どうしてなのだ、どうして真面目に真っ当に働いている己が報われることなく、人の成果を掠め取っていくだけの要領の良い奴らが認められるのだと、何度目になるかわからない憤懣の声を痛みと貧血の為に覚えた吐き気をこらえながら聞いていたのは、右足の痛みをただただ意地で堪えていたノアだった。
見ず知らずの男に突然発砲されるだけではなく、ズキズキと痛みを訴える足を引きずりながら無理矢理連れてこられたのが、この町で最も写真撮影をされている駅舎だというのはどんな意味があるのだろうと、脂汗が滲む顔で考えるが、ノアをここまで連れてきたくせに己の内面のみ向き合いそこで生まれだす不満を口にする男の考えなどノアに理解できるはずもなかった。
ダニーデンの駅舎は古き良きゴールドラッシュ時代に敷設された鉄道とその駅舎で、ネオ・ルネサンス建築の駅舎は訪れる観光客や地元の人たちのランドマークになっていた。
ノアもこの国に移住した当初はこの駅舎の写真を何枚も撮影し、お気に入りのフォトブックにも複数のショットが保存されていた。
だがその時に見たものと見る印象が違う事に気付いて目を瞬かせたノアだったが、以前ここに来たときは体調もメンタルも万全で、今のように痛みの下で無理矢理来たわけではないと思い出し、どうしてと思わず呟いてしまう。
どうしてこんな事件に巻き込まれてしまったのか。
こんな事件に巻き込まれなければならないほど、己は悪行を繰り返していたのだろうか。
日頃の闊達なノアからすれば考えられないことが脳裏を占め、その言葉に引きずられるように次から次へと暗い想像ばかりが脳味噌から吐き出される。
自分だけが何も知らずにのうのうと生きていた、それが悪いことなんじゃないかと嘲笑されてしまい、その言葉に打ちひしがれたように膝が崩れそうになるが、駅舎の正面のドアから入ると中にベンチがあり、その一つに男が力なく腰を下ろして足元にボストンバッグを無造作に投げ捨てる。
「……座れよ」
足が痛いだろうと暗い目で見上げてくる男の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けたノアだったが、確かに立っているのはほぼ限界に近く、一人分のスペースを空けて同じベンチの端に腰を下ろすと、男が広げた足の上に膝をついて手を組む姿が目に飛び込んでくるが、その手は小刻みに震えていて何に震えているんだと問いかけてしまう。
「……本当に、人を……あいつらを、殺してしまった……」
自分は何をしてしまったのか、そしてこの先どうなるのか不安で仕方がないと男がまるで憑き物が落ちたような声で呟くさまが滑稽で、今更何を言っていると思わず冷笑してしまう。
「大人しく警察に自首すればどうだ?」
今ならまだもしかすると少しでも罪が軽くなるかもしれないぞと、気休めというよりは必ず迎えに来てくれることを信じている恋人が駆け付けるまでの時間稼ぎをしたい一心で男にそっと提案をすると、今更自首をしてもどうにもならないと諦め交じりの声が聞こえ、お前は刑事か裁判官かと苦笑して男の視線を横顔で受け止める。
「どうにもならないかどうかを決めるのはお前じゃない。お前を逮捕した刑事だろうし裁判にかけた検事や裁判官だ」
今自分たちがいる駅舎の道路を挟んだ向かい側に裁判所があるがそこで働く人たちが決めることだと呟きつつ荒い息を吐くとうるさいと男が声を荒げるが、さっきとは違って人一人分の距離があるためにか少しだけ余裕が生まれていたノアは、二人殺したと言っていたがどうして人を殺したと問いかけ、男が最初は眼光だけですくみ上りそうな強い目で睨んでくるが、激痛と貧血の為に全く怖くないと内心笑い、どうしてだと再度問いかける。
「俺を、馬鹿にしたからだ」
「馬鹿にしたぐらいで殺したのか?」
「お前に何がわかる! 彼女と楽しそうに買い物をしていたお前に何がわかるんだ!」
男の怒声にただただ心底驚いたノアは彼女という単語にミアの泣きそうな顔を思い出し、怪我をさせないように車に閉じ込めたが今頃テッドに連絡を取っているだろうかと思案するが、お前に何がわかると怒鳴られて分かるわけがないと小さく怒鳴り返してしまう。
「……は?」
「馬鹿にされたからって人を殺していたら何人殺さなければならないんだ」
人が人を馬鹿にする、真面目に要領悪く働く人たちを出し抜いて要領よく世の中を渡っていく人たちは何をどうやったとしても一定数存在するが、そんな人たちに馬鹿にされた、何か大切なものを横取りされたからといってそれをした人を殺してどうなるんだと男に視線だけを向けると、暗かった男の顔に羞恥か悔しさかはわからないが赤い色が差す。
「う、うるさい……!」
「殺すんじゃなくて、状況を変える方に力を使えば良かったのに」
「!」
拳銃で人を撃つのも力が要るはずだ、その力を出せるのなら環境を変えることに力を注げば良かったんだと痛みを遥かに上回る怒りに声を震わせたノアは、うるさいと叫ぶ男を憐憫の目で見つめて小さく首を振る。
男が赤らめた顔のまま立ち上がり、怒りにまかせてノアのシャツの胸元を掴んだ時、二人の頭上から男性の切羽詰まった声がフロア中に響き渡る。
「警察からの連絡です! 今すぐここから避難してください!」
その声に観光客らが顔を見合わせて正面のドアから逃げ出すと、その背中を見た他の観光客らも意味が分からないままに駅舎の中から出て行く。
階段をバタバタと足音を響かせて降りてくるスタッフや展示物を見に来ていた人たちがベンチの上で微動だにしない二人の横を駆け抜けていくが、何人かが早く逃げろと二人に向けて叫ぶ。
ここに来るまでの間、すれ違う人たちもノアの肩に腕を回す男のことを友人かなにかかと思っている節があり、ぽつりぽつりと血を流していても足を引きずっていても、それこそ血が滲みだしたジーンズを見ても怪訝な顔をするだけで特に声をかけてくることもなかったが、警察から一報が入ったという事実はよほど効き目があるようで、お前たちも早く逃げろと二人に合図を送ってくれるが、そんな人たちに暗い顔を向けた男は、警察にもう通報が入ったのかと呟いた後、ずっと腰に差したままだった拳銃を取りだして慣れない手つきでスライドさせるとノアの足元から50センチほど離れたタイルの床に向けて発砲する。
「……!」
フロア中に響くバックファイアのような音に逃げようとしていた男女が動きを止めてしまうがその音がベンチの前で立ち尽くす男の手の中から聞こえてきたことを理解した瞬間、先ほどのように人を庇う余裕などないと言いたげな顔で悲鳴を上げて開け放たれているドアから転げるように飛び出していく。
悲鳴を上げて逃げ惑う人たちを冷めた目で見ていた男はノアが逃げる気配を見せないことに気づき逃げないのかとぽつりと呟くと、この足では無理だと感情の籠らない声で返されるが、きっとあいつがここに来てくれる、逃げてしまえばあいつの邪魔になると誰にともなく聞かせるように呟かれる声を聞き、あいつとは誰だと思わず問いかけてしまう。
「……俺が庇ったのは俺の家族だ」
そしてお前が今問いかけているあいつとは俺の恋人だと小さく叫ぶと、シャツの内側でノアに勇気を与えてくれているペンダントトップをシャツの上から握りしめる。
「家族……!?」
「ああ。彼女じゃない」
彼女に傷一つつけなかったことだけはお前に感謝したいとこの時になって眼光鋭く男を睨みつけたノアは、遠くで何かが壊れるような小さな音を聞いた気がしてそちらへと顔を向けそうになるが、手の中のペンダントトップが不意に発熱したような熱を感じて己の胸元を見下ろす。
「お前の恋人……?」
男が嫉妬と後悔とが綯い交ぜになった顔でノアを見つめているが、その視線にも負けないと腹に力を込めたノアがペンダントトップから男へと視線を向け、ロイヤルブルーの双眸に力を込めて睨み返す。
無言の睨み合いが続く中で男が銃を構えたままボストンバッグを手繰り寄せようとし、それに気づいたノアが男の足に飛びついてその動きを制止させようとするが、邪魔をするなと叫んだ男が手にした銃床で頭を殴られてしまって小さく悲鳴を上げ、右足の痛みと失血からくる貧血に新たな痛みが芽生えた体から力が抜けてしまう。
ベンチに伏せるように倒れたノアの耳にここに来るまでの間ずっと聞かされていた怨嗟の呟きがまた流れ込み、もうどうでもいいと呟いた男が拳銃を再びスライドさせる。
ああ、このままここでこんな、誰しもが生きていく中で抱くだろう劣等感を拗らせた男に殺されてしまうのか、二度とあいつに、己や家族や友人といった近しい人たちには限りなく優しい男に会えなくなってしまうのか、最後の言葉を伝えることも出来ないのかと思うだけで涙が滲んでしまう。
「テディ……!」
きっと今頃ミアから連絡を受けて心配して駆けつけてくれているだろう、なのに再会することなく殺されてしまうのかとの思いがノアに愛する男の名を叫ばせ、その声に男が軽く驚いたように手を止める。
もしもここで死んでしまうのが運命なら、せめてもう一度愛する男の顔を見たかった。あの腕の中に飛び込みたかった。
それも不可能かもしれないと奥歯が砕けそうなほど歯を噛み締めたその時。
「……動くな。手を挙げろ」
低く良く通る声が顔を伏せたノアの耳に流れ込み恐る恐る顔を上げると、そこには柔らかな午後の光を背負い、鈍く光る拳銃を男の後頭部にピタリと押し当てるテッドがいて、初めて見るような恋人の横顔を呆然と見つめるのだった。
ノアの足跡をぽつりぽつりと落ちている血で辿っていたテッドとアンドルーだったが、二人の読み通りに血痕は駅舎の前の通りにまで続き、その先にも続いている事を簡単に想像させていた。
通りを渡った時、土曜日の午後にフォトスポットにもなっている駅舎に出入りする人の多さを思えばさもありなんという様子が見て取れ、正面のアーチから左右に伸びる回廊ではなく、駅舎の南側に聳える時計塔の陰へと回り込み、まるで軍人時代を彷彿とさせる顔で二人が声を潜めるが、その二人の様子を小さな駐車場の向こうに掛かっている赤い跨線橋を下る人が不思議そうに見ていくが、そんな視線など意に介さないでこの後の作戦を練り始める。
「人が多い」
「そうだな……本当にノアはここにいるのか?」
小さな血痕を辿ってここまでやって来たが本当にいるのかという、不安よりも確認のための言葉にテッドが眉根を寄せるが、中の様子を見てくるから少し待っていろとアンドルーがその腕を安心させるように叩くと、返事を聞くよりも先に回廊を通ってアーチの下にある中央のドアを潜る。
中は年代物の建物に相応しいタイル張りの床と半螺旋階段が二階まで続いていて、その先は回廊になって二階部分を取り囲んでいた。
そのベンチ前に男が背中を向けて立ち、その陰に見慣れたブロンドを発見し、ジーンズの右太腿の色合いが他に比べて暗くなっている事も確かめると、二人がこちらに気付く前に観光客に紛れて外に出て小走りに時計塔の下に向かう。
「確認した。……右太腿を撃たれているな」
「止血は?」
「していないな。もしかすると弾が中に残っているのかも知れない」
小口径の銃で撃たれたのだとすればその可能性は高いだろうが、ミアの話では後ろから近づいてきていきなり撃たれたはずだとアンドルーがカソックのボタンをひとつずつ外しながら舌打ちをし、テッドも素早く何かを考えるように目を伏せるが、スマホの着信音が聞こえて半ば上の空で取り出す。
『お前のハニーはいたか!』
その軽薄さを装った声から電話の主がロバートだと気付き、駅舎の一階のベンチに座っているのを発見したがノアを連れて行った男も一緒にいる、足元にボストンバッグがあったとアンドルーが目にした光景を正確に伝えるが、突入したいが観光客が多すぎる、警察に言って全員避難させてくれとロバートに頼むと、横にいたのであろうアンシェラに警察に観光客の避難の指示を頼むと伝える声が聞こえてくる。
『どこから突入する?』
「二階。南側の跨線橋から屋根伝いに駅舎に入る」
二階のドアを一枚破る事になるから警察に報告を頼むこと、極力発砲はしないが万が一のために救急車を二台手配し、救急隊員には被害者は右太腿を撃たれている事も伝えておけと命じて通話を終える。
「……ドリュー、ノアの様子は見えたか?」
「いや、男の陰になっていて見えなかった」
ただ、位置の確定は出来たからいつでも行けるとカソックの下半身部分のボタンをすべて外してロングコートの裾よろしく風にはためかせたアンドルーの太腿に巻かれたベルトからは大型のサバイバルナイフが見え、二人の様子を訝りながら跨線橋へと階段を上る通りすがりの男性がギョッとした顔でアンドルーを見ていくが、聖職者になる前からの知り合いであるアンドルーのその姿にテッドは特に驚くことも無く、己もジーンズの腰に差したままだった拳銃を取り出して掌に載せる。
無言で掌の上の拳銃を見下ろす旧友の横顔にアンドルーが一度口を開いて閉ざすが、再度開いた時には何とも言えない思いが滲んだ溜息を溢して肩を竦める。
「……また使う日が来るとはな」
「……あいつを助けるためだ」
今まで自宅でお守り代わりに持っていたが本来の使用目的をするだけだと呟き、弾倉の確認をすると再度ジーンスの腰に差して駐車場の横から線路を越えるために設置されている赤い跨線橋へと顔を向けると気合いを入れるように頬を両手で叩く。
「行くぞ、ドリュー」
「ああ」
テッドの言葉にアンドルーも頷き、ちょっとそこまで買い物にと言い出しそうなさりげない様子で跨線橋の階段を上り駅舎の裏側辺りまでやってくると、ひらりと身を翻して跨線橋の鉄柵を乗り越えてプラットフォームの屋根の上を体重を感じさせない身軽さで駆け抜けて駅舎の中央、ノアがいる場所から一番離れた窓をテッドが銃床で割って中に侵入する。
窓を割った弁償は後ですると内心で詫びつつ、日頃はスタッフしか入ることが無いだろう部屋に侵入した二人だったが、ドアの外からバタバタと慌ただしく走る足音も聞こえてきたことから、ロバートに伝えた警察への避難指示がなされたのだと気付く。
そっと廊下に出て二階を取り囲む回廊にまで慎重に出ていくと、小さな発砲音が階下から聞こえ、その後に観光客らが逃げ惑う足音や悲鳴が聞こえてくる。
廊下の端から階下の様子を窺っていた二人は、その逃げ惑う人たちの中でも微動だにせずにベンチ前に立ち尽くす男と座る男の姿を確認し、首筋の上で束ねられている髪とシャツから座っているのがノアであることを己の目で確かめると、アンドルーにどこから階下に降りるかを小さく問いかけ、男の背後に回り込みたいと教えられて男が背中を向けている中央のドアの真上へと顔を向ける。
幸か不幸か男は己の前にいるノアにだけ意識を向けているようで、二階に誰かがいる事にまで気付いていない様子だった。
それでも極力足音をさせないように素早く回廊を回り込んで男の姿を確かめた時、ノアが男の足にしがみつき、小さな悲鳴が響いた後にベンチに伏せてしまう。
「!」
ちらりと見えた横顔は苦痛を堪える蒼白なもので、それを見た瞬間、テッドの頭の中で何かが切れたような音が聞こえ、アンドルーが制止するように手を肩に掛けたことにも気づかずに回廊の手摺を飛び越えてしまう。
「……ノアの悲鳴を聞いてしまえば我慢など出来るはずもないな」
二階から飛び降りる事に何の躊躇も見せないテッドが高い身体能力と訓練の賜物である運動神経を発揮して着地後すぐに回転することで身体への衝撃を軽減させて一気に男の後ろに駆け寄ると、取り出した拳銃をスライドさせて男の後頭部にそれを押し付ける。
「……動くな。手を挙げろ」
その様子を二階から見守っていたアンドルーだったが、テッドとは違って回廊を回り込んで半螺旋階段の手摺りを滑り台代わりに滑り降りてテッドの元に向かうのだった。