Garden of Southern Cross.

第2話 Nautical Star.
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 周囲には今から国内外へと旅立つ老若男女がいて、逆に到着する人をまだかまだかと待っているのかそわそわと左右を見回したりウロウロとしている人もいた。  そんな、人種も年齢も雑多な人たちが目の前を行き交う光景を頬杖をついて見守っているのは、搭乗予定の時間まで少し早いが空港に来ていたノア・クルーガーで、彼の前には友人が遠い国へと旅立つ寂寥感とそれは幸福になる為のものだと信じて疑わない歓喜を綯い交ぜにしたものを顔に浮かべたウーヴェと、ウーヴェよりは遥かに喜ばしいと言いたげな顔のリオンがいた。  三人の前には小さなビールグラスがあり、出発までの時間を楽しく笑って過ごしていたが、店の壁に掛けてある時計が進むにつれ口数が少なくなっていた。  時計の長針がぐるりと一周する頃にはノアは二人がプレゼントしたチケットを片手に出国ゲートを潜っているだろう。  そうなれば、その先は今のように顔を合わせて他愛もない話で盛り上がる事もなかなか難しくなる。  今までのように仕事で出国し、それが終われば帰国する旅とは違い、おそらくはもう帰っては来ない旅であることは三人とも痛いほど理解していて、口数が少なくなった理由もそこにあった。  出会ってから1000日足らずの短い期間だったが、失われた時を取り戻すような濃密な時間を三人で過ごすことが出来たのは本当に幸運な事だった。  そもそも、映画祭でノアの母であり当時はまだ女優として活躍していたハイデマリーが狙撃される事件がなければ出会う事も無かった三人なのだ。  互いにその存在すら知らなかったリオンとノア兄弟が知り合い、その後紆余曲折を経て両親はウィーンで児童福祉施設の運営に携わり、息子二人は同じ街で暮らすようになった。  初めて出会った時のことがふと蘇り、ビールグラスを傾けながらウーヴェが小さく笑うと、リオンとノアの同じ色の双眸が何だと言いたげに軽く見開かれ、初めてノアを見た時のことを思い出したと素直に告白すると、リオンの口元にも楽しそうな笑みが浮かぶ。 「ノアとお前の母親が一緒に歩いているのを見て俺が知らない女とデートしてるってオーヴェがキレたんだよな」 「……その言い方には腹が立つけど、まあ、そうだな」  バツが悪いと咳払いをしつつウーヴェがリオンを睨めば、嫉妬するお前を久しぶりに見た気がするとニヤリと返され、腹癒せにリオンの前にあるチーズを一つ摘んで口に放り込む。 「あ! 都合が悪くなるとすーぐそんなことをする」 「うるさい」  互いの右手薬指に同じリングを煌めかせながら憎まれ口を叩く二人の顔はもはや見慣れてしまった感が強かったが、次にこうして目の前でそれを見られるのはいつになるんだろうと笑いながら考えたノアの目尻にじわりと涙が浮かび、思わず手の甲で目尻を拭うと、それに気付いていながらも二人とも何も言わずにビールを飲む。 「……空港にはテッドが迎えに来てくれるのか?」 「うん、家からそんなに遠くないって言ってた」  前に訪れた時はクライストチャーチから長距離バスでダニーデンに向かったが、今回は飛行機で直接行けるから楽だと笑うノアにリオンが口の中で何か言葉を転がすが、あちらとこちらの時差は10時間かとウーヴェが呟き、ノアが黙って頭を上下させる。 「落ち着いてからでいい、連絡をくれ」 「空港に着いたらすぐに連絡する」  ウーヴェの言葉にノアが必ずと頷いてグラスを手にすると、頭の上に暖かな重みがかかった事に気付いて上目遣いになる。 「……大丈夫だと分かっているけど、テッドと仲良くな、ノア」  前に彼がこちらに来た時の様子から大丈夫だとは分かっているが、ついつい余計な心配をしてしまうのはきっと俺の悪い癖だろうと、頬杖をつき片手をノアの頭に乗せたウーヴェが自嘲気味に呟くが、その手の下で頭を左右に激しく振ったノアは、可能性は0が良いが断言できない別離を選択しそうになったら話を聞いてくれと振り絞るような声で呟くと、ウーヴェの口元に浮かんだ笑みが深くなり、柔らかな髪を撫でる手が温もりを増したように感じる。 「────ノア、お前の居場所はテッドと一緒に暮らす家だ」  二人の会話を黙って聞いていたリオンが不意に強い口調で呟き、その強さに流石にノアも驚いて目を丸くしてしまうが、ついで聞かされた言葉に限界まで目を見開いてしまう。 「でも……帰ってきたいと思えばいつでも帰ってこい」  お前一人だろうとあの体格の良いお前のことを誰よりも理解し愛してくれる男と一緒だろうとお前が帰ってくるのは俺たちのところだと、さっきまでの笑みをすっかり潜めて滅多に見ない真剣な顔でリオンが告げた言葉にウーヴェとノアが呆然と目を見張る。 「リオン……っ」 「家が一つだけなんて決めなくて良い。お前にはここに、俺やオーヴェやマザーら家族がいる。ダニーデンにはテッドがいる」  こちらの家族とは画面越しや声だけの再会になるが、あちらで待つ家族と一緒に過ごせるようになるのだと笑われ、思わず顔を伏せたノアの頭に再度暖かな重みが加わるが、さっきよりは大きく暖かなそれがリオンの手だと見る事もなく気付き、顔を伏せたまま両手をあげて己の頭の上の手をしっかりと握ると、お前の向こうの家族と仲良くしろ、ケンカをしても良いけれど手だけはしっかりと繋いでいろと、己の実体験からの忠告を小さく告げられ、無言で頷いた拍子に堪えていた雫がテーブルに一つまた一つと落ちていく。 「……テッドはいい奴だ。お前が全力でぶつかってもしっかり受け止めてくれるし、間違っていると思えば嫌がる事もなくそれを教えてくれる」  大人になって間違いを指摘し叱ってくれる人は本当に得難い存在だ、だからそんな存在を手にした自分を誇りに思っていつも顔を上げて前を向け、隣にいる人を信じろと、これもまた実感がこもっている言葉をひっそりと告げられ、リオンから今まで言葉に出されないが大切なことを教わってきたが、その中に今の言葉も付け加える。  出生についてノアよりも遥かに重く苦しい悩みを抱えて生きてきたはずのリオンから教わったものが己の中で血となり肉となっていればいいと願いつつ、ぎゅっと手を握ってうんと何度も頭を上下させるが顔を上げることは出来なかった。 「……これ、いつもオーヴェが俺に言ってくれてる言葉」  お前だから伝えたいと思ったと、手を握り締められて軽く痛みを覚えつつもノアの好きにさせていたリオンがひょいと肩を竦めてウーヴェに片目を閉じると、ウーヴェも確かにそうだと目を細める。 「ノア、きみときみを愛している人を信じるんだ」 「……うん」  自己肯定感が低く自分など愛されない、信じられないと疑ってしまう日が来るかもしれないが、そんな時はそんな自分を愛してくれている人を信じろと、ウーヴェの不思議と心の中にするりと入り込んでくる声にも何度も頭を上下させたノアは、腕で目元をぐいと拭ってやっと顔を上げると、涙で濡れた顔に敬愛している兄そっくりな笑みを浮かべる。  その笑顔を間近で見たリオンとウーヴェが一瞬息を呑み、きっとテッドもこの笑顔に惹かれたんだろうなとノアが愛されているのかの一端を知った気分になる。 「リオン、ウーヴェ、ダンケ!」 「ああ。……そろそろ行くか?」  ビールもチーズも無くなったし、そろそろ出国手続きをするかと、何かを断ち切るように頭を一つ振ったリオンがノアに問いかけ、涙に汚れた顔をハンカチで拭いたノアが晴々とした顔で頷く。 「うん。そろそろ行く。……マザーやベルトラン達にも礼を言ってて欲しい」 「ああ。心配すんな」  三人同時に立ち上がり、伸びをして満足げな溜息を吐いたノアは、昨日二人にちゃんと挨拶をしたけれど、本当に世話になったと伝えておいて欲しいと告げ、今のところ命の次に大切なカメラ等を収めたバッグを肩に担ぎ、この先の長いフライトに必要なものを詰めたリュックを背負う。 「チケット、ありがとう」 「気にすんな」  せっかくお前が愛してやまない彼のところに向かうのだ、その祝いだと笑う二人にノアも少し照れたような笑みを浮かべるが、搭乗手続きの為にカウンターに向かう為に足を止めると、二人に目元を少しだけ赤らめつつも破顔一笑し、行ってくると家族にこの先の幸福を疑わせないよう、大丈夫だと思ってもらえるように胸を張る。 「ああ、行ってこい」  お前はどこにいても俺の友人であり大切な家族なんだからと、リオンが口の端を持ち上げて弟の柔らかな髪をそっと撫でると、そのままリュックが邪魔だと言いながら抱きしめる。 「テッドによろしくな」 「うん。いつか真夏のクリスマスホリデーを満喫する為に来てくれ」 「それ良いな。オーヴェに相談するか」 「うん」  クリスマスは当然ながら真冬のものだったが、南半球では季節が逆なのだ、真夏のクリスマスも経験してみたいと笑うリオンにノアも頷き、ついでウーヴェへと目を向けると、ステッキをリオンに預けたウーヴェが同じようにノアを抱きしめ、長旅は疲れるだろうけどその先に待っているお楽しみの為に少しの窮屈を堪えろと笑い、ノアもそうすると素直に頷いてウーヴェの背中をそっと抱きしめる。  この背中を初めて抱いた時はリオンが自分を見直したいと言って家出をしている時で、あの夜見た涙がずっと忘れられなかったが、今はすっかり過去の収めるべき場所に納まっている事に気付くと、肩に頬を当てて背中を撫で、行ってくると小さく告げる。 「ああ……元気で」  辛いことがあればいつでもいいから電話をしてこい、離れてしまうがきみは一人じゃないと、ノアの両頬を両手で挟んで兄そっくりな蒼い目を見つめたウーヴェは、しっかりと頷くノアの額にそっとキスをし、きみの前途がこの先幸せに包まれていますように、たとえ辛い事があっても愛する人と一緒に乗り越えていけますようにと小さいながらも真摯な祈りを捧げると、はにかんだようにノアが顔をくしゃくしゃにする。 「向こうに着いたら電話する」 「ああ。テッドと会って思う存分イチャイチャしてからで良いぞ」  ノアの言葉にリオンがニヤリと笑みを浮かべて手を挙げるとノアの顔が赤く染まるが、じゃあと手を上げチケットカウンターに必要な書類を差し出す。  機上の人になる為の手続きを済ませ、くるりと振り返ったノアの視線の先、ステッキをつきながら穏やかな笑みを浮かべるウーヴェと、いつもと変わらない笑みを浮かべて手を上げるリオンがいて、心の中でもう一度礼を言ったノアは、そんな二人に大きく一度手を振ると、出国手続きをする為の列に並ぶ為に踵を返すのだった。  大切な家族の一人が旅立つ背中を見送った二人は、完全に姿が見えなくなったのを確かめると二人同時に溜息を吐き、これもまた二人同時に互いの腰に腕を回す。 「……そろそろ帰るか?」 「ああ……なあオーヴェ、展望デッキで飛行機を見て帰ってもいいか?」  ウーヴェの言葉にリオンが遠慮がちに呟き、展望デッキと呟くとだめかと不安そうに見つめられるが、今日はもう何も予定はないとウーヴェが笑うと心底安心した顔でリオンが頷く。 「ダンケ、オーヴェ」 「ああ」  そうして二人ゆっくりと歩きながら展望デッキに向かう長い通路を歩き、まばらに人がいる間を通り抜けてベンチに二人並んで腰を下ろす。  その間、二人の間に会話はなかったが、歩いてきた時と同じように座っている時も手を繋いだままだった。  展望デッキで静かに座り、滑走路に向けて出発する飛行機や離陸体制に入った飛行機が無事に滑走路に降り立つのを見守っていたが、程なくしてそれにも飽きたのか、リオンが静かに立ち上がると、そろそろ帰ろうと伸びをする。  その顔をベンチから見上げたウーヴェは、一瞬限界まで目を見開くが、リオンの表に出されることの少ない感情を素早く読み取り、立たせてくれと笑いながらリオンの手を握ると軽く力を込めて立ち上がる。 「帰りは俺が運転しよう」 「ん? じゃあお願いしようかな」  ウーヴェの申し出にリオンが小さく笑みを浮かべて愛車のキーを手渡すと、チャラリと音をさせてキーを手の中に握ったウーヴェが寄り添いながら歩き出す。 「な、オーヴェ、今年のクリスマス休暇にノアの家に遊びに行かないか?」 「今年のクリスマス休暇? 飛行機のチケットが取れるか?」 「あー、そうか。でも行ってみてぇなぁ」  そんな後少し先の休暇について話しながら駐車場へと向かった二人は、愛車に乗り込んで少し疲れたなとウーヴェが運転席でため息を吐くが、不意にリオンが覆い被さるように腕を回してきた為、それを合図に広い背中をぎゅっと抱きしめる。 「────良くガマンしたな、リーオ」  もう大丈夫だ、ここには俺しかいないとくすんだ金髪の下に見え隠れする耳に口を寄せ、寂寥感から小さく震える背中を抱き締めたウーヴェは、肩口が湿り気を帯びてくる事に気付きながらも、大切な家族であり友人でもある弟の幸福への旅立ちを見送ったリオンの背中をただ黙って抱き締め続けるのだった。  いくつかの国で飛行機を乗り継ぎ、初めて恋人と出会ったブリスベンの空港から今度はあの時と違って彼が暮らす町に最も近い空港へと向かう飛行機に乗り込んだノアは、リオンとウーヴェがプレゼントしてくれた飛行機のチケットをシートに座りながら眺め、乗務員の笑顔の呼びかけに慌てて笑みを浮かべる。 「ヘル・クルーガー、今回の旅はいかがでしたか?」  まだ最終目的地に到着していないが、空の旅を満喫していただけたかと極上の笑顔で問われて何度も頭を上下させたノアは、飛行機とは思えないほど寛げましたと笑う。 「それは良かったです」  では残り短い時間ですが、最終目的地までのフライトをお楽しみくださいと笑顔を残してカーテンの向こうに消える乗務員を見送り、快適な−快適すぎるシート周囲を見回す。  ここはノアが初めて経験するファーストクラスのシートだった。  前回は仕事だった為にエコノミークラスで飛行機を乗り継いでいてかなり疲れた覚えがあったが、ファーストクラスとなれば疲れるどころか、自宅よりも快適に過ごせるのではと思えるほどで、シートをベッドに交換してくれた為、飛行機の中でベッドで眠れる夢のような睡眠時間を過ごせたのだ。  これもひとえに二人のおかげだと遠い空の上で兄とそのパートナーに感謝したノアだったが、あと少しで恋人が待つ空港に到着すると気付くと自然と鼓動が速くなり、口元がにやけるのを止められなかった。  出てくる料理もワインも地上でもなかなか食べられないような高級なもので、それら全てに満足していたが、ふとここにテッドがいればと想像した瞬間、彼と一緒ならばきっとジャンクフードであっても美味しく食べられるだろうと内なる己が断言する。  好きな人と一緒に食べる料理が美味しいのは当然で、何を食べるかではなく誰とどんな気持ちの時に食べるかが大切なんだなとぼんやりと考えていたノアだったが、海と雲と空しか見えなかった窓の外に緑が見え始め、徐々にそれらの輪郭が大きくなってくる。  期待に自然と胸を躍らせながら窓の外を見ると、乗務員が定刻通りにダニーデンの空港に到着します、ご搭乗ありがとうございましたと礼を言った後、クルーガー様にと小さな向日葵を一輪差し出してくれる。 「え?」 「皆様にお配りしております」  こちらは今夏ですので、向日葵をご用意いたしましたと笑顔で差し出され、ありがとうと自然と浮かぶ笑みで乗務員に礼を言ってそれを受け取る。  そして、快適すぎるほど快適だった空の旅が終わりを告げる時が近づいているのを、窓の外の景色が海と雲から緑の大地とその中に点在する人工物が増えてきた事から気付き、シートの上で伸びをする。  もうすぐ空港に着く、その現実がひどく心を躍らせたようで、不意に息苦しさを感じて咳払いをしたノアは、何をそんなに慌てているんだと微苦笑して深呼吸をした後、徐々に看板の文字が見え始めた地上を見つめ、何気なく視線を水平線に向けて伸ばすと、いくつもある岬に続く沿岸線に小さな桟橋と小さなボートが停泊しているのが見え、思わず窓に顔を貼り付けるように見つめる。  あっという間に見えなくなったその光景に呆然としていたノアだったが、ドンという衝撃が足元から上がり、少しだけ乱暴ながらも安全に飛行機が滑走路に着陸したことに気付く。  快適だった長旅が終わりを迎えたことをシートベルト解除の合図で知り、伸びをして機内に持ち込んだ荷物をシートに下ろしたノアは、丁重な笑顔と言葉で見送りをしてくれる乗務員に同じような笑みで礼を言って帰ってきたと小さく呟きながら飛行機から降りるが、肩に担いだカメラバッグのジッパー部から小さな向日葵がひっそりと顔を出しているのだった。  恋人が乗っている飛行機が定刻通り到着したことを到着案内のパネルから知ったのは、到着予定よりも1時間以上も早く空港に来てそわそわと落ち着きなく待っていたテッド・ハリスだった。  カフェでコーヒーを飲んでいようが行き交う人々の横顔を観察していようがどうしても意識はそちらに向いてしまい、ようやく飛行機が到着した頃にはコーヒーと水の飲み過ぎで腹が膨れてしまっていた。  自分は何をしているんだと微苦笑しつつカフェから出て到着ゲートの前で待っていると、手続きを済ませた人たちがゲートから出てくる。  今着いたとスマホにメッセージが届いていることから無事に到着したことは疑っていなかったが、まだかと爪先で床をノックした時、遠慮がちにハイと呼びかけられて顔を上げ、そこに照れたように笑みを浮かべる恋人を発見する。 「……迎えに来てくれてありがとう」  長旅だったけれど前回みたいに疲れなかったと笑うノアのカメラを収めたバッグの端から向日葵が一輪顔を出していて、それはと思わず問いかけると、飛行機を降りる前に貰ったと教えられて一つ頷いた後、込み上げてくる感情を押し殺しながら恋人の少し疲労が滲んだ頬に手を宛てがう。 「無事に到着して良かった」 「うん」  再会すればきっと脇目も振らずにハグしてキスするだろうと互いに想像していたが、実際は目を見て笑みを浮かべるだけが精一杯だった。  荷物をテッドに預けて駐車してある車へと向かう道すがら、機内での滅多に経験できないことの話や時を遡ってドイツを出発する時のリオンとウーヴェの様子を話そうとしたノアだったが、何故か言葉があまり出てこず、古いピックアップの後列に荷物を乗せ、助手席に乗り込んで車内に満ちている居心地の良かった家と同じ空気を吸い込んだ瞬間、咄嗟に手で口元を覆い隠す。 「ノア?」  唐突に口元を押さえるノアの様子にテッドが慌てたように顔を覗き込むが、口を押さえる手の上と下に流れるものに気付くと、フロントガラス越しに空を見つめた後、左手を伸ばして肩を抱き寄せる。 「……ノア」 「……っ……!」 「もう一緒にいるから泣いても良い。でも出来ればお前には笑って欲しい」  昨日までと違って涙を流すお前を抱きしめることができるようになったから構わないが、涙よりも笑顔の方が好きだと呟いたテッドにノアの頭が上下に動くと、ドイツの空港でリオンとウーヴェに見せたものと同じ笑顔を浮かべて照れたように笑う。 「やっと帰ってこれたと思ったら……涙が止まらなかった」  やっと、やっと同じ季節の同じ時間を過ごすことができると笑うノアの頬を伝う涙を掌で拭ったテッドは、軽く目を見張る蒼い目を見つめつつ顔を寄せ、動きに合わせて目を閉じるノアに触れるだけのキスをする。  そのキスがようやく再会できた、これからは毎日こうして一緒にいられるという実感を二人の胸に芽生えさせたようで、どちらからともなく手を伸ばして互いの背中を抱きしめる。 「……テッド、星が見たい」 「ああ。今夜は晴れるみたいだから綺麗に見えるだろう」  互いの背中を抱きしめながら星が早く見たいと笑うノアにテッドも釣られて笑みを浮かべ、それをする為にはお前が気に入ってくれた庭に、夜になれば星空の海に漕ぎ出す小舟のような家に帰ろうと告げて涙の味がするキスを再度すると、うんと頷いたノアがスマホを取り出してリオン達にメッセージを送ると嬉しそうに告げる。 「ああ、無事に着いたことを知らせてやれ」 「うん」  スマホを操作するノアを助手席に乗せて駐車場を出たテッドは、海岸沿いの道をゆっくりと走りながらミアがお前が来るのが楽しみすぎて熱を出したと伝え、驚くノアの横顔に肩を揺らして笑い出す。 「大丈夫なのか?」 「薬を飲んだら治るから大丈夫だ」  今日と明日は忙しいから家に来るなと伝えたこと、ボブも会いたがっていたが来週にしろと伝えたことも話すと、忙しいのかとノアが首を傾げる。 「お前が来るんだ、忙しいだろう?」  それにやっとお前に会えたのだ、他の誰にも会いたくないとニヤリと笑みを浮かべるテッドの言葉の意味を理解したノアの顔が赤くなり窓を開けて頬杖をついてしまうが、何かを決意したように顔をテッドへと向けると、俺も会いたかったし二人きりになりたいとやけくそのように叫ぶ。 「それは嬉しいな」 「……っ!」  同じように窓を開けて潮の匂いを感じつつ走る車はやがて人家が少なくなる道を進み、ノアの記憶の中のものと一致する道へと入っていくと、舗装されていない道を進む為にガタガタと車が揺れる。  その揺れすら心地よいと感じつつそれが終わりを迎えた時、ノアの目の前に小さいながらも居心地の良い空気に満ちている家が現れる。  初めて仕事で訪れた時、時間が出来たからと飛行機で隣に座っただけのテッドの家に遊びに来て帰国までの時間を過ごしたが、人生で経験したことがないような濃密な時間だったことを思い出しつつピックアップから降り立つと、テッドが荷物を丁重な手つきで車からおろしてくれる。 「ああ、そうだ、先に渡しておく」  何をと問い掛けるノアの鼻先に突きつけられたのは真新しい鍵で、これはと呟くと家の鍵だと教えられる。 「鍵を開けてくれ」  シャツのポケットから取り出したそれをノアに渡すだけではなくそれで開けてくれと笑うテッドに頷いたノアは、緊張する手で鍵を開けてドアノブを回す。  ゆっくり開くドアがこれから先この家で過ごす時間が喜怒哀楽に満ちていると教えてくれるようで、居心地の良い空気に包まれた途端、その空気ごと後ろから抱きしめられる。 「……ようこそ、ノア」  やっとここでお前を抱きしめられると囁かれ、うんと頷いたノアの頬に再度涙が伝い落ちるが、それに気づいたテッドが泣きやめとは言わずに頬にキスをする。 「……これからよろしく、テッド」  リオンの言葉通りノアが全力でもたれかかっても揺らぐこともなくしっかりと受け止めてくれるテッドの様子に気付き、斜め後ろへと顔を向けて小さく笑みを見せたノアは、こちらこそとドイツ語で返すテッドに照れたように笑みを浮かべた後、その腕の中でくるりと振り返り愛する男の広い背中へと腕を回し、胸の奥に居座り続けた違和感と飢餓感が薄らいでいくのに気付くのだった。   
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