Garden of Southern Cross.

第2話 Nautical Star.
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 すっかりと秋の色に染まる街路樹の下を、少し緊張の面持ちで歩いているのは、数年前までこの街を離れることなど考えもしなかったノア・クルーガーだった。  己の未来がこの先も少しの刺激と多数の安定の中に存在し続けると疑う事もしなかった彼だったが、三流脚本家が徹夜で書き上げたのかと言いたくなるような酷い現実を突きつけられ、信じて疑わなかった世界が音を立てて壊れてしまった今、無邪気に疑うことすらしなかった己が日常生活の基盤としていたこの街ですら当時とは違う色になっていた。  世界の全てが美しいなどと到底思えなくなったノアが、足元の落ち葉を踏み締めながら向かったのは、久しぶりに会う事にした両親と良く訪れていたレストランだった。  古都の雰囲気に相応しい、年季が入っているが変に格式張っていない、創業当時から庶民相手のレストランとしてやってきている自負を店構えにも反映させているそこに到着し、ドアを開けて中を窺うと、顔馴染みのスタッフが懐かしさに目を細めつつやって来る。 「久しぶり! 元気にしてた?」 「ああ、元気にしてる」  スタッフの親しげな声にややぎこちない笑みで応えたノアだったが、店の奥から自分を呼ぶ声に気付き、そちらへと視線を向けつつスタッフに良いかなと微苦笑すると、勿論と笑顔で通してくれる。 「ありがとう」  店の奥の、柱の陰になって外からはほとんど見えないテーブルが、家族三人でここに来た時に座る場所だった。  穏やかに己の妻と息子を愛し、仕事でもあまり悪い評判は聞かない父、ヴィルヘルム・クルーガーと、純主役とも言える重要な役回りの多い、ドラマなどでは欠かせない存在の女優であり、家庭では家族の為に料理等も全力で頑張っていた母、ハイディ・クルーガー―本名はハイデマリー―が、久しぶりに会える喜びからか、目元を潤ませながら席で待っていて、その顔にノアも少しだけ鼻の奥が痛くなる。 「……・久しぶりね、ノア。元気そうで良かった」 「……・ああ、久しぶり。俺は、元気にしてる」  母の言葉にややぎこちなく返事をし、並んで座る二人の向かい側に腰を下ろしたノアだったが、両親が次の言葉を口にする前、片手を立てて失礼と告げた後、スマホを取り出して一言だけのメッセージを送り、一息つく前にお疲れとの労いの言葉を受け取る。  ただそれだけの言葉のキャッチボールだったが今のノアには何よりもの力になるのか、小さく息を吐いた後、さっきよりは自然と浮かべられた笑みを両親に見せる。 「ウィルもマリーも元気そうで良かった」  児童福祉施設の運営に携わるようになったとニュースで見たが順調かと、両親の新たな夢であり今の仕事でもある子供たちを一時的に保護する施設の運営はどうだと問いかけるが、オーダーを聞きに来たスタッフに白ワインと炭酸水を注文し、料理はこの店自慢のシュニッツェルを頼む。 「右も左も何もわからないから大変だけど、協力してくれる友人もいるから何とかやっていけているわ」  ハイデマリーの言葉に同意するように頷くヴィルヘルムの顔も苦労しているのだろうと思わせる影があったが、それでもフォトグラファーとして活躍していた頃とは違う充足感のようなものも読み取れて、両親が忙しいが充実した時間を過ごしている事も同時に感じ取り、胸のどこかがホッとするのを覚える。  傍目には以前と変わらない仲の良い家族像に見えているのだろうかと、頬杖を突きながら小さく頷いたノアは、両親は友人が多かったことを思い出し、きっと彼らの力を借りてやっていけるだろうとも気付くが、一人の女性の名前が母の口から出た瞬間、目を見張って二人の顔を見つめてしまう。 「カタリーナにも沢山助言をしてもらっているわ」 「……・マザーと、連絡を取っている?」 「ええ。彼女には本当に頭が下がる思いだわ」  母が感心しきりの顔で手を組む姿に何故か強かに頭を殴られた気がしたノアだったが、何かに気付いたのかハイデマリーではなくヴィルヘルムが一つ肩を竦め、同じ道の先を行く大先輩に意見を求めるのはおかしなことじゃないだろうと微苦笑し、それは当然だとノアも頷くが、小さなささくれのようなものが引っかかると正直に口に出し、何が引っかかるのかと父に問われて口を閉ざす。  両親が新たに始めた児童福祉施設の運営やそれらに関わるノウハウなどは、確かに父の言うように大先輩であるマザー・カタリーナらに意見を求める事は悪くはないし必然ではあった。  その関係からより良くしていく為なのだから理解は出来るが、彼女の元には毎日ではないが頻繁にリオンが訪れているのだ。  自分たちが生み捨てるだけではなく、その存在自体を忘却してきた子供と繋がりが深いどころか、その子供を捨てた教会の関係者に連絡を取れるその神経がノアには理解できなかった。  リオンを捨てたことへの罪悪感は無いのか、そう皮肉たっぷりな疑問を投げかけようとした時に母と視線がぶつかり、言いたいことは分かっていると目を伏せられてその言葉を飲み込む。 「彼とは……あの時以来会っていないわ」  もちろん声も聴いていないし彼女も彼の話題は口に出さないからと続けられ、別のものとして考えていることを真っ先に言われたと、母の言葉を父が継いで続け、さすがにその真意が分からずにノアが目を細めると、水に流したわけでも忘れたわけでもないが、先に進むために必要なら私たちがしたことを受け入れますと言われたと、更に真意が分からない言葉を続けられて困惑してしまう。 「カタリーナにあなたたちには到底及ばないが同じようなことをしたいと報告したのよ」  先に両親が飲んでいたワインで口を湿らせたハイデマリーがこの時初めて痛みを覚えたような顔になりながらもぽつりぽつりと語ったのは、二人で決めた第二の人生の歩き方を、先を行く小さな偉大な背中に相談した際に彼女に告げられた厳しい現実だった。 『誰よりもまず最初に守らなければならなかった命を捨てたあなた達に小さな命が守れるのですか?』  その一言が何を示しているのかをヴィルヘルムとハイデマリーはもう十分理解していて、彼女の言葉に第二の人生の一歩すら踏み出すことも許されないのかと気持ちが沈んだが、それでもやりたいとのことであれば協力は惜しみませんと、二人を救うような言葉を告げられたと教えられ、いつも穏やかな笑みを絶やさずに周囲を見守っている心優しいマザー・カタリーナの厳しい言葉にノアもさすがに驚きを隠せずに二人の顔を交互に見つめると、その通り過ぎて何も言い返せなかったと父が眉を寄せる。 「でも、そこで止まってしまっては……いけないと思ったのよ」  彼女が言ったように私たちがまず守らなければならなかったものを捨てた、それはどうあっても変えることのできない過去なのだ。  ならば、その上に今からでも贖罪を積み重ねていくしかなかった。  あの時捨てた小さな、今は立派に成長した彼に直接会って捨てたことを詫びて許しを得られないのだから、形を変えた贖罪をすることしか自分たちには出来ないとハイデマリーがテーブルの上で手を握り締めて小さく肩を震わせる。 「あなたにもよ、ノア」  もしかすると最大の被害者はあなたかもしれないと、涙を目尻に溜めた母の言葉に息を飲んだ息子は、両親が償いきれない罪を犯していた事実を知り、きっと嫌悪したはずだと自嘲されて肯定も否定もできなかったが、そんな苦しみを与えてしまったと謝罪をされて目を伏せる。 「でも……謝罪しても許せないでしょう?」  そんな自分たちにできるのは謝罪よりも贖罪だと思ったと、涙を拭って吹っ切ったような笑みを浮かべる母を半ば呆然と見つめたノアだったが、謝罪をしても許されないのなら、贖罪をするしかないという考えは納得できるものだった。  だからそうかとだけ答えたのだが、深刻な話はここでは向いてないわと笑う母に頷き、話のタイミングを見計らっていたように酒と料理を運んでくる店主に気付き、久しぶりとノアも笑みを浮かべて椅子の上で振り返る。 「久しぶりだな、ノア!」  最近仕事も頑張っているようで、こちらで発売されている雑誌やポスターなどでもお前の名前が入っているものを見かけたぞと、常連の一人であるノアの知名度が上がり仕事も頑張っていることを喜んでくれる店主にありがとうと笑顔で答えたノアは、天の川が大きく映っていた写真が好きだとも教えられて軽く目を見張ってしまう。 「あの写真は良いな」  大自然を相手にした仕事だろうが、星空の写真撮影も向いているんじゃないかと、ヴィルヘルムに笑顔で問いかけた店主に少しだけフォトグラファーの顔に戻った父が自分事のように嬉しそうな顔で何度も頷く。 「そうかもしれないなぁ」  星の撮影は色々機材等が大変だろうけれど、僕もあの写真が好きだと笑う父の言葉にジワリと感激を覚えるが、相反する気持ちが胸の中で芽生えて息苦しさをノアに覚えさせる。  今二人が話題にしている星の写真はニュージーランドで写したもので、夜空の撮影は初めてだったがすべてが上手くいった仕事を褒められて素直に嬉しくなる反面、以前ほど撮影という行為に熱が入らない一種のスランプ状態である為か、その言葉を素直に受け止められなくなる。  その精神状態の根底にあるのは、好きなカメラを構える手を止めてしまうほどの飢餓感だった。  どうして自分はあの夜空の下にいないのか。大きな体で全身を包み、大丈夫だと安心させてくれる人の傍に何故いないのか。  それは帰国して以来ノアの中に芽生えた感情で、日が経つにつれ強くなっていった為、電話で話すしか出来ない恋人に、今すぐそちらに行きたいと何度も話をした結果、もうすぐ彼の元に旅立てるようになったのだ。  こちらでオフィスワーカーなどの職業についていると、きっと身軽に旅立てない為、今だけはフォトグラファーとして頑張っていて良かったと思うノアだったが、我が事のように喜んでくれる店主と父の言葉にはやはり嬉しさを感じ、褒めてもらえて嬉しいと素直に二人に礼を言うと、父の顔に照れたような笑みが浮かぶ。 「頑張ってるわね」  母にも褒められて久しぶりに両親に対して素直になったノアは、運ばれてきた料理が冷めるからと照れ隠しに口早に告げると、ワイングラスを傾けて両親に顔を見合わせさせる。 「……久しぶり、だし」 「そうね」  深刻な話はまたにしましょうと笑い、母が小さく乾杯と告げた後、三つのグラスが小さな澄んだ音を立てる。  そして一杯目を飲み干したノアは、炭酸水をグラスに次いで白ワインを割ると、二杯目をゆっくりと飲み、久しぶりに食べる料理の味が記憶しているものよりも美味しく感じられたことに密かに安堵するのだった。  料理を食べ終えて食後のコーヒーを飲んでいるとき、思い出したとハイデマリーが目を見張り、以前ならば物が入るのかと疑いたくなるような小さなバッグを愛用していたが、今は大きめのバッグを持ち歩いているようで、その中から名刺を取り出して引っ越しをしたのと笑い、隣でヴィルヘルムもそうだと頷く。 「あの家を売って郊外の家を買ったの」  以前ならウィーンの市街地にあるアパートは何かと都合がよかったが、今は郊外の小さな家で二人で暮らしているからもし近くに立ち寄ることがあれば家に寄ってと笑いながらそっと名刺をノアの視線の先に押しやったハイデマリーにそれを受け取ったノアが抱いた感想は、郊外と言ったが本当に郊外だなぁというもので、名刺を手に取り眺めていたが、一瞬だけ息を飲んだ後、俺ももうすぐ引っ越しをすると小さな声で告げ、両親が興味を持った顔で先を促す。 「そう。どこに引っ越すの?」  今は倉庫を改装した部屋を借りていたと聞いたがと、頬杖を突く母に自然と思い浮かぶ恋人の顔と胸元のペンダントから力を分けてもらったノアは、さっきの星空の写真を撮影した場所と答えると母の目が丸くなり、対照的に父の目が細められるが、さすがに仲の良い夫婦と言われたようにほぼ同時に顔を見合わせて互いの目の中に同じ感情を見出す。 「ニュージーランド!?」 「そう。正確には南島だけど」  あの写真を撮影したのは北島だったが、間もなく引っ越しをするのは南島だと笑ったノアの脳裏には写真では表現しきれないほどの星空が焼き付いていて、もうすぐあの星空を見上げられると無意識に呟いてしまう。 「そ、う、ニュージーランドに引っ越すの……」  その母の呟きには意外さがこもっていて、わずかに覚えた反発心が目に宿ったのか、ただ驚いただけだから睨まないでと苦笑されて己が母を睨んだのだと気付く。 「ニュージーランドが気に入ったのかい?」  妻と息子の会話に穏やかな声が割って入り、二人同時にそちらを見ればスマホでノアの写真を表示していたらしい父が気に入ったのかと再度穏やかな声で問いかける。 「……今、どうしてここにいるんだろう、どうしてダニーデンにいないんだろうってずっと感じるほど気に入った」  ニュージーランドで仕事を終えて帰国して以来常にノアの胸に居座り続ける違和感を口にすると、そこまで気に入ったのかと息子の選択を尊重する顔で父が頷きそれに安堵しつつ胸のペンダントに癖のように手を宛がったノアは、今月中に移住する、もうこちらには帰ってこないつもりだとも告げると、両親が何かを言いかけるが、ほぼ同時に口を閉ざした後、にこりと笑みを浮かべて何度も頷く。 「そう。ニュージーランドに住むのね」 「ああ」 「あなたのことだからあちらでもフォトグラファーとして働くの?」 「そのつもりにしてる」  当分の仕事はこちらでコーディネーターをしている友人や以前の仕事関係の人達に頼んでみるつもりだと告げると、心配はしていないと言いたげな顔で二人が頷き、世界中のどこでもあなたなら大丈夫と励ましてくれるが、一人きりで大丈夫かとさすがに心配な顔でハイデマリーがそっと問いかけつつ胸元を握りしめているノアの手を見つめてしまう。 「……それは、大丈夫」  友人はまだいないが一人ではないから大丈夫と返し、ペンダントトップを吊るした革紐を服の中から引っ張り出したノアは、驚く二人の前にそっとそれを置き、これをくれた人と一緒に暮らすからと告げ、限界まで目を見張る両親の顔をじっと見つめる。 「彼女からもらったの?」  もっともな疑問に緩く首を左右に振ったノアは、意味が分からないと微苦笑した後に顔を強張らせる母にそっと頷きながら彼だと答えると、一度大きく肩を揺らした後、家族だけが見てきた心底嬉しそうな笑みを浮かべて一つ手を叩く。 「そう! あなたが一緒に暮らしたいと思う人がいて良かった!」  それが彼氏であろうと彼女であろうと関係ない、本当に良かったと、女優ではない母の顔で笑って賛成してくれるハイデマリーに少しだけ照れながら頷いたノアだったが、茫然としているような父の様子に反対だろうなと呟くと、二度三度髪が左右に揺れた後、お前が選んだのだからその意思は尊重したいが、どうして男なんだと思ってしまうと素直な感想を口にされ、久しぶりに会った息子が遠く離れた国で同性の恋人と一緒に暮らすと聞かされて混乱しない方がおかしいと父の困惑ぶりを理解したノアだったが、初めて訪れた先で偶々優しくされて絆されたんじゃないのかと父が呟いた瞬間、瞼の裏がカッと赤く染まる。 「……ウィル、それは彼に失礼な言葉だと思う」  取り消せなどとは言わないが、あなたはあなたの息子が選んだ人を信じられないのかと、両親と距離を取るようになってから出すことが増えた冷たい声で思わず父を見たノアは、たった今聞かされたばかりでお前の恋人がどのような人なのかが分からない、信じる信じない以前の問題だと穏やかに返されて確かにそうだと冷えた腹の中で納得してしまう。 「……それもそうだな」  父の言葉は確かにその通りで、たった今知らされた人が信じるに値するのかなど判断できるはずもなかった。  正面きっての大反対を受けた訳ではないが、困惑する父の気持ちも理解できると再度己の中で呟いたノアだったが、ここにくることが半ば義務だと思っている今、その言葉は一瞬だけ冷えた腹に熱を生んだもののそれ以上には育たず、反対ならば反対すればいいという一瞬の熱を冷ますものだった。  そんな二人の様子に母が遠慮がちに、夫と息子のどちらの気持ちも理解できると言いたげに口を開く。 「あなたに彼氏が出来たことに驚くけど、でも正直な話、私はあなたが誰かと一緒にいたいと思ったほうが大切だと思うわ」 「……それはそうだね」 「そうよ。……ニュージーランドは遠くてそれだけは寂しいけど、あちらでも今までのように仕事をするって言ってるもの」  息子の頑張りは形となってきっと私たちの前に現れると笑うハイデマリーにヴィルヘルムも納得させたのか、そうだねと頷いた後、それをくれた人はどんな人なんだと興味を覚えた顔で頬杖を突き、父のその様子に母も教えなさいと悪戯好きの顔で笑いかける。 「……漁師をしてる」 「どこで出会ったの?」  あなたと漁師をしている彼との接点が分からないと驚くハイデマリーにノアが一つ肩を竦め、ブリスベンからクライストチャーチへと向かう飛行機で隣同士になったからと答えると、流石にその言葉には両親が同時に驚き、映画のような出会いをしたのねと母が笑い、父もどう言えばいいのか分からないといった表情になる。 「ブリスベンに親戚の結婚式の為に来ていたと言ってたな」 「そうなのね」  ペンダントトップを首に掛けてシャツの下にしまうと、スマホを取り出して己の恋人、テッドがドイツにサプライズでやってきた時に皆で写した写真を出して両親に見せる。 「……この体格の良い人が彼?」 「そう。名前はテッド。多分俺より10歳ぐらい年上」 「そうなの。年上の漁師さんなのね」  仕事柄なのか随分と良い体をしていると笑う母に父も頷くが、二人の目が写真の中の一点に向けられている事に気付く。  それは己に良く似た男の顔の上で、写真の中で嬉しそうな笑みを浮かべている事に今両親は何を感じているのだろうか。  思わず問いかけたくなったノアだったがぐっとそれを堪えてスマホを手元に引き寄せると、眠りに落ちる前のお休みのキスをする為に見る写真を開いて目を細めた後、スマホをポケットに戻す。 「写真を見せてくれてありがとう、ノア」  その言葉に込められている感情に不意に気付いたノアは、軽く目を見張ってどう言葉を返そうかと思案するが、にこにこと嬉しそうな両親の気持ちにただ無言で頷き、今月中に引っ越しをするから今年のクリスマスはニュージーランドだとも笑うと、暖かいクリスマスは初めての経験ねと母が楽しそうに笑う。  その二人の顔を見ているとノアの中にあった頑なな何かが形を失い不明瞭な何かへと変化したことに気付くと同時にテッドの顔が脳裏に思い浮かぶ。  先日は両親に引っ越しを伝えるかどうかで悩み、彼に冷たい声を聴かせてしまったノアだったが、両親に対する蟠りが形を変えるだけではなく両親とちょうどいい距離を発見できた気がした今、彼に聞かせたいのは今日の報告だった。  何故か今すぐ彼に電話をかけて声を聴きたい、話をしたことを褒めてほしいという子供じみた欲求が芽生え、頭を一つ振ってそれを追い払ったノアにハイデマリーがどうしたのと驚いたように問いかけるが、今日はどこかのホテルを予約したのか、もしまだなら家に泊まりに来ないかと誘われて蒼い目を見開いたノアは、ゆっくりと首を左右に振って夜行バスでドイツのあの街に帰ると告げると、さすがに寂しさを隠し切れない顔で両親が頷く。 「そう。気をつけて帰るのよ」 「ああ、そうする」  少し前までの自分ならばきっと両親の家に転がり込んで翌朝ドイツに帰っただろうが、そんな無邪気な時期を強制的に過ぎてしまった今は当時の己を殴り飛ばしたい気持ちになってしまい、夜行バスのチケットを入手していることを伝え、それでも己を思って声をかけてくれた二人に感謝の言葉を伝える。 「ありがとう」 「いいのよ。……ニュージーランドに行っても元気でね、ノア」 「ああ」 「……こちらでも話題になるように頑張るんだよ」 「そうだな、そうなったら嬉しいな」  遠く離れていても家族だし、その家族の活躍を遠い国から見守っていると笑う二人にうんと頷いて食事代を出そうとするが、久しぶりに会えて嬉しかった、そのお金で夜行バスに乗る前に何か買いなさいと父に諭されて口を閉ざしたノアは、そうさせてもらうと感謝しお金を戻す。 「……二人も、仕事頑張って」  大変な畑違いの仕事を始めたが、周囲の人たちの助けも借りて頑張ってと小さく笑って応援しているとも告げると、ありがとうと嬉しそうに両親が微笑む。  こうして両親と穏やかな気持ちで顔を合わせて話ができるようになったのは、報告するべきか悩んでいると相談したリオンとウーヴェらのおかげだった。  それを感謝しつつ彼らがいる街へ少しでも早く帰りたいと願ったノアは、この店で楽しく食事と話ができたことは本当に良かったと、支払いを済ませて店の前で店主やスタッフに挨拶をした両親に伝えると、ほぼ二人同時に抱きしめられて目を白黒させてしまう。 「ノア、元気で……彼と一緒に楽しく過ごしなさい」 「お前の作品を見るのを楽しみにしているよ」  ニュージーランドという、季節も時間も違う国に引っ越しをしてもあなたは私たちの子供なんだからと、涙声で背中を抱きしめる母に頷いてそっと背中を抱き、父の言葉になるべく早く見てもらえるように頑張ると伝えて父の大きな手を握る。  同じ道を歩いていた先輩でもある父に励まされて自然と芽生えた決意を腹の中に収めたノアは、両親と駅まで一緒に歩いていくが、夜行バスの乗り場へ向かう道と両親が帰宅する為に乗る電車とは場所が違うことを知り、駅のホームへと向かう両親をその場で見送る。  いつまでも振り返りつつ自分たちが乗る電車のホームへ向かう両親を安心させるために頷いたノアは、二人の背中が見えなくなったと同時に安堵の溜息をこぼし、駅の建物の壁に背中を預けてスマホを取り出す。 「……ハロ、今話をしても大丈夫かな」  そう小さな声で切り出した相手はきっと今頃小さいながらも自慢のボートで一仕事終えただろうが、話して大丈夫かと自信なさげに問いかけたノアの耳に、お前からの電話には必ず出ると言っただろうと少し怒ったような声が届けられ、うんと頷きながら月が雲に隠される瞬間を目撃した目を見張るが、どうしたと問われてもう一度うんと頷く。 「夜行バスで家に帰ることにした……その前に声を聴きたくなったから」  だから電話をしたと正直な気持ちを伝えると小さな濡れた音が耳に届き、両親と会って疲れたのかと問われたため、少し緊張したけれど穏やかに話をすることができたと小さく笑えば、安心したような吐息が返ってくる。 『そうか」 「そう……ああ、そういえばそっちに行く飛行機だけど、リオンとウーヴェがチケットをプレゼントしてくれたんだ」 『どういうことだ?』  もうすぐこちらに来るチケットをキャンセルしたのかと驚く声が聞こえ、そうじゃないと微苦笑しつつ事情を説明したノアの耳にリオンは弟に甘いんだなと楽しそうな声が聞こえる。 「そうだな、甘いな」 『……到着の空港はダニーデンなんだな?』 「そう。だからもし迎えに来てくれるなら、ダニーデンの空港が良いな」  仕事で時間が合わなければ駅前で待っているから迎えに来てほしいと遠慮がちに告げると、空港に迎えに行くに決まっていると断言されてその勢いに押されつつも素直にありがとうと礼を言えば、再び濡れたような音が聞こえてくる。 「もうすぐだな、テッド」 『ああ。……ミアもボブもお前に会うのを楽しみにしているぞ』 「ボブってお前にエロ動画ばかり見せる友人だろ?」 『ははは。まあそうだけど、それだけじゃない奴だから安心しろ』  テッドの言葉に一瞬沈黙したノアだったが、夜行バス乗り場へと向かうために歩き出しながら話していると、夜行バスの案内が見えてきて、購入していたチケットをポケットから取り出すと、そろそろバスに乗る時間だと告げてスマホにキスを返す。 『気を付けて帰れよ、ノア』 「うん、そうする」  夜行バスはクライストチャーチからダニーデンに向かった時と同じぐらいの時間が掛かるがバスの中で寝ることにすると笑ったノアに、家に着いたら連絡をくれと恋人が心配性を発揮したことに気付いてそっと目を閉じる。 「うん、家に帰ったら連絡する」 『ああ。じゃあ俺もそろそろ漁港に向かう』 「ああ。そっちも気を付けて」  互いに帰路の安全を願い通話を終えたノアは、バスの運転手にチケットを見せて中央当たりのシートに腰を下ろすと、隣に座った男性が観光客らしき若い人だったことから声を掛けられ、バスが発車するまでの間、ウィーンの観光地やこれからバスが向かうドイツ南部の大都市について彼と少しだけ盛り上がる。  そしてバスがゆっくりと、生まれ育ちフォトグラファーとしても産声を上げた古都を離れていく。  車窓を流れる夜の景色を少しだけ見たノアだったが、あっという間に興味を無くしたのかカーテンを引いて寝る姿勢を取る。  前回この街を離れるときは世界の色は無味無臭だったが、今は遠い記憶の中にだけ残っているように感じ、この街が己にとって最早過去のものであると気付いたノアは、その過去の中で穏やかな笑みを浮かべていつまでも見送ってくれている両親に心の中で別れを告げると、そっとスマホを取り出して一枚の写真を表示する。  それは、さっき両親にも見せたもので、ホームにテッドを伴って遊びに行った際に皆で写したものだった。  ここに写っている人たちとも後少しで別れる、その現実の方が過去の中から手を振る両親への思いよりも心を鷲掴みにするもので、キツく目を閉じたノアは、湿り気を含んだ息を一つ吐いてシートに頭を押し付けると、隣の観光客にお休みと告げてイヤフォンで外の物音が入り込まないようにするのだった。  
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  もうすぐだな。
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