珍しく目覚ましの音によって目を覚ましたウーヴェは、身体の芯に残る疲労感に気付いてその原因となったリオンが満足そうに眠っているのかを見ようと寝返りを打ち、いつもならば身体のどこかが触れる温もりがないことに気付いて目を瞬かせる。
存在自体が煩いと、時折からかいながらも伝えたことがあったが、父と同じ様に不在であっても煩いと思ったこともあった。
なのに、寝返りを打った今、何故かそのうるささを感じることがなかった。
寝起き一番に感じ取った異様さに身体を起こし、いつもリオンが眠っていた場所を撫でて残っているはずの温もりがないことに気付いて一瞬のうちに血の気が引いてしまう。
「リオン・・・・・・!?」
ウーヴェが手で探ったシーツは人の気配が残っていないほどの冷たさで、それが表すことは、目が覚めてトイレに行ったり水を飲みに行くためにベッドを抜け出したのではないという事実だった。
昨日の様子を思い出すと少し違和感があったが、その原因がわからず、何があったとベッドから降り立とうとするが、鏡張りのクローゼットのドアが半分だけ開いていて、室内の様子もいつもと違うことを教えてくれていた。
ベッドから降り、ステッキを慌てて握った時に微かな違和感を覚えながらも前のめりになりながらベッドルームを飛び出し、廊下の手すりを頼りに廊下を進んでリオンの部屋のドアを開ける。
「リオン!」
開け放たれたドアの向こうはいつも通り、どれほど口を酸っぱく注意をしても片付く事は無いままで、今も彼方此方に小物や脱いだ服が散乱していたり、コンフォーターの上に座ってタバコを吸っていたのか、乱れたままのコンフォーターと、吸い殻が少し溜まった灰皿が、部屋の主人が扱った直後の姿のまま存在していた。
「────!!」
リオンの部屋としか言い表すことの出来ないそこに、部屋の主人の姿だけがない事に、ウーヴェの体が震えてしまい、古いパイプベッドに倒れこむ様に座ってしまう。
どこに行ったのか、出て行ってしまったのか、どうしてだという疑問がぐるぐると脳裏を巡り、何があったと考え込んだ瞬間、昨日知った検査結果のことが浮かんでくる。
まだ話をしていない結果だが、どこかで耳にしたのだろうか。同じ検査を受けたノアから連絡を受けたのだろうか。
昨日話をしなかったことが気に食わず、先に結果を予想して出て行ってしまったのだろうかと、次から次へと浮かんでくる疑問に頭を一つ降って振り払ったウーヴェは、高い天井を見上げて一つ溜息を吐き、顔を正面へと戻した時、寝起きからすぐの頭でも理解できる違和感を再度感じ、血の気が引いていく音が耳の奥でうるさいほど響いてしまう。
「・・・自転車が、ない・・・!?」
その自転車はリオンが初めて得た給料で購入したという思い入れのある青い自転車で、付き合っていた当時、本当は違反なのだがその自転車で何度も二人乗りをしたことがあった。
ウーヴェにとっても青い自転車は思い入れのあるものになっていて、その自転車が無くなっている事に気付くと同時に、もしかして昨日朝食を作れないと伝えたことで朝食のパンを買いに出かけているのではと思い込みたかった心が否定されてしまう。
リオンが出て行ってしまった。いなくなってしまった。
その言葉だけがぐるぐると脳裏を巡り、振り払う様に何度も頭を振るが、髪を握りしめる様に右手で掴んだ時、意識することが無くなっていたがそれでも分かる違いに気付いて呆然と目を見張ってしまう。
確かめる事が怖くて手を頭から離すことが出来なかったが、確かめなければならないと震える呼気を吐き出して恐る恐る右手を顔の前に掲げたウーヴェの口から、声にならない悲鳴じみた声が流れ出す。
昨日寝る時にはちゃんと定位置にあった誓いの指輪が無くなっていたのだ。
リオンの自転車と右手薬指のリングが無くなっている事から考えられるのは、リオンが時間は分からないが、ウーヴェが眠りに落ちた後、黙って家を出て行ってしまったという事実だった。
「・・・っ!!」
昨夜、シャワーを浴びに行くリオンの背中から覚えた違和感は、出て行くことを決意し、それを黙っていたことではなかったのか。
だから、いつもならばウーヴェがセックスを拒否すれば思い留まってくれるのに、昨日は付き合えと言ったのではないのか。
昨日のリオンの行動の謎が、ウーヴェが寝ている間に家を出て行くことだったとすればと思考が辿り着いた時、ウーヴェの胸に芽生えたのは、出て行かれてしまった悲しみや絶望よりも腹の底が氷点下に冷え込んだと感じさせる怒りだった。
家を出る程腹が立つことや悲しいことがあったのなら、どうして声に出して言葉で伝えてくれなかったのか。
何かあれば思っていることを伝え合い、二人でそれを乗り越えようと、付き合い出して結婚するまでの間に自分達に降りかかった悲喜交々の出来事を、それでもなんとか乗り越えてきたのは、互いに支え合って一緒に生きていこうとしたからではないのか。
「────っ!!」
黙ったまま、しかも寝ている間に出て行ってしまったリオンへの珍しい程の怒りにウーヴェがこれまた珍しく舌打ちをし、床に投げ出したままのステッキを掴んでベッドから立ち上がるとベッドルームに戻り、念の為にリオンのスマホに電話を掛ける。
だが、当然ながら電話の向こうからリオンのどんな類の声も聞こえてくることは無く、少し冷静になれと己に命じたウーヴェは、ベッドにどさりと腰を落として深呼吸を繰り返す。
こんな時、リオンの行き先に思い当たる節は数多くは無く、そのうちの一つであり最有力候補であるホームへの電話はまだ早いと、時計を見て確認すると、もう一つの候補先であるリオンの幼馴染のスマホに電話を掛ける。
「・・・カインか?リオンが行っていないか?」
電話の向こうの声はまだ眠気を少しだけ引きずっている様だったが、ウーヴェの声のトーンと問われた言葉に目を覚ました様で、またいなくなったのかと問い返してくる。
「ああ・・・昨日のうちに出て行ってしまった様だ」
前回家出をしたのは、シスター・ゾフィーが亡くなった事件の時だったが、自転車とリオンがいなくなったと伝えたウーヴェに、今回の家出に関してはリオンからの連絡はないが、以前と同様、うちに来た時には連絡をするとカインが返し、連絡があればすぐに教えてくれと伝えて通話を終える。
そして、可能性は低いが仕事に関しては律儀な面もあるリオンだから連絡をしているかも知れないと、早朝だがもう起きているだろうと願いつつ父の家に電話を掛ける。
すぐに電話が繋がり、長年働いてくれている家人に父に繋いでほしいと口早に頼むと、一呼吸置いただけで父の声が聞こえてくる。
『おはよう、ウーヴェ』
「ああ、おはよう、父さん。────そちらに、リオンが行ってないか?」
おはようの挨拶もそこそこに、リオンが父さんの家に行っていないかと問いかけたウーヴェは、少しの間の沈黙を挟んで聞こえてきた言葉に目を見張る。
『・・・ここにいるぞ』
「────!」
やはりいたかと思う気持ちと、父に聞いてほしい話でもあったのかとの疑問がぐるぐると巡るが、リオンと話が出来るかとも問いかけ、憔悴していたから今お前の部屋で寝かせていると教えられて覚えた緊張を一気に解きほぐしてしまう。
「・・・そう、か・・・」
『その事で話をしたい。時間を取れるか、ウーヴェ』
「あ、ああ、うん、大丈夫だ・・・」
この後クリニックに出勤し、何とか時間を作ってみると、サイドテーブルの時計を見ながら返したウーヴェは、とにかくそちらに行ってくれて良かった、ゆっくり話がしたいからそちらに行く、だから家にいろとリオンに言い聞かせてほしい、多分今誰の話も聞かないが、父さんの言葉なら耳に入るだろうからと、この時ようやく怒りが収まって普段の穏やかな声で父に伝えると、お前も落ち着いた様で安心した、必ず伝えるし家から出ない様に誰かに見張らせておくから安心しろと返されて安堵の溜息をこぼす。
『それにしても、こんな早朝に家に来たから驚いたぞ』
「ああ…俺も、起きてリオンがいなくなっていることに気付いた。夜の内に家を出たみたいだ」
父の微苦笑混じりの言葉にウーヴェも素直に頷き、驚いたがとにかくそちらに行ってくれて良かったと、これまた偽ることの無い本音を伝えると、少しの間沈黙があり、溜息の後に問われた言葉にウーヴェが目を瞬かせる。
『昨日リオンの様子がおかしいとリッドが言っていたが、何かあったのか?』
お前との電話の後は特に何も変わった様子もなかったから意外だったと問われるが、母がリオンの異変に気付いていたことを知り、軽く驚いてしまう。
「母さんが?」
『ああ。電話の後は残業に対してぶつぶつ文句を言っていたが、クルーガー夫妻と話をした後から様子がおかしかったそうだ』
俺は気付かなかったがと、昨日の午後の出来事を父から聞かされた瞬間、ウーヴェの目が見開かれる。
「クルーガー夫妻が会社に来た…!?」
『ああ。リオンに助けられた礼を言いに来た』
俺もリオン自身も不思議に思っていたが、事件の礼だとすれば遅すぎないか、もっと早くに伝えに来る事が出来たはずだし、ヴィルヘルムをカタリーナらが看病した礼なら直接彼女に言えばいいだろうと、意味がわからんと呟きつつ父が告げた言葉にウーヴェが何だってと聞き返す。
「ヘル・クルーガーを助けた礼を、ホームでは無くわざわざリオンに言いに来た?」
『ああ。そうとも言っていたぞ』
ただ、さっきも言ったが、それに関してリオンは全く関与していないから何故だと、彼らが帰った後考え込んでいたとも教えられてウーヴェの眉が思案に寄せられる。
「・・・それは、どういう事だろうな」
『俺も分からん。あいつもかなり悩んでいる様子だった』
だからそれが関係しているのかとも思うが、とにかくリオンの憔悴ぶりが酷かったからリッドに頼んで寝かせている、今日は仕事も大した事がないから家にいると教えられて今度こそ安堵に胸を撫で下ろす。
父と母が傍にいれば黙って家を出る可能性は少ないだろう。そうなれば今日の診察を全て終えて父の家に向かっても間に合うだろうと、一縷の望みを見出したウーヴェは、兎に角自分がそちらに向かうまでリオンを見守っていてくれと、何よりもリオンの行方が分からなくなることだけを防ぎたい一心で父に伝え、朝一番の電話で騒がせてしまったことを詫びるが、これぐらいのことで気を使うなと、聞く者が無意識に安堵できるような声で笑われて素直にうんと頷くのだった。
本当ならば一刻も早く父の家にいるリオンの元に駆けつけたいウーヴェだったが、どうしても診察を断れない患者を数名診察した後、事情を手短に説明をしただけで何も言わずに頷いてウーヴェの意思を受け入れてくれたリアに頭を下げたのだが、そんなこと気にしないで良い、いつだったか、リオンがいなくなった時のあなたを間近で見ていることしかできなかったのは辛かった、だからそれに比べれば患者から苦情を言われてもどうということは無いと笑い、本当に仕事上の助手がリアで良かったと本心を零したウーヴェは、後を頼む、目処が立てばクリニックを今日は閉めてくれて良いと伝えて父の家に向かったのだ。
父の家の門を潜り、階段下に車をいつもに比べれば乱雑に停めたウーヴェは、ステッキだけを掴んで車から降り、焦る気持ちに任せて階段を上って行く。
「ウーヴェ!もう仕事は落ち着いたの?」
背の高いドアを開ける直前に内側から開き、心配そうな顔の母が自らで迎えてくれたと気付いたウーヴェの心にこの時少しだけ余裕が生まれ、溜息を零して無言で頭を上下に振る。
「・・・母さん、リオンは・・・」
「さっき起きてきて、今レオとお話しをしているわ」
起きた後、黙って家を抜け出そうとしなかった事に胸を撫で下ろしたウーヴェと肩を並べてゆっくりと二人がいる書斎に向かうイングリッドは、自転車を取り上げてあると小さく笑い、ウーヴェがその意味に気づいて肩を竦める。
「さすがに、ここから徒歩ではどこにも行きにくいか」
「ええ」
自転車で来ることはできても、街やまたそれ以外のどこかに向かうのに、その自転車がなければ大層不便だと笑う母に息子も似たような表情を浮かべるが父の書斎をノックした後に開いたドアの向こう、膝を抱えて椅子の上で体を限界まで丸めているリオンの姿に、感じていた怒りの全てを忘れてしまう。
「・・・リーオ」
「・・・・・・っ!!」
名を呼ぶと身体がびくりと揺れることが悲しくて、黙ったまま見守っている父に無言で頷いたウーヴェは、同じように見守っていると教えるように父のデスクに軽く寄り掛かかる母の視線を力に変え、顔を上げないリオンの前に静かに立つ。
「・・・リオン、話がある。聞いてくれないか?」
「・・・・・・俺は、・・・・・・ない」
「そうか。でも、悪いと思うが、俺はお前に聞いて欲しい話もお前から聞きたい話もある」
だから、お前が話をしたく無いのなら黙ったままでも良いが、せめて顔を見せてくれないかと、ステッキで己の体を支えることが辛いと思いつつも、殻に閉じこもりかけているリオンに届けと、それだけを祈りつつ呼びかける。
永遠に続きそうな沈黙が室内を満たしていくが、焦れたレオポルドが口を開こうとする直前にリオンがのろのろと顔を上げる。
「・・・・・・オーヴェ・・・」
「うん。ダンケ、リーオ」
顔を上げてくれてありがとう、それだけが嬉しいと安堵に目を細めたウーヴェは、足が疲れてしまうから椅子に座って良いかと問いかけ、無言の許可をもらった為、リオンと向かい合う位置に椅子を置いて浅く腰を下ろす。
「朝起きたらいなくなっていたから驚いた」
心臓に悪いから出来れば止めて欲しいと肩を竦めつつ軽く呟いたウーヴェに、リオンの口から流れ出したのは、底の見えない地底から響いているのかと思えるような昏い声だった。
「それぐらいで驚いてどーすんだよ」
「そうか?驚いて当然だと思うぞ」
何しろお前がいなくなったのだからと、足を組んでその膝上で手を組んだウーヴェの前、リオンの顔に今まで見たことがないような嫌な笑みが浮かび上がり、目を逸らさずに見つめ続けると、リオンが暗く光る目で肩を揺らす。
「俺なんていなくなった方が良いって」
「どうして?」
「・・・・・・ゾフィーの親みてぇに、俺の親もロクな奴じゃなかった」
その事実はきっと清廉潔白なお前や親父達にも迷惑をかける事だと、片膝を引き寄せて額を押し当てるリオンの言葉にレオポルドとイングリッドが顔を見合わせるが、二人の前でウーヴェが眼鏡の下で目を細める。
「・・・・・・ヴィルヘルム・クルーガーとハイデマリー・クルーガーがロクな人達じゃないと言うのか?」
「!!」
ウーヴェのその言葉にリオンが勢いよく顔を上げ、何故それを知っていると言わんばかりに目を見開くが、ウーヴェがサマージャケットの内ポケットから取り出した封筒をリオンの足にそっと置き、これが昨日クリニックに届いたとだけ答えられて瞬きを忘れたようにウーヴェを正面から見つめ続ける。
「・・・父さん達なら話しても大丈夫だろう?」
「・・・・・・」
リオンの無言を肯定と受け取ったウーヴェが、己をじっと見つめる三対の視線の中、その封筒を二本の指で挟んで持ち上げると、先日、ノア・クルーガーとリオンとの血縁関係を調べたが、二人は同一の夫婦から生まれた紛れもない兄弟だと判明したと、目には見えない爆弾を静かな声で落下させる。
「リオンとノアが兄弟!?」
「・・・・・・じゃあ、昨日会社に来た彼女が・・・」
リオンをホームに捨てた親なのかと、レオポルドとイングリッドの驚愕の声にウーヴェが静かに頷き、リオンが抱えた膝をきつく抱きしめる。
「────それだけじゃないぜ」
ウーヴェの落とした爆弾が完全に弾けた後、リオンが膝を抱えながら不明瞭な声で三人に告げたのは、昨日知った驚愕の真実だった。
「・・・・・・ヴィルヘルム・クルーガーは・・・俺の親は、人を殺し、罪を償う事なく逃亡した」
「!!」
リオンの口から語られる真実は流石に誰も予想していなかったもので、ウーヴェも驚きつつも平静さを保とうと深呼吸をし、それをどこで聞いたと問いかけると、リオンがより一層暗い表情で顔をあげる。
「ホームでゲオルグというおっさんから聞いた」
亡命した人達が生活する施設で知り合った同年代の男を殺した上、遺体の処分をホームに出入りしていたゲオルグに依頼し、生まれた俺をホームに捨てた後に二人揃ってウィーンへと逃亡した、もちろん、さっきも言ったように罪を償っていないと、まるでその現場を目撃していた人のような顔で笑ったリオンは、人を殺し罪を償うこともせず、生まれたばかりのガキを捨てて逃げるような最低な奴が俺の親だった、こんな俺と一緒にいない方が良いだろうと、ウーヴェに向けて吐き捨てる。
その言葉を目を半ば伏せたウーヴェが受け止めた証に一つ頷いてゆっくりと立ち上がったかと思うと、リオンが座っている椅子の肘置きに両手をついて顔を近づける。
「────それがどうした」
「・・・・・・っ!!」
ウーヴェのその言葉に呆然と顔をあげたリオンは、こんな表情は初めて見ると驚き口を開こうとするが、初めてではない、いつかどこかで見たことがあると脳味噌が危機感を持って悲鳴を上げる。
いつだ、いつこのような顔を見た、それを見た時何があったと、リオンの脳味噌がフル回転した結果、季節の花々に囲まれた、拳銃の暴発で負った傷が目立たないように化粧を施された少女の顔が浮かんでくる。
ブラザー・アーベルを天使様と慕ってずっと側にいたノーラという少女の葬儀の直前、ウーヴェのクリニックに駆け込んで抑えきれない本心を爆発させた時に見た顔だと思い出したリオンだったが、なあ、リーオ、教えてくれ、それがどうしたと再度問われて無言で唾を飲み込む。
普段、人に不愉快な思いをさせる言動を滅多にしないし、脅迫じみた事も殆ど言わないウーヴェだったが、リオンを間近で見下ろしながらそれがどうしたと呟く声に籠っているのは、誰が聞いても分かるほどの怒りだった。
ウーヴェを心の底から怒らせたと気付いたと同時に、怖気付く己など認められずに見下ろしてくる双眸を睨み付けると、前に何度か話したことがあったと思うが、覚えていてくれていないのか、それはそれは悲しいなと、リオンの背中に嫌な汗が流れ落ちる声音で笑ったウーヴェは、両親ですら呆然としてしまうほどの冷めた声でリオンに問いかける。
「お前の両親が一廉の人物であろうがそうでなかろうが関係がない、そう言わなかったか?」
なあどうだ、つい最近その話をしたと思うが、もう忘れてしまったのか、もしそうだとすれば若年性の認知症の心配があるから脳神経外科が専門の医者を紹介しようかと、普段のウーヴェならば絶対に言わないような言葉を立て板に水のように吐き出され、流石にリオンの逆鱗に触れたのか、お前に何が分かると、至近距離で睨み合いながらリオンが拳を握る。
「生まれた時から全てを持っていて、一人で生きている様な顔をしても実際は親父や兄貴らに護られて来たオーヴェに何が分かるんだよ!」
「・・・・・・そうだな」
リオンの言葉に一瞬ウーヴェの双眸に強い光が浮かぶが、確かにそうだと肯定すると、理解のある親兄弟がいて苦労らしい苦労もせずに今まで生きることができたお前に何が分かると、これもまた普段ならば絶対に言わない事を堰を切ったように捲したてるが、顔色を変える事なくじっと睨んでくるウーヴェに苛立ちを感じたリオンは、妊娠中に妻をレイプされ、生まれた俺をゴミか何かの様に捨てるサイテーな男が俺の本当の父親だと叫ぶ。
リオンが叫んだ真実にただ傍観するしかなかったレオポルドとイングリッドが顔を見合わせて息を飲むが、そんな空気の中でもウーヴェは顔色を変えずにじっとリオンを見つめ続けていた。
「・・・・・・どうして・・・っ」
どうして俺が、生まれた直後に死ぬ様な目に遭わなければならない。何故、10ヶ月もの間、その体内で命を育てた母とそれを見守り支えていたであろう父に捨てられなければならなかった。
ウーヴェの視線に耐えきれなくなった様に握りしめた拳に顔を伏せたリオンは、妊娠中の出来事など俺のせいじゃない、なのに何故捨てられたと悲痛な声で吐き出した後、何故ノアは、あいつはどうして生まれた事を祝福され、ただ一人の自慢の子供だと言われるんだと、消え入りそうな声で今まで誰にも聞かせたことがない声で呟く。
「リーオ・・・」
「産んですぐに捨てるぐらいならさ、レイプされた時に堕ろせば良かったんじゃねぇの?」
犯人を殺したのだ、もう一人ぐらい殺す事などどうということはないだろうと、静かに顔を上げてウーヴェを見上げたリオンは、何故か泣きそうな顔で見下ろされている事に気付き、何でお前が泣きそうなんだと笑ったつもりだったが、唇の端が嫌な角度に少し持ち上がっただけだった。
「・・・お前を捨てた二人には言いたいことは色々ある」
お前が今ここで吐き出した真実についても、それ以上にお前を捨てた約10年後にノアを産み、自分たちの子供は彼だけだと断言するのかも聞きたいが、それ以上に今言いたいことはただ一つだけだと、顔色を変えずに伏し目がちに呟いたウーヴェは、しっかりと視線が重なる様に顔を寄せ、見開かれるロイヤルブルーの闇に向けて微かに震える声で呼びかける。
「お前は何も悪くない。生まれてきたお前に罪はない」
「────!!」
「生まれて来たのが悪いんじゃない。お前は本当に、何も、悪くない・・・っ!」
だから、産む前に殺せば良かったなどと言うなと、さっきまでの激情を内包しつつも、ウーヴェだけが持つ優しさや強さを全て引っ括めた声でお前は悪くないと何度も繰り返す。
「オーヴェ・・・っ」
「お前は悪くない。生まれて来たことが悪いなど、そんなものは大人の体の良い言い訳だ」
己の行いを、罪を直視する勇気の持てない大人が押し付けた言い訳に過ぎない、そんな言葉にお前が囚われる必要はない。
リオンの目を覗き込みながら心の奥底で膝を抱えたまま俯いている幻影の様な、だが確実に存在するもう一人のリオンに届けとばかりに語りかける。
もう、大人が生み出した罪を抱えたまま生きる必要はないと、リオンの様子が落ち着いたのを見計らってリオンの頬を震える手で挟み、いつもと同じに額に額を重ねたウーヴェは、やっと姿を見せた本当の、誰も見たことがないであろうリオンを離さないと教える様に目を閉じる。
「────俺の、リオン・・・。もう、一人で苦しむな」
「・・・・・・っ!」
「親の罪など、お前が背負う必要はない」
お前が負わなければならないのはお前の行動の結果だけで、他の誰の罪も背負う必要はない、だから黙ったまま家を出て行く必要はないと、最も伝えたかった言葉を震える呼気混じりに伝えたが、リオンの口から流れ出したのは、お前に相応しくない、迷惑をかけるとの悲しい言葉で、目を覗き込める距離まで顔を離すと、さっきの言葉を聞いていなかったのかと先程とは打って変わった印象を与える優しい声で同じ言葉を目前の双眸に届ける。
「・・・・・・で、も・・・・・・」
己の出自がウーヴェに迷惑を掛けるのではないか、それを恐れるリオンの言葉にウーヴェがふっとひとつ息を吐いた後に戯けた様に肩を竦めると、呆然と見つめてくるリオンに笑いかける。
「お前を今まで一度たりとも子供だと呼んだこともない親とやらがした事で俺に迷惑がかかるなんて事はない」
「・・・・・・」
「ああ、それと会社に迷惑もかかると思っていると言っていたな?」
「!」
ウーヴェがまるで睦言でも囁くような声音で問いかけるそれにリオンが目を見張り、今までただ黙って様子を見守ってくれていたレオポルドとイングリッドの顔を交互に見つめる。
「心配してくれるのは嬉しいが、一従業員の、遺伝子上の繋がりしかない親がしでかした事でバルツァーが揺らぐはずもない。そうだな、父さん」
「あ、ああ、そうだ」
不意に呼び掛けられて慌てて返事をしたレオポルドの横、イングリッドも胸の前で手を組みながらそうですよと、ウーヴェにも受け継がれている穏やかな笑みを浮かべる。
「貴方と何の交流を持たなかった人達の過去で会社がどうにかなる訳がないでしょう?」
レオとギュンターが育てたバルツァーはそんな小さな会社ではないと、働いてからそれを実感した事を思い出せと、鈴を転がしたような軽やかな笑い声と笑顔で頷かれてリオンが瞬きを繰り返す。
言葉は居丈高なものなのに反発を覚えることがないのは、三人の顔に浮かんでいるのが己を本心から気遣う気持ちだと理解した瞬間、リオンの全身から力が抜ける。
「素直じゃない俺も好きだが、素直な俺はもっと好きといつも言っていたな?」
脱力し椅子から滑り落ちそうになるリオンを支えるように身を寄せたウーヴェは、いつも言われていた言葉を優しい口調で囁きかけた後、いつもに比べれば血色の悪い頬にキスをする。
「────お前がいてくれる、それだけで良い」
「・・・っ!!」
「お前がいない世界など興味はない。ああ、そうか。俺が入院している時、お前もこんな気持ちだったのか」
足を悪くした事件の際、お前が一緒に死のうと言ったのはこの気持ちからだったのかと、やっと理解できたと笑って鼻の頭を軽く触れ合わせるキスをすると、綺麗な笑顔でリオンを見つめる。
「マザー・カタリーナやシスター・ゾフィーらに育てられた、誰よりも手の掛かる悪戯ばかりをした悪ガキだったが、立派な刑事になって今は俺の大事な人を守る仕事に就いている、そんなお前がここにいる、それだけでいい」
そんなお前を愛していると、腹の底が冷えるような怒りの根源であり、常に変わらない思いであるそれを伝えたウーヴェは、室内に落ちた静寂に羞恥心を呼び覚まされたように咳払いをし、さっきも言ったが、お前一人が全てを抱え込む必要は無いんだと告げ、ああ、足が少し疲れたと言い訳をしてから椅子に腰を下ろすと、リオンがずるりと椅子から滑り落ちてしまう。
「おい、リオン!」
「・・・一人で考えたい・・・・・・」
「ああ、そうだな」
床に座り込むリオンに駆け寄ろうとしたレオポルドだったが、聞こえてきた小さな声に浮かした腰を下ろして吐息交じりに頷く。
「俺たちはリビングにいる。気が済んだら出て来い」
「・・・・・・」
イングリッドがレオポルドの腕にそっと手を乗せて合図を送り、それに気付いたレオポルドが咳払いをした後、そっと書斎を出て行く。
その二人の姿を見送ったウーヴェは、ふぅと息を大きく吐いた後、俺の指輪を持っているかと問いかけ、リオンの手がジーンズのポケットからリングを取り出すのを見守る。
「・・・・・・持っていてくれないか、リーオ」
「え・・・?」
今は返さなくていい、その代わりと告げつつ立ち上がり、リオンの右手を掴んで驚きに瞠られる目の前で薬指の指輪を抜き取り、そこに己のものをそっと嵌めていく。
根元まで入らずに関節で止まったそれに仕方がないと肩を竦め、たったいま抜き取った一回り大きな指輪を定位置に嵌めると、落とさないように気をつけつつ掌を天井に向ける。
「今更だけど、お前の大きさがよく分かるな」
リングのサイズだけではなく、毎日ネクタイを結ぶ時に触れるシャツのサイズや靴のサイズなど自分よりも大きいが、俺ならば押し潰されてしまうような過去を抱えても尚、今ここにこうしていてくれる、その強さにも似た大きさだなと改めて気付いたように笑うウーヴェをぼんやりと見上げたリオンは、己の右手薬指の途中で居場所がないように留まっているリングを落とさないように拳を握る。
「俺もリビングにいる」
喉が渇いたり腹が減ったりほんの少しでも気が済んだらリビングに来いと、リオンのくすんだ金髪にキスをしたウーヴェは、信頼の証を笑顔で示すと書斎を出ていく。
無言の信頼を見せられ、呆然とウーヴェを見送ったリオンは、右手薬指のリングの冷たさと、さっき何度も伝えられた、お前は悪くない、一人で全てを抱えなくてもいいとの言葉が脳裏を巡り、その息苦しさに堪えきれずに体を丸めると、そのまま床に横臥するのだった。
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2020.04.27
さて。頑張れ、みんな。


