Die Sonnenblume -pro-

Über das glückliche Leben(ÜGL)-Lion & Uwe -

クリスマスイブの夜、ミサを行なっている教会のぼんやりとした灯りを背中に受け、神聖なイブの夜にしては硬い表情の若い男女が、薄く積もる雪を無意識の顔で踏み潰していく。
 男の肩には小振りのショルダーバッグがあり、足元の雪とは違い、それが彼にとっては何よりも大切なものであるかのように手を添えていた。
 その隣で同じ速さで歩く女も似たようなサイズのバッグを斜めに掛けていたが、大きな丸い眼鏡を吐く息で曇らせてしまい、慌てて外して袖でレンズを拭う。
 この国で買うことのできる精一杯のおしゃれな眼鏡だが、少し離れた位置でシルエットになっている壁の向こう側ではもっと素敵な眼鏡やそれ以外のものが溢れているのだろう。
 そう思うと己の境遇が突如として虚くなり、それを霧散させるために息を吐くと、白い息で何かに気づいた男が澄んだ蒼い瞳を向ける。
 『・・・大丈夫か?』
 『ええ。平気。怖いなんて言ってたら折角のチャンスが台無しだわ』
 こんなチャンスは二度と訪れないだろうと、この後自分たちが起こす行動とその結果が途轍もない恐怖を感じさせ一瞬だけ寒気を覚えるが、己を奮い立たせる武者震いだと自身に言い聞かせ、隣の頭一つ分高い位置にある端正な顔を見上げる。
 『もうすぐ教会ね』
 『ああ・・・・・・もうすぐ、僕たちは自由だ』
 この辛気臭い、何とも言い難い空気が充満している国と別れられると、二人で歩いて来た道を振り返った男は、遠くに人影を発見して身構えてしまうが、靴紐が緩んだのか何なのか、その場にしゃがみこんだのを見て胸を撫で下ろす。
 二人が目的地にしている教会のシルエットが降り始めた粉雪の向こうに霞み、安堵すると同時に先程の身体の震えの原因となった思いが再び芽生え、女が男の腕に腕を絡めて身を寄せる。
 女の不安が男にも伝わったのかどうなのか、二人の身体が震え始めるが、それを押しとどめる様に女が顔を上げてニット帽を被った頭を振った為、くすんだ金髪がふわりと粉雪を周囲に散らすように広がる。
 『・・・行こう』
 私とあなたの未来の為に今こそ行動を起こすべきと、身体の震えを掻き消すように言葉で己を鼓舞した女は、己の言葉に不安を力強さに置き換えた男の顔に満足そうな笑みを浮かべ、行こうともう一度男に誘いの言葉を投げかけると、返事の代わりに男が女の紅潮した頬にキスをする。
 『ああ、行こう』
 自分たちの未来の為にと、彼女の言葉を繰り返して頷いた男は、同じ顔で頷く彼女の頬に再度キスをし、粉雪の向こうから自分たちを明るい未来へと導いてくれる教会の扉に手を掛け、ミサでそれなりに賑わう聖堂の中へと足を踏み入れるのだった。
 そんな二人の姿を、少し離れたビルの陰から呆然としたような顔で一人の男がじっと見つめている事に、自分たちの将来だけを見つめていた二人は気付かないのだった。

 

  

 『・・・本当の事を言えばどうかね?』
 『だから・・・僕は何も知らない・・・っ』
 リノリウムが一面に敷き詰められた小部屋の中央に薄汚れた木のテーブルと同じく汚れている木の椅子があり、その一つに身体を縮める事で己の前にある、人の顔をした暴力から逃れようとしている青年がいた。
 その青年の前には複数の写真と調査書類らしきファイルが乱雑に置かれ、そんなものは見たくないと青年が目を背けるが、目の前の男とは別の男がそんな彼の背後に静かに立ち、ファイルを見ろと髪を掴んでファイルに顔を押し付ける。
 『!!』
 『この二人が西側の協力で亡命した、それを君は知っていたのだろう?』
 何しろ君はこの二人と同じ学校に通い、学校が終わった後は一緒に遊ぶほど仲が良かったのだからと、顔をファイルに押し付けられて苦悶に歪める青年に場違いなほど穏やかな声で問いが発せられ、仲は良かったが亡命するなど聞いていなかったと、何とか保身の言葉を並べ立てる。
 『おや、そうなのか。亡命計画を教えてもらえないほどの仲だった、ということかな』
 『────!!』
 『学生時代の友情なんてそんなものかも知れないねぇ』
 こちらは相手を信じて何でも話していたのに、相手は君が思うほど君を思っていなかったみたいだ、残念だねと、粘着性のある湿り気を帯びた吐息を吹き付けられてそのおぞましさに自然と身体が震えてしまうが、そんな事はないと、数日前までは間違いなく友人だった二人を庇う様に否定する。
 『そうかね?』
 疑問形で己の思いを否定され、疑うように言葉に出さずに促されて茶色の双眸を見開いた青年は、本当にそうだろうかと自問し、目の前の男が話すようにお互いを信じていたなど幻想に過ぎなかったのではないかと、小さいながらも決して目を背ける事のできない思いを心の中に芽生えさせてしまう。
 『教えてくれていればこんな目に遭わずに済んだのになあ』
 恨むのならば友人だったあの二人を恨めと、男が笑って席を立った直後、青年の文字通り目と鼻の先に不気味に光るバタフライナイフがつき立てられる。
 『────!!』
 『今からもう少し詳しく話を聞かせて貰おうかな』
 さあ、彼方の部屋に移動しようとナイフを抜きつつ笑う男を怯えた目で見つめた青年は、背後の男に有無を言わさない強さで引っ張り上げられるが、足が震えて立ち上がることが出来なかった。
 それに苛立ちを感じたのか、男が青年が座っていた椅子を蹴り飛ばし、支えを失った青年の尻がリノリウムの床に落下する。
 『痛っ!!』
 『────早く立て』
 『!!』
 見下ろしてくる二人の男の顔には表情はなく、ガタガタと震える身体に何とか力を込めようとするが、青年が自ら立ち上がるよりも先に男の腕が青年の胸倉を掴んで引きずり起こす。
 『止めてくれ・・・・・・っ!!』
 『話を聞くだけですよ』
 今は貴方が立ち上がれないようだったので手助けしたまでですと笑い返され、小刻みに頭を左右に振った青年は、今度は腕を掴まれていつの間にか開けられていたドアから引き摺り出されてしまう。
 『嫌だ・・・・・・!』
 『・・・そちらの部屋では好きなだけ叫んでも大丈夫ですよ』
 何しろその部屋は秘密の話をするのにうってつけの部屋ですからと、開け放たれたドアに寄りかかりながら男がにこやかに青年に笑いかけ、その笑顔から己の未来を読み取った青年の意識が遠退きそうになる。
 『取り調べの後裁判がある。────目立った傷を付けるな』
 先程まで青年に語りかけていた口調とは全く違う、血も涙もないのかと疑いたくなるような冷酷な声でもう一人の男に語りかけた男は、引きずられていく青年の背中を見ながらマルボロー西側から密輸したものーに火をつける。
 隣の部屋のドアが閉まり、マルボロをフィルターギリギリまで吸った男は、隣の部屋の扉が開いた事に気付いて中を覗き込む為に移動する。
 『やり過ぎていないな?』
 『大丈夫ですよ』
 そんなヘマはしませんと肩を竦める部下に労いの思いを込めてマルボロを差し出した男は、ありがたく受け取る彼に火を貸し、己ももう一本タバコを加えるが、火をつける前に部屋を覗きこんで口笛を吹く。
 『後で誰か呼んで運んでおけ』
 『Ja』
 部屋の中の様子にもう興味が無い顔でタバコに火をつけた男は、ドアを閉める部下の体の脇からもう一度だけ室内に目をやり、部屋の隅で起き上がる力もない顔で横たわっている青年に目を細め、特に何の感慨を抱くこともなく閉められるドアを一瞬だけ見つめるのだった。

 

 

 

 青年が秘密警察の取り調べーと称された拷問を受けてから約ひと月後、証拠不十分だという理由で釈放されー正確には文字通り自宅前に荷物よろしく投げ出されーた。
 秘密警察に連行されてから青年の母がいくらその身を案じて秘密警察に息子に面会させてくれと願い出ても許可が降りなかったが、半死半生の体で釈放され自宅前で放り出されたのを目の当たりにし、青年の母が半狂乱になって息子の名を叫ぶ。
 その騒ぎを聞きつけた周囲の人達が家の窓から様子を窺うが、秘密警察絡みの怪我だと知った途端、無情にもカーテンを閉めて自分に害が及ばないように無関係を装ってしまう。
 周囲の冷たい目に晒された母と息子は、何とか互いに支えあって家の中に入ると、青年が自室に引き篭もってしまう。
 息子の身を案じて帰りを待っていた母は、息子が部屋から出てもろくに会話も出来ない、大きな声や物音に恐慌状態に陥る様に長い間心を痛め頭を悩ませ続けるのだった。
 母が己の事で悩んでいる事に気付いていた青年だったが、拘束されている間に受けた心身に与えられた拷問が精神を蝕んでいた為、他者を思いやる余裕など一切なかった。
 その時、青年の中にあったのは、国や友人を裏切って亡命した友人への憎しみだけだった。
 親友だと思っていた友人に裏切られた事、ひと月前までは仲良くしていた近所の人達の冷たい仕打ちなどを経験し、二人が亡命しなければこんな事にはならなかったのにとの想いだけが胸の中に溢れて行く。
 秘密警察の男に言われた通り、こちらが思うほどあちらは思っていなかったのだなと、青年の頭が冷酷な呟きを発するようになるまではそう時間は必要なく、その境地に達した青年が、それまではなかった皮肉げな笑みを浮かべるようになってしまう。
 『・・・いつか、もし会う事があれば・・・』
 その時はこの思いを少しでも感じ取って貰おうと、取り調べの際に痛めた足を引きずりながら母がいるリビングに向かい、二人で静かにテレビを見、心身に受けた傷に少しずつ蓋をしていくのだった。
 その際、友人だった二人の存在にも蓋をしてしまうのだった。

 

 

 『逃げられると思うのか?今ここから逃げれば、お前は生涯全てのものから逃げ出さなければならないぞ?』
 靄がかかった様にはっきりとしないリノリウムの床の小部屋で、薄汚れた机を挟んだ向かい側に、人間の筈なのに目も鼻も何もないのっぺりとした男–だと思われる声の主が、壁を越えて逃げたとしてもその先の人生、全てのものから逃げ出してしまう事になるぞと、背筋に嫌な汗が流れ落ちそうな声で彼女に笑いかける。 
 『お前の両親や祖母も悲しむ。ああ、アパートの隣の幼馴染もきっと悲しむだろうな』
 生まれ育った素晴らしい祖国を捨てて、堕落しきったあの国に逃亡するなんて、今までお前を可愛がってくれた人達に後ろ足で砂をかける様なものだな、いや、文字通り唾を吐く事になると、机のこちらに向けて粘着質の、決して逃げる事など出来ないと思い込ませる様な声が制止にかかる。
 嫌だ、例えどれほど愛してくれた両親であろうと祖母であろうと、物心ついた頃から遊んでいた幼馴染を悲しませる事になっても、私は彼と一緒にこの国を出る。壁を乗り越えるんだと、声にならない声で叫んだ彼女は、粘着質の声が腕という形を得たかの様に迫ってくる事に顔を引きつらせ喉の奥で悲鳴をあげる。
 その声に今日が具現化した腕が肩を掴んで揺さぶった為、更に恐怖が倍増し喉の奥で息が詰まって声が出なくなる。
 声が出ない、息が出来ないという生理的な恐怖が増幅された結果、彼女は全身で悲鳴を発してしまい、不意に靄が晴れてロイヤルブルーの双眸が闇の奥から覗き込んでくることに気付き、縋るものがそれだけだと言う代わりに無意識に手を伸ばす。
 『・・・大丈夫か?』
 『────!!』
 暗闇の中でも分かる蒼い双眸を頭の何処かで綺麗と思いつつも、今己の置かれている状況を咄嗟に理解出来なかった彼女の口から震える悲鳴が小さく流れ出す。
 心配そうに彼女の震える身体を抱きしめて大丈夫かと問いかけたのは、狭いベッドの中で真夜中に寒さ以外の理由で彼女の身体が震えている事に気付いて目を覚ました男だった。
怖い夢でも見たのかとの想いから安心させる様に背中を撫でると、押し殺した小さな悲鳴が口から流れ出す。
 『マリー!』
 『ウィル!・・・シュタージが・・・っ!』
 『大丈夫だ、マリー。ここに奴らは来ない』
 だからもう心配ないと、冷や汗を浮かべてガタガタ震える彼女を抱きしめ、まだほんの数日前なのに、遥か遠くの過去の様に思い出される出来事を脳内で反芻したウィルは、粉雪が舞う聖夜に己が彼女と手を取って起こした行動を再度反芻し、震える体を強く抱きしめる。
 聖なる夜のミサが終わると同時に教会で待機していた支援者の手を借り、この街から亡命する事にしたのだ。
この街は先の戦争に勝った者の特権とばかりに分割統治され、その後、世界は西と東に分かれて三度の世界大戦に向けて動き出そうとしていた。
 その結果が、本来なら一つだったこの街を西と東に分けてしまい、ある日突然有刺鉄線で街が分断されたのだ。
 当時の人達が成り行きを不安そうに見守る中、気が付けば壁が街の中に張り巡らされ、その壁を乗り越えようとした人達が同胞–今思えば何て不愉快な言葉だろう–に射殺され、川で溺れた者も見殺しにされてきたのだ。
 そんな数多の同胞の犠牲の上に自分達二人が立ち、こうして西側に無事に亡命できているのだと気付き、大それた事をした反省と己の夢の為にやり遂げた達成感も覚えるが、不意に夢の中の筈なのに実感を伴った湿り気を帯びた冷たい視線を思い出すと、腕の中でまだ震えている彼女のそれが伝播した様に体が震え始める。
夢にまで見ていた西側に一歩足を踏み入れた瞬間に二人が感じたのは、亡命出来た事への安堵と同時に、厄介ごとを持ちこむ可能性の有無を測る様な、陰湿な冷気を滲ませたいくつかの視線だった。
 その視線に気付かないフリをしながら、逃れられた安堵に足の力が抜けかけている彼女を支え、支援者が用意してくれた亡命施設–と言っても簡易宿泊所に毛が生えた様な質素な家–へと転がり込み、先程よりは少しマシな、それでも腹の中を探られる気持ち悪さを感じさせるスタッフの歓迎を受けたのだった。
 それから数日が経ったが、今になって自分たちが人類最悪の罪を犯した様な気持ちが芽生え、先日までいた国とは全く違う音楽と映像を流すテレビを見る事も出来なくなっていた。
 偶然見たテレビで、祖国のニュースを取り上げる時、国の非道性を訴える為に敢えて残酷な現実を見せつけることがあり、もしも、ロクに挨拶もせずに別れた友人達がその番組の中で取り上げられる秘密警察の取り調べを受けていれば、と思うとひどく他愛も無いニュースですら見ることができなくなっていたのだ。
 秘密警察の取り調べはひどい拷問を伴うものだと聞いたことがあったし、実際取り調べを受けて戻ってきた近所の青年が、数日後に首を吊って死んでいるのを見たこともあった。
 そんな過酷な取り調べを友人達が受けていると想像するだけで、己は今ここで生きていてはいけないのでは無いか、全人類を敵に回してしまっているのでは無いかという恐怖を感じるが、どうやらそれは彼女も同じだった様で、その思いが、亡命に成功した自分たちは誰にも許されずに地獄に落ちるのではないかとの恐怖から夢に魘されていたと教えられ、もう大丈夫だと繰り返して手触りの良いくすんだ金髪を優しく撫でる。
 『もう大丈夫だ。僕たちは亡命に成功したんだ』
 あの陰湿で陰険な人々が親兄弟友人など関係なく監視し密告していた国から、誰にも監視されることのない自由の国へと亡命出来たのだからと、己の恐怖や不安を押し殺しながら彼女を安心させるために強く囁いた男は、彼女の身体から震えが徐々に薄れていくことに気付き、安堵の溜息を胸の内で零す。
 『でも・・・追いかけて来ないかしら・・・』
 『どう、だろう。でも、有名でも何でもない一般市民の僕たちを追いかけて来るほど奴らは暇じゃないと思う』
 だから、今はその恐怖に怯えるのではなく、亡命したこの国で真っ当に、生まれた時から持っているはずの権利を行使して生きていこうと、彼女の気持ちが少しでも前を向き恐怖を忘れてくれるのならばと彼が必死に落ち着いた声で囁き、だからどうかいつもの強気で元気な顔を見せてくれとも囁くと、腕の中で彼女の震えが完全に治り、背中に回された腕に力がこもる。
 『そう、よね』
 『ああ、そうだ』
 せっかく自由になる為に、誰にも監視されずに好きなことを好きな様にできる此方側に亡命したのだ、恐怖に怯えて縮こまり、何も出来なくなるなんて己が許せないと、悪夢の恐怖を払拭したかの様な声に彼も心底安堵し、その通りと己を鼓舞する様に彼女にも力を分け与える。
 『泣き言を言う暇があれば絶対に成功するわ』
 この国で有名になり、亡命と言う究極の罪を犯した自分たちを糾弾する者がいても揺るがない程の地位を手に入れようと、物理的に壁を超えた瞬間に抱いた野望を口に出し、己の、少し気の強いが心根は優しい彼女がいつもの様に強気な笑みを見せてくれるのを願った彼は、己の胸に両手を充てて少し距離を取った後、腕で顔をぐいと拭った事に蒼い目を見張り、くすんだ金髪が犬か何かの様に勢いよく左右に振って望んでいる笑みを浮かべた顔に気付いて自然と彼女の身体を抱きしめる腕に力がこもる。
 『そうよね。そうよ。絶対に有名になって奴らの手が届かない様になるんだから!』
 『そうだ。僕は写真で成功する。君は女優になる』
 だから、アカデミー賞を取ったら真っ先に僕が写真を撮ると笑って細い背中を抱きしめれば、その気持ちに応えてくれる様に力がこもった腕が再度背中に回される。
 『だから・・・その夢が叶うまで・・・ごめんなさい』
 自分達二人が手を取り親戚や友人を見捨てて亡命したことを許してくれと、抱き合いながら自然と謝罪をした彼女に彼も寄り添う様に頷くが、もう二度と泣き言は言わない、夢が叶うその瞬間まで足を止めないと、己の決意を強い口調で告げる彼女の頭に頬を当て、そうだ、一緒に頑張ろうと告げつつ彼女の身体へと薄い毛布を引っ張り上げて掛けてやると、毛布よりも暖かな腕が彼の腰に回される。
 『明日から頑張ろうね、ウィル』
 『ああ。頑張ろう』
 亡命することで多大な、言葉では言い表せない迷惑をかける人達が当然いるだろうが、いつか、いつの世か街を隔てていた壁が壊される日が訪れ、西も東も関係なく人々が笑顔で行き来できる日が来た時にその人達と再会できれば詫びようとひっそりと話し合い、その夜は再び眠りに落ちるのだった。

 

 

 その日から数ヶ月後、二人は仕事を斡旋してくれる男と、難民施設で知り合った同年代の細身で長身の男とともに、仮の宿であった施設を出て行く事になる。
 彼らが向かったのはドイツ南部の国内でも有数の大都市で、二人が夢を叶える為の足がかりになりそうな映画祭や写真のコンテストなどが行われることを、もう一人の男が雑誌などから情報を得た為、三人で南部に向かう事にしたのだ。
 その話を世話をしてくれていた人達にした所、人手が欲しいから一緒に来ないかと、仕事の斡旋をしている男が三人に声を掛け、絶好のチャンスだとばかりに男と一緒に南部に向かう事にしたのだった。
 辿り着いた街でどんな出来事が待っているのかなど当然ながら三人に予測できるはずも無く、ただ己が思い描く夢を叶える為に今はがむしゃらになるしかないと腹を括り、縁も所縁もないドイツ南部への移住を決定するのだった。

 

 

 あの日とは違って晴れ渡る初夏の空を見上げ、サングラスの下で眩しそうに目を細めた女性の側、ティアドロップ型の薄い色のレンズが入ったサングラスを額に押し上げた長身の男性が同じく眩しそうに目を細める。
 「・・・やっと、来る事ができたわね、ウィル」
 「そうだね・・・予想以上に時間が掛かってしまったけど、来る事が出来たな」
 あの日、二人で夢を叶える為にどんなことでもしようと誓い合い、二人の人生の中で最高の喜びと最大の苦痛を経験したこの街に戻って来たと感慨深げに呟く彼女に彼も同じ顔で頷くと、無意識に彼女の肩に腕を回して抱き寄せる。
 「どうしたの?」
 「・・・マリー、助演女優賞ノミネートおめでとう」
 今では遥か遠い昔、壁を越えた夜に二人で決めた夢の行く末、漸く一つの形として結実した夢がもうすぐ手に入るが、今の気持ちはどうだと戯けつつも真剣な顔で問いかけた彼は、少しの沈黙の後に頬にキスをされて目を瞬かせる。
 「私のノミネートよりウィルの受賞の方が嬉しいことよ」
 「まだ受賞が決定した訳じゃないけどね」
 二人で懐かしい気持ちになりながら一軒のカフェの前を通り過ぎた時、店内にいた女性客らが二人に目を向け、彼女を見て驚きに目を丸くし、カフェの店内に貼ってあったポスターと彼女の顔を見比べる。
 「あら、ほぼ受賞間違いなしでしょう?」
 「そのつもりだけど、どうだろうね」
 賞を貰えることは己が今まで文字通り命を賭けてやってきたことが認められた証でもあるが、賞などもらっていなくても良い写真を撮る人は沢山いると肩を竦める彼に同じく肩を竦めるが、通り過ぎる人達が彼女の顔を再確認するように振り返るのを尻目に、待ち合わせのホテルのエントランスに到着した為、くすんでいても美しいブロンドの髪を搔き上げる。
 「喉が渇いたから何か飲みたいわ」
 「ラウンジで待っていればすぐに分かるだろう」
 「そうね、そうしましょう、ウィル」
 ドアマンが開けてくれるドアを潜り、サングラスを外して彼の手に預けた彼女は、世界でも名の通った老舗ホテルのロビーをぐるりと見回すが、自身に集まる視線など意に解さない顔でウィルと呼んだ長身の彼を振り仰ぎ、昔と全く変わらない笑顔でラウンジへ行こうと誘いかける。
 「もうすぐノアも来るかしら」
 「さっきメッセージが届いていたからね。もうすぐ来るんじゃないかな」
 ラウンジの入口で丁寧に頭を下げるスタッフに笑顔で奥まった席を指し示した彼女は、もう一人来るからとも伝えて少し広めの席に通される。
 二人が待っているのは将来が有望視されている若手写真家で、登竜門的な写真家の賞を見事に勝ち取った青年、ノア・クルーガーで、久しぶりに会えることを二人も楽しみにしていたのだ。
 席に着いた二人にスタッフが僅かに緊張した面持ちで注文を聞きに来た為、ノミネート記念だと笑った彼がスパークリングワインを二つ注文する。
 「ノミネートでワインだったら受賞したらもっと美味しいお酒を飲ませてくれるのかしら?」
 「そうだね・・・とっておきのワインと料理なんてどうだい?」
 ソファにゆったりと座り足を組んで頬杖をつく彼女の言葉ににこやかな笑顔で頷いた彼は、注文したワインとチーズが運ばれて来たことに気づいてスタッフに目を向けると、ノミネートおめでとうございますと笑顔で祝福の言葉を伝えられて条件反射のようにありがとうと返す。
 「映画祭は来週ですね」
 「そうね。少し時間が取れたから早く来ちゃったわ」
 だからここのホテルでお茶をする時間ができたのと笑ってスタッフと話す彼女に頷いていた彼は、入口で人を探しているようにラウンジの中を見回す青年の姿に気付き、立ち上がって手を挙げる。
 「ノア、こっちだ」
 スタッフの案内を笑顔で断り立ち上がった彼の横に大股にやって来た青年は、ワイングラスとチーズに目をやり、自分も同じ物をと注文すると、遠慮する事無く彼の横に腰を下ろす。
 「久しぶりね」
 「そうだな・・・最近ありがたいことに仕事が沢山入ってる」
 つい先日までスペインにいたと笑う青年、ノアに二人が顔を見合わせるが、仕事で忙しいのは良いことだと頷きあう。
 「映画祭はまだ先なのに随分と早く来たんだな」
 「懐かしいから観光しようと思ってね」
 「そう言えば昔この街にいたって言ってたな」
 スタッフが新たなワイングラスを運んで来るまでの他愛もない近況報告に花を咲かせていた三人だったが、グラスが3つ揃った時にそれぞれがそれを手に取り、一人の受賞と二人のノミネートの祝いをするために乾杯する。
 「乾杯」
 ウィルと呼ばれた男の乾杯の声に二人がグラスを目の高さに掲げ、喉の渇きを潤しながらきめの細かな泡の感触を楽しむ。
 「マリー、母さん、助演女優賞ノミネートおめでとう」
 「母さんは止めてっていつも言ってるでしょう?」
 マリーと呼ばれた女性が青年の言葉に不満を訴えるように口を可愛く尖らせるが、笑ってくすんだ金髪に手を当てる彼に溜息を吐く。
 「そうは言っても俺の母さんはマリーだからな」
 仕方がないと肩を竦めるノアにひとつ頭を振ったマリーは、ノアの横で同じような顔で穏やかに笑う彼、ウィルを軽く睨んであなたからも何か言ってと無言で訴える。
 「せめてママと呼べばどうだい?」
 「却下!」
 ウィルの提案をほぼ同時に二人が却下し、二人揃って却下しなくても良いのにと、何とも言えない情けない顔に彼がなった時、ラウンジのスタッフより責任がありそうな初老の男性がゆったりとやって来る。
 「お寛ぎですかな」
 「ええ、映画祭の前に小さな旅行をしたくなったの」
 「そうですか。映画祭のノミネートおめでとうございます、フラウ・クルーガー」
 「ありがとう、ヘル」
 穏やかな紳士の祝福の言葉に満更でもない顔で頷いたマリーは、今は仕事では無くプライベート中だからと微苦笑交じりに断りを入れると、初老の紳士も理解している顔で頷き、ウィルへと手を差し出す。
 「あなたの写真、このホテルにも飾らせてもらっていますよ、ヘル・クルーガー」
 「それはそれは。ありがとう、ヘル」
 老舗のホテルに飾ってもらえるなんて光栄だと、笑顔でその手を握り返した彼は、マリーと同じ顔で申し訳なさそうに断りを入れると、どうぞごゆっくりと言葉を残して立ち去っていく。
 その背中を三人同時に見送った後、マリーがノミネートされた映画のポスターを街の中で見かけた事をノアが報告し、二人もそれを見たと笑い合う。
 「少しゆっくりして、夜はお店に予約を入れてあるからそこで食べましょう」
 「楽しみだな」
 予約の取りにくいレストランとしても話題になっている店で、ゲートルートというらしいと、ウィルがスマホを取り出して店の情報をノアに見せると、名前は知っていたが行ったことが無いから嬉しいと素直に喜ぶ息子に笑顔で頷く。
 「家族三人揃うのも久しぶりだわ。今日はゆっくりしましょう」
 「そうだなぁ」
 「ノア、スペインでどんなことがあった?聞かせてくれ」
 それぞれジャンルは違うが、女優としてフォトグラファーとして大活躍している両親を前に、まだまだ駆け出しのフォトグラファーであるノアが若干照れつつも自らの働きぶりを両親に伝え、疑問や感想を投げかけられては息子特有の大雑把な返事をしたり、写真家としての疑問を父に問いかけたりと、家族水入らずの時間を過ごすことが出来るのだった。
 そんな三人がいるホテルのラウンジに、映画祭のポスターが貼られているが、その下に映画祭のスポンサーの名前もいくつか書かれているのだった。

 

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2019.03.21
リオンとウーヴェの新しいお話、スタートです。


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