自然と朝の気配に意識が浮上し、ああ、朝だと脳みそが呟いた途端、意識したのはジワリと汗ばむ暑さで、半ば意識が覚醒している中で考えたのは、倉庫を改装した部屋は暖房などほぼ無意味でいつも寒さを感じていたのにどういうことだという疑問だった。
その疑問を思い浮かべつつベッドに体を起こしたノアだったが、一瞬思考と体感の相違に目眩を覚えそうになり、体が感じている暑さの由来が理解できずに周囲を見回してようやくその理由に気付く。
昨日-正確には一昨日-まで暮らしていた部屋と随分と違うのだ。
ここ最近の部屋の様子は文字通りがらんどうで、マットレスと作業台しかなかったのに、木製のダブルベッドとチェストやナイトテーブルが見回した視界に入ってくる。
そして、次にノアの視界に入ってきたのは、ドアを開けて少し照れたような顔に笑みを浮かべつつ入ってきた大きな体だった。
「…起きたか?」
ちょうどよかった、朝飯を食うから起こそうと思っていたと笑うのは、この家の主であり己の恋人でもあるテッドで、彼の声と顔を見た途端、体が感じている暑さの理由を思い出し、ああ、そうかと呟いてテッドに不思議そうに見つめられて裸の肩を竦める。
「まだドイツにいる気分だった」
だから身体が感じる暑さの意味が分からなくて混乱していたと、北半球から南半球に来たことによる相違をようやく思い出した、もう俺はダニーデンに引っ越してきたのにと笑うノアの耳にベッドが軋む音が聞こえ頬にキスをされ、朝飯を作ってくれたのかと逞しい肩に頭を預けて小さく笑えば今度は髪に口づけられる。
「豪華でもない普通の朝飯だけどな」
「それでいいよ」
ここに来る飛行機のチケットがファーストクラスで道中は信じられないほど快適に過ごせ、出される食事もファーストクラスにふさわしい豪勢なものだった。
だけどそれを一人で食べる贅沢さと、ごく普通の朝食を好きな人と一緒に食べられる贅沢さを選択しろと言われれば、俺は迷うことなく普通の朝食を選択すると小さな欠伸交じりに口にすると、頬を指の背で撫でられて犬か猫のように目を細めてしまう。
「…今パンを焼いているから準備をしてから来い」
テッドの言葉に首を傾げたノアだったが、掛布団の下の己の姿を思い出し、無言で真っ赤になる。
「…ボクサーパンツ派だったんだな」
トランクス派かと思っていたと笑ってベッドから立ち上がるテッドの腰を恥ずかしさから一つ拳で殴ったノアは、そういうお前もボクサーパンツだろうと睨むと、朝からその姿でそんな顔は刺激が強すぎると、昨夜ベッドの中で見た太い笑みを浮かべられて更に真っ赤になったノアは、その笑みを見た時にずっと握りしめていた枕を掴んでテッドの広い背中に向けて投げつける。
「ヘンタイ!」
「はは。…もうすぐパンが焼きあがるから早く来い」
枕を拾い上げて投げて寄越しながら笑って部屋を出ていくテッドを睨みつけたノアだったが、一つ息を吐いて気分を切り替えると、床に落ちたままの下着にそそくさと足を突っ込み、布団の上に無造作に置かれていたバスローブを着込むと開け放たれたままのドアをくぐって朝食が待っているキッチンへと向かうのだった。
テッドが用意してくれた朝食は本人が言うとおりにごくありふれたもので、トーストにスクランブルエッグとカリカリに焼いたベーコンが大きめの皿に盛りつけられていて、シンク横の作業台に置かれた皿とテッドの顔を交互に見詰めたノアは、天気がいいから庭で食べたいと顔を輝かせ、好きにしろと鷹揚に頷かれる。
「飲み物は何にする?」
「んー、冷たいミルクがあれば欲しい」
「ああ」
皿を二つ手に一足先に庭に出たノアは、朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、これからここでこの空気をいつでも吸えると思うだけで吸い込んだ空気以外の理由から胸がいっぱいになる。
やっと来ることができたニュージーランドはノアを晴天で出迎えてくれたようで、青空をゆったりと流れる雲を見上げ、両手を突き上げて大きく伸びをする。
「…気持ちいいか?」
「最高!」
ミルクとバターやジャムといったものを運んできたテッドの声に顔だけを振り向けてうれしそうな笑みを浮かべたノアは、コンチネンタルでも良いのにと笑い、ベンチに腰を下ろす。
その向かいに同じように腰を下ろしたテッドは、今まではどんな朝飯だったと問いかけつつ二人のグラスにミルクを注ぐ。
「面倒だったらカフェに行ったりしてたかな」
「大きな街だとカフェが多くて良いな」
ここは南島でも比較的大きな街に近いが、やはりカフェなどは市内に出ないと存在しないと笑うテッドに確かにそうだがこの庭が最も近いカフェだとノアが頬杖をついて笑う。
「好きな飲み物を持ってくればこの庭がカフェにもなるしバーにもなるな」
青空や星空の下、晴れていれば最高に、雨の日でもそれなりにご機嫌になれる場所だと笑うノアにただ目を細めただけで特に何も言わなかったテッドだったが、ノアと出会ったときから感じていた素直さ-時には驚くべき純朴さに思えるそれ-に感心し、またその性質に惚れ直していた。
己の周囲にこんなにも己の感情を素直に表現する成人男性などほとんどおらず、感心すると同時に幼い頃両親に深い愛情をかけられていた証だとも気付くと、とうの昔に諦めていた家族という温もりを連想させるものに対する飢餓感が芽生えてくる。
両親に愛され素直に育つことができた環境の結果、今のノアが形成されたのだろうが、それを愛おしいと思うと同時に後ろ暗い感情も芽生えてしまい、頭を一つ振って一方の感情だけを追い払おうとする。
「…テッド、何を考えた?」
俺はリオンやウーヴェほど人の感情の機微に聡い訳ではないが、今あまり良くないことを考えたんじゃないかぐらいは見抜けると頬杖をついてまっすぐに見つめられて目を見張ったテッドだったが、ノアが頬杖をついていた手をそっと伸ばして己の頬に添えたことに気付き、小さく名を呼べば約束と目が細められる。
「約束しよう、テッド」
俺たちは出会ってまだ半年、その間遠距離恋愛を続けてきてその中で関係を深くしてきたが、これからはこうしてすぐ傍にいて互いの思いに気付けるようになった、だからなおさらのこと思っていることを口に出そう。何でも話し合って決めていこうと笑われ、ノアの手に手を重ねたテッドは、互いの胸に秘めて重く大きくなったそれが決壊した結果、二人の仲も壊れるなんてそんな最悪の結末は迎えたくないと笑われ、己の恋人がただ素直な、純朴すぎる男ではない強さも持っている事を改めて気付き、重ねた手を握るように力を籠める。
「またお前に嫌な思いをさせるかもしれないことを聞こうと思った」
「…両親のことか?」
「ああ」
ノアの手を握りながら伏し目がちに呟くテッドの耳に流れ込んできたのは、予想とは違った穏やかなもので、思わず顔を上げて正面に座るノアを見れば、声と同じく穏やかな表情で頷かれる。
「ウィーンから帰るときに電話しただろ?」
「ああ」
「あの時、ウィルとマリーのことはもう良いって、あの二人がウィーンで自分たちの夢に向かって生きているのなら、俺はここで俺の夢に向かって生きるだけだって思った」
以前なら両親の話を聞かれて瞬間的に目の裏が真っ赤に染まってしまったが、今は不思議と穏やかな気持ちで話すことができると肩を竦められ、あの二人もウィーンという町も己の中では過去になっていたと笑うノアの頬に手を伸ばしたテッドは、その手に頬を押し当てられて掌に吸い付くような頬をしっかりと包む。
「俺が生きたいのは…ここでお前と一緒に過ごす時間だ」
それ以外あまり望んでいないと笑われて頷いたテッドは、せっかくの朝食が冷めると慌てるノアを小さく呼んで首を傾げる恋人に立ち上がって小さくキスをすると、ジワリと嬉しそうな笑みが顔中に広がっていく。
その笑顔がテッドの胸に芽生えていた飢餓感を薄れさせたようで、食べてしまおうかと照れ隠しに呟くと、お前が訳の分からないことを言うからだと口早に非難されてしまい、俺のせいかと目を丸くすると、蒼い目をいたずらっ気たっぷりに細められ、この野郎と呟きつつノアの皿からベーコンを一枚奪い取る。
「あー! 俺のベーコン!」
「食いたいのなら冷蔵庫に入ってるから焼けば良い」
「そういう問題じゃない!」
立ち上がる勢いで叫ぶノアに片眼を閉じて早く食べないとベーコンの油が固まってしまうぞと笑い、トーストしたパンにベーコンとスクランブルエッグを載せると大きく口を開けて食べ始める。
そんなテッドの様子に不満をぶつぶつとこぼしていたノアだったが、ふと意識が切り替わったように小さな笑みを浮かべると、同じようにトーストにスクランブルエッグを載せて食べ始めるのだった。
いつか見た時は闇色一色の世界にオレンジとも赤ともつかない色が生まれ、何度か深呼吸をするだけでその赤が世界を染めていく感覚に囚われる。
初めて見たわけではない世界だったが、あの日のノアにとっては目に飛び込んできた色は初めて見るような色で、既存の色の名前を当て嵌めようと思っても難しい物だった。
だが、今ノアの目の前に広がる世界はあの日の世界を逆再生させているように闇色が赤を圧迫し始めていた。
だが、闇色と思っていた世界に目を凝らすと、数え切れないほどの星々が徐々に姿を見せ始め、そして気がつけば赤やオレンジに染まった太陽が海の向こうへと沈み、世界は波の音と時折吹く風の音に包まれる。
波の音と風の音の遥か上空に、種類などは不明だが、あっという間に見失いそうな速さで移動する明かりを発見し、ボートの縁に腰を下ろしているテッドを振り返り、人工衛星だと指を差す。
「そうなのか?」
「ああ。……種類までは知らないけど、人工衛星だ」
流れ星なら途中で消えてしまうはずだし、飛行機は明かりが点滅するはずだと笑うノアの顔を目を細めて見守っていたテッドは、朝食の後二人で街に買い物に出かけ、ノアの生活に必要なものを買ったり新しいスマホの契約をしたりと、二人で初めて出かけたことを思い出す。
そしてその中でノアがクラフトショップに寄りたいと立ち寄り、濃い色の革紐とヌメ色に近い革紐を購入し、何をするんだと目で問いかけたテッドに、後でのお楽しみと目を細めたのだ。
そのお楽しみの時間はいつだろうと思いつつ増えてきた星の明かりの中、テッドにとっては馴染み深い四つの星々が象る星座を見上げて小さく息を吐くと、ふと手首を掴まれて目を丸くする。
「どうした?」
「これ」
ノアの行動の根底にあるものがまだまだ理解できない為に、やる事なす事全てが己の好奇心を刺激してくる事に気付き、目を細めてノアがゴソゴソと何かを探っているのを待っていると、今度は手首に昼に購入した濃い色の革紐が巻きつけられ、満足そうに息を吐くノアの目の前でボートの照明に照らされてシルバーの星形をしたアクセサリーが鈍く光る。
「これは?」
「ドイツで買ってきた」
本当はこのデザインのタトゥーを背中に入れようと思ったと、己の手首に器用に革紐を巻き付けてテッドと同じように手首に星を光らせたノアは、だからもしもタトゥーを入れてくれるのならこのデザインの練習をしていて欲しいと笑う。
「この星を?」
「そう。────ノーティカルスター。タトゥーのデザインの意匠としても有名なものだって」
本来は古い海図などで北を示すための星らしいが、今ではタトゥーのデザインとしても有名らしいと笑うノアが己の手首の星に小さな音を立ててキスをし、少しだけ照れたように笑みを浮かべて星を見上げる。
「……お前が、俺を水先案内人だって言ってくれたから」
名前のように新しい世界へと導いてくれる、そう今まで過去に何度も両親に言われた言葉だったが、あの時あの庭で聞いたお前の言葉が全く違う重みを持って俺の中に入ってきたと、穏やかな笑みを浮かべてテッドを真正面から見つめたノアだったが、大きな掌が頬にあてがわれ、そのままするりと後ろに回って頭を抱くように手に力が入った事に気付くと、大きな手に誘われるように手と同様大きな体にぶつかり、思わず二人揃ってボートの床に倒れ込んでしまう。
「────俺が水先案内人なんだったら……テッドはきっと、何があっても大丈夫な大地だな」
ああ、そうか、俺が見つけた新世界はこの国でありお前の事なんだと、分厚い胸板に頬杖をついて己の思いつきに笑みを浮かべるノアに一つ目を閉じたテッドは、笑みを浮かべるノアを脳裏に焼き付け、両手で手触りの良い髪を撫でて頬を挟むと脳裏と現実の双方のノアが楽しそうに笑い出す。
その声に導かれて目を開ければ、予想と違わない楽しそうな顔をして見下ろしているノアがいて。
「────どこに連れていってくれる?」
お前が導いてくれる新しい世界をお前と一緒に見たいと両手でノアの頬を包むと、幼い子供がこぼすような淡い吐息が一つ顔に落ちてくる。
そして、その吐息がふわりと弾けた後、触れるだけのキスが降ってくる。
「どこに行きたい? 俺たちならきっと……」
行きたいところに行けると笑う唇にテッドからキスをし、角度を変えて何度も繰り返すと、ノアの体から力が抜けて重みが増す。
今まで経験したことのない愛しい人の重みを感じながら受け止めたテッドは、この重さがきっと己の中で時折首を擡げるドス黒い感情を抑え込んでくれると気付き、手離さないとの意思を示すように背中を抱きしめると、少し苦しいと小さく笑う声が聞こえてくる。
「ベアハグはやめろって」
「誰がクマだ」
「……熊は嫌か? じゃあテディベア」
「……もっと嫌だぞ、ノア」
くすくす笑いながら名前がテッドだからテディベアはどうだと悪戯っ気を蒼い双眸に浮かべた恋人をジロリと睨んだテッドだったが、先日幼馴染が名前で呼ぶなんて味気ない、二人だけが呼ぶ呼び方を決めろと言っていたことを思い出し、二人きりの時ならテディも悪くないと笑うと、一瞬驚いたようにノアが目を丸くするが、鼻の頭に小さな音を立ててキスをする。
「テッド……テディ……うん、テディも良いな」
俺だけが呼べる呼び方があるって良いなと笑うノアの髪を撫で、そう言えばウーヴェをリオンだけがオーヴェと呼んでいたなと問いかけると、付き合って初めての誕生日でリオンがプレゼントした名前らしいと教えられたことを伝えると、じゃあ俺は何と呼べば良いと問われてノアが目を丸くする。
「ノアはノアで良いんじゃないか?」
「そうだな」
ノーティカルスターに因んでシャイニングスターなんて恥ずかしくて口が裂けても呼べないと笑うテッドにノアが頬を赤くしてそれは恥ずかしいと笑い、テッドの上からボートの床に転がり落ちる。
二人並んで星空を見上げ、波の上下にゆらりゆらりと揺られていると、世界中にただ二人だけになった気持ちになり、同時に顔を向け合ってそこに同じ表情を見出すと、テッドが体を起こしてそろそろ帰ろうかとノアに手を差し伸べる。
その大きな手を掴んで起き上がったノアはボートの揺れを利用してテッドにしがみつくと家に帰ってワインを飲みながら昼に買ってきた肉を焼いて食べようと笑いかけ、好きなワインを選べとテッドも笑い返すのだった。
昨日と同じようにベッドで意識が吹っ飛びそうになる程抱き合い、うつらうつらとしながらテッドが己の髪を撫でる気持ちよさに目を閉じていたノアは、何かを思い出した時のように小さく声を上げ、テッドに不思議そうに顔を覗き込まれて欠伸を堪えつつテッドの手首で輝いている星にキスをする為に顔の前に持ってくる。
「ノア?」
「……これからさ、お前が漁に出る前にこれを着けたい」
「着ける?」
「そう……今は手首に巻いたけど、もう少し長い革紐かチェーンを買って、俺と同じようにしたい」
同じようにしたいとの言葉からノアが伝えたい事を理解したテッドは、俺が漁に出るのは真夜中過ぎだから毎日は辛いぞとノアの体を思って目を細めると、額をそっと撫でられて大丈夫と欠伸まじりに返される。
「本当に大丈夫か? 無理をする必要はないぞ」
「うん、平気。お前が行くのを見送りたい」
流石に帰ってきたのを迎えられるかどうかはまだ分からないけどと笑うノアの腰に腕を回して体を引き寄せると、これ以上はくっつけないと楽しそうな不満が胸元で小さく響く。
「……それで十分だ」
「うん。じゃあ仕事に出かける前には必ず俺がこれを着ける。明日買い物に行って良さそうなチェーンか革紐を探そう」
「そうだな」
そして週明けには移住のための手続きを役所でしなければならないしとも頷いたノアは、首都にまで行かなければならないかも知れない、もし可能なら一緒に行って欲しいと大きな欠伸の後に伝えると、テッドが返事の代わりにノアの汗ばむ額にそっと口付ける。
「もちろん、一緒に行く」
「うん、ダンケ……」
熱を吐き出した後の身体はあっという間に睡魔に侵食されるようで、返事が途中で消えた事にテッドがノアの顔を覗き込むと、さっきまで熱に浮かされて潤んでいた蒼い双眸は完全に姿を消してしまっていた。
そして程なくして聞こえてくる寝息に誘われるようにテッドも欠伸をして掛け布団を引っ張り上げると、出来れば首都には行きたくはないが、ノアのためだからと胸の裡で小さく呟いて目を閉じるのだった。
こうしてノアがテッドの元にやって来て二日目の夜を迎えたが、ノアが望んでいた星空は昨日と何も変わっていないと思わせながらも、少しずつ位置を変えて夜を渡って行くのだった。