Die Belohnung-1ー

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 ウーヴェが、同じアパートに入っているデンタルクリニックを経営しているアロイス・A・ベンカー医師と知り合った時の印象が今でも忘れられないのは、それが極めて強烈だったからだった。
 明日から開院するのでよろしくと、ある程度の人が思い浮かべる貴族と称される人々のイメージ通りの風貌を持つ青年が爽やかに手を差し出してきらりと光る歯を見せた横では、一見するだけでは年齢が分からない、猫背気味でぼさぼさの黒髪を水で撫で付けたような頭に手を当て、分厚いレンズが入った重そうな眼鏡を押し上げた男性が青年の声に合わせて軽く一礼をする。
 わざわざご丁寧にどうもと頭を下げ、お時間があるようでしたらお茶でもどうぞとオルガが二人に椅子を勧めたのだが、その顔には仕事中には滅多に見られない好奇心がありありと浮かんでいて、ウーヴェもそんな彼女の様子から来訪者に興味を持ったのだ。
 本棚の前のカウチソファに二人を案内し、ウーヴェがテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けると、分厚い眼鏡の下の小さな、だが好奇心旺盛に見える茶色い目がきょろきょろと動くが、ウーヴェが見ている事に気付いたのか、慌てるように俯いて頭をがりがりと掻きむしる。
 「…落ち着きがなくて申し訳ない」
 「いいえ。何か興味を引かれるようなものがありましたか?」
 同じ医者としての誼もあるので、気になる本があればお貸し致しますと掌を向けた時、オルガが紅茶を運んできてくれる。
 二人の前に紅茶のカップを置き、ミルクとレモンに砂糖とハチミツなどをセットすると、ウーヴェにはスプーン一杯のハチミツを入れたものを差し出す。
 「こちらのフラウは…?」
 「失礼。フラウ・オルガにはここで受付や事務全般をお願いしています」
 「リア・オルガです」
 「あなたの所には有能な方がいらっしゃる。羨ましいな」
 「ありがとうございます。ボスが有能なので、私にも勤まっているのだと思っています」
 「本当に有能で助かってます。あなたの所には?」
 「うちには後二人、高校を出たばかりの女性に来て貰うことになっています」
 といってもその二人は自分の身内なのだと苦笑し、親族経営になりますと笑う彼にオルガが一瞬見惚れたような顔になるのが珍しくて、ウーヴェが内心でかなり驚きつつ目の前の二人を密かに観察し始める。
 見るからに貴族然とした風貌で笑顔も爽やか、きっと趣味はテニスや乗馬などだろうと思わせる青年と、その横でまるで自分など存在しないと言うように小さく身を丸めてカップを両手で持つ青年-と思われる-人物があまりにも対照的で、どんな経緯で出会い仕事をするようになったのかと好奇心を刺激されてしまう。
 「ヘル・ベンカー、それともドクター・ベンカーの方がよろしいですか?」
 その好奇心を何とか抑えつつウーヴェが、長い足を組んでゆったりと腰掛けるベンカーに呼びかけると、どちらでも好きなように呼んで下さいと青年の横の胸の辺りから声が流れ出し、ウーヴェが眼鏡の下で目を瞠って小首を傾げ、その横ではオルガも同じように目を瞠っていた。
 「…アロイスでも良いです」
 「!?」
 微苦笑を浮かべる青年の横でぼさぼさの黒髪を今更撫で付けても手遅れと言いたくなるが、それでも必至に押さえる青年が気の抜けたような笑みを浮かべて分厚いレンズの下で目を細める。
 「まさか…?」
 「良く間違われます」
 あははと頭に手を当てて能天気に笑う年齢不詳の黒髪の青年こそが、新しく上の階にデンタルクリニックを開院することになったアロイス・A・ベンカーだったことを教えられ、ウーヴェとオルガが同じような表情で目を瞠って絶句する。
 「…失礼、しました」
 「良いんです。良く間違われますから」
 僕などどう見ても医者には見えないだろうと笑われ、失礼ですがその通りですねとウーヴェが返せば、呆気に取られたように目を瞠った後、隣の青年と顔を見合わせてくすくすと笑い出す。
 その仕草から意外と若いのではないのかと疑問を抱いたウーヴェに答えたのは、クリスと呼ばれたブロンドの青年だった。
 「アロイスは今年38になるんですが、身嗜みに気を遣わないせいか、酷い時には50歳と間違われたこともあるんですよ」
 「50は酷いですね…」
 ウーヴェの呟きにアロイスが分厚いレンズの下で悲しそうに目を細め、それはそれはショックで読んでいた本を取り落としてしまい、しかもその本の上を自転車が走っていきましたと答えられて何と返せばいいのか激しく悩んでしまう。
 「38歳…ウーヴェよりも年上…!?」
 「ああ、そうだな」
 そのやり取りの最中ようやく何かに気付いたオルガが高い声を挙げて口を押さえるが、どう見てもパッとしない、精彩を欠くような歯科医がウーヴェよりも年上だとはなかなか信じられず、また隣で悠然と腰掛けているクリスと呼ばれた青年が大学を出たばかりだと教えられても更に信じられなかった。
 ある意味でこぼこコンビとしか言いようのない二人に、ウーヴェとオルガが呆然としつつも興味深いと言う一致した感想を抱く。
 「明日からよろしくお願いします」
 アロイスがカウチソファの上で頭が膝に付くほど礼をし、ウーヴェもこちらこそよろしくお願いすると頭を下げる横では、クリスとオルガが互いのボスをよろしくとにこやかに握手を交わし合っていた。
 そんな出会いがあった後は、お互いのクリニックでの情報交換やお茶の時間にクリスを筆頭に、受付をしている二人の女性-一卵性の双子で、見分けるコツは眉尻にある小さなホクロ-を誘ったりもするようになり、彼自身の行きつけの歯科医が休診する連絡を受けたのを契機に、アロイスのクリニックに通う様になったのだった。


 今日も元気だメシが美味い。
 その言葉を聞いた人間が呆れるような事を高々と呟き、両手にナイフとフォークを持って満面の笑みを浮かべたのは、午後からの休暇を恋人の職場で満喫し、その後デートをしてゲートルートで二人で美味しいものを食べようと計画を立てているリオン・フーベルト・ケーニヒだった。
 その言葉に絶句したのは、診察室の本棚前の壁際にテーブルを置いて食欲をそそる料理を用意してくれたリア・オルガと、彼女を絶句させた張本人が愛してやまない最愛の恋人、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーだったが、小さな溜息一つでその言葉を聞き流したウーヴェは、どうぞ召し上がれといつもの癖で掌を向ける。
 「ダンケ、オーヴェ!」
 幼い頃は食事の前のお祈りなどしたことが無いと豪語するリオンだが、ウーヴェと付き合い出してからは何故か食事の前のこの一言だけは忘れる事が無くなったのだ。
 どれ程口を酸っぱくして言っても一度も祈らなかったのにと、彼が育った孤児院にいつかリオンとウーヴェが顔を出した際にシスターから教えられた事を思い出しつつ、元気よく挨拶をして食べ始めるリオンにただ感心と呆れを抱くものの、そんな所にも惹かれているのだと秘かに自覚していたウーヴェが微妙な表情を浮かべ、放っておくと総てを食べられてしまう事に気付いたらしいオルガが慌てながら己の分を確保する為に取り分けていく。
 「食わないのか?」
 食わないのならば俺が貰うと言いたげな顔をじろりと睨み、自分の分は自分で食べるから気にしないでくれたまえと笑いながら告げると、遠慮するなよと朗らかに返されて絶句する。
 「…ウーヴェ、早くあなたの分を確保した方が良いわよ」
 クリニックの事務方全般を引き受けてくれ、仕事を離れれば友人付き合いもしている彼女の言葉に溜息を零して従うように頷いたその時、小さな声が痛みらしき感情を訴えてくる。
 「リオン?」
 「………何でもねぇ」
 今の今まで人の分まで食い尽くしてやると鼻息も荒く宣言していたリオンだが、フォークをそっと置くと、正面と左から注がれる視線から顔を背けてしまう。
 「お前、まさか……」
 「あー、うん、何でもねぇっ!な、オーヴェ!何でもねぇって…!」
 ウーヴェが思い当たった一つの事を念頭に置きながら問いを発すると、それに気付いたリオンが一瞬だけ顔色を変えた後、何でもないと慌てふためきながらその疑問を否定する。
 だがリオンが力を込めて否定すればするほどウーヴェの中でその疑問はよりはっきりとしていき、オルガが首を傾げた時にはそれは確信へと成長を果たしていた。
 「────リア、アロイスは紹介が無くても大丈夫だったか?」
 「え?え、ええ、急な場合は受け付けてくれる筈よ」
 先程に比べれば遙かに落ちたペースでテーブルの上に並ぶ料理を再び食べ始めたリオンを尻目に、ウーヴェが意味ありげにオルガを見ながら問い掛ければ、何を問いたいのかを理解した彼女がそっと頷いてリオンの様子を窺う。
 「ん?どした、リア?」
 「いいえ。美味しい?」
 「最高!」
 「そう、良かったわ」
 あなたがそんな風に喜んでくれるからついつい沢山買ってしまうし、今日も来ると聞いていたのでキルシュトルテを持って来たと笑ったが、一瞬だけリオンの顔が引き攣ったのを見逃さず、ちらりとウーヴェを見つめて小さく頷くと、その後はウーヴェ同様一切リオンの様子に触れることなく三人でのランチを楽しく美味しく済ませるのだった。

 

 いつもに比べれば賑やかすぎるランチタイムを終え、オルガが休診日の午後に出来る仕事を片付ける為に己のデスクにつき、ウーヴェは調べ物をする為に診察室のデスクに陣取った。
 恋人が半分仕事のような事をしている横ではリオンが待合室のカウチソファを診察室に持ち込んだかと思うと、長い足を組んで仰向けになって寝入ってしまう。
 すぐ傍で聞こえてきた穏やかな寝息に苦笑し、寝るのならば家に帰れば良いと苦笑を深めようとするが、食事時に聞こえてきた小さな声が脳裏に響き、出来るのならばその痛みの元を無くす為に同じ建物内にある別のクリニックに行くべきだと溜息を零すと、調べる為に広げていた本を横に押しやる。
 全く仕方がないと肩を竦めた後、デスクの端に置いた電話に手を伸ばしてオルガに何やら依頼して受話器を戻すと、程なくして内線を告げるランプが点灯した為、受話器を肩と頬で挟みつつ寝入っている恋人の顔をちらりと見下ろす。
 『今日の午後は大丈夫だそうよ』
 「ありがとう。…後で言ってみよう」
 『我慢しているんじゃないのかしら』
 「そうだろうな」
 お互いの脳裏に浮かんでいるものが同じだと気付き、どちらからともなく苦笑をした後、受話器を戻して横に押しやった本を再度手に取ると集中できない苛立ちと格闘しつつ調べ物を一つだけ終えるが、二つめに向かう前にその根気が尽きてしまい、本を閉じるとカウチソファで眠っているリオンの身体を押しやって腰掛ける。
 「リオン、起きろ、リオン」
 「……んー…?…調べ物、もう終わったのか…、オーヴェ…?」
 「ああ。終わった」
 仕事の邪魔をする恋人を少しだけ怖い目つきで見つめたウーヴェだったが、眠い目を擦りながら身体を起こすリオンを見れば毒気が抜けてしまい、苦笑しつつその頬を撫でる。
 「────ぃ…っ……!!」
 「リオン?」
 いつもならば頬を撫でれば嬉しそうに目を細めてその後必ずキスをするのに、今日に限って言えばリオンはそれをしてこなかった。
 その事からも己がランチの時に抱いた疑問は間違いがないと再度確信をし、顔を顰めるリオンににこりと笑みを浮かべて天井を指さす。
 「リオン、この上にあるクリニックに行って来い」
 「……へ?な、何の事だよっ、オーヴェ!?」
 「良いから。保険証は持っているな?」
 驚愕に目を瞠って慌てふためくリオンの背中に手を回したウーヴェは、刑事であるリオンが身動きを取るよりも早くにそのジーンズの尻ポケットから財布を抜き取ると、呆気に取られるリオンを尻目にリオンの鼻先に突きつける。
 「アロイスは腕がいい。だから安心して行ってこい」
 「イ・ヤ」
 「…リオン。イヤじゃないだろう?」
 「ぜってー、イヤだ!!」
 突きつけられた財布を奪い返したリオンがウーヴェの言葉に舌を出し、その顔に思わず舌打ちをしたウーヴェが駄々を捏ねる子供を諭すように優しく告げるが、再度返ってきた断固拒否の言葉にこめかみをひくつかせる。
 「リーオ」
 「……ゃなものはヤなんだよっ!」
 「子供じゃないんだ。イヤも何も無いだろう?」
 本格的に駄々を捏ね始めた子供と化す己の恋人に顔を引き攣らせたウーヴェは、我が侭を言わずに早く行って来いと腕を引っ張ってカウチソファから引きずり下ろそうとするが、背もたれにしがみついたリオンが必死の抵抗を試みる。
 「リオン!」
 「いーやーだ!ぜってー歯医者なんて行かねぇ!!」
 今歯が痛いのは気のせいで、少し経てばこんな痛みなど消えてしまうとリオンが叫ぶが、それは痛みが消えたのではなく症状が末期の段階になったからであり、そうなった場合は最悪歯を抜かれてしまうんだぞとウーヴェが珍しく声を荒げてしまう。
 「~~~~~ぅ」
 「その年で差し歯や入れ歯はイヤだろう?」
 背もたれに顔を伏せるリオンの頭を撫でたウーヴェは、がばっと抱きつかれて危うく背後に倒れ込みそうになるのを何とか堪え、縋るように腕を回してくる広い背中をぽんぽんと叩く。
 「アロイスは本当に腕がいい。痛みなど感じずにすむから診て貰ってこい」
 「………いやだ」
 ここまで譲歩して優しく言っても無駄なのか、リオンが固い決意を翻すつもりは無いと言いたげに断言した時に診察室のドアが軽くノックされ、ウーヴェが返事をしつつリオンの身体を引き剥がそうとするが、まるで蛸の吸盤に吸い付かれたように大きな身体は離れてくれなかった。
 「こら、リオンっ!」
 人が来たのだから早く離れろと若干焦りながらリオンに囁くが、それもまた嫌だと拒絶されてしまい、口を開こうとしたウーヴェの耳に呆れたような女性の声が流れ込み、リオンの腕を掴んだまま石像のように固まってしまう。
 「………お仕事中だと聞いたのだけれど、今のあなた達を見て一体どれだけの人が仕事中だと察してくれるかしらね」
 外気の低さを室内にももたらすような冷たい声が二人に投げ掛けられ、ウーヴェがぎこちない動きで顔を向けて眼鏡の下でターコイズを思いっきり見開いてしまう。
 「…エリー?」
 いつかの出来事を彷彿とさせる姉の突然の訪問にどうしたんだと冷や汗混じりに問い掛けたウーヴェは、つかつかと歩み寄ってくる彼女の動きを目で追い掛け、カウチソファの向こうで腕を組んだのを見た途端、リオンの髪を引っ張って顔を上げさせる。
 「ぃてててて!!何するんだよ、オーヴェ…!?」
 「うるさい、バカタレっ!!」
 突然の暴行にリオンが悲鳴を上げるついでに顔を上げ、恋人にも共通する綺麗な綺麗な笑みを浮かべて見下ろしてくる女性に気付くと、後ろ頭に手を宛がって暢気な笑い声を上げる。
 「ハロ、アリーセ」
 「ハロ、じゃないでしょう…!?」
 あなたは弟の職場で一体何をしているのかしらと、腕組みしたまま笑顔で問い掛けるアリーセ・エリザベスの言葉にリオンが目を丸くし、額を押さえてきつく目を閉ざすウーヴェへと顔を振り向けると、見ての通り寝ていた所をオーヴェに叩き起こされたと不満を訴える。
 「そう……寝ていたのね?」
 「そうなんだって。寝てたら急に…っ!」
 アリーセが胸に秘めた想いをいつ吐き出そうか思案しつつ問いの形で確認すれば、リオンがガリガリと頭を掻きむしりながら不満に口を尖らせるが、その直後、痛みを感じたのか顔を顰めてしまう。
 「どうしたの?」
 「…な、でも…」
 「何でもないじゃないだろう?早くアロイスの所に行ってくるんだ、リオン」
 リオンの様子にウーヴェが我に返ったように顔を上げて立ち上がらせようとするが、先程と同じように背もたれにしがみついて断固拒否をされてしまう。
 「リオン!!」
 そろそろいい加減にしないとこちらにも考えがあるぞと、ウーヴェが珍しく腰に拳を宛がって仁王立ちになって見下ろすと、歯医者に行きたくない一心でどんな考えがあるんだよと反論されてしまって絶句する。
 「絶対に嫌だからなっ!!」
 歯医者になど行かないと叫ぶ大きな子供に何も言えずに溜息を零したウーヴェは、驚く姉に無言で肩を竦めて事情を掻い摘んで説明する。
 その説明を黙って聞いていた姉だったが、身体を丸めて断固として動かない事を伝えてくるリオンをちらりと見下ろしたかと思うと、カウチソファの空いているスペースに腰掛けて足を組む。
 「────リアに聞いたのだけど、今日はキルシュトルテなんですって?」
 細くてすらりと伸びた脚を組んで満面の笑みで弟を見上げた彼女は、弟の白い頭が上下した事に嬉しそうな気配を隠さないで小さく頷き、手入れの行き届いた手を顔の前で重ね合わせてそれは楽しみだわと弾んだ声を挙げる。
 「リアのトルテは本当に美味しいのよ。リアが学生の頃に良く作ってもらってたわ」
 昔を思い出して笑みを深めたアリーセだが、一瞬にして表情を切り替えてリオンの背中を見つめたかと思うと、ああ、本当に可哀想と心底気の毒に思っているのか怪しい声を挙げ、次いで堪えきれないと言った風情で高々と笑い声を上げる。
 「あぁんなに美味しいトルテを食べられないなんてもったいないわ。でも安心なさい。あなたの分は私とフェルがちゃんと食べてあげるわ」
 「!?」
 「エリー!?」
 「歯が痛い人に甘いものなんて、風邪を引いている人に水を掛けるのと同じ事よねぇ」
 でも本当に残念だわ。おお、可哀想なリオン。
 くすくすと笑い、あの頃作ってくれていたものと変わらないのならばそれはそれは食べ応えがあるわねぇとアリーセが目を細めた瞬間、カウチソファから金色の嵐が舞い上がり、呆然とするウーヴェの身体に思いっきりしがみつく。
 「ホントに痛くないか!?あっという間に終わるか!?」
 「あ、ああ…俺が保証する。アロイスの腕前は最高だ」
 外見はともかくとして、医師としての腕前は最高の部類に入るだろう。
 ようやくカウチソファから剥がれてくれたとウーヴェが内心で溜息を吐き、問われたことに誠実な答えを返すが、しがみつく力に苦痛をも訴えてしまう。
 「早く行ってこい」
 「………ぅ……」
 上の階にある歯医者に行くだけの事なのに、まるで人生で最大の難関に立ち向かう人の真剣さで天井を睨んで口籠もったリオンに再び高笑いが投げ掛けられる。
 「ああ、そうそう。ねぇ、リオンちゃん」
 「!!」
 「弟が虫歯になったから歯科医に行くなんて聞けばどうなるか。賢いリオンちゃんにはお分かりよね?」
 「……キルシュトルテ、残しておいてくれよ、オーヴェっ!!」
 完全に小さな子供扱いをされた苛立ちから地を這うような声で吼えたリオンに、アリーセの、天空で己の分身を舞い散らせて楽しむ氷の女王の怜悧な声が返すと、がるるるると吼えたリオンがウーヴェの頬にキスと行ってくるの言葉を残して診察室を飛び出して行く。
 文字通り金色の嵐と化した恋人の背中を呆然と見送ったウーヴェは、姉の溜息混じりの声に気付いて顔を向け、姉が言葉ほど呆れていない様子に気付いて目を瞠る。
 「エリー?」
 「まったく……あの子が大きな子供だと言ったのはあなたよ、フェル」
 姉の言葉に返す言葉が無かった弟は、デスクの端に尻を載せて気まずい空気から逃れるように窓の外を見つめるが、子供だというのならばやる気を引き出してあげなさいとぴしゃりと言い放たれて苦笑し、助かったと礼を言う。
 ほんのひと月程まではお互い顔を合わせた事も無かった姉と恋人だが、ウーヴェの家にアリーセが泊まりに来た事で必然的に湧き起こった騒動の後、姉としては弟の恋人がリオンのように騒々しい子どもじみた性格というのはやはり受け入れがたいが、ウーヴェ自身がそんな彼を愛しているのだと知り、二人の交際を受け入れるだけではなく、リオンという人格そのものも認め受け入れてくれたのだ。
 リオンはリオンで姉に対する蟠りや偏見があったがウーヴェが間に入って擦った揉んだした結果、お互いを許し合う広い心をいつものように感じさせてくれた後、お互いにファーストネームで呼び合うようになったのだ。
 そんな二人が今のように言葉のキャッチボールが出来るようになったのは、姉の自分の幸せを願う心とリオンの広い心があるからこそだと再確認したウーヴェは、姉の言動の真意に不意に気付いて目を瞠り、苦笑する彼女を見つめて目を細める。
 あのように頑なになったリオンに自発的に歯医者に通わせるには、通った方が良いことがあると思わせる事と、自分一人だけが美味しいものを食べられないという状況に追いやる事が有効と判断し、アリーセは彼女だけが持つ冷たさでリオンを歯医者に行くように仕向けてくれたのだ。
 「エリー、ありがとう」
 「あら、お礼を言われるようなことをしたかしら?」
 白磁のような頬をうっすらと赤くしながら強がるように顎を上げたアリーセにもう一度ありがとうと告げたウーヴェは、キルシュトルテが美味しいのは本当かと問い掛けてさっきまでとは全く違う、心からの笑顔を見せられて釣られたように笑みを浮かべる。
 「お店開いて欲しいって思うほど美味しいわよ」
 「それは楽しみだな」
 「そうよ。私はリアの仕事の邪魔をしないように本を読んでるけど、あなたは今のうちにやっておきたいことがあるのならばしておきなさい」
 「…そうする」
 10も離れた姉の言葉は幼い頃に言い聞かされていたものと全く変わることはなく、懐かしさと聞かされた当時も辟易していた事を思い出し、症例を調べる為にデスクについて本を再度開くのだった。

 

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2011/02/24


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