Garden of Southern Cross.

第13話 Honest.
3
 今までの人生で一度も経験したことのない激痛と熱を感じつつ、己の肩に親しさを装って回された腕から逃げ出すことが出来ずにいたノアは、隣からぼそぼそと聞こえてくる低い声に朦朧とする意識を何とか保とうとしていた。  その声が呟いているのは、皆俺を小馬鹿にする、本当に馬鹿なのは奴らなのに何故真っ当に生きているだけの俺が馬鹿にされ見下されなければならないのかという憤懣の言葉で、何故と繰り返しながら男が昏い目で足元だけを見ながら歩き、それに引きずられるようにノアも目的地も分からずにただ歩いていた。  足を撃たれるという俄には信じられない現実だったが、そこから生まれる痛みと熱はどうあがいても現実のもので、額に脂汗を浮かべ隣から聞こえてくるまるで呪いのような声を聴きながらもノアが脳裏に思い浮かべていたのは、ミアは無事だっただろうかという事だけだった。  人よりも過敏な感覚を持っている為に今まで幾度となく嫌な目に遭ってきた為にそれを抑え込むようになっていたが、それを振り切って教えてくれた危険な男の存在。  それから二人揃って逃れる事は出来なかったが彼女を守る事だけは出来たようで、その一事だけでも己を誇りたくなる。  己の恋人が大切にしている彼女を守り通せたとすれば、褒めてもらえるだろうか。  実の兄の苦悩を何一つ知らずにのうのうと今まで生きてきた、無知で愚かな己でも褒めてもらえるだろうか。  日頃ならば入り込むことのない暗い思考の森に迷い込んだようにノアが思案していると、真っ当に生きている人を誰も褒めないし認めないという言葉が木々のざわめきを擦り抜けて降ってくる。  男の呪詛のような言葉が己の考えとリンクしているように感じて顔を強張らせたノアだったが、どうせこのまま警察に捕まったとしても刑務所で一生過ごさなければならない、それならばとさっきも聞いた言葉を繰り返し、男が片手で重そうに持っているボストンバッグを肩に担ぎ直してノアの肩を抱く腕にも力を込める。  その腕の強さが不気味で背筋を嫌な汗が伝い落ち、太腿から流れている血が靴の中で不快な血だまりを作っている事にきつく眉を寄せたノアは、男が向かう先を小さな呟きから知り、痛みに霞む視界にその建物が見えてきた事に気付くと、何かのタイミングで逃げ出せないものかと貧血から動きが悪くなってきた脳味噌を必死に働かせる。  もしかするとミアが警察に通報してくれているかも知れない。  そうすれば、今頃ランチを食べ終えて自宅で寛いでいるテッドにも連絡が入り、迎えに来てくれるかも知れなかった。  せっかくの休日を潰させることになる事実がノアの胸に重くのしかかり、そうなる前に警察の手で救出してくれればと願いながらも肩に回された男の腕を振り払う力がなく、怪訝な顔ですれ違う人たちに助けてくれと声に出して助けを求めることも出来ずに、ただ仕方なく傍目には調子が悪い人を介抱しているように肩を組みながら大きく見えてきた歴史的建造物に目を細めるのだった。    同棲中の恋人が姪とショッピングに出かけたことから休日の午後を一人で過ごすことになってしまったテッドが、それでも寂しさを感じさせないようにとの恋人の気遣いを冷蔵庫の中に用意されているサンドイッチや己が気に入ったからという理由で毎日用意してくれるホットミルクティーが満たされているボトルから感じ取り、本当にやさしい男だと微苦笑しつつ一人きりのランチを食べるために慣れた手つきで準備をする。  一人暮らしが長い事と漁師という仕事柄か食事の速さによく驚かれるが、温めたら美味いと思うと教えてくれたサンドイッチをトースターに放り込み、マグカップ-これは一緒に暮らすことにした時にノアが面白いという理由で購入した、キウィフルーツに人間のように目と口がついていて、何やら叫んでいるような顔の柄が描かれたもの-にまだ湯気を立てているホットミルクティーを注ぎ、程よく温まったサンドイッチをトースターから取り出すと、皿ではなくカッティングボードにそれを置いてシンクに腰を預けながらそれを食べ始める。  もしここにノアがいれば行儀が悪いと目を吊り上げるだろうが、幸か不幸か家にはテッドがいるだけだったため、あっという間にホットサンドを食べ終えてミルクティーも飲み干すと、さあこれからどうすると、時間を持て余した男の顔で窓の外へと目を向ける。  テッドの家があるのは海沿いで、周囲には他の民家もなく、聞こえてくるのは波が崖下にぶつかっては砕ける音と時折家の前の道を通り過ぎる車の音が聞こえてくるだけだった。  今日はやけにその静寂が耳につくと苦笑したとき、いつもはそれを感じさせない恋人のノアがいるからだと気づき、己の恋人の実の兄-ある事情から兄というよりは友人といったほうが相応しい-はその場にいてもいなくても騒々しいと皆から愛されている証の憎まれ口を叩かれていたが、その弟もそうなのかと一瞬強く不安を覚えてしまう。  だが、恋人の日ごろの言動を思い返しても騒々しいとは思えず、きっとあれはノアの兄特有の性質だと頷くと、ポットにまだ残っているミルクティーを飲むためにマグカップに再びそれを満たし、テレビの前のソファへと向かう。  自宅では裸足になることが多いテッドがソファ前にやってきた時、何か硬いものを踏んでしまったような痛みを足の裏に覚えて何事だと床を見下ろすと、窓から入る午後の光に床の上がキラキラとしていて、マグカップをテーブルに置いて一つの光のそばに膝をついたテッドは、そのきらめきの由来を指先で摘まみ、どうしてこんなところにあると首を傾げつつ定位置である壁を見る。  テッドが視線を向けた先には二人が仕事やプライベートで身に着ける事のあるネックレスなどのアクセサリー類が吊るされているコルクボードがあり、今日は漁に出ないためにいつもノアが着けてくれるテッドのノーティカルスターが光るネックレスもそこで光を反射していた。  だが、その横に今日はただ買い物に行くだけだからと言って残していったノアのロザリオが三つの青い小さな玉だけを残してソファの上や床の上に散らばっていたのだ。 「ロザリオが切れた?」  このロザリオはノアが以前世話になった教会の人から受け取った大切なもので、仕事で家を長期間留守にするときには必ず持っていく程ノアも大切にしているものだった。  それがまさかちぎれてしまうなど想像もできなかったが、それでも恋人の大切なものだからと、ノアの目の色に合わせて青いビーズを使って作られているロザリオの欠片をひとまずは集めてテーブルに置き、キッチンからガラス容器を引っ張り出してきてそこにまとめて入れる。  テッドもノアも敬虔なキリスト教徒ではないためにロザリオの本来の役割をある程度しか知らなかったが、祈りをささげるときに使うそれが切れてしまうことなどあるのだろうかと苦笑し、床にも拾い切れていない部品がないかとソファの下をのぞき込んでいた時、ソファの座面の下に隠すように吊るしてある一丁のライフルに目が行き、懐かしさと後悔の滲む顔でそっと手に取り、黒光りする銃身と木製の銃床やグリップを撫でると、毎日これを担いでいた頃を自然と思い出す。  テッドにこのライフルの使い方を一から教え込んだのは同じラストネームを持つ笑うと得も言われぬ愛嬌のある顔をした男だった。  その男に純粋に憧れ、肩を並べて任務に就ける日が来ることを一心に願って仕事に励み、気が付いた時には背中を頼むと言われるほどの信頼を勝ち得ていた。  人の一生の中で黄金期と呼ばれる時期があるとすれば、テッドのそれはその男と共に戦場を駆け抜けていた頃だった。  その黄金時代の終焉が己のミスによるものだという現実はなかなかテッド自身受け入れられなかったが、ノアという遠い国からやって来た年下の青年により、徐々にそれを認め受け入れるようになってきたのだ。  その事実だけでノアの存在が己にとってどれほど大切なものかを再確認してしまい、疼痛を胸の奥に秘めたままそっとライフルをソファの座面下に隠すと、テレビボードの一番下の大きな引き出しにケースに入れて保管している拳銃の存在も思い出す。  己の世界とは縁遠い世界で暮らしていたノアが初めて手に触れた拳銃について、絶対にお前には使わせないこと、だけど万が一の時にはここにそれがある事だけを覚えておいてくれと伝え、それ以降は二度とノアの目に触れることのないように引き出しの中に剥き出しのまま保管するのではなく、ノアの仕事道具を入れていたが使わなくなったケースを譲り受けてそこに保管し、それを引き出しの奥にしまい込んだのだ。  事件や事故のニュースをテレビで見るだけでも痛まし気に眉を寄せる心優しい恋人とは縁遠い暴力の象徴のような拳銃やライフル銃だったが、それが無ければ落ち着くことが出来ないという精神状態を通り過ぎた今のテッドには最早不要のものだった。  いつか処分しようといつも考えては先回しにしてきた事に苦笑し、ソファに座ろうと立ち上がった時、コーヒーテーブルに置いたスマホが着信をけたたましく響かせ、その音に肩を揺らしてしまう。 「……?」  スマホの着信音に驚く理由が分からずに首を傾げつつテーブルの上で振動するそれを手に取ると、そこには珍しい相手の名前が表示されていて、心底驚きながらスマホを手に取る。 「ハロー」 『久しぶりね、テッド。今お話しても大丈夫かしら?』  その声は以前と比べれば格段に柔らかになったがまだそれでも棘を含んでいるようで、その棘に触れないように気を付けつつ大丈夫だと返事をしたテッドは、アクセサリーが吊るされているコルクボードの端にピン止めされている名刺に目を向ける。  その名刺の隅には四葉のクローバーとチューリップがプリントされていて、己にとってもノアにとっても忘れられないものだったが、その声が自然と過去を引き連れてきてしまう。 『テッド?』 「あ……ああ、何だ?」 『ノアはいるかしら?』  その理由がなければお前に電話などするはずがないとの密かな声を聞き取ってしまったテッドが微苦笑し、今は出かけている事を務めて冷静に返すと、電話にも出ないしメッセージも既読にならないと溜息交じりに返されて目を見張る。  己とは違って交友関係も自然と広げていけるノアの美点とテッドが指を折る中に、電話やメッセージには必ず返事をするこというものがあり、例えすぐに返事が出来なくても決して放置することは無く、わびの一言と共に連絡を返すのだ。  どちらかと言えば物臭なテッドにしてみれば本当にマメな男だと感心してしまうそれだが、それを地道に続けた結果が、長年己を憎み機会があればその命すら奪おうとしていた彼女との和解であり、こうしてぎこちなさは残っていても言葉を交わすようになった現実だと気付き、そんなノアが返事をしないというのは何かあったのかと問われてテーブルの上のロザリオを睨むように見つめてしまう。 「……アンシェラ、ノアに連絡を取ったのはいつだ?」 『そうね、一時間くらい前だったかしら』  どうしても彼の写真を使いたいという事案があり、時間がないから急ぎで許可が欲しかったと教えられ、壁の時計とキッチンとコーヒーテーブルを意味もなく見回したテッドは、スマホが振動したことに気付いて画面を見つめ、そこに今の現状に答えを出してくれそうな名前を発見して一度電話を切ると口早に告げると、相手の返事を待たずに通話を終えて切り替える。 「ミア! ノアは一緒にいないのか!?」  テッドのその問いに返って来たのはしゃくりあげる様に己の名を呼び続けるミアの声だけで、どうした、落ち着けと己が最も落ち着きを無くしている事に気付かずに声を大きくしてしまう。 『テッド……! ノアが、ノアが……っ!』 「……ああ、落ち着け、ミア。大丈夫だ。落ち着いて話せ」  お前の言葉なら全面的に信じているから落ち着いて話してくれと、内心の焦りを全力でもって抑え込んだテッドが電話の向こうで泣いているミアに語り掛けるが、彼女の声の奥からざわざわという人の声と彼女を呼んでいるらしい男の声が聞こえ、それにパトカーのサイレンらしい音がかぶさってくる。  その事から何か良くない事が彼女の身に起きたと気付き、アクセサリー類を吊るしているコルクボードに同じように吊るしているピックアップのキーを手に取り、リビングから飛び出そうとするが、そんなテッドの耳に聞き覚えのある声とミアの少し落ち着いた声が流れ込み、リビングのドアに手を掛けたまま動きを止めてしまう。 『神父様!』 「ドリュー!?」  ミアが叫んだのは神父という言葉で、そこから連想する己の旧友に近くにいるのかという一縷の希望を抱いて名を呼ぶと、ミアのしゃくりあげる声が少しくぐもったものになり、代わりに落ち着いた男の声が返ってくる。 『テッド』  旧友に名を呼ばれただけで日頃の冷静さがふっと戻って来たのか、テッドが髪に手を当てて息を吐き、何があったか教えてくれと問いかける。 『ああ、俺も偶然ここにいただけでまだ良く分かっていないが……お前が罰ゲームで購入したノアの車は確かボルボだったな?』 「あ、ああ……今日はミアと一緒にランチを食べてショッピングをするから車で出て行った」 『そうか……車の横に血痕がある』  テッドが何時間か前のやり取りを思い出しながら旧友のアンドルーに伝えるが、返って来た呟きに限界まで目を見張り、ノアの車の傍に血痕がありミアが泣いているという事実からひとつの答えを導き出す。  泣いている彼女ではなくノアの身に何かあったのだ。 「……血痕の量は?」 『そんなに多くは無い。大きなボストンバッグを持った目つきの悪い男に連れて行かれたそうだ』  その言葉に脳味噌から一瞬で血の気が失せたような気がして思わず壁に手をついて己の体を支えたテッドだったが、ひとつ頭を振った後、テレビボードの最下段からケースを取り出して慣れた手つきで拳銃を取り出すと、ジーンズの腰にそれを突っ込み、今どこにいると低い声で問いかける。 『聖ポールズ大聖堂傍のパーキングだ』  誰かが通報したようで警察が到着した、ミアと一緒に事情を説明するからなるべく早く来いと伝えられて返事をせずに通話を終えたテッドは、ソファに一度目を向けた後そのままリビングを飛び出し、家の前に停めてあるピックアップに飛び乗ったかと思うと、タイヤが白煙を上げるスピードでピックアップを走らせるのだった。  
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  あの子は無事だろうか。……あいつは、来てくれるだろうか。
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