右足を撃たれながらも意地の一心で踏ん張って犯人の行動に付き合わされていたノアだったが、恋人が救出に来てくれた事実と失血による貧血と救急車にテッドによって運ばれて乗り込む直前に見えた、涙を浮かべながら己の名を繰り返し呼ぶ少女の顔を見た安堵からか、車内で救急隊員の質問に最初は答えていたが、気がつけば白い天井と夕方特有の光が窓から差し込む部屋に寝かされていることに気づく。
ここはどこだと、映画やドラマなどで良く見かけるシチュエーションにまさか己が身を置くなど想像も出来ずに当たり前と言えば当たり前の疑問を口にすると、すぐ側から耳に馴染んだ低音が病院だと教えてくれる。
その声は、犯人に引きずられるように歩いていた時もベンチに座り込んで悔しい思いを噛み締めていた時も脳裏に響いていたもので、声のする方へと顔を向けると、ベッドサイドにパイプ椅子を置いて心配そうに腰を下ろしながら己を見ている恋人を発見する。
テディ、そう呼んだつもりだったが、ノアの口から出てきたのは掠れていて聞き取りにくい単語にならない音だけだった。
だが、そこから何を言わんとするのかを察したらしいテッドが顔を寄せてノアの額にキスをし、くすんだ金髪をそっと撫で付ける。
「右足の銃弾は無事に摘出できた」
本当に幸運なことに太い血管も神経も傷付けられていなかったから弾丸を摘出した傷が塞がれば歩くことにも支障はなく、好きなところに好きな時に行けるだろうと医者が話していたことを伝えると、掛布団の下からノアがそっと手を出す。
「テディ……!」
「ああ。お前は本当によく頑張った」
駅舎でも言ったが、この事件についてお前はもう何も考えなくていいと再度額にキスをした後にノアを誉める言葉をテッドが口にすると、ノアの口の端が徐々に下がり始める。
ノアが感情を揺さぶられて涙を流す時、素直に流すのではなく一度必ず堪える癖があり、今それが出ているのだと気づいたテッドが椅子から立ち上がったかと思うと、ベッドの端に腰を下ろしてノアに覆い被さる。
「……っ!」
「お前の意識が戻ったら警察が聴取をしたいと言っていた。落ち着いたら彼らを呼んでもいいか?」
己の体の下で低く嗚咽をこぼすノアを抱きしめ、辛いことは終わったが後始末がまだあること、警察の聴取を受けて裁判で男の凶行を証言する必要があることを伝えると、テッドの背中に回った手にぎゅっと力がこもる。
「……ミア、は……?」
「ああ。お前を心配して外にいる」
一緒に病室に入ってこいと言ったが、アンドルーやアンシェラが一緒にいるから外で待っていると言っていた事を教えると、アンシェラとノアが呟く。
「ああ」
テッドと彼女の間には深くて解消することなど難しい悲しみから生まれた溝があったが、ノアがその溝を少しずつ時間をかけて感情を溶き解させた結果、溝が埋まりつつあった。
その彼女が己の思いを堪えてテッドと同じ場所にいてくれることへの感謝とミアを任せられる安心感に頷き、ぐずぐずといつまでも泣いていられないと意を決したように顔を上げると、テッドがノアを救助後初めての笑みを浮かべ、大きな手で頬を流れ落ちる涙を拭いてやる。
「……ん、っ」
「足は痛くないか?」
「さっきよりはマシだけど、ズキズキする」
「何針か縫ったからな」
それも時が経てば治るから我慢だとノアの頬にキスをしたテッドは、顔を拭くものを借りてくると告げてベッドから立ち上がり病室から出ていく。
その背中を見送ったノアが額に腕を乗せて安堵の息を吐き、助かったことを己の腕の重さから実感するが、耳の底にこびりつく声がどうしてと非難してきたことに気づき、それを掻き消すように頭を左右に振る。
オクタゴンのパーキングから駅舎までの間を痛みを堪えて歩きながら聞かされていた、男のまるで全てを呪うような低い声は何があってもノアの中から消え去ってくれないようで、そんなこと知らないと思わずドイツ語で吐き捨てた時、ドアが開いて己の名を呼ばれたことに気づく。
「ノア……?」
その声は掠れて震えているが少女のもので、そちらに顔を向けるとセーターの裾をギュッと握り唇を噛み締めながらテッドに肩を抱かれているミアがいて、ノアも顔を見た途端止まったはずの涙が滲み出したことに気づく。
「ミア、怖い思いをしたな」
「ノア!」
ノアの言葉にミアが顔をくしゃくしゃにしながら駆け寄ったかと思うと掛布団にダイビングするように身を投げ出し、そんな彼女の髪をノアが何度も何度も撫でる。
「ケガをしなかった?」
「うん……うん、ノアが庇ってくれたから平気」
「そうか、良かった」
そして、もしよければベッドの反対側に来てくれないか、右足が痛いんだと泣き笑いの顔になると、己が乗り上げているのがノアの負傷した右足だと気づいたミアが文字通り飛び上がり、ごめんなさいと謝りながらベッドを回り込んでさっきまでテッドがいたパイプ椅子に腰を下ろす。
「ノア、ベッドを起こすぞ」
「うん」
病室のドアの向こうに人影が何人か見え、さっき話を聞かせて欲しいと言っていた警察だろうと気づいたノアがテッドの言葉に頷き、上体をベッドごと起こしてもらうと、安堵の息を溢す。
「神父様は?」
「ああ、外にいる。ボブとアンシェラと今後のことで話をしているようだな」
通常であれば警察や軍に全てを任せ、いくら予備役とはいえ民間人が首を突っ込むことは差し控えるべきだったが、お前の救出を警察になど任せたくなかったために強引に俺とアンドルーで駅舎に飛び込んだと苦笑するテッドにノアが呆気に取られた顔になる。
「どうしてお前と神父様がいるんだって思ったけど、そういうことだったのか」
「ああ」
駅舎に突入する時に窓を壊しているから修理代の請求が来るかもしれないと肩を竦めるテッドに何も言えなかったノアだったが、それもこれもあの男が悪いんだと掛布団を握りしめる。
「あいつ、名前なんて言うんだろう」
「犯人か?」
「うん。ずっと恨み言ばかりだったから聞いていて腹が立った」
どうして真っ当に生きている自分だけが損な目に遭わなければならない、要領良く生きているあいつらばかりがいい思いをするのはどうしてだとばかり繰り返していたと、掛布団を握りしめる手に力をこめて呟き、男にとってはそれが許せないことだったんだろうとテッドが労るように呟くと、ロイヤルブルーの双眸がキッとテッドを睨む。
「だからって……2人も殺すことはないだろう!?」
「ああ、そうだな」
どれほど報われなかろうが蔑まれようが人を殺して良い理由にはならないとテッドがベッドサイドに腰を下ろしてノアの肩を抱き寄せると、素直にテッドの胸に寄りかかってくる。
「人を殺すなんて普通は出来ない。すごく力がいることだ」
それだけの力を発揮できるのならば現状を変える力にして欲しかったと男にも伝えたことを再度口にすると、そっと伸ばされてきた白く細い手がノアの悔しさに握りしめられる手に重ねられる。
「お前のように考えて欲しかったな」
「テディ……!」
「お前の悔しさも分かるつもりだ。だからこそあの男には裁判で裁かれて相応の罰を受けるべきだ」
「……うん」
ミアの重ねられた手とテッドの肩を抱き寄せてくれる温もりに興奮状態のノアの気持ちが落ち着いたのか、小さな声でうんと頷いた後、早く家に帰りたい、いつまで入院しなければならないんだと問いかけながらテッドを見上げ、微苦笑を浮かべる顔を発見する。
「テディ?」
「……本当の事を教えてやろうか、ノア?」
ノアの疑問に答えたのはテッドではなくドアを勢いよく開け放ったロバートで、その後ろには呆れ顔のアンドルーと同じ顔のアンシェラがいて、三人に気づいたノアの顔に複雑な表情が浮かぶ。
「相変わらず素直な男だな」
そんなに俺がいることが迷惑かと朗らかに問いかけるロバートに躊躇することなく素直に頷いたノアは、ガックリと肩を落とす恋人の幼馴染を一瞥した後、その後ろで心配そうに顔を曇らせるアンドルーに一瞬で表情を切り替えて見せる。
「神父様、助けに来てくれてありがとうございます」
「いいえ。あなたの怪我が軽いもので本当に良かった」
これも神の思し召しですねと短く祈るアンドルーの言葉に頷きつつ次にどう言葉をかけようか思案している様子のアンシェラに小さく笑みを浮かべる。
「アンシェラ、来てくれてありがとう」
そこに籠る膨大な感情を今ここにいる人間で読み取れないものはおらず、しっかりとそれを受け取った彼女がゆっくりと首を左右に振り、テッドとは反対側のベッドサイドに回り込んでノアの髪をそっと撫でる。
「足の傷はどう?」
「痛い間は、うん、大丈夫だと思う」
「そうね……この病院には私たちの知り合いのドクがいるんだけど」
これは話してもいいものかと流石に気になった彼女がテッドを見ると、テッドもいつかは分かることだからと肩を竦めて先を促す。
「あなたが気絶しているからって……その間に麻酔なしで弾丸の摘出をしたのよ」
「……は!?」
「まあ、言っても何針か縫うだけで済んだし、本当は入院する必要なんてないのよ」
でもそこにいる大男が今日1日は不安だから入院させてくれと言い張ったのよと、アンシェラが綺麗な形の唇に指先を当てながらチラリとテッドを見つめ、見つめられた方はバツが悪そうな顔でそっぽを向いてしまう。
「テディ?」
「そう言うことだから今日はここでその可愛くないテディベアと一緒にお泊まりしなさい、ノア」
アンシェラの言葉に驚きの視線をまずはテッドに、ついでロバートやアンドルーに向け最後にミアに向けたノアだったが、皆の顔が呆れているのか過保護っぷりを楽しんでいるのかどちらとも取れる顔で頷いたりしたため、何なんだよそれと思わず脱力してしまう。
「ノア、あなたの車は私が責任を持って家に乗って帰りますが、構いませんか?」
そんな脱力しているノアに微苦笑しつつアンドルーが提案し、神父様にお願いしますと伝えると、お前のピックアップもノアのボルボと一緒に病院に運んであるから明日それで2人で一緒に家に帰れとロバートが伸びをしながらテッドに告げ、俺はこれから警察と打ち合わせをしてくると言い残して病室を出て行こうとするが、ドアの前で足を止めて振り返り、ドクがそのぐらいのキズなら好きなことを好きなだけできると言っていたと笑い、意味がわからないと首を傾げるミアとノア以外の三人が子供の前でセクハラ発言をするなと目を釣り上げてしまう。
「……テディ、いつも言ってるけど、どうしてあんな軽薄な男がお前の幼馴染なんだ?」
ロバートが残した言葉の意味を理解したのか首筋まで真っ赤にしたノアがテッドを見据えながらある意味失礼な言葉を投げかけるものの、どうして幼馴染なんだと言われても生まれた頃から一緒だったから仕方がない、諦めろとぶっきらぼうに言い放たれてがっくりと肩を落としてしまう。
「ノア、あいつのことは気にしないほうがいい」
「神父様……」
神父様のようにこんなにも優しく親切な友人もいるのにとノアがアンドルーを尊敬の眼差しで見上げるが、その言葉にアンシェラが思わず喉を詰めたような音を発してしまい、大丈夫かとノアとミアに声をかけられてごめんなさいと謝罪をする。
今のノアの言葉をロバートが聞けばきっと目を剥いて俺は軽薄だがこいつは猟奇的だとアンドルーに指を突きつけるだろうとテッドが内心呟くが、何も知らないのならば知らないままでいいと苦笑し、不思議そうに見つめてくるノアの頬に宥めるようなキスをする。
「とにかく、今日はここで泊まってゆっくり休みなさい、ノア」
警察の聴取にも協力しなければならないでしょうし傷口の消毒もあるでしょうとアンシェラが宥めるようにノアの髪にキスをし、彼女のその言葉に素直に頷いたノアがテッドの胸に再度寄りかかってやるせないような息を吐く。
「ノア、あたしはアンジーに送ってもらうから心配しないでね」
「そっか……頼む、アンシェラ」
「ええ。任せておいて」
いつの間にか己を愛称で呼ぶほど心を許してくれているミアの言葉にアンシェラが頷くが、そういうことだから今晩一晩ここで大人しくノアに添い寝をしていなさいと、今までの優しい口調から一転して厳しい口調でテッドを見たアンシェラは、興奮状態のあんたとノアを家に帰せば最悪ノアがベッドから出て来れなくなってしまうと、先ほどのロバートの言葉を補足するような事を告げて良いわねと念押しをした彼女に、さすがにその言葉の意味を理解したらしいノアの顔が蒼白なものになる。
「……何もしない」
「当たり前よ。怪我人の怪我を増やすようなことをしてどうするのよ」
テッドのボソボソと聞き取りにくい声にアンシェラがビシッと言い返しニヤニヤと笑うアンドルーをジロリと睨んだ後、まだ意味がわかっていないミアにさあ帰りましょうと再び優しい声と表情で彼女の肩をそっと抱いて帰宅を促し、その言葉にアンドルーも咳払いをした後、私も帰りますと2人に告げる。
「テッド、アレはどうする」
「……ピックアップの座席の下に隠しておいてくれ」
「わかった」
バイバイ、ノアと手を振ってアンシェラと一緒に出ていくミアを見送ったアンドルーだったが、同じように帰ると告げたあとにテッドに耳打ちをし、返事をもらうと訝るように見つめてくるノアに笑顔で車はちゃんと乗って帰るから安心してくださいと再度告げて病室を出ていく。
皆が帰った病室は一気に静まり返ってしまい、唐突に覚えた寂しさに身体を震わせたノアだったが、テッドの胸板に顔を寄せると背中をしっかりと抱きしめられる。
その腕の温もりと強さと耳に届く落ち着いたいつもと変わらない鼓動に無意識に安堵の息を吐き、頑張った労いのキスを頬や髪にうけてくすぐったそうに首を竦めてしまう。
「もうすぐ警察が来る」
それが終われば寝ても良いからあと少し頑張れと笑うテッドに無言で頷いたノアは、早く来てくれれば良いのにと呟きながらテッドから離れて伸びをし、この後の警察の聴取に備えて喉が渇いたから水が欲しいとテッドから水を受け取って喉の渇きを潤すのだった。
その後、申し訳なそうなそれでも仕事だからと胸を張るような顔で入って来た二人の警官に質問に、さっきよりは離れながらもそれでも決してテッドと繋いだ手は離さずに受け答えをしたノアだったが、警官から犯人の素性を教えられてやるせない溜息を吐く。
彼がノアに発砲した拳銃で殺害したのは己の恋人と会社の上司で、殺害現場は彼女の家だったと教えられてテッドを顔を見合わせる。
「二人は別々の場所で亡くなっていたのですか?」
殺されたという言葉を使いたくない為に婉曲に問いかけるノアの気持ちを察したテッドがそっと肩を抱き寄せ、くすんだ金髪にキスをして警官を見つめると、無言で肩を竦められるが問われた事には答えないといけないと義務感から口を開く。
「殺害されたハンナ・カミンスキーとオリバー・マクドナルドは、不倫関係にあったようです」
同じ会社に勤める三人でカミンスキーと犯人のスミスは長年交際していたが、最近はそこにマクドナルドが彼女を寝取ったという事らしいと教えられ、ノアがやるせない息を吐きながら天井を見上げる。
「所謂痴情のもつれ、ですね」
警官-名前をスミスとウィリアムズといった-達の何とも言えない顔にそんな事に巻き込まれてしまったのかとノアが呟き、テッドの握りしめた手を更に強く握りしめてしまう。
「どうもそういう事のようですね」
これから聴取を始めるので詳細は報告させてもらうつもりだとウィリアムズが律義に答え、ノアがそれに無表情気味に頷くが、今日は疲れたから休んでも良いかと二人の警官に問いかけ、どうぞと許可を貰って疲れた顔で目を閉じる。
「明日退院できると先生から聞きました」
申し訳ないが裁判が結審するまでの間すぐに連絡がつけられるようにしておいて欲しいとスミスがノアとテッドの顔を交互に見つめながら伝え、テッドが頷いた後に連絡先を伝えて二人の警官が病室を出ていくのを見送る。
ドアが静かにしまったと同時にノアがぎりぎりと歯軋りをしたため、テッドがその悔しさを受け止めるように肩を抱き寄せ胸に押し付けられる頭を何度も撫でる。
「……!」
真っ当に生きている人でも報われない事もあると言ったしそう思っているが、その相手があの男にとっての許容範囲を超える事態を引き起こしたのだと知った今、己のその思いがただの思い上がりの綺麗ごとのようになってしまった、それが悔しいと歯を噛み締めるノアをテッドはただ黙って抱きしめ、震える背中を髪を撫で続けるのだった。
病室の窓から入っていた夕方の柔らかな光がいつの間にか消え去り、男の心の中のような暗い世界が窓の外に広がっているのだった。