クライストチャーチでの仕事は、ノアが想像していたよりも遥かに仕事環境も良く、また運にも恵まれていた為、自然環境に左右される中での撮影にしては信じられないほど予定通りに進み、クライアントも満足してまた機会があれば仕事を頼みたいと言ってくれるほどだった。
新しいクライアントとの仕事は嬉しいものだし、そこからまた人脈が広がるかもしれないが、ノアが拠点としているドイツ南部とここは物理的な距離がありすぎて、仕事を依頼する方も必要経費などが嵩んでしまうのではと内心余計な心配をしてしまったノアだったが、たとえお世辞であってもそう声をかけてもらえることは嬉しくて、本当にありがとうございますと悪い印象を残さないように笑顔で握手をし、現地で出来る仕事を終えたのだ。
後はドイツに帰って自宅兼スタジオでの作業になるが、天候不順なども考慮し、帰国の飛行機のチケットには余裕を持っていた為に帰国まではまだ十日程余裕があり、しかも格安チケットを往復で購入していた為に変更などが出来ないものだった。
意外なほど早く終わった仕事のせいでぽっかりとできた自由時間をどのように過ごすか思案するが早いか、脳裏に日に焼けたいかつい顔が思い浮かび、彼と飲む約束をしていたことも思い出したノアは、スマホを取り出して聞いておいた連絡先を呼び出し、今日でクライストチャーチでの仕事が終わり、自由時間が出来るがダニーデンにはどう行けばいいのかとメッセージを送ると、少しして登録されていない番号から電話がかかってくる。
「ハロー」
登録外の電話番号からの着信は仕事柄よくあることで、クルーガーですと、仕事が終わった安堵から浮かれた声で返事をすると、仕事が上手くいったようだなと笑み交じりに問われて目を瞬かせる。
「テッド?」
『ああ。今メッセージをくれただろう?』
「うん、送った。仕事が思ってた以上に早く終わったから…」
飲みに行く約束を果たしたいと笑うノアに同じ笑い声が返ってきて、その約束を果たしてくれるのは嬉しいなと素直に喜ばれてしまい、ノアの顔に浮かんだ笑みも深くなる。
「ダニーデンにはどうやって行けばいい?」
飛行機が一番早いのだろうが、金銭的な面で少しセーブしたいと、懐事情を素直に吐露するノアに定期便のバスが出ているからそれを使えば良いとテッドが返し、今からだと午後か夜の便になるとも教えてくれるが、6時間ぐらいかかるぞと笑われて一瞬躊躇してしまう。
「6時間か…仕方ないなぁ」
背に腹は代えられないからバス旅行だと思って楽しむことにすると笑うノアに、ダニーデンに着く前に連絡をしろ、迎えに行ってやると当然のように告げられて蒼い目を瞬かせる。
「いいのか?」
『こちらの住所を説明するのも面倒くさい』
それに、ダニーデンで買い物をしたいものもあるしと笑われてしまえば断る理由もなく、定期バスの到着予定時刻をまた知らせると伝えて通話を終えたノアは、仕事が終わるまでの短期間だけ借りていたレンタルハウスを綺麗に片付け、仕事道具を担いで良い思い出を作ってくれた部屋を後にし、さてと、いつかと同じ晴れ渡る青空を見上げる。
この後、ダニーデン行きのバスに乗らなければならないが、乗り場も時刻表もわからない為、インフォメーションに向かうかとぐるりと見回したものの、次にこの町を訪れる機会がいつあるか分からないと気付き、到着した翌朝に食べたクロワッサンサンドの味を不意に思い出してしまう。
あのカフェは意外な感動とその後の不幸に絡んでいるが、流石にもうスリには遭わないだろうと苦笑しつつカフェにもう一度行こうと決め、再度荷物を担ぎ直すとカフェに向けてブラブラと歩きだすのだった。
カフェで仕入れた情報通りにダニーデン行きのバスに無事乗れたノアは、車内で知り合った観光客らしき若い青年と意気投合して色々な話で盛り上がり、6時間という長時間の移動につきものの退屈さを感じることも無かった。
ダニーデンのどこに行くのかと問われ、知人と待ち合わせている事を返し、青年の行き先はと問えば、ダニーデンの市街からまだ離れた所にある牧場に行くと教えられ、機会があれば行ってみたいと素直な思いを口にする。
そんな、旅先で出会った者同士の一期一会を楽しんでいたノアだったが、メッセージが届いた事に気付き、スマホを取り出してアプリを開いた瞬間、約束を破ってしまった子供の様な気持ちになる。
それは、今回の仕事の成功を空港から見送る時に祈ってくれたリオンからだった。
『……お前からの連絡がないからオーヴェが心配してるぞ』
その一言だけのメッセージだったが、いつもどこの国に仕事で出かけたとしても、まずリオンとウーヴェには電話なりメッセージなりで到着した事、仕事の大まかな予定を伝えていたのだが、今回はそれをしていなかった事を思い出し、忘れていたの一言で済ませられるはずなのに顔から血の気が引く音を聞いてしまう。
ノアがドイツ南部に拠点を移した時、ほぼ友人知人が皆無の町で何くれとなく世話をしてくれ、仕事に繋がるかどうかは分からないがと、多岐に渡る職業の人達を紹介してくれ、ノアが初めて親元を離れて一人暮らしをする街で不自由がない様にと世話をしてくれていたのだ。
そんな恩人にいつもならば当然していた連絡を怠った理由を思い浮かべるが、明確な言葉となってノアの脳裏に浮かばず、メッセージを返すよりも先に通話ボタンを押してしまっていた。
『……やーっと電話してきたなぁ』
「あ……、そ、の、……」
聞こえてきた声は欠伸混じりのもので、時差の存在を思い出して蒼い目を見張ったノアだったが、欠伸の後に楽しそうな笑い声が聞こえてきて、え、と言葉にならない声を出すと、余程そちらが楽しいのかと問われ、何かいいことでもあったのかとも問われる。
「あ、うん……仕事がさ、すごい順調に終わって、今から飛行機で知り合った人の家に遊びに行く」
『飛行機で知り合った奴の家に行く?』
「うん。漁師をしてるらしい」
『へー。写真見せてくれよ』
「うん……ウーヴェ、怒ってるか?」
ノアが楽しんでいるのならば何も問題はないと言いたげな声に楽しそうで良かったと笑われるが、ウーヴェに連絡をしなかった事を怒っているかと小さく問えば、それぐらいで怒ったりはしないから安心しろ、ただ心配をしているだけだと苦笑され、素直にごめんと謝ると、遊ぶことに夢中になれば忘れてしまうもんだと理解している声がさらに苦笑し、うん、ごめんともう一度謝罪をする。
『仕事で困ったことはないんだな?』
「あ、ああ、それは大丈夫。あとはそっちに帰って作業するだけかな」
『そうか────オーヴェ、だから大丈夫だって言っただろ?』
心配し過ぎなんだよと、後ろにいるウーヴェに安心させる様に声を大きくしたリオンに気付き、ノアが再度目を見開いてしまう。
「リオン、本当に大丈夫だからって……ウーヴェにも言ってて欲しい」
『分かった』
連絡をしなかったことを詫びておいて欲しいと伝え、今度は絶対連絡するからと約束をして通話を終えたノアは、誰よりも己の身を案じてくれる友人−と周囲には話しているが、本当は実の兄であるリオンと、その伴侶のウーヴェの心遣いに自然と頭が下がり、前のシートに額を軽くぶつけてしまう。
リオンとの出会いの後に知った、己の両親が犯した罪。それを知った後、ノアの世界は大きく景色を変えてしまったのだ。
今まで信じていた人達を信じられなくなる、それに対する怒りや苦痛の奥底に、誰にも吐露することのできない悲痛な思いが蟠っていて、それを不意に思い出したノアが無意識に唇を噛み締めてしまう。
本当ならば自分ではなくリオンが両親の元で何不自由なく育てられるはずだったのに、両親が巻き込まれた事件の結果、半狂乱になった実の両親によって教会に捨てられたのに−実質殺されかけた様なもの−、恨むことも法的手段をとる事もなく、それどころか己を捨てた人達と憎むのではなく、友人であるノアの両親として普通の態度で接してくれるリオンに対し、ノアは顔を上げることができなくなる。
リオンが過去を理由に自分達家族を憎んでくれれば。お前達だけが何故幸せに暮らしているんだと面罵してくれればどれほど気が楽になっただろうか。
だが、それを密かに望んでいたとしても、リオンはいつもの見る人を安心させる様な笑みを浮かべ、気にすることはない、もう俺も気にしていないと笑って許すのだ。
どうして許せるのか。
生後数時間で己を捨てた親をどうして憎まずにいられるのか。
最初はリオンが今まで重ねてきた苦労から達観していると思っていたが、それ以上に穏やかな顔でリオンの言動の全てを受け入れる人がいて、その人と支え合っているからだと分かったのに、そんな彼をさらに傷つける様な事を己はしてしまったのだ。
幾重にも折り重なる薄布の様に積もっていくリオンに対する罪悪感。
だが、それを感じつつも、リオンとウーヴェと一緒にいる時間は己にとって何よりも掛け替えのない、安らぎを覚える時間だった。
そばにいる資格などないと思いつつも、どうしても離れることの出来ない心優しい人達。
今も遠く離れた国で仕事をしている己の身を案じ、時差も気にせずに早朝からメッセージをくれ、大丈夫だなと笑ってくれる。
家族と呼びたい人達だと思うと同時に、お前の家族は別にいるだろうという冷静な声が響き、きつく目を閉じる。
両親とは引越しを決めて以来、以前ほど連絡を取っておらず、どうしても連絡を取る必要がある場合は事務を任せている女性に依頼するか、マザー・カタリーナに頼んでいて、直接会うことは避けていた。
一時期ほど拒絶感は無くなったものの、以前と同じような距離感に戻れず、実は密かに苦しんでいることにも慣れてしまい、どうする事もできないそれに顔を上げて肺を空にするような息をこぼすが、その時、さっきまで楽しそうに話をしていた青年が見てはいけないものを見てしまったと言いたげな顔をした為、一つ肩を竦めて窓へと顔を向け、バスがダニーデンの街に到着するまで寝たふりをしながら車窓を流れる景色をぼんやりと見ているのだった。
バスが到着したダニーデンの街は、どうやら学生が多い街のようだった。
日没までまだ時間があるからか、街の中心部あたりには仕事を終えた人や学校終わりの若者達が今夜の過ごし方について話しながらノアの横を通り過ぎていく。
バスで知り合った青年とはややぎこちない挨拶をして別れ、さて、どこで待っていればいいかと思いつつ周囲を見回した時、今ではすっかり見慣れた教会の尖塔が見え、ノアが毎日のように目にしている丸みを帯びたネギ頭のような尖塔とはまた違うそれに興味を惹かれ、テッドからの連絡があるまでそちらを見に行こうと足の赴くまま歩き出す。
クライストチャーチや拠点とするドイツ南部の街や生まれ育ったウィーンとも全く違う雰囲気の中、のんびりとした空気を感じつつ教会の近くまでやってくると、ノアが知らないだけで地元の人ならば知っているだろう腰を下ろす銅像があり、あれは誰だろうと観光客気分のまま呟くと、バスを降りる直前までノアの脳味噌を占めていたリオンへの思いが消えて行く。
心の中の思いは決して消えることはない為、せめて今だけでも頭の中から消えてくれればと願いつつ教会への立派な階段を見上げ、自分が知っているそれとの違いに眩暈を覚えそうになる。
道路を挟んだ向かい側の公園のベンチに腰を下ろし、平日の夕方、仕事を終えて帰宅する人や遊びに出かける人達、恋人同士と思わしき人達が手を繋いでノアの前を歩いて行くのをぼんやりと見つめていると、スマホに着信がある。
「ハロー」
画面をよく見る事なく電話に出たノアの耳に、今どこにいるとの言葉が流れ込み、画面を見直してテッドの文字を見つけると、名前は分からないが立派な教会が見える公園みたいなところにいると答えれば、大きな階段がある教会かと問われ、そうと頷き夕暮れの色が滲み出した空を見上げる。
「地元で良く見る教会と違うから見飽きないな」
建築様式など詳しいことは知らないが、ずっと見ていても見飽きないと笑うノアに、合流したらスーパーで買い物をしようとテッドが笑い、うん、そうしようと頷いてここで待っているからと告げて通話を終えると、己の言葉通り道路を挟んだ向かい側に荘厳な姿で佇んでいる教会をじっと見上げる。
その間、ずっとノアの脳裏を占めていた罪悪感は薄らいでいて、穏やかな気持ちでテッドを待つことができるのだった。
「────乾杯!」
テッドの低いが楽しんでいることが分かる声にノアも小さく唱和し、ビールのボトルの底をカチンと触れ合わせる。
二人がいるのはダニーデンの中心部から車で30分ほど走った海の側の小さな村で、数軒の家がポツンポツンと点在しているような所だった。
古いピックアップで迎えに来てくれたテッドが人待ち顔だったノアに告げたのは家で飲もうという一言で、俺は別に構わないが今夜の宿泊先をまだ探していないからと肩を竦めたが、意外そうに目を丸くされた後、厳つい顔に相応しい太い笑みをテッドが浮かべ、家に泊まれば良いと言ったのだ。
家に行くだけでも下手をすれば迷惑なのに、泊りまでと遠慮から手を振ったノアだったが、男の一人暮らしで部屋だけは余っているから気にするなと更に笑われてしまえば断る理由を探すのが面倒になる。
それにテッドと一緒にいると不思議なことに気持ちが落ち着き、楽しいことを考えられるようになるのだ。
深い海の色に似た双眸に見つめられれば、心の中に常にある罪悪感が薄れ、それを抱えながらでも生きていけば良いと、リオンがくれる許しとはまた違う顔のそれを感じてしまうのだ。
今までそんなことを感じた相手はいないのにと思いつつ、じゃあ言葉に甘える、ありがとうと笑顔で礼を言うと、ただし買い物をして帰らなければならないからと苦笑され、それぐらいどうと言うことはないと笑い、ピックアップの助手席に数日ぶりに乗り込んだのだった。
近くのスーパーでまとめ買いをした食材を荷台に乗せ、二人で飲むからとビールやウイスキーなどはノアが買ってそれも荷台に括り付け、徐々に車通りも家並みも少なくなる海と低い山に挟まれた道をテッドの家に向けて走ってきたのだ。
到着した家の周囲に他の家の灯りはなく、裏庭から小さな桟橋に直接出られるようになっていたが、その桟橋に小さなボートが係留されていて、テッドの仕事道具かと問えば、小さいけれど一人で贅沢せずに食べて行く分には十分な船だと肩を竦められる。
すっかり日が沈んだ夜の海にゆらゆらと波に合わせて上下するボートから何故か目が離せなくなったノアだったが、食べるものを作ってくるから庭が気に入ったのならそこにいろと、庭に出る掃き出し窓から呼びかけられて俺も手伝うと家の中に入った。
男の一人暮らしと自ら宣言していたが、テッドの家は部屋数は一人暮らしにしては多い方で、姪っ子達が泊まりにくることがあるから部屋数だけは用意してあることを教えられ、ここに泊まる間はそのゲストルームを使ってくれと言われ、素直にありがとうと言ったノアだったが、テッドの豪快な料理方法に呆気にとられていたが、出来上がったものを庭のテーブルに運んでくれと言われて外で食べるのかと顔を輝かせる。
「ああ。今日は天気も良いしな」
家の中で食うのも嫌いではないが天気が良い時は外も悪くないと笑い、アウトドア用のランタンに火をつけてくれと言われ、あまり慣れない手つきながらも何とか灯りをつけると、他の料理とビールを運んできたテッドがそれをテーブル近くの軒先にぶら下げ、もう一つのランタンに火をつけてテーブルに置く。
その雰囲気が日常を完全に忘れさせてくれるもので、ランタンの明かりの向こうに見えるテッドの顔に楽しそうな表情が浮かんでいて、無意識にノアが拳を握りしめてしまう。
「ほら、食うぞ」
テッドが持ってきたのはシーフードのアヒージョやバケットで、メイン料理は今焼いているからと教えられ、ビールの栓を抜いてそれぞれが手にすると、自然と乾杯と声を合わせるのだった。
目の前に広がるのは今まで見たことが無いような無数の星々で、耳に入るのは規則正しく打ち寄せては引いて行く波の音と、時折近くを通ったらしい車のエンジン音だけだった。
星々と波の音だけが世界の全ての中、背中に感じる芝生の感触に無意識に溜息を吐いたノアは、気持ちいいかと問われて声の方へと可能な限り顔を向ける。
テッドが用意をしてくれた料理はあまり酒を飲む方ではないノアのピッチを早める美味しさで、日頃は飲まない量を飲んでしまい、食べ終えた頃には顔をアルコールで赤く染めてしまうほどだった。
片付けをしてくるから風に当たっていろと笑われ、その言葉に素直に頷いたノアだったが、ふとベンチの下を見れば気持ち良さそうな芝生があり、誘われるようにベンチから芝生へと転がり落ちて大の字に寝そべってしまったのだ。
人の家の庭で大の字になるなんて初めてのことだと思いつつ空を見たノアの視界、飛び込んできたのは初めて目にする星々で、星座の形もわからないほどの星の数と、その中でも自然と目につく小さな四つの星だった。
「……あれ、何だろう」
星座など詳しくないノアだったが、自然と上がった指が形作ったのは十字の形で、別に己は敬虔なカトリックでは無いのに何故十字を切ったのか疑問に感じていたが、星が気に入ったかと問われ、頭を仰け反らせるとテッドが太い笑みを浮かべて見下ろしていた。
「ああ、うん、すごいな……」
俺がもっと星座などに詳しければ、いま見えている星々の名前も分かり、もっと理解が深まったのにと残念そうに呟いたノアの横に腰を下ろし、カランと澄んだ氷の音をさせるグラスを片手に、一つをノアの横に置く。
「なあ、テッド、あれ、もしかして南十字星か……?」
さっき自然と十字を切った星を指差したノアに少しだけ覆い被さるように手をついたテッドは、ノアの指が指し示す星に気付き、ああと頷いて喉を灼くようなバーボンを飲む。
「南十字星だな」
「……初めて見た」
南半球に来たのが初めてだから当たり前だが、あんなに小さな星座なのにすぐに見つける事が出来たと感慨深く呟いたノアに、南十字星もニセ南十字星もあるぞと笑ったテッドだったが、身体を起こして偽物もあるのかと好奇心に目を光らせるノアに感心しつつ頷く。
「天の川も見えてるし……」
ウィーンは人家の灯りが多く、星空など望めなかったし、今生活をしているドイツ南部の街も高い建物や街灯のせいでここまで星空が見えないと感動したように呟き、見飽きる事がないのか、顔を上げてただただ夜空を埋め尽くす星々を見上げたノアだったが、ふと頬を撫でられてびくりと肩を揺らし、何だと大きな分厚い掌を睨むように見つめる。
「どうした?」
「それは俺のセリフだって……」
いきなり頬を触られると驚いてしまうと、一瞬身構えてテッドから距離を取ろうとしたノアだったが、一つ肩を竦められ、お前が泣いているからと少しバツの悪い顔で教えられて蒼い目を限界まで見開いてしまう。
「え……? 泣い……?」
「……何かあったのか?」
星空を見て泣くなんてそれほど辛い事があったのか、それとも感動のあまり涙を流せる素直な男なのかと問われ、己の頬を手の甲で拭ったノアは、テッドの言葉通りに涙が流れていることを自覚し、どうしてと呟くが、その声に釣られたように目尻から涙が流れ落ちる。
「あ、あれ? 何で泣いてんだ、俺……!?」
自分が涙を流す理由が分からずにただ困惑するノアの頭にさっきは頬を撫でた大きな手が載せられ、数日前にも同じように髪をくしゃくしゃにされたことを思い出したノアは、その手から別の手を思い出し、立てた膝の間に顔を突っ込んでしまう。
ノアの様子から拒絶されていないことは分かっていたが、いつかも感じた、屈託無く素直に笑顔を浮かべられるノアの心の中に存在する暗い顔が気になってしまったテッドは、ノアの手触りの良い髪を撫で続けるが、己の手の下から堪えようとしても堪えきれない嗚咽が小さく聞こえて来た事に気付き、頭に乗せていた手を肩へと移動させると、姪っ子達にするように腕に力を込めて抱き寄せる。
「────っ!!」
ぐいと抱き寄せられて分厚い胸板に肩からぶつかったノアだったが、理由の分からない涙は止まる事がなく、また肩を抱く腕の強さと温もりが安心だけではなく、こうして泣く事すら許してくれているように思えるが、知り合って間もないテッドの腕の中で泣くなど、いい年をした大人のすることではないという声が脳裏に響き、最後の抵抗の様に頭を振ってその腕から離れようとするが、気にするなと小さく囁かれ、我慢という堤防が決壊してしまう。
「……っ、ぅ……っ」
「……何があったか知らないけど……」
今ここで泣く事で気持ちがすっきりするのなら泣けばいい、誰も見ていないと、見慣れている星空を見上げながらテッドがポツリと呟きつつ氷が溶けて薄まったバーボンを飲み、身体を小さく丸めて子供の様に泣き続けるノアをその後はただ黙って抱きしめ続けるのだった。
そんな二人を、満天の星々がただ静かに見下ろしているのだった。