穏やかな湾の外を少し大きな船が疾走していく。
それを緩やかに上下するボートの上で見るとはなしに見ていたのは、世話になっている家主の仕事を可能なら手伝いたい、無理ならば邪魔をしないようにするから撮影させてくれと願い出たノアだった。
ノアのその申し出に厳つい顔を少しだけ険しくしたのは、家主でありノアの南半球出身の初めての親友となったテッドで、機械を使ったり複数人で漁を行う訳ではないから大丈夫だとは思うが、ライフジャケットの着用など漁について初心者であるノアの身の安全を第一に考えた約束事を守れるのならばという条件付きで、夜明け前に一緒にボートに乗ったのだ。
テッドとの約束通り、不測の事態に備えてライフジャケットをしっかりと着込み、他の仕事で船上で撮影をしたときとは考えられないほどの完全防備と呼びたくなるそれを生真面目に守り、テッドが中央部にある操舵室でボートの操縦をするのを舳先近くに座って見ていたノアは、水平線の端から色が変わっていく瞬間を目の当たりにし、呆然としつつも無意識に両手がカメラを構え、無我夢中という言葉が相応しい様子でシャッターを切っていく。
水平線は何度も見たことがあったが、空と海の境界があやふやな濃紺の世界、その世界の中心に目だけではなく心にまで焼き付くオレンジの光が見えたかと思うと、暗い世界に文字通り光が差してくる。
その暁光は過去に何度も見たことがあるはずのノアの目に一瞬で焼き付き、ファインダー越しに文字通り体が満足するまで何枚も写真を撮るが、漁場に向けて進んでいたボートが止まり、その振動で我に返ってカメラを下すと、満足げな溜息もカメラの上に落ちる。
「いい写真が撮れたか?」
「……うん、撮れたと思う」
テッドにも渡した名刺代わりのポストカードだけど、もしかするとあれを更新できるかもしれないと笑うノアにテッドが素っ気なく頷くと、今日はここで漁をすると告げて今度はテッドが網を巻いている機械を操作し準備に取り掛かる。
その動きの邪魔にならないように気をつけつつ見守って居たノアは、揺れるボートの上から転落などしないように気を付けつつカメラを構え、不思議そうな目で見つめてくるテッドとファインダー越しに視線がぶつかり、作業を続けてくれと掌を向ける。
俺なんか撮っても楽しくないだろう、そんな呟きが聞こえてくるのも気にせず、漁師の顔で網を海中へと下ろすテッドをカメラに収めていると、肩まで捲り上げられた袖の下から初めてテッドと会った日の事を彷彿とさせるタトゥーが見え、そういえば背中にも入っていると言っていたことも思い出す。
「テッド、仕事中悪い」
「どうした?」
「うん。そのタトゥーってさ、マオリの人達がよく入れているものなのか?」
ニュージーランドの紹介の際、ラグビー選手や先住民のマオリの人達の紹介も必ず目にするが、テッドのそれもそうなのかと問いかけたノアは、作業の手を止めたテッドが己を真正面から見つめたことに気付き、もしかして問いかけてはいけない事だったかと上目遣いに聞くと、深い海の色の双眸が丸くなり、次いで好意的に細められた気がして胸を撫で下ろす。
「問題ない。ハイスクールの卒業記念で彫ったのが最初だったかな」
「へぇ、記念でタトゥーを彫るのか?」
「ああ。お前の周りにタトゥーを彫っている人はいないのか?」
ノアの疑問がまるで周囲にタトゥーを彫っている人がいない者の言葉のように思えて問いかけると一瞬躊躇したような間の後、リオンとウーヴェがタトゥーを彫っているとノアが返すが、その顔に陰が見えた気がしてどうしたと先を促すと、事件に巻き込まれて負傷したウーヴェの傷を覆い隠すためにタトゥーを彫った事、ウーヴェ一人だと寂しがるだろうからとの理由で、隣に並んだ際、左右対称の柄になるようにリオンも同じ場所にタトゥーを彫ったと返されて再度目を丸くしてしまう。
「傷を隠すために彫ったのか?」
「そうらしい。……それをすることでウーヴェが元気になったってリオンが言ってた」
「そうか、色々あったんだな」
「うん」
テッドの気遣うような言葉に頷いたノアの脳裏にはいつも一緒にいてウーヴェができないことを自然とフォローするリオンの姿が思い浮かんでいて、傍から見れば傍若無人に見えかねないリオンの献身的な支え方からウーヴェが巻き込まれた事件がどれほど二人にとって辛く苦しいものであったのかを想像するが、詳しい話を知っているだろう人達もその話題になると皆一様に口を閉ざし、ただ二人がこうして支えあって生きている事が嬉しいと言いたげに目を細めるのだ。
普段はいてもいなくても騒々しいとウーヴェが呆れ返ったように酷評することもあるリオンだったが、そんなリオンを誰よりも信頼し愛しているのは他でもないウーヴェだというのは、まだまだ付き合いの浅いノアが見ても理解できることだった。
そんな風に誰かを愛し愛されることが出来れば。
二人の傍にいて、両親とはまた違うパートナーの形をつぶさに見つめてきたノアの心にいつしか芽生えたのは、二人のような関係を築ける相手がいればという淡い思いだった。
仲の良い二人を間近で見続けてきた結果、目の毒だから止めろ、俺も恋人がほしいとやけくそ気味に叫ぶことのあったノアだったが、不意に今強くそう感じ、どうしたんだろうと自らの心の軌跡に苦笑してしまう。
あの二人が歩んできた道はきっと想像を絶するものがあっただろうが、それでも二人は手を離さずにずっと傍にいて同じ前を見つめている。
互いに向き合うのではなく、同じ場所で肩を並べて同じ前を見ていられる強さが羨ましくて眩しかった。
そんな相手がもし自分にいたらと考えた時、名を呼ばれていることに気付いて我に返る。
「網を上げるがやってみるか?」
「え? 良いのか?」
「ああ」
ぼんやりしているのも退屈だろうから手伝ってくれと笑うテッドに、好奇心を丸出しにした顔でノアが頷き、カメラをバッグに入れて邪魔にならないように置くと、テッドの指示を受けつつ機械が巻き上げる網からこぼれ落ちる魚をボートの底の水槽へと落とす手伝いをする。
「テッドのタトゥーは背中と二の腕だけなのか?」
「ん? 肩から胸にかけて彫ってるぞ」
太陽とドラゴンを意匠化したものを彫っていると、手を動かしつつも何でもないことのように答えられ、それは所謂トライバルと呼ばれるものかとさらにノアが問いかけると、ああ、と今度もまた何でもないことのように頷かれる。
「最近のファッション的なものじゃないな」
ハイスクールを卒業してすぐに海軍に入ったが、仲良くしていた人達は皆タトゥーを彫っていたと教えられ、思わず海軍と呟いてしまう。
「ネイビー?」
「……もう辞めて何年か経つな」
網が絡まないように機械にバランスよく巻きつくように操作をする手が少し止まったテッドの横顔を見たノアだったが、懐古というよりは苦い何かを含んでいる気がし、それ以上問いかけないようにと自制するが、ふと気になったことを思い出して恐る恐る問いかける。
「クライストチャーチで警官の世話になったとき、テッドの事を知っているような感じだったけど……」
もしかして彼もネイビー出身なのかと問うと、さっきの苦い色など無かったような顔で頷かれる。
「ああ。ネイビーで一緒に働いていたけど、知り合ったのは別の事だ」
クライストチャーチに親戚がいて、その親戚の知り合いだとノアの予想が半分だけ当たっている事を教えられてそうかと頷くが、ブリスベンにも親戚がいると言っていたけれど彼方此方に親戚がいて良いな、俺などウィルとマリーしかいないと笑うノアに、リオンは兄貴じゃないのかと問われ、兄貴というよりは友人だと何もかも吹っ切ったような、テッドが眩しいと感じる素直な笑顔を浮かべてくすんだ金髪に手をあてがう。
「兄貴もいいけど、リオンは友人が良いなぁ」
リオンもそう望んでくれているが、ただ友人だと言ってもやはり血の繋がった兄であることは違いが無い為、何かの折には兄弟だと感じることがあるだろうと、そんなどっちつかずな態度でさえも己の思いだからと認める素直さもテッドには羨ましいもので、網を握る手に力を籠めると、親戚が多いのは良いのか悪いのかは分からないが、ミアのような可愛い姪なら欲しいと笑われて何だそれはと力が抜けていくのを覚える。
「……お前も可愛いと思うけどな」
力が抜ける同時にポロリと本音がこぼれ、可愛いって何だとノアが目を丸くするが、俺の言葉にすぐに反応してころころと表情を変えるのは可愛いぞと続けると、ノアの両頬が不満げに膨らむ。
その顔がまるで小動物が頬に限界まで餌を詰め込んだ時の顔のようで、小さく噴き出しながら頬袋を指の背で軽く撫でて空気を溜め込んでも腹は膨れないから吐き出せと笑ってしまう。
「頬袋って、俺はハムスターかリスか!?」
「ははは、そう見えるな」
「なんだそれ!」
テッドが揶揄うようにノアの頬を再度撫でた為に顔を赤くしながら反論するが−もしその顔をウーヴェが見ればさすがは兄弟、同じ顔で不満を訴えていると言いそうだった−、幸いなことにノアの前にいるのはリオンを写真でしか見たことのないテッドだったため、やはり血の繋がりは隠せないと思える似通った言動をするノアにただただ笑い続けてしまう。
「……そんなに笑うなよっ!」
「お前と一緒にいれば楽しいからついつい揶揄ってしまう」
「……俺といれば楽しい?」
「ああ」
薄々勘付いているだろうが俺は一人でいることが多い、だから大声で笑ったりすることもほとんどない、お前が家に来てから久しぶりに笑った気がすると網を完全に引き上げたテッドは、漁の成果をボートの底に設えてある水槽に無造作に放り込むと今日の仕事は終わりだと満足そうに頷く。
「漁協に寄ってから帰るぞ」
「あ、ああ、うん……一緒にいて楽しいって……」
今日の予定を告げるテッドに呆然としつつ頷いたノアだったが、一緒にいて楽しいと言ってもらえて嬉しいなと笑ってさっき腰を下ろしていた板の上に腰掛けると、テッドがよろけた様にボートの縁に手をつく。
「わっ!!」
テッドのその行為でボートがぐらりと揺れ、テッドとは逆の縁に手をついて体を支えたノアは、大丈夫かと声をかけるが、日に焼けた肌に赤味がさしている気がし、理由が分からずに首を傾げてしまう。
「……大丈夫だ」
「そうか?」
「ああ」
なら良いけれどと胸を撫で下ろすノアに素っ気なく頷いたテッドは、漁港に行って食べるものを何か買って家に帰ろうと告げるが、それ以降漁港に着くまで口を開くことはないのだった。
ここで食事をしているとまるでピクニックをしているような気分だと感じた庭の芝生に寝転がり、今夜もこの家に来た時と同じように星空を見上げたノアは、これもまたこの家で生活するようになってから毎日同じように隣に胡坐をかいて腰を下ろし、ちびりちびりと酒を飲んでいるテッドの傍で言い表しようのない安心感を得ていた。
安心感とノアは思っているが、その感情の根源にある思いにまだ気付いておらず、ただ一緒にいれば楽しいと、今朝ボートの上で告白された言葉を思い出し、自然とにやける顔を何とか必死に抑え込んでいたのだ。
頭上できらきらと光る星の一つに手を向けて伸ばしたノアだったが、その手を自然と下したときテッドの体に触れてしまい、悪いと謝ろうと顔を見上げれば気にしていないと言いたげに肩を竦められる。
その素っ気ない態度もノアには心地よいものに思え、そういえば昨日もベッドに運ばれた−どうやらノアはこの庭に寝転がると起きていられないようだった−ことを思い出すと、今夜こそは自力でゲストルームのベッドに入るんだと固く決意をする。
その時、ベンチの上に置いたスマホから着信音が聞こえ、慌てて起き上がってスマホを手に取ったノアは、リオンからの着信だと気付いて慌てて耳にあてがう。
「ハロ、どうした、リオン?」
その声にテッドが誰からの電話かを察してグラスに酒を注ぐが、ノアの顔が真っ青になった事に気付き、その手を止めてじっと横顔を見つめる。
「……うん、忘れてない……うん、大丈夫」
電話に出た時とは打って変わった意気消沈した声にさすがにテッドも驚いてしまい、グラスを芝生に置くとどうしたと小声で問いかけるが、振り向いた顔に胸を鷲摑みにされたような痛みを覚えて咄嗟に腕を伸ばしてくすんだ金髪を抱きしめてしまう。
さすがに電話中に抱きしめられて驚きの声を上げてしまったノアと、その声に我に返ったテッドが慌てて手を離してノアから距離をとる。
『どうした、ノア?』
「あ、いや、大丈夫。ちょっと驚いただけだ」
『は? ……まあいいか。空港に何時頃につくか分かれば連絡しろよ』
いつも通りウーヴェと一緒に迎えに行くからと電話の向こうで訝りつつ優しい声で帰国の時間を教えろと伝えられ、この、ピクニックをしているような庭から遠く離れたドイツに帰る日が近づいている事を今更のように思い出す。
ニュージーランドで仕事をしないかと誘われ遠路はるばるやってきたが、その仕事は恐ろしいほど順調に進み、空港で知り合ったテッドの言葉に甘えて自由な時間を過ごしていたのだが、それも終わりだと教えられ、バッグの底にしまってある帰国の飛行機のチケットの存在を思い出す。
ピクニックは終わり、明後日には拠点にしている街に帰って今回の仕事を形にしなければならないのだ。
何だか永遠にこの庭でこうしてテッドと笑っていられる気がしていたノアは、強かに頭を殴られたような衝撃を感じて通話を終えたスマホを芝生に投げ出すと、衝撃から上がらなくなった頭を抱えて芝生に頭を押し付けるように上体を屈める。
「ノア?」
「……ドイツに帰ったらさ、リオン達が迎えに来てくれるって」
だから何時に空港に着くのか連絡をして来いと言われたと、くぐもった声で伝えたノアは、丸めた背中に大きな掌が載せられたことに気付き、ぐっと歯を噛み締めて拳を握り締める。
いつまでもこの時間が続くはずなどないのだ。
己は仕事でここを訪れただけの存在で、テッドのようにここで暮らしているわけではないのだ。
ピクニックに代表される非日常の時間が終わりを迎えれば、日常へと戻っていくだけだった。
ただそれだけの事といえばそれだけの事なのに、脳裏に浮かんでいるのはこの庭で満天の星を見上げて涙を流したことや、ステージできらきらとスポットライトを浴びながら輝いている少女が告げた不思議な言葉の意味、そしてその夜、テッドに己が抱えていた問題に答えを出してもらった事など、振り返れば情けないことばかりだったが、それでもそれらすべてに、厳つい日に焼けた顔に朴訥な笑みや素っ気ない態度ではあっても真正面から話を聞いてくれたテッドがいて。
そのテッドと明日になれば別れなければならないと気付いた瞬間、握りしめた拳を芝生に叩きつけてしまう。
どうして帰らなければならないのだろうか。どうして、この満天の星の下で眠り、夜明け前の海で水平線から顔を出す太陽に挨拶をしながら、食べていくのに困らないほどの魚を得て生活をし、漁に出られない雨の日にはビデオゲームで遊んだり、テレビでラグビーのゲームを観戦したりという、晴耕雨読を文字通り行うこの時間から、仕事に追われる顔の人達があふれる街に帰らなければならないのだろうか。
初めてこの国を訪れた時、長閑な風光明媚な観光地のイメージが抜けなかったが、仕事が終わった後にテッドと一緒に地元の人たちの暮らしに溶け込めたような時間を過ごせたことは、地に足をつけて日々の暮らしを送っている人達がいるという、観光客として来ていれば得られなかった感覚を得られる貴重な経験となったのだ。
最早知らなかった頃を思い出せないようなそれに胸が痛み、帰らなければならないのかぁと思わず呟いた時、さっき不意に抱きしめられたのと同じ温もりが後頭部に宛がわれたことに気付き、テッドの大きな手だと認識したノアの目からぼろりと一粒だけ涙が零れ落ちる。
顔を伏せているために見られることのなかったその涙だったが、くしゃくしゃと髪を乱される感触が心地よく感じ、それも安心感に繋がっていたと理解し、小さく鼻を啜ってしまう。
「……クライストチャーチ行きの最終のバスって何時かな」
いつまでもその感触に浸っていたい思いを何とか断ち切り、顔を上げたノアが何でもないことのような顔で問いかけると、テッドの顔に驚愕と理解の色が浮かぶが、それらが消えた後に双眸に浮かんでいたのは何某かの感情を堪えているような色だった。
「テッド?」
「……明日帰るのか?」
「うん、そうだな。俺もすっかり忘れていたけど、飛行機が明後日の午後だからな」
さっきリオンからの電話で帰国を思い出したと、可能なら忘れてしまいたかったことを思い出したような苦い顔で笑ったノアにテッドが拳を握り、長い息を吐く。
「そういえば楽しくて土産も何も探してなかった」
ニュージーランドの土産といえば何がいいんだろうかと笑いながらテッドの顔を正面から見つめたノアだったが、ふいと視線を逸らされて軽く驚いてしまう。
今までこうして互いの顔を正面から見つめることは何度もあったが、今のように視線を逸らされたのは初めてで、何かしたかと瞬間的に考えるが、テッドの機嫌を損ねるような理由が思い浮かばず、短く刈った濃い茶色の髪にそっと触れるように手を伸ばすと、テッドの肩がびくりと揺れる。
「……テッド、ニュージーランドが良い国だって思わせてくれてありがとう」
クライストチャーチではスリにあって少し嫌な思いをしたけれど、それ以外は本当にいい思い出しかない、それもこれもテッドのおかげだと笑って予想外に柔らかな髪を撫でると、大きな手が手首を掴んで胸元に引き寄せられて目を丸くするが、嫌な気持など全く起きず、この温もりを感じられるのも明日で終わりかと胸中でつぶやくと、ぎしりと今まで聞いたことが無いような音が胸から聞こえてくる。
「……楽しかったか?」
「うん、すごく楽しかった」
いつもならリオン達に毎日メッセージを送っていたが、ダニーデンに来てからは一度も送っていない、だからリオンも今の電話で少し心配そうだったと笑うノアにテッドが伏せた頭を小さく上下させる。
「土産、何がいいかな」
「……定番中の定番だけど、キーウィのぬいぐるみかキーホルダーでも買って帰ればどうだ?」
何しろこの国の人達は自分たちの事をキーウィと称するのだからと、テッドが顔を上げて小さく笑みを浮かべるのを見たノアは、体が勝手に動いたというのはきっとこのことだと後に二人で笑うことになるように、己の手を掴んでいる太い腕に手を重ねると、鍛えられている身体に腕を回して抱きしめる。
「ダンケ、テッド」
きっと他の人では経験できなかっただろう楽しい時間をありがとうとテッドの耳元で礼を言うと、痛みを覚えるような強さで背中を抱きしめられる。
「……俺も、楽しかった」
「そっか。良かった」
楽しい時間を二人とも過ごせたのなら本当に良かったと互いの顔を見ずに礼を言った二人だったが、どちらからともなく離れると、バスの時間とクライストチャーチでのホテルを探してやる、家の中に入ろうとテッドが顔を見せずに立ち上がったため、ノアも同じように立ち上がり、湿り気を帯びた吐息を一つ芝生に落とすと、ダニーデンで見る夜空も今日で見納めになると呟いて滲む夜空を見上げるのだった。
この国に良い印象を与えてくれてありがとう、世話になったし何よりも楽しかったと、寂寥感をこらえつつ笑みを浮かべてバス乗り場まで送ってくれたテッドと握手を交わし、機会があればまた来たい事、このまま縁が切れてしまうのは悲しいのでドイツに帰ったら必ずメッセージを送る事を約束し、ノアはクライストチャーチ行きのバスに乗り込み、テッドはそんなノアを見送る。
夕闇の中走り去るバスを見送ったテッドは、言葉にできない思いを抱きつつ自宅に帰り、ドアを開けていつものように静まり返っている家の中に苛立ちを感じてしまう。
ノアが自宅にいた数日間が現実離れしていた時間に感じ、あれは夢だったのではないかと自問するが、夢のような時間だったと自答しつつ鍵を閉めて庭へと出ると、ノアが気に入ったと夜になるといつもしていたように芝生に寝転がり、オレンジ色に染まる空を見上げる。
夢のような時間だったと感じてしまうほどノアとの時間は楽しくて、幼い頃に家族と死別し、周囲の力を多少は借りつつもただ一人で生きて来たテッドにとって、人生で初めてと思えるほどの楽しい時間だった。
ノアが見せる素直な笑顔が、涙を流す彼を慰めようと髪を撫でた時に触れた人の温もりがこんなにも優しく暖かだと教えられた気がし、気付いた時にはノアを好きになっていたのだ。
だが、その思いを伝える方法も知らず、また伝えれば迷惑になるかも知れないという思いから堪えていたテッドだったが、己のこんな思いを伝えればただ迷惑だろうと思い込んでいた。
好きになった相手に好かれている、そんな夢のような奇跡のような事などありえないと冷笑する己もいて、確かにありえないと肩を竦めて起き上がると、リビングに戻って滅多に吸わないタバコに火をつけてテレビボードの前に向かう。
そのボードにはテッドにとっての大切なものをいくつかしまっていたが、ふと何かが気になって引き出しを開けて古びたベルベット生地の箱を取り出して開けると、時を経ても深みのある緑が綺麗なペンダントトップが部屋の照明を受けてキラリと光る。
家族と死別した事故の後、誰もいなくなった自宅に一人で帰ったテッドを待っていたのは、出かける直前に母が父と思い出話をしている時に二人の間に置いてあったこのペンダントトップだった。
両親の形見になってしまったそれをじっと見下ろしていた時、スマホの着信音が聞こえてきて、過去から意識を現在へと呼び戻したテッドがややぎこちない動きで耳にあてがう。
『テッド、今日の晩御飯はもう食べた?』
それは、もしまだならノアと一緒に家に食べに来ないかと誘いの電話で、無邪気なその声に一瞬言葉に詰まったテッドだったが、ノアはもうここにはいないと返すと、電話の向こうに沈黙が生まれ、ついで悲鳴が響き渡る。
『ウソ!! もう帰っちゃったの!?』
「ああ。ついさっきバスに乗ったぞ」
今夜はクライストチャーチのホテルに泊まって明日の午後の便でドイツに帰ると、まるで別世界の己が話をしているような解離感を覚えつつミアに告げると、追いかけないのと涙声で問われて目を見張る。
「追いかける……?」
バスに乗って行った、明日にはドイツに帰国するノアを追いかけるのかと、意味がわからないと言いたげにタバコの煙を吐き出し、水が残っていたグラスにタバコを突っ込みながら問えば、ミアがぐずぐず言いながらうんと答え、テッドはノアを好きだと思っていたとも答えられて絶句してしまう。
『ノアと会った時、テッドいつもと違ってた』
「……」
『だから、ノアを見たの』
あの時、ノアが自己紹介をした後にミアが意味ありげに己を見つめていた事、その後満面の笑みになった事を思い出したテッドは、あの時何が見えたと震える声で問いかけ、テッドが大切にしているペンダントトップをネックレスにしているノアの姿と答えられてベンチに力なく座り込んでしまうが、手にしたベルベットの箱は落とさないようにしっかりと握りしめていた。
『オークランドの会場でノアが写真を撮ってくれるの。その時、テッドのあのペンダントトップをノアがネックレスにしていたよ』
だからミアはテッドがノアを好きなんだと思っていたと泣き声混じりに教えられて箱を握りしめていた手を開いてテーブルにそっと置いたテッドは、ついさっきの己の思考を殴り飛ばすようにもう一度拳を握り、天井に向けて太い息を一つ吐く。
「ミア」
『何?』
「……どうなるか分からないけど、追いかけてみる」
今夜はホテルに泊まるから話をする時間もあるだろうし、お互いの気持ちを確かめることもできるだろう、例えこの想いが一方通行なものであったとしても無駄にはならないはずだと、自然と肚に落ちて来た決意を口にすると、ミアの嬉しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
『ミアが見た未来は絶対じゃないよ』
その未来を受け入れ、辿り着くためには自分で動き出さないと何も始まらないんだよと姪に諭されてしまったテッドは、微苦笑しつつそうだなと返すが、ありがとうの一言も忘れずに伝えると、どういたしましてと大人びた返事が届けられる。
「行ってくる」
帰って来たら連絡をすると告げて通話を終えたテッドは、気合いを入れるように己の頬を両手で叩いて深呼吸をした後、ベルベットの箱を手に家を飛び出してピックアップに乗り込むのだった。