Die Uberzeugung-2-

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 一日中降っていた雪は夕方を過ぎた辺りから雨交じりになり、ウーヴェがスパイダーの助手席でぼんやりと車窓を眺める頃にはすっかりと雨になっていた。
 自宅アパートがある地区まで帰ってきた時、ウーヴェが溜息混じりに小さな声でリオンを呼び、それに答えるようにウィンカーを出して後続車に合図を送ったリオンは、ハザードランプを点灯させるウーヴェの手の動きをじっと見守っていたが、良かったのだろうかと呟かれて目を細める。
 「…俺の方法は…間違って、いたんだろうか…」
 決してリオンを見ることなく呟かれる言葉に車内に重苦しい沈黙が溢れ、その息苦しさに無意識にリオンが襟元を広げるように服を引っ張ると、助手席へと身を乗り出して俯く白い髪を抱えるように腕を回す。
 「オーヴェ」
 「間違っていたから…彼は命を絶ったのかも知れないな」
 腕の中から響く冷たく自身を糾弾するような声など聞きたくなかったが、ウーヴェが望むのならばどんな言葉でも聞き届けようと決めて髪に頬を軽く押し当てる。
 「俺はそうは思わないけど、オーヴェはそう思うのか?」
 治療方法が間違っていたとは思っていない事を静かな声で告げたリオンが驚くほど冷めた顔で前髪を掻き上げたウーヴェは、間違っていたから死を選んだんだろうと肩を揺らすが、リオンの恐ろしいほど真っ直ぐな視線を受け止められずに顔を背け、掻き上げた前髪をきつく握りしめる。
 「間違わなければ…彼は死ななかった…っ」
 またあの写真のように笑顔を浮かべて好きな仕事に復帰できたはずだと、喉の奥から絞り出すような声と呼気の固まりを吐き出したウーヴェは、握りしめた拳でダッシュボードを殴りつけるが、その手を優しい強さで押し止められて怒りの矛先をその手の持ち主へと向けてしまう。
 「殴ってすっきりするのならいくらでも殴れ。でもそうじゃないだろう、オーヴェ?」
 今ここで八つ当たりのように拳を振り上げてものを殴りつけたとしても、きっとお前の胸の中に広がる怒りもやるせなさも消え失せないはずだと小さく笑い、何も言えずに唇を噛み締めたウーヴェを痛ましそうに見守ったリオンは、もう一度白い髪に手を差し入れてそのまま頭を抱き寄せる。
 「家に帰れば全部受け止めてやる。だから後少しだけ我慢してくれ」
 激情に囚われたとしても手を離さない事を誓うと少し戯けた風に本心を伝えると、それが伝わったらしくウーヴェの身体から緊張がとけてシートに深くもたれ掛かる。
 「………すま…な、い…」
 「なるべく早く帰るからな」
 後10分も走れば車はウーヴェのアパートに着く事をことさら陽気な声で告げ、カーステレオのパネルを適当に押すと、耳に心地よい大きさの音量でピアノ曲が流れてきて、ピアノの音色の良し悪しすら分からないリオンでもその旋律を耳にすれば感嘆してしまう美しいそれに混ざる微かな声に心臓を鷲掴みにされたように顔を顰めてしまう。
 ウーヴェのアパートに帰り着くまで、スパイダーの中では有名な旋律とウーヴェの微かな声が流れているのだった。

 リビングの暖炉前に冬の間だけ設置することになったソファベッドに半ば抱えるようにしたウーヴェを連れて行ったリオンは、彼の頭に被せた煙草と汗と男の匂いの染みついたブルゾンを取り払いながら顔を覗き込み、力なくソファに座ろうとするのを支えながら同じように横に腰を下ろす。
 「お待たせー」
 陽気な声で待たせたことを詫びてウーヴェの反応を窺うリオンの前では、前髪で表情を覆い隠すようにウーヴェが俯いたままだったが、車内で零された問いが再びウーヴェの足の上に落ちてリオンの耳が正確にそれを拾うと、俯く頬に手を宛がって顔を上げさせる。
 「さっきも言ったけど、お前のやり方が間違っていたとは思わないし、お前の医者としての腕前が悪いとも思わない」
 「…なら…どうして、彼は死を選んだ…?俺が頼りにならない、そう思ったから…だろう?」
 自らの診療方法が彼にとっては不安だったのではないのか、その思いから患者が命を絶った理由を問い詰めようとするウーヴェは、リオンの躊躇いがちではあってもある確信を持って囁かれた言葉に息を飲んで真正面から見つめると、見られる居心地の悪さにリオンが肩を竦める。
 「お前が頼りにならないなんて思って無かったんじゃないか?」
 「……で、も…」
 「もしも本当にオーヴェが頼りない、医者として信頼出来ないのなら、死ぬ直前にあんなメモを残すか?最後にどうしても伝えた かったことだったんじゃないのか?」
 主治医であるウーヴェに迷惑が掛かってはいけないという配慮からあの走り書きを残したのだろうと、間違っていないことを確信する声で告げられ、ウーヴェの眉がきつく寄せられる。
 「────悔しいな、オーヴェ。死を選ぶ前に声を掛けて欲しかったな」
 リオンの大きな手がウーヴェの頬を撫でてそのまま側頭部を辿って後頭部に辿り着き、力を込められるままに身を寄せたウーヴェは、己の心の奥底で身を丸めていた想いがリオンの口から流れ出したことにただ驚いていたが、どうして電話をくれなかったんだろうなと改めて呟かれて唇を噛み締める。
 「俺が…もっと気をつけていれば…っ!」
 「うん。オーヴェの気持ちも分かる。でも…すべての出来事を見抜ける訳じゃない。それはお前が一番良く分かっているんじゃないのか?」
 「────!」
 医者の道でも精神科医としての道を歩むことを決めた時、その道にウーヴェを誘った恩師がウーヴェの掌を撫でながら告げた言葉が不意に脳裏に蘇り、悔しさに噛み締めていた歯の間から呼気がこぼれ落ちる。
 あの時、恩師のアイヒェンドルフがウーヴェに告げたのは、自分たちの手は世の中に溢れる問題を解決するにはあまりにも小さすぎ、この目はすべての物事を見通すにはあまりにも狭い視野しかもたないが、それでもこんな自分たちを頼って人がやってくる。神ならざる自分たちだが、せめて頼ってきた人達が少しでも笑顔を取り戻せるように出来る限りの事をしようではないかという、弟子が直面するであろう厳しい現実を思っての優しさと温もりに満ちた言葉だった。
 その言葉を思い出せば自然と身体から力が抜けていき、自分一人の力で人を救えるという傲慢さにも通じる思いに囚われていたことに気付いたウーヴェは、優しい手付きで眼鏡が外される様を見守り、腿に頭を預けろと言いたげな手で上体を横臥させられてしまっても抵抗出来ずにただ身を横たえる。
 「…………オ、ン…っ」
 「いつも膝枕して貰ってるから」
 寝心地が良いかどうかは分かりませんが、心ゆくまでご堪能下さいと片目を閉じられて軽く目を瞠った後で自然と零れる小さな笑いとともに、目尻から一粒だけ涙がこぼれ落ちる。
 「────今日だけ、な、オーヴェ」
 患者とはいえ他の男のことを思って泣くのは今日だけだと、悪戯っ子の顔で囁くリオンに小さく肩を揺らしたウーヴェは、魔法のブランケットとリオンが呼ぶそれが頭から被せられたことに小さく感謝の言葉を告げ、恋人の心遣いを表すブランケットの下で、自ら命を絶った青年を思って静かに肩を揺らしながら別れを告げるのだった。

 暖炉の炎の音に負けそうな呼気とも嗚咽ともつかない声が途切れて程なくしてから、リオンの足の上のブランケットがふわりと舞い落ち、俯きながらウーヴェが手をついて上体を起こす。
 「…もう良いのか?」
 「……………ああ」
 小さな問いに更に小さな声が返したかと思うと、リオンが口を開くよりも先にソファから降り立ったウーヴェが小走りにリビングから出て行ってしまう。
 ウーヴェも自分と同じ男なのだ、恐らく顔を見られたく無いのだろうと考えてブランケットで覆い隠していたのは間違いではなかったらしく、今もリオンを振り返ることなく出て行き、戻ってきた時には青年の死を悼む顔も、流れ落ちたかも知れない涙の跡も見る影はなく、いつもより若干顔色の悪い端正な顔になっていた。
 リオンが無言で肩を竦めると小さく苦笑し、今まで自分が伏せていたソファに再度腰を下ろしたウーヴェは、暖炉の炎と正対するように見つめると、俺は医者として信頼されているだろうかと、炎に問いかけるように声を掛けるが、炎が爆ぜるよりも先に隣から絶対の信頼を置いている声が流れ出す。
 「お前のクリニックに来る患者を思い出せよ」
 心の病に苦しむ男女が一体何人、毎日毎週決まった曜日にやってきては心の不安を吐露したり、ようやく浮かべられるようになった笑みを少しずつ大きく深くして帰って行くのだと逆に問われ、軽く目を瞠ったウーヴェは、足の間で組んでいた手を解いて拳を作り、左手で己の拳を包み込むと、伸ばされた手が両手を包むように添えられる。
 「彼は残念だったけど、他の人達にはまだまだお前が必要だ。そうだろう、ドク?」
 優しさと強さが混ざり合った声が耳から心に滑り込み、手の温もりでもって体内に押し止められると逆らうことなど考えられずに無言で頷いたウーヴェは、リオンの重ねられた手を解いて逆に手を重ねると、深呼吸を何度か繰り返して目を閉じる。
 「ウーヴェ」
 「────ああ」
 リオンのひっそりとした呼びかけにウーヴェも間を置いて短く返しながら瞼を持ち上げると、炎を見ていた顔を上げて暖炉にある友人の置き土産へと視線を向け、自然な動作で真横で見守ってくれているリオンに顔を振り向ける。
 「ありがとう、リオン」
 「……うん」
 患者を亡くした悲しみも自責の念もまだ癒えるのに時間を要するだろうが、まずは明日クリニックに行って彼のご両親に連絡を取り、診察中の様子について話をすると目を伏せると、ウーヴェ以上に安堵したような溜息がリオンの口からこぼれ落ちる。
 「許してくれるかは分からないが…」
 「今日彼の両親に会ったけど、あの人達なら落ち着いて話を聞いてくれると思うぜ」
 息子を亡くして感情的になって人の言葉を受け付けなくなるような人達とは思わなかったことを告げるリオンに頷いたウーヴェが静かに立ち上がり、誰にも犯しがたい静謐さの中に強さを秘めた横顔をリオンに見せる。
 「感情的になられても…俺が知っている彼を伝えるだけだ」
 主治医として手を尽くしたが救うことが出来なかった彼の横顔を残された家族に伝えるべきであるし、またそれは自分にしかできないと告げ、静かに思いを口にしたウーヴェは、驚いたような顔で沈黙するリオンへと向き直り、信じてくれて立ち上がる力をくれてありがとうと告げて小さく微笑む。
 「…俺、何もしてねぇけど」
 「そうか?」
 「うん、そう。俺の言葉を信じて顔を上げたのはオーヴェだ」
 俺は自分が感じた事を告げただけだと肩を竦めるリオンの横に膝をつき、くすんだ金髪に口付けたウーヴェは、ありがとうと静かに告げて今日は疲れたからもう寝ると苦笑すると、リオンの腹から感心するほど盛大な音が響き渡り、瞬間的に真っ赤になったリオンがウーヴェの視線から逃れるように身体を傾けて座面に縋り付くように身を伏せる。
 「────!!」
 「…………何か食べるか?」
 ウーヴェの問いにリオンが顔を真っ赤にして俯くが、その顔がウーヴェの涙腺を刺激したのか、笑った拍子に目尻に涙がじわりと浮かび上がる。
 「泣くぐらいなら笑ってくれた方がマシだって、オーヴェ!」
 「うるさいっ。お前が悪いんだっ!!」
 やけくそだと叫ぶリオンにウーヴェが逆恨みの目線でリオンを睨み付け、お前が悪いともう一度厳しい口調で言い放つとリオンに反論できる余地はなく、納得出来ない顔ながらも何故かごめんと謝ってしまう。
 「……何が食べたい?」
 「う、ん…何でも良い」
 「分かった」
 何となく互いの顔をみることが出来ずにぎこちなく言葉を交わした二人は、それぞれ微妙な距離を取りながらリビングからキッチンに向かうが、ウーヴェが冷蔵庫を開けた瞬間、二人の間にあったぎこちなさの代わりにリオンが万年欠食青年の貌で騒ぎ始める。
 それをうるさいだの静かにしろだのと言いながらも決して止めることはしないウーヴェは、リオンが騒ぐ声に急かされながら恋人の空腹を満たしてくれるものを作る為に忙しく動き回り、胸の奥底でたゆたう悲しみに一時の封印を施すのだった。

 

 青年の死去を知らされてから数日後の朝は街を水煙に閉じ込めるようとしているのか、雨が静かに降り続いていた。
 彼の死を知った翌日、前夜リオンに約束したように彼の両親に連絡を取るために受話器を取り上げたウーヴェだったが、何度電話を掛けても相手が出ることはなく、また留守電にメッセージを残してもそれに対する返事は未だになかった。
 最も話をしなければならない相手と連絡が取れない焦燥感を胸に抱えているためか、その死をまだ昇華できずにいたウーヴェは、同じように何かを考えている様な顔で出勤してきたリアに今日の診察予定リストを出して貰い、いつものように目を通しながら特に注意を払う人物について彼女と念入りに話し合い、彼女も素早くメモに取ったり脳内のメモに貼り付けていく。
 その作業をいつも通り行いながらも、二人の間には口に出せない何かがひっそりと存在している事をどちらも理解しており、まるでどちらがそれを言い出すのかを待ち構えている空気すら漂っていた。
 そんな一種の緊迫状態が彼女を突き動かしたのだが、彼女がデスクに手をついて立ち上がったその時、ウーヴェがバインダーをそっとデスクに置いて目を伏せながら、昨日の午後に葬儀があったはずだと呟き、結局彼の両親と連絡がつかずに直接話すことが出来なかった為に葬儀に参列する許可を得ることが出来なかった事に軽く唇を噛む。
 「……そう、だったわね」
 「ああ……」
 その葬儀に際し、参列できないのならばと花とカードを手配してくれたことを感謝していると告げ、リストのコピー用紙をウーヴェが撫でた時、二人の言葉を奪うようにデスクの電話が鳴り響く。
 間もなく一番初めの患者がやってくることを思い出した二人は、自分たちの間に落ちているやるせない感情を何とか拾い集めて封じ込め、リアが受話器を片手におはようございます、バルツァーメンタルクリニックですと受け答えするのを横目に、もう一度バインダーを手に取ったウーヴェだが、彼女が僅かに息を飲んで目を瞠る横顔に首を傾げて疑問を浮かべると、送話口を押さえたリアが受話器を差し出してくる。
 「フラウ・オルガ?」
 「………お願いします」
 差し出される受話器を訝りつつ受け取り、耳に宛がいながらバルツァーですと答えたウーヴェは、相手が感情に揺れる声で名乗った瞬間、バインダーをデスクに落としそうになる。
 『朝の忙しい所を申し訳ない。どうしてもお話をしたかったので電話いたしました』
 声の感触からすると年齢はウーヴェの両親世代を感じさせ、丁寧な言葉遣いからは他者に対する思いやりを感じ取ったウーヴェは、その抑制された声が何か言葉に出されない揺れる感情を更に増幅させているようで、抑えようとしても抑えられない思いが溢れていることを教えてくれた為、ウーヴェが彼女に合図を送り、電話の相手には少しだけお待ち下さいと告げて保留にすると、急いで診察室に戻ってデスクの電話を取り上げる。
 「お待たせいたしました」
 『今まで何度も電話を貰っていたが返事が出来ずに申し訳ない。本来ならばそちらにお伺いをするべきなのだが、妻の体調が あまり良くないので電話をさせて頂いた』
 「いえ、わざわざの電話をありがとうございます」
 『妻がどうしても一言お礼を申し上げたいと言うので、代わらせて貰いたい』 
 「はい、お願いします」
 電話の向こうで短いやり取りが交わされる気配が微かな音になって伝わり、ウーヴェが無意識に左足の爪先を右足の踵でノックし始め、それが5回を数える直前に掠れて疲れているような女性の声が流れてくる。
 この後、どのような言葉を聞かされたとしても、逃げるわけにはいかないのだ。彼がこの診察室でどのような様子だったのかをしっかりと伝えることが己に課せられた責務なのだと己に言い聞かせ、深く息を吸って腹に力を溜めると落ち着いた声で答える。
 「バルツァーです」
 『……何度もお電話を貰っていたのに、連絡が出来ずに失礼しました。昨日は息子のために花とカードをありがとうございました』
 デスクの引き出しを静かに開けてファイルを取り出すと、そっと開いてカルテに己が書き込んだ青年の心裡を表す文字を指で辿っていく。
 勤勉で人当たりも良く、相手に不快感を与えるような様子は見受けられないが、思いこんでしまうと他のことに意識を向けられなくなる、その言葉を指でなぞりながら彼の母の言葉に頷く。
 『昨日総てを終えて、息子もゆっくりと眠れるようになりました』
 「…何も出来ずに申し訳ありませんでした」
 己の力不足を詫びるウーヴェに電話の向こうで青年の母が優しくその言葉を否定し、そうではないと静かに諭す。
 『先生の所に行く時、あの子の表情は明るかった。だから先生がそんな風に自分を責めることはありません』
 「………ですが…」
 『確かに、先生がもしもあの子の異変に気付いてくれれば、という気持ちは何処かにあります』
 息子を失った母の絶望が痛いほど伝わる声にウーヴェが唇を噛み、予兆を見抜けなかった事を詫び、亡くなる前日に何か彼にとって重要な出来事があったのかと問い返すと、沈黙の後、勤めていた会社の上司が連絡もなく突然やって来たのだと告げられて口を閉ざす。
 『その方が帰った後…疲れたからと言って自室に籠もってしまって…。その後は先生のご存じの通りです』
 上司の来訪が彼の心の振り子を振り切らせてしまった事は疑う余地はなく、会社のカウンセラーは何故その上司に対して来訪を止めるように忠告しなかったのだという強い思いが芽生えるが、それは己が考える事ではなく会社側-会社のカウンセラーが考えることだと己を納得させつつ、そうでしたかと短く返す。
 『ええ。あの時もしも息子が先生に連絡をしていれば、こんな事にならなかったかも知れないとも思いますが、…あの子が死を選んだ理由は先生の診察に納得がいかなかった、不安を感じていたからではありません』
 時折声の調子が上下し、話している彼女の肩も感情に揺れている事を伝えてくるが、それでも彼女の口振りにはウーヴェを責めるような気配は感じられなかった。
 それが己に対する都合の良い解釈ではないかとの危惧はウーヴェの中にあったが、彼女の言葉がそれを次第に薄れさせていく。
 『息子は…足下ばかりを見て、周囲で自分を支えてくれる人の存在を忘れてしまっていた…そう、思います』
 それは本当に残念なことだが、おそらく病と闘っている自分を上司が来訪した事実は息子にとって悪い方向へと顔を向けさせる出来事だったのだと、自身を納得させるような声で告げられて何も返せなかったウーヴェだったが、不意に口調が変わって明るさを増した事に気付いて瞬きをする。
 『先生のクリニックにはあの子のような人が先生を頼って来ているのでしょう?先生はその人達にとって必要な方なの』
 ですから、どうか自信を持ってその方達の治療をして下さいと優しい声で背中を押されたウーヴェは、受話器をグッと握りしめてきつく目を閉じる。
 『私が言うのも変ですが、他の方達が悲しい最期を迎えないように、先生、よろしくお願いします』
 悲しみに満ちているがそれでも強さと優しさを失っていない声にウーヴェが無言で頷いてしまうが、慌てて分かりましたと腹の底からの真っ直ぐな声で返事をする。
 彼の死が教えてくれた事、思い出させてくれたことを忘れずに、これからも自分を頼ってきてくれる人たちには出来る限りのことをしていこうと改めて誓い、左足の先を右の踵で一つノックする。
 「私に出来ることはやります」
 彼は本当に残念でしたが、彼によって経験させて貰った事を今後の治療に活かすつもりですと断言し、安堵の溜息を受話器から受け取る。
 『本当に息子がお世話になりました』
 これから先、もう少し元気になれば同じような辛い目に遭った人達とともに何かしら行動を起こすつもりだと告げた彼女に、ウーヴェも安堵に目を細めながら私に出来る事であれば何でもしますので、医者が必要ならば声を掛けて下さいと告げて感謝の言葉を返された後で静かに通話が途切れる。
 その余韻の中で受話器を戻してデスクから立ち上がったウーヴェは、二重窓を流れ落ちる雨の行方をぼんやりと見送り、昨日の葬儀の時は気持ちが良いほどの晴天だったことを思い出すと、永遠の眠りに就くことで彼の心も晴れ渡っただろうと願い、ノックの音で顔を上げて返事をする。
 「はい」
 「失礼します。ヘル・シュルツがお越しです」
 「ああ、ありがとう。5分後に通して欲しい」
 「分かりました」
 青年の母親が告げた様に今朝もまた彼と同じように心の病に苦しむ患者がウーヴェを頼ってやってきていることを教えられ、診察へと気分を切り替える為に時間を指定したウーヴェは、無表情に頷いて出て行こうとするリアを呼び止める。
 「はい?」
 「……彼のご両親からだった」
 「……分かりました」
 ウーヴェの言葉と表情から悪い電話ではないことを察した彼女が一瞬だけ泣き笑いの顔になるが、すぐさま表情を切り替え目を伏せて一礼し、診察室のドアを閉めた為、ウーヴェも5分後にここにやってきて向かい合うことになる患者のカルテなどをデスクに用意し、診察時に着用するジャケットの襟を正して再度デスクに腰掛ける。
 「────どうぞ」
 約5分後に内線で通してくれと告げ、俯き加減に入って来る男性に安心を与えるような、落ち着きと穏やかさに満ちた声で己の患者を出迎える。
 「おはようございます。今日は少し顔色が良くないようですが、どうしました?」
 不思議と心の奥底にまで滑り込むと称されたことのある声で問いかけ、一人掛けのソファに落ち着かない様子で腰を下ろす彼に目を細め、ここにはあなたと私しかいません、誰にも話を聞かれることはないので良ければ話して下さいと促し、訥々と語られる言葉をメモや脳裏に書き記していく。
 患者に接しているウーヴェの表情や声からは自責の念は感じられず、また今朝まで抱えていたやるせなさも言葉に出来ない思いも先程の電話で昇華されたのか、今はただ目の前の患者に対し、全力でもって治療に当たるという信念を持つ医者の貌になっているのだった。

 いつもと同じように仕事を終えて帰宅し、今日も一日頑張った証拠の笑顔と疲労を少しだけ顔に浮かべたリオンが帰ってきたのは、そろそろ日付が替わりそうな時間になってからだった。
 こんな時間になってごめんと謝る恋人を笑顔で出迎え、腹が減ったと力なく項垂れるリオンの為に用意をしておいた物を食べさせたウーヴェは、食べ終わる頃を見計らって今日一日の出来事を伝えるが、少し間を置いた後で彼の両親から連絡があったことを伝えると、リオンが立ち上がってウーヴェの手を取りながらリビングへと連れて行く。
 「そっか」
 「ああ…葬儀には参列出来なかったが…彼が世話になったと礼を言われた」
 「うん」
 ソファに腰を下ろしたリオンの前に立ち、今朝の会話を脳内で反芻する顔で告げるウーヴェを見上げていると、小さな満足が込められた溜息がこぼれ落ち、何だと首を傾げたリオンに今度は小さな笑いと真摯な声が届けられる。
 「お前が言ってくれた言葉を…彼の母親からも言われた」
 「何て言ったっけ、俺」
 「他の患者がお前を必要としている、そう言ってくれただろう?」
 数日前に自分が行った言葉をもう忘れたのかと目を細めるウーヴェに小さく舌を出したリオンは、その通りだっただろうと目を細めて頷かれ、人差し指でウーヴェの胸元をとんと突く。
 「………うん」
 「彼は残念だった。でもさ、今回の事でオーヴェが感じた事はこれからお前の診察を受ける人達に役立てられる。だったらそれは悲しいことだけど無駄じゃないよな?」
 素直に頷くウーヴェの手の甲にキスをし、片目を閉じてドクの中で必ず役立てられると絶対の信頼を置く声で囁かれて目を伏せたウーヴェは、そうなるように頑張るつもりだと答え、深呼吸をして肩の力を抜く。
 「俺はクリニックに来る患者総てを救える大きな手もすべてを見通せる目も持っている訳じゃない」
 「うん」
 「でも、だからこそ…俺を信じてくれる人には出来る限りの事をしたい────するつもりだ」
 言い直された言葉に秘められた思いを感じ取り、眩しそうに目を細めたリオンが顔の前にある手を取ると強い力で引かれてしまい、勢いがついていた為にウーヴェの身体にぶつかるがしっかりと受け止められる。
 「ダンケ、リーオ────どうかこれからも俺が間違えそうになった時は教えてくれ」
 お前だけが持つ光で俺を導いてくれと囁かれて鼓動を跳ねさせたリオンは、微かに震える手でウーヴェの背中を抱き寄せながら俺はそんなに偉くないと自嘲するが、じわりと告げられた言葉の意味が染み渡り、それが指先に届くと同時に己の恋人が強い信念を持つ人だとも改めて思い知ると、腹が据わったような気持ちになる。
 「────ああ」
 お互いの仕事でのやるせない出来事や辛い現実に向き合うことが必ずあるだろうが、これからも二人で一緒にいればそれを乗り越えられる確信を改めて抱いたリオンは、その思いを恋人も感じてくれているだろうかと不安になり、そっと身体を離して端正な顔を覗き込むと、他の誰にも見せずに閉じ込めておきたいと思える程優しい笑みを浮かべて穏やかな双眸を僅かに細めて見つめている事に気付く。
 「オーヴェ…オーヴェ」
 「うん」
 どんな言葉も言えずにただ名前を呼ぶリオンに同じように頷くだけのウーヴェだったが、互いの胸に芽生えた思いをしっかりと受け止めたことを覗き込んだ瞳から知ると、どちらからともなく小さく笑いだして青年の死がウーヴェに与えたものが納まるべき所に納まった事を確かめ合う。
 今まで出会ってから幾つかの死を二人で経験し、その度に思いを吐き出しながらもこうして手を伸ばして背中を抱き、辛い思いもやるせないそれも己の中の収める場所に収めてきたが、今回もまたそれが出来た事に安堵し、もう一度だけ青年の死を悼んだウーヴェは、信じている事を伝えてくれる恋人に頭を預けて目を閉じる。
 「お疲れさま、オーヴェ」
 「……うん」
 リオンの優しい声に自然と口元が綻び、その気持ちのままありがとうと告げると、耳の傍でもう一つの言葉が欲しいと囁かれて目を開け、何かを期待する目でリオンが見つめてきているのを発見する。
 「リーオ……俺の太陽」
 愛してるとそっと囁いてキスをすると、良くできましたと満面の笑みを浮かべたリオンがキスを返し、そろそろ寝ようとウーヴェの腰に手を回してベッドルームへと促すのだった。

 今日一日予約が入っている患者の診察を滞りなく行い、少しでも顔色が明るくなった患者に安堵の笑みを、変わらずに暗いままの患者には焦らずゆっくりと一緒に治療していきましょうと告げて患者達を安心させたウーヴェは、リアが用意してくれるお茶を手に、昨日の電話の内容を報告し、彼女から安堵の言葉を貰ってそっと頷く。
 「…良かった」
 「気分が落ち着いたら、同じように家族を亡くした人達の活動に参加してみたいとも言っていた」
 「そう…辛いはずなのに、もう前を向いているのね」
 息子を亡くした悲しみはそう容易く癒えることは無い筈なのに、もうその先へと顔を向けて歩き出す準備をしている女性の言葉にリアが感心の声を挙げ、ウーヴェも同意するように頷いて窓の外へと視線を向ける。
 ここ数日降っていた雨や雪の気配を今は感じることはなく、午後からは太陽が冬の間でも天空に存在している証明をするように地上を照らしていて、少し湿り気を帯びていた街並みに光が差していた。
 太陽の光に眩しそうに目を細めた二人だったが、ウーヴェの脳裏には己の恋人の顔が浮かんでいて、彼が告げた言葉で自分は再び前を見ることが出来たのだと改めて気付き、日頃の言動からは想像も付かない一面をまた見せられた事にも気付くと、リオンの存在がまるで奇跡のように思えてくる。
 奇跡の人と呼べばおそらく目の前にいる彼女が吹き出してしまいそうだと一人苦笑し、窓の外から視線を戻すと同時にテーブルに置いた携帯から映画音楽が流れ出す。
 「何てタイミングだろうな」
 「え?」
 「何でもない─────Ja」
 『ハロ、オーヴェ!今日は帰りが遅くなると思う』
 「忙しいのか?」
 『ああ、ちょっと忙しいかな』
 奇跡の人は今日も忙しいのかと苦笑すると、奇跡の人って何だと素っ頓狂な声が返され、気にしないでくれと咳払いしつつ返して少しだけ真面目な口調で重要な事件があったのかと問えば、素っ頓狂な声が更に大きくなって返ってくる。
 『何処かのバカが寒いからってスプレー缶を使った火炎放射器を作ったけど、炎の勢いが強すぎて自宅が全焼したって────バカだと思わねぇか、オーヴェ!?』
 「……その人の怪我の具合はどうなんだ?」
 『前髪が焦げた!って叫んでるけど、前髪どころか頭のてっぺんも髪の毛なんか残ってねぇって!!』
 寒いのならばストーブでも暖炉でもつけて暖まれば良いものを、何を考えて火炎放射器など作ったんだ馬鹿野郎と捲し立てるリオンにただ苦笑したウーヴェは、とにかくお疲れさまとだけ返すが、小さなキスが携帯越しにされたことに気付いて目を細める。
 「…気をつけてな」
 『ダン、オーヴェ』
 忙しいことを伝えるように慌ただしく交わされた会話の後、恋人の声が聞こえなくなった携帯をテーブルに戻すと、椅子の上で身体を反らせて大きく伸びをする。
 「今日もお疲れ様でした、ドクトル・ウーヴェ」
 「フラウ・オルガもお疲れ様」
 互いに一日の疲れを労いあい、明日もよろしく頼むと言葉を交わして表情を柔らかくした二人は、お茶の時間を終えて帰宅の準備に取りかかるのだった。

 

 窓の外では顔を隠した太陽の残滓がきらりと窓に反射して光っていた。

 

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2012/01/26


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