それが、脳味噌に焼き付いているのか鼓膜に刻み込まれたのかは分からないが、いつまでもこだまする言葉があった。
『……やっぱりあなたはダメね』
その一言が、一人暮らしの部屋で酒を飲んでいても、ぼろぼろのシャワーカーテンの向こうで頭からぬるま湯を浴びても消え去らず、それが不快で舌打ちをする。
シャワーを浴びて殆ど水気も拭かずに出てきた彼は、つけっぱなしにしていたテレビから流れ出す女性の甲高い笑い声に瞬間的に苛立ちを覚え、リモコンを画面に向けて投げつける。
「くそっ!」
どいつもこいつも人を馬鹿にしやがってという言葉を床に吐き捨て、キッチンの冷蔵庫を開けるとビールのボトルを取り出す。
ビールだろうがウイスキーだろうがアルコールの度数に関係なく酔うことが出来ずにいることにも腹が立ち、ボトルを手にソファに座り込むと、ソファ横の本棚に飾ってある写真が目に入る。
その写真は職場の誰かの何かのパーティーの時に写したもので、同僚でもある彼女が半ば強引に彼を連れて行った結果、居た堪れない思いで壁の花になるだけではなく、自分の直属の上司と彼女が親密になる切っ掛けを作ったものだった。
それを思い出した瞬間、脳味噌が焼け付いたのかと思うほどの灼熱感を覚えた彼は、飲みかけのビールのボトルを本棚の写真目がけて投げつけ、ほとんど飲んでいなかったビールが本棚や床に飛び散るのを肩で息をしながら見守ってしまう。
こんなことになったのも、すべてはあいつらのせいだった。
本棚にビールが飛び散ったのも、床にぶちまけられたのもすべては己をいつも馬鹿にして鼻で笑っていたあいつらのせいだと、ビールを飲んでいないのに酔いが回ったような目で呟いた彼は、本棚の一番下の引き出しを開けて黒光りする銃を取り出し、微かに震える手で弾倉の確認をする。
「俺は、ダメな奴じゃない……」
俺の優しさを理解しないお前たちが悪いんだと、すでに現実世界で生きる事を放棄したような顔でぶつぶつと呟きながら銃をそっとソファに置くと、着替えをする為にベッドルームに入り、出てきたときにはこざっぱりとしたシャツとジーンズ姿になっていた。
「俺がダメな奴かどうか、お前たちに分からせてやる」
そう呟きながらソファに置いた銃の安全装置を確認した彼は、ジーンズの腰に銃を差し込み、シャツでそれを隠して家を出る準備をするが、何かを思い出したように本棚の前に向かい写真立てに向けて銃を構えて一度だけ引き金を引く。
両手で構えた掌と鼓膜を音と振動で震わせながら飛び出した弾丸は写真立ての中央で笑っている男女の笑顔ごと粉砕し、後ろの本棚にも穴をあける。
砕けた写真立てのガラスがビールの水溜りの上に降り注ぎ、写真立て自体も何が起きたのか理解できていないようにスローモーションで床に落ちていく。
写真の中央で笑っていた男女の顔が貫通した玉によって見えなくなっている事に気付いた彼が無言でそれを見下ろすが、憎々し気に写真立てに唾を吐きかけると最早それに興味も無いと言いたげな顔で踵を返し家を出ていくが、この時彼が知人と出会っていればこの後の惨劇は防げただろうにと、彼を知る知人たちは後日皆眉と声を潜めて口にするが、幸か不幸か自宅を出た彼は友人知人に会うことは無く、バスを乗り継いで目的地に到着し、通い慣れた彼女の部屋に明かりがついている事を確かめて彼女の部屋のドアベルを短く鳴らす。
『はい?』
「ハンナ? 僕だけど開けてくれないか」
今日はデートの約束は無いがきみが忘れていったものを持ってきたと、彼女に下手に出て伝えると、仕方がないと言いたげな溜息の後にアパートのドアロックが解除される音が聞こえる。
階段を上りつつ腰の銃をジーンズの上から確かめた彼は、ここに来るのも今日が最後だと感慨深い思いを抱きつつ彼女の部屋のドアの前に立つ。
ドア横のドアベルをもう一度鳴らし、一体何なの忘れ物なんていつでも良いじゃないと不満そうに言いながら出てくる彼女を想像した彼は、予想に違わない顔と言葉で出てくる彼女に申し訳なさそうな顔になり、忘れ物を取り出すようにジーンズの腰から銃を引き抜く。
以前ならば部屋に迎え入れてくれていた彼女だったが、今日はそんな気持ちにならないのか、玄関のドアを片手で押さえながら彼の動きを見守っているが、そんな彼女の向こうに人の気配を感じ、何気ない仕草で彼女の肩越しに室内を見る。
そこに、予想していたが、していたからこその衝撃を受けてしまう男の顔が見えるだけではなくこちらに向けて相変わらずの馬鹿にしたような笑みを浮かべている事に気付くと、やはりという言葉と調子の外れたような笑い声を小さく立ててしまい、気味悪そうな顔で恋人を見る彼女を真正面から見据える。
「ちょっと、何よ……」
その言葉は彼の耳には入らず、彼女の腹にぐっと銃口を押し付けると、二度素早く引き金を引く。
「……っ!」
突然の凶行に彼女の目が見開かれ、己の腹に突如生まれた熱と遅れてやって来た痛みが現実のものだと理解できずに腹に手を当ててその手が赤黒く染まったのを見た瞬間、どうしてという心底不思議に思っている声が流れ出し、彼に救いを求めるように手を伸ばすが、その手を無表情に振り払った彼は、どさりと崩れ落ちる彼女の体を跨いで部屋に入り、何があったと流石に異変に気付いたのか男がこちらに顔を向けた事に気付き、さっきは彼女の腹に押し付けた銃口を男に向ける。
「ひ……っ!」
止めろ、警察に通報するぞと男が彼が本気である事に気付いて制止の声を上げてテーブルの上に手を滑らせるが、その手がスマホに触れるよりも先に一歩を踏み出して近づくと、床に転がっているクッションを手に取り、何処か逃げ道は無いかと部屋の中を見回す男の顔にクッションを押し付ける。
「ぐっ……!」
クッションを顔面に押し付けられた苦痛と恐怖に男が口を開けたその瞬間、彼女の時と同じように腹に銃口を押し当てて一度引き金を引き、くぐもった悲鳴を上げるクッションを興味もなさそうに見つめると、腹からクッションへと銃口を移動させて躊躇うことも無く引き金を二度三度と引く。
その度に己の手の下で跳ねる体がおかしかったが、クッション越しの為に小さく響く銃声がいつまでも耳の奥でこだましているように感じてひとつ頭を振ると、クッションの肘置きに縋るように手を伸ばしたまま床に倒れる男を見下ろす。
クッション越しに撃った男の顔が見るも無残なものになっていて、自慢の顔に傷がついたがこれからあんたが向かう地獄ではスカーフェイスとして女悪魔たちから人気が出るかも知れないぞとさも楽し気に笑い、アイボリーの絨毯に染み込んでいく赤黒い血を疎まし気に見つめた後、写真立ての時と同じように男の血に染まった自慢のブロンドに唾を吐きかけ、もはや興味は無いと言いたげに踵を返すと、玄関のドアの前で蒼白な顔で腹を押さえている彼女に気付き、いつまでも痛いままは辛いだろう、今すぐ楽にしてあげると、二人が付き合っている時と変わらない優しい言葉を囁きながら胸に銃口を押し当てる。
「……や、め……て」
お願い殺さないでと掠れる声に懇願されるがその言葉も彼の耳には届いていないようで、きみの顔が本当に好きだった、顔だけは傷をつけたくないからとこれが最後の優しさだと言わんばかりに彼が小さく笑みを浮かべると呼吸をする気軽さで引き金を引くのだった。
一日の中に四季があるとニュージーランドを表現する際に多用されることがあるほど天候の変化が激しかったが、6月に入ってからは寒さが厳しくなり、車には常にチェーンを積んでおかなければ不安になるような雪が降ったりもしていた。
そんなニュージーランド南島の南部、オタゴ地方の中心都市であるダニーデンやその近郊にも冬は訪れていて、町の中心部から30分ほど車を海沿いに走らせた岬にぽつんとある一軒家にも雪は時折降って屋根や周囲を白く染めていた。
その一軒家には一目でマオリの血を引くことが見て取れる壮年の男と彼よりは年下の青年が暮らしていて、一人は漁師として、もう一人は新進気鋭のフォトグラファーとして名前が知られるようになっていた。
そんな二人が暮らす家は外の気温が嘘のような暖かな空気が満ちていて、その中心にいる青年、ノア・クルーガーが腹這いになっていたソファで頬杖を突き、ソファの前にクッションを置いてそこに腰を下ろしながらテレビを見ている男、テッド・ハリスの短くカットされている黒髪をまるで占い師が水晶玉を撫でるように撫でていた。
その仕草はかれこれ10分以上続いていて、ノアが考え事をするときの癖だと己の頭を思考道具に差し出しているテッドが気付いたのは、二人が遠距離恋愛を実らせて晴れてこの家で同棲を始めてからいくつかの衝突を繰り返しながらも同じベッドで夜を超えて朝を迎えるようになった頃だった。
短い髪の手触りが良いのかそれともほかに理由があるのかは不明だが、考え事ーしかもそれらは大抵がはっきり言ってどうでも良いようなものだったーをする際にサリサリと音をさせながら頭を撫でられる事に当初はかなり戸惑っていたテッドだったが、それで考え事が捗るのならば構わないし、何よりも恋人とこうしてスキンシップを図れるのならば頭の一つや二つ差し出そうと腹を括って以来、テレビを見ながらや作業の息抜きにリビングに出てきたときにはこうして頭を差し出しているのだった。
今日も今日とて己の頭を恋人の好きにさせていたテッドだったが、コーヒーテーブルに置いたスマホから着信音が流れ出し、突然のそれに頭上の手がびくりと揺れたことに苦笑する。
「ハロー」
『テッド? 今電話大丈夫?』
スマホの向こうから届く声は遠慮がちな少女のもので、ああ、大丈夫だと口調はぶっきらぼうながらも表情を和らげながら返すと、頭の上から心地よさを与えていた手が無くなり、背後のソファでのそのそと起き上がる気配が伝わってくる。
「どうした、ミア」
何かあったのかと可愛い姪を案じる叔父の顔で返すテッドの言葉に通話相手が誰であるかを察したノアが目を丸くし、こちらは年の離れた妹を案じる兄の顔になってしまう。
『ううん、何もないんだけど、ノアは今お仕事中かな?』
スマホにメッセージを送っても既読にならないし電話に出ないからと申し訳なさそうに電話の理由を教えられたテッドが背後を振り返り、ノアなら今一緒にいると苦笑する。
『一緒にいる? じゃあ次の土曜日の午後お仕事じゃないか聞いて』
もし仕事じゃなければショッピングとカフェに行かないか聞いてほしいと嬉しそうな声で問われ、以前ならばそれは己の役目だったのにと少しの寂寥感を覚えつつ背後のノアに問いかけると、クッションを抱え込んだノアの首が少し傾ぎ、今のところ仕事は入っていないから大丈夫と返される。
「大丈夫だそうだ」
『良かったー! じゃあ土曜日のランチを一緒に食べてそれからショッピングしようって言ってて』
「ああ、分かった」
かわいい姪の願いを無碍にすることはないテッドが通話を終えたスマホをテーブルに戻してソファの座面に肘をつくと、クッションを抱え込んだままノアが前屈みになる。
顔のそばにサラリと流れてくるくすんだ金髪をそっと指で弾き、土曜日のランチの後ショッピングとカフェに付き合ってくれだそうだとテッドが伝え、ノアの顔が驚きから笑みに変化するのを間近で見守ると、何か欲しいものでもあるのかなとノアが歌うように呟く。
「どうだろうな」
最近会えなかったから久しぶりに会いたいんじゃないのかと、己の恋人と姪が仲良くしていることが嬉しいと思っていても顔には出さないテッドが一つ肩を竦めるが、土曜日のランチは一人寂しく家で食うかと笑うと、予想通りの反応が返ってくる。
「え、テディも一緒に食えば良いだろ?」
「ミアはお前とランチを食うと言っていたぞ?」
だから二人で食って来いと笑ってくすんだ金髪に掌を乗せると青い目が左右に泳いだ後、カフェで美味そうなパイかケーキがあれば買ってくると気遣いを見せてくれる。
その顔を見るだけで十分だった為にそっけなく頷いたテッドだったが、頭に乗せた手を顔の輪郭に沿って頬にまで下すと、不思議そうに小首を傾げられてしまう。
その一つ一つの仕草がテッドにとっては掛け替えのないものになっていて、名を呼ぶために開きかけた唇にキスをすると途端に目じりが赤く染まる。
キス一つで赤面する恋人がただ可愛くてにやりと笑みを浮かべると何かに気づいたらしいノアが抱えていたクッションを頭上に掲げたため、危機を察したテッドが素早く立ち上がって距離をとる。
「パイもケーキもなしだ!」
土産なんて買ってこない、お前なんて一人で寂しくランチを食っていろと茹で上がったロブスターのような顔で叫ぶノアに土産など気にするなと笑いかけたテッドだったが、ソファから立ち上がったノアの腕を取って己の腰に回させて機嫌を直せと髪にキスをすると、覚えた羞恥を吐き出すような吐息がこぼれる。
「お前も久しぶりにミアに会うんだ、楽しんで来い」
「……うん、そうする」
さっきは一人でランチを食っていろと言ったけれどディナーは三人で一緒に食べようと広い肩に懐くように顔を寄せたノアの髪にテッドが再度キスをし、気にしないでいいから楽しんで来いと再度告げ、うんという返事に内心安堵するのだった。
ミアとの約束の土曜日の朝、太陽が北の空へ高く昇った頃に待ち合わせ場所である駅前にノアが向かう準備をしていると、それをソファに座って見守っていたテッドが本当に送っていかなくて良いのかを問いかける。
「うん、俺も少し嵩張るものを買いたいから車で行く」
「そうか」
じゃあ本当に俺は一人で家でランチを食べると笑うテッドをじっと見つめたノアが彼の前に向かうと、何だと言いたげに見上げる顔にキスをする。
「新しい紅茶を買ったんだ。ミルクティーをいつものボトルに入れてあるから飲んだ感想を聞かせて欲しい」
お前が気に入ったのならこれからもその茶葉を買うし気に入らないのなら他のものにすると笑うノアの腰を抱き寄せたテッドは、冷蔵庫にホットサンドが入っているから食べる前に温めてくれ、チーズを載せてから焼くのもおすすめだと笑いながら己の頭を気持ち良さそうに撫でる顔を見上げると、お前は美味いものを食ってこい、そして帰宅すれば今日一日の出来事を聞かせてくれと笑う。
「うん」
家を出る前の儀式のようなものを終えてノアが壁に吊るしてあるテッドから贈られたペンダントが揺れるネックレスを首に回していつものように胸元に垂らし、その横にある己がドイツで購入してきたノーティカルスターをひとつ革紐に通したブレスレットも左手首に回す。
「今日はロザリオは留守番をしてもらおうかな」
仕事で自宅を何日も離れる時ならば必ず持っていくが、今日は半日市内に出かけるだけだと笑って鈍く光を反射するロザリオを見たノアは、それをくれたドイツのもう一人の母親のような彼女の笑顔を思い出し、連鎖的に兄やその伴侶の顔も思い出す。
「テディ、行ってくる」
「ああ」
久しぶりのミアとのデートを楽しんで来いと笑われてにやりと笑みを浮かべたノアだったが、玄関先まで見送りに来てくれる恋人の腰に腕を回して何かを確かめるようにしっかりと抱きしめる。
「帰る前に電話する」
「分かった」
今日は家から出る予定はないから気にするなと苦笑しつつ手触りの良い柔らかな髪を撫でたテッドは、見上げてくる顔にキスをし、行って来いと言葉と笑顔でその背中を押す。
テッドの古いピックアップの横に停まっている恋人の愛車に彼が乗り込むのを玄関先で見つめていたテッドは、運転席の窓が開いて顔を出す年下の恋人に苦笑し、家の事は気にせずに早く行って来いと顎で示し、うんと頷いたノアの車が見えなくなるまで見送るのだった。