真夜中すぎの部屋は当然ながら静まり返っていて、同じベッドで眠っている恋人を起こさないように気を付けてベッドを抜け出したのは、今日も生活の糧を稼ぎに船を出すテッド・ハリスだった。
以前ならば一人でこの家で寝起きをし、漁に出る時間が来れば起きて適当に用意をしていたパンを片手に船に乗り込んでいたが、今は年下の恋人が食事の用意をしてくれる為、キッチンのテーブルにはテッドが船に持ち込むためのバスケットとポットが用意されていた。
バスケットの中には先日の漁の成果だが売り物にならない小魚類を開いてマリネにしたようで、それらがレタスや同じくマリネしたオニオンスライスとともに横に開いたバケットの間に収まっているものや、スモークチキンやパストラミといった腹に溜まって力も出るような食材がバケットから溢れ出しそうになっているものもあり、恋人の料理の腕前が日が経つにつれ上達していることを教えてくれていた。
そしてその横のポットにはこれはこの家で一緒に暮らし始めて知ったことだったが、絶品の紅茶-昨日リクエストをしておいたのできっと今日はミルクティーだろう-が満たされていることに気づき、漁に出る支度を手早く始める。
家の前に止めてある古いピックアップに道具類を積み込み、最後に助手席にバスケットとポットを積んだテッドは、家に戻ってベッドルームのドアを開け、ベッドの上が己が抜け出した時と大差ないことを確かめると、行ってくると小さく呟く。
その声に当然ながら返ってくるのは穏やかな寝息のみで、それを聞いて安心した顔で家を出て車に乗り込んだテッドは、周囲に家が存在しないために人工的な物音が何も聞こえない、遥か太古から何も変わっていないような星空の下へと車を走らせる。
自宅前からほかの漁師仲間たちがいる漁港へと向かう道中、今日の成果はどうだろうか、以前偶然発見した漁場に今日も行けるといいがと思案し、たばこを取り出して火をつける。
満天の星空だったが今日は新月で月明かりがないために車内であってもタバコの火の赤さが意外なほど目立ってしまい、つい癖でその火を消してしまう。
船の上でタバコに火をつけると、何キロ先でもその火が見えると叩き込まれた癖でつい消してしまうが、今はあの頃とは違って場所を弁えればいつでもたばこを吸えるようになっているはずだった。
癖というのはなかなか抜けないものだと微苦笑し、新たなたばこに火をつけようとした時、バスケットの中に入れておいたスマホが着信音を流し、慌てることなく手に取って耳にあてがう。
「ノア? どうした?」
スマホの画面に映し出されたのが恋人の名前だった為、一瞬ひやりとしたものを感じつつどうしたと問いかけるが、返ってきたのは荒い呼吸の音だけで、前後の車の流れなど気にする必要がない交通量だがハザードだけを点灯させて車を止める。
「どうした?」
『……テッ……、テディ……っ!』
荒い息に交じって名を呼ばれ、ただ事ではないと気付いたテッドがすぐに帰ると怒鳴るように伝えて通話を終えると、車体の大きさなど苦にすることもなくピックアップをUターンさせて元来た道をその時とは比べられない速さで戻っていく。
自宅前に猛スピードで到着したテッドは、エンジンをかけっぱなしにしたまま運転席から飛び降りて玄関のドアを開けようと伸ばした手は空を掴んで思わず前のめりになってしまうが、そのテッドの体を支えるようにか、それともぶつかるように何かが前方から体に触れたことで床に倒れこむような事態は回避される。
その安堵に一つ息を吐いたテッドだったが、背中に回った手が微かに震えていることに気付き、廊下の壁に背中を預けてぶつかってきた己に比べれば細い体をしっかりと抱きしめる。
「どうした?」
震える体でしがみつく恋人の背中を撫で、どうしたと普段は見せることのない根気強さを見せながらくすんだ金髪の下の耳に問いかけると、言葉の代わりにひと際大きな震えが体を伝い、この恋人が不定期に見せる顔を今見せているのだと気付く。
二人の出会いはシドニー発の飛行機で隣同士の席だったことだが、その後、信じられないほど屈託なく笑う顔や、そんな表情など信じられないと言いたげな冷たい顔、そして、人前なのにも関わらずに涙を流せる素直な顔を見せられ、気が付けば一緒にいたいと思うようになった結果、今こうして一つ屋根の下で暮らすようになったのだ。
出会った頃は年相応には絶対に見えない素直さに半ば呆れてもいたが、その根本にあるのが両親から受けた純粋な愛情と受けることができなかった人への罪悪感だと知った時に呆れは消え失せ、ただその笑顔を守りたいとだけ思うようになったのだ。
海軍という特殊な環境下で得た親友の一人娘を誤って死なせてしまった、血に穢れた己でも守れるのかという強い疑念の声は対象者である恋人が一瞬で老け込んでしまったような笑みを浮かべ、それを言えば人から愛される資格がないのは己も同じだとの言葉を聞いた瞬間に霧散し、気が付けば互いの背中を痛みを覚えるほどの強さで抱きしめていたのだ。
傷を抱えながらも日々を共に過ごし、可能な限りは笑っていようとどちらもそれを口に出さずに胸に秘めていたが、心の蓋の隙間から意志を持った何かのようにどす黒い何かが這い出して来ることがあった。
今、己にしがみつきながら震える声で名を呼ぶ恋人の心にそれが這い出しているのだと気付いたテッドは、壁から背中を剥がしたかと思うと、そっと体を反転させて震える背中を壁に優しく押し付けると、恋人とは年の離れた兄そっくりな顔を覗き込む。
「夢でも見たのか?」
「……恥ずかしい、よな……っ」
夢を見てこんなにも体が震えるなんて、まるで小さな子供みたいだと己を嘲る恋人の声に目を覗き込みながらゆっくりと首を左右に振ったテッドは関係ないとぼそりと呟くと、今一番何をしてほしいか言えとも告げて返事を待つ。
「……っ……情けな、……っ……!」
「ノア、関係ないと言ったぞ」
他の奴らの事など考えるな、今お前は俺に何をしてほしいんだと声に力を込めて自嘲や怯えが浮かぶ青い瞳を見つめると、色を無くした唇が何度か開閉した後、小さな声がハグしてほしいと希望を流す。
何が怖いのか、どんな夢に怯えているのかを聞き出せれば良いのだろうが、そんなに器用に動く舌をテッドは持っておらず、ただ一言、分かったとだけ告げて望みどおりに震える背中をきつく抱きしめる。
「……車の音……聞いて、たら……」
急に世界に一人きりになったような恐怖を感じてしまい、我慢できなくなったとテッドの胸板に顔を押し付けてくぐもった告白をするノアの髪や背中をゆっくりと撫で、気持ちが落ち着くようにとそれだけを願う。
良い意味での子供らしさを残し、それをフォトグラファーという仕事で遺憾なく発揮する恋人、ノアだったが、時折こうした不安定さを見せる時があった。
テッドが傍にいるときであれば胸の中の蟠りを口に出させるのだが、仕事で家を離れているときにも起こるようで、そんな時はさっきのように電話をかけてきたり、メッセージを送ってきたりしていた。
だが今夜はまだ引き返せる場所にいた為、車をUターンさせたテッドは、間に合ってよかったと内心安堵の息を零し、震える背中を何度も撫でる。
いつもならばそろそろ落ち着きそうだったがどうやら今夜は様子が違っていて、いつまで経っても震えは収まらず、さてどうしたものかと上目遣いになる。
そんな様子に気付いたのか、ノアがもう大丈夫だと蒼白な顔で見上げてきた為、顔の傍に手をついてそんな顔で大丈夫と言って誰が信じるんだと眉根を寄せると、唇の両端が震えながら下がり、テッドの胸元を両手がギュッと握りしめる。
その姿はいい年をした大人には到底見えない幼いもので、ああ、今夜は本当にどうしたと囁きながら震える体を抱きしめ抱き直し、そのまま勢いをつけて抱き上げる。
「───!!」
「一緒に船に乗るか?」
そろそろ出航しないと漁師仲間が心配すると努めて明るく問いかけると、テッドの首にしっかりと腕を回したノアが無言で頷く。
「分かった。じゃあカメラだけ持ってこい」
お前の仕事道具であり体の一部になっているであろうカメラを取って来いと、子供を慰めるように背中をポンと叩き床に降り立たせると、気恥ずかしさと時間のなさから大急ぎで今ではノアの作業部屋になっている以前の客間へ駆け込む。
その背中をため息一つで見送ったテッドは、ベッドルームの開け放たれたままのドアを閉めようと手を伸ばすが、中に入ってベッドの足元に投げ出しておいたブランケットを手に取って出てくる。
「……準備できた」
「ああ」
やや俯き加減に告げるノアの頭にポンと手を乗せたテッドは、カメラを首からぶら下げる恋人に自然と笑みを浮かべ、これも持って行けと告げてブランケットをその手に持たせる。
「ひと仕事終わったら日の出が見れるかもしれないな」
「……そうだと、良いな」
「ああ」
さっきとは違って二人揃って家を出て車に乗り込み、助手席でバスケットを膝に抱えたノアの様子が落ち着きを取り戻しつつある事に気付いたテッドは、エンジンをかけっぱなしだったピックアップの運転席に乗り込んだ後、まだ強張っている顔に笑みが浮かんでくれることを願いつつ頬にキスをする。
「テディ?」
「お前が気に入るような写真が撮れれば良いな」
「……うん」
テッドの気遣いが嬉しくもあり面映くもあると顔をくしゃくしゃにしたノアの様子をミラーで確認したテッドは、少しだけ飛ばすぞと告げてさっきと同じような速さで漁港に向けてピックアップを走らせるのだった。
体を突き上げるようなエンジンの振動を、己のために用意された小さな椅子に腰を下ろして受け止めていたノアは、漁場に着いたことを身振りで教えられ、邪魔にならないようにと恋人でありこの船の船長でもあるテッドと入れ替わりに操舵室に入る。
そこで魚群モニターでも監視していてくれと笑われて素直に頷いたノアだったが、恋人の仕事の邪魔をしてはいけないとの思いと、万が一のことがあれば近くの漁船に連絡を入れるつもりでいた為、テッドの言葉にいつもの軽口も出てこなかった。
網を海へと投げ入れる作業を一人で行うことは辛くないのかと一度問いかけたことがあったが、誰かと一緒に船で仕事をするほうが気を使うから疲れると返されたことを思い出し、今ここにいてもいいのかという疑問が沸き起こるが、その瞬間、船首で作業をしていたはずのテッドが操舵室を真っ直ぐに見つめてくる。
まるで己の疑問を読み取ったかのようなそれに驚き息をのんだノアは、不意のそれを誤魔化すようにカメラを取り出し、濃紺と漆黒と星々が形を作る星座だけの世界にレンズを向ける。
生まれ育ったウィーンやその後引越しをして第二の故郷と思っているドイツ南部の大都市で仕事をしているときは大自然を相手にしていたが、星空の撮影に関しては素人よりも素人だった。
だが、この国に移住し、一日ぐらいでは変化のない星空を見上げていると自然とカメラに手が伸び、気が付けば星空の撮影をするのに不自由がないように道具類を買い揃えていたのだ。
大自然の写真で今まで生きてきたようなものだったが、まさか星空を写すようになるなど己でも想像できないことだった為に軽く驚いていたが、その写真を物の試しにと国が開催しているコンテストに応募したところ、予想外に評判が良くて賞をもらうだけではなく、次の仕事につながるような人脈も作ることができたのだ。
この国に移住して得ることのできたそれがノアを助けるようになったのだが、今も何となく写真を撮っていると、カメラのファインダーの中の漆黒と濃紺の境界線が滲み始める。
「……あ」
その滲みは何度か経験したことがあるもので、操舵室の壁に吊るしてある時計へと目を向けると、いつしか日の出の時刻が近づいていたことを知る。
ちょうどこちらにテッドが歩いてきた為、操舵室の窓から顔を出したノアは、そろそろ日の出の時間だと笑うと、テッドが窓枠に手をつきながら顔だけを海面へと向ける。
「そうだな」
己とは違って漁に出ると毎回見ている日の出直前の世界に目を細めたテッドが同意するように頷くが、ふと何かを思い出したようにノアへと顔を向けると安心したような笑みを浮かべる。
「テディ?」
「……何でもない」
その声に潜む安堵を感じ取れないノアではない為、僅かに顔を赤らめてうんと頷くと、頭に大きな手がポンと載せられる。
その温もりが自然と安心感をもたらし、重みに負けたように窓枠に額を押し当てると、手触りがいいと言いながら髪を撫でられる。
子供ではないいい年をした大人が、一人きりになる恐怖から心身の震えを抑えることができなかったなど情けない限りだが、それすらも許してくれているような温もりに手だけを挙げて頭上の褐色の肌の手を握ると、逆の手でその手を握られてしまう。
「ノア」
「……ん?」
そっと呼びかけられて顔を上げ、すぐ近くにただただ愛おしいと言いたげな顔を発見し、二度三度と視線を彷徨わせた後、有りっ丈の思いを込めてうんと頷くと、頭を撫でていた手で顎を固定され、その先を読んで目を閉じる。
触れるだけよりは深く、欲を感じさせるには浅いキスの後に素直に満足の息を吐いたノアは、くすりと笑う恋人を恨めしそうに見つめるが、さっきファインダー越しに感じた世界の揺らぎが肉眼でも捉えられるようになっていることに気付き、恋人の逞しい腕を叩いて合図を送る。
「……日が昇るな」
「うん……日が昇るね」
太古の昔から、それこそ人類がこの地球上に生まれる前から繰り返される自然現象だが、濃紺が色を薄めた青へと変化をし、その青を圧倒するようなオレンジや赤い色が海の下から顔を出してゆく様を見ているだけなのに、どうしてこんなにもホッとするのかと呟いたノアだったが、作業に戻ったテッドの耳には届いていなかったようで、振り返りつつどうしたと問われて何でもないと、船に乗る直前とは比べられないほどの明るさを取り戻した顔でテッドを安心させるように笑うのだった。
海中に投げ入れていた網を機械を使って回収し、網から魚を外したり船内に落ちた魚を船底に作ってある水槽へと投げ入れる作業を手伝ったノアは、ウィンチがゆっくりと動きを止める音に気付き、操舵室の椅子に置いたバスケットを取りにいく。
戻ってきたノアの手にはバスケットとブランケットがあり、小さな椅子を二つ並べて一つをポンと叩いてテッドに腰を下ろせと合図を送る。
それに気づいたテッドがそこに腰を下ろすとノアも隣の椅子に座り、バスケットからバケットとミルクティーを満たしたポットを取り出し、時間的には朝食だがテッドにとってはランチを食べるためにバスケットをひっくり返してそこにバケットを並べる。
「今日はテディがリクエストしたからミルクティーにした」
「この紅茶、美味いな」
同じ茶葉を使っているはずなのにどうして俺が淹れると渋みが出るんだと、カップにミルクティーを注ぐノアの手元を見つめながら不思議そうに問いかけたテッドは、どうしてだろうなぁと長閑な声に返されて納得がいったようないっていないような顔で一つ唸るが、やはり今日の紅茶も美味いと笑みを浮かべ、それを見たノアの顔にも笑みを浮かべさせる。
その笑顔がいつもテッドが見ている屈託のないものに近いと気付き、カップを逆の手に持ち替えてその手でノアの頬を撫でると、驚いたように青い目が丸くなる。
「もう大丈夫だな?」
「……うん、平気だ」
ありがとう、仕事の邪魔をしてしまったと反省に俯くノアの頬をもう一度撫でて顔を上げさせたテッドが一緒に仕事ができて俺は嬉しかったが、良さそうな写真は撮れたのかと問いかけ、慌ててカメラのモニターで夢中になった証の写真を確認する。
「テディが気に入ったのがあればリビングに飾ろうか」
「それもいいな」
こうして次の仕事に繋がるかもしれない写真を一緒に確かめることも自宅に飾ることも二人だから出来ることだと思い出し、ノアがさっきとは逆にテッドの頬にキスをする。
「ダンケ、テディ」
「ああ」
子供のように怯えたり老人のように諦観の目で世間を見つめるのも構わないが、そのどちらも己の前でのみ見せてくれと我儘を口にしたテッドは、驚きに目を見張った後、顔をくしゃくしゃにするノアの肩に腕を回して抱き寄せると、お前が作ってくれたサンドを一緒に食おうと笑いかけ、間近にある顔に心の底からの笑みを浮かべさせるのだった。
そんな二人を、すでに高く上った太陽が見下ろしているのだった。