今夜は驚くほど星が綺麗に見えていて、信心深い人も心の中にのみ神を住まわせる人達の上にも等しく星の光が降り注いでいた。
そんな星夜の下を少し古くなっているが手入れされているSUVがゆっくりと海沿いの道を岬の先端にある小さな教会へ向けて走って行く。
楽しそうな顔でステアリングを握っているのは、この国に4年前に移住してきたノア・クルーガーで、すっかり右ハンドルの左側通行という道路事情に慣れ、最近では元々のジャンルよりも本格的に力を入れている星空撮影の為にこの愛車を駆りだしている程だった。
そんなノアが運転する車の助手席では、己の貯金を叩いて購入した車の乗り心地も良く、また恋人が嬉しそうに乗り回している事に胸を撫で下ろしていたテッド・ハリスが少しだけ眠そうに欠伸をしていたが、一年前の同じ日の夜に二人で初めて向かった教会への道を僅かに緊張を覚えつつ向かっていた。
ステアリングを握りながら楽しそうに何かを問いかけたり呟くノアにテッドもなるべく返事をしていたが、緊張しているのかと問われて運転席へと顔を向ける。
「……教会に二人で行く事、まだ緊張する?」
今までなら一人で出掛けていただろうし、暫く行ってない期間もあったようだしと、そう問いかける声と表情は限りなく優しいもので、その優しさに胸の内で感謝しつつ大きな手をノアのくすんだ金髪にそっと乗せると、それが気持ちイイと言いたげに目を細められる。
「緊張しないと言えば嘘になるが、お前が楽しそうに運転しているのが嬉しいと思っただけだ」
テッドの素直な言葉にノアが少し考え込んだ後、目尻を赤らめて恥ずかしいからそういうことを運転中に言うなよと口を尖らせるが、幼い子どもが気恥ずかしさから拗ねているようにしか見えなかった。
それを口にすると子ども扱いするなと怒鳴ることが分かっているために何も言わずにただ手触りの良い髪を撫でたテッドは、見えてきた教会に続く一本道を進み始めた車の中で少し伸びをし、ドリューにクリスマスプレゼントも持って来たことだしと、後部座席に積んだ袋へと顔を向ける。
「うん。神父様喜んでくれると良いんだけど」
「あいつは貰えるものなら何でも喜ぶ」
だから気にするなと運転手の心配事を杞憂だと一笑に付したテッドだったが、教会の前の空き地に車を止めて二人同時に降り立つと、後部座席から袋を出して小さな礼拝堂に続く道を歩いて行く。
クリスマスイブの夜は日中とは違って礼拝に訪れる人もおらず、礼拝堂の向こうの海から聞こえる波の音だけが全てだったが、ドアを開けてそっと中に入ると、祭壇の前に佇んでいる人物の背中を発見する。
「こんばんは、神父様」
そしてメリークリスマスとその背中に語りかけたのはノアで、テッドは荷物を小脇に抱えたまま特に何も言わずに赤い絨毯の上を歩いて行く。
「こんばんは、ノア、テッド。――メリークリスマス」
今年もあなた達とここでこうして会うことが出来る幸せを今神に祈っていたところですと振り返りながら穏やかに笑う神父、アンドルーの言葉にノアが嬉しそうに笑みを浮かべ、テッドは無言で頷くだけだった。
今年もよく来てくれたと旧友に向けて手を差し出すアンドルーにテッドも同じくその手を握り返し、次にノアが握手をしてここに来ると座る場所が決まっているベンチに二人並んで腰を下ろす。
「神父様、今年はプレゼントを買ってきました」
良ければ教会でも神父様の私物としてでもお使いくださいと、ノアの言葉にテッドが袋を差し出すと、クリスマスのプレゼントだと一目で分かるラッピングがされた箱をアンドルーが取り出す。
「ありがとうございます。――テッド、ノア、あなた達にもお渡ししたいものがあります」
わたくしの私室に置いてあるので帰る前に寄って下さいと告げ、テッドが差し出した箱を開けたアンドルーは、クリスマスの天使ですかと笑顔でそれを手に取り、二人によく見えるように見せる。
「はい。ドイツにいる兄達に頼んで送って貰いました」
あちらのクリスマスはある意味本場のもので、こちらのクリスマスマーケットとは比べられない程の屋台や飾りなどが売っている、その為に以前から頼んでおいたと笑うノアにアンドルーの目が好意的に細められ、祭壇の布地の上にそっとそれを立てかける。
「本当はもっと上に吊したいのですが、今はここで見守って貰いましょうか」
「神父様の良いようになさって下さい」
飾っていただけるだけで嬉しいですと笑うノアの肩に腕を回したテッドは、古い友人の顔に穏やかな嬉しそうな笑みが浮かぶのを見つめ、己の記憶の中にある顔とまるで別人のような表情を浮かべさせられるのはノアの心が誰に対しても穏やかで優しいからだろうと気付き、そっと細い肩を抱き寄せる。
「――気が済んだら声を掛けてくれ」
お前の一年に一度の祈りの時間を邪魔するつもりはないと二人にそっと微笑みかけたアンドルーが静かに礼拝堂を出て行くと、遠くに波の音が聞こえてくる。
アンドルーの言葉通りテッドはこの教会にイブの夜になると一人で訪れ、満足するまで祈る事をまるで己に課しているかのようだった。
だが昨年、ノアと一緒にここにやって来た時にはテッドの中では永遠に解決されない、和解など訪れないと思っていた人との関係を、今肩を抱いているノアが本来のあるべき方向へと向けてくれ、そちらに一歩を踏み出す勇気をくれたのだ。
その結果、どちらの心の中にも存在した蟠りが少し薄れ、顔を合わせれば殺意を向けてきた相手からそれが消え去ったのだ。
自分たちがどれほどの時間を掛けても解決できないと思っていた問題を、ノアが恐れることなく真正面から向かい合った結果、誰もが望み叶わないと絶望していた明るい未来へと続く扉を開くことが出来たのだ。
その一事だけでテッドはノアとの出会いの意味を意味を理解したのだが、当の本人はそれに気付いていないようで、自分はそう思っただけだと照れたように笑い、お前が蟠りを抱えていた人と和解出来るかも知れない事が嬉しいと、テッドには決して得ることの出来ない素直さで抱きしめてくれたことも思い出す。
初めてオーストラリアの空港で出会い、ニュージーランドでの仕事を終えた後のノアと過ごした時間、その時に己が感じ取ったノアという青年の素直さは家族から愛された結果得られたものだろうと思っていたが、テッドが予想だにしない家族との確執をノアはその笑顔の下に秘めていた。
それを垣間見たのが己の家の庭で夜空を見上げたときにノアが流した涙だった。
その時に一目惚れをしたと今ならばはっきりと自覚できるが、ただ涙を流させたくない一心で抱きしめ、太陽のような笑顔を浮かべて欲しいと強く願ってしまったのだ。
そして、その名前通りに己を導いて欲しいと、知人から友人という関係をすっ飛ばして恋人になった時に告白したが、その思いは今もあの時と何ら変わっておらず、それを証明するように二人の胸元には同じノーティカルスターと呼ばれる意匠の星のペンダントトップがぶら下がっていた。
箱船で大洪水の後の世界へと導いたノアのように、己を世間の、感情の荒波に沈まないように導いて欲しかった。
その思いから抱きしめた腕に力を込めると、細い身体が己へと傾いで来たことに気付き、しっかりとその肩を支える。
「――テディ」
「どうした?」
「うん……今年も来ることが出来て良かったな」
「ああ」
互いに顔を見ることなく囁く言葉に囁きで返事をし、去年突然訪れた教会だが今年も来ることが出来て良かったと笑うノアにテッドがその髪にキスをし、来年も来ようと囁くと、己の肩に回されている腕にノアが手を重ねる。
「良いね、それ」
「ああ」
この教会でクリスマスイブを静かに過ごすのも悪くないと笑うノアにテッドが無言で頷き、もう少し祈った後ドリューの部屋に向かおうと告げ、頷きひとつを貰うのだった。
それからどれくらい時間が経過したのか分からないが、テッドが満足したことを教えるように吐息を零し、ノアもその隣で少しだけ伸びをする。
「明日はミアとボブが来るんだろう?」
「ああ、そう言っていたな」
じゃあ二人が来るのだからパーティーの準備をしないといけないなと笑うノアにテッドが心待ちにしているが面倒くさいと言いたげに笑い、そんな顔をするなとノアに睨まれてしまう。
「ミアのプレゼントもリオンに頼んで送って貰ったし、今年はマザーのシュトレンも一緒に送ってくれたからそれを切って食べよう」
「ああ、そうだな」
二人ベンチから立ち上がって祭壇に短く祈りを捧げた後、アンドルーの私室がある礼拝堂の隣の小さな家の窓をノックするために礼拝堂を出る。
「――もう終わったか?」
「ああ。また来年」
「分かった。……ノア、気を付けて帰って下さいね」
「ありがとうございます。神父様も良いクリスマスを」
不信心な自分たちとは違って神父であるアンドルーは忙しいだろうが、良き聖夜をと頷いたノアは、一足先に車に戻っているとテッドに告げて歩き出す。
その背中を見送ったテッドだったが、アンドルーが窓枠で頬杖を突きながらにやりと笑ったことに気付き、何だとぶっきら棒な声を出してしまう。
「お前、ノアと付き合いだしてから本当に変わったな」
その変化はお前にとっては最良のものだろうと笑うとテッドが短く舌打ちをするが、最良のものである事は間違いがないと頷き、その顔は何だと旧友が目を吊り上げる。
「ノアがいたから、クリスマスイブをこんな穏やかな気持ちで過ごせる様になった」
あいつと知り合う前は本当にこの世の終わりのようだったと、数年前の己を振り返って述懐するテッドにアンドルーも同意するように頷き、本当にノアと出会えて良かった、それこそ神のお導きだと祈ると、不信心者だがそれだけは神に導かれているようだったとテッドも苦笑しつつ認める。
「明日ミアとボブが来るそうだ」
「そうか、パーティーの準備をしないといけないな」
「ああ。もしミサが終わって時間があれば家に来い」
テッドのその誘いを意外な思いで受け止めたアンドルーだったが、期待しないでくれると嬉しいと返し、愛車の運転席でこちらを見つめているノアの視線に気付いたらしく、彼が待っているから早く行ってやれとテッドを苦笑で送り出す。
「ああ」
「そういえばあの車、前は乗ってなかったな」
仕事で必要だから買ったのかと問いかけるアンドルーにテッドが一瞬返事を躊躇するが、罰ゲームで買わせられたと答えると、呆気に取られた後夜空に吸い込まれるような陽気な笑い声が流れ出す。
「随分と可愛い罰ゲームだな、おい!」
「うるさい」
二人が漁師と神父という立場ではなく、同じ部隊で同じ階級同士背中を預け合っていた頃の罰ゲームを思えばなんとかわいらしいと笑い始める旧友の声にうるさいと返したテッドは、また来年ともう一度告げて踵を返すが、その広い背中にいつまでも友人の楽しそうな笑い声がぶつかり、夜空へと吸い込まれていくのだった。
ノアの愛車の助手席に乗り込み、シートベルトを着けたテッドの頬をノアが手の甲で撫で、どうしたと問うように顔を向けると神父様の楽しそうな笑い声が聞こえてきたと教えられて憮然としてしまう。
「……明日、時間があれば家に来いと誘っておいた」
「うん。ありがとう。来てくれると嬉しいなぁ」
車を自宅に向けて走らせるノアの横、シートを少し倒したテッドが明日の丸鳥の下拵えをしないといけないなと笑う。
「……冷凍してたな」
「うん。帰ったら明日の下準備だけでもしようか」
岬の先端にある教会から二人が暮らす家までは三十分ほどで、夜の遅くだからかそれとも日中もそうだからか、すれ違う車もあまりおらず、ヘッドライトの明かりを頼りに安全運転のスピードで帰路を進むが、一台の車とすれ違う。
結局すれ違ったのはその一台だけで自宅に到着したノアは、テッドの古いピックアップの横の定位置に車を止めて降り立つ。
テッドが開けてくれているドアを潜って廊下に入り、寝る前にシャワーを使おうとバスルームへ向かおうとするが、そんな背中にテッドの緊張を帯びた声が投げかけられる。
「ノア……これを見てくれ」
その声が滅多に聞かない真剣さを通り越したものの様に思えて足を止めたノアは、廊下で何かを片手に呆然と立ち尽くすテッドに気付き慌てて駆け寄る。
「どうした?」
「……このカード、見覚えはないか?」
微かに震える声でテッドが手にしたカードをノアに差し出すと、白地の用紙の左隅に四つ葉のクローバーとチューリップがプリントされていて、それを目にしたノアが驚きに目と口を丸くしてしまう。
「アンシェラ!?」
「……そう思うか?」
クローバーとチューリップの組み合わせは有り触れたものかも知れなかったが、二人にとっては決して忘れることの出来ない一人の女性を連想させ、家を出る前にはポストに入っていなかった事をノアが呟くと、さっきすれ違った車はもしかすると彼女のものだったかも知れないとテッドが溜息を吐く。
ノアがテッドと知り合う何年も前から二人の間には確執があり、ノアの素直さが万年雪を溶かして春の暖かな日差しを与えてくれた結果、もしかすると彼女はここに来てカードを投函していったのかも知れなかった。
その事実は二人にとっては他の誰かがくれたプレゼントよりも重く歓喜の滲んだもので、宛名も差出人も書かれていないカードを裏返すと、クリスマスツリーとその下に小さなプレゼントボックスの絵が印刷されていて、無意識に安堵の吐息を零してしまう。
「……メリークリスマス、あなたとあなたの大切な人にとってこのクリスマスが安息を齎してくれますように、だって」
そのメッセージを読み上げたノアだったが、教会の時とは比べられない強さで肩を抱かれて分厚い胸板に身体をぶつけてしまう。
「テディ……良かったな」
「……お前のおかげだ、ノア」
あの時お前が俺を叱り飛ばしてくれてからだと心の奥底にある言葉を伝えると、ノアがテッドの背中に手を回す。
「うん。でもお前も頑張ったからだ」
あの時の頑張りが今こうしてカードという形で届けられたと、手にしたカードに感謝の言葉を告げたノアだったが、小さな文字であなたのクマさんにもよろしくと書かれているのを発見し、青い目をパチパチとさせてしまう。
「テディ」
「どうした?」
「……あなたのクマさんにもよろしくって」
きっとこれはお前のことだろうと呆然としつつテッドにカードを見せたノアだったが、じわじわと堪えきれなくなったのか、クマさんと繰り返しながら笑い出す。
「……笑うな、ノア!」
「だって……!」
きっと俺がテディと呼んでいるからだろうと笑うノアを少しだけ耳を赤くしたテッドが睨むが、いつまで経っても笑いを抑えられないようで、神父と恋人の二人から理由は違っても楽しそうに笑われてしまい、くそっと短く呟くと、いつまでも笑っているノアにタックルする様に抱きつき、慌てる痩身を肩に担いでベッドルームへと入る。
「あ、テディっ……!」
お前が何をするつもりなのか分かったから先にシャワーを使わせろと、テッドの肩の上でジタバタと藻掻くノアだったが、漁師という肉体労働で鍛えられている身体はびくともせず、暴れるなと尻を叩かれて情けない悲鳴を上げてしまう。
「ぎゃ!」
「……笑った罰だ」
「ちょ、テディ、待っ……!!」
待ってくれの言葉をノアは最後まで発することが出来ず、ベッドに沈む背中と噛みつくようなキスに目を白黒させてしまうが、テッドとのキスには気持ち良さをまず覚えてしまい、その手からカードが床へと滑り落ちる。
広い背中で翼を広げるドラゴンを愛おしむように撫でると、噛みつくようなそれが優しさだけを感じさせるものへと変化をする。
そうなれば止めることなど出来ず、仕方がないなぁと内心呟きながらテッドの重さをしっかりと受け止めるのだった。
イブの夜は二人きりの濃密な時間となり、ノアの手から滑り落ちたカードが部屋の隅でその密度の濃い時間が過ぎゆくのを見守っていた。
そして次の日は予定通りミアと彼女へのプレゼントを山盛り抱えたボブことロバートがやって来て、少し疲れているような、でもそれでも皆が来たことが嬉しいと言いたげな顔で出迎えてくれるノアとテッドが二人を歓迎し、ささやかなパーティーを開く。
用意した食事も半ばまでなくなった頃、車が止まる音が聞こえてドアベルが短く鳴り、テッドが玄関へと向かうと、まだ食い物は残っているかと神父よりは旧友の顔で笑うアンドルーがドアの前に立っていた。
「もちろん、残っている」
間に合って良かったと笑って旧友も招き入れたテッドは、リビングからアンドルーの到着に嬉しそうな声を上げる三人を友人の後ろから見つめ、こんな穏やかな時間を持てるようにしてくれた恋人へ心から感謝するのだった。
そして、カードを家に投函して立ち去った女性の上にも安息が訪れますようにと、ノアの写真と同じ壁にピン止めしたカードを見ながら心の内で祈るのだった。