ネイビーブルーの足回りをカスタムしたF-150キングランチが、冬の低い弱い朝日を受け、ボディを自慢げに少し光らせる。
運転席では、パイロットグラスを掛け、機嫌が良いことを教えるような笑みを浮かべたロイが、助手席で片膝を立ててそこに頬を宛てながらうとうととしているスティーヴンへと視線を流す。
二人の間のドリンクホルダーには、スティーヴンを迎えに行くときには必ず買う必要のある、二人の行き付けの老舗カフェで購入した、20オンスのブラックコーヒーが満たされているカップが前後に並んでいた。
そのひとつをノロノロと持ち上がった手が取り上げ、手の動きに合わせるようにスティーヴンが顔を上げると、信号で停車したのを良いことに、ロイが右手を伸ばして恋人のストロベリーブロンドの前髪を掻き上げる。
「……何だ?」
「昨日眠れなかったのか?」
朝が弱いことは知っているが、それにしても今朝はいつにも増して不機嫌だな。
苦笑交じりの言葉にスティーヴンの目が眼鏡の下で一瞬泳ぐが、溜息を二人の間に落とした後、カップへと目を向ける。
「……この遠征の分析の精度が悪かった」
だからロードトリップから帰宅後、ずっとデータを見直していたと返されたロイは、信号が変わったためにスティーヴンの頭から手を離し、カナダへの遠征後もデータを分析していたらしいスティーヴンの仕事ぶりに感心する。
ファンやメディアでは取り上げられることが少ないが、スティーヴンは毎日データの分析をし、その結果を目の前のゲームに重ね合わせ、修正するときは素早く行い、それをアシスタントコーチやヘッドコーチらに伝達していた。
その結果が、今までの成績だと思えば、スティーヴンら裏方を担ってくれるスタッフがいない状態で戦うことなど不可能だと気付かされる。
勿論、リンクの上で戦うのは選手達だったが、裏方としてチームを支えるスティーヴン達の存在も必要不可欠だった。
それに改めて気付いた頃、シフトレバーに乗せていたロイの右手をスティーヴンが取った為、どうしたと視線だけを流すと、掌同士を重ねて軽く指を折り、その手に頬を擦り寄せるという、付き合って何年か経つロイですら数えるほどしか目にしたことのない甘える姿を見せてくれる。
「……早く目を覚まさないと、ジョーとアリーを驚かせる」
「そうだな、ダッドとマムにそんな顔を見せられないよな」
ロイの手に頬を擦り寄せ大きく欠伸をしたが、それだけでは物足りないと感じたのか、今度はその手をタオル代わりに己の頬を拭くと、コーヒーと呟く。
「ほら」
いくら朝は弱いからと言って俺の手をタオルにするなと、ロイが苦笑交じりに告げつつも、決して拒絶しない顔でコーヒーのカップをスティーヴンに差し出すと、二度目に大きく欠伸をしてそれを受け取り、軽く息を吹きかけた後に飲み始める。
自宅で飲むものと比べれば少しだけコーヒーの味が薄いプレスコーヒーとロイの力を借りたのか、スティーヴンの目が半開きからしっかりとしたものになり、何度か瞬きをした後には寝起きであることを感じさせない、すっきりとしたものになる。
「漸くお目覚めか、スティ?」
「……起きた」
声に滲んでいた睡魔もすっかりと消え去り、それを教えるような落ち着いた声が返事をしたかと思うと、再度ロイの手を引き寄せ、今度はタオル扱いではなく恭しい手付きで口付ける。
「ジョーにはワイン、アリーには花とケーキで良かったか?」
「……あの二人にはお前が顔を出すだけで十分なプレゼントになる」
だから毎回手土産に悩む必要は無い。
そう笑うロイだったが、それはお前が息子だから言えることだと上目遣いで見つめられ、寝起きの機嫌の悪さから回復したはずだろうと肩を竦めると、ロイの手をペチリと叩いたスティーヴンが窓枠に肘をついて顔を逸らす。
「スティ。スティービー」
コーヒーを飲んで機嫌を直せ、お前の好きなボビーのカフェでお前好みのプレスコーヒーをブラックで買ってきたんだから。
年上の恋人とは思えない、時々見せる子供じみた顔も、ロイは愛していた。
だから、スティーヴンを迎えに行くときには、必ず二人が好きな老舗カフェであるボビーの店で20オンスのブラックコーヒーをテイクアウトするのだ。
今まで付き合った複数の女性や友人達にもした事が無い、過保護とすら思える行為をある意味嬉々として行うようになったのだ。
だから機嫌を直して笑顔を見せてくれと半ば歌うように告げると、隣から伸びてきた手がロイの顎髭を軽く摘まんで引っ張り、ふんと鼻息が返事をする。
「……そうだ、マリオは置いてきたのか?」
「ん? ああ、ロードトリップに行く前にダッドに預けておいた」
今回のカナダ東部の遠征の間、自宅で一人にするのは不安だった為に両親に預けておいたと教えられ、ああ、それは安心だとスティーヴンが安堵の息を吐く。
「今日のランチ、何を食わせてくれるんだろうな」
「聞いてないのか?」
「ああ、聞いてない」
行ってからのお楽しみだと笑うロイにスティーヴンが一瞬呆気に取られるが、確かにその楽しみもあるなと頷くと、今日もロイが迎えに来るときに買ってくれたコーヒーを飲むのだった。
息子とその恋人がF-150の車内で、愛犬ですら呆れてしまうような言葉を交わしていた頃、二人の目的地である高級住宅街の一角にある瀟洒な住宅の中では、キッチンで鼻歌を歌いながらオーブンを覗き込んでいるアリッサ・キャラハンの姿があった。
アリッサ・キャラハン――ロイの母である彼女は、息子の年齢を考えるとそれなりの年を重ねていたが、一見すれば実年齢よりも10歳近く若く見られるほど、表情も明るく動作も軽やかだった。
踵がある部屋履きでアイランドキッチンとリビングを往復する彼女に、リビングのソファで息子の活躍をテレビで見ていた父、ジョセフ・キャラハンが微苦笑交じりに呼びかける。
「アリー、あの子達が来るのはまだ先なんだから、少しは落ち着いたらどうだい?」
そんなに忙しなく動いていると、マリオも落ち着かなくてそわそわしているぞ。
ソファのフットレストを上げてリラックスしている夫、ジョセフの言葉に動きを止めたアリッサだったが、彼女を一目見た瞬間に恋に落ちた頃と変わらない顔で口元に立てた指を当て、だって落ち着かないものと呟く妻にやれやれとジョセフが溜息を吐く。
だが気分を切り替えたように己の隣をポンポンと叩いて座れと告げるが、アリッサが来るよりも先にゴールデンレトリーバーのマリオがソファに飛び乗ってしまう。
「ま……!」
「きみが早く来ないからマリオが先に座っちゃったな」
はははと、体格に似合った豪快な笑い声を上げる夫を少し拗ねた目で見つめた彼女だったが、息子の愛犬を叱るに叱れず、もうと口を尖らせた後、金色のふさふさの毛並みに覆い被さるように上体を伏せる。
「……昨日までロードトリップだったんでしょう?」
その翌日なのに疲れていないのかしらと、息子の体調を気遣いながらも預かっているゴールデンレトリーバーの毛並みを撫でたアリッサだったが、リビングの窓から見える庭先、更にその先の雪が残る道路を走ってくるネイビーブルーの車体に気付き、ソファの背もたれに両手をついて膝立ちになり、そんな彼女の横でマリオも同じような姿勢になる。
「ジョー! 帰ってきたわ!」
あの大きな車体は息子のものだ。
嬉しそうにはしゃぐ妻に夫はやれやれと溜息を吐きながらも、リモコンを操作して画面の中で氷の上を縦横に滑る息子ではなく、間もなくやって来る実物を見るためにソファの上で振り返る。
運転席にはパイロットグラスを掛けているからか、イケメン度が一割増しに見える息子が、助手席では息子の恋人が同じく色の薄いサングラスを掛けている事に気付き、少しだけ複雑な笑みを浮かべてしまう。
「……ねえ、ジョー」
「どうした?」
アリッサの控え目な呼びかけに顔を向けると、あの子がスティーヴンの事についてカミングアウトした日の事を思い出したと小さく笑い、まさに自分も同じ事を考えていたと苦笑すると、マリオの身体を乗り越えたアリッサがジョセフの足に横座りし、夫の口ひげを手慰みのように撫でる。
両親が自分達を家の中から見守っていることなど気付かない息子と、その恋人が両手に袋を提げた姿で車から降りたことに気付き、夫婦が顔を見合わせる。
ジョセフが口を開こうとしたその時、玄関のドアが外れてしまうのではないかという勢いで開け放たれ、リビングと玄関を仕切る役目を果たしているラグの上に、雪と泥と塩カルで汚れたブーツを脱ぎ捨てる。
右と左に転がるブーツに、最早何も言わずに溜息だけを落としたスティーヴンは、己のスニーカーをその横に並べて脱ぎ、用意されているルームシューズに足を突っ込むと、じっとこちらを見ているジョセフとアリッサに気付き、思わずロイを見上げてしまう。
「ダッド、マム、ただいま!」
昨日のロードトリップから無事に帰宅した、今日のランチは何だ。
息子の開口一番の言葉に父と母が顔を見合わせた後、どちらからともなく盛大な溜息を吐き、アリッサが夫の足から立ち上がって息子の前に向かうと、今では両手に収まりきらなくなった息子を抱きしめる。
「お帰りなさい、ロイ。ゲームを見ていたわ」
大活躍だったわねと笑って息子の頬にキスをすると、今度はスティーヴンへと向き直り、ロイと同じように両手を広げて息子よりは細身の身体を抱きしめる。
「あなたもお疲れ様、スティーヴ。早くそこに座って」
何か飲み物を用意するわと笑ってスティーヴンの頬にもキスをし、お返しのキスを受けたアリッサは、学生の頃、いや、それ以上昔の近所の幼稚園に通っていた頃から何一つ変わらない息子の帰宅時の様子に目を細める。
あの頃からは想像も出来なかった、息子の同性の恋人。
彼をチラリと見ると、あなたも早く座りなさいと、二人が逆らうことが出来ない笑みを浮かべて息子とその恋人をソファへと追いやる。
そんな妻の姿を見ていたジョセフだったが、脳裏に浮かんでいたのは、息子が珍しく興奮に顔を赤くしながらリビングへと飛び込んできたときの姿だった。
車が急ブレーキを掛けた為にタイヤが盛大に音を立てる。
その音が庭先からリビングの窓にまで届き、妻のお菓子のレパートリーの中で最も好きなピーチパイが焼き上がるのを心待ちに、昨夜息子がフル出場したゲームを録画したものを見ていたジョセフは、ソファの上で身体を捻って何だと窓の外へと目を向ける。
ジョセフの息子のロイは、幼馴染みや同年代の選手に比べ、少しだけ下積み時代が長かった。
だが、その下積みも終わりを迎え、昨日はフル出場し、得点に絡む活躍をする様になったのだ。
5歳でスティックを握ったあの日、ダッドのように僕も選手として活躍したいと目を輝かせていた息子は、今ではデトロイトを本拠地にするチームでも頭角を現し始めていた。
昨日はどうしても外せない用事があったためにアリーナに出向くことは出来なかったが、息子の成長に感慨を覚えていた父は、振り返った窓の向こうにその息子が買い換えたと自慢げに写真でお披露目をしたばかりの愛車が見えた事に気付き、先程の急ブレーキを発していたのは息子だと気付くと、キッチンでオーブンを覗き込んでいる妻を慌てて呼ぶ。
「アリー、アリー、ロイが帰ってきたみたいだ」
「そんなに慌ててどうしたの、ジョー?」
ジョセフの声に顔を上げたアリッサが目を丸くし、ミトンを装着している手を腰に当てて首を傾げるが、ジョセフが改めて口を開こうとした時、玄関のドアが吹っ飛んでしまったのではないかという程の音と共に、大きな身体が玄関から飛び込んでくる。
「ダッド、マム! 俺、ゲイだったみたいだ!」
飛び込んできたのがグリズリーやバッファロー――デトロイトの街にそれらがいるとは思わなかったが――ではなく、昨夜の活躍を夫婦揃って喜んでいた自慢の息子だと気付き、お前はもう少し静かに入って来られないのかと、ソファから立ち上がったジョセフが腰に手を宛てて苦言を発しようとする。
だが、そんな彼を遮るように妻の華奢な腕が上がり、今何と言ったのと問いかけた為、激しい物音の後に続いた息子の言葉を思い出そうとジョセフが眉根を寄せる。
「ねえ、ロイ、ねえ、今の言葉をもう一度聞かせて?」
ミトンを背後に投げ捨てながらアリッサが問いかけ、ジョセフも息子が叫んだ言葉を思い出した顔で何度も頷くと、玄関のドアを閉め、雪と泥に汚れたブーツをラグの上で脱ぎ捨て、左右の靴が反対方向を向いているのも気にせずにルームシューズに足を突っ込む。
「うん、何度でも言う。……どうやら俺はゲイだったみたいだ」
改めて告げられたその言葉にジョセフとアリッサが顔を見合わせたかと思うと、アリッサの膝がかくんと折れてしまい、前と横から夫と息子の頼りになる腕が伸びて彼女の華奢な身体を支えようとする。
「おっと」
「アリー、しっかりするんだ」
貧血を起こしたように座り込む妻を支えた夫は、息子の顔に申し訳なさを発見するが、今はとにかく妻をソファに運ぶべきだと思い出し、現役時代を彷彿とさせる力でアリッサを抱き上げソファへと下ろす。
「大丈夫かい?」
「ええ……水を頂戴、ジョー」
夫には水を頼み、その間に申し訳なさそうに立ち尽くす息子を手招きした彼女は、ソファの前で膝を着いて顔を覗き込んでくる息子の髪をそっと撫で、どうしてそう思ったのと優しく問いかける。
「あなたにはハイスクールの頃に付き合っていた彼女がいたでしょう?」
残念ながら彼女とは大学に入ってからは疎遠になったみたいだけれどと、息子の言葉から受けた衝撃を何とかやり過ごそうとする母の言葉に息子が頷くと、キッチンから水の入ったグラスをトレイに乗せた父が戻ってくる。
「……ちゃんと話を聞くから座りなさい、ロイ」
いきなり今のようなことを叫びながら入ってくるなんて、お前はアリーの心臓を止めさせるつもりか。
ジョセフの優しい叱咤に己の言動を振り返ったのか、一度目を見張った後に申し訳なさからソファの座面に額をぶつけたロイは、ごめんと子どもの頃と変わらない素直さから謝罪をし、水を飲んで落ち着いたらしい母にもう一度ごめんと告げて頬にキスをする。
「驚いたわ……でも、本当に急にどうしたの?」
今、パイを焼きながら昨日のゲームを録画したから見ていたのよと、凭れ掛かる先をソファから夫へと変えたアリッサが息を吐いた後にそっと問いかけると、息子の顔が上がり、碧に近い青い瞳に強い意志が宿る。
「うん……チームにすごく優秀だとヘッドコーチやGMが褒めているアナリストがいるんだ」
その彼から目が離せなくなり、付き合って欲しいと先日告白したと、飛び込んできたときの喧噪など嘘のような穏やかな口調で告白するロイを見つめていた両親だったが、アナリストとジョセフが呟くと、何をする人なのとアリッサが小首を傾げる。
「ああ、簡単に言えば、選手の様子やゲーム中の動きを見て、コーチ達にアドバイスをする人達だな」
アリーナの最上段、観客が決して足を踏み入れることのないプレスボックスと呼ばれるルームがあるが、そこでゲームを観察しデータを分析している人達だとジョセフが告げると、ロイが頷く。
「名前は?」
「スティーヴン。スティーヴン・コールドウェル。俺より5歳年上だな」
「……」
息子の帰宅は嬉しかったが、その息子が齎した衝撃に言葉を失った両親に気付いたのか、ロイがアリッサの手をそっと握ったかと思うと、凪いだ水面を連想させる穏やかな目で母を見つめる。
息子は同性の恋人への思いを募らせている、所謂恋に浮かれた状態だろうと察した父が、確かめるようにロイの名を呼び、アリッサとの隣で座り直したかと思うと、本当にその彼が好きなのかと問いかける。
「彼から目が離せなくなったと言っていたが、その前に何か命に関わるような出来事はなかったのか?」
練習中に激しいチェックを受け、脳震盪を起こしたとかそういった出来事はなかったのかと問いかけるジョセフだったが、不安そうな妻の視線と対照的に穏やかさと強さを同居させた息子に見つめ返され頷かれる。
「それはない。……ゲーム中の俺の動きを認めた上でアドバイスをくれたことが切っ掛けだな」
それは、ロイが漸く今のチームに上がり、リンクに出る時間も回数も徐々に増えてきた頃だったと、少しだけ遠くを見る目をした息子に、父が腕を組んで溜息を吐く。
「……ダッド、マムに初めて会ったとき、雷に打たれたみたいだって言ってただろ?」
「ん? あ、ああ、そうだったな」
「俺は雷に打たれはしなかったけど、すごく冷たい氷に閉じ籠もっているあいつを、暖かい場所に連れて行きたいと思ったんだ」
息子の言葉に嘘や偽りが無いことは、文字通りロイを育て見守ってきた両親ならば理解出来る事だった。
だから黙って先を促すと、少し聞いただけだけどとロイが前置きをする。
「週末のゲームが終われば両親と食事をし、家に一緒に帰ると伝えたんだ」
その時の顔が、どんな高性能な消しゴムを使ったとしても消すことが出来ない程、脳味噌に焼き付いてしまった。
そう告白し、己の両手を見下ろしたロイがそっと手を握った時、息子の頭の中では誰かの手を取っていることが分かる形になったことにアリッサが気付き、ジョセフの肩に手を宛てて寄り添いながらそっと口を開く。
「それは、あなたの同情ではないの?」
あなたが今胸で育てている蝶は、同情という名を持っているのではないか。
その言葉をアリッサが口にするとはジョセフも思っていなかったのか、驚いたように妻の顔を見るが、目の前で息子がゆっくりと首を左右に振ってそれを否定する。
「それはない。うちの家族の仲が良いのは昔からだ。それを言えば幼馴染みのピーターやハリーにも家庭の事情があって良く羨ましがられていただろう?」
でもあの二人に同情するような気持ちは起こらないし、あいつらなら何とか自分の道を切り開くと分かっていたと肩を竦められ、両親が顔を見合わせる。
「でも、スティーヴン……スティは……どうしても一人にすることが出来ないと思ってしまった」
それが同情ならそうかもしれないが、それでも俺は彼を、あんな顔で笑うスティーヴンをひとりにしたくなかったと、穏やかだが決して揺るがない意志を滲ませた声で続けられ、アリッサが目を閉じた後、そっと息を吐く。
「そう……ねえ、ロー」
その母の呼びかけは、ロイがホッケースティックを初めて買い与えられた頃まで呼ばれていたもので、懐かしさに目を細めたロイが、母が真剣な話をしたいのだと察し、言葉の続きを待つように背筋を伸ばす。
「……あまりこんなことは言いたくないけれど、あなたはやっとレギュラーに定着できるかどうかなのよ。あなたのキャリアに響くとは考えないの?」
差別をするつもりはないが、同性同士のカップルへの風当たりは厳しいものもあり、その関係を進んで受け入れてくれる人達ばかりではないのだ。
母のその言葉が己を案じる心から出ている事に気付いているロイは、ローと呼ばれていた幼い頃から何一つ変わらない表情で頷くと、自分達の関係を公表するつもりはない事、お互い同じチームで働く仲間のようなものだから、関係を匂わせるような事は極力見せない事などを二人で決めたと返すと、もう一度母の口から息が零れ落ちる。
「だから、チーム内では友人という事にしようと決めた」
「それで良いの?」
「本音を言えば良くない。でも、俺たちの立場を思えば、今はそれが精一杯だ」
マムの言うとおり、同性愛についてまだまだ嫌悪する人達がいることも、社会的に不利になることも、そして北米の四大スポーツと称されるアイスホッケーの世界ではまだまだ数少ないものである事も理解している。
息子が再度肩を竦めながら告げる言葉を黙って聞いていたアリッサは、ジョセフの顔を見た後、そうと呟いてソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。
「マム?」
「……パイが焼けたわ。一緒に食べましょう」
そして、あなたの新しい恋人が、私の手料理を気に入ってくれるかどうかが気がかりだから、一度連れてきなさい。
その言葉を残してキッチンに向かったアリッサは、床に落ちたままのミトンを拾い上げ、オーブンのドアを開けて香ばしい匂いを立ち上らせるパイを取り出し、夫と息子に笑いかける。
「ピーチパイよ。飲み物はどうするの?」
「俺はコーヒーが良い」
「……お、れはも、コーヒーだな」
アリッサがつい先程までの真剣さなど忘れた顔で問いかけると、息子が立ち上がりながらコーヒーと告げ、その言葉に釣られたように父もコーヒーと叫ぶ。
「……ロイ、さっきアリーも言っていたが、お前がそこまで腹を括っている相手なんだ、一度連れてこい」
「ダッド……」
「間違えるんじゃないぞ、これは何も相手が男だからじゃない。女性だったとしても同じ事を言っているからな」
それが分かったら手を洗ってきなさい、マムのピーチパイはお前も好物だろうと笑う父に頷いた息子は、己の両親を信じて告白したが、その思いに誤りは無かったと改めて気付き、キッチンに向かうジョセフの後を追ってキッチンに向かうと、両親の頬にキスを残し、ピーチパイはまた今度食べる、今日は帰ると残して返事を聞くよりも先に家を飛び出してしまう。
「ちょっと、ロイ……!」
もう、せっかくパイが焼き上がったのにと、同性の恋人が出来た報告に驚いた事など一切感じさせない顔でアリッサが憤慨し、ジョセフが仕方がない奴だと肩を竦めるが、妻の肩を抱いて髪に口付けた後、一体どんな男なんだろうなとぽつりと呟く。
「そうね」
早く連れてこないかしら。
息子の愛車のエンジン音が響く中で両親が口数少なく言葉を交わすが、そんな息子が同性の恋人を連れて家に来るのは、アメリカ南部へのロードトリップが終わった翌週末で、その時、遠慮がちながらもしっかりと自分達の顔を見ながら会話を楽しもうとするスティーヴンの様子から、自分達が思い描く同性同士のカップルへの印象が変わり始めたのだった。
「……ド、ダッド!」
息子の呼びかけで我に返ったように肩を揺らしたジョセフは、何をぼんやりしているんだと顔を覗き込まれ、なんでもないと微苦笑する。
あの日、ゲイだったみたいだと叫びながら家に入ってきた息子は、己の言葉を守るようにスティーヴンとの関係を公表せず、ただ過度に隠す事もなく、上手くチーム内で秘密を保っているようだった。
その為、ゲーム終わりの後や休養日に遊びに行ったり、ロイの家でバーベキューをする際にもスティーヴンに声を掛け、友人としての付き合いを皆に見せているようだった。
自分達の若い頃を思えば、男女に拘わらず同性を恋愛対象とし、結婚する人達を当たり前に目にするようになっていたが、それでもやはりスポーツ界はそういった意味ではまだまだ閉鎖された世界だった。
己の息子の恋愛について面白おかしく騒ぎ立てられる事など到底受け入れられなかったが、だからと言って今目の前で自分達のためを思って土産を持参してくれるスティーヴンに対しては、今では息子の恋人という関係を認めて受け入れていたのだ。
息子の人生だから息子がちゃんと考えるだろう。
ある意味で息子に全幅の信頼を置いている父は、今日はワインを買ってきたと袋を差し出されて中身を取り出し、己の好きな銘柄のそれに顔を綻ばせる。
「いつもありがとうな、スティーヴ」
「喜んでもらえて良かった」
眼鏡の下で穏やかに目を細め、こちらはアリーにと言いながら小振りの花束とスイーツが入っているらしい袋を差し出すスティーヴンに、そこまで気を遣わなくても良いと思うんだけどなぁとロイが少し揶揄うように語りかける。
「……」
車内での口論未満のそれを繰り返すつもりのないスティーヴンだったが、それでもじろりとロイを睨んだ後、キッチンから甘くて良い香りが近付いてきた事に気付き、そちらへと向き直る。
「今日のピーチパイも上手く焼けたわ!」
これはランチの後に食べるから冷ましておきましょう。
ピーチパイが載ったオーブンのトレイを両手に笑うアリッサに、ロイが微苦笑する横ではスティーヴンが嬉しそうに頷き、楽しみだと心からの言葉を告げると、アリッサがトレイを大理石のカウンターにそっと置き、ミトンを外した手でスティーヴンを抱きしめる。
「そんな嬉しい事を言ってくれるのはあなただけよ、スティーヴ」
ロイなんて、一番食べるくせにありがとうも言わないのよ。
「マム、俺は言葉じゃなくて行動で示す男なんだ」
だから人一倍食べるだろうと笑うロイの言葉に思わずスティーヴンとアリッサが顔を見合わせた後、アリッサが目を細めてコロコロと笑い出す。
「ジョー、早くランチに食べる肉を焼いて」
「あ、ああ、任せておけ」
今日はお前達が来ると聞いて、ラムを買ってきたからそれを食べよう、ソースは何が良いと問いかけながらキッチンのコンロ前に向かう父に、マッシュルームが入ったオニオンソースと、ロイとスティーヴンが異口同音にリクエストをする。
「分かった。料理が出来るまでお前達はマリオと遊んでいてくれ」
ジョセフの言葉に、漸く自分の存在を思い出してくれたと言いたげにゴールデンレトリーバーのマリオが尻尾をぶんぶんと振り、まずは飼い主のロイの足に身体を擦り寄せると、次いでスティーヴンの足にも擦り寄ると、二人の太腿に頭をぐりぐりと押しつけ、リビングのソファへとぐいぐいと押していくのだった。