水先案内人になってくれ。
今まで人と人とがすれ違ったり時にはぶつかりながらも寄り添う世界を、いつ壊れてもおかしくないような小舟で独りで漂いすり抜け嵐に巻き込まれつつも生きてきた彼が、特定の誰かに対してそのような思いを抱くのは、もうすぐやってくる恋人が初めてだった。
海を越えるだけではなく季節も時間も違う国に暮らす恋人は、もうすぐ同じ時間、同じ季節を共に生きる事を教えるかのように、己を感じさせる品々を一足先に送ってきていた。
遠路遥々本人よりも先に届いた荷物を、恋人が家に滞在している間利用していた客間-といってもその部屋を使うのは姪っ子と彼女の両親が珍しく泊まると言ったときだけだった-に運び込み、日を追うごとに増えていく段ボールの数に、あといくつ増えれば、箱詰めしたときに一緒に詰め込まれたドイツの空気や雰囲気だけではなく本人がやってくるのだろうと腕を組む。
あと少しでやってくる恋人と一緒にこの家で暮らす事に緊張と不安とそして密かな感激を覚えていた彼、テッド・ハリスは、いずれお前の部屋になるとのコメントをつけて室内に置いた段ボールを写真に撮るとメッセージアプリでそれを送る。
その時、玄関の方から車のエンジン音が聞こえ、周囲に家もない事から誰かがこの家を目的として来たことに気付いて部屋を出ると、ドアベルを壊す勢いで鳴らされて家中に響くベル音に素直に顔を顰めてしまう。
「うるさいぞ、ボブ!」
「やぁやぁ、愛しいハニーを出迎える準備で忙しいテッドちゃん、嬉しいお知らせと嬉しくない知らせを持ってきたぜ」
ドアを開けつつうるさいと瞼を平らにするテッドの前、満面の笑みを浮かべた同年代の男が両手を広げて立っていた。
背の高さはテッドの頭半分下で、青く澄んだ目と憧れられるブロンドを清潔さを出すようにカットし、いつ女性たちから声がかかっても問題ないと言いたげに身形を整えているが、幼馴染のテッドや同級生の女性たちからすれば、後少し何かが足りない、いわゆる残念なハンサムと揶揄ってしまう愛嬌さがあった。
「嬉しくない知らせはお前が来た事だな」
「幼馴染がやってきたってのになんて言い草だ、こら。お前にとって今嬉しい知らせはハニーが来たってことだけかよ」
テッドの言葉に唇を尖らせたボブことロバート・マグワイアだったが、幼馴染の歓迎の言葉と態度が皮肉なものであっても気にしないため、広げた手を目の前の同性から見ても嫉妬したくなる逞しい体に回して背中を軽く殴って挨拶をする。
「どうした?」
「言っただろう? 嬉しい情報を持ってきたって」
「ああ、そう言っていたな」
口や態度でどうこう言いながらも何かあれば真っ先に連絡をする幼馴染の背中をこぶしで一つ叩くように撫でて挨拶返しとしたテッドがロバートを招き入れると、勝手知ったる友人の家だからか、ベンチに腰を下ろして頬杖を突く。
「……ミアがオークランドで開催されるダンスの大会に出場することが決定した」
「そうか」
「なんだ、嬉しくないのか?」
お前が目に入れれば痛いがそれでも可愛がっている姪が全国放送される大会に出場するんだぞと、反応が己の想像と違ったことに驚くロバートに無言で肩を竦めたテッドだったが、ミア自身が言っていたとポツリと答えるとロバートの目が見開かれた後、口笛を一つ吹いてさすがと呟く。
「そうか」
「ああ。その為にできる努力はすべてしたと言っていたからな」
だからあの子が全国大会に出場することは疑っていなかったと、姪が持っている不思議な力から教わった未来を疑っていない顔で頷くテッドにロバートも頷き、努力していたもんなぁと少女の努力を見聞きしていたからか、まるで保護者の顔で何度も頷く。
「で、嬉しくない知らせは何だ?」
「ああ……少佐が入院したそうだ」
「……そうか」
ロバートの顔からこの時初めて笑顔が消えて神妙な面持ちになり、その様子から少佐と彼が呼んだ男の事を思い出してテッドも伏し目がちになってしまう。
「見舞いに行くか?」
きっと彼は誰よりもお前に会いたいと思っているはずだと、テッドが海軍に所属し、そして退役して過去から逃げるようにここで漁師を始めた経緯を知るロバートが誘いをかけるが、テッドの頭は上下には動かず、口から流れ出したのも俺が顔を出すと悲しむ人がいると己を責めている声だったため、ロバートがそれに反論しようと腰を浮かせるが、幼馴染の横顔からそれが苦渋の決断だと察し、何も言わずに溜息を吐く。
「……ボブ」
「何だ?」
「お前がこの間送り付けてきたアダルト動画のせいでノアにこっぴどく叱られたぞ」
二人の間に漂っていた重苦しい空気を天井へと舞い上がらせようとしたのか、テッドがにやりと笑みを浮かべながらスマホを取り出すと、ヌケたかと同じような笑みを浮かべたロバートがテッドを見上げる。
「叱られたからじっくり見てない」
「お前も意外なほど素直だよなぁ」
遠く離れている恋人に叱られたからと言っても黙っていれば分からないだろうと、心底呆れた顔で肩を竦めるロバートにテッドが放っておけと言い放つが、何故かあいつの言葉には従ってしまうと笑い、幼馴染の向かい側に腰を下ろす。
「それにしても…まさかお前が誰かと一緒に暮らし始めるなんてなぁ」
今まで一人きりで生きてきたようなお前が、この家でハニーと一緒に暮らすなんて想像できないと、他でもないテッドが最も思っていることを口にしたロバートに確かにそうだと頷きつつも、今まで出来なかった事が何故かあいつに対してはすんなりと出来たと返し、本当に惚れているんだなと目で問われて無言で頷く。
「……いい年をした男が知り合って間もない男の前で涙を流すなんて、以前なら鬱陶しいとしか思わなかった」
だけどあの夜、そこの庭で空を見上げつつ涙を流すノアを目の前にした時、鬱陶しいという思いは微塵も感じないだけではなく、ミアやこの幼馴染に対して抱くものと限りなく近い感情を覚えたと手を組みながら自嘲するテッドにロバートの目が限界まで見開かれるが、次いで好意的に細められる。
「良いんじゃないか? 初めてお前がそう感じた相手が素直なハニーで良かったな」
「…ボブ、お前、ノアの前ではハニーと呼ぶなよ?」
「俺が彼をそう呼んでるのはからかっているだけだ」
それに俺が彼をハニーと呼べば勘違いされかねないし、お前の人生初の恋人を共有するつもりなんかないんだからと、あったら恐ろしい事をさらりと呟く幼馴染に呆れたような溜息を零したテッドだったが、お前は何と呼ぶんだと問われて深い海と同じ色の目を丸くする。
「ノアと呼ぶつもりだけど?」
「色気も何もないなぁ」
お前が男と付き合いだした事も驚きだが、恋人を呼ぶときも名前で呼ぶなんてつまらないし寂しすぎる、何か二人だけが呼ぶ愛称を決めろと指を突き付けられ、人の勝手だろうと突き付けられた指をそっと横に押しやる。
「ノアは短くする必要がないからなぁ」
「まあそれもそうだな」
とにかく早く来ればいいのになと、テーブルに頬杖をついて笑うロバートにこれは同意以外無いと言いたげな顔で頷いたテッドは、スマホに返信が届いていることに気付き、画面を見て無意識に顔に笑みを浮かべてしまう。
「おーおー、嬉しそうな顔をしちゃってまぁ」
独り身の俺には目の毒だから帰ると、呆れたように言い捨てて立ち上がったロバートに見向きもしないで気をつけて帰れと同じように言い放ったテッドは、お前のハニーが来たら盛大なパーティーをしてやるから覚悟をしておけと言い残して家を出ていく幼馴染の背中にスマホから顔を上げることなく手を振るのだった。
あとは自身が飛行機で運ぶ荷物を残すだけになった自宅を出たノアは、リオンと待ち合わせをしているタトゥースタジオへトラムに乗って出かけていた。
タトゥーのデザインはほぼ確定していたのだが、何かが違うと無意識が囁きかけていた為、本決定したとはまだ伝えていなかった。
タトゥーを施術してくれる人はリオンと同じホーム出身の女性で、アクセサリーデザイナーの友人と一緒にショップを経営している人らしく、直接の面識はなかったため少し緊張を覚えていた。
そんなノアを心配してか、リオンが当日スタジオのあるアクセサリーショップに行くと伝えてくれたため、それですべての問題が解決した気持ちになったのだ。
その時のことを思い出しながらトラムを降りて店に向かうと、洒落た字体でクローズと書かれた札がぶら下がるドアの前でぼんやりとたばこを吸っているリオンを発見したノアは、名を呼びつつ店の前の階段を駆け上がる。
「おー、来たか」
「うん。店、今日は休みなのか?」
休みの日に仕事をしてもらうのは気が引けると、クローズの札を指さしつつ問いかけたノアにリオンがたばこを靴の裏で揉み消しながらにやりと笑う。
「いや? お前が来るって言ったら今日の仕事は終わりって」
ここの店主はわがままだからなぁと、己の年上の幼馴染を笑ったリオンに何と返せばいいのか分からなかったノアだったが、いつものように頭に手を乗せられて首を竦めてしまう。
「気にすんな」
リオンの言葉に小さく笑みを浮かべてドアを開けると、中ではソファでくつろいでいたらしい女性二人がいて、リオンが後ろ手でドアを閉めると同時に小柄な女性が飛び上がる勢いで立ち上がり、本当にそっくりと顔を輝かせる。
「似てるだろ?」
今まで数えきれないほど言われてきた言葉に思わず肩を竦めたノアだったが、リオンはそれを気にしている様子がないどころか楽しんでいるようで、ベラとリッシーだと笑ってノアに二人の女性を紹介する。
「初めまして」
「……素直なミニチュアリオンを見ているみたいだわ」
「それ、今までずっと言われ続けてきたし、オーヴェと喧嘩したらいつも言われる」
ノアの外見がリオンにそっくりだと知った時に皆口にするのが似ているとの感想だったが、ノアが口を開いて一言挨拶をするだけで出てくるのが、素直なリオンを見ているみたいとの感想だった。
挨拶の一言だけで素直なリオンと言われるなんて、普段どんな挨拶をしているんだとの疑問を覚えつつ兄の顔を見ると、見られていることに気付いたリオンがにやりと口の端を持ち上げる。
「今日は俺じゃなくてお前がメインだろうが」
「あ、そうだった」
本当にそんなところも素直だわ、素直なリオンなのか素直じゃないノアなのか、いったいどちらかしらと、ベラとリッシーが声を潜めることなく堂々と言い放ち、さすがにそれにはリオンとノアも驚いてしまうが、素直じゃない俺って何だとノアが情けない顔になってしまう。
「ベラ、リッシー、あまりからかうなよ」
「そうね…タトゥーのデザインは決まったかしら?」
まだなら決めてくれていいし相談にも乗るわと、背の高いリッシーと呼ばれた女性がノアをソファに案内し、その様子を横目に二人が誕生日とクリスマスプレゼントについて相談し始める。
「ある程度は決まってるんだけど・・・」
「何かしっくりこないのかしら?」
「そう」
「モチーフは決まってる?」
ノアに問いかけながら奥の部屋へと姿を消したリッシーだったが、戻ってきた時には分厚いファイルを手にしていて、今まで自分が手掛けたデザインだと言いながらファイルを広げてテーブルに置くと、クリスマスプレゼントを相談していたはずのリオンとベラがファイルを覗き込むように顔を突き出してくる。
「そういえば、リオンの腰に入ってるタトゥーは見たことがあるの?」
リッシーが今まで施術をしてきた幾人ものデザインをファイリングしたそれを捲りつつベラに問われて顔を上げたノアは、じっくり見たことはないけれどと肩を竦めると、何でもないことのようにリオンがシャツを脱いで素肌を見せる。
「これ」
「……これは、トカゲ?」
「ああ、リザードだな」
話せば長くなるがと断りを入れつつリオンが語ったのは、元々はウーヴェのために買ったトゥリングがリザードだったこと、そのトゥリングがウーヴェの足と一緒に壊されてしまい、ひどく落ち込んだウーヴェを励ます意味と事件の傷を覆い隠してくれるようにとの願いを込めてウーヴェの腰にリザードのタトゥーを入れたものの、タトゥーに対して良い印象を持っていなかったウーヴェの心にマイナスの感情が芽生えないようにと、リオンの腰にもデザインを反転させたものを入れたという事実だった。
「……ウーヴェの腰のタトゥーにそんな意味があったんだ」
「ああ……そういやオーヴェのタトゥーを見たことがあるのは家族以外じゃお前だけだな」
その滅多に見ることのできないそれをいつどこで目にしたのかについてはすでにケリがついていることだから何も言わないと笑うリオンにノアが一瞬蒼白になって頭突きを食らった額に痛みを覚えてしまうが、己の言葉通りそれ以上何も言わないリオンに内心感謝しつつ、じゃあ二人のリザードは線対称なのかと問いかけ、何でもないことのように頷かれる。
「リザードはリオンとウーヴェにとって思いが籠ったものだわ。あなたはどう、ノア」
あなたの大切な人との間にある大切な言葉や思いを具現化したものなどは無いのかと問われ、シャツの中からペンダントトップを引っ張り出すと、これと言いつつ興味深い顔をする面々に見せる。
「テッドにもらった幸運のお守りか?」
「そう」
「それは、マオリかポリネシアンのデザインかしら?」
リオンから何かを聞かされているのか、思い当たる節を口にするリッシーに頷いたノアだったが、ソファで膝を抱えて天井を見上げていたベラが海か舟と呟いた為、三人が今度は一斉に彼女の顔を見つめる。
「ベラ?」
「あ、ええと、あなたの名前から連想した言葉よ」
ノアという名前を聞けば大抵の人が思い浮かべるのはノアの箱舟の話だろう。それを膨らませれば今の単語は簡単に思い浮かぶと、三人の驚いたような顔に驚いたベラが居心地の悪そうな顔で呟く。
そんな彼女に納得しそうになったノアの脳裏に、両親が誕生日になれば言い聞かせていた言葉が思い浮かび、一つ頭を振ってそれを追い払おうとする。
その言葉はノアが物心ついた時から聞かされていたもので、自分たちに新しい世界を見せてくれる、連れて行ってくれる存在だった、だからノアと名付けたそうだった。
新しい世界を見せてくれる、連れて行ってくれるとはどういう意味かとずっと思っていたが、言葉通りだと教えられてそれ以上は何も聞くことはなかった。
だから、両親がその言葉に込めた思いを当然ながら知ることも出来ずに今までやってきたが、その言葉に隠されていた意味を知った今、己の名前はただの呪いか何かのようにしか思えなかった。
両親の言葉から二人の顔、その二人に何を疑うこともなくただ可愛がられていた己の愚かさに胸が痛み、恋人がくれたペンダントトップを無意識に握りしめてしまう。
そのノアの様子に目聡く気付いたリオンが無言で俯いたノアの頭に手を乗せ、くしゃくしゃと手触りを楽しむように撫でながらお前のせいじゃねぇと苦笑する。
「……っ!」
「ほら、タトゥーのデザインを考えるんだろ?」
お前が何を考えたか分かっているが今日はそのことについて考えるなと、誰よりもノアを気遣いながら背中をポンと叩いたリオンは、俺のタトゥーはもういいかとも告げてシャツを着こむとノアの頭が上下する。
「ダンケ、リオン」
「おー。で、どうするんだ?」
「うん……俺にも大切な言葉があったのを思い出した」
リオンとウーヴェの間にリザードがあるように、俺にもテッドとの間に大切な言葉があったと手の中のペンダントトップをじっと見つめた後、様子がおかしくなってもただ見守ってくれていた二人の女性に少しだけ照れたような笑みを浮かべ、水先案内人になってくれと言われたと笑うと、三人がそれぞれの顔を見つめて異口同音に呟く。
「水先案内人」
「もし俺が本当に彼を新しい世界に連れていけるのなら…」
それは本当に嬉しいと、両親の言葉と恋人の言葉を胸の中で重ねて大切なものへと昇華させたらしいノアの様子にリオンが秘かに胸をなでおろすが、水先案内人かぁと天井を見上げるその横でベラがアクセサリーのデザインを思いついた時の顔になり、ソファから飛び上がって奥の部屋へと駆け込むと、スケッチブックを開けて鉛筆を走らせつつ来年の夏のデザインは海をテーマにしようかしらと呟く。
「ベラがああなってしまったらもう無理ね」
デザインを考え始めたベラの集中力には舌を巻くリッシーが何も知らないノアに微苦笑しつつ伝えると、タトゥーはリッシーが施術してくれるのだから問題はないと笑う。
「そうね。……奥であなたの頭の中にあるデザインを教えてくれるかしら」
リオンはノアの施術が終わるまでここにいてもいいしウーヴェのクリニックに行っていても大丈夫よと笑って立ち上がり、分厚いファイルを手に奥の部屋のドアを開けてノアを招き入れる。
「ノア、終わったら電話しろよ。オーヴェと一緒に飯食いに行くぞ」
「分かった」
大きく伸びをして愛するダーリンのクリニックに行っていると告げたリオンにノアが手を挙げてもう一度礼を言うと、晩飯の時に何か一品奢れと笑って手を振り返して出ていく。
その背中を見送ったノアは、本当にあなたが大切なのねとリッシーが感慨深く呟くのに頬が熱を帯びたことに気づいて咳ばらいをし、たった今思いついたことを彼女に伝えるのだった。
ゲートルートにあるウーヴェ専用のテーブルではなく、窓際のテーブルでビールを飲みながらノアが来るのを待っていたリオンとウーヴェは、少し慌てた顔で店のドアを開けたノアに気付いてグラスを軽く掲げた後、遅いぞと笑って隣に座るノアの頭に手を乗せる。
「ちょっと家で用事をしていたら遅くなった」
「そうなのか?」
ウーヴェの言葉に頷いて何も注文しなくてもビールを持ってきてくれたスタッフに礼を言い、乾杯とグラスの底を触れ合わせた後、喉の渇きを癒すようにビールを飲み干すが、グラス半分ほど飲んだ時、リオンが何かを思い出したように目を見張り、おいと声を掛けつつノアの手に手を重ねる。
「どうした?」
「お前、タトゥーを入れた時は酒を飲むなってリッシーに言われなかったか?」
ウーヴェもタトゥーをしたときに飲めなくて随分と不機嫌になったのにと過去を思い出して眉を寄せるリオンに肩を竦めたノアは、タトゥーではなくアクセサリーを買ったと告げ、テーブルにベルベットの小さな袋をふたつ並べて中身を取り出す。
それは、いわゆるノーティカルスターと呼ばれる、タトゥーなどのデザインでもよく見かける影のある星の形をしたペンダントトップで、星の明暗を一つはシルバーと名前は知らないがテッドの目の色によく似た色で表した暗さを感じさせ、もう一つはシルバーと明るい青の全体的に明るさを感じさせる一対のものだった。
「水先案内人って言葉に惹かれて色々調べていた時にこのデザインの星を見つけたんだ」
元々は古い海図で北を示すために描かれていたものらしいけれどと、少し照れたように笑いながら星を指先で撫でるノアにウーヴェとリオンが顔を見合わせるが、タトゥーとして体に残すのも良いけれど、どうせなら同じものを二人で持っていたいと思ったからこれを買ったと笑うと二人同時にため息を吐いてしまう。
「……な、オーヴェ、青い方をノアが持つと思うか?」
「いや? きっとテッドが持つんじゃないか?」
暗い方はきっとノアがペンダントかストラップにしてカメラに着けていそうだなと、何故か溜息をテーブルに落としつつボソボソと会話をする二人にノアが首を傾げて名を呼ぶが、良いものを見つけたなとウーヴェが眼鏡の下で目を細め、タトゥーという形で表現するのもこうして身につける形で表現するのもどちらも良いことだと笑ったため、ノアの顔に満面の笑みが浮かぶ。
「ウーヴェに褒められると全部受け入れられてる気がして嬉しいな」
「……やっと気付いたか」
俺のダーリンの言葉には不思議な力があるんだと、何故か本人よりも自慢げなリオンに頷いたノアは、不思議な力と聴いて半年近く前に初めてニュージーランドに訪れた際に経験した不思議なことを思い出す。
あの時少女が垣間見た未来ではテッドと己が仲良く笑っていたそうで、そうなれば良いと思いつつそうなるように努力しようとの思いが自然と芽生え、テーブルに並べた二つの星に目をやるとノアの今の決意を受け止めたかのようにきらりと光った気がし、どちらも綺麗な色だなとウーヴェがビールを飲み干し、リオンもそうだなと目を細める。
「……どちらがどちらを持つにしても似合っている」
タトゥーよりも似合っているかもしれないなと笑うウーヴェに素直に頷いたノアは、オーダーを聞きにきたスタッフにも一対のノーティカルスターを褒められて笑みを深めてしまう。
タトゥーのデザインで随分と悩んでいたノアだったが、店でリオンとウーヴェの腰のタトゥーの由来を知り、テッドの言葉も思い出した時、タトゥーとして体に残すのではなくアクセサリーとして持つことも良いのではと思い至り、タトゥーを入れるための最後の一歩を踏み出せなかった本当の気持ちにも気付いたのだ。
デザインで悩んでいると思っていたその奥底にあったのは、どうせなら俺が入れたかったというテッドの一言だった。
恋人が己の手でタトゥーを入れたかったと言うのだ。だったら何も今すぐタトゥーを入れなくても良いのではないか。
その思いが無意識にブレーキを掛けていたことに気づき、リッシーには申し訳ないと頭を下げたが、己の考えを丁寧に説明するとにこりと笑みを浮かべて受け入れてくれるだけではなく、店にあるアクセサリーを見ていってくれればいいと商品を出してくれたのだ。
あの後、デザインを考える作業を一時中断したベラと三人でアクセサリーを見ながら色々話をした中で、リオンとウーヴェを襲った事件について少しだけ教えてもらったのだが、その中で腰のタトゥーが持つ意味を改めて教えられたことから、二人の絆の強さを再認識したのだ。
自分たちにこの先何があるのかは分からないが、二人が経験したような悲喜交々の出来事を、あの朴訥としていて時々揶揄ったりもしてくる恋人と一緒に乗り越えていければと思い、出来るようにと願いを込めてベラが出してくれたペンダントトップにもなるノーティカルスターを二つ選んだのだ。
己の選択が間違っていないと力を分け与えてくれるウーヴェの言葉と笑顔にもう一度頷いたノアは、革紐を通しても良いしチェーンでも良いかなと笑って胸元に充てがってみると、リオンが革紐でブレスレットみたいにするかアンクレットにしても良いなと笑う。
「あ、それ良いな」
「ああ」
一対のノーティカルスターをベルベットの袋に戻してポケットに戻したノアは、もう一つと切り出し、今日のおすすめメニューを運んできたスタッフに礼を言い、この店自慢の料理を食べながら本当に素直になれたと告げると、流石に二人も意味が分からないと言いたげに見つめてくる。
「……ウィルとマリーに引っ越すことをちゃんと伝える」
「……そうか」
「うん。……テッドに俺の勝手だって言ったけど、もし俺が本当に納得してることならあんな言い方はしないなと思った」
反発するように強く言い返すということは、心の中ではきっと触れて欲しくない話題に触れられ、しかもやりたくないと思っていることを指摘されたからだと思うと自己分析の言葉を口にすると、ウーヴェが安堵の溜息を零す。
「やっと気付いたか?」
「うん。もしかしてウーヴェは気付いていたか?」
「ああ」
だから少し前にホームできみにやらなければならないと思うのならやっておけと言ったと笑ったウーヴェだったが、素直になってみてどうだと問いかけ、目尻を赤らめるノアに目を細める。
「偉そうなこと言うつもりはねぇけど、ケンカもハグも生きてる間しかできねぇからな」
死んだ相手にいくらケンカをふっかけたとしても、どれほど好きだと伝えても墓石はただ黙っているだけだと、おかわりのラドラーのグラスをくるりと回転させながらリオンが告げたのは、言葉遣いは雑だが少しだけ聞き齧っているノアでさえも痛みを覚えてしまうものだった。
「親孝行で墓石に毛布を掛けても仕方ねぇだろ?」
「……うん」
その言葉に込められている膨大な感情の一端を読み取ったノアは、ポストカードなどではなくちゃんと二人に話をすると約束し、久しぶりにウィーンに行ってくると顔を上げると、そこにはノアの行動を受け入れて認めるだけではなく、まるで褒めてくれるような笑みを浮かべた二人がいて、その笑顔からきっとこの二人は自分が世界中のどこにいたとしても、戻ってくればこうして笑顔で出迎えてくれ、経験した悲喜交々の出来事を聞いて一緒に笑ったり少し怒ったりしてくれるのだろう。
それは、ノアが今は距離をとっている両親と作り上げてきた家族の空気で、リオンとウーヴェという得難い存在にも同じことを感じ取ったノアは、片道切符を笑顔でプレゼントしてくれた時と同じ気持ちになり、自然と頭を下げてしまう。
「……もしも、俺がここに帰ってきたら……」
あり得ないと思いたいがあり得る未来を思い浮かべつつ小さく問いかけたノアだったが、後頭部と肩に手が乗せられる感触を覚えて上目遣いになると、目の前では頬杖をついたウーヴェが笑みを浮かべつつ手を伸ばし、隣を見ればリオンが肩に腕を回して満面の笑みを浮かべていた。
ただそれだけのことがノアに限りない力を与えたようで、二人の笑顔に応えるように笑みを浮かべた顔を上げ、テッドと一緒に帰ってこいとウーヴェが告げたそれに大きく頷く。
「うん。次に帰ってくるときは二人一緒だ」
「ああ」
笑顔を浮かべるノアに安堵の頷きを二人同時にしてしまったリオンとウーヴェだったが、後半月もしないうちに南半球の季節も時間も違う国に旅立っていくのだと気付き、これもまた二人同時に見えないように拳を握りしめて込み上げてくる感情を堪えるのだった。
この夜も自宅に送ってもらったノアは、少しだけ興奮気味にメッセージアプリを立ち上げると、明日からウィーンで両親に会ってお前の話やこれからのことを話してくる、写真も撮ってくると伝えると、程なくしてメッセージではなく着信があり、スマホを耳に当てながら水のボトルを冷蔵庫から取り出してキャップを捻る。
「ハロ、テッド」
『……ウィーンまでは遠いのか?』
「んー、そうだな、電車で行くつもりだから少しかかるかな」
冷蔵庫を行儀悪く足で閉めながら水を片手に作業台の前に戻ったノアは、少し考えてみた結果だと伝えると、安堵の色が滲んだそうかという声が返ってくる。
「うん。行ってくる」
『ああ。気をつけて行ってこい』
そして、テレビや映画などでしか見たことのないウィーンの空気をこちらに来た時に教えてくれと囁かれ、うんと見えないのに頷き、またウィーンに着いたら連絡をすると告げてお休みのキスをスマホから送ると、同じキスが返ってくる。
それで通話を終えてマットレスに寝転がったノアは、高い天井を見上げながら食事に行く前に電話をかけ、久しぶりに再会できる事を湿り気を帯びた声で喜んでくれた両親の顔を思い浮かべながら昨日までとは少し違う気持ちで眠りにつくのだった。