真夏のウィーンは、思わぬ事から滞在することになってしまったあの街-総てを思い出した今はただひたすらに忌まわしい闇を内包して存在している-に比べると遙かに住み心地が良く、リハビリ専門の病院で今後のリハビリ計画を妻とともに主治医に相談していたヴィルヘルムは、自分たちが想像していた以上に妻の回復具合が進んでいることに安堵していた。
妻が頭部を狙撃された衝撃の事件は目を閉じればすぐに思い浮かぶほど忘れられない事件だが、その光景の中、これもまた決して忘れることも目を背けることも出来なくなってしまった一人の男の顔が思い浮かぶ。
セットで思い出されるそれに頭を振って何度も追い払おうとしても、今度は繋がってしまった過去から小さな手が伸ばされる幻覚に襲われてしまうのだ。
あの事件の後、ハイデマリーという人格が消失したかのような変貌を果たした妻を、誰にも頼ることも出来ずに一人で支え続けた結果、自宅で出産した子どもを前に、悪魔の血を浴びた子どもなど同じ悪魔だ、だからどこかに捨ててきてと半狂乱で叫ばれてしまえば、ただ彼女の事だけを考えてきたヴィルヘルムには逆らうことなど出来なかったし、生まれたばかりなのに親に捨てられる子どもの末路など考えることも出来なかった。
生まれた国で自由に生きることが出来ない、己の可能性を摘まれるような鬱屈した空気の中で生きていたくない、極論すればただそれだけの理由で壁に阻まれた不自由な国から彼女と手を取って逃げ出した己に残されているのは、共犯者とも言える彼女との絆だけだった。
フォトグラファーとしてもまだまだ駆け出しで、己の名前で仕事が出来るなど夢のまた夢の頃、彼女の存在がある意味己を支えていたのだと、今振り返ってみればそう感じることが出来るが、当時は共依存のような関係を理解出来なかった。
だから何の躊躇いも無く、彼女の心身とまだ続く未来のために、二人の血を継いだが悪魔のような子どもを捨てたのだ。
子どもが出来、ゆっくりと親になっていくはずだったが、レイプとその後のヨハンの死体の処理など非日常的な事を経験した後では、そんな感覚はすっかりと忘れ去ってしまい、その感覚が二人に戻ってきたのは、十年という長い時間の後のノアの妊娠、出産を経た時だった。
生を受けて泣き続ける息子をこの手に抱いた時、初めて親になれた感動すら感じていたのだ。
それは己だけでは無く彼女も同じだったようで、親という新たな境地に自分たちを連れて行ってくれた、そんなことから生まれた子どもにノアと名付けたが、その時には十年以上も昔、悪夢の底に沈んだ街に捨ててきた子どもの事など思い出すことすら無かったのだ。
その悪夢が、今、意外な形で自分たちを飲み込むように口を開いてしまった。
その切っ掛けを作ったのが、逃げ出した祖国からやって来た亡霊と等しい存在の旧友だった事は、どういう意味があるのだろうか。
そんなことを自然と考え込むようになっていたヴィルヘルムは、妻が入院は不要で、自宅でリハビリをすること、定期的な通院だけで大丈夫だろうと診断された事に安堵し、ウィーンに帰ってきてから2週間ほど経ったがまだ顔を見ていない息子にメッセージで知らせたのだが、ノアは真夏にバカンスも取らずに海外で撮影の仕事をしているようだった。
だから、そのノアが未だかつて見たことがないような思い詰めたような顔で自宅のベルを鳴らした時、ヴィルヘルムの脳裏に浮かんだのは、仕事上で何か大きな問題が発生したのかという心配だった。
「・・・何かあったのかい?」
ドアの前でやや俯いたまま沈黙する息子にどうしたと問いかけながら中に入れと促したヴィルヘルムの背中に、ノアが来たのという嬉しそうなハイデマリーの声が届けられる。
「ああ、今来たよ」
玄関から動こうとしない息子に首を傾げつつ、リビングのソファで息子が来るのを待っている妻に返事をしたヴィルヘルムだったが、様子のおかしな息子の顔を覗き込みつつ、本当にどうした、マリーに聞かせたくない話でもあるのかと声を潜めると、俯き加減の顔が勢いよく上げられるものの、ノアの口からは言葉は流れ出してこなかった。
蒼白な顔で何かを訴えるように目を見つめてくるノアの様子に、本当に何があったと眉を寄せたヴィルヘルムは、腿の横でノアの手が何かを握っていることに気付き、それはと小声で問いかけたヴィルヘルムの耳に、どんな感情からかは分からないが、震える声がこれはどういうことだと問いかけてきたため、何のことだと問い返しつつ、玄関先で話す事では無いだろうと息子の肩に手を掛けるが、触られることを拒否するように肩を引かれて目を瞬かせてしまう。
「・・・マリーも、いるんだよな?」
「ああ、さっき声が聞こえただろう?リビングにいるよ」
今日は朝から暑いが窓を開ければ運河から風に乗って僅かの冷気がやって来て気持ち良いと肩を竦めながら息子の固い声に返事をした父親は、とにかくリビングに来なさいと踵を返す。
少し離れてリビングに入ってきたノアを、ハイデマリーが座るソファの肘おきに座って出迎えたヴィルヘルムは、一体どうした、何があったと息子に何度目かの問いを投げかけ、握りしめられていた為にぐしゃぐしゃになってしまった封筒を一歩離れた場所から投げ渡されて妻と顔を見合わせる。
「それは?」
己の足元に落ちた封筒を見下ろし、これは何だと素朴な疑問を口にするヴィルヘルムの背中にハイデマリーが手を伸ばして嫌なことを思い出しちゃったと悲しそうに笑うが、そんな二人をただ蒼白な顔で見つめるノアに二人も何があったと思いながら封筒を拾い、中を見ても良いのかと目で息子に問いかけた父だったが、中から出てきた書類が某かの検査結果だと気付き、何かの感染症にでも罹患したのかと息子の身体を気遣うが、当たり障りの無い挨拶文の後に、二人の被験者から採取されたDNAを検査した結果を知らせる、感情も何も籠もっていない文章を読み進める内に鼓動が早くなり、書類を持つ手が震え始める。
二人の被験者として、ノアとともに挙がっている名前に聞き覚えはあるものの、それがリオン・H・ケーニヒという音として己の脳味噌が理解し一人の男の顔に一致させるまで驚くほどの時間が掛かってしまい、これは誰だと呟くと、ノアの顔に一瞬で血の気が戻り、腿の横で握りしめられていた拳が腰の位置まで上げられる。
「リオンだ!マリーを真っ先に助けてくれた、俺にそっくりなリオンだ!」
己の父の言葉が信じられないと言いたげに声を荒げる息子に母もソファから身体を起こして二人を交互に見つめ、どうしたのと夫の顔を見るために腿に手を載せる。
「ウィル?どうしたの?」
息子と対照的に今度は父の顔が青くなり、そんな二人に焦れたのか、ハイデマリーがヴィルヘルムの手から書類を奪い取って読み進めていくが、夫が蒼白になった検査結果を見た瞬間、書類を床に投げつけてしまう。
「何、これ!こんな検査、誰がしたの!?」
それに、どうしてここにあなたと99.9%の確率で兄弟だと思われるなどと書いてある、冗談にしてもたちが悪すぎると、ヴィルヘルムとはまた違った蒼白さで叫ぶハイデマリーを、ノアが両親だけでは無く人に見せたことがないような冷めた目で一瞥し、床に投げつけられた書類を拾い上げる。
「・・・これはどういうことなんだ、ウィル、マリー」
俺は今までずっと一人っ子で兄弟はいないと聞かされていたしそう思っていた、だが検査結果が示しているのは、映画祭で偶然であった己そっくりなリオンが兄と言う事だった、これはどういうことだと、悲しみや怒りが綯い交ぜになった顔で両親を見つめたノアは、呆然と見つめ返してくる母が力なくソファに座り込んだのに気付き、その背後のサイドテーブルに並ぶ家族写真へと目を向けると、今まで当たり前のように見ていたそれが、まるで初めて目にするもののように思え、目の前にいる二人は本当に己の両親なのかという疑問も芽生えてくる。
幼い頃、クリスマスや誕生日の度に、友人達は祖父母達からもプレゼントやカードを貰っているのに、自分は何故両親と両親の仕事仲間達からで、祖父母から貰う事が無いのか疑問に感じて問いかけたが、自分達は三人家族で、自分たち以外に家族はいないと教えられて以降疑問を封じてきていたのだ。
それが、まさか400キロほど離れたドイツ南部の街に、十歳差の兄がいたと検査の結果判明し、混乱すると同時に、何故そんな大切な事を今まで隠していたのかという疑問が理由の分からない怒りという形になってノアの中から噴出する。
「どうしてリオンが兄だって黙ってたんだ!?」
何故、幼い頃から家族の話になった時、お前には十歳離れた兄がいると教えてくれなかったんだと、知りたいことが山のようにある中で最も言葉にしやすかった疑問を投げかけると、お前に兄はいないと、ノアが予想すらしなかった冷淡にも聞こえるヴィルヘルムの声がお前に兄弟はいない、僕とマリーの子どもはお前一人だけだと繰り返したため、信じられないと目を瞠る。
「リオン、あの街で世話になった彼だね、彼とお前が兄弟だって・・・その検査結果に書いてあるのかも知れないけれど、その検査結果は正確なのか?」
「・・・何だって?」
「その検査は誰がいつ行ったものなんだ?」
ヴィルヘルムの問いにノアが呆然と父の顔を見つめるが、己の後ろで姿勢を正したらしいハイデマリーに気付き、彼女の傍に座るために肘置きから立ち上がると、じっと見つめてくる妻と息子の視線の中ゆっくりとソファに座り、ノアにも座れとテーブルを挟んだ向かいのソファを指で示す。
「そこに突っ立ったまま話すようなことじゃないだろう?別に僕たちは逃げたり隠れたりしないから、そこに座りなさい」
何に興奮しているのか分からないが、とにかく座ればどうだと息子に着席を促しついでに冷静になれとも言外に伝えた父は、その言葉に素直に従ってソファに座るノアに安心したように一つ頷き、さて、その結果だがそれは本当なのかと、肘おきで頬杖を付きながら問いかけると、息子の顔に疑問と不安と安堵が滲み出す。
その表情にヴィルヘルムが安堵の表情を浮かべるが、今も昔も変わらないただ一つの思いを腹の中心に据えて目を細める。
彼女のためならば、誰にどれ程憎まれようが嫌われようが構わない。
あの、灰色の、いつまでも居続ければ精神が蝕まれ静かに殺されていく、そんな日々を送らざるを得ない街から一緒に逃げ出した彼女のためならば何でも出来ると、今や遠く遙かな過去になった、壁を見上げる日々を思い出したヴィルヘルムは、その検査結果をもう一度見せてくれとノアに手を差し出し、書類を隅から隅まで読んでいく。
「・・・今まで、この手の書類は何度も届けられたよ。ねえ、マリー」
「・・・え、ええ、ええ、そうよ。私はあなたの夫が私の母との間に出来た子どもだ、検査結果がこれだから認知しろ、認知できないのなら金を出せと何度も言われたわ」
全くと、以前から何度かあったヴィルヘルムの不倫疑惑とその結果の隠し子騒動を思い出しながら溜息を吐いたハイデマリーに、ヴィルヘルムが無言で肩を竦めるものの、言っておくが不倫疑惑というのはマスコミが勝手に作り上げたものであり、マリーと一緒に東ベルリンから逃亡して以来、他の女性に手を出したことも無ければお前に兄弟が出来るようなこともしていないと、まるで教会で宣誓する時のように手を立てて厳かに呟いたヴィルヘルムだったが、ノアの顔がまだ疑問と怒りに囚われている為、もう一度肩を竦めて何をそんなに心配しているんだと首を傾げる。
「心配って・・・この検査は、俺がリオンに無理を言って受けてもらったものだ」
だからマスコミやどこかの誰かがねつ造したものでは無く、ここに書かれているとおり、リオンと俺の遺伝上の血縁関係を証明するものだと、少しだけ冷静さを取り戻した顔でノアが両親を交互に見るが、両親の顔に浮かんでいるのは、己が予想したものとはかけ離れた落ち着き払ったものだった。
「そうか、お前が受けたんだな。でも・・・確かにそれが本当に血縁関係を証明するものだったとしても、それがどうした?」
「・・・ウィル・・・?」
妻の肩に自然に腕を回して抱き寄せたヴィルヘルムは、妻にそっくりな双眸を限界まで見開く息子を不意に愛おしく感じつつも、そんな愛情を感じる己を遙か遠くに感じているような声でもう一度それがどうしたと繰り返す。
「どうしたって・・・」
俺に兄弟がいることも知らなかったが、そもそも何故リオンがあの街の教会で育たなければならなかったんだと、少しだけ聞かされたリオンの生い立ちを思い出すと、怒りと疑問から何故と言う言葉しか出てこなかった。
「お前がどんなつもりでその検査を受けたのかは分からない。でも、例え誰に何を言われたとしても、僕とマリーの子どもは、ノア、お前ただ一人だ」
だからそんな検査結果を信じるんじゃないと、ノアの見開かれた目をまっすぐに見つめながら頷いたヴィルヘルムに、ハイデマリーも微かに声を震わせながらそうよと頷く。
「そうよ、ノア。私とウィルの子どもはあなただけよ」
あなたがここ最近ずっと気にしていた家族の存在だが、あなたには申し訳ないが私たちの両親も兄弟も、そして、その結果に書かれているようなあなたの兄弟も存在しないと、ノアの手が握っているものが悪夢の元凶であるかのように睨み付けたハイデマリーは、あまり好きでは無かったが、昔暮らしていた事や映画祭というタイトルに惹かれてあの街に行ったが、こんな事ならば行かなければ良かった、そうすれば怪我をすることも無かったし、あなたとこんな話をする必要は無かったと、映画祭での事件を思い出して頭を振る。
両親の、リオンの存在そのものに蓋をするような言動が信じられず、マリーの介抱を真っ先に行い、命の恩人でもあるはずのリオンを認めないのかと、覚えたことのない感情から手に力を込めたノアは、そうでは無いと父が冷静に話すことすら神経を逆なでするように感じてしまう。
「彼がマリーを助けてくれたことは本当に感謝している。それについては、彼が働く会社に出向いて礼を言ってきた」
直接礼をするには時間が経ちすぎている気もしたが、そこは許して貰えたと肩を竦める父に、そのリオンが俺の兄だったと尚も言い募ると、父の口からなんとも言えない溜息がこぼれ落ちる。
「ノア、だから何度も言っているが、彼の功績は認めるし感謝する、だが、彼がお前の兄だというのは、僕もマリーも認めないよ」
「・・・っ!!」
初めて聞く父の冷淡な声に息子の肩がぐらりと揺れ、今まで己が無条件で信じてきたものを信じられなくなる恐怖に囚われかける。
父の言葉が、母の言葉が、今この瞬間、理解出来ない他言語の様に感じてしまい、震える拳を腿に押し当てたノアは、もう一度言ってくれと震える声で父の顔を見つめるが、そこにあるのは、これもまた初めて目にするような男の顔で、何度でも言うが、僕とマリーの子どもはノア、お前ただ一人だと返されてノアの全身を目には見えない絶望が包み込む。
ヴィルヘルムとハイデマリー、そしてその息子のノアの家族仲の良さは、ハイデマリーがドイツで入院している時にも当然ながら発揮され、取材に来たマスコミも仲の良さを褒め称えたりするほどだった。
そんな父と母の顔がまるで赤の他人-どころか、血の通わない未知の生き物の様に感じたノアは、ぽっかりと足元に開いた暗闇に一人放り出された恐怖を感じ、座り慣れているはずのソファの上で身震いしてしまう。
「それにしても、どうしてそんな検査をしようと思ったんだ?お前には何度も家族は僕とマリーしかいないと言っていたのに・・・」
そんな検査をしなければこんな話をお前とする必要も無かったのにと、やるせない溜息を吐かれて呆然と目を瞠ったノアにハイデマリーが心配そうに大丈夫かと声を掛ける。
「だ、大丈夫なわけ・・・ないだろ!?」
この結果のように俺にはリオンという兄がいた、なのにその彼を兄とは認めない、そんなことを言われて大丈夫なはずが無いと、混乱する己を何とか宥めつつ頭を激しく振ったノアは、知らなければ良かった事もあると、まるで天啓か何かのように降ってきた言葉に顔を上げ、二人の顔を交互に見つめる。
「・・・俺は・・・今まで、何も知らずに、ただのうのうと生きてきた、のか・・・?」
己のまだまだ短い人生を振り返った時に見えた、晴れ渡る空と眩しいほどの太陽、そしてその下で屈託無く笑う己を、ただただ愛おしそうに見守るヴィルヘルムとハイデマリーの姿に、聞きかじった程度のリオンの幼少期の姿が重なり、己が途轍もなく大きく重い罪を犯したかのように打ちのめされてしまう。
二人の長子として本来ならば己のように愛され、またともに暮らせるはずのリオンが、真冬の教会に何故捨てられなければならなかったのか、そもそもリオンを捨てたのは両親なのかという疑問が沸き上がり、自然と身体が震えてしまう。
「・・・リオンを、あの教会に捨てたのは・・・ウィルとマリーなのか・・・?」
「・・・・・・知らない方が良い、たった今それを学んだんじゃ無いのか、ノア?」
ヴィルヘルムの言葉にノアの顔が一瞬で蒼白になり、言葉にならない声を絞り出した後、座っていたソファから転げ落ちてしまい、両親の形をした得体の知れない生物から距離を取るように後退る。
「・・・も、う、何を信じて良いのか、わからない・・・っ!」
「お前が信じるのはそんな紙切れではなく、僕とマリーだけだ」
今は混乱しているかも知れないが、落ちつけば何を信じるべきは分かるはずだと、ヴィルヘルムが痛ましそうに目を細めて息子に呼びかけるが、俺が今まで疑うことすら無かった人達を信じられなくしたのはウィルなのに、そのあんたがそれを言うのかと、これもまた滅多に見ない激情した息子に詰られて一つ肩を竦める。
「お前が何を信じようとお前の自由だな。ただ、繰り返しになるが・・・リオンを、彼を僕とマリーの子どもとは認めない」
例え遺伝子上での繋がりがあることが分かったとしても認めないよと、どれだけ言葉を尽くそうが事実を目の前に突きつけようが決して揺るがない思いだと伝えるようにノアをまっすぐに見つめたヴィルヘルムは、二度三度と口を開閉させた後、ロイヤルブルーの双眸に暗い光を宿して自嘲する息子に目を細める。
「・・・・・・リオンも・・・同じ子どものはずなのに・・・」
どうして彼一人がしなくても良い苦労をする必要があった、教会の人々の善意によって育てられなければならなかった、俺が今まで受けてきたものは本来ならば彼が享受するものでは無かったのかと前髪を握りしめて肩を揺らすノアに、ハイデマリーが何を言っている、彼は本当に関係が無いと少し語気を強めると、思春期の反抗期以来かそれ以上に激しくノアがハイデマリーを睨む。
「自分が生んだ子どもだろう!?関係ないとかよく言えるな!」
「関係、ないわ」
「!!」
「ウィルも何度も言ってるけど、私とウィルの子供はあなただけよ、ノア」
だから、あの街で教会に捨てられて孤児院で育った彼の生い立ちには同情するが、関係の無いことだと断言し、ヴィルヘルムに身を寄せる。
「・・・マリーも、ウィルと同じなんだな・・・」
俺が今まで愛し信じてきた二人は一体何だったんだろうな、俳優とフォトグラファーという両親が自慢だったが、子どもを捨てても平気な人達だとは思わなかった、俺はそんな親を自慢としていたのかと、これまでの人生が一気に思い出すことすら忌々しい過去になったかのように呟いたノアは、ハイデマリーがそんな息子をキッと睨み付ける。
「あなたには分からない事が私たちにもあるのよ!」
「・・・子どもを捨てて平気な人達の事情・・・?」
そんなこと想像もできないと呟きつつ立ち上がった瞬間、冷酷な顔を見せていたヴィルヘルムが立ち上がったかと思うと、呆然とするノアに近づき、血色の悪い頬を平手打ちする。
「ウィル!!」
「・・・マリーも言ったが、お前には分からない事情が僕たちにもあった。それを知らないで自分の母親をそんな風に言うんじゃない、ノア」
「だったら・・・!どうして今まで俺はリオンの存在を知らされていなかったんだ!?二人は知っていたんだろう!?」
「・・・確かに、僕は教会に子どもを捨てた。だが・・・その子どもはその時に死んだと思っていた」
泣き声一つ聞こえてこなかったからねと、当時を思い出す顔で目を伏せるヴィルヘルムにノアが口を開くものの言葉を発することは出来ず、ハイデマリーも蒼白な顔でふらつきながらも立ち上がって夫に寄り添う。
「だから、その子が、マリーを助けてくれた彼だったとは思わなかった」
だからマリーが救急車に乗る前、きみは誰だと思わず呟いてしまったのだと、先程のノアのように前髪を掻き上げながら自嘲気味に笑ったヴィルヘルムは、本当ならお前にちゃんと話すべきだったなと、後悔の言葉を続けて己が叩いたことで少し赤みを帯びたノアの頬を撫でる。
「総て僕が悪いんだ、だからマリーを責めるんじゃ無い」
「・・・っ!」
「マリーと大切な話をしたい、悪いがノア、今日は帰ってくれ」
年を経るごとに己に、妻に似てくる息子の頬をもう一度撫でたヴィルヘルムは、呆然としたまま頷くノアの頬にキスをし、すまないと決して真意が伝わることの無い謝罪を一つすると、茫然自失のままリビングから出て行く息子の背中を見送る。
そして、遠くで玄関のドアが閉まる音が聞こえると、高い天井を振り仰いで溜息を吐く。
さっきノアに責められたが、可能なら知らせること無く墓まで持って行きたかった。
ノアには、あの街で自分たちが味わった苦労や辛酸を舐めた事など、知られたくは無かった。
その後悔の念に身体が揺れてソファに倒れ込んでしまうと、総てを共有しているハイデマリーがそっと身体を覆うように床に膝をつく。
「ウィル、ウィル、落ち込まないで。いつか・・・言わなければならなかったのよ」
「そう、だね・・・」
でも、そのいつかが自分たちの手の中には無く、外部からさっきのように暴力的にもたらされてしまうと心の準備が出来ていない身には堪えると腕を上げて目元を覆い隠すと、ハイデマリーがその理由に気付き、そっと髪にキスをする。
「・・・まさかあなたがノアを叩くなんて思ってなかったから驚いたわ」
「僕も驚いた・・・」
我が事ながら驚いたと自嘲したヴィルヘルムに何度もキスを繰り返したハイデマリーは、ウィーンに帰る電車に乗り込んで出発を待っていた時、地獄に落ちるならきみ一人では無いと肩を抱かれたことを思い出し、あなたが地獄に落ちても大丈夫、私も一緒よと腕で隠されている耳に囁きかけ、胸元に頬を宛がう。
「・・・ウィル、ノアに恨まれるかも知れないけれど、あなたとずっと一緒なら平気よ」
愛する息子に自分たちの行いを知られた結果、憎まれ恨まれるかも知れないが、それもあなたがいれば受け入れられると囁くハイデマリーの背中を抱くように腕を回したヴィルヘルムは、ソファの上で器用に寝返りを打って彼女を見下ろすと、二人が手に手を取って亡命をしたあの夜を彷彿とさせる顔で微笑まれ、うんと頷いて額と額を重ねる。
「二人なら・・・今までみたいにきっと大丈夫」
「ええ・・・ノアにも、いつか分かって貰えるわ」
例えそれが自分たち二人がこの世に存在しない時間であっても、きっと分かってくれると夫の背中を抱きしめながら囁いた妻は、うんと頷く小さな声を耳元で受け止め、愛しているわ、ウィルと目を閉じる。
その目尻から一粒二粒と涙が流れ落ち、それを止めるようにヴィルヘルムが指で何度も拭うのだった。
開け放った窓からは運河の冷気を少しだけ運んできた風が素通りしていくが、ヴィルヘルムとハイデマリーはそんな風を感じることなくソファの上でじっと抱き合い、ノアはすれ違う人が心配そうに見つめてしまうほどフラフラとした様子で自宅に戻る為、真夏の空の下を歩いていくのだった。
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2020.06.05
ノアが初めて知った信じていたものへの恐怖、知らなければ良かったという後悔。が書けたかなぁ(゚o゚;;


