最近では無いくらいすっきりと朝を迎えたノアは、ベッドに起き上がり、見慣れた景色では無い部屋に気付いて己が置かれている状況を把握しようと室内を見回す。
飾り気という言葉など知らない人が住んでいるのかと疑いたくなる程物がない部屋で、ドアの近くの壁にチェストが一組と古くて小さなライティングデスクがその隣に置かれてあり、後はノアが使っていたベッド─これも、素朴な木の造りだった―だけが室内にあるすべての家具だった。
ベッドの上であぐらを掻いて大きく伸びをしたノアは、やけに部屋というか家全体が静まり返っている気がし、この家の主人であるテッドは何処に行ったと思案しつつベッドから出る。
床を軋ませながら部屋から出ると、リビングのような部屋だと気付き、ノアが拠点とする街にあるスタジオ兼自宅とは違って木の温もりがそこかしこに感じられて、まるでログハウスのような不思議な居心地の良さと温かさが満ちていることに気付くと、部屋の中央のベンチソファに己の荷物がまとめて置かれていることにも気付く。
そして、不意に思い出したのは、昨夜、満天の星を見上げながら泣いてしまったことだった。
「────!!」
ベンチに腰を下ろして思わず膝を抱え込んだノアは、何故昨夜あんなにも泣いてしまったのかを思い出そうとするが、視界を埋め尽くすような星とそばで飲んでいたテッドの雰囲気が心の中の隙間にするりと入り込んだ事で起きた感情の揺らぎとしか思えなかった。
感動する話や映画を見て涙ぐんだりすることは時々あるノアだったが、それでもそう頻繁にある事ではなく、まさか自分が星空を見上げて泣く日が来るなど想像も出来ないことだった。
その予想外のことに衝撃を受けつつ抱え込んだ膝に顎を乗せてなんて情けないと呟いた時、脳裏に一度だけ見たウーヴェの泣き顔が思い浮かび、慌ててそれを掻き消そうと頭を振るが、目眩を覚えて本当に情けないとため息を吐く。
そしてもう一度室内を見回し、この部屋だけではなく意識を無くしたように寝ていたベッドがあるゲストルームらしき部屋も昨夜食事をした庭も含めてこの家全体の居心地が良いと気付き、ベンチから立ち上がって庭へと出る窓を開けると、心地良い海風が吹き抜けていく。
ノアが名刺がわりに使っているポストカード、あの写真を撮ったのはスペインのカナリア諸島だったが、その日の感覚を思い出し、足元を見回してもサンダルなど何もないことから申し訳ないと思いつつも素足で昨夜は寝転がっていた芝生へと降り立つと、足の裏にくすぐったい感触が伝わってくる。
庭に置かれたテーブルを撫でて海風に当たっていると徐々に何がしかのエンジン音が近く大きくなり、何事だと首を傾げていると不意にその音が止まる。
エンジン音に変わって聞こえてきたのは足音で、その足音が塀の向こうで止まったかと思うと、ノアの目の前で庭から外に出るためのドアノブが周り、身動きが取れずにテーブルを撫でた手を握り締めてしまう。
開いた小さなドアから頭を屈めて入ってきたのは当然と言えば当然の、この家の主であるテッドだった。
「……起きたか?」
呆然としているノアに気づいたテッドが起きたのかと問いかけ、手にしたアイスボックスをテーブルに置くと、その音でノアが我に返ったように頭を何度も上下させる。
「昨日は、その……恥ずかしいところを見せた」
まさかテッドの前で泣くなんてと、我ながら情けないと頬を赤くしつつくすんだ金髪に手を当てると、テッドが目を瞬かせた後、日焼けした顔に子供っぽい笑みを浮かべる。
「感動のあまり泣いたのかと思ったけど、違ったようだな」
「え?」
ニュージーランドの星空の美しさは観光客の誘致に一役買うほどのものだからそれを見て感動し涙を流す人がいることは知っていたが、昨夜の涙の理由はそれだけではないんだなと笑われ、どういうことだと蒼い目を丸くしたノアにテッドが笑いながら告げたのは、あの後そこで寝てしまったからベッドに運んだが、その間ずっと誰かに謝っていたとの言葉で、それを聞いたノアの顔がリトマス試験紙のように青くなってしまう。
「……本当に、情けない所ばかり見られているな」
唇をキュッと噛み締めて情けないと自らを嘲笑したノアだったが、そんな頭にまた大きな掌がポンと乗せられ、ただそれだけのことなのに、不思議と情けなさやその他名付けられない感情が吐息となって体外へと出て行くことに気付く。
「……気にするな」
情けない所がない人間なんていないし俺は気にしていないからお前が気にする必要はないとテッドが本当にそう思っていることを伝えるが、ノアの頭が激しく左右に振られ、どうしたと首を傾げる。
「どうして……テッドもリオンも、そう言えるんだ……!?」
お前達がそう言うから、言ってくれるからついその言葉に甘えてしまうと、ベンチに腰を下ろして腕で目元を隠したノアの小さな叫びに軽く驚いたテッドだったが、寝言でずっと謝っていた相手も確かリオンという名前だったと気付き、ベンチを跨いでノアの横に座るものの、どうしてと繰り返すノアにどう返せばいいか分からず、さっきのように頭に手を乗せて手触りの良い髪をくしゃくしゃにする。
「そのリオンに謝らなければならないことでもあったのか?」
「────!!」
テッドの疑問にノアの体が強張り、またプライバシーに首を突っ込み過ぎたと反省の言葉を口にした時、ノアが泣きそうな顔を上げて頭を左右に振る。
「ちが、う」
「そうか?」
何が違うか分からないがと苦笑するテッドにノアがグイと目元を拭い、本当にテッドには情けない所ばかり見られている、これ以上情けない所を見られても恥ずかしくないと、何かを吹っ切ったような顔で笑う。
「リオンには言葉ではいえないくらい迷惑をかけた」
それなのにそんな俺を彼は笑顔で許すだけではなく、俺のする事を全面的に認め応援し、今回の仕事も俺だから大丈夫と信頼してくれていると、晴れ渡る青空を見上げて眩しそうに目を細めつつ澄んだ笑みを浮かべる。
その素直な笑顔がテッドには眩しくて、照れ隠しのように目を細めて再度髪をくしゃくしゃにすると、ノアが子供のように首を竦めてクスクスと笑い出すが、腹の辺りから盛大な音が響き出す。
「……」
二人同時に音の発生源を見下ろした後、もう何も恥ずかしくないと宣言したはずのノアの顔が見る見るうちに真っ赤に染まり、これはその、あのと言い訳じみた事を呟きつつ顔を隠すように手を振った為、テッドが思わず吹き出してしまう。
「……飯にするか?」
俺は一仕事終えてきた後だしお前はまだ何も食べていないんだろうと肩を楽しげに揺らしながらノアの頭をぽんぽんと子供にするように撫でたテッドは、開き直った顔で腹が減ったと叫ぶノアに頷き、家で食べようと思って魚を少し持って帰ってきた、今から用意をしようと告げて立ち上がりノアに掌を向ける。
その行為がごく自然となされたものだった為、ノアも深い意味など考える事なくその手に手を乗せて立ち上がり、何を食べさせてくれるか分からないが俺も準備ぐらいすると、子供が手伝いをすると胸を張る時の顔を見せる。
「ラムは平気か?」
「ラム? あまり食べたことがないなぁ」
「そうか。昨日友人から貰ったのがある、焼いて食おう」
天気も良いしグリルで焼いて庭で食べようと笑われ、この家のこの庭での食事は何だかピクニックをしているようで楽しいと声を弾ませるノアにテッドが嬉しそうに頷き、持って帰ってきた魚は夜に食べようと告げ、二人でランチとディナーの下準備をすませてしまうのだった。
ステージの中央でキラキラとした表情で踊る少女の姿を、彼女の良さを自分なりに精一杯ファインダーに収めたノアは、隣で感心したように見守っているテッドの顔をちらりと窺い、己の姪の晴れ舞台に感心する叔父の顔を見出し、微笑ましい気持ちでシャッターを切る。
普段仕事としての対象は大自然が多く、人物をカメラに納めるのはあくまでも趣味の範囲だけだった。
人物の写真は専門ではないと思いつつも、この国に来て何くれとなく世話になっているテッドの願いだからと写真撮影を了承したのだが、テッドや今舞台で踊っている彼女が喜んでくれる写真が撮れていれば良いなと願うものの、その気持ちはイベントごとに写真を撮るようになったリオンやウーヴェをはじめ、ホームで暮らす子供たちの記念撮影をするときと同じものだった。
そんな気持ちになっている己に驚きつつも自然とそれを受け入れていることも理解していて、何だか不思議だと内心呟いた時、発表が終わり舞台袖に消えていく姿を収めようとするが、ちらりとこちらへ顔を向けた後、満足そうに彼女が笑ったのをノアはファインダー越しに見つめてしまう。
誰がカメラを構えているのかを知らない彼女にテッドはどのように説明するのかとぼんやりと考えていると、結果発表まで時間があるから外に出ていようと声をかけられ、ああと頷いてステージがある体育館のようなホールから出る。
ホールの裏手、駐車場があるあたりで賑やかな声が上がり、先程までステージ上で人工のライトを浴びて輝いていた少女が今度は頭上で耀く太陽に負けないような笑顔を浮かべてテッドに向けて大きく手を振る。
「テッド!見てくれた!?」
キラキラと眩しいほどの笑顔で駆け寄ってきた少女がテッドに体当たり気味に飛びつく
が、慣れているのかテッドも平然とそれを受け止め、スラリとした少女の背中を撫でて優しく抱き上げる。
「見ていた。────相変わらずキレイだったな」
ダンスの巧さは母親譲りかと笑うテッドに嬉しそうに頷いた少女は、隣で不思議そうに己を見つめているノアに気付き、首を傾げてテッドを見る。
「お友達?」
「友達というか、少し前に飛行機で知り合った人がいると言っただろう?」
ブリスベンの空港で知り合い、クライストチャーチまで一緒だった人だと笑いながら伝えたテッドは、少女を下ろしてノアへと向き直ると、姪のミアだと少女の肩に腕を回しながら紹介する。
「初めまして、ミア。どう紹介されていたか不安だけど、俺はノア。ノア・クルーガー」
「……初めまして、ミスター・クルーガー」
少し距離のあるその返事に微苦笑しつつノアで良いよと笑うと少女が不安そうに叔父を見上げるが、そこに何某かの感情を見出したようで、一瞬で表情を切り替えたかと思うと写真をまた撮ってねと満面の笑みを浮かべる。
「え?また……?」
「そう。テッドの横で写真を撮ってくれたでしょう?また撮って欲しいの」
あれはオークランドの会場かなぁと口元に指先を当てて思い出すように空を見上げた少女、ミアの言葉にノアが頭を左右に振って混乱を解消させようとするが上手くいったとは思えず苦笑し、今日の写真は後でプリントするから見て欲しいと頷くと少女の顔に嬉しそうな色が浮かぶ。
「ねえ、テッド、優勝したらお祝いしてくれる?」
「祝いはするけど、あまり高いものは買えないぞ?」
「次のお休みに映画とお買い物に行きたいから連れて行って」
「それでいいのか?」
「うん。だってまだ地区予選だし。全国大会でオークランドに行って優勝したらいっぱいお祝いしてね」
姪が叔父にダンス大会の優勝祝いを強請っている光景は仲の良さをノアに感じさせるもので、この二人の仲の良さを感じ取ったノアが良い顔だなぁと笑いながらついカメラを構えてしまい、二人の自然な横顔をファインダー越しに見つめる。
世界中にいる人の数だけそれぞれの家族関係があり、この二人のように友好的なものもあればその真逆のものもあると気付くが、その意識が到着する先には必ず己に良く似た男の顔があり、彼に自分たち家族がかけた迷惑-などと生易しいものではないそれーを償うにはどうすればいいのかという、ノア一人では解決できない問題がまた胸の中に沸き起こってくるのだ。
幸せな家族を見れば必ず思い出してしまう、己の両親が過去に犯した罪。
その罪はどうすれば償うことができるのか、友人たちと笑っていてふと冷静さを取り戻した時に忘れるなというようにその問いが思い出され、お前が気にすることじゃないというノアを気遣う強く優しい声も聞こえてきて、ノアの胸を締め付けるのだ。
今もまた慣れてしまった痛みを感じつつ無意識に何枚か写真を撮ってしまうが、最後の一枚を撮ろうとしたとき、ファインダー越しにテッドがじっと見つめていることに気づいて当初は意味が分からずに小首を傾げるが、深い海の色にも似た双眸が細められたかと思うと、ファインダーの枠からはみ出した褐色の手が伸ばされて思わずカメラを下すと、大きな分厚い掌が頭にポンと載せられる。
ただそれだけでその行為について何か言うわけでもノアに理由を問いかけさせるわけでもないテッドのその行動は、知り合ってからノアを今でも苦しめている家族を思い出しているときに行われていると気付き、限界まで蒼い目を見張ってしまう。
「……ノア、胸が痛いの?」
テッドの行為の理由の一端を教えてくれるように口を開いたのはミアで、心配そうに見つめながら胸が痛いのかと繰り返され、咄嗟に返事ができずに少女の顔を見下ろすと、大丈夫、テッドがいるからと全幅の信頼を置いている顔で頷かれてしまう。
「……ミア?」
「大丈夫。半年後のオークランドの全国大会でノアはあたしの写真を撮ってくれるから」
オークランドでテッドとノアがあたしの優勝のお祝いをしてくれるんだと笑う少女に大人二人は何も言えずに顔を見合わせるが、テッドが今度はミアの頭に手を乗せて見えたのかと短く問いかけると、ミアが少し照れたような顔でうんと頷く。
「次のクリスマスにね、テッドの家に人がいっぱい来るよ」
「……ゲストルームの増築なんて出来ないぞ」
「ノアに良く似た人と杖を使ってる白髪の男の人だけだよ。あとはホテルに行くみたい」
「────!!」
テッドとミアの会話を呆然と聞いていたノアだったが、己に良く似た人と聞いて鼓動が早くなり、杖を使っている白髪の男と聞いた瞬間、呼吸を忘れてミアを睨むように見つめてしまう。
「……だから大丈夫だよ、ノア」
今は胸が痛くても大丈夫、テッドもいるしあたしもいるからと、ついさっき覚えた胸の疼痛を気遣うような言葉をミアが口にするが、そんな痛みなど亡失してしまうような言葉を聞いた衝撃で何も言えなくなってしまう。
「……それは、どういう……」
ノアが唾を何とか飲み込んで震える声で問いかけたと同時に、ホールの入口あたりで結果発表をするので出場者はステージまで戻ってくださいとアナウンスが入り、ミアがテッドの頬に素早くキスをし、驚いているノアの頬にもキスを残すと手を挙げてホールに戻っていく。
「……ミアの言葉は、どういう……」
「後で話をする。今はホールに戻ろう」
彼女には結果が見えているのだろうが、それでも祝いをしてやりたいと苦笑するテッドに促され、混乱した頭のままホールに戻ったノアは、ステージ上でミアが元気いっぱいに手を振る姿に気付き、カメラを構えることも出来ずにただ茫然と見つめてしまうのだった。
あの後、予選を上位で突破した数名がもう一つ大きな地区大会に進み、最終的にはミアが告げたように半年後にオークランドで開催される全国大会に出ることになるそうだが、今のノアにその話を覚えていられる余裕はなく、古いピックアップでテッドの家に帰ってきたことすら覚えていられないほど混乱していた。
混乱する頭のまま今朝は居心地が良いと感じたリビングのベンチに腰を下ろしたノアは、何か口の中で言葉を転がしたテッドが離れてキッチンに行ったのをぼんやりと目で追いかけ、戻ってきた時には氷が一つ浮いた琥珀色の液体で満たされた二つのグラスと、赤い封蝋が垂れているキャップが特徴のボトルを手にしているのに気付き、今朝の庭での出来事のようにベンチを跨いで隣に座るのを見守ってしまう。
「バーボンは飲めるか?」
その言葉に無意識に頷いてグラスを受け取るとテッドが見守る前でグイとグラスを呷り、飲みなれない強いアルコールに思わず噎せ返って手の甲で口元を抑えてしまう。
そんな姿にテッドが無言で再びキッチンに向かい、気付かなくて悪かったと言いたげにチェイサー代わりに炭酸水とミネラルウォーターをボトルごと持ってきて、噎せ返った為に目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭ったノアが溜息をつきつつミネラルウォーターを飲んで人心地ついたと天井を見上げる。
「……ありがとう」
「ああ」
ノアの言葉にテッドが言葉少なに返事をし、二人の周囲を家の中と同じ静かな空気が包むが、両手をグラスに添えたノアがテーブルの模様を目で追いかけながら口を開く。
「さっきのミアの言葉、あれは……」
「……あの子は、小さな頃から見えるそうだ」
「見える?」
何が見えるんだと、半ば気付いていることを確認するように問いかけるノアに、自分自身と縁の深い人達の未来が見えると教えられ、それはと絶句してしまう。
「さっきのように一場面が見えるだけだったり、会うたびに見えたりするらしい」
人に話をしたところでなかなか信じてもらえない現象である為、俺もミアも滅多なことがない限り人に話したりしないが、ノアに己が見えた未来を語った事が不思議だとも続け、氷をグラスの中で回転させて一口飲む。
「そんなことが……」
あるのかと、おそらくミアが未来を垣間見る力がある事を伝えた瞬間に皆が返す言葉を口にしたノアだったが、グラスを包む手をゆるりと回転させて息を一つグラスに向けて落とす。
「……これを見てくれないか、テッド」
「?」
半信半疑だったが己はミアの言葉を頭から疑うことはできないと告げつつスマホを取り出すと、保存してある多数の写真を表示させるが、その中でも最も分かりやすいと思える写真をチョイスしスマホの画面をテッドに向ける。
「これは」
「……ミアの言葉を信じるしかないよな」
ノアがテッドに見せたスマホには最近では恒例になった家族写真の一部が映し出されていて、そこにはいつもの周囲を明るくする笑みを浮かべたリオンと、そんなリオンの横でステッキを突いて穏やかに笑みを浮かべるウーヴェがいた。
「これ、ブロンドの人が……リオン」
ミアが俺によく似たと言ったのはきっとリオンのことで、杖をついているのはその横にいるリオンのパートナーであるウーヴェだと紹介するとテッドがスマホとノアの顔を見比べるが、本当によく似ていると腕を組む。
「……このリオンに、お前は迷惑をかけたのか?」
ズカズカと人の心に踏み込んでくるというよりはテッドなりに気遣いつつもノアならば教えてくれるだろうという信頼を感じさせる声と表情に気づいたノアは、真っ直ぐに深い海の色のような目を見つめて頷くと、もう一杯飲んでもいいかとテッドの前のボトルを指差す。
「ああ、好きなだけ飲め」
ボトルキャップを外して慎重にグラスに琥珀の液体を流し込むと、再度両手でグラスを包んでくるくると回転させる。
「……リオンは、俺の実の兄だ」
「良く似ている訳だ」
「うん。でも俺はリオンの存在を少し前まで知らなかった」
ノアの世界をガラリと変えた、母が旧知の男に狙撃された事件。あの事件がなければ俺は一生リオンの存在を知ることもなく、彼が経験してきた苦労や苦痛に気付かずにのうのうと生きていたのだろう。
己を嘲笑うノアにテッドが何かを口の中で呟くが、両親から聞いていなかったのかと問いかけられ、その両親がリオンの存在を自分たちの記憶から抹消していたと、どちらかといえば素直な感情を顔に出すノアに似つかわしくない笑みを浮かべ、自分達が犯した罪を償うこともせず、それどころかその罪のすべてを生まれてきたばかりのリオンに背負わせて教会に捨てたんだと肩を揺らしてしまう。
ノアの口から出てくる声には悲痛な思いがにじみ出ていて、これがあの日ノアの顔を曇らせた過去かと気づいたテッドは、クライストチャーチで仕事の打ち合わせに移動するノアを乗せた時のことを思い出し、無意識に溜息をこぼす。
テッド自身は家族とは縁がない為、ノアの素直さなどは家族から愛されてきた証だろうと想像していたが、こんな声を出す程の辛い過去の一端を教えられてもう一度溜息を零すと、頬杖をついて暗い顔で笑うノアの横顔をじっと見つめる。
「ウィルとマリーはあの街にリオンを捨ててウィーンに逃げた」
そしてそこでそれぞれが夢の舞台に立ち始めた頃、何も知らない俺が生まれたと笑うノアにテッドは何も言えずにグラスの酒を煽るように飲み干す。
「……本当ならリオンも一緒に俺たちと暮らせたはずだった」
それどころか、両親から可愛がられていたのは俺ではなくリオンだったかもしれないんだとテーブルに今まで誰にも告げることのなかった思いを吐露したノアは、黙ったままじっと見つめてくるテッドに泣きそうな顔で肩を竦め、本来彼が享受するはずだった両親から受け継ぐはずの有形無形の愛情を俺が奪い取ったようなものだ、俺はリオンにどうやって償えばいいのかわからないと続けてしまう。
ノアのその言葉にテッドがグラスに酒を注いで再度飲み干した後、長く息を吐いてノアの名を呼ぶと、感情に滲んだロイヤルブルーの双眸がテッドを真正面から見つめる。
「その罪はお前が償わなければならないものなのか?」
「……」
「リオンに対して本当に償わなければならないのは両親じゃないのか?」
お前が生まれる前の話だろう、どうしてお前が罪を償わなければならないんだと、感情を堪えている事を教えるように握り拳をテーブルに押し付けたテッドの声は低くてノアの目を見開かせるものだった。
「テッド……?」
「お前自身がリオンに対して何かをしたのなら許してくれと言えばいい。だが、リオンを捨てたのは両親だ。彼に許しを請わなければならないのはお前じゃない、両親のはずだ」
家族の仲が良いからといって両親の罪を子供が背負わなければならない理由はないと、拳をテーブルに小さく叩きつけたテッドにノアの肩がびくりと揺れてしまう。
「で、も、俺は……」
俺だけが両親から愛され何不自由なく育てられた、本来それはリオンに与えられるものだった、それを知った俺はどうすればいいと、ノアが問いかけても回答の得られなかった疑問を口にすると、テッドが深い海の色の目を細め、リオンはどう言っているんだと問い返してノアの目を見開かせてしまう。
「気にするなって……」
ガキの頃はどうして俺が捨てられたんだと随分と恨んで荒れた生活をしていたが、誰よりも理解してくれて支えてくれるウーヴェや何があっても見放さないでいてくれたマザーらと一緒にいる今、もうそんな事は思っていないしお前を羨んだりはしていないと笑われた事を微かに震える声で伝えると、だったらその言葉が全てだとテッドが満足そうな息を吐く。
「え?」
「リオンがそう言っているのなら、それ以上でもそれ以下でもないだろう?」
本人がそれで良いと言っているのにお前がそれを罪に感じる必要などないと、さっきの低い声とは全く違う聞く者の心を安心させるような声でお前が親の罪を背負う必要はないと目を細められてノアの頭が落ちる。
「さっきの写真、お前が撮ったんだろう?」
「……うん」
「嫌いな相手にあんな笑顔を向ける人はそうそういないだろう」
見せられた写真から読み取れたのは、お前との信頼関係が築かれている事、リオンはお前を大切に思っていることだとテッドが優しい声で告げつつ最早何度目か分からないノアの柔らかな髪に手を載せると、陰になって見えないノアの口が何度か開閉し、昨日も聞いたが何かが違っている嗚咽がテーブルに一つ二つと落ちる水滴とともに染み込んでいく。
「お前が罪悪感を覚えている事にリオンは気づいているんだろうな」
「……っ!」
「ならお前が彼に対して感じなければならないのは罪の意識じゃないんじゃないか?」
この写真を見ただけだからなんとも言えないが、リオンという男は本人がもう良いと言ったことをいつまでも根に持ったりしないんじゃないかと、流石にミアの叔父だけはあると変な感心をしてしまいたくなる鋭い読みをされてノアが目を見開いてしまう。
「俺がもしリオンなら、俺のことでお前には悩んで欲しくない」
自分達とは与り知らない所で起きた悲劇を一身に背負う必要はない、自分達はそれに端をはしない関係を作っていこうと思うんじゃないかと、握っていた拳を開いてじっと己の掌を見下ろしたテッドだったが、ノアから聞きたいのはこんな悲しい嗚咽ではない、楽しい笑い声だと唐突に脳裏にその言葉が響き、その残響が身体の中を駆け巡っていく。
昨夜もそうだが、泣いているノアを目の前にするとどうしようもない焦燥感に駆られてしまうのだ。
それは、可愛がっている姪のミアが涙を流す時以上のもので、テッド自身もその理由がよくわかっていなかった。
ただ、理由は分からなくても、泣き止んで欲しいという思いはテッドの胸の中に強く根付いてしまっていて。
「……泣くな、ノア」
お前に泣かれるとどうして良いか分からないとくしゃくしゃとノアの髪を乱しながらテッドが微苦笑すると、掌の下で頭が左右に振られた為、姪とは違うなと肩を竦めるが、涙の底に沈む蒼い双眸に上目遣いに見つめられて息を飲んでしまう。
そしてテッドが我に返った時、ノアの顔を胸に押し付けるように抱きしめていて、やってしまったと内心焦った時背中に温もりを感じ、それがノアの手だと気付くと抱きしめる腕に力を込めてしまう。
「……テッド、ありがとう」
そう言ってもらえて嬉しいと、テッドの胸に小さな声で礼を言ったノアだったが、ハグする腕の力が強くなった気がし、広い背中に回した手でしがみつくようにシャツを握りしめる。
「……もう泣くな」
「うん……もう、大丈夫だ」
まさか仕事で訪れた先で知り合ったお前に話を聞いてもらうだけではなく、ずっと悩んでいたことへの答えを教えてもらえるなんて思いもよらなかったと素直な思いを吐露するノアの背中をゆっくりと撫でて柔らかな髪も撫でると、子供のような小さな吐息が一つ、こぼれ落ちる。
「……もうリオンに変な罪悪感を持たなくて、良いのかな」
「そんなことを望んでいないと思うぞ」
きっとそのスマホの中で笑っている男なら、まだそんな下らないことで悩んでいるのかと笑い飛ばしてくれるはずだと、己の肩に両手をついて距離を取るように顔を上げたノアにその男と同質の笑顔でテッドが告げ、分厚い掌でノアの頬に流れる涙をぐいと拭う。
「……んっ……!」
「リオンと一緒にいて楽しいか、ノア?」
シャツの裾を捲り上げて涙を拭くノアにテッドがベンチから立ち上がりながら問いかければ、うん、楽しいという声と少しだけ恥ずかしそうな顔でそれでも嬉しそうに笑うノアにテッドの顔が天井へと向けられる。
さっき唐突に笑顔を見たいと思った理由が、まるで天啓か何かのように頭の天辺から爪先に流れ落ち、何だ、簡単なことだったとこれもまた唐突に理解したテッドは、どうしたと首を傾げつつ見上げられて咳払いをし、腹が減ったから飯の準備をしないかと、たった今気づいた思いを胸の奥に封じるように肩を竦める。
「あ……うん」
昨日食べさせてくれたアヒージョが美味しかったからまた食べたいと、本当に俺はどこまで情けない顔を見せているんだと、開き直りと羞恥が綯い交ぜになった不思議な顔で笑いながらノアが立ち上がるが、さっきも堪えきれなかったように再度腕を伸ばしてノアをきつく抱きしめてしまう。
これで最後だと己に言い聞かせながら悪いと小さく謝ると、謝罪の理由がわからないけれど、こうしてハグされると安心できるもんだなと更に小さな声で返され、背中を一つ撫でる。
「……テッド」
「……今日は白ワインを飲まないか?」
撫でた背中の感触を、抱きしめた身体の温もりを記憶に止めるようにきつく目を閉じた後そっとノアから離れたテッドは、何かを言いたげに名を呼ばれて全身に緊張を走らせるが、ノアの口から続きの言葉が出てくる前に再度話題を切り替えるように小さく笑みを浮かべてしまう。
「うん、飲みたいな」
地下室がワインセラーになっているからワインを取ってくると言い残してリビングを出ていくテッドを呆然と見送ったノアは、両親とのハグやリオンやウーヴェらと交わすそれらとテッドにたった今抱きしめられたそれが決定的な違いがある事に気付くが、その違いの由来にまで気付けず、何だろうと首を傾げてしまうが、開け放たれたドアの向こうから小さな声で名を呼ばれている事に気付き、慌ててそちらに向かうのだった。
食後のバーボンと炭酸水をお供に、今夜も昨夜と同じように庭に寝そべって満天の星を見上げたノアは、昨日と同じように隣で座りながらチビチビと酒を飲むテッドを見上げ、自然と浮かんでくる笑みを顔中に広げながらテッドの顔越しの夜空を楽しむ。
ミアの不思議な能力については誰にも口外するつもりはないが、半年後のクリスマスに自分だけではなくあの二人もここにいるのかと感慨深げに呟くと、テッドがどうしたと言いたげに見下ろしてくる。
「本当に……そうなれば良いのに」
彼女が見た未来が現実になれば良いのにと、空に向けて手を伸ばし、目には見えない何かを掴むように拳を握って小さく笑ったノアだったが、テッドの目が見開かれたかと思うと、さっきも感じたリオンそっくりな笑みが顔中に広がる。
「大丈夫だ、ノア」
ミアが見た未来は現実になると笑うテッドに意味がわからないと眉根を寄せたノアだったが、笑い続けるテッドのその声につられて自然と肩が揺れ、良いな、この場所で見上げる冬の星座は今まで見たことがないものばかりだろうが楽しませてくれるかなと笑い、寝返りを打って芝生に腹這いになる。
「テッドも……」
「ん?」
腹這いになって気持ち良さげに目を閉じたノアの口から流れ出したのはミアの叔父であるテッドもきっと未来が見えるんだろうという言葉で、そんなことはないと言い返そうとその顔を見下ろしたテッドが見たのは、穏やかな寝息を立てているノアの顔だった。
昨夜と同じように寝てしまったと夜空を見上げたテッドは、残っていた酒を飲み干し、テーブルの上を手早く片付けた後、貴重品を扱う手つきで寝ているノアを抱き上げる。
昨日と同じゲストルームのドアを足で開けてベッドにノアを下ろそうとしたテッドだったが、くすんだ金髪にそっと顔を寄せてキスをし、ノアに訪れている穏やかな眠りを妨げないようにと抱き上げた時以上に丁重な手つきでベッドに下ろすのだった。
そして自身も大きな欠伸をひとつした後、隣のベッドルームのドアを開け、ゲストルームと似たり寄ったりの家具の少ない部屋で異彩を放っている大きなベッドに飛び乗り、そのまま眠りに就くのだった。