Die Sonnenblumen-22-

Über das glückliche Leben(UGL)-Lion & Uwe -

 『────ねえ、もし、もしも上手く亡命できたら何をしたい?』
 その小さな低い問いかけを耳にした瞬間、彼が行ったのは周囲の様子を伺い、小さな声で零された大きな不満を誰にも聞かれていないかを確かめることだった。
 聞かれるとマズいことになる、だから今は言わない方が良いと、隣で両足を子どものようにブラブラとさせる彼女の横顔を少しだけ強く睨むと、それが面白くないと言いたげに顔を逸らされてしまう。
 くすんだ金髪は緩くウェーブして肩に掛かり、今は不満に染まっているロイヤルブルーの双眸は、快活に己の感情を表すために光り輝いていた。
 そんな彼女の長所が時と場合によっては欠点になる事を付き合いだしてから知った彼は、とにかくその話題は本当に二人きりの時にだけ口にしようと約束しただろうと問いかけ、だって面白くないとの言葉を返されるが、もしもの話だが、こちらで最近本格的に始めたカメラマンの仕事が面白いから、そこで必死に生きる人達を写したいと、灰色の低い空を見上げた彼は、じゃあ私を撮ってと命令に近い口調でお願いされて身体事彼女へと向き直る。
 『私は、絶対に女優になるの!何があってもなってみせるわ。だから・・・色々写真を撮られるでしょうけど、私を撮ってね、ウィル!』
 『あ、ああ・・・そうだね、きみを撮るために腕を磨いて有名にならないとね』
 『そうよ!大女優になるのよ、有名な人にしか撮らせないわ!』
 ベンチから立ち上がるとその場でくるりと一回転し、手を己の方へと伸ばしてポーズを取る彼女を眩しそうに見つめた彼は、そうなると良いねと頷き、そうするのよと笑われて再度周囲を見回すが、先日降って湧いた様に転がり込んできた亡命話を真剣に考えようと頷き、そろそろ授業の始まる時間だ、大学に戻ろうと彼女の手を取って歩き出すのだった。
 四半世紀以上の時が過ぎる頃には、この時のもしもが現実になり、人物を専門にしたフォトグラファーとしても表彰されるほどの実力と経験を付ける事になるが、その当時の彼にとっては想像どころか別次元の己の話のように感じているのだった。

 

 

 亡命前に思い描いていた夢の先で己を待ち構えていたのは、夢想していた平和でバラ色の未来などでは無く、灰色の澱んだ空と壁が無くなっただけで、陰鬱な視線は常に感じていたし、密告され秘密警察に連行される恐怖が無い代わりに、常に何処に行っても亡命者という色眼鏡を通してしか己を見て貰えない屈辱だった。
 そんな中でも腐らずに愛する妻となった彼女とともに夢の実現に向けて歩んでいた最中、彼女のお腹に宿った小さな命と彼女の心を殺すような事件が起き、そして本来ならば感動し祝福するはずだった小さな命は、生まれ落ちた瞬間、その母に悪魔と罵られ全身全霊で拒絶されてしまった。
 その時の彼に出来たことは、半狂乱になった妻を少しでも宥めることだけで、生まれて間もない我が子の未来など考える余裕もなかった。
 雪が降るクリスマスイブの前夜、麻袋に子どもを詰め、後ろめたい思いからリュックに詰めたそれを捨てる場所を探すため、血塗れのベッドに呆然と座る妻を残して家を出た。
 何処をどう走ったのか分からなかったが、彼の目に飛び込んできたのは、激しくなった雪のカーテンの向こうに見えた、例えるなら暗闇の中に見いだした一縷の光のような、外観は古くて手入れも行き届いていないが、それでも何故か安心できるような教会だった。
 亡命後に仕事を斡旋してくれるとの言葉で、彼女と、自分たちの平和な日常を破壊した男とともに一夜の宿を借りるためにやって来た教会だと彼が気付いたのは、クリスマスのミサの準備のために深夜まで働いているシスターの横顔を闇の中に見つけたからだった。
 彼女が持つ小さなろうそくの明かりが照らし出した顔と記憶が繋がり、肩にずしりと掛かる重さを思い出した彼は、ここであれば、この小さな命を、魂を安らかに導いてくれるかも知れないとの思いから、人がいないことを確かめると、立派な彫刻が施された扉を開けてミサの準備がされている聖堂に入り込む。
 さほど大きくないマリア像が静かに見下ろす聖堂内を足音を立てずに進み、首を傾げる聖母マリアの視線の先の長椅子にリュックから取り出した麻袋を下ろすと、小さな小さな泣き声が聞こえた気がし、頭を一つ振って何も聞こえなかった、錯覚だと己に言い聞かせる。
 この寒さの中、両親の愛情もミルクも与えられずに弱り、死んでいくのかと思うと足が止まってしまうが、脳裏では目を吊り上げ髪を振り乱しながら早く捨ててくれ、悪魔の子どもなど見たくもないし私は悪魔など産んでいない、そんなもの知らないと叫ぶ妻の顔が思い浮かんでいるのだ。
 妻と子どものどちらかだけが助けられる、その極限状況下、彼が選んだのは生まれたばかりの自分たちの子どもでは無く、これまでもこれからも一緒に歩いて行く妻だった。
 さっき耳にした泣き声は錯覚だ、その麻袋の中のモノは自分たちが待ち望んでいたが安定期に入ったばかりの頃に母の胎内でレイプされ殺された、生まれてきてはいけない子どもだったのだと呟くと、感じていた罪悪感などが薄らいでいく。
 生まれてきてはいけない子どもだったのだ。本来ならば絶対に安全な場所で一日一日と成長している最中、母がレイプされ、そのショックで犯人を殴り殺しただけではなく、知人を頼ってその死体を処理させたような男を父に産まれてきてはいけない子どもだったのだ。
 妊娠が分かった時の感動と予定日がクリスマスに近い事から、どんな立派な人に成長するのだろうかという夢も何もかもを打ち砕かれた、いわば夢の残骸が入っている麻袋を最後に肩越しに振り返った彼は、そっと聖堂を出て行くと、周囲に人の姿が無い事を確かめ、少し離れた場所に置いていた自転車に乗り込み、雪が降りしきる街へと走り去るのだった。

 

 彼が自宅に帰ったのは日付が変わっていたが、自宅アパートのドアを開けると、中から物音が聞こえてきて、何事だと室内に飛び込むと、今まで見たことが無いような顔で妻が血塗れのシーツや衣類などを袋に詰め込んでいた。
 『・・・手伝うよ』
 その狂気に取り憑かれているような妻にただ手伝うと告げ、ベッドの上の出産の痕跡を少しでも消そうと、家中の布を引っ張り出し、真夜中の大掃除を始める。
 ボランティアで時々訪れていた家の近くの教会、その教会でシスターや信者らがお腹の大きい妻や生まれてくる子どものために用意してくれた衣類、布のおむつなども床に飛び散った血を拭くために切り裂き、子どもが生まれてくることを予想させる物品が一つ一つ無くなっていく。
 出産直後の妻の身体にそんな力が残っていたのかと、後日背筋が震えるような恐怖を覚える事になるが、シャワーを浴びたのかバスルームも血塗れで、さすがに真夜中にシャワーを使えば近所から苦情が来ると判断し、切り裂いて雑巾代わりにした布で血を拭き取っていく。
 あらかたの掃除が終わり、肩で息をしながら室内を見回した時、窓の外はまだ暗かったが、時計は早朝だと教えてくれていて、脱力したようにベッドにもたれ掛かって床に座る妻の横に同じように座ると、肩に妻がもたれ掛かってきて、その温もりと重さに、これからも何があっても彼女を支え続けると伝える代わりに腕を回して肩を抱く。
 『・・・ありがとう、ウィル』
 たった一言に込められた膨大な感情に気付いた彼だったが、ここで出し尽くせるほどの言葉を知らず、またありもしない事から、どういたしまして、これからもよろしくねとしか返せなかった。
 そんな彼に妻は何も言わずにそのまま目を閉じ、疲れたから一緒に寝ましょうと誘われ、辛うじて残っていたブランケットをクローゼットから引っ張り出し、掃除をしたはずなのに散らかったままの部屋の床に妻と一緒に寝転がり、ブランケットを身体に掛ける。
 程なくして聞こえる穏やかな寝息に釣られるように目を閉じた彼は、脳裏で小さな子どもの手が空を掴むように握られたのを見たように思うが、どこかから現れた扉の中にその手が吸い込まれて閉ざされ、それ以降その手と手の持ち主が彼の意識野に出てくることは無いのだった。
 二人が床の上で寝入ってしまった数時間後、窓の外はクリスマスイブを愛する人達がともに過ごせる幸せを表すかのように満面の笑みを浮かべた子ども達が、親や親戚に手を引かれて行き交うのだった。

 

 街路樹がすっかりと黄色くなり、夏の開放感から冬の閉塞感へと季節が移り変わるのを、自宅アパートの窓から眼下の街並みを見下ろしながら感じているのは、最近考え込むことが多くなってしまったヴィルヘルムだった。
 リビングのソファでは、リハビリが順調でもう通院も月に一度のペースで良いと医者に太鼓判を押されたハイデマリーが、女優として復帰するのも間近だと嬉しそうに語りながら雑誌を読んでいた。
 そんな妻の言葉に素直に頷きながらも、ヴィルヘルムの脳裏には連絡が付かなくなってしまった息子のノアのあの日の横顔が浮かんでいて、どう説明すれば良かったのか、それともやはり伝えるべきでは無かったのかとの疑問が万年雪のように彼の心に根付いていた。
 「ウィル、どうしたの?」
 「・・・ノアは今どこにいるんだろうね」
 そして、何をしているのかと、腰を下ろしていた出窓から降りたって肩を竦めたヴィルヘルムにハイデマリーの目が悲しげに伏せられ、元気にやっているわよ、だから私たちも元気を出しましょうと、お互い元気に活動していれば必ずどこかで会えると信じている、そう己に言い聞かせるように呟いた彼女の横に腰を下ろした彼は、うん、そうだねと同意しながら彼女の頬にキスをする。
 「仕事仲間や友達からも連絡はないの?」
 「・・・あの子が良く行っていた店にも顔を出していないそうだ」
 それだけでは無く、今まで地道にこつこつと積み重ねてきた仕事も受けていないらしく、友人や仕事仲間も心配してヴィルヘルムにノアはどうしたんだと問いかけてくるぐらいだと返し、夫婦揃って伏し目がちになる。
 ハイデマリーが負傷した事件、それが一段落付いた頃に過去の亡霊がその手を伸ばして家族の仲を裂いてしまったが、過去を知ったノアが、今まで己が信じてきた人達が信じられない言動をした結果を知ってしまい、その衝撃を受け止めるのが精一杯の顔で家を出て行ってしまったのは、真夏の心地よい風が吹き抜けた日だった。
 それ以降、ノアにどれだけ電話を掛けようがメッセージを送ろうが返事は無く、それどころか今までならば否応なく耳に入ってきた仕事の評判も耳に入ることが無くなっていた。
 ハイデマリーが同じように電話をしても梨の礫だそうで、心配のあまり友人や俳優仲間にノアを見かければ連絡をするように伝えてくれと話していたが、ハイデマリーの広い繋がりを持ってしてもノアの行方は掴めず、今では連絡が無いことは元気にしている証と何とか己を説得しているような事を呟くようになっていた。
 ノアが自宅にも仕事場として借りていたアパートにも戻らず、親しい友人達にも誰にも何も告げずにいなくなっても季節は移ろい、真夏に咲いたひまわりが姿を消し、今では秋の象徴の草花が控え目に顔を出し、街路樹は黄色く色づくようになっていた。
 「・・・本当に、ノアは何処に行ってしまったのかしら」
 妻の心配そうな呟きに彼も頷くものの、息子が音信不通になってしまったのはあの話し合いが原因だと分かっている為、ハイデマリーの心配がどこか人ごとのように感じてしまい、頭を振ってその思いを振り払う。
 自分たちが犯した数多の罪、その最大にして最悪の事件が起きたあの夜、彼女を護り彼女とこれからも人生を歩んでいくためには何でもすると密かに誓った事を思い出し、一人で思い出すことが辛く感じて妻の肩を抱きしめると、一瞬訝るような気配を感じるが、信頼の証に腰に腕が回される。
 「・・・ノア、心配だから連絡ぐらいちょうだい」
 妻の呟きに、息子が生まれた感激と、自分たちが生まれた時から感じていた閉塞感が一掃されるかも知れないとテレビを通して知り呆然となった事を思い出し、妻の髪に頬を宛がう。
 「大丈夫だ、ノアはちゃんと一人でも考えて歩いて行ける子だ」
 だから自分たちに出来るのは、彼を信じて見守ることだけだと呟き、小さな小さな同意の声に頷いて秋の風が吹き抜ける窓の外を見やるのだった。
 そんなヴィルヘルムとハイデマリーの心の中、一つの疑問が芽生えては打ち消されていたのだが、どちらもそれを口にすることは出来ず、ただ時が解決してくれるという諺を縋るように信じることしか出来なかった。

 

 

 街路樹が赤や黄色に衣替えをはじめ、眼下を行き交う人達の服装も枚数が増えるようになった頃、定期便のように届けられる事が増えてきた便せんを片手に、デスクに尻を乗せて二重窓から空を見上げたのは、今夜の友人の飲み会を断るべきかどうするべきか思案しているウーヴェだった。
 右手薬指から指輪が消え、己の指輪を持ったリオンと手紙というアナログな方法でしか連絡を取れなくなって3ヶ月近く経過するが、リオンが戻りたいという意思表示をすることは無く、ウーヴェとしてはただ信じて待つことしか出来なかった。
 ただ、週の始まりの朝に元気か、今週は仕事が忙しくなりそうだのの予定を書き連ねたメッセージを送ると、そのメッセージに短い一言だけが返ってくるようになったが、それもウーヴェが業務連絡のような手紙だけでは無く、お前が今感じている事を教えてくれと、堪えきれずに真夜中にメッセージを送った次の日に届いた手紙に、業務連絡ではない、リオン自身の心境が辿々しい言葉であっても書かれるようになってからだった。
 その返事だけでも今は喜ぶべきかと己を納得させているといつしか季節が変わったのだが、季節の移ろいとは違い決して変わることの無い思いを胸に、いつ帰ってくるか分からないリオンを待っていた。
 そんなウーヴェを周囲は普段通りに接することで励まし支えることにしたようで、またウーヴェも今まで通りに付き合ってくれる友人や家族に感謝していた。
 その友人と今夜飲み会があると誘われていたが、いくら感謝していてもやはり気持ちが上向かないことと、リオンが家を出て以来、誰に言われた訳でも無いが、ウーヴェは酒を一滴も飲んでいなかったのだ。
 酒を飲まずにいても楽しめる友人達だから構わないのだろうが、今までどちらかと言えば一番酒を飲んでいたウーヴェがガス入りのミネラルウォーターやノンアルコールビールを飲んでいるのを目の当たりにすると、友人達も酒を飲むことに引け目を感じているようだった。
 そんな気遣いを友人にさせてしまう事に気後れし、飲み会に誘われても二回か三回に一回しか行かなくなっていた。
 ただ、今夜の誘いがカスパルでは無くマウリッツである為、行きたい気持ちが大きかった為、今夜の飲み会に参加する事を伝えようとスマホに手を伸ばした時、慌ただしくドアがノックされてその音が自然とリオンの笑顔を連想させたため、デスクの上で飛び上がりそうになる。
 「・・・はい」
 「ウーヴェ、お客様が・・・」
 ドアを開けたのはもちろんリオンでは無く、分かっていた現実に内心落胆しつつドアを開けたリアに頷けば、彼女の後ろに見慣れたくすんだ金髪が見え、さすがに予想外のそれに眼鏡の下で目を限界まで瞠ってしまう。
 「・・・あの、今、大丈夫だった、かな」
 「・・・ノア!?」
 リオンからは聞く事の無い遠慮がちの声に、そのブロンドの持ち主が誰であるかを察したウーヴェは、大丈夫だ、どうしたと声を掛けながらデスクから降り立ち、呆然と立ち尽くすようなノアに小首を傾げる。
 「そんなところに突っ立っていないでこちらに座れば良い」
 「あ、ああ、うん、ありがとう…」
 小さな礼の言葉に頷き指し示した窓際のソファへノアを案内し、自らも向かい合うようにお気に入りのチェアに腰を下ろすと、ノアの表情やリオンと良く似た蒼い目に浮かぶものに眉を寄せてしまう。
 初めてノアと出会ったのは、夏の始まりの頃で、あの頃は真夏の太陽や元気の象徴のようなビタミンカラーの花々が似合う、リオンに本当に良く似通った青年だと思っていたが、今目の前で腿の上で拳を握って俯く顔など想像出来なかった。
 「どうした?何かあったのか?」
 初夏のイメージが相応しいノアの顔に浮かんでいるのが真冬を連想させる翳りで、リオンにも共通するものだと気付いたウーヴェが内心身構えつつ表面上は穏やかに問いかけて言葉を待つ。
 永遠にも感じる時間の後、流れてきた言葉は、何を信じれば良いのか分からないと言う、この世の総てに不信感を抱いている言葉で、何かあったのでは無く、ノアの快活さを喪わせるほどの出来事があったのだと気付き、唐突に今己が図らずも巻き込まれているリオンの出自に絡む事だとも気付く。
 いや、それ以外にノアが己の元を訪れる理由が無いと苦笑したウーヴェは、チェアの上で座り直した後、彼方のソファに座るかと問いかけそうになるが、それを堪えつつ何があったか話してくれないかと穏やかに言葉を誘うと、検査結果を両親に見せたが、その時信じられない言葉を聞いたと教えられて無意識に拳を握る。
 「・・・どうして、あんな事を言えるのかな・・・・・・」
 「ご両親は何を言ったんだ?」
 「・・・自分たちの子どもは俺だけで、リオンは・・・自分たちの子どもじゃないって・・・・・・」
 検査結果を突きつけてもその言葉の一点張りだったこと、リオンは自分たち家族とは関係が無いと断言され、疑いようのないDNA検査の結果があるのにそれでも関係が無い、自分たちは三人家族でリオンは家族では無いと言い切るのかと、言われた衝撃を伝えるように蒼白な顔で握りしめた拳を震わせるノアにウーヴェも同じように衝撃を受けてしまうが、だからといってノアの感情に引きずられてはいけないと自制するように深呼吸を繰り返す。
 「どうして・・・」
 「どうしてだろうな」
 何故そこまで頑なにリオンの存在を認めないのかと、ノアが拳をきつく握って悔しそうに呟き、リオンが兄という事実は俺にとっては驚きもあったが、それ以上に夏が夏であるのと同等の当たり前さを感じたのにとも呟く声にウーヴェが口を開こうとするが、ノアは何処まで事実を知っているのだろうかという疑問が不意にわき起こり、迂闊なことは言えないと顔を強ばらせてしまう。
 クルーガー夫妻がリオンを妊娠している時に巻き込まれた悲劇とその結末だが、ノアはそれを知っているのだろうか。
 己の母が、妊娠中に知人にレイプされ、その知人を己の父が殺して遺体を処分し、生まれた子どもを教会に捨てた後、この街から逃げ出してウィーンへと移り住んだ事を知っているのだろうか。
 もしも、クルーガー夫妻がノアに何があっても隠し通したい過去がそれならば、その過去に繋がるリオンの存在は絶対にノアの前では認めないだろうし、自分たちの家族は三人だけだと言い張るだろう。
 リオンの存在を認めれば、自分たちが被害者でもあり加害者でもある過去と直面し、最大の被害者であるリオンに謝罪をしなければならないだろう。それだけで済めば良いが、リオンに過去を目に見える形で償えと言われてしまう恐怖があるかも知れない。
 それを思えば素直に認めることなど出来ないと、クルーガー夫妻の内心を想像したウーヴェだったが、リオンを教会に捨てたのがウィルだったと、それだけは認めたようなものだと教えられ、やるせない溜息を零してしまう。
 「それでも・・・リオンを自分たちの子どもだとは認めなかったんだな?」
 「うん・・・どうしてって聞いたけど・・・お前にも分からない事が私たちにもあるって」
 母が泣きそうな顔で叫んだとも教えられてきつく目を閉じたウーヴェだったが、中途半端に事情を教えられた今のまま生きていくことと、例えどれ程辛くても過去を知った上で生きる事だと一体どちらがノアにとって幸せなのかと考え、無くなってしまった右手薬指のリングに意識を集中しそうになるが、今は胸元にある事を思い出し、シャツの上から胸に手を当てて堅い感触のそれを手の中に握りこむ。
 自らが望んだのでは無く周囲から半ば強制的に知らされた己の出自、そしてそれに纏わる悲劇を、お前と同じ血が通う弟に教えても良いかと、今どこにいるかも分からないリオンに問いかけたウーヴェは、ソファに座って蒼い双眸に昏さを湛えながらも事実を知りたいと口に出さないが強く望んでいるであろうノアに気付き、どうかこれ以上誰も傷付きません様にと強く願う。
 そして、願いがふわりと昇華された時、ノアの目を真っ直ぐに見据えながらウーヴェが口を開く。
 「今から話す事は、きみにとって信じられないし信じたくないことかも知れない」
 でも、紛れもない事実であり、その結果、俺のリオンが今もたった一人で苦しんでいると、ノアに初めて見せる厳しい顔で足を組むと、ウーヴェの様子から何かを察したノアが唾を飲み込んで姿勢を正す。
 「リオンを妊娠している時、ご両親にとってとても辛い事件が起きた」
 「・・・何か、あったんだ」
 「ああ」
 何があったと問われて一度口を開いたウーヴェだったが、何度か閉じたり開いたりを繰り返した後、断りを入れてスマホを取り出すと、どこかに電話をかけて何やら許可らしきものを取り付ける。
 「ここで俺が話すのも良いだろうが、もっと詳しく知っている人がいる。その人にも一緒に聞いてもらおう」
 「え・・・・・・?」
 ウーヴェの唐突な申し出にノアの目が丸くなり、ああ、本当にリオンと良く似ていると懐かしさに胸が痛んでしまうが、感傷を振り切るように頭を振ると、ホームで、マザー・カタリーナらにも聞いていただこうと告げて今度はノアの顔に安堵の色を浮かべさせる。
 「ホーム・・・そういえばリオンはホームって言ってたよな」
 それってあの教会で育ったからかと、ノアが問いかけても良いのか分からない様子で呟くと、ウーヴェが伏し目がちに頷き、リオンが最も欲していたもの、それを具現化したものだと告げて立ち上がる。
 「ホーム。ハウスという言葉で表される家族。何があっても自分を受け入れてくれる、迎え入れてくれる場所」
 それが、リオンが望みまたそんな彼の願いを叶える人達がホームという言葉で表されているとも告げてステッキを突くと、ノアの顔が俯いてしまい、ついいつもの癖でウーヴェがそっと手を伸ばしてリオンと同じ柔らかさを持つ髪を撫でると、驚いたように顔が跳ね上がる。
 「・・・・・・マザーにも聞いてもらおう」
 そうすれば、きっときみが感じる驚きや不信感も柔らかなものになるだろうと、一緒に出掛けようとノアを誘ったウーヴェだったが、己の夜の約束を思い出し、少し待ってくれと再度断りを入れると、マウリッツに慌てて電話をかける。
 マウリッツには手短に事情を説明すると、次の飲み会で埋め合わせを期待しても良いかなと笑われ、うんと素直に返事をして通話を終える。
 「待たせたな」
 「大丈夫」
 俺は問題ないが、ウーヴェは大丈夫なのかと、優しいなと思わずウーヴェが笑みを浮かべるようなことをノアが問いかけ、大丈夫だから安心しろと再度髪を撫でられて少しだけ頬を赤くするのだった。

 

 ホームに向かう二人を、夏に比べると寝床に帰るのが早くなった太陽が、顔を赤くしながら静かに見下ろしていて、己の太陽は一体どこでこの太陽を見上げているんだろうなと、運転席でドライブ用のサングラスを掛けたウーヴェがポツリと呟き、助手席のノアに首を傾げさせるが、言ってしまっても優しい罰ゲームのキスもない、何でもないとの言葉で己の呟きを取り消すのだった。


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2020.07.31
前半が・・・怖かったです˚‧º·(˚ ˃̣̣̥⌓˂̣̣̥ )‧º·˚


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