冬の女王がようやく眠りに就いた休日の朝、いつもと同じ時間にベッドを抜け出した彼は、春とは言えまだ少し冷える廊下を足早に歩いてキッチンへと向かい、まだ眠っている恋人のための朝食の準備に取りかかっていた。
お互いの家を行き来するようになってからまだ半年も経っていないが、休日に合わせて恋人が泊まって帰る日が増えだした。
メンタルクリニックの医者として働く彼の休日はほぼカレンダー通りだが、刑事として忙しく働く恋人はカレンダー通りとはいかず、何日も顔を見ることもない日々を送らなければならない事もあった。
逢えない事は少し残念-どころか、胸の奥に奇妙な痛みすら感じてしまうほどの寂寥感を与えていたが、それを素直に口に出すことなど出来る筈もなく、逢えない寂しさを閉じこめていたある夜、仕事から帰ってきた恋人が抱えていた不満を爆発させた。
一頻り感情を爆発させた後の様子からどうやら自分と同じものを抱えていたらしいと知り、素直になれないでいた己が馬鹿らしくもなった為、これからはどんなに遅くなっても家に帰ったときには電話をするかメールをしようと約束をしたのだ。
そして、その約束がしっかりと習慣へと変化した頃、気付いてみれば洗面台の棚に自分のものとは違う香水のボトルが並んでいたり、クローゼットの空きスペースに今まであまり買った事のないジーンズやブルゾンが遠慮がちに仕舞われるようになり、ダブルベッドには無造作に脱ぎ捨てられたままのパジャマが放り出されるようにもなっていた。
今彼がいるキッチンでもその変化は当然ながら現れていて、よく使うカトラリー等を入れている引き出しを開けば全く意匠の違うものが並んでいるし、恋人が泊まりに来た翌朝に必ず使うマグカップも、ある夜浮かれた恋人が持参したものだった。
彼自身考えもつかなかったデザインのそれを半ば強引に使えと手渡されたが、泊まりに来た夜に飲むミルクたっぷりのコーヒーや、逢えない時間を補って尚余りある密度の濃い夜を越えた朝、こうして自分が作った朝食を食べるときにそれを使う恋人を見ていると、嬉しいのであればそれで良いとすら思うようになったのだ。
そんな些細な事だが彼にとっては大きな変化を日々重ね、気がつけばお互いの生活に欠かせないものが一つずつ増えていた。
コーヒー豆をセットし、今朝はイングリッシュマフィンのサンドにしようと準備にかかる。
ベーコンにしっかりと焼き目を付け-これは彼の好みだが、次に用意をしたオムレツが半熟でチーズ入りなのは間違い無く恋人の好みだった-を作り、好物のソーセージもボイルする。
朝食にこれだけの量を食べるようになったのも、今の恋人と付き合いだしてからだった。
今までの暮らしからすれば信じられない程の量を朝からしっかりと食べ、どたばたと慌ただしく支度をして出掛ける恋人をこの家から送り出す事も初めての経験だった。
まだ実家に住んでいた頃は家族との接触を避けるようにしていた為、両親や兄とはほとんど顔を合わせることはなく、せいぜい廊下や玄関で家人に無表情に挨拶をする程度だった。
あの家を出てそろそろ何年になるのかと思案した時、ボイルしていた鍋から水滴が飛び上がってぼんやりとしている彼の手の甲に跳ねる。
「っ!」
熱さに我に返ってちょうど食べ頃になったそれを慌てて皿に移し、後は本人が好きなものをサンドすればいいように壁際のテーブルにセッティングすると、エプロンを外してベッドルームへと戻る。
広いベッドルームの窓際に置いたダブルベッドのど真ん中、気持ちよさそうに枕を抱え込んで眠りこける恋人の姿に何とも言えない溜息を吐いた彼は、ベッドサイドに腰掛けてそっと素肌の肩を揺さぶる。
「リオン、起きろ」
そろそろ時間だぞと優しく声を掛けながら起床を促すが、返ってくるのは呆れるほど気持ちの良い寝息だった。
「リオン」
寝起きの悪さは本人から聞いていた通りで呆れ返ってしまうが、それすらも恋人を形作るものだと苦笑し、早く起きなければせっかくのオムレツが冷たくなるぞと、くすんだ金髪を一房手に取る。
「リーオ」
「~~~~~~~んーっ!!」
最後だというようにそっと名を呼んで髪を撫でれば、この世で最大の不満を訴えるような声が挙がり、ついでに拳も突き上げられる。
「おはよう、リオン」
「んー………ん?んぁ…?」
どうやら寝惚けているらしい様子にくすりと一つ笑みを零し、朝食の用意も出来ていると突き上げられた拳をぽんと叩くと、その反動で上体が起き上がってくる。
「おはよう」
「……ん、はよ…」
眩しそうにぱしぱしと瞬きをして何とか目を覚ます準備をしながら聞き取りにくい声でおはようと告げた恋人に、彼、ウーヴェがもう一度くすりと笑ってその頬を撫でる。
「チーズ入りオムレツが冷めるぞ?」
「起きる!!」
目の前にご褒美をちらつかせた途端やる気が出るのは子どもと同じようで、それがおかしくてつい楽しげに笑ってしまうと、何か変なことを言ったかと首を傾げられる。
「何でもない。ホットサンドにするか?」
「一つがホットサンドで一つがそのままがいいな」
「分かった」
朝から欠食児童並みに食べる恋人に感心しつつ、注文通りにホットサンドを作ろうとベッドから立ち上がった瞬間、腕を引かれて背後に倒れ込んでしまう。
「こら、リオンっ!」
「オーヴェ、忘れてる」
がっしりとした腕が身体に回されて身動ぎ出来ず、イタズラが成功した顔で笑うリオンを睨み上げたウーヴェだったが、忘れてるともう一度言われて目を丸くした後、ぽんと腕を叩いて自由を得る。
「おはよう」
「ん、おはよう」
忘れていたおはようのキスを軽く交わした後、早く着替えを済ませて来いと髪を撫で、今度こそ朝の支度を仕上げるためにベッドルームから出て行くのだった。
召し上がれと示されたイングリッシュマフィンに好きなものばかりを詰めようとしたリオンは、真横から送られてくる視線に気付いて顔を向け、野菜も食えと言われて舌を出す。
「ヤダ」
「ヤダじゃない」
恋人の手からサンドを奪い取り、目と口を丸くするリオンの前で不足している野菜を素早く挟んで返せば、嬉しいけれども嬉しくないと言いたげな顔でリオンが礼を言う。
「ソーセージと一緒に食べれば良いだろう?」
「……何で野菜なんかあるんだよ。肉だけで良いのに」
不満タラタラの声に苦笑し、あまり文句を言うのならば明日の朝はクロワッサンとカフェオレだけのフランス式の朝食にするぞと脅しを掛ければ、喉の奥に何かが詰まったような呻き声が聞こえ、くすくすと笑いながら新聞を広げる。
彼の父親が一代で作り上げた会社は今ではヨーロッパ各国でも有名になり、メディアに登場しない日は無いほどの有名企業へと成長していた。
その中核会社の社長を務める兄へのインタビューが新聞に掲載されていて、先程までの楽しげだった気分が一気に吹き飛んでしまい、少しばかり手荒く新聞を閉じて頭を一つ振る。
ドイツでも有名な企業の会長と社長なのだ。暮らしていれば必ず何処かで目に触れる。
それを見かけただけで気分が悪くなっていては生活に困難を来してしまう為、事情を知る主治医や大学に通っていた時に知己を得た教授のアドバイスで、己の感情が不意の事態に巻き込まれても大きく揺れないように訓練し、漸く人並みの生活を送れるようにもなっていたのに、新聞記事で少しとはいえそれが破れたことは良い傾向ではなかった。
その為、小さく深呼吸を繰り返して落ち着けと己に命じた時、頬に視線が注がれている事に気付いて肩を竦める。
「オーヴェ」
「何だ?」
「これ、野菜入ってるけど美味いな」
絵に描いたような顔で笑う恋人に呆気に取られるが、さっき芽生えた嫌な気分が徐々に薄れていき、秘かにその礼を兼ねてにこりと笑みを浮かべる。
「じゃあもう一つは野菜ばかりで良いな?」
「信じられねぇ!オーヴェのイジワルっ!!」
目を吊り上げるリオンに小さく声に出して笑ったウーヴェは、己の気持ちを切り替える切っ掛けを用意してくれた恋人に感謝し、今まさに歩き出そうとしている三つ編みの女の子がシルエットで描かれたマグカップを二つテーブルに並べてコーヒーを注ぐ。
「ミルクはどうする?」
「半分」
あっという間にサンドを一つ食べ終えたリオンは、次のサンドを作りながら今日はあまり忙しくないと良いなと呟く。
「そうだな」
刑事であるリオンが暇なことは良いことだと目を細め、オーヴェは何をするんだと問われて掃除でもするかと返すが、掃除をしなければならないほど部屋が汚れている訳でもないだろうと、サンドを囓りながらリオンが器用に肩を竦める。
ウーヴェが普段使っている部屋はベッドルームとリビング、そして今食事をしているキッチンだけで、他の部屋は滅多に使わないどころか足すら踏み入れないために汚れたり散らかるはずがなかった。
あまり物を買う方ではない為か、家にあるものは広さに比べれば本当に些細なものばかりで、万が一何処かに引っ越しをする事になってもあっという間に荷物を運び出せるだろう。
逆にリオンの部屋はと言えば、少しはものを捨てろと言いたくなるほどの散らかりようで、リオンの家に向かったウーヴェがする事と言えば掃除であったり、散らかった衣類を畳んで一纏めに置く事だった。
恋人の部屋の有様を思い浮かべたウーヴェの脳裏、先程見た新聞記事の兄の顔がするりと滑り込み、無意識に眉間に皺を寄せてしまう。
リオンと二人で気持ちの良い朝の邪魔をして欲しくなかった。
その思いが堪えようとしても無意識に言葉に滲み出してしまう。
「部屋なんてちょっとぐらい散らかっていても死ぬ訳じゃないのになぁ」
「お前は良いかも知れないが、俺は嫌だ」
「えー、そりゃ俺も嫌だぜ。部屋は綺麗な方が良いって」
「だったら片付ければどうだ?ただでなくても狭くて汚いんだからな」
呆れるような言い訳をするリオンをちらりと見つめて皮肉を言うウーヴェを一瞬驚いたような顔で見返すが、程なくしてロイヤルブルーの双眸が細められ、眇めた目で見つめられる。
「リオン?」
急にどうしたと真正面から見つめるが、返ってくるのは別にという素っ気ない言葉だけだった。
つい先程までいつも通りの機嫌の良さで笑っていたのに、何が一体機嫌を急降下させたのかが理解出来なかった為、眼鏡のフレームを指で撫でる。
「オーヴェ」
「…なんだ?」
「うん、今日も美味い朝飯ありがとう」
メチャクチャ美味かったと、食べ物への感謝だけは忘れないとリオンが笑顔で礼を言い、どういたしましてと返すウーヴェも一瞬だけ気分が浮上するが、その後無言でキッチンから出て行ったリオンの背中に深い溜息を零す。
いつも笑顔が多いリオンだが、あのような態度を取ると言う事は気に障るようなことを言ったのだろう。
何かが悪いとは気付いたが、何が悪かったのかは分からなかった。
急に静かになったキッチンにもう一度溜息を零し、それでも綺麗に平らげられている皿を食洗機に入れた後、部屋の掃除をするかと気分を切り替えたウーヴェは、手早く後片付けをしてキッチンを出て眉を寄せる。
廊下の左、寝室のドアが少し開いていたのだ。
開けっ放しにするなといつも言っているのにと溜息を吐き、ドアを開けて恋人の名前を呼ぶ。
「リオン」
まだ出勤の支度をしているのかと声を掛けるが返事はなく、閉じられているクローゼットのドアと同じく閉じているバスルームのドアを見、最後にベッドの上折り畳まれたパジャマが枕元に置かれている事に気付いて目を瞠る。
広い家なのが災いしたのか、リオンが出て行った事に気付かなかった。
その事実に気付いた瞬間、脳内で音にも言葉にもならない何かが響き渡り、それに突き動かされるように廊下に飛び出して玄関まで走っていく。
玄関ポーチの壁にはウーヴェのコートだけが掛かっていて、昨夜帰ってきた時に自らが掛けたブルゾンは影も形もなかった。
お互いの家を往き来するようになり、こうして朝の時間を過ごす回数も増えてきたが、黙って仕事に行った事は今まで一度もなかった。
その事実がウーヴェ自身も想像しなかった程のショックを与えたようで、暫くの間呆然と立ち尽くすのだった。
いつも、と言っても良いほど恒例となった見送りとキスをすることなく、リオンが出て行った事すら気付かなかったショックから何とか立ち直ったウーヴェは、今日の予定通りにしようと気分を切り替えてリビングの掃除をしていた。
独りで住むのだからメイドを実家から何人か通わせればいいと、この家に引っ越してきた当初父と兄に言われた事があったが、実家との関係を出来るだけ断ち切りたいと思っていた彼にしてみればその申し出は迷惑だった為、結構ですときっぱりと断った。
また、己の身の回りのことぐらい出来なくてどうするとの思いも強くあり、洗濯などは午後の休診日を利用して纏めて洗うかクリーニングに出し、同じく部屋の掃除も週末にするようにしていた。
一人暮らしをしてしばらく経った頃、弟の暮らしぶりがどんなものかを見に来た姉と母に、一人暮らしを満喫しているから安心してくれと告げた彼だが、その後自ら洗濯や掃除をし、時々食事も作っていると話した途端、二人の表情が一変した。
姉が静かに冷たく怒り狂う様は幼い頃から見慣れていたが、さすがに母がここまで厳しい表情を浮かべ、同じく厳しい声で名を呼んだことなどなかった為に驚愕に目を瞠っていると、その後一切家事などするなと厳命されてしまい、その理不尽さに絶句してしまう。
己の母が女性は竈の面倒を見ていればいいと言う考えに反対している事はよく知っていたが、何故その思想を受け継ぐような行動を息子が取れば怒るのかが理解出来なかった。
何故だとやっとの事で問いかけたウーヴェに返されたのは、あなたは医者として働き成長するためにも交友関係を深める事が今は必要で、家事など些末なことはしなくても良いという、ある意味納得できるような、だが思わず呆気に取られるような言葉だった。
これまで通り家事を続けるというのならば実家に帰ってきなさいと姉に言われた瞬間、さすがに堪えきれずにテーブルを叩いてしまった彼に二人は驚いたように目を瞠ったが、歯を噛み締めながら否定するウーヴェに何も言えずに口を閉ざした。
子供の独り立ちを邪魔する無粋な親ではない、もっと早くに独立させてあげたかったと詫びつつも、身の回りのことを自らする事に断固として反対する母と姉に渋々頷いた彼は、いくら信頼の置ける人であっても仕事で得た情報をおいそれとは見せられない為、部屋の掃除だけは自らがすると申し出、やっとそれだけは許して貰えたと言う経緯があった。
後日ベルトランにその話をした途端、顎が外れるのではないかと言うほど驚愕の表情を浮かべられた直後に腹を抱えて笑われた為、やけに艶々している頬を思いっきり引っ張ってやったが、おそらくは誰に言ってみたところでおかしいと、過保護すぎると笑われるだろう。
父や兄はともかく、母と姉が周囲から見れば過保護すぎる言動を取るようになった原因を理解しているため、止めてくれと強く出ることも出来ず、後日、実家では古株の顔馴染みのメイドがやって来て、食事は外で済ませる事、部屋の掃除は自分でする事、洗濯だけを頼むと告げたのだ。
そんな経緯があり、部屋の掃除だけは断固として譲らなかったウーヴェは、それ以降週に3日家にやって来るメイドに洗濯だけを任せていて、それは今も変わらなかった。
リビングの掃除を済ませた後、人目につけばまずいと思う書類等が出てきた為、それらを一纏めに手にとってベッドルームに向かう。
壁際にある使い込んでいるデスクから小さな鍵を取り出し、クローゼットの突き当たりの壁に小さく空いている鍵穴に差し込んで壁を押せば、リオンも知らない小さな入口が姿を見せる。
仕事上人目に触れさせられないものを収納している小部屋なのだが、例えそれがリオンであっても見せることに躊躇いを覚える数々のものが布を被せた箱の中に収まっていた。
今朝のリオンとの会話を思い出し、直前に脳裏に浮かんだ兄の顔につい苛立ちを覚えたまま言葉を紡いだ結果、リオンの機嫌が一気に悪くなったのだが、おそらく部屋の狭さと汚さを皮肉な思いで告げたのが悪かったのだろう。
掃除をしながら考え続けて結論付けてはいたが、脳味噌の片隅では何かが明滅していた。
それがはっきりと分からずに苛立ちを感じ、掃除をしているときに見つけた書類を箱にしまおうと布を取り払った時、箱の蓋も一緒に外れてしまい、薄暗い部屋の床に落ちてしまう。
この部屋も定期的に掃除をしているために埃まみれになることはないが、少しだけ舞い上がった埃に一つ咳をした後、床に数枚の写真が落ちている事に気付いて拾い上げ、それを見て目を瞠る。
色褪せた写真の中、抱き上げる人物に嬉しそうにマフラーを掛けようとしているのは幼い頃のウーヴェ自身だったが、もしこの写真をリオンが見れば、ウーヴェだと理解するのに時間が掛かりそうだった。
幼い頃の面影がない訳ではなく、嬉しいときに浮かべる笑みは写真も今も大して変わりはなかったが、写真と今の彼とは大きく違う点が一つあり、その決定的な違いをもってして別人だと言っても通用するものだった。
それは、髪の色だった。
今の彼を良くも悪くも示す、白にも銀にも見える不思議な色合いの髪ではなく、彼の両親や兄姉ともまた違う、写真で見ても柔らかそうな明るい栗色だったのだ。
髪の色がもたらす影響から今の彼と写真の中の子供を同一人物だと思うのには難しく、唯一とも言える共通項は右目尻にある小さなホクロだけだった。
抱き上げる人物が好きで仕方がない顔で笑う幼い己をこれ以上直視することが出来ず、拾い上げた写真を一纏めにして乱雑に箱に入れると、持ってきた書類も一緒に投げ入れて蓋をし、更に布を被せて悪夢に蓋をするように閉じこめる。
その時に舞い上がった埃に再度咳き込んだウーヴェだが、じわじわと何かが浮かび上がってきそうになり、歯を噛み締めて拳を握ると同時、小部屋の壁を力任せに殴りつける。
「うるさい!消えろ!!」
小部屋の中にはウーヴェしかおらず、うるさいどころか物音一つしなかったが、彼の脳裏には消えることのないけたたましい笑い声が響いていて、それを掻き消すためにもう一度壁を殴りつける。
今朝の新聞を読んだ時のよう、日頃の冷静さが失われている事は危険な兆候だった。
何とかそれに気付いたウーヴェが小部屋を後にし、そのままベッドルームを出るとリビングへと何とか戻ってくる。
つい先程見てしまった写真を早く記憶の奥底に押し込め、今は大丈夫なのだと、もう平気なのだと言いたかった。
リビングの中央にある恋人のお気に入りのカウチソファに倒れ込むように座った時、異様な大きさを誇る黄金色のテディベアの足に手が触れる。
その手触りに不意に心が軽くなった気がし、ソファに半ば倒れ込みながら伸び上がってテディベアの足に腹這いになれば、すっかりと馴染んでしまっている恋人の匂いが鼻腔を擽る。
「────っ!!」
今朝、恒例になっている行って来いのキスも出来ず、それどころか背中を見送ることすら出来ずに行ってしまったリオンの笑顔が脳裏に浮かび、つい無意識にテディベアを抱きしめる。
ふかふかと手触りの良い黄金色の縫いぐるみだが、こうして匂いだけを感じていると、その毛並みと同じ色合いの髪を持つ恋人に抱きついているような錯覚を抱いてしまい、きつく目を閉じれば視界を閉ざすことで鋭敏になった嗅覚がより一層リオンの匂いを伝えてくる。
少し前まで感じていた、頭の中で割れた鐘が鳴っている様な不愉快な音とけたたましい嘲笑はいつしかすっかりと消え去っていた。
代わりに響くのは、このテディベアをプレゼントされた夜にも告げられた、一人にしないという言葉だった。
最も情けない姿を見せた夜にも傍にいると、見るもの総てが安堵するような笑みを浮かべた顔を思い出し、テディベアの腕を握って軽く頬を当てる。
心が過去へと引きずられることで変調をきたす己の身体だが、黄金色の毛並みと温もりに触れていると徐々に呼吸も楽になりはじめ、脳裏を占めていた言葉にならない不安がゆっくりと薄れていく。
深呼吸を繰り返し、色が付いているのならばきっと金色だと思える空気を吸い込んではもやもやとしたものを吐き出していく。
緊張を覚えていた身体も徐々に解れていき、何度目かの深呼吸をする頃にはすっかりと脳内の嘲笑も胸中の不安も焦燥も消え去っていた。
今まで経験したことのない程、穏やかにかつ短時間で不安が消え去った事に呆然とし、頬を当てていたテディベアの足に今度は額を押し当てて何故だろうと考えてみるが、過去の悪夢に引きずられた頭と身体が極度の緊張から来る疲労を訴えた為、足を枕に横臥する。
うとうととし始めた時、不意に恋人の顔が脳裏に浮かび上がり、何か口を開いているのだが、何を言いたいのか、また声に出していっているのかは聞こえなかった。
何を言っているのか分からない。そんなに離れた場所ではなくすぐ傍で言ってくれ。
あの約束を忘れないでくれ、一人は嫌だ。
そんな、子供のような我が儘な思いが脳裏を巡るが、音となって口から出て来たのは、彼だけが呼べる恋人の名前だった。
「……リーオ…」
その呟きを自身で聞く事はなく、ウーヴェの意識は深い闇へと沈んでいくのだった。
信じる強さ | Next
2010/05/23


