ノアがダニーデンに移住し10日程経ったその日、二人は宿泊予約を入れたウェリントンのホテルに到着し、部屋に入って移動の疲れを取っていた。
大自然を相手に仕事をしているからか、飛行機の中で読んでいた雑誌で紹介されている北島の自然について、テッドが良い意味で感心してしまうほど好奇心を丸出しにしたノアが、足元に置いたカメラで何を写そうか、どんなものが自分の目を耳を心を楽しませてくれるだろうかと嬉しそうに笑い、テッドが知る限りの情報を開陳させられたのだ。
その横顔に無意識につられて笑みを浮かべている事に飛行機の窓に映る己の顔から気付き、ウェリントンに行くのにこんな穏やかな気持ちになれるなんて今まで考えられなかったと内心安堵するが、その心の奥底にはまだあの日の硝煙の匂いと無言の世界の中で泣き叫ぶ親友の顔が見え隠れしていた。
その顔を見ないように、今横で楽しそうに笑う恋人の顔で封をしようとしたテッドは、クラフトビールツアーなんてものもあるぞと雑誌を指さすとノアの目がきらりと光るが、その下に見える天文台の方が気になったようで、そちらもいいなぁと楽しそうに笑う。
その笑顔を見ているだけで十分だった。
これから向かう先が己にとって思い出したくない辛い過去が未だに血を流し続ける傷口を抉るものとなったとしても、こうして隣で笑うノアがいれば大丈夫だと、気負うでもなくごく自然とその言葉が胸の中に生まれ、己の思考ながら驚いてしまったテッドだったが、そんな様子を実は雑誌から目を挙げたノアが見ている事に気付かなかった。
ホテルの部屋に入って二つ並んだベッドの壁際にノアが大の字になって寝転がり、壁際が好きなのかと笑うと寝相が悪いからと子供のような言葉が返ってくる。
「壁にあたればそれ以上転がれないだろ?」
寝返りを打って頬杖をついて楽しそうに立てた膝から下をぶらぶらと揺らすノアに何だそれはと笑ったテッドは、そんなノアに覆い被さるように腹這いになると、重い重い、降りろクマという暴言が笑い声まじりに上がり、誰がクマだと言いながら寝返りを打つと己の上でノアがゴロリと寝返り、好奇心に満ちた蒼い瞳に見下ろされる。
「……ノア、仲間との飲み会は何時からだ?」
「6時だったかな」
もう少し時間があると笑うノアに頭を上げてキスをすると、ここにくるまでに良さそうなカフェを見つけた、コーヒーを飲みに行かないかと誘い、良いなそれと満面の笑みで頷かれる。
「あ、じゃあカフェから直接店に行くか」
「そうだな、そうすればどうだ」
お前が友人と会う間適当に時間を潰していると笑ったテッドの目の奥に今のノアが読み取れない色が浮かぶが、そうしようとテッドの上で起き上がり、クマと罵った恋人の手を取って引っ張り起こす。
「ホテルのキーはそれぞれ持っていれば良いか」
「そうだな」
「帰る前に電話する」
「ああ」
だからカフェでコーヒーを飲んだ後少しだけお別れだと笑って額を重ねてくるノアの背中を撫でてそうしようと頷くと、ノアに合図を送ってベッドから立ち上がる。
「見つけたカフェってどんな店だった?」
「クライストチャーチで再会したカフェを覚えているか?」
出かける準備をしながらテッドが笑うともちろん覚えているとノアが返し、財布をスられたからなぁと、二人が再会したカフェの様子を思い出しながらショルダータイプのカメラバッグに貴重品を詰めると、そういえばそうだったなとテッドが思い出し笑いに肩を揺らす。
「今日も財布は二つに分けているのか?」
「もちろん」
世界中撮影のために訪れる機会があるが、その中ではやはり命の危機に何度か面したこともあると慎重さを感じさせる顔でノアが肩を竦め、ただ自分は紛争地域や危険地帯には絶対に行かない事にしているからと伏し目がちに呟く。
「どうして?」
「弱々しいとか思われても良いけど……」
俺の目を通して見える世界、それを具現化した写真を見た人が綺麗だと、素敵だと見終わった後に少しでも気持ちが明るくなるそんな写真を撮りたいからと、言葉だけは優しいが蒼い双眸には決して揺らぐことのない決意を秘めて小さく笑うノアに、こんな顔も出来るのかとまた一つ新しく知ることのできた恋人の顔にテッドが自然と小さな吐息を零す。
初対面に近い状態で涙を流し、感情の起伏を隠さずに表せる、大人になってからは躊躇しがちなそれを行うのは子供じみた行為だと以前なら嘲笑すらしていただろうが、他人の前で涙を流せるのはそれは強さの証ではないのか。
人に嘲笑されようがその時己が感じた感情を臆すことなく表現できる、それは強い人間ではないのか。
そんなことをノアと出会ってから時折考えるようになっていたテッドは、今もまたその考えが脳裏に浮かび、知人に危険地帯ばかり取材しているジャーナリストがいるが、彼女と会う時は毎回それが最後になっても良いように後悔がないようにしていると笑うノアの頭にポンと手を載せ、何だと上目遣いに見つめられてクシャクシャとかき乱す。
「テッド?」
「……もしかすると本当に強いのはお前なのかもしれないな」
「は?」
「何でもない。……クライストチャーチに行くことがあったらあのカフェにまた寄ってやってくれ。あいつも喜ぶ」
「あの時美味いラテを入れてくれたバリスタの彼?」
「そう。────彼も海軍の関係者だ」
「ふぅん、そうか」
ならクライストチャーチで仕事をすることがあれば、あのホテルに泊まって朝食はあのカフェで食べるのを決まりにしても良いなと笑うノアにテッドも笑い、そろそろ出かけないとお前と一緒にいる時間が減ると告げると、ノアの顔が少しだけ赤く染まる。
「……ずるいよなぁ。そういうこと平気な顔で言うんだからなぁ」
「何か言ったか?」
テッドの一言にぶつぶつと不満を口の中で転がしたノアに出かける準備を終えてホテルのキーを手にしたテッドが首を傾げるが、何でもないと舌を出してカメラバッグを手に取ると同じようにキーを片手にホテルを出るのだった。
ノアとカフェの外で別れたテッドは、嬉しそうに角を曲がるノアの背中が見えなくなるまで見送った後、一つ息を吐いて夏の空を見上げる。
夏になって日没が遅くなり、まだまだ陽は照っていたが、ノアが消えると同時にテッドの顔には翳りが増え、溜息をもう一度零して腹を括ったように一つ頷くと、通りの少し先にあるバス停に向けて重い足取りで歩いていく。
テッドが乗ったバスは市街地を離れて郊外へと向かうもので、目的地の近くのバス停に到着したことに気付いてバスを降りたテッドは、久しぶりに来た街の様子に変わっていないと思いながら花屋へと向かう。
「ハロー、今日は風が強いですね」
「ハロー。この街はいつきても風が強い気がする」
「確かにそうですね」
店員と言葉を交わしながら花屋に来た唯一の目的、花を買う為に店内を見回したテッドは、夏の盛りの色とりどりの花をいくつかチョイスし花束にして欲しいと伝えると、誰かへのプレゼントですかと問われて一瞬どう返そうか悩むが、そこで眠っている知人に手向けるものだと返すと、店員も事情を察したのか、少しお待ちくださいとそれ以上は何も言わなくてもテッドの目的に沿った小さな花束を作ってくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
花束を受け取って礼を言ったテッドは、道路を渡って鉄のアーチを潜って緩やかな上り坂になっている整備された道を歩いていく。
徐々に強くなる潮の匂いとそれを運んできた風に目を細め、目的地である海に最も近い一画に到着したテッドは、眼下の少し古くなっているがそれでも手入れがされている大理石の墓石を見つめ、片膝をついて持ってきた花束を墓に手向ける。
花束に隠れた墓石に刻まれているのは、アメリア・ハリスという名前と、生まれた日付と短すぎる生を終えた日付で、その下には皆に愛された少女、神にも愛されて神の御元へ旅立つという一文だった。
その一文を指先でなぞったテッドは、ここに来る回数をすでに数えることは止めてしまったが、永遠の眠りについた少女の心が少しでも癒されればとの思いから短くも真剣な祈りを捧げて立ち上がる。
アメリアの魂が安らげますように、そして、アメリアの両親の心にも平安が訪れますように。
その祈りはテッドの中では決して忘れることのできない思いとして存在していたが、もう一度三人のために祈った後、静かに踵を返し、潮風を運んで吹き抜けていく風を受けながら整備されている坂を下っていく。
墓地の鉄のアーチを潜った時、ここにくれば再会する可能性が高い女性が大きな花束を抱えてやってくるのを発見し、思わず周囲を見回したテッドは、まだ彼女がこちらに気付いていない事を祈りつつ墓地の鉄格子沿いに歩いて角を曲がり、己の姿が発見されていない事を祈る。
もしも発見されていれば絶対に聞こえてくる底冷えのする声は聞こえてこず、墓地の石畳をヒールで歩く足音だけが聞こえてきた為、胸を撫で下ろしてそのまま元々来た道とは違う方へと進み客待ちをしていたタクシーを発見すると、そそくさと乗り込んでホテル名を告げ、訝るようにミラー越しに見てくるドライバーの視線を黙殺するのだった。
だから、駆け足で墓のゲート付近に戻ってきた女性が肩で息をしながら周囲を見回した後、手にした小さな花束をこの世の憎悪の全てを込めた顔で道路に叩きつけ踏み躙る姿を見ることはないのだった。
スコープの硝煙と火薬の匂いの向こうに見えるのは、一人の少女が泣きながら必死に逃げ惑う姿。
スコープの中で拡大された世界を凝視していると、少女を追いかけるように建物の影から出てくる男の姿が見える。
標的を発見したと合図を送り、今まで数え切れないほど行ってきたスナイパーライフルの引き金を引く準備を機械的に行ったその時、スコープの中で男が常軌を逸したように腕を振り上げ振り下ろす。
男の手に握られているのはハンドガンで、マズイと思いながら引き金を引く。
スコープの中で正確に狙った弾丸が男の肩付近へと当たり、着弾の反動で男が吹っ飛ぶのを確認しながらハンドルを引くと薬莢が排出され、次弾の準備にハンドルを倒す動作を息を吸うよりも自然と行うが、その時、男が手にしているハンドガンの銃口に火花が見えた気がし、スコープをほんの少し動かした先、まるで糸が切れたマリオネットのように少女が膝から地面へと崩れ落ちる光景が飛び込んでくる。
『!!』
その光景は地上にいた他の仲間や警察も目撃していて、吹っ飛んだ男と同時に少女に駆け寄る仲間を呆然と見下ろすことしか出来なかった。
その中で蒼白な顔で少女の名を呼んでいるであろう親友を発見し、力なく彼に抱き上げられる少女の顔をスコープで覗き込んだ瞬間、己の行動が取り返しのつかない結果を招いた事に気づく。
ヘッドフォンとスコープによって音もなく異様に拡大された世界で繰り広げられる悲劇を離れた場所から見守ることしか出来なかったテッドは、仲間が肩を叩いて合図を送るまで呆然とその場所から動くことも出来ないのだった。
「────!!」
水面へと急激に浮上した時のような眩しさと水圧が消えたのに息苦しさを感じつつ目を開けたテッドは、まず今己がどこにいて何をしているのかを思い出そうとその場に起き上がる。
脂汗を顔中に滲ませながら周囲を見回し、ここが今夜宿泊する事にしたホテルであり、今寝ていたのはツインルームの窓側のベッドで、今夜一緒に泊まるはずの恋人、ノアはまだ仕事仲間と飲んでいるのか帰ってきてはいなかった。
腕で額の汗を拭って溜息をついたテッドは、全身汗まみれで気持ちが悪いためにシャワーを浴びようとベッドから降り立つが、膝が震えて力が入らない事に気付き、ああ、やはりウェリントンには来たくなかったと舌打ちをする。
ノアが隣にいる時は平気だったが、ひとりになれば決して忘れることのできない光景が脳裏に浮かび、咄嗟に頭を振って己が覗いていたスコープの中の世界が今へと甦るのを防ぐと、膝に力を込めてバスルームへと向かう。
バスタブに湯を溜めている間に顔を洗って脂汗を流し鏡の中の己を見つめれば、顔色は悪くまるで死にかけの老人のように疲労が滲んでいた。
「……恨まれても仕方がないな」
あの時事情を知った仲間たちからあれは仕方がなかった、不可抗力だと慰められたが、事件の数日後に亡くなった少女とその両親のことを思えば不可抗力という言葉でも気持ちが浮上することはなかった。
だからその後すぐに軍を退役し、ニュージーランドの北島を離れて交流はなかったが唯一の肉親だった祖父が暮らしていたダニーデン近くのあの家に、まるで人生から隠遁するように引っ越したのだ。
そのことをありありと思い出し、やはり思い出してしまうかと苦く笑ったテッドは、湯が溜まった事に気付いて服をバスルームの外に投げ捨てると、バスタブの中に座り込んで膝の間に頭を突っ込む。
一度こうなってしまえばなかなか気分が浮上しないのは経験上分かっていて、以前ならばこの気持ちのまま顔馴染みのコールガールと待ち合わせをして考え事をしなくても済むようにしていたが、今は前と違ってノアと一緒にいるのだ。
コールガールにしていた乱暴な抱き方はしたくなかったし、こんな姿は見せたくなかった。
己の失敗で大切な人の大切なものを奪ってしまい、まるで逃げるようにダニーデンに引っ越した情けない己など、見られたくはなかった。
だから一刻も早く夢の残滓を洗い流してノアが知っている己に戻らなければと顔を上げ、少し熱めのシャワーを頭から浴び、顔に当たっては流れ落ちる湯の感触に目を閉じると、過去が夢の残滓となって流れ落ちていくように感じられ、何とか大丈夫だとシャワーの中で息を吐く。
これで無様な姿は見せずに済むと苦笑した後立ち上がり、ボディソープを使って体を洗っている時にドアが開く音がやけに耳に鮮やかに届き、泡を流し終えてシャワーを止めてつい息を殺してしまう。
帰るときには電話をすると言っていたノアからの着信は来ていないはずで、時間は8時を過ぎたばかりでまだ夜としては早い時間だった。
久しぶりに会う仲間と聞けば店がクローズするまで飲んでいそうなものだと思いつつも、脳味噌ではどこか冷静にホテルの従業員がマスターキーを使って鍵を開けたのかと疑い、壁のスチールラックに置いてあるタオルを手に巻きつけて端を引っ張る。
そっとドアを開けたテッドは、バスルームの入口と対面するように壁に掛けられている姿見の端にくすんだ金髪が見え隠れしている事に気づき、それが己の恋人のものと似通っていることにも気づくが、タオルを握る手に力を込めつつノアかと問いかける。
「……シャワー浴びてたんじゃないのか?」
電話をしても出ないしメッセージを送っても返事がなかったから帰ってきたが、シャワーの音が聞こえたから風呂に入っていると思っていたとバスルームの壁とベッドの境界あたりから声が聞こえ、その声が紛れもなく飲みに出かけていたノアのものだった為、ようやくテッドの全身から力が抜けて手に巻きつけたタオルが床に落ちる。
この街にいると忘れ去りたい過去が今のように静かに忍び寄ってくる。
可能ならば今すぐにでも自分が自分でいられるあの家に帰りたかった。
ノアが好きだと笑い、己自身見慣れていたために何とも思わなくなっていた星空を見上げたあの庭に帰りたかった。
床に落ちたタオルをじっと見つめていたテッドだったが、不意に強く名を呼ばれて我に返って顔を上げると心配そうに目を細めるノアがいて、服が濡れるのも構わずに両手を伸ばして痩躯を抱きしめてしまう。
「……っ、テッド……?」
どうしたと問いかけつつもそっと背中を撫でてくれる優しい恋人に何でもないと言いたかったが喉がカラカラに乾いてしまい、声が喉の奥に張り付いてどんな言葉も出てこなかった。
だから言葉の代わりに腕に力を込めると、何かを察したノアが背中を撫でていた手を下ろして腰に回し、全てを受け止めるようにテッドの肩に頬を押し当てる。
「……何か嫌な事でもあったか?」
ここにくる事を決めた時から少しだけ様子が違っていたし飛行機の中でもちょっとだけ様子が変だったと、気付かれていないと思っていた感情の起伏をしっかりと見抜いていたノアの言葉に軽く驚いたテッドだったが、流石に全てを話すことも出来ず、知人の墓参りに行ったがいつもこうなってしまう、俺は情けない男だと自嘲すると、情けなさの勝負なら俺も負けないと軽口を装った言葉と小さな笑い声が肩の辺りから聞こえてきて、そっと顔を覗き込めば照れたように目尻を赤く染めたノアが、数えるほどしか会ってないのに大泣きしてベッドに運んでもらったのは普通に考えても情けないだろうと子供じみた顔で笑う。
「どんな理由で情けないと思ったのかは知らないけど……情けなくても良いよ」
俺はお前にはいついかなる時でもスーパーヒーローでいてほしいなんて思っていない、情けないところも弱いところもどんどん見せてほしいと思っていると真っ直ぐに蒼い目に見据えられて呼吸を止めそうになったテッドだったが、ただ、贅沢を言えば俺の前だけにしてほしい、他の誰かの前では誰よりも強くてかっこいいテッドでいてほしいとも笑われて自然と口の端が持ち上がる。
「あ、でもそれだと俺以外にお前のことを好きになる人が出てくるかもしれない」
ああ、だめだだめだ、前言撤回。テディは俺の前だけでかっこよくて情けなくて良い、他の人には程々の格好良さを見せてくれと、テッドを初めて愛称で呼びながら身振り手振りで慌てふためく様を盛大に披露しつつ己の本心を吐露したノアについに堪えきれずに小さく吹き出してしまったテッドが肩を揺らし、受け入れられる安堵と己の恋人がノアで良かったという思いとが滲んだ涙を指の背でそっと拭い、茹でたロブスターのように真っ赤になった顔で何だよと口を尖らせるノアの頬を両手で包んでそっと口付ける。
「……いつかお前が良いと思ったタイミングで教えてくれ」
お前がこれまで歩んできた人生はきっと波瀾万丈なものだっただろう、それをいつか教えてくれとテッドのタトゥーの翼に手を添えたノアは、あまり褒められた過去じゃないと苦笑する恋人の背中をギュッと抱きしめる。
「……過去は褒められないかもしれないけど、今はそうじゃない」
今は漁師として立派に働き、きっと姪っ子や友人からも信頼され愛されている男だと肩にキスをしたノアは、誰にも褒められないのなら俺が褒めると、誰よりも自慢している顔でテッドを見上げ、苦しいと思わず呟いてしまうほど強く抱きしめられる。
ノアのその言葉は何も知らないからこその優しい言葉だと思う反面、ノアならば全てを知った後も変わることはなくこうして抱きしめてくれるのではないかという希望も感じ取れるもので、その希望に賭けても良いかと自問したテッドは、ノアが腕の中でだからベアハグは止めてくれと言っていると藻搔いている事に気付き、謝罪の代わりにこめかみに口付ける。
「────いつか、聞いてくれ」
「良いよ。全部聞く」
だから話してくれと頷いたノアは、仕事仲間との飲み会が呼び出しをくらった友人が早々に帰った為消化不良になった、だからテッドが平気ならホテルのバーで飲み直さないかと誘うとテッドがノアから離れるが、俺も着替える必要があるかもと己の服を見下ろしてくすくすと笑う。
「風呂上がりの旨い一杯を飲みたいから俺もシャワー使おうかな」
「一緒に入るか?」
「うん、そうする」
初めて互いの想いを告白した時もホテルで一緒にシャワーを使ったと笑うノアに確かにと呟きつつあの夜のノアを思い出すと自然と笑みが溢れてしまい、胡乱な目つきで睨まれてしまう。
「……必死だったなと思っただけだ」
「誰かさんが?」
「誰かさんもな」
何だ、お互い様じゃないかと笑うノアの腰に腕を回すと自然と同じように腰に腕を回され、さっき出てきたばかりのバスルームに舞い戻ったテッドは、床に落ちたままのタオルを記憶の蓋の奥に閉じ込めるように棚に戻すと、服を脱ぎ始めるノアを横目に一足先にシャワーを浴び直すのだった。
移住してからドイツにいた頃とは比べられないほどカメラに対する情熱を取り戻していたノアが、翌日の飛行機の搭乗時間までをフル活用して有名な建築物や街並みを撮影し、その時に観光客相手のショップで見つけた掌に乗るサイズのキウィのぬいぐるみを発見し、愛嬌のある顔に一目惚れしたと、テッドには理解できない理由からそれを買ったノアに何も言えなかったが、どうやら随分と気に入ったようで、カメラバッグにそれを早速つけていた。
そのキウィのぬいぐるみとノアが大量に写した写真と少しの疲労感を伴って自宅に戻ってきた二人だったが、テッドがノアの荷物をピックアップから下ろしている間に玄関のドアを開けたノアは、たった一泊留守にしただけの家の空気を吸い込んだ瞬間、言い表しようのない安堵感を覚え、どうしたと顔を覗き込んでくるテッドに照れたような笑みを見せる。
「いや、もうここがすっかり俺の家になったなぁって」
この家の空気が当然のものになっていると笑ったノアにテッドが当たり前だ、この家はもうお前の家でもあるんだからと当然の顔で返し、ノアもうん、そうだと頷きドアを閉める。
ドイツで暮らしていた部屋ともその前に暮らしていたウィーンのアパートとも、そして両親とともに暮らしていたアパートとも何もかもが全く違う家なのに、すでにここが、こここそが己の家だと思える幸福に不意に気づいたノアは、荷物をリビングに運ぶテッドの広い背中をじっと見つめて少し遅れてリビングに入ると、冷蔵庫からビールを取り出すテッドに後ろからしがみつくように抱きしめる。
「どうした?」
「……ウェリントンに付き合ってくれてありがとう、テディ」
お前にとってはもしかすると辛い場所かもしれないのに、俺のわがままに付き合ってくれてありがとうと背中に礼を言うと、そう言えば昨日も一度そう呼んでいたなとテッドがビールを一口飲んで満足そうな吐息まじりに呟き、ノアの腕の中で何とかノアに向き直ると、赤く染まる目尻にキスをし、ビールのボトルをシンクに置くと、目を丸くするノアの腰に腕を回して掛け声一つで抱き上げる。
「わっ!!」
「……お前の兄貴みたいに所構わずはさすがに恥ずかしいけど二人きりの時はそれが良い」
「へ……?」
蒼い目を瞬かせるノアに夜にだけ見せる笑みを浮かべたテッドは、お前にテディと呼ばれるのは何か特別な気がするなと告げて鼻の頭にキスをすると、額にお返しのキスが降ってくる。
「俺はノアだから省略もできないし……」
「ノアはノアで良い。誰もが呼んでいても関係ない」
お前はその名前の通りに俺を新しい世界に導いてくれるのだからと、自慢の宝を手に入れた子供のような顔で笑うテッドに見惚れたように目を丸くしていたノアだったが、笑顔で告げられた言葉の意味が胸の奥にまで浸透した時、言い表せない熱のような痛みのようなものがそこに芽生えた事に気づき、テッドの頭に覆い被さるように抱きしめる。
「俺も……」
お前に呼ばれる俺の名前が好きと、頭から引き剥がされて不満を訴えるように軽く口を尖らせるノアを宥めるようにキスを繰り返したテッドがベッドでもそう呼べと笑うと、ノアの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
恋人と付き合ったこともセックスの経験がないわけでもない成人男性のその様子がおかしさよりも素直さを感じさせ、照れるなと熱を持つ頬にキスをすると、意味のない音の羅列がノアの口から流れ出す。
「よし、ベッドに行くぞ」
「わ、ちょっ! なにがよし、だ!」
俺は良くない、良いけれど良くないと、羞恥から正反対の言葉を繰り返すノアを黙らせる為キスで口封じをするとテッドの口内にモゴモゴと不満の音が溢れるが、それが言葉だけであることを示すようにノアの両手はしっかりとテッドの頭に回されているのだった。
隣から聞こえる穏やかな寝息が一瞬蘇りそうになった硝煙の匂いを掻き消し、クリアになった意識ですぐそばに聞こえる寝息の主を見るように顔を横に向けると、疲れていても満足そうな寝顔を見せているノアがいて。
起こさないように気を付けつつ寝返りを打ってさっきまで汗ばんでいた背中を抱き寄せると、心地よい眠りを妨げられる不満を不明瞭な声で零しつつも大人しくテッドの腕の中に身を寄せてくる。
起きている時も寝ている時も素直なのかと感心してしまったテッドが小さく肩を揺らすと、何だと今度は少し明瞭になった問いが聞こえ、何でもないから寝ていろと額にキスをするとテッドの腰にノアが腕を回す。
そして再び聞こえる寝息に大きく欠伸をしたテッドは、そろそろ仕事をしないといけないなと思いつつ、仕事を始める時にはノアが起きてノーティカルスターを首に掛けてくれる約束を思い出し、漁に出る前に好きな人に見送られることに少しだけ面映さを覚えるが、それもまたノアとだからこそ経験できることだと気付き、半年近くの遠距離恋愛を経て単身移住してくれた恋人の頬に感謝のキスをし、テッドも旅と少し前の激しく熱い行為から眠さを自覚し、もう一度大きく欠伸をして目を閉じるのだった。
ウェリントンのホテルで見た過去はこの夜はテッドの記憶の底から甦ってくることはなく、血の花を咲かせるその時を待ち侘びるように心の奥底の血の色をした静謐の中に蕾をつけているのだった。