小さな家の小さな部屋の小さな窓から差し込む朝日をベッドに腰かけた背中で受け、床に投げ捨ててあったシャツを手に取ったのは、緩くカーブしたくすんだ金髪を肩に付くぐらいに伸ばし、首に細めの革紐で小さな星型のペンダントトップを着けた青年で、髪を慣れた手つきで一つに束ね、背中で受ける朝日が気持ちいいと息を吐く。
そのシャツを着こんだ背中を、褐色の鍛えた腕を組んで深刻な顔をしながら窓の横の壁に背中を預けた男がじっと見つめ、立てた膝頭をそっと撫でる。
「……行くのか?」
「……うん、そろそろ行かないと……」
間に合わなくなると、背中に申し訳なさを滲ませた青年が肩越しに振り返り、深い海の色のような双眸で見つめてくる男に小さく笑みを浮かべる。
「……まだ良いだろう?」
「……それは……俺もそうしたいけど……」
でも、ダメなんだ、どうしても行かなければならないんだと、ベッドを軋ませながら青年が立ち上がるとほぼ同時に男も動き、巨体の割には素早い動きで青年の腕を掴む。
「……っ……!」
「行くな」
「……で、も……」
男がぐいと力を込めると細身の体が揺れてベッドに再び座ってしまう。
その背中を抱きしめ、束ねられた金髪の傍に顔を寄せた男が何事かを囁きかけると、細い肩がびくりと揺れる。
「……行かせたくない」
昨夜から何度も繰り返した言葉を青年の白い肌に落として口づけた男だったが、抱きかかえた身体に震えが走った事に気付き、白い首筋に再度口づける。
だが、その直後に頭上に痛みが走り、痛いなと呟くものの、間近にあるロイヤルブルーの双眸に睨まれていることに気付き、次の行動を咄嗟に読み取って抱きしめていた細い体を手放してベッドから飛び降りる。
「クライアントとの約束に遅刻するって言ってるだろ!?」
俺の仕事が失敗しても良いのかと滅多に出さない大声を張り上げ、何食わぬ顔でベッドルームを出ていこうとする、大海原の上を悠々と飛ぶドラゴンの翼が描かれた背中に向けて青年が飛び掛かる。
「逃げるな、テディ!!」
「ははは」
「ははは、じゃないっ!!」
何があっても倒れることのない広い大地のような背中に飛び乗り、背後から悔しそうな顔で罵声を浴びせたのは、この後クライアントと一緒に仕事現場へと出向かなければならないノア・クルーガーだった。
そのノアを難なく背負いながら尚も笑い続けるのは、ノアが一目惚れをして遠距離恋愛の末に己の家で二人暮らしを始めたテッド・ハリスで、今回の仕事が成功裏に収まることをノア以上に願っている男でもあった。
それなのに、約束の時間に遅刻すると慌てるノアをあのように後ろ髪を引かれる気持ちにさせるのは、偏に離れ離れになってしまう時間への寂寥感からだった。
お前はどこのティーンエイジャーだ、それともそんな大きな図体をした幼稚園児かと、ノアが出張で家を離れる直前に毎回繰り広げられるやり取りに、いつか本気でキレたらしいノアが腰に両手を当ててテッドを睨みつけたことがあった。
だがそんな怒りも喉元過ぎれば熱さを忘れるようで、毎回同じやり取りを繰り広げてしまうのだ。
「毎回毎回、仕事で遠方に行くたびに同じことを言って……!!」
「ははは。──でも、本音だ」
本当に、出来ることなら仕事に行って欲しくない、少しでも先延ばしにできるのならしたいと思っているのは本心だと笑いを収めて己の胸の前で交差する腕をポンと叩いたテッドは、背後から漂ってくる気配が変化をしたことに気付き、なあと呼びかけながらノアを背中から降ろして向かい合う。
「……ノア?」
「……そんなこと、言われた……本当に行けなくなるだろ……」
俺だって離れたくないのを我慢してるのにと、テッドの胸に存在する太陽にぶつぶつと告白するノアに小首を傾げたテッドだったが、呟かれる言葉の意味を聞き取った瞬間、痩躯を今度は前から抱きしめる。
「お前の仕事ぶりをまた見せてくれ」
「……見せない」
「どうしてだ?」
いつも一つの仕事が終わればクライアントから許可を得て自分のプレゼン用にブックレットを作るだろう、それを見せてくれと笑ったテッドの耳に流れ込んだのは悔しそうな見せないという拒否の言葉だった。
「俺も離れるのが嫌なのを我慢してるのに、それを理解してくれないテディになんか絶対に見せてやらない!」
意地悪なお前になんか絶対に見せないと叫びつつも、その意地悪な男の背中をギュッと抱きしめたノアの背中をポンと叩いてからかい過ぎたと反省の言葉を口にしたテッドは、タクシーで待ち合わせの駅まで行くつもりだったが腹が立ったから送っていけ、今すぐ送って行けと己の胸に頬を押し当てながら不明瞭な声で叫ぶノアの髪に口づけ、もちろん送ってやる、仕事が終わって駅に着く時間を教えてくれれば絶対に迎えに行ってやると約束をすると、深呼吸の後にノアがやっと顔を上げる。
その顔に浮かんでいる笑みはテッドがノアを初めてこの家に招いた夜に見たもので、その素直さに心の底から羨望と好意を抱いたことも思い出す。
「──ノア」
小さく名を呼び、何だと不思議そうに首を傾げるノアの顎を軽く持ち上げたテッドは、先を読んだ蒼い双眸が瞼で覆われたことに気付いて期待通りに唇を重ねる。
「──ん」
「仕事の邪魔をして悪かった」
車で送る用意をするからお前も用意をしてくれと、くすんだ金髪に手を乗せて軽く撫でたテッドにノアが素直に頷き、撮影予定は十日ほどだが天候次第では予定が伸びるかもしれない、でもお前が漁に出る前には必ず電話をすると、シャツを着こんで部屋から出てくるテッドに頷いたノアだったが、何かに気付いたのか顔中に笑みを広げてサムズアップをする。
「今回の仕事、撮影は夜がメインだからテディと同じ時間で生活できる!」
いつもはそっと抜け出したり送り出したりしているが、しばらくは同じ時間に起きて行って来いとスマホ越しに見送れると笑うノアに何も言えなかったテッドは、さっきとは少し違う気持ちでくすんだ金髪をくしゃくしゃにしてしまってやめろと睨まれてしまうが、赤みを帯びた頬に小さな音を立ててキスをし、忘れ物はないかと問いかけながらノアが廊下に用意しておいた仕事道具を丁重な手つきでピックアップの助手席に乗せる。
「……テディ」
「どうした?」
忘れ物のチェックを行った後に玄関のカギを掛けたノアが遅れてピックアップに乗り込み、カメラバッグを膝の上に抱えてシートベルトを引っ張るが、ピックアップのエンジンをかけるテッドを呼んで視線だけで振り向かれる。
「やれるかな?」
不意に芽生えた仕事への不安をぽつりと零したノアは、自らに発破をかけるように頬を叩いて大丈夫だよなと笑うが、太くて逞しい腕に肩を抱かれて引き寄せられ、その温もりに自然と目を閉じる。
「お前ならやれる、大丈夫だ」
「うん──頑張ってくる」
「ああ」
ノアなりの不安解消であり仕事に向かう儀式のようなそれを車内で交わした二人は、クライアントとノアが待ち合わせている町の駅に着くまでどちらも口を開かず、ただカーラジオから冬の一日が今日も始まる事を陽気な声でDJが音楽とともに伝える声だけが流れているのだった。
さすがに駅前に到着した時にまでテッドは子供じみた我儘な態度を見せることは無かったが、車から降りようとするノアの手を取ってその掌にキスをした後、胸元に光る小さな星のペンダントトップを手に取り、ノアの仕事が万事上手くいくように、何か障害が発生しても乗り越えられるようにと真摯に祈る。
その顔をじっと見降ろしていたノアだったが、お前が一緒だから大丈夫と、シャツの胸ポケットからテッドに初めてプレゼントされたマオリ伝統の意匠のペンダントトップを引っ張り出してキスをする。
「行ってこい」
「うん、行ってくる」
向こうに着いたらメッセージを送るし電話をするから必ず出てくれと笑うノアを車から出るとまた引き止めたくなるからここで見送ると拳を握りしめつつ笑顔で送ったテッドは、待ち合わせのクライアントと無事に合流したらしい背中が、高く掲げた右手首に小さな星のペンダントトップを巻き付けているのを遠目に確かめると、その手が振られた後に人の波に飲まれて見えなくなるまで見送るのだった。
その後、約束通りに撮影場所に到着した、本当に素晴らしいところだから次の休暇で一緒に旅行に行こうとのメッセージを受け取ったテッドは、ああとだけ返事をするが、お前の仕事が成功するのを楽しみにしている、だから後は何も考えずに頑張って来いとそっと背中を押すメッセージも送るのだった。