッドは、もうすぐ仕事が終わるから家に帰って様子を見てみる事を伝え、突然電話をして悪かった、ありがとうと若干の照れを感じつつも礼を言う。
『おー、気にするな』
とにかく事件後で気分が落ち込んでいるだろうから言葉が思い浮かばなければただ黙ってハグしてやれとアドバイスを貰い、そうすると返して通話を終えたテッドは、電話を掛ける前まで胸の中にあった靄が晴れ渡っている事に気付き、羞恥を押し殺して電話を掛けて良かったと安堵の息を零し、漁港に戻る為に船のエンジンを再始動させるのだった。
漁港に戻り今日の成果の精算と明日の漁の情報交換を手短に済ませたテッドは、この後メシに行かないかと誘ってくれる同業者に片手を挙げて断り、付き合いが悪くなったぞと笑いながら次の誘いには必ず来いと鷹揚に頷いてくれる仲間に黙って頷くと、漁港に停めておいたピックアップに飛び乗って自宅へと愛車を走らせる。
事件後笑顔が失われている恋人に以前のような屈託のない素直な感情表現をさせるためには、ついさっきアドバイスを貰った事を実行するだけだと腹を括ったテッドだったが、もしかするとノアの笑顔を失わせたのは犯人ではなく己では無いのかという何度打ち消しても頭を擡げてしまう疑問が今もまた腹の奥底からゆらりと立ち上った気がし、ステアリングを握る手に力を込めてしまう。
ノアの前では過去の己を可能な限り感じさせないようにしていたが、リビングのソファの下には手に馴染んでいるライフル銃を隠してあり、事件の時に犯人に突きつけた拳銃はテレビボードの引き出しに今ではケースに入れて保管していたものだった。
それらはノアにとっては未知のものであり恐怖の対象になりかねなかったが、その拳銃を犯人の頭に突きつけた所を見られた今、きっと平和を愛するノアの中では恐怖でありいつか己にもそれを使われるのでは無いかという疑念へと成長してしまったのでは無いかと感じていたのだ。
その疑問を口に出す勇気も無く、ただ笑顔が失われているのを歯痒い思いを抱えながら傍で見守ることしか出来ないでいた己の背中を教えてくれたのは、遠く離れた街に暮らすノアの兄とその伴侶だった。
彼らの力を借りなければならない情けなさを詫びたが気にすることでは無いと優しく諭され、お前も一人では無いと言われたことを思い出すと自然と腹の底に熱が生まれてくる。
ただ一言、一人では無いと言われただけでこれほどまでも力が沸き起こってくるものなのだろうか。それとも、その言葉を告げた男が特別だからだろうか。
すぐに駆けつけられる距離ではないがそれでも自分達を気に掛けてくれている、その存在があるだけで今のテッドには十分で、背中を押された勢いを借りて自宅に帰ってきたテッドは、ドアを開けて極力驚かせないように気を付けつつ名を呼びながらリビングのドアを開ける。
「ノア?」
ここ数日テッドが帰宅したときにはいつも座っているソファにノアの姿は無く、代わりに庭に出る窓が全開になっている事に気付き、まさかと思いながら外に出ると、二人で晴れた日には食事をする事のあるベンチテーブルの下にブランケットを巻き付けたノアが寝転がっていることに気付き、そっとその横に膝を着く。
「どうした?」
「……俺だけ、何も知らない……っ!」
ブランケットの隙間から見えるくすんだ金髪を撫でるように手を差し入れてそっと問いかけると、雑多な感情が滲んだ震える声が自分だけが何も知らなかったと繰り返し、その言葉にテッドの手が止まってしまう。
「ノア……?」
「お前が、どんなことをしてきた、のか……どうして、あんな顔をするようになったのか、も……何も知らなかった……!」
それが腹立たしいし悔しいしどうして自分だけが何も知らなかったと小さく叫ぶノアの言葉の意味を理解したテッドは髪を撫でた手をぎゅっと握りしめ、確かにお前には話をしてこなかったとぽつりと呟くと、その手を撥ね除ける勢いでノアが起き上がり、ブランケットの下から感情に乱れた顔が上げられる。
「みんな、知ってるのに……!」
お前のあの顔を自分以外の人達は皆知っていて驚いたりも恐怖を覚えたりもしていないが、自分だけが知らなかったために今恐怖を覚えてしまっている、そんな自分が許せないと叫ぶノアにどう言葉を掛ければ良いのか分からなかったテッドだったが、誰かに対する怒りと己へのそれが綯い交ぜになった感情を顔中に浮かべ、俺だけ知らなかったと繰り返し叫ぶノアの声を聞いていられず、咄嗟に目の前の身体をブランケットごと抱きしめる。
事件に巻き込まれて犯人に右足を撃たれて負傷し、その負傷した足で犯人の愚痴を聞きながら連れ歩かされた後、やっと救出に来てくれた恋人に感謝の思いしか無い筈なのに、犯人の頭に銃を突きつけていた顔が忘れられないと己の腕の中で叫ぶノアをただ黙って抱きしめていたテッドだったが、ノアが咳き込んでまでもテッドではなくテッドを信じられなくなっている己を怒鳴りつける声に一度目を閉じてそっと目を開けると、後悔と恐怖と自責の念が入り交じったような涙が流れる頬を両手でそっと挟んで視線をぶつけさせる。
「もう自分を責めるな、ノア」
「テディ……!」
「お前が何も知らないのは当たり前だ。俺が話をしていないからな」
でもそれはお前に知られたくないというよりは、過去を話すという行為自体に意味を見いだせなかったからだと苦く笑うテッドをじっと見つめたノアだったが、ブランケットを跳ね飛ばしたかと思うとテッドの首ーそこには今日も己の手で結んだ革紐とその先でキラリと光るノーティカルスターがあったーに抱きつき、その勢いのままテッドを芝生の上に押し倒す。
芝生に押し倒されながらもノアをしっかりと抱きしめたテッドは、見下ろしてくる顔からぽたりぽたりと滴が落ちてくる事に気付き、そっと手を挙げてそれを拭うと、優しいお前を信じられないなんて最低だと己を罵る声も降ってきたため、その言葉を否定するようにゆっくりと首を左右に振る。
「そんな事は無い」
さっきも言ったがもう自分を責めるなと告げてノアの頬を再度両手で挟んで額を重ねるように頭を持ち上げると、コツンと額がぶつかってくる。
「お前が知りたいことは全て教える」
最も隠しておきたいと思っていたアンシェラとの確執も既に話している今、本当に隠しておきたい話などないと穏やかな顔で断言するとそれを信じてくれたようにノアが頷き、全身の力を抜いてテッドの上に腹這いになる。
成人男性のその重みをしっかりと受け止め、話せば長くなるからお前が今一番気になっていることを話そうと伝えると、ノアがテッドの胸に手を付いて頭を擡げてうんと小さく泣き笑いの顔で頷く。
「ただ、その前に……」
腹が減って仕方がない、良かったらお前も一緒にランチにしないかと視線を家の中へと向けるとノアも漸く現状に気付いたのか、慌てて起き上がろうとしたためにテッドがその腰に腕を回して抱き留める。
「テディ?」
「……ただいまのキスがまだだ」
「あ……お帰り、テディ」
事件の影に怯え恋人の過去にも怯えていたために今日も無事に帰宅したテッドを玄関で迎えることもお帰りのキスをすることも出来なかった事をその言葉で思い出し、はにかんだような笑みを浮かべてお帰りと告げたノアは、ああ、ただいまと口の端を持ち上げるテッドのそこにキスをし、本当にお帰りとテッドが思う以上の思いを込めていつも伝えている言葉を今日も伝えられる安堵に目を閉じるのだった。
テッドからの電話を受けて不安を覚えつつも口に出さず自宅に戻ってきたのは、季節も時間も真逆の国で暮らしている弟の身を案じているリオンと、そんなリオンと同じように彼を案じているウーヴェだった。
あの通話の後車内には沈黙が降り注ぎ、安全運転で自宅に帰ってきたのだが、珍しくリオンがディナーを終えて寝るまでの間にビールを飲みたいと告げてキッチンに向かい、その背中に俺の分のビールも頼むと告げたウーヴェは、さっきワインを飲んだだろうと背中で拒否されてしまうものの、その拒否すら無視して己のスマホを取り出しながらリビングのソファの肘置きに腰を下ろす。
リダイヤルから番号を呼び出して電話を掛けた相手は今夜は政府要人のパーティーに嫌々ながら参加しているはずだと思い出し、5回以内に通話に応じるだろうと予測をするがそれは3回という回数で裏切られてしまう。
「こんな時間に悪い」
『お前の電話にはいつでも何処でも出ると言っただろう?』
そのある意味お決まりの言葉に小さく笑みを浮かべたウーヴェは、ビールのボトルを両手にリビングにやって来たリオンに向けてにやりと口の端を持ち上げ、一体どうしたと問いかけそうな伴侶に目を細めて静かにしろと伝えると、通話相手には手短に事情を説明をし、詳しい話をしたいから明日時間を作ってくれと相手の立場を常に考えて行動するウーヴェらしからぬ言葉を伝えて返事を待つ。
『明日は仕事を定時で終えるつもりだからそれ以降ならいつでも大丈夫だ』
「分かった。じゃあ仕事が終わったらゲートルートに来てくれ」
『ああ、良いね、久し振りにあの子の料理を食べさせてもらおうか』
「ああ」
通話相手の本心に笑みを浮かべて短く返事をしたウーヴェは通話を終えたスマホをテーブルに投げ出して隣に腰を下ろして見上げてくる蒼い双眸に目を細め、二人が越えなければならない山は険しいだろう、アドバイスをする人がいればきっと彼らも安心するはずだと片目を閉じる。
「オーヴェ……」
「ビールをくれ、リーオ」
お前の手に握られているもう一本のボトルをくれと眼鏡の下の目尻をうっすらと赤らめたウーヴェは、リオンが両手のボトルをテーブルに置いたのに気付いて目を丸くするが、腕を引っ張られて肘置きからリオンの足の上に引き倒されてしまう。
「こら」
「……ダンケ、オーヴェ」
どうして俺のダーリンは俺が言葉に出来なかった事を見抜いて実行してくれるんだと少しだけ目を潤ませながら見下ろされてその頬を撫でたウーヴェは、お前にはいつも笑顔でいて欲しいからなぁと何度伝えたかも分からない本心を今夜も伝え、そっと寄せられる顔を更に抱き寄せるようにくすんだ金髪に手を差し入れてその手に力を込め、重なる唇に眼鏡の下の目を閉じるのだった。
晴天の庭と自宅リビングの違いはあれど、同じ髪色と瞳の色を持つ兄弟は、それぞれの生涯のパートナーに支えられている事を実感し、一方は泣き笑いでもう一方は伴侶が望む笑みを浮かべてそれぞれのパートナーに心から感謝の言葉を伝えるのだった。
それを、兄は月が、弟は太陽が昨日と何ら変わらない顔で見下ろしているのだった。