冬が近づく街並は灰色の雲に覆われていた日中からあっという間に太陽が寝床に帰ってしまう夜を迎えていて、いつものように仕事を終えたウーヴェが二重窓の外を見下ろしつつ沈鬱な表情で溜息を吐く。
今日の患者は特に気を使う人達ばかりではなかったが、午後の診察が始まる頃には気分が沈み始めたのを自覚し、今日の診察が全て終わったことを優秀な助手であり事務全般を任せているリアに教えられた時にはどうしようもない程気分が沈み込んでいた。
己の気分の浮き沈みが何に由来するのかが分かっているだけでもまだマシかと、己の気持ちが自然なもので仕方のないものだと自己弁護の言葉を曇る窓ガラスに吐き出して気分転換を図ろうとするが、上手くいく自信が全くなく、再度溜息を零した時、診察室のドアが壊れそうな音を立てる。
「!?」
その物音はすっかり耳馴染みのあるものになっているが、不意打のように聞かされるとやはり身体が竦んでしまい、どうぞと嗄れた声で入室の許可を与えると、冬の気配を全身に纏った金色の嵐が駆け込んでくる。
「ハロ、オーヴェ!今日も一日頑張って来たー!」
だから褒めろ今すぐ褒めろ、褒めるのは言葉だけではなくキスもセットにしてくれと、子供のような笑顔で大人の狡猾さを覆い隠したリオンがまくし立てる言葉に何も返せずにただ溜息を三度こぼしたウーヴェだったが、つい今し方まで感じていた沈鬱な気持ちがわずかに軽くなっていることに気付き、メガネをそっと外した手でリオンを手招きする。
「どーした?」
「・・・・・・お疲れ様、お帰り、リーオ」
小首を傾げつつ大股にやってくるリオンに小さく笑みを浮かべたウーヴェは、疑問には直接答えずにメガネを背後のお気に入りのチェアに投げ捨てると、左足を少しだけ引きずってリオンの前に向かうが、ウーヴェの真意を読み取ったリオンがさらに一歩を踏み出して痩躯を抱きしめる。
「今日さ、俺の好物だってヴィルマがチョコをくれたのに、ボスに食われた」
「そう、なのか?」
「そう!腹が立ったからボスが隠していたビスケット全部食ってやった」
明日ムッティが来るとかどうこう言っていたが、知るかと、ウーヴェの肩に顎を乗せながら鼻を啜るリオンに何と返せば良いのかが分からなかったウーヴェだったが、己の父の今日の激怒具合と明日の落ち込み具合に想いを馳せた瞬間、フォローのメールを送った方がいいだろうかと思案するが、覗き込んだリオンのロイヤルブルーの双眸に浮かぶ色がイタズラ小僧の物だったため、フォローなどする必要はないと胸中で前言撤回をする。
「いい加減にしないとひどい目に遭うぞ」
「ひでぇのはボスだから良いんだよ」
いや、今の話を聞いて一番ひどいことをしているのは間違い無くお前だと言いたいのをグッとこらえて無言で頭を左右に振ったウーヴェは、それよりも何か忘れていないかと問われて軽く目を見張るが、小さな音を立てて不満未満に尖る唇にキスをする。
「お疲れさま」
「うん。オーヴェもお疲れ。・・・・・・今日だろ、あいつが帰って来るの。連絡あったのか?」
「・・・・・・」
午後から気持ちが沈んでいた理由を問われて沈黙してしまったウーヴェは、もうすぐ中央駅に着くこと、着いたらまた連絡をすることをショートメッセージで送られてきたと呟き、リオンの腰に両腕を回して肩に頬を宛てがう。
「・・・どうした」
「・・・・・・どうしたいのか、分からない・・・」
何年前だろうか、アイガーで一人遭難して命を落とした友人の遺体が本当に運と関係者の絶大な努力の結果引き揚げられて生まれ育った街に帰還することができるようになり、今まさにこちらに向かっているのだが、分からないと再度呟くウーヴェの肩をそっと抱きしめたリオンは、会いたいのなら会えば良い、心がざわつくのならまだその時じゃないから会わなくてもいいと告げ、白とも銀ともつかない髪にキスをする。
「でも・・・墓に埋葬すれば・・・」
「確かに顔を見る最後の機会だな。・・・顔を見て平静でいられるか、反吐を吐きたくなるか、唾でも吐きかけたくなるかも知れねぇなぁ」
でも、その時にお前が感じた気持ちはお前の素直なものだ、否定することも抑制することもしないし誰にもさせない、だからお前が望むようにすればいい。
低いが意志の強い声で囁かれるそれにウーヴェが無言で頷くものの、己を第一に思っての言葉であることも理解しているため、本当にどうしたいのかが分からないと、今の己の逡巡を素直に伝えると、優しいキスが髪やこめかみに降って来る。
「優しいオーヴェ。お前が望むようにすればいい。あいつの気持ちを今は考えるな」
二度と見ることができないと思っていた友の顔だが、あの夜の出来事を思い出すだけでは無く、最も辛かった事件も引き摺り出されてしまいそうになるのなら、顔は見ないで送別会にだけ参加し、心の底から行きたいと願った時に墓に花を供えればいいと、ウーヴェの逡巡も不安もしっかりと見抜いている声に安堵の溜息を無意識に零したウーヴェは、腰に回した腕に力を込めて何度目かのため息を分厚い胸板に吐きつける。
「・・・分からない・・・会って、どう、なるか・・・・・・」
本当に分からないが、やって後悔しないよりもやって後悔した方がいいと、ウーヴェの心の奥底で何かが変化をしたことを示す言葉をポツリと呟くと、リオンの手がウーヴェの頬を両手で挟んで視線を合わすように覗き込んで来る。
「・・・会いに行くか?」
「・・・行き、たい」
「ん、分かった。行ってこい、オーヴェ」
あの夜を乗り越えるために必要ならば顔を見てこい、そして、何故あんなことをしたんだバカ野郎と罵って来いと、子供のような顔で太い笑みを見せつけられ、つい自然と口の端を持ち上げてしまうが、リオンとは比べられないほどの微かな笑みで、リオンの親指が口の端をグイと撫でて破顔一笑され、至近で見せられた眩しいような笑顔に目を見張る。
「俺も一緒にいる。だから行ってこい、オーヴェ」
何があってもお前の側を離れない、約束だと囁き、額と額を重ねたリオンが自信満々に言い放ち、ウーヴェの口から自然な笑い声を零させる。
「バカ野郎なんて言ったことがないから言えないな」
「さすがオーヴェ。じゃあさ、クソッタレは?」
「・・・調子に乗るな、リオン・フーベルト」
リオンと違って罵詈雑言が周囲に溢れている環境で育ったわけではないウーヴェが、他人を口汚く罵ることなどない事を誰よりも理解しているリオンがふざけた口調で問いかけると、途端にウーヴェの瞼が平らになり、今度はウーヴェの手がリオンのピアスの嵌った耳朶をギュッと摘んだ為、お決まりの悲鳴をあげる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、お願い許してオーヴェ!!」
もう二度とクソッタレの山男なんて言いませんと、宣言する割には堂々と言い放つリオンをジロリと睨んだウーヴェだったが、デスクに置いたスマホから着信音が流れ出したことに気付き、顔をそちらへと向ける。
「・・・マウリッツからだぜ」
「駅に着いたんだろうな」
リオンが差し出してくれるそれを受け取り、少し緊張しつつ耳に宛てがったウーヴェは、マウリッツが今中央駅に着いたこと、この後ドナルドが通っている教会に連れて行くことを教えられ、良ければきみも来て欲しいとひっそりとした声に懇願されて小さく頷く。
「・・・ああ、すぐにこちらを出る。ただリオンも一緒に行く」
『うん。そうだね。教会の住所をメッセージで送るから、あっちで合流しようか』
電話の向こうで明から様に安堵のため息を零す友人の横顔を脳裏に描き、メッセージで教えられる住所に向かう事を再度伝えたウーヴェは、通話を終えると同時にリオンが背後からそっと抱き締めていたことに気付き、軽く力を抜いてもたれかかる。
「ドナルドの家の近くの教会に運ぶそうだ」
「そっか。じゃあ帰る用意して行こうぜ」
「ああ」
クリニックの戸締りをし、教えられた教会に向かおうと頬にキスをされて頷いたウーヴェは、チェアに投げ出したままのメガネを取ってくれとリオンに頼むと、各部屋の戸締りを確認し、リオンが持ってきたメガネとコートを受け取って袖を通す。
「そう言えば、誕生日プレゼントにノルがくれたベストは着ないのか?」
去年のクリスマスと誕生日を兼ねたプレゼントにと、ギュンター・ノルベルトがリオンに贈ったのは、一見するだけでも高級だと分かるダウンのベストで、受け取ったリオンも感動のあまり呆然としてしまうほどだった。
それを着ないのかと問われたリオンの肩がひょいと上下し、あんな高級品を日常に着る事など出来ない、オーヴェとのデートに着ると答えた為、何とも言えなかったウーヴェだったが、己がプレゼントしたジャケットの下に着るカシミヤのベストも同じ理由でクローゼットの中にある事を思い出し、着ればいいのにと小さく笑う。
「何か言ったか、オーヴェ?」
「何でもない。早く行こうか」
「ん、行こう」
リオンの腕に手を回し、片手でステッキを突いて診察室を後にしたウーヴェは、クリニック全体の戸締りを最終確認した後、両開きの重厚なドアに診察終了の札をぶら下げ、エレベーターへと続く廊下をゆっくりと進んで行く。
「今日さ、晩飯どうする、オーヴェ」
「そう、だな・・・正直な話、考えられない」
「それもそうか。マウリッツもどうするかだけど、あれなら三人で食いに行ってもいいな」
だが、とにかく今は教えてもらった教会に向かおうと笑うリオンに無言で頷いたウーヴェは、その教会をリオンが知っていたことから胸を撫で下ろし、リオンが運転席に乗り込んだのを見計らうと、その頬にキスをする。
「安全運転で頼む」
「りょーかい」
お前と俺の為に安全運転を心掛けましょうと笑うリオンに頼むと再度呟いたウーヴェだったが、車が教会前に到着するまで口を開くことはないのだった。
マウリッツに教えられたその教会はオイゲンが勤務していた病院からさほど離れていない場所にある小さな教会だったが、熱心な信者が多いのか、教会の建物は古くても手入れが行き届き、季節に応じた花なども植えられていたであろう花壇もあったが、今は薄く雪が積もっていた。
その教会傍に車を停めたリオンは、エンジンを切って助手席から漂ってくる緊張感に一つ苦笑する。
「オーヴェ、そんなに緊張しなくても大丈夫だ」
「・・・分かって、いる」
「そっか。じゃあ降りるぜ」
ステッキを突いて早く降りろと促されて諦めの溜息を吐いたウーヴェは、助手席のドアを開けられてゆっくり車から降りると、咳払いを一つしてリオンの左手をそっと握る。
「・・・大丈夫だ、オーヴェ。俺がいる」
「・・・うん」
例えもし心身に不調を感じたとしても俺がそばにいると、ウーヴェの肩に腕を回して頬にキスをしたリオンに励まされて一歩を踏み出す。
「俺のオーヴェはさ、どれだけ不安だったとしても、やる時はやる男だからなー」
だからどれだけ今不安を感じていても、己の行動に対する責任と結果から顔を背けない男だとリオンが真正面を見据えて呟くと、ウーヴェがその言葉を取り込もうとするかのような深呼吸を繰り返し、ステッキの握りをきつく握りしめる。
「行こうか」
「ああ」
教会の敷地へと続く石畳をゆっくりと歩き、聖堂のドアを開けて中に進めば、磔刑のキリストと悪魔と戦う守護天使に見守られるように棺が中央に置かれていて、入ってきたウーヴェの足音に、祭壇側の長椅子で腰を下ろして何やら談笑していた数人の男性が振り返る。
その中に顔色は悪いがそれでも何とか己の足で地に立っていることを証明しようとするようなマウリッツと、その彼を心配そうに見守るドナルドがいたが、ウーヴェとリオンに気付いてドナルドが立ち上がり、ウーヴェの前へとやってくる。
「こんばんは、よく来てくれたな、ウーヴェ」
「こんばんは。・・・埋葬、される前に、会っておきたかった、ので・・・」
ドナルドの言葉に途切れながらも己の思いをしっかりと伝えたウーヴェだったが、隣のリオンを紹介していないことに気付き、ドナルドの視線がリオンへと向いたのを見計らって咳払いをする。
「俺一人では不安だったので、リオンも一緒に来ました」
「ああ、マウリッツから話は聞いていたよ」
よろしく、オイゲンの叔父のドナルドだと、二人の関係を知っていると伝える代わりの笑顔でリオンに手を差し出したドナルドは、リオンも同じような笑みでその手を握り、今回の件で疲れているでしょうが、教えていただきありがとうございますと、年に数える程しか見聞きしたことのない最上級の丁寧さで挨拶をされ、聞かされていた人物像とのギャップに軽く驚いてしまう。
「よろしく、リオン」
「こちらこそ」
和やかに交わされる挨拶にウーヴェが安堵に胸を撫で下ろし、立ち話をするのもなんだからこちらにきて座ってほしいと案内されたのは、ウーヴェを見た途端に泣きそうに顔を歪めたマウリッツの傍だった。
「ウーヴェ・・・」
「ああ、疲れただろう、ルッツ」
二週間色々と手続きなどに奔走し、スイスにまで迎えに行って疲れただろうと、友人を労ったウーヴェは、マウリッツの手が腿の上で握り締められていることに気付き、見えないように気遣いつつそっと撫でる。
「・・・言いたかった事、向こうで言ってきた」
「そうか。頑張ったな」
以前までのマウリッツならば遠慮が勝って思っていることも言えなかっただろうが、ウーヴェの家で思いを吐露し受け止められてからは少しずつ思いを出すようになっていた。
その集大成ではないが、一番言い出したくて言い出せなかった言葉、オイゲンが好きだったのに行動出来なかった己が情けなかった事、気付いてくれなかった彼への八つ当たりを全て済ませてきたことを教えられ、微かに震える唇の両端をマウリッツが持ち上げる。
「気付いてもらえるように行動しなかった僕もバカだけど、気付かなかったオイゲンもバカだって・・・言ってきた」
「うん。良く言ったな」
「オイゲンさ、クレバスに落ちたのに・・・すごく綺麗な顔をしてるんだよ。滑落したはずなのにね」
人の生死に関わる職業に就いている二人は学生や研修医の頃から数多の遺体と対面し、己の医師としての知識や技術を磨いてきたが、滑落死した人の遺体も当然ながら何度も目にしてきていた。
それを思えば奇跡のような綺麗さだとマウリッツが小さく笑うが、それが限界だったのか、歯を食いしばったかと思うと、無言で涙を溢れ出させてしまう。
マウリッツの涙を見たのは本当に数えるほどだったが、そんな悲しそうに泣かなくてもいい、感情を堪えるなと小さく囁きながらマウリッツの俯いてしまった頭を胸に抱き寄せたウーヴェは、胸にぶつけられる無言の感情に我慢するなと応えることしか出来なかった。
マウリッツの手がウーヴェのコートの背中をきつく握り締め、それでも声を出さずに身体を震わせて泣く姿を少し離れた場所からリオンとドナルドやその友人達が見守っているが、あんな風に悲しんでくれる人が近くにいたのに気付かなかったあの子は本当に仕方のない子だと、にじむ涙を指で拭いながらドナルドが甥っ子を思って述懐すると、リオンが伏し目がちに肩を竦める。
「喪って初めて気付くものもある」
不幸なことにオイゲンが事故で命を落としてしまった為にどうしようもなくなってしまったが、だからこそ生きている自分達はそうなる前に行動をしなければならないんだと、己の過去を振り返っているかのようなリオンの言葉にドナルドが目を見張り、その横顔をまじまじと見つめてしまう。
「あいつがオーヴェにしたことをオーヴェが許せというなら俺は許す。でも忘れることはできねぇ」
許せないといつまでも思い続けることは、畢竟相手にいつまでも縛られることだといつかウーヴェに言われたと、親指の爪をカリカリと引っ掻きながら呟くリオンの言葉にドナルドが知っているのかと呟くと、蒼い双眸に少しだけ嘲りにも似た色が浮かぶ。
「・・・オーヴェがあの夜真っ先に駆け込んできたのは、俺がいた教会だった」
苦痛と恐怖と混乱の中、自宅に帰る選択肢もあったはずだが、助けを求めにきたのは俺の元だったと、当時の夜を思い出しながら呟くリオンにドナルドが口を開いては閉ざしてしまう。
「レイプされたことを知って我慢できずにあいつを殴ったけど、そんな時でも暴力はダメだとオーヴェが仲裁に入ってさ・・・オーヴェを蹴り飛ばしたことは今でも俺が俺を許せねぇ事だな」
興奮と勢いのあまり振り上げた足を止める事ができずにウーヴェを蹴ってしまった事は先々何があっても己を許せる事ではないと強い口調で呟いたリオンは、ドナルドの顔を細めた目で見つめ、あの顔の傷はお前だったのかと問われて短くああと返す。
「ま、オーヴェに止められたけど、どうしても我慢できなくてもう一回殴ったけどな」
その時の傷を見たかもしれないが、どちらもそれは俺がしたことだと、全く悪怯れる様子もなく呟いたリオンだったが、その後、ウーヴェに殴りに行った事がバレてケンカをしてしまったと肩を竦め、そんな理由だからここに来る事は少し不安があったと素直に告白する。
「ただそれは俺の話であってオーヴェのことじゃねぇ。オーヴェと違う思いだったとしても、俺が我慢すればいいことだ」
だからあそこで永遠の眠りに就いているあいつを引き摺り出してぶん殴ったり反吐を吐いたりはしないと、ドナルドの顔色が一気に悪くなるようなことをサラリと言い捨てたリオンは、ただ最大限の譲歩をすでにしているのだから、顔を見て別れを告げたり花やカードを送ったりしない事は受け入れてくれと、甥を思って顔色を変えるドナルドにリオンなりの言葉で詫びると、一つ肩を竦めてウーヴェとマウリッツの側に長い足を向ける。
「・・・リオン」
「ああ。マウリッツ、落ち着いたか?」
マウリッツもオーヴェと同じで声を出さないで泣くんだなと、ウーヴェが毎朝持たせているハンカチをブルゾンのポケットから取り出して俯くマウリッツに差し出したリオンは、振り払われずに受け取ってくれたことに安堵し、ウーヴェの真後ろの長椅子に腰を下ろして前の長椅子の背もたれに腕を乗せる。
「・・・ありが、とう、リオン・・・っ」
「どういたしましてー。にしてもマジでオーヴェとマウリッツって雰囲気似てるよなぁ」
外見からくる雰囲気の相似もだが、己の感情を素直に出せない所や、出たら出たで長年休んでいた火山が目を覚ました時のような激しさを持っていること、特に人に不快感を与えかねない感情を抑制しようとする癖などそっくりだとリオンが感心しているのか呆れているのか微妙な声を上げると、アイスブルーとターコイズの双眸がジロリとリオンを睨みつける。
「・・・うるさい」
「うるさいよ、リオン」
「うひぃ」
雰囲気がそっくりな二人に睨まれた為にいつも以上に恐怖を感じて首を竦めたリオンだったが、あいつに挨拶をして来なくていいのかとウーヴェに問いかけ、その肩をびくりと揺らしてしまう。
「行ってこい、オーヴェ」
「・・・あ、ああ・・・」
埋葬されるまでの時間はあまり残されていないのだからと、ウーヴェの髪を撫でて行動を促したリオンは、ステッキを頼りに立ち上がったウーヴェに頷き、俺はここで待っているからと、そっと言葉でも背中を押す。
リオンの言葉に背中を押されてなんとか棺の側に向かったウーヴェは、己の心臓がまるで耳のすぐ側に移動してきたかのような鼓動の速さと大きさを感じていたが、深呼吸を繰り返した後、蓋が開けられている棺を覗き込む。
そこに眠っていたのは紛れもなくオイゲンで、マウリッツが驚いたように、滑落死したとは思えない程顔も身体も綺麗なままで、冬山で遭難死した遺体を何度か見たことがあったが、そのどれもとは違っていて、揺り起こせば不満を訴えつつ起き上がって来るかもしれないと錯覚を抱くほどだった。
震える指先で頬を撫でれば、確かに生命が喪われた肉体である事を教えてくれたが、人参色の髪を少し撫で、その手で頬や鼻筋を撫でていくと、あの悪夢の夜に見上げた顔が不意に思い出されてしまう。
「────っ!!」
唐突に思い出されたそれに喉が詰まり、足元が覚束なくなってしまうが、ここで逃げ出す事など出来ないと腹を括り、リオンの腕を掴んでいる時と同じようにステッキを握りしめる。
どんな感情からかは分からないが、震える呼気を零しながらも友の冷たく乾燥してしまった頬を撫でていると、あの夜の出来事よりも膨大な過去の出来事、ギムナジウムでの日々の暮らしや大学に入ってから皆と知り合い、面白おかしく過ごしていた時間が甦り、その中でいつも隣で嬉しそうな顔で笑ったり、不満を盛大に訴えたりしていた、日に焼けたオイゲンの笑顔が脳裏に蘇る。
「・・・・・・あの時、許すことも・・・殴る、ことも出来なくて・・・悪かった」
あの夜、リオンの元に駆け込んだ後、話し合う時間を持てるはずだったが、それをする勇気を持てず、結果としてお前を一人アイガーに向かわせてしまった、許して欲しいと棺の中で眠る友人に詫びたウーヴェは、お前は悪くないという友と最愛のパートナーの声を同時に脳裏で聞くが、お前のしたことを許せないと断罪する強さも、全てを許して今まで通り一緒にいようという勇気も持てなかったのは俺の弱さだと自嘲する。
「許して、くれ・・・イェニー」
学生の頃、あれほど側にいてもお前の思いに全く気づくことのなかった俺を許して欲しいとウーヴェが伝えた時、乾ききっているオイゲンの頬にぽつりぽつりと涙の染みが出来てはすぐに乾いていく。
「お前から預かったあの小箱、俺が持っているのは相応しくない、から・・・返す」
俺への想いが込められた箱なのだろうが、俺が持つのは相応しくないと、流れ落ちる涙を拭く事もせずに静かな声でオイゲンに伝えたウーヴェは、ただしと言葉を繋いでメガネを外す。
「お前が世界中の山に登って持って帰ってきてくれた物や写真は全部俺が持っている」
その時々に何を思い持ち帰ってきてくれたものなのか、何があったのかを心底楽しそうに話して聞かせてくれたあの物達は、お前が俺たちと一緒に生きていた証なのだからと、オイゲンがあの夜密かに望んでいた笑みを浮かべたウーヴェは、コートの袖で目元をぐいと拭うと、棺の中の友の額に最初で最後のキスをする。
「・・・Auf Wiedersehen、イェニー」
もしもあの世というものが本当にあるのならそこで再会しよう。ただ、それはまだ先の話だろうから待っていてくれと、不思議と穏やかな心のまま笑みを浮かべて最後の挨拶をしたウーヴェは、溢れ出る涙をコートの袖で再度拭き、じっと見守っているドナルドの友人やオイゲンの登山仲間に黙礼すると、踵を返して照れたような笑みを浮かべる。
「・・・明日の葬儀、参列させてもらいます」
「あ、ああ、そうしてやってくれ」
きっとあの子も喜ぶと、何かを吹っ切ったようなウーヴェの言葉にドナルドがやや驚きつつも素直に喜びを表して時間は10時からだと伝えると、ウーヴェがしっかりと頷き、ドナルドの手を片手で握り、預かった小箱をお返ししますので明日棺に納めてくださいと告げ、残念そうに目を伏せるドナルドの背中にそっと腕を回す。
「・・・イェニーの思いに応えることは出来ません。でも・・・それでも、彼は、俺の大切な友達、です」
あそこで彼を思って涙を流すマウリッツも、もうすぐ駆けつけてくるであろう他の友人達と同じかそれ以上に大切な俺の友人ですと、ドナルドにしっかりと己の思いを伝えたウーヴェは、震える腕が背中を優しく抱きしめてくれたことに安堵し、今日は足が疲れたので帰りますが、明日の葬儀は必ず参列しますと再度伝えてドナルドに頷かれて笑みを浮かべる。
「今日は来てくれてありがとう、ウーヴェ」
「いえ・・・来られて良かったです」
ここに来るまでは不安で仕方がなかったが、顔を見て伝えたいことをちゃんと伝えられて良かったと頷いたウーヴェは、リオンが隣にいる安堵を目元に滲ませ、マウリッツに一足先に帰ることを伝えると、もうすぐカールが来るので待っていることを教えられる。
「そうか。じゃあカール達によろしく伝えておいて欲しい」
「分かった。ウーヴェ、明日葬儀の後に皆で送別会をしよう」
「ああ、もちろん」
自分達がすぐに会いに行ける場所にやっと帰ってきたオイゲンの送別会をするのは当然だと頷くウーヴェにマウリッツも同じ顔で頷き、長椅子から立ち上がってウーヴェを抱きしめる。
「ダンケ、ウーヴェ。きみの言葉が無ければ僕はいまでもずっと僻み続けていたよ」
自分からは動かない癖に相手が気付いてくれないと不満を訴えるだけの人になっていたと、過去の己を振り切るように笑うマウリッツにウーヴェも安堵し、明日の送別会とは別にまた家で二人で飲もうと誘い、互いの背中をぎゅっと抱きしめる。
「家で飲んでも良いけどさー、バカみてぇにビールを飲むなよ」
「・・・程々にしようか、うん」
「そう、だな・・・」
マウリッツとウーヴェの微笑ましいやりとりにドナルドが小さく笑みを浮かべているが、リオンがそんな二人に冷や水を浴びせかけるような言葉を投げかけ、二人が思わず殊勝な言葉をリオンに伝える。
「じゃあルッツ、また明日」
「うん。また明日」
明日の葬儀は悲しいだけのものではなく、やっと帰ってきたオイゲンの話でみんなと盛り上がれる日でもあると、友人の帰還が何よりも嬉しいと言いたげな顔で頷くマウリッツにウーヴェも頷き、リオンの手を借りずに聖堂を出て行く。
ウーヴェとリオンの背中を見送ったマウリッツは、ドナルドにもうすぐ他の友人達が来るから待たせて欲しいと伝え、気の済むまでいてくれれば良いと返されて小さく笑みを浮かべるのだった。
翌日の葬儀、ウーヴェはオイゲンに約束したように、クローゼットの奥にしまっていた木箱を鍵と共に棺に納め、己への思いを返せないことを再度詫びる。
そのウーヴェの背中をマウリッツがじっと見守っていたが、最後の別れを終えて振り返ったウーヴェの顔には友人との別れを悲しむだけではなく、満足感にも似た何かが浮かんでいて、ただ悲しむだけではダメだと改めて教えられたような気持ちになる。
葬儀が滞りなく終わり、教会裏の墓地に柩を運ぶ際、カスパルが手をあげ、ミハエル、マンフリートといった他の友人達も手をあげたため、ウーヴェとマウリッツを除く友人達がオイゲンの最後の旅路の共をする様に棺を肩に担ぐ。
「オイゲン、でかかったからやっぱり重いな」
「そーだな」
この腹癒せは夜の送別会でとんでもなく恥ずかしい話を暴露することで行おうと、カスパルが後からゆっくりついて来るウーヴェを振り返って片目を閉じた為、それは良いやと、友人が揃えばいつでも学生時代に舞い戻れるミハエル達も賛同する。
用意された場所に棺を降ろし、寂しくアイガーの懐に抱かれて眠るのではなく、いつでもすぐに会いに来られる場所に帰ってきた友人の棺が地中に埋められる様を流石にしんみりとした気持ちで見送った友人達は、思い思いに土を棺に掛けた後、葬儀が終わると同時に、今夜はいつもの店に予約を入れてある、時間がきたら集合だと顔を寄せ合う。
「リアとリオンにも伝えてある」
「ドナルドと登山仲間も一人参加するって」
前回とは違って結構賑やかな送別会になりそうだなと、カスパルが何か良からぬことを考えている顔で笑い、ミハエルとマンフリートも似たり寄ったりの顔で頷いた為、制止役に回ることの多いマウリッツとウーヴェが深い溜息をつき、程々にしろよと友人達に釘を刺す。
「・・・時間が来たら店にリオンとリアと一緒に行く」
「ああ。また後でな、ウーヴェ」
後の再会を約束し、ステッキをゆっくりと突きながら墓地を後にしたウーヴェは、教会側に停めてあった車に人が寄りかかっていることに気付いて警戒してしまうが、その背中が誰であるかに気づくと苦笑しつつ名を呼ぶ。
「リーオ」
「・・・もう終わったのか?」
ウーヴェの呼びかけに肩がびくりと揺れ、振り返ることを逡巡するような気配を漂わせた後勢い良く振り返ったのは、昨日葬儀には参列しないとドナルドに宣言していたリオンだった。
「ああ、今終わった」
己は参列しないがウーヴェがすることへの不満など一切漏らすこともなかったリオンだが、葬儀が終わる時間を見計らったかのように姿を見せた為、ウーヴェが迎えに来てくれたのかと問いかけつつ隣に立つと、リオンの手が無言でウーヴェの頬を撫でる。
「・・・腹減ったから飯食って来るって言って抜け出して来た」
「・・・・・・」
リオンがあっけらかんとした顔で言い放った言葉に呆然としてしまったウーヴェは、ボスに断りを入れて来なかったのかと問い返すのが精一杯だったが、リオンが社会人としてそこまで非常識な男ではないことを知っている為、迎えにきてくれたことへの照れ隠しだと気付き、じゃあ美味しいランチを食べに行こうかと笑いかける。
「賛成。何食うんだ?」
「ピッツァなんてどうだ」
「いやっほぅ」
ウーヴェの言葉にリオンが舞い上がりそうになるが、車のキーを渡されて気持ちを鎮め、いつものように運転席に回り込む。
「ボスにお土産買って帰るかー」
「そうだな。ジェラートを買って帰ればどうだ?」
二人で車に乗り込み、お気に入りのイタリアンの店に向かうために車を走らせようとするが、墓地から教会の横へと出て来る道にウーヴェの友人達が勢揃いしていることに気づき、俺にとってあいつは最低な男だったが、お前達にとってはかけがえの無い友人だったんだなとリオンが述懐したため、ウーヴェが目を閉じてシートにもたれ掛かる。
「・・・そう、だな」
確かに彼は取り返しのつかない事をしてしまったが、それでもやはり友達だと感慨深げに呟いたウーヴェは、リオンが運転席から身を乗り出して覆いかぶさってきたことに気づき、どうしたと問いかけながらその背中を撫でる。
「・・・良い奴らが友達で良かったな、オーヴェ」
「ああ」
悲しい別れをしてしまったが、それでも友達だと思い続けるウーヴェの気持ちをリオンが理解し受け入れてくれたことが嬉しくて、リオンの頬にキスをしたウーヴェは、ありったけの感謝の思いを込めてその耳に囁き慣れた言葉を伝える。
「ダンケ、リーオ。俺の太陽」
「・・・うん」
一頻り互いの思いを伝えて抱きしめあった二人は、車内の様子に気づいたカスパルが冷やかすように近付いてくる姿に気付き、何かを言われる前にここを離れようとリオンを促して車を発進させるのだった。
そしてその夜、友人達とオイゲンの登山仲間の男とドナルドらを交え、いつも集まっていたクナイぺでオイゲンの二度目の送別会を開いたウーヴェ達は、カスパルが暴露したとっておきの話題で盛り上がり、悔しかったら天国から帰ってこいと皆で不満を天に吐き出し、無茶を言うなとオイゲンが天国で苦笑する様を想像してはまた酒の肴にし、賑やかに騒々しく友人を天国に送り届けるパーティで盛り上がるのだった。
ende.
Back | Dear my friend. |
2019.01.12
なんとか、書きたいお話を書けました。ちょっと途中色々あったのですが、もうちょっとマウリッツ視点で頑張りたかったかも・・・(・_・;
最後までお読みくださり、ありがとうございます。


