Glück des Lebens-Heavenly Blue 9-

 リオンとのビデオ通話を強制的に終わらせたのは、ルクレツィオだった。
 レイプし犬のように扱って自尊心をほぼ砕いたと思っていたが、リオンが俺の総てとウーヴェに伝えた後、ウーヴェの目に僅かながら生気が戻った事に気付き、このまま会話をさせていると今までの調教-と言う名の拷問-が無駄になることにも気付いたのだ。
 せっかく時間をかけて調教し、もうすぐ訪れる客人に成果を見せることになっているのに、絶対に諦めない思いを再び抱かれてしまうと厄介なことになってしまう。
 言いなりにならないと反抗心や反発心を持つのはそれを打ち砕く楽しみがあったが、必ず迎えに来ると言う思いをもたれてしまうと、この先どんなに酷い暴力を受けたとしても、必ず隙を見つけて逃げ出すかも知れなかった。
 その危惧からビデオ通話に使っていたラップトップに繋がるケーブルを引き抜いたのだが、ジルベルトが驚いた様に見てきたため、肩を竦めてこれ以上話をさせるのは危険だと告げ、納得のいっていない顔の幼馴染みにもう一度肩を竦める。
 「ルーチェ、怒るな」
 「・・・怒ってない。怒るとしたらこいつの顔を殴ったあの男に対してだ」
 床に引き倒されているウーヴェを見下ろしたジルベルトが冷たい声で言い放ち、部屋の隅でがたがたと震えている男を同じ冷たさで睨み付けると、確かに顔を殴ったのは許せないとルクレツィオも溜息をつきつつ男を見る。
 「割と力を入れて殴ったみたいだからな。痣になるな」
 せっかく客好みの端正な顔をしているのに、痣を付けてしまえば更に価値を無くしてしまうと舌打ちをし、少しでも痣にならないようにするために顔を冷やさせようと濡れたタオルの用意をルカに命じたルクレツィオは、客に見せるためにそろそろ身体の傷も手当てをしておこうとジルベルトに提案されて渋々頷き、もっと血を流している方が客も喜ぶと思うのにと諦めきれない顔で溜息をつくが、リオンにサディスティックと称されたことに苛立ちを感じ、その思いのままマリオを呼びつける。
 「傷の手当てをして風呂に入れろ」
 「分かりました」
 ルクレツィオの機嫌が甚だよろしくないことを察したマリオは、ウーヴェの腕を掴んで立ち上がらせるが、抵抗するでも大人しく従う訳でも無いウーヴェに小首を傾げつつ地下室から連れ出し、顔を冷やすためのタオルを取りに行ったルカにも手助けして貰う為にバスルームに来てくれと告げるのだった。
 部屋の隅で震えている男に対する興味を最早失った二人は、当分あいつの調教は休憩するからそのベッドで休んでいろと命じてリビングに上がっていく。
 「ルーク、そろそろあいつの始末を考えないか?」
 リビングのソファに力なく座ったジルベルトがタバコに火を付けつつ気怠げに呟くと、ルクレツィオも珍しくジルベルトのタバコを一本拝借し、火を付けて不味そうに顔を顰める。
 「・・・クスリをもっと与えるのか?」
 「リオンが殺すなと言っていたからな」
 始末と言っても殺すのではなく、己の意思表示が出来ないほどにクスリで脳味噌を壊してしまえば良い、つまりは過剰投与で廃人にしてしまえば良いとジルベルトがテレビの隅でようやく起き上がって簡易ベッドに転がった男に向けて煙を吹き付けると、ルクレツィオが冷蔵庫からビールを持って戻って来る。
 「リオンが言っていたから殺さないのか?」
 その言葉が気に食わないと、幼い頃と変わらない嫉妬深い目でジルベルトを睨んだルクレツィオは、嫉妬するなと肩を竦められてしていないと強く言い放つが、お前がリオンと楽しそうに話すのが癪に障ると吐き捨ててビールを飲む。
 端正な顔にどす黒いとしか言いようのない表情を浮かべ、何故お前がリオンを気に入るのかが分からない、あんなガキとも吐き捨てると、ジルベルトが無言で肩を竦める。
 「・・・まあ、まだもう少しここは大丈夫だろう。その間にあいつの痣を何とかしないといけないな」
 ルクレツィオとリオンについて口論するつもりはない為に話題を切り替えると、ビールを飲んで満足の溜息をついた幼馴染みを見つめ、手を伸ばして見事なブロンドを撫で付けると、拗ねてそっぽを向くかと思ったが、ジルベルトの手首を掴んで掌に口付けたため、何度か瞬きをしてしまう。
 「・・・ジル、お前は俺の光だからな」
 「ああ」
 だからリオンにとっての光になるなと言外に告げたルクレツィオは、さすがに気恥ずかしいのか嫉妬を見せてバツが悪いと感じるのか、伸びをして立ち上がった後、今日は先に寝るが、背中の傷の手当てをした後で地下のケージに閉じ込めておけとルカとマリオに命じてベッドルームに小走りに向かう。
 ルクレツィオのその背中をただ見送ったジルベルトは、マリオが消毒薬と包帯やガーゼなどを抱えてバスルームに向かう前に呼び止めて先程のルクレツィオの言葉を伝えると、自身も何故か覚えた疲労からルクレツィオとは別のベッドルームに向かうのだった。

 

 モニター越しにウーヴェがリオンと会話をしたその夜、久しぶりにシャワーを浴びて-正確には浴びせられて-強制的に身体の汚れを落とされたが、薄く貼った瘡蓋を破るように鞭で打たれた事から、シャワーの湯に血の赤が混ざってシャワーブースの排水溝に吸い込まれていく。
 己の足下を流れていく赤いそれをぼんやりと見ていたウーヴェは、背中の痛みも尻の痛みも不思議なことにさほど感じていなかった。
 それは、痛みに慣らされ諦めた結果ではなく、必ず迎えに来るとリオンがいつもと変わらない口調で、ウーヴェが愛してやまない蒼い双眸をぎらりと光らせて約束してくれたからだった。
 あの時、ウーヴェの心は救出されることを既に諦め、己を犬扱いする二人やその二人が送りつけると言っていた客に引き渡されるのを待つだけになっていた。
 だが、ジルベルトがリオンの顔を拝ませてやると他意のある顔で笑って告げた後、予想通り見せつけるように男に犯され、ああ、もうダメだ、万が一助かったとしても二度とリオンの元には戻れないのだと諦めたのだが、無理矢理のその行為が、ウーヴェが望んでいるものではないとしっかりと見抜き、リオンなりの言葉で反論してくれた事に自然と涙が流れた。
 『Du bist mein Ein und Alles.』
 俺の総てと、モニター越しにキスをし告白したリオンの言葉が、諦めていたウーヴェの胸に入り、じわりじわりと広がっていった結果、激痛のはずのそれをあまり感じることが無く、血が流れる事で視覚を通して痛みを認識したほどだった。
 拘束されているままの手で額に張り付く前髪を掻き上げたウーヴェは、壁に貼り付けてある曇っている鏡に己の顔を映し出し、口の端から痣が広がっている事、無精ひげが薄く伸びている事に気付き、掌でざらざらの顎を撫でる。
 シャワーブースの外で退屈そうにマリオが己の携帯を見ているが、数日ぶりのシャワーはウーヴェの心身の汚れを洗い流してくれるが、それでも二人とルクレツィオにレイプされた心身の傷は血を流していて、どうせならばそれらも洗い流してくれと願いつつ頭からシャワーを浴び、マリオに合図を送るようにドアを開ける。
 バスローブを無造作に手渡されるが、両手を拘束されているために着ることが出来ず、羽織るように肩に引っかけられてバスルームから出るように背中を小突かれ、痛いと初めて声に出す。
 バスローブの背中にじわりと赤い染みが広がった事にマリオが気付き、地下室のケージにウーヴェを押し込めたとき、バスローブを剥ぎ取った代わりに、大きめの布を背中の傷に宛がい、包帯を乱雑に巻いて出血をひとまず抑えると、膝を抱えてケージ内に座り顔を押しつけるウーヴェの背中にバスローブを引っかける。
 地下とはいえ暖房が効いているために寒くはないだろうが、殴る蹴るの暴行を受けて痛む身体を丸めて簡易ベッドで眠る男を一瞥し、地下室を後にする。
 男が時々痛みに呻く声以外、地下室の中から響く物音が消え、静かだとウーヴェが感じたとき、壁の上部にある鉄格子の填まった窓を見上げ、粉雪が降っている事に気付くと、体感温度が下がった気がしてしまう。
 ビデオ通話でもう少し待っていてくれ、必ず迎えに行くと言ったリオンの言葉だけがウーヴェの胸の中で決して消えない炎のようにあり、今ウーヴェが信じられるただ一つのものだった。
 何度も犯されている間にルクレツィオが、ドラッグを飲ませた男がキャリアで、ゴムも付けずに何度も中で射精されているからお前も確実に感染していると笑われ、客を喜ばせるためにはどんな玩具を使われてもイケるようになっておけとも笑われたが、リオンの声を聞くまではその通りになるしかないと思っていた。
 だが、ウーヴェの心の奥で、決して何があっても諦めないという名の小さな小さなランプがあり、それにリオンが火を灯してくれたため、性病の感染があろうともどんなに酷い事をされていたとしても、絶対に諦めないで生きて帰るという強い意思をそのランプに油のように注ぐことが出来たのだ。
 生きていれば何とかなる、必ず迎えに来る言葉を信じて待つ。
 そうウーヴェが腹を括ったとき、粉雪を舞い上がらせる風が吹いたようで、鉄格子に布製のバッグのようなものが引っかかる。
 そのバッグをウーヴェはどこかで目にしたことがあり、どこだったかと思案すると、リオンの拗ねたような表情と直後の満面の笑みが思い出されてターコイズ色の双眸を見張ってしまう。
 それは、ウーヴェのクリニックがある街の中心部よりは郊外の町に進出しているチェーン店のスーパーマーケットが独自に販売しているエコバッグで、リオンと一緒に買い物に出かけた際、そのバッグにチョコを山盛り買い込もうとするリオンと一悶着あった事も思い出すと、自然と肩が揺れて笑い声が流れだしてしまう。
 いつも一緒に買い物に出かけると、好物のチョコを買うか買わないかで口論するのだが、さすがにエコバッグ一袋分のチョコはダメだとウーヴェがリオンを睨むと、さっき脳内に浮かんだ拗ねた顔でそっぽを向いたのだ。
 そのまま不機嫌になられても後々面倒だったため、ものすごくものすごく妥協をし、結局10枚のチョコを買うことにしたのだが、そうと告げたウーヴェにリオンが見せたのは、子どものような心から喜んでいるときに見せる満面の笑みだった。
 「────!!」
 たった三、四日間、言葉にすればたったと言われる日数だが、今のウーヴェにとっては十年も二十年も経っているように思えるほどで、どのくらいあの笑顔を見ていないのだろう、あの声をどのくらいぶりに聞いたのだろうと考えた時、ウーヴェの頬をさっきとは違った意味の涙が流れ落ちる。
 俺の総てとキスをしてくれたリオンだが、この地下室に監禁され男達の好き勝手にされ、身体よりも心を殺されそうな苦痛の時間、リオンが迎えに来るとの思いだけが、暗い水底から見上げた太陽のようにぼやけていても確実に熱と光を感じさせてくれていた。
 その太陽の下に早く帰り、もう大丈夫だと言って欲しかった。
 「・・・リオン・・・リーオ・・・っ!」
 あと少しだとの言葉を信じて待っている、だから早く迎えに来てくれ。この悪夢のような時間から救い出してくれと、頭を両手で抱えて身体を丸めたウーヴェは、包帯を巻かれた傷口がジクジクと痛み、その痛みが心の傷を呼び覚ましたことに気付いて痛みを堪えるように歯を噛み締めるが、モニター越しに頬を撫でられキスをされた事から、その痛みが少しだけ和らいだ気持ちになる。
 地下室に監禁されてから眠りに落ちたとしても男達の思うがままにされていて纏まった睡眠を取ることが出来なかったウーヴェだったが、リオンの笑顔とキスともうすぐだという声に心身が安堵を覚え、丸めた身体をそっと横たえて目を閉じる。
 やがて訪れた睡魔に身を委ね、この時初めて静かに眠ることが出来るのだった。

 

 ジルベルトによって見せつけられたウーヴェが陵辱される姿、それを見て己は何も出来ないと教会の聖堂の床を殴りつけながらウーヴェの名を呼び続けたリオンだったが、喉が涸れるまで呼んだところで戻って来るわけではないし、あの時間を無かったことには出来ないと何とか立ち上がる事を決め、蹌踉けながらも必死に己の足で立ち上がることにする。
 その選択に従って教会のマザー・カタリーナがいつもいる部屋に向かったが、あまりの顔色の悪さにその場にいたシスターらも蒼白になり、大丈夫と言っているにも関わらずに部屋に押し込まれてしまっていた。
 大丈夫と言っているだろうと、実家ならではの横柄さで起き上がろうとしたリオンをブラザー・アーベルが険しい顔で押しとどめ、今日はそこで寝なさいと命じられてふて腐れた態度で毛布を被るが、そんな己を優しい気持ちで受け入れてくれるマザー・カタリーナやブラザー・アーベルらに感謝の思いを小さく伝えると、極度の緊張感と怒りに囚われていた身体が疲労感を訴えたために眠ってしまったのだった。
 そして翌日、もう大丈夫かと心配そうに声をかけてくれるマザー・カタリーナらに昨日の出来事-ビデオ通話でされていたこと以外-を手短に伝えた後、キッチンの椅子を引いて行儀悪く足を立てて座るが、その時にはここに来たときの無力感も絶望感も影を潜めていて、身体が求めていた睡眠がもたらしたもののおかげか、脳味噌もすっきりとしているようだった。
 椅子の上で伸びをし身体の関節の音を鳴らしてふぅと溜息をついたリオンは、昏い感情から今朝は一転してやる気が芽生えたことに己でも不思議そうに首を傾げるが、もう少しだけ待っていてくれ、すぐに迎えに行くとウーヴェと約束をしたことを思い出し、約束と小さく呟く。
 そう。ウーヴェと約束したのだ。すぐに迎えに行くと。
 己の恋人は、不思議と心の中にするりと入り込む穏やかな優しい声で約束事をするが、それを破ったことは今まで無かった。
 そんな恋人の真っ直ぐな心に憧れ、己も約束を破らないようにしようと、リオン自身無意識に考えるようになっていて、約束と再度口にして深呼吸を繰り返す。
 「リオン?」
 「────マザー、この間のオバツタのサンド、結局食えなかったからさ、また作ってもらって良いか?」
 ここ数日の食欲の無さが嘘のように空腹を訴えるリオンに一瞬マザー・カタリーナが呆気に取られるが、食欲が出てきたことが嬉しいと頷き、今から用意をしましょうねと、幼い頃からリオンが見続けてきた笑みを浮かべて髪を撫でていく。
 「ダンケ、マザー」
 今日も捜査で歩き回らなければと呟いた時、自ら休職を願い出たことも思い出すが、キッチンでコーヒーの用意をし始めているブラザー・アーベルの背後に回ると、俺が淹れると告げて端正な顔に驚きの色を浮かべさせる。
 「リオンが淹れてくれるのか?」
 「ああ。・・・オーヴェにも早く飲ませてやりてぇなぁ。だから、仕事を休む事にして、ボス達に救出は任せることにした」
 ブラザー・アーベルとキッチンで肩を並べてコーヒーの準備をするリオンに嬉しそうにマザー・カタリーナが笑いかけるが、聞かされた言葉の意味を理解して痛ましげに目を閉じる。
 「大丈夫だって、マザー。俺から言い出したことだし、ちょうど時間も出来るから、今日は後でリアの病院に顔を出してくる」
 あの事件のもう一人の被害者であるリアが入っている病院に行ってくると伝え、マグカップを出せとブラザー・アーベルを振り返ると、部屋にいるシスターの数が増えていて、リオンが淹れるコーヒーを楽しみにしているのだと教えられる。
 「あーもー、順番だからな、順番!」
 「ええ」
 己のマグカップを片手に笑みを浮かべて待つシスターらの中に、先日犯人のヒントをくれたライナーの顔もあり、その手に小ぶりのマグカップが二つ握られている事に気付くと、リオンがマザー・カタリーナのマグカップにまずコーヒーを淹れた後、ライナーを手招きする。
 「そのマグカップは?」
 「・・・あいつの分」
 あの事件で二人揃ってウーヴェをからかったライナー達だが、その関係がまだ続いている事に笑みを浮かべたリオンは、二人のコーヒーを先に淹れたため、シスターらがブーイングの声を上げる。
 「もうちょっと待てよ。すぐに作るからさ」
 もう一杯だけ先に淹れさせてくれと断ったリオンが、己が使うマグカップを取りだしそっとそっとコーヒーを注ぐと、温めておいたミルクもそうっと載せる。
 「それは?」
 「これ?オーヴェの分」
 「・・・・・・」
 今ここにはいないが、こうしてウーヴェの為のコーヒーの用意をして俺の気持ちが伝わると良いなぁと、昨日とは打って変わって晴れ上がりそうな夜明け前の空に笑いかけたリオンに皆が一瞬何も言えなくなるが、きっと伝わりますよとマザー・カタリーナが頷くと、リオンが照れくさそうに口の両端を持ち上げる。
 「へへ。だったら良いな。────オーヴェが朝に飲むのが好きなのは、コーヒー半分、ミルク半分、砂糖もスプーン半分のカフェラテ」
 それを、己のマグカップに満たして窓際に置いたリオンは、日が昇るまで後数時間はあるが、寝床に帰ろうとしている月を見上げ、珍しくその月に祈ってしまう。
 どうかここで心配している己の思いが伝わりますように、昨日見せられた事以上に酷いことをされていませんように、と。
その祈りが伝わりますとマザー・カタリーナが優しくリオンの背中を撫でると、素っ気なく頷いた後、他のシスターらのためにコーヒーの用意に取りかかるのだった。

 

 リアが入院している病院は、あの時偶然クリニックに駆けつけたカスパルが勤務する市内でも比較的病床数の多い病院だった。
 受付で刑事であることを示す手帳を見せ、リアの病室を教えてもらったリオンだったが、エレベーターを待っているとき、白衣の裾を翻して大股にやってくるドクターの姿を発見し、そう言えばウーヴェは診察時はいつも決まって同じジャケットを着ていたが、あれがウーヴェにとっての白衣なのだろうかと思案するが、やってきたドクターが手を上げて名を呼んだことに気付いて目を丸くする。
 「リオン!」
 「へ?ああ、アニキだったのか」
 初めて白衣姿を見たから誰だか分からなかったと苦笑するリオンに一瞬驚いたアニキことカスパルだったが、それはどうでも良いと小さく舌打ちをし、一緒にどこかに向かっていた他のドクターらに手短に指示を与えた後、リアはこちらだと病室に案内するように先に歩き出す。
 慌ててその後をついていくリオンは、本当に幸運なことに太い血管や神経が傷付けられていなかったために傷口が完全に塞がってリハビリを頑張れば退院できるし、日常生活も不自由なく送ることが出来る、ただ傷跡が少しだけ残ると教えられて安堵の溜息を吐く。
 「・・・良かった」
 「ああ。・・・この病院に定期的に来ている美容師に頼んでウィッグを作ってもらうことにもした」
 あの時、ジルベルトが彼女が自ら助けを求めるのを遅らせるために髪を切り刻み、服も下着も切り裂いた為、リアの長いいつも一つに纏められていた髪も無残なことになっていたのだ。
 退院できると言っても切られた髪のまま外を歩く事など出来る筈も無く、それに気付いたカスパルが出入りする美容師に、彼女が一時的に利用するウィッグの制作を依頼したのだ。
 その辺の事情を教えられて再び溜息を零したリオンは、病室のドアを開けてドクターの顔で入っていくカスパルの後についていくが、ベッドでぼうっとしたように窓の外を見ているリアを見ると、怪我はしてしまったが命の別状はないことや後遺症が出ないことが本当に嬉しくて拳を握って込み上げる感情を堪えたリオンは、カスパルの呼びかけに振り向いたリアが目を瞠った後、何かを言いたげに口を開閉させつつシーツを握りしめた事に気付き、大股にベッドに近寄る。
 「・・・リア、来るのが遅くなって悪ぃ」
 「リオン・・・!!」
 カスパルが少しだけ淋しそうな顔でリオンの背中を叩いた後、リアにまた後でくると残して病室を出て行くが、リオンが椅子ではなくベッドの端に腰掛けてリアの肩を抱くと、彼女が顔を覆ったシーツの中に嗚咽を零す。
 「・・・痛かったな、リア。髪も切られて辛いな」
 嗚咽を零すリアの肩を撫で腕を撫でて落ち着かせようとしたリオンだが、嗚咽の合間にウーヴェの名を呼んでいることに気付き、無残にも切られてしまった髪を痛ましげに思いつつそっと頭に口付ける。
 「今みんな必死に探してくれてる」
 昨日、リアを刺した男から連絡があり、その時にウーヴェの声を聞くことも出来たと伝えると、リアが涙で濡らした顔を上げたため、ごめんと謝りつつブルゾンの袖でリアの頬をぐいと拭う。
 「・・・ウーヴェは・・・大丈夫、なの・・・?」
 「背中をさ、リアが刺されたのと同じナイフで切られてた。後は鞭とかで殴られたみてぇな傷跡もあった」
 「ヒドイ・・・!!」
 ビデオ通話で見せつけられた総てを話したくは無かったため、背中の傷だけでウーヴェの置かれている状況を伝えることが出来た為、リアが再び顔を覆って肩を振るわせる。
 「うん。だから、さ、俺も仕事を休む事にした」
 「・・・え?」
 「あんなオーヴェを見て冷静に仕事が出来るなんて思わないし、絶対に出来ねぇなぁって」
 だから自分から休職する了承を得た事を伝え、リアの肩を再度抱きしめたリオンは、リアの傷が深くない事にホッとしたし、マザーらも早く良くなってくれって言ってたと伝えると、泣き腫らした顔をリアが上げて精一杯の小さな笑みを浮かべてくれる。
 それが嬉しくてもう一度髪にキスをしたリオンは、今ウーヴェを探しているが、もう少しで何か情報が得られそうな気がする事を伝え、リアの涙混じりの声に励まされる。
 「みんな、頑張って・・・るのね」
 「ああ。すげー頑張ってくれてる。・・・ゾフィーの事件の時に来ていたBKAの刑事でいけ好かない奴がいたんだけどさ、今回もその人が来ていて、マックスみてぇに生真面目だけど、でもすげー優秀な刑事だなーって思った」
 その人とボスが中心になってウーヴェの救出とリアを刺した男達の逮捕に向けて頑張っている事を伝え、ほんとうにみんな優秀な刑事だと心からの言葉を伝えると、リアの手が己の肩に回されているリオンの腕を撫でる。
 「ウーヴェ・・・早く無事に見つかって・・・!」
 「────ダンケ、リア」
 恋人と異性の友人という違いはあるが、ウーヴェの無事を祈る思いはどちらも同じだけ持っていて、互いにそれを認め合って少し身を寄せた二人だったが、リオンのブルゾンのポケットに入っている携帯が振動した為、断りを入れてリオンが携帯を取り出す。
 「・・・ボス?」
 『朝にどこにいるか報告出来ないのなら出勤してこい!』
 携帯から流れ出す怒声に顔を顰めて思わず携帯を耳から離したリオンは、報告することで休職の許可を得ていたことを思い出し、忘れてましたと素直に謝罪をする。
 『まったく・・・・・・!』
 こちらの心配をよそにお前は本当にと、更に続けて怒られそうなことをいち早く察したリオンが、今リアの病院にいて彼女の容態と彼女のボスをあと少しで皆が見つけ出してくれると話していましたとも報告すると、フラウの様子はどうだと口調が柔らかなものになる。
 「少し傷跡が残るかも知れませんが、リハビリをすれば日常生活に支障は出ないそうです」
 『そうか。────良かったな、リオン』
 「Ja.本当に、良かったと思います」
 今回の凄惨な事件で関係者の心身に癒えるまでに時を要する傷を負ってしまったが、リハビリをすれば以前のように動ける事は、関係者にとっても朗報の一つだった。
 その朗報をもっと増やそうと、今ヒンケルらが力一杯動いてくれている事をリオンも知っている為、今日の予定を軽く聞き、ローマとフィレンツェの組織の動きを調べている現地警察から連絡があり、今日中に強制捜査に入る事が決定したと教えられて目を瞠る。
 「今日?」
 『ああ。ルクレツィオとジルがいない今がチャンスだ』
 組織を動かす人間が不在の今、残っているのは命じられることでしか動けない連中ばかりだから、ここで一網打尽にすれば組織の全容解明にも繋がるし、お前が言ったように留守宅を壊滅させれば帰る家がなくなるだろうとヒンケルが自信に満ちた声で告げると、リオンも少し考え込んでしまうが、強制捜査が上手くいくことを激しく祈っていると返す。
 『ああ。────ドクがいると思われる家の候補もいくつか上がってきた。今手分けしてその家を当たっている』
 昨日のビデオ通話は痛ましく悲しいものだったが、ただそれだけのものではなかったと、辛い現実から決して目を逸らさずに事件解決の手がかりを皆が探している、だからその朗報も待っていろと命じられ、リオンが深呼吸を一つしたあと、上司や同僚達を信頼している顔でもちろんと頷く。
 そのリオンの横顔を見ていたリアは、リオンの顔が興奮に紅潮している事に気付き、きっと自分たちにとって良い方向へと事態が向かっているのだと気付くと、足の傷や髪を切られた事を理由にいつまでも泣いて立ち止まっている訳にはいかない、今日からはもうこの事件のことでは泣かないとひっそりと決意をする。
 携帯をブルゾンのポケットに戻してリアを見たリオンだったが、彼女の顔に浮かぶ表情が先程とは一変していることに気付き、小首を傾げてどうしたと問いかける。
 「・・・ねえ、リオン」
 「ん?」
 「ウーヴェ、もうすぐ見つかるのよね?」
 「ああ」
 リアの問いに訳が分からないなりにも己の思いを込めてしっかり頷くと、シーツで目元を拭ったリアが、ようやく明るくなってきた空と同じような笑みを震える唇に浮かべ、ウーヴェが戻って来るまでにリハビリをちゃんとして仕事に復帰できるようにしなきゃと笑った為、リオンの蒼い目が限界まで見開かれるが、リアの肩に再度腕を回して髪に頬をすり寄せるように身体を寄せると、くすぐったいから止めなさいとリアが姉の顔で制止する。
 「またあの美味いタルトを食わせてくれるよな、リア」
 ぐりぐりと頬を押し当てた後、口調を丁寧にしたリオンがリアの顔を覗き込むと少しだけ逡巡した彼女だったが、もちろんと泣き笑いの顔で頷く。
 「だって、ウーヴェもあなたもあんなに美味しそうな顔で食べてくれるのよ。そんな人他にいないわ」
 別に仕事ではなく趣味で作っているお菓子をあれほどまでに美味しそうに食べてくれる男なんて他にはいないのよと笑い、リオンの胸に軽く頭を押し当ててクスクスと笑うリアにリオンの顔にもじわじわと笑みが浮かんでくる。
 「だよなー。オーヴェの怪我が治ったらすぐにクリニックを再開してもらわないとなー」
 「ええ」
 その日が一日でも早く来るように皆頑張っている、だからリアも頑張ろうと笑うとリアの目が一瞬見開かれるが、クリニックの受付で見ていた様にきりっとした表情で頷くと、ウィッグが届けばもっとリハビリにも気分が入ると己に言い聞かせるように呟く。
 「そうそう────あれ、アリーセ?」
 リアの顔に前向きな思いを感じ取ったリオンが胸の裡で溜息をついた時、ドアが開いて花束を抱えた女性が入ってきた事に気付き、目を丸くしてしまう。
 「リオン?お仕事はどうしたの?」
 その問いはもっともなものだった為、不思議そうに見つめて来るアリーセ・エリザベスの為に椅子を用意し、冷静でいられる自信が無いから、オーヴェの捜索をみんなに任せたと伝えると、アリーセ・エリザベスの目が冷たく細められる。
 「投げやりでもねぇし、後ろ向きな思いでもねぇ」
 「じゃあどういうつもり?」
 「俺の仲間達は全力でオーヴェを探し出してくれる。それは間違いねぇ」
 信頼している人々に総てを任せ、自分はウーヴェを発見したという朗報が入るのを待っていると伝えると、アリーセ・エリザベスの細められた目が逆に見開かれ、次いで好意的に細められる。
 「・・・そう」
 「うん、そう。オーヴェを発見して救出に向かうときにはお前も来いってボスに言われてる」
 だから、もしも可能なら一番に俺がオーヴェを迎えに行くとも告げ、だからこの間も言ったがもう少し待ってくれと伝えると、アリーセ・エリザベスが無言でリアのお見舞い用の花束を花瓶に生けて吐息を零す。
 「・・・このお花、リアは好き?」
 「え?え、ええ。綺麗なお花。・・・お花を見ているとやっぱり気持ち良いわね。ありがとう」
 「そう。良かった」
 二人の女性の会話を何となく蚊帳の外の気持ちで聞いていたリオンだったが、不意に背中に何かがぶつかる衝撃に前のめりになるが、必死の思いで踏ん張ると、アリーセ・エリザベスが背中に額を押し当てている事に気付き、振り返ろうと身体を捩るが、振り向かないでと強く命じられて素直にハイと返事をする。
 「・・・あなたがそこまで信じる仲間を、私も信じているわ」
 己を褒められるよりももっと嬉しい言葉だとリオンが鼻の頭を掻きながら告げるが、女王様、失礼しますと断りと入れた後、無理矢理身体を捩ってアリーセ・エリザベスの背中に腕を回して抱きしめる。
 「ダンケ、アリーセ」
 「・・・あ、あなたの為じゃないわよっ!」
 「あー、はいはい。ホントにこの姉弟は素直じゃないんだからなー」
 まったくと呟きながらアリーセ・エリザベスの髪を撫で、素直なアリーセ・エリザベスが好きだけど、ちょっとそれも怖いなと告げると、途端に背中に痛みが走る。
 「ぎゃ!」
 「それも怖いってどういう意味よ、リオンちゃん!?」
 「痛い痛いイタイ」
 ごめん、言い過ぎたと素直に謝罪をしたリオンにリアが肩を揺らして笑い出し、アリーセ・エリザベスが頬を少し紅潮させてリオンを睨み付けるが、睨まれた方は素直に思った事を口にしただけなのにと拗ねてしまい、更にそれがリアの笑いを誘ってしまう。
 小さな笑い声が少しだけ大きくなり室内に充満した頃、リアの主治医と看護師が回診にやってくるが、何故かその後ろにカスパルがいる事にリオンが気付き、診察の邪魔にならないように部屋の隅に移動すると、カスパルもその横に並んでリアの傷の様子を遠くから窺う。
 「・・・アニキ、リアの主治医じゃねぇのにここにいて良いのかよ?」
 カスパルの耳に顔を寄せてにやりと笑うと、良いんだという無言の声がリオンの腰にぶつけられた拳から聞こえてくる。
 「ふぅん」
 無言の声から聞こえてきた感情をしっかりと読み取ったリオンが考え込むように天井を見上げるが、リアに付き添ってくれと告げたあの時のカスパルの様子から、今リオンが察した感情を抱くようになっても不思議はないと気付き、今度は足下を見た後、カスパルの耳に再度口を寄せて何事かを囁くと、カスパルの顔が驚くほどの早さで赤くなっていく。
 「・・・リオン、あなた何を言ったの?」
 「ん?ナイショ」
 男同士のスケベな話だから女性には聞かせませんと、真っ赤になって魚のように口をぱくぱくさせるカスパルの肩に腕を回したリオンが嘯くと、アリーセ・エリザベスが呆れた様に溜息をつき、リアの診察が終わり、今日からリハビリを始めようと告げるドクターの声も耳に入らないほどだった。
 ドクターと看護師が出ていったのを見送ったカスパルは、顔の火照りを抑えるように咳払いをしてリアの傍に向かうと、リハビリは少しずつだから焦らず無理をせずと、他の患者にもそんな言い方をするのかと言いたくなるような懇切丁寧な説明をするが、一日でも早く元に戻りたいと願うリアに焦りは厳禁だとも伝えると、くるりと振り返ってリオンを呼びつける。
 「ん?」
 「・・・後で話がある」
 「分かった」
 話の主題については聞かなくても分かっている為、素直に頷いたリオンは、リアの様子が落ち着いていること、リハビリも頑張ると分かった事から今日は帰ると告げ、アリーセ・エリザベスに進展があればすぐに伝えると告げて頬にキスをし、リアの頬にもキスをする。
 「リオン、無理をしないでね」
 「ダンケ、リア。無理はもう通り越したから大丈夫だ」
 何の事か分からないと首を傾げる女性陣に苦笑し、カスパルと一緒に病室を出たリオンはロビーのベンチに腰を下ろし、ベンチの背もたれに腰を下ろすカスパルを見上げると、先程まで病室で見せていた顔を一変させる。
 「ウーヴェと昨日ビデオ通話で話が出来た」
 「何だと!?」
 「・・・アニキだから言う。ナイフで背中や腰を随分切りつけられていた。みみず腫れもあった」
 「・・・っ!!」
 医療従事者のカスパルに隠しても仕方が無いと腹を括ったのか、聞かされた言葉に衝撃を受けるカスパルを痛ましげに見つめつつ、誘拐されてからかなりの回数レイプもされていると伝えると、カスパルが椅子の背もたれから力なくベンチに滑り落ちる。
 「さっきボスから連絡があった。オーヴェがいる家を何軒か特定したから、今調べているって。────突入するときには俺も来いと言われてるから、搬送するときはこの病院を指定したい」
 だから背中や腰の傷だけではなく、ある意味最も深手を負っている場所の手当をアニキにして欲しいと青ざめて震えるカスパルの横顔に伝えたリオンは、ゆっくりと顔を振り向けるカスパルに頷き、アニキだから頼めると小さく頭を下げる。
 「・・・頼む」
 「・・・・・・分かった。俺に出来ることは何でもする。ウーヴェの傷はそれ以外には見えなかったか?」
 リオンの言葉にカスパルがグッと拳を握って腹を括ったことを示した後、他に何か傷口は見えなかったかと問いかけ、左足に茶色っぽい布を巻いていた事をリオンが伝えると、止血か傷口を塞いでいるような感じかとカスパルが問い返す。
 「多分、そんな感じ。オーヴェ、話してるときは自分の足で立ってなかったから良く分からないけど、傷口を塞いでたのかな?」
 画面の中のウーヴェは首輪に繋がるリードで引っ張られていたからと、カスパルが初めて見るような昏い顔でリオンが笑うと、カスパルが震える手で口元を覆い隠す。
 「そんなだからさ、頼むな、アニキ」
 「ああ・・・俺が総てやる。誰にも治療させない」
 カスパルの震える声にリオンが感謝と小さく告げてその肩をぽんと叩くと、同じ強さで腕を叩かれて大げさにイタイと笑う。
 「・・・リオン、お前こそ大丈夫なのか?」
 初めてウーヴェに紹介されて以来、幾度かお前達と食事をしたり遊んだことがあったが、常にウーヴェの傍にいて離れなかっただろうと問われ、親指をくるくると回転させたリオンが天井を見上げ、無理は通り越した、後はやるべき事をするだけだと呟き、カスパルの口を閉ざさせる。
 「今まで俺がやって来た悪いことがオーヴェにいっちまった。誰にも文句を言えねぇよな」
 今回の事、総ての発端が俺なのだから誰にも何も言えないと笑うリオンにどんな言葉を伝えるべきか悩んだカスパルは、その悩みも読み切っている顔で笑われて絶句する。
 「ダンケ、アニキ。────とにかく、オーヴェが救出されたらここに搬送してもらうから、その時はアニキに連絡する」
 「あ、ああ。リオン、あいつを頼む」
 「ん、分かった」
 真面目な話は終わったと伸びをして立ち上がったリオンは、ロビーの端から顔を出したアリーセ・エリザベスに呼ばれている事に気付いて手を上げ、今度はアニキじゃなくてアリーセ・エリザベスの相手だと肩を竦める。
 「・・・大変だな」
 「ホントにな」
 彼女の相手は無理だからギュンター・ノルベルトに止めてくれと頼んだのは数日前だったが、遙か遠い昔のように感じつつもう一度肩を竦めたリオンは、リアの様子もまた見に来ると告げて笑みの質を切り替える。
 「・・・リアってさ、新しいカフェとか行くの、好きだぜ」
 「・・・・・・っ!!」
 この情報をどう使うかはあんた次第だと笑って手を上げるリオンにまたもや何も言えなかったカスパルだったが、その姿がアリーセ・エリザベスと一緒にロビーの角を曲がった後、情報をありがとうよとやけくそ気味に叫び、通りかかった人たちを軽く驚かせてしまうのだった。

 

 リオンに定期報告を忘れるなとヒンケルが怒鳴ってから数時間後、夏に比べればあっという間に寝床に帰ってしまい、すっかりと暗くなって人々の気持ちも沈んだものにしてしまう夜、フィレンツェとローマ市内から少し離れた小さな町の裏通りに、国家警察の強制捜査が入り、周囲の住人達が何事かと家々の窓から顔を出すが、強制捜査の対象が以前からいかがわしい事で金を得ていた会社だと知ると、神の罰が下ったと笑って家に引っ込む。
 パトカーの回転灯が夜の帳の降りた街を不気味に浮かび上がらせ、何人もの男女がパトカーで連行されていくが、強制捜査で最も重要な組織の人間を確保することが出来た安堵に皆が胸を撫で下ろすが、そんな彼らから少し離れた場所に一人の刑事が移動し、声を潜めて携帯電話に慌てた様子で呼びかける。
 「────ローマが強制捜査に入られた。フィレンツェもおそらく今頃捜査員が向かっているはずだ」
 電話の相手は懇意にしていた組織の人間で、もう少し情報を早く流したかったが、決行日が直前まで知らされなかった言い訳をした時、肩をぽんぽんと叩かれて飛び上がってしまう。
 「誰に電話をしているか、教えてもらおうか」
 蒼白な顔で振り返る刑事の肩に手を載せ、さぁ、詳しい話は警察署で聞こうと笑ったのは、この二年の間ずっと組織の内偵を進めていたBKAの刑事で、ブライデマンの直属の部下だった。
 強制捜査の情報を今朝ブライデマン経由でヒンケルに伝えた彼は、内通者がいる事を恐れて箝口令を敷いていたのだが、先手を打っておいて良かったと安堵に胸を撫で下ろし、自分たちの仲間に内通者がいたことに衝撃を受けて冷や汗を浮かべる国家警察の刑事に、腰の上で手錠をかけた男の身柄を引き渡すと、星が煌めく夜空を見上げ、フィレンツェの捜査も無事に終わりますようにと願い、あと少しでドイツに帰ることが出来るが、まだ気を抜くなと己を律するように身体を一つ震わせるのだった。

 

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2017.06.30
あれ、カスパル、もしかして・・・・・・?


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