『Herzlichen Gluckwünsch zum Geburstag! 今週末、お前の誕生日パーティーをホームでする、皆に配るプレゼントを用意しておけ』
誕生日おめでとうのメッセージに始まり週末の予定に及ぶメッセージがノアのスマホに届いたのは、人生で初めて誕生日を一人静かに−といっても恋人との会話は当然ながら交わし、こちらに来た時に用意してある誕生日プレゼントを開封しようと言われて嬉しそうに頷いたりした後、何もしないでただマットレスに横になってラジオを聴いていた時だった。
そのメッセージに何故か大慌てになったノアが駆け込んだのは、メッセージを送ってきたリオンの永遠の伴侶であり唯一彼の手綱を取れるウーヴェが経営しているクリニックだった。
血相を変えたノアが飛び込んできたことに事務員でありウーヴェの友人でもあるリアが休憩をしていたカウチソファで飛び上がり、彼女のデスクに尻を乗せていたウーヴェも危うく滑り落ちそうになるほどだった。
誕生日だから食事に行くかと実はウーヴェが誘っていたのだが、ノア自身が一人で過ごしたいと伝えたためにそれ以上は何も言わずにいたのだ。なのにノアが大慌てで駆け込んで来たことから何か良くないことでもあったのかと胃のあたりが冷たくなる感覚を覚えてしまっていた。
だが、駆け込んできたノアから事情を聞いた二人の口から流れ出したのは、盛大なため息の後に驚かせたノアに対する不満ではなく、ここまで慌てるような行動を彼に取らせたリオンに対する文句だった。
それを聞いて少しだけ頭が冷えたノアは、あまりリオンを悪く言わないでくれと甘い顔を見せ、リオンが良くウーヴェやウーヴェの父からいてもいなくても騒々しいと言われる理由が良く分かったと肩を竦めたのだ。
水をもらって人心地ついたノアが改めて二人に相談したのは、誕生日パーティーでホームと呼んでいる教会に付属する児童福祉施設の子供達に渡すプレゼントの内容で、血相を変えつつ飛び込んできたノアの相談事が心身に重篤な何かを及ぼすものではないことに安堵した二人は、パーティーが嫌いという訳ではない理由と何よりもノアの誕生日パーティーだからと親身になって相談に乗ったのだ。
その結果が、今、がらんどうのようになった自宅にぽつんと置かれていて、これを今日仕事終わりに迎えに来てくれるリオンと一緒にホームに運ぶことになっていて、作業台に座り片膝を抱えながら準備をしていた時のことを思い出して自然と肩を揺らしてしまう。
結局誕生日パーティーのプレゼントは子供達のことを考えてピニャータにお菓子を沢山詰めたものにしたのだが、この誕生日パーティーがきっとホームで祝ってもらえる最後の誕生日になると感慨深げに溜息を吐く。
ニュージーランドに引っ越しをしてしまえばこの街には一時的な帰国しかしなくなるだろう。
三年未満という短い時間生活をしたこの街が生まれ育ったウィーンよりも己にとって掛け替えのない存在になっていて、第二の故郷だと笑み交じりに呟くと、その第二の故郷で得た人との縁を思い出し、次はニュージーランドの小さな町に引越しをするが、そこでも己の生活を豊かにしてくれる人間関係が築ければいいのにと、膝がしらに顎を載せて一つ息を吐く。
その時、スマホにメッセージが届いた合図が聞こえ手に取って確かめると、ニュージーランドに引っ越しをし、活動拠点もあちらに完全に移行することを伝えた際、驚きや呆れ、そしてほんの少しの羨望を顔に浮かべた後、観光でしか訪れないような国で名前を知られたとしてもフォトグラファーとして成功したとは思えない、今まで世話になったと吐き捨てて飛び出していったアシスタントのユリアからで、何故そこまで侮蔑されるのかが分からずにさすがにノアも気持ちよく見送れなかったのだ。
その彼女からのメッセージを開き、先日はあなたの意思を馬鹿にするような事を言ってしまったが、あなたはあなたの思う場所で活躍してくださいと書かれていて、改まって皮肉のメッセージを送りつけてくるユリアの心境が本当に理解できずにスマホを投げ出そうとするが、次の働き口は見つけたこと、そこは厳しくも若手にとって勉強になるようなところだから頑張るつもりだ、今までありがとうと続けられ、天井を見上げて溜息を吐く。
フォトグラファーとして大成したいユリアの向上心や野心について、ノア自身も数年前までならば同じことを考えていた為に理解できることだった。
同じ道の遥か先を歩む父の背中に追いつこうと必死になっていたが、家族の関係を大きく変えた事件の後、目標にしたい背中はあれでいいのかという疑問も芽生えていた。
ユリアのように名前が売れ仕事の引く手あまたのフォトグラファーになって世界中を飛び回りたい、そんな夢を突き付けられると、世界が一度大きく変わった経験をした今のノアにはそんな夢を見ていられることは幸せだと思うようになっていた。
夢を見続けられる時間が子供時代なのだと、いつかどこかで醒めた目つきで世間を見る人の言葉として聞いた覚えがあったが、子供時代が終わりを迎え、新たな時代への入口に踏み込んだ今のノアならば、厭世的でも露悪的な意味でもなく、己の子供時代は終わりを迎えたのだと分かっていた。
夢に邁進する彼女の姿が遠い昔の己に重なり、夢があれば辛いことがあっても踏ん張ることが出来るだろうとの思いから、ただ一言、がんばってと返事を送る。
そして、彼女の人生が豊かでありますようにと願いながらスマホの連絡先から彼女の名前を消すと、再度天井を見上げて溜息を吐く。
何も知らないでいた子供時代は本当に幸せだったと、二度世界が変わった今はただ素直にそう感じてしまうが、ふと今己が追いかけたい背中はあるのかと自問し、天井に思い浮かんだ背中に目を見張ってしまう。
そこに浮かんでいたのは、もうすぐ会える、同じ季節の同じ時間の中で一緒に生活ができる恋人ではなく、己によく似た、だが決定的に何もかもが違う男の背中で、存在を知った時から密かに憧憬を抱いていたことに改めて気付くと、どうあってもあの背中に追いつくことは出来ないよなぁと自嘲交じりに呟いてしまう。
広く大きく何があっても揺らぐことのないようにノアには見える背中だが、その傍には細身だけど同じように広く感じる背中も並んでいて、ひまわり畑を見つめる背中を無意識にファインダーに納めた時のことを思い出す。
二人が悩み傷つきながらも手を離さずに乗り越えてきた幾多の出来事。
それらを通り越したものとして達観しているように感じる背中を見たノアが思ったのは、いつか自分も誰かと同じような姿を見せられることが出来ればという憧憬だった。
それを思い出し、スマホに保存してあるその写真を見つめると、隣にいる人を信じて支え続けられる強さと優しさを感じられ、恋人ともそういった関係になれるだろうかと再度自問するが、それに対する答えは自分にはその資格がないという否定の声だった。
今は否定の声は聴きたくないと頭を振ってその声を追い出そうとするが、一度忍び寄ったマイナスの感情はなかなか消え去らず、その声にユリアの侮蔑の表情も重なって心が底なし沼に沈んでいく感覚にとらわれる。
もう一度頭を振ってそれを追い払おうとしたノアだが、どうも彼女のメッセージが足枷になっているようで、顎の下まで不快な感覚に囚われたその時、ドアベルが二度鳴り響き、その音に我に返って顔を上げるが、次いでドアが破壊されるのではと思うような物音が聞こえてきて作業台から慌てて飛び降りる。
冷や汗を浮かべた顔で玄関へと向かってドアを開けると、遅いと言いたげに顎を挙げる己によく似た顔立ちのリオンと、呆れて何も言えないと言いたげなウーヴェがいて、二人の顔を見た安堵感にノアが無意識に溜息を吐く。
「どうした?」
ノアの様子に何かを察したのは、存在自体が騒々しいと酷評されるがその実周囲の様子を誰よりも見ているリオンで、どうしたと再度問いかけつつノアの頭に手を載せる。
その温もりが底なし沼に沈みかけていたノアが浮上する切っ掛けをくれたようで、う、ん、大丈夫だと掠れた声で返事をするが、そんな顔をしていて何が大丈夫だ、ここにも平気じゃないくせに平気だという奴がいると、己の伴侶をちらりと見つめながら皮肉気に呟いたリオンは、何か嫌なことでもあったのかと口調を変えて己そっくりな双眸を覗き込む。
「……ユリアから、ちょっともやもやするメッセージが来た、から」
「ウィーンやここで名前を売った方が良いのに、ニュージーランドなんて羊と牛しかいないような田舎に行くなんてもう終わりね、とでも言われたか?」
「……っま、あ、似たような事を言われたかな」
ユリアが言葉に出さなかった侮蔑の思いを見事に言い当てたリオンに流石に人の心を読む天性の才能はすごいなと感心してしまうノアだったが、ウーヴェが微苦笑しつつ彼女には見つけることが出来ない運命を見つけて歩き出したのだから気にするなと笑ったため、ノアも素直にうんと頷く。
「車を親父の家に取りに行ってきた。ホームに運ぶ荷物を積むぞ」
「うん、ありがとう」
ウーヴェの言葉に慰められ、リオンが無言で頭を撫でるのに癒されてやっといつもの笑みを浮かべたノアに年長者二人がそっと視線を交わして互いに安堵したのを見届けると、週末のパーティーが楽しみだとリオンが声を弾ませ、ノアが用意をしたピニャータを車に乗せるためにノアと二人で運び出すのだった。
児童養護施設のある教会はいつ訪れても古くて小さかったが、この教会の聖堂にクリスマスイブの夜にリオンが捨てられていたのを、当時ここで暮らしていたゾフィーと、今も昔も変わらずにここで生活をする人たちの精神的支柱になっているマザー・カタリーナが発見したそうだ。
聞かされたそれを思い出しながら車から布に包んで中身が見えないようにしておいたピニャータを二人かかりで運ぶと、出迎えてくれたマザー・カタリーナとブラザー・アーベルが盛大に驚いた顔になる。
「まあまあ、立派なものを作りましたね、ノア」
「入れ物を買ってきただけだから俺が作ったんじゃないけど、でも中身はしっかりと詰めたから子供たちも喜んでくれると思う」
大の大人二人がかりでそれを古い家のマザー・カタリーナの私室に運び込んだあと、時間があればお茶にしませんかと彼女に誘われ、もちろんと頷いたノアだったが、少し聞いてほしい話があると伝えると、部屋を出ようとしていた彼女とそんな彼女に楽しそうに何かを語りかけていたリオンが同時に振り替える。
「皆がいる場所でも良いのか?」
「うん。皆に聞いてほしいから」
「そうか」
最低限の人にだけ聞いてほしいのなら今ここで話をすればいいとリオンが言外に伝えるが、ノアが緩く頭を左右に振っていろいろな意見を聞きたいと伝えた為、じゃあいつも通りにキッチンに行こうとリオンが頭を振る。
キッチンではウーヴェが子供たちに持ってきたドーナツをアーベルに預け、自分達の分はここにあると別の箱を差し出していた所で、命の水とカフェラテだとどちらがいいと、キッチンのドアを開けながらリオンが問いかけた為、天使像そっくりな顔に驚きの色を浮かべたアーベルが突然どうしたと問いかけ、椅子に先に座っていたウーヴェも驚きに目を見張るが、リオンの表情から何かを察したのか、お前のカフェラテが飲みたいとオーダーするときのように人差し指を立てる。
「ああ、じゃあ私もカフェラテが良いな」
「げー。楽しようと思ったのになぁ」
リオンの後に笑みを絶やさないで入ってきたマザー・カタリーナと何とも言えない顔のノアを発見し、何か相談事でもあるのかとウーヴェが何気なく問いかければ、ノアの肩がぴくりと揺れる。
「ウーヴェが買ってきてくれたドーナツを食べてカフェラテを飲みながら話を聞きましょうか」
さあ座ってくださいと笑いながらノアの肩をそっと押して座らせたマザー・カタリーナにリオンが人数分のカフェラテを用意すると食器棚を開けるが、そこにいつの頃からか並ぶ二枚の写真に気付いて無言で目を細める。
一枚は長い髪をかき上げて楽しそうな笑みを浮かべる女性で、もう一枚は病になど負けないと言いたげな笑みを浮かべている老人のものだった。
どちらも己にとって関わりの深い人達であるため、その人達の写真が食器棚に飾られている事にリオンは敢えて何も言わなかったが、小さな音を立ててキスを二人に送ると人数分のカップを取り出し、カフェラテの用意をはじめる。
ミルクを温めるためにコンロの前に立つ背中をぼんやりと見ていたノアは、リオンに任せましょうとマザー・カタリーナが笑った為、我に返ってうんと頷くと、テーブルについている人たちの顔を一通り見つめた後、引っ越しをすることを両親に伝えるべきか悩んでいると口を開く。
ノアがこの街に引っ越してきた時、リオンとウーヴェと同じぐらい何くれとなく世話をしてくれたのはここにいる人たちで、ノアにとってもここは第二の家のようなものだった。
だから、テッドと一緒に暮らす事、一時的な帰国以外では帰ってこない事をリオンとウーヴェの次に伝えたのもここの人達だった。
今では両親以上に信頼している人たちの意見を知りたい思いで口にすると、ノアの気持ちを良く知る人たちはそれぞれ顔を見合わせるが、まず口を開いたのは背中を向けているリオンだった。
「いらねぇんじゃねぇの?」
「リオン?」
「伝えるべきかって悩むぐらいならしなくても良いんじゃねぇの?伝えたければするべきかなんて思わないだろうし」
「……」
「そうだな、それもあるけれど…」
だからこそ、俺は敢えて伝えた方が良いと思うとウーヴェが異論を唱えると、リオンがコンロの前で振り返って目を細める。
「やりたくないことをいつまでも先延ばしにしても辛いだけだ」
だったら今ここで少しだけ我慢をして義務だと感じていることを終わらせればいいと告げるとリオンもその通りと頷き、ミルクパンの中で沸騰している牛乳が溢れないように火を弱める。
「義務に感じているのか、ノア?」
その疑問は天使像そっくりな顔に思案の色を浮かべているアーベルからのもので、もしかするとそう感じていたのかもしれないと己の心の軌跡を振り返ったノアが苦笑すると、義務なら果たさなければならないけれど、お前の心を思えば無理にする必要はない気がするとアーベルがノアの気持ちをまず最初に考えた言葉を口にし、マザー・カタリーナもそっと頷く。
「無理にする必要はありませんよ、ノア」
「……」
マザー・カタリーナの言葉にノアが目を伏せた時キッチンのドアが開き、なんだ、葬式の相談でもしているのかという縁起でもない言葉が投げかけられ、一斉にその声の方へと皆が顔を向けると、キッチンに入る為に屈まないといけない長身の赤毛の男が皮肉な表情を浮かべて入ってくる。
「仕事は終わったのか、カイン?」
「今日はニュルンベルクに行っていた」
この後ゲートルートで飯を食う為に千暁と待ち合わせをしていると、たばこを取り出して火をつけつつ笑うカインと呼ばれた男にマザー・カタリーナがアキは元気ですかと笑みを浮かべ、今カフェラテを作っている、飲むのならカップを出せとリオンがぞんざいな態度で幼馴染に告げると、十分承知しているカインもカップを無言で取り出す。
「ゲートルートに予約をしたのか?」
「ああ。お前たちも後で来るとチーフが言っていた」
ウーヴェの幼馴染がオーナーシェフを務めるゲートルートは、近年では予約をしてもなかなか店に入ることがむつかしい人気店になっていて、スタッフと親しくなった人たちであっても予約を断わられることがままあった。
ただ、幼馴染のウーヴェの予約だけは絶対に断られることがないため、今日も三人で食べに行くと朝のうちに連絡をしていたが、カインの話からスタッフが気を利かせてくれたのだと気付き、皮肉を口にすることが多いカインでさえもそれについては素直に感謝している様子で、ウーヴェを一瞥した後、口の中で小さく感謝の言葉を転がしているようだった。
「ああ、そうだ、カイン、もしお前が引っ越しをするなら誰に知らせる?」
「引っ越し?」
「ああ」
リオンが並べたカップに温めたミルクを注ぎながら室内の空気を生み出していた疑問を形を変えて問いかけると、お前たちだけだと返されてにやりと笑みを浮かべる。
「親に言わねぇよな?」
「言うわけがないだろうが」
育てられた覚えのない親など他人以上に他人だし、しかも既に死んでいて墓石に報告するような義理もないし、今ここにいるお前たちに話をするだけで十分だと当たり前の顔で笑うカインにリオンも同じ顔で笑い、さあ、どうするノアと悩んでいる弟に問いかける。
「……二人に連絡をする、それを躊躇うのならメッセージカードで伝えるという方法もありますよ」
顔を見ることや声を聴くことが出来ないのであれば手紙を出す方法があると、マザー・カタリーナが助け舟を出すと、すかさずウーヴェが頷いてテーブルの上で左手を癖か何かのように動かす。
「引っ越した後にあちらで気に入った写真をポストカードにして送ればどうだ?」
マザー・カタリーナの助け舟に乗り込もうとしている事を目ざとく察したウーヴェがそっとノアの背中を押すように提案すると、テッドと二人で撮った写真をポストカードにしろとリオンが舟に勢いをつけるように笑みを浮かべてマグカップを皆の前に置いていく。
「なんだ、両親に引っ越しを伝えるかどうかで悩んでいるのか?」
「そうなんだ」
カインの言葉に微苦笑を浮かべたノアだったが、テッドと一緒にいるときに両親の事を思い出して嫌な気持ちになるのなら伝えておけとカインが続けたため、ノアだけではなく室内にいた全員が驚きの目で端正な顔を見つめてしまう。
「……何だ」
「いや、お前がオーヴェみてぇな事言うから驚いた」
「ええ…ですが確かにカインの言うことも一理ありますね」
ご両親のことを考えた時に後ろめたさやマイナスの感情を思い浮かべるのなら、ちゃんと話をしてその気持ちを昇華しておいた方が良いのではないでしょうかと、マグカップを両手で持ちながら穏やかな声でマザー・カタリーナがノアを見つめ、その視線を受けたノアの頭が上下に揺れる。
「それもそうかも」
「あなたの気持ちが楽になる方へと行けば良いのですよ、ノア」
ご両親に引越しの話を伝えなかったからといってあなたが親不孝だと誰も思いません、生きているだけで親孝行をしているのですからと笑うマザー・カタリーナに照れたように笑みを浮かべたノアだったが、彼女が何かを思い出したような顔で目を丸くして慌てて立ち上がったため、室内にいた男たちが一斉にマザー・カタリーナの顔を見る。
「どうした?」
「今渡しておこうと思いまして・・・」
誰にも意味がわからないことを呟きながらキッチンを出ていったマザー・カタリーナを不思議そうな顔で見送った男たちだったが、小さなベルベットの袋を片手に戻って来たことに気づき、ノアを除く誰もが彼女の行動を理解する。
「はい、ノア」
今年のあなたの誕生日は一人で静かに過ごすと聞いていたので特に何もしませんでしたが、これは引越しの記念に作ったものですと、ベルベットの袋を開けてノアの掌にシャラリと綺麗な音をさせて載せたのは、この場にいる全員が一度は自らの手で受け取ったことのあるロザリオだった。
「ロザリオ?」
「はい。ここを巣立つ子どもたちにわたくしが渡しているものです」
これを受け取ったからといってカトリックに改宗しなさいなどというつもりはありません。これは、ここの関係者でありわたくしたちの家族である証ですと、少しだけ照れたような顔に笑みを浮かべてノアを見つめるマザー・カタリーナの言葉に呆然と目を見張るが、室内にいる人達の顔を見回せば皆一様に頷くだけだった。
「……ありがとう」
「あなたは、どこにいても何をしていても、わたくし達の家族なのです」
どうかそれを忘れずに、あちらでもあなたとあなたの傍にいる人たちとの暮らしを楽しんでくださいねと、短期間しか知らないノアを本当の家族のように気遣い、幸せを願ってくれる心優しい人の言葉に自然とノアの頭が下がる。
教会を母体とする児童養護施設には世界中の彼方此方で見聞きする悩みや問題がいつも溢れていて、そんな大変さをそれでも周囲の人たちと一緒に乗り越えているマザー・カタリーナを筆頭とした優しい人たちのことを忘れないようにしようと決めたノアは、小さく笑みを浮かべた顔を上げ、みんな一緒に撮影をしたいからそこに並んでくれと笑って伝え、最近はまた持ち歩くようになったカメラを一つ撫でる。
マザー・カタリーナを中心に隣にアーベルとウーヴェが座り、ウーヴェの後ろから腕を回して抱きつくリオンを呆れたように見るカインが並ぶと、個性豊かな容姿の人たちだと思わず笑みが零れてしまう。
だが、この個性豊かな容姿を持つ人達が、悩み苦しみながらも己にしか果たせない責任から逃れることなく向かい合い、一人では難しい問題もこうして皆が力を出し合って解決してきたのだ。
その輪の中に食器棚の中で笑っている二人も入っていたのだろうと容易に想像できるノアだったが、きっと後日恋人にこれを見せれば、この瞬間の気持ちを汲み取って褒めてくれると確信できるような写真を撮れたことに満足そうに息を吐く。
仕事では大自然を相手にしているが、プライベートの撮影をノアはここの人たちやウーヴェの家族らと一緒にいるときには良くしていて、その記念のアルバムも先日テッドの家に送った荷物の中に入っていた。
何も知らない子供時代を過ごし順風満帆なフォトグラファー生活を送っていたはずの己が、両親が犯した罪の重さに顔を上げられなくなったとき、ここにいる人たちが手を差し伸べて助けてくれたのだ。
その優しさを忘れないように、そしてもしも可能なら、自分にもいつか同じことができますようにと願いつつ、少しだけぼやける室内の様子をファインダー越しに見つめ、好き勝手に笑っている大切な人たちを記録に残していく。
「週末の誕生日パーティーは楽しみだな、ノア」
「なんだ、パーティーをするのか?」
リオンの声にカインがノアを見つめ、カメラを下ろしつつ満足そうに頷いたノアだったが、アキと一緒に遊びに来るとぼそりと呟かれて再び室内にいた全員が盛大に驚いて彼を見つめるその光景に呆然としてしまう。
長身で赤毛というだけで目立つ存在なのに名前でも目立ってしまっているカインは、幼いころから周囲のいじめにあった結果、リオン曰くの性格がひん曲がってしまったらしく、ある日突然ふらりとここにやって来てリオンやゾフィーらのお節介かと思うほどの優しさに触れて少しずつ考え方が変化をしていったのだ。
だが、今のような言葉を口にするようになったのは、掛け替えのない存在を手に入れたからだとリオンやウーヴェは気付いており、どうせ来るならアキのピアノが聞きたいとリオンがリクエストをする。
「……話をしておいてやる」
大切な弟の誕生日パーティーでピアノを弾いてくれれば嬉しいというリオンの願いだったが、己の大切な人が大切な人たちと過ごすかけがえのない時間に必要とされていることがカインにとっても嬉しかったようで、切れ長の目尻にほんの少し赤らめて視線をそらす。
「楽しみにしているってアキに伝えておいてほしいな」
「ああ」
後で一緒になるだろうけどと笑うノアにそっけなく頷いたカインだったが、これが限界だったのか、リオンとマザー・カタリーナにだけ理解出来る気持ちを耳を赤くすることで表現し、帰ると吐き捨ててキッチンを出ていってしまう。
「……あいつも恥ずかしがり屋さんだよなぁ」
ここにいる誰かさんと同じでどうして礼を言われて恥ずかしいと思うんだろうなと素直な感想をリオンが口にするが、そんなリオンをウーヴェがメガネの下からジロリと睨み、うるさいバカタレと素直でない思いを口にしてしまう。
「あー、まーたそんなことを言う」
「ふん」
素直でないとリオンに揶揄われてしまったウーヴェがそっぽを向くと素直じゃないんだからぁと暢気な声をリオンが放った後、機嫌を直せと伝える代わりに頬にキスをする。
「オーヴェ」
「……晩飯の時にクヌーデルを食べたい」
「おー、ベルトランに頼もうぜ」
お前の好きなものを頼もうと笑顔で頷くリオンにウーヴェも機嫌を直したように笑みを浮かべるのを見守っていたマザー・カタリーナとブラザー・アーベルだったが、本当に仲がいいよなぁとノアが頬づえをつきながら笑い、そうだなとリオンがウーヴェを背後から抱きしめる。
「お前もテッドと仲がいいじゃねぇか」
以前テッドがサプライズでここに来た時はずっと一緒にいて離れなかったくせにと、ウーヴェの肩越しに笑われて思わず赤面したノアは、確かに仲が良かったですねぇとマザー・カタリーナとブラザー・アーベルにニコニコと笑われてしまい、恥ずかしいからやめてくれとさらに顔を赤くしてしまう。
そんなノアに皆が自然と笑みを浮かべキッチンに笑い声が溢れるが、その空気を一生忘れないようにしようと胸に誓ったノアは、週末の誕生日パーティーも満喫したいが、今夜の食事も日常の一コマだが決して忘れないようにカメラで記憶しておこうと決め、無意識に取り出したカメラで物理的な暖かさ以外に満ちているキッチンとそこで楽しそうに笑みを浮かべる人たちをまた撮影するのだった。
そしてその週末の誕生日パーティー当日、主役であるノアと子供達が同じような顔でピニャータを全力で割るのを楽しみ−ピニャータは地球儀のデザインだった−中からこぼれ落ちた小分けにされた菓子が詰まった袋を一人ずつ手に取ると、残りは大人たちにと子供たちが配っていく。
誕生日パーティーのメインであるバースデーケーキはリアが前日から下準備をして用意してくれたもので、食事はゲートルートからのデリバリーを利用した為、参加者一同大満足のパーティーになった。
それを、動画と写真とで残そうと主役の割には忙しく動き回っていたノアは、カインが約束してくれたように小さな体でピアノを精一杯弾いてくれた千暁の真剣な横顔を何枚も撮影し、密かにカインに見せて彼のスマホに送る約束をしていた。
そんな、終わりが来なければ良いと願うものの必ず訪れる終わりを迎え、パーティー会場になった部屋を片付けた後、キッチンで満足感と寂寥感を抱えてマザー・カタリーナらとお茶をしていたノアに、後からやってきたリオンとウーヴェが今年の誕生日プレゼントだと言ってポストカードサイズの封筒を差し出す。
「何だ?」
「開けろよ」
リオンの言葉に首を傾げつつ誕生日プレゼントと渡されたそれを開けたノアは、中身に驚き手元とリオンの顔を交互に見つめてしまう。
「お前が予約した飛行機のチケットはキャンセルしておいた」
だからそのチケットで愛する男がいる南半球に飛んでいけと二人揃ってにやりと笑みを浮かべた為、ノアが顔を伏せて肩を震わせてしまう。
ノアの手元にあるものはメッセージカードとダニーデン空港を最終目的地とした片道だけのチケットで、丸一日近くかかる旅路を少しでも快適に出来ればとの思いからか、ノアが予約をしていた席よりもグレードが上のものだった。
「どうせ早くテッドに会いたいけれど、どれだけ焦っても時間は同じだからなぁ。だったら快適な方が良いだろう?」
それに、お前があちらでテッドと結婚式をするのかどうかは不明だが、実質結婚するようなものだからその祝いだと笑うリオンに何も言えなかったノアは、ウーヴェが本当の祝いはちゃんと別に用意してある、それは引越しの餞別だと穏やかな笑顔で告げた為、もう一度顔を伏せた後、椅子から立ち上がって二人の肩に腕を回して二人同時に抱きしめる。
「……ダンケ、リオン、ウーヴェ」
「……ダニーデンに帰るんだろ、ノア」
あちらでお前を待っている人や出来事がこれからたくさんある、そのどれもが楽しく笑っていられるように祈っていると、微かに震えるノアの髪をくしゃくしゃにしたリオンの言葉にウーヴェもあちらでも二人仲良くと笑って同じようにノアの背中をそっと抱きしめる。
こんなにも人に対して優しくなれるのは、その人が辛い思いをたくさんしてきたからだといつかマザー・カタリーナに教わったことがあったが、二人の優しさに心の中で何度も礼を言ったノアは、最後の3日間は家に泊まりに来いとリオンに隠し切れない寂寥感を声に込めて告げられてしまい、返事をする前に踵を返してキッチンを出て行ってしまう。
「…恥ずかしいんだろうな」
あれでも立派な大人なんだ、気恥ずかしいんだろうと笑うウーヴェにノアが微苦笑するが、出発までの3日間、迷惑でなければ家に泊まりに来いと髪を撫でられて優しく誘われると断れるはずもなく、うんと頷いてもう一度ウーヴェの痩躯を抱きしめる。
「……ダンケ、ウーヴェ」
「ああ」
出発までまだ日がある、時間が合う限り食事に行きたいし、きみが入れるつもりにしているタトゥーも見せてほしいとノアの背中を抱きしめながらウーヴェが告げると、リオンとウーヴェにだけ見せると小さくノアが笑う。
「……あー、何をどさくさに紛れてオーヴェに抱き着いてるんだよー」
「何だ、戻ってきたのか」
「戻ってきちゃだめなのかよー!」
ウーヴェの言葉に目を吊り上げるリオンだったが、ノアに告げた言葉も深い意味などまったくなく、それをよく知っているマザー・カタリーナがニコニコしたまま沈黙を破る。
「いつまでも仲が良いのはうれしいことです」
「そうですねぇ」
マザー・カタリーナの横で同じく沈黙しながら紅茶を飲んでいたブラザー・アーベルがすっかり保護者の顔で同意をし、三人の顔に気恥ずかしさを覚えたような笑みを浮かべさせるのだった。
リオンの運転する車で自宅に送り届けてもらったノアは、二人の頬におやすみのキスをした後、静まり返っている自宅に少しの寂寥感を覚え、ラジオをつける。
取り出したスマホで今帰って来たこと、パーティーは本当に楽しくて写真も動画も撮ったからまた一緒に見ようとメッセージを送ると、ノアが水を飲むためにキッチンに向かっている間にそうかというそっけない一文が返って来る。
それを確かめて嬉しそうに目元を細めたノアは、水を飲んでマットレスに倒れこむと、今日改めて感じたこの街で縁ができた人たちの優しさに感謝しつつあっという間に眠りに落ちるのだった。