Die Familie -18-

 目を開けても世界は暗く、眠っているのか起きているのかも良く分からない時間をずっと過ごしていたが、眠っていようがお構いなしに与えられる苦痛から、己が生きていることだけは理解出来ていた。
 今もうとうととしていたが、それが気に食わなかったのか、誰かの靴-誰のものかを確かめる気力など最早なかった-がこめかみに載せられ、軽く力を加えられたのか、頭蓋骨が軋む音を立てる。
 『・・・今ここで死なれちゃ面倒だから殺すんじゃないよ』
 そんな声を別世界から響くもののように感じているのだから、この痛みも遠い世界のものだったら良かったのにと暗闇の中で蹲る子どもが叫ぼうとするが、逆らえばお前が大好きだと言っていた男にも同じことをすると笑われてしまい、己同様その子どもも口を閉ざしてしまう。
 抵抗することで殴られ、無抵抗になっても気に食わないと言って殴られるのならば、相手にすべてを委ねることしか出来なかったが、そんな中でも愛する家族にだけはこの暴力が向かないようにするしかなかった。
 今ここで己が暴力を一身に受けていれば、家族の誰かが殴られることはないはずだった。
 大人であればその脅し文句が文字通り脅しだけだと理解出来るが、学校の帰り道に母だと名乗る女性に家とは違う場所に連れて行かれ、急に眠くなってしまって目を覚ましたときには赤い首輪が巻かれていて、兄の名を呼ぶだけで殴られるようになっていた。
 『文句があるならお前の兄貴や親父に言いな』
 お前の父親や兄が端金を与えてあたしの大切な妹を追い出したんだからと、殴られた痛みと息が出来ない苦しさの中で聞く声は冷たく暗いもので、ただただ恐怖と不安に体が震えるが、抵抗など出来る筈もなかった。
 そんな中でも脳裏に浮かぶのは大好きな家族の顔で、小さな掠れた声で兄の名を呼ぶが早いか、鎖を引っ張られた弾みに身体が浮き上がり、程なくして床に叩きつけられる。
 痛いと悲鳴を上げれば再度引きずり起こされ、蛇やトカゲなどと共通する冷たい目つきで睨まれ、痛いのも苦しいのもすべて兄貴が悪いと言葉と共に唾まで吐きかけられ、荷物のように床に投げ捨てられる。
 床にぶつかる痛みと顔を殴られた痛みよりも、己が大好きな父や兄がここにいる男女を怒らせた結果、こうして首輪を巻かれて殴られ、唾まで吐きかけられているのだということを唐突に理解した瞬間、脳味噌が一切の動きを止めてしまう。
 『金が手に入るまでに死なれちゃ困るからな。トイレにでも繋いでおけ』
金を生む卵が割れてしまえば意味がないのだから、それなりに大事に扱えと男が冷笑した結果、トイレの冷たく不衛生な床が己のベッドになっていた。
散歩を嫌がる犬を引きずるときよりも簡単にトイレにまで引きずられ、洗面台の配水管に鎖の端を繋がれると、ここで大人しくしていれば飯も食わせて貰えると男が笑ってトイレから出て行った時にはすでにただ一つのこと以外考えることは出来なくなっていた。
 だから、時間が経って同じ年頃の黒い巻き毛の男の子が入って来て己の傍に座り込んで名を呼んだときも、何も考えずにただぼんやりと彼の顔を見返しただけだった。
 だが、その少年が、寝ても覚めても感じる苦痛から逃れる唯一の存在になるにはそうそう時間は掛からなかった。
 そうして、その少年の存在が己の中で無くてはならないものになった頃、己が返事を躊躇った翌朝、無残な姿で教会の床に横たわり、活き活きとした目が元々あった場所から転がり落ち、少し離れた場所からぽっかりと空いた眼窩を不思議そうに見つめているのだった。

 

 『・・・フェリクスは助かったが・・・あれで助かったと言えるのか!?』
 目には見えない壁を隔てた向こうでどこかで聞いたことがある声が怒鳴り、それに対してこれもまた聞き覚えのある声がそれでも生きて帰ってきてくれたのだ、これからどうするかだろうと返す。
 それを、見慣れているはずだが今は灰色にしか見えない高い天井をぼんやりと見つめつつ聞いているのは、栗色の髪が脱色されたように白か銀の色合いに変化してしまったウーヴェだった。
 やっと戻って来る事の出来た自宅の己の部屋だが、テレビの中の世界のように現実感がなく、本当に今寝ているのは慣れているはずの己のベッドだろうかとの疑問から寝返りを打つと、焦げ茶色-だと覚えている-テディベアの足に手が触れる。
 テディベアをいつもハグしながら寝ている時に感じていたのは優しい手触りだったが、それが今はコンクリートか石にでも触っているかのように感じてしまい、テディベアをぐいと押してベッドから落とす。
 テディベアが床に落ちた音が小さく響くが、その音が脳内で浮かび上がらせた映像は、黒い巻き毛で髪と同じようにくるくると表情を変えた少年の茶色っぽい眼球が、本来収まっているはずの眼窩から転がり落ちるもので、ころころと転がったあと、白濁した虹彩がウーヴェに向かってどうして自分の命を選んでくれなかったのかという疑問を投げかけてくる。
 『・・・っ────!!』
 何故あの時、ハシムを助けたいと言わなかった、言わなかったためにこうなってしまったと詰られるが、あの時、ウーヴェの心の中にはただ一つ、自分を愛しまた愛している家族を守りたいという思いだけが存在していて、ハシムの命が入り込む余裕はなかった。
 ごめんなさいと口の中で謝罪をし、脳裏に響く声にごめんなさいと繰り返すが、もう安全な場所にいて感じることのない痛みを全身で感じてしまい、幻の苦痛を紛らわせるために喉を掻きむしって幻覚では無い痛みを身体に与える。
 助けて欲しいと言えなくてごめんなさい、父と兄を助けて欲しいと思ってしまってごめんなさいと、口の中でぶつぶつと繰り返していると、透明な壁の向こうで女性の悲鳴らしきものが聞こえてくる。
 『フェル!フェリクス!止めなさいっ!』
 掻きむしる手を止められてぼんやりと目を向けると、蒼白な顔で必死になってウーヴェを止めるアリーセ・エリザベスがいたが、瞬間的にウーヴェにはそれが大好きな姉だとは分からず、また心身を絶えず襲っていた苦痛の最中に聞かされた、お前の父は兄と呼んでいるあの男だという言葉が脳裏で渦を巻く。
 この優しい姉も助けて欲しかったため、やはりハシムのことを考える余裕がなかったことを思い出すと、ウーヴェの口からか細い悲鳴が流れ出す。
 『・・・・・・ごめんなさい。もぅ、言わない、から・・・』
 だからお願い、大好きな人たちを叩かないでと、途切れ途切れの声がアリーセ・エリザベスの耳に入り、もう誰も叩いたりしない、あなたはもう安全な場所に帰ってきたのよと、気丈でウーヴェにはいつも優しいアリーセ・エリザベスが涙を浮かべながらウーヴェを抱き寄せ、もう大丈夫だと安心させるように告げるが、その声はウーヴェには届いていないようで、ただただ姉の腕の中でごめんなさいを繰り返すだけだった。
 アリーセ・エリザベスの戻りが遅いことにギュンター・ノルベルトが気付いて部屋のドアを開け、妹とウーヴェの様子に血相を変えてベッドに近づく。
 『大丈夫か!?』
 『ノル・・・』
 ギュンター・ノルベルトが心配そうにウーヴェの顔を覗き込み、首元が赤く染まっているのを発見すると、ベッドサイドに置いた救急箱を開けようと身動くが、その瞬間、ウーヴェの口からけたたましい笑い声が病室の時同様流れ出す。
 『ノル、が・・・・・・っ父さんと、ノルが・・・』
 二人が金を払ってあの女の人を追い出したからと、ウーヴェが涙を流しながら叫ぶとギュンター・ノルベルトの動きが止まり、それは違うという普段からは考えられないほど弱々しい声で否定する。
 『だ、から・・・ぼく、が連れて行かれた、のは・・・当然だ、て・・・』
 あの時、あの人を追い出したのだ、だから今度はお前を連れて行かれて金も取られるのも当然だとウーヴェが呟くと、ギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスの顔が蒼白になる。
 『そんなことはない』
 『そうよ、フェル。あなたが連れて行かれたり痛い目に遭わされたりするのは当然じゃないわ』
 本当ならばあなたはこんな目に遭う必要は無いのにと、アリーセ・エリザベスが再度ウーヴェを抱きしめながら言い聞かせるが、その腕の中でウーヴェは自分が悪い、誘拐されたのは当然だと繰り返すだけで、我慢出来なくなったアリーセ・エリザベスがベッドに寝かせて床に転がっているテディベアを枕元にそっと置くが、ウーヴェの手が再度テディベアを押しやってベッドから転がり落ちる。
 その様子からテディベアを見ると何かを思い出すのだろうと気づき、床に落ちたテディベアを抱き上げたアリーセ・エリザベスが静かに部屋を出て行く。
 一人残されたギュンター・ノルベルトは、ベッドで涙を流しながら天井を見上げるウーヴェにどの類いの言葉も掛けられず、ただただ見守ることしか出来なかった。
 ギュンター・ノルベルトが呆然としている前でウーヴェが天井を見ながら考えていたのは、ハシムを助けられなかった後悔と兄たちが無事で良かったという安堵と、そして犯人達が繰り返し繰り返しウーヴェに囁き続けた、お前の兄や父が悪いのだから、お前が殴られるのも金を取られるのも当然だ、だから逆らうなという、大人達の事情を一方的に正当化するような言葉だった。
 十歳の子どもの心にその言葉達は重く苦しくのし掛かるが、それ以上に父や兄達が無事だったという安堵が最も大きく重いものだった。
 それだけでも伝えたいと思う気持ちはあったが、名を呼ぶだけで殴られ、好きかと問われて頷いただけで蹴られた日々のことを思い出してしまえば二人の名を呼ぶことも出来ず、またハシムの最期の姿を思い出すと助けられなかった後悔が芽生え、二つの思いに板挟みにされてしまう苦しさにウーヴェが頭痛を堪えるように顔を背ける。
 『フェリクス?どこか痛いのか?』
 ウーヴェの様子に気付いたギュンター・ノルベルトがベッドに身を乗り出して顔を覗き込むが、ウーヴェの口から意味のある言葉が流れ出すことは無いのだった。

 

 リビングに青白い顔で入って来たギュンター・ノルベルトを見たハンナとヘクターが顔を見合わせるが、慌てて彼の元に駆け寄り、ウーヴェに何かあったのかと問いかけると、二人の顔をじっと見つめた後、ハンナの身体に腕を回したギュンター・ノルベルトが小さな小さな声でウーヴェの名を呼ぶ。
 「ギュンター様?」
 「・・・ノル、どうしたの?」
 昼食をどうするか夫と母と相談していたアリーセ・エリザベスが兄のただならない様子に腰を浮かせて駆け寄るが、ハンナから離れた兄は今度は妹の頬に手を宛がったかと思うと、あの子がずっと俺たちを庇っていたことは知っているかと問いかけ、妹の目を見開かせる。
 「さっきリオンが言っていたけど・・・それってどういうことなの?」
 「あの子が俺や父さんを憎んで避けていたのは、俺やお前達を守るためだったそうだ」
 冷静明晰な言葉で相手に接することに重きを置く兄の不明瞭な言葉に妹が眉を寄せ、どういうことだと詰め寄ると、さすがに子供達の様子から何かを察した母が静かにリビングを出て夫の書斎に向かおうとするが、書斎のドアが開いてギュンター・ノルベルトと似たり寄ったりの顔で夫が廊下に出てきたことに気付き、小走りに駆け寄る。
 「レオ!」
 「・・・リッド・・・」
 ギュンターもあなたも一体どうしたのと、不安を顔に浮かべて夫の胸に手を宛がった妻は、その手をきつく握りしめられて痛みに顔を顰めてしまうが、詳しい話をしたいがまだまとまっていない、何か飲み物をくれと告げられて夫の混乱ぶりにただ驚いてしまう。
 夫がここまで混乱する様子など滅多に見ることは無く、ウーヴェに何かあったのかと問いかけると、そうではない、ウーヴェが自分たちを守っていたのだと返されて目を瞠る。
 その言葉はリオンが先程彼女やアリーセ・エリザベスに告げたもので、どういうことだと疑問を投げかければ、夫は混乱したままの顔で今までウーヴェが俺たちを守ってくれていたと再度告げられたため、先程の言葉がウソでも偽りでもないことを知る。
 「リオンが言っていたのは間違いではなかったのね・・・」
 「さっき言ってたと言ったな?」
 「ええ。ウーヴェをあなたの部屋に連れて行ってすぐにここに来たときに言っていたわ」
 事件の時、ウーヴェが私たちを守っていたことを知っているかと問われたことを伝えると、あいつの脳味噌は一体どういう働きをするんだとレオポルドが感慨深げに呟くが、開けっ放しのドアから陽気な鼻歌交じりの声が聞こえたため、二人揃ってそちらへと顔を向ける。
 「あ、ムッティ、ハンナいる?」
 「え、ええ、いますよ」
 「良かったー。オーヴェがこんな様子だからさー、ちょっと手が離せねぇんだ」
 だからハンナを呼んでキッチンに来て欲しい、さっきも作って貰ったが命の水をまた作って欲しいと片手をくすんだ金髪に宛がったリオンだが、その肩には二人の大切な息子が顔を押しつけるように身体を丸めて抱かれていた。
 「ウーヴェ?どこか痛いのですか?」
 その様子が身体は大きくなっても幼い頃と変わっていなかったため、そっと手を差し出して当時とは変わってしまった髪を撫でると、リオンの肩から僅かにウーヴェが顔を上げるが、流れ出たのは当時毎日のように聞いていた懐かしい泣き声だった。
 「か、さ・・・っ!」
 「・・・まあ、まあまあ」
 ただ驚きに目を丸くする母だったが、幼い頃良くこんな顔で泣いていたことを思い出すと、そんな場合ではないと分かっているのに懐かしさが込み上げてきてつい笑ってしまう。
 「リッド」
 「・・・な、ムッティ、俺の手が離せないの分かってくれた?」
 「ええ、分かりました。今ハンナを呼んできますので、キッチンで待っていなさい」
 「ダンケ」
 イングリッドがハンナを呼びに行く間、どう対応すれば良いのかを思案している顔でレオポルドが口ひげを撫でるが、リオンが明るい顔で鼻歌交じりに泣き虫オーヴェ、今から笑えるようにするからなー、命の水を飲めば絶対に笑えるようになるからなーと宣った為、俺の息子は泣き虫では無い、誰よりも強い男だとレオポルドが断言すると、リオンの顔に質の違う太い笑みが浮かび上がる。
 「・・・んなの俺が誰よりも知ってるって。なー、オーヴェ。お前は本当に強い男だよなぁ。だからこうして今も素直に感情を出せるんだよなー」
 男は感情をそうそう出すものではないだの堪えるべきだのと言われるが、固定観念を打ち破る男もまた強い男だと笑い、涙が文字通り滝のように流れる頬にキスをすると、ウーヴェが口を開くが、相変わらず出てくるものは泣き声だけで、言葉としてはリオンの名を呼んでいると思われるものだけだった。
 「子どもの頃でもここまでは泣くことはなかったぞ」
 「ははは。いつでもどこでも泣けるわけじゃねぇ。だったら今ぐらい好きに泣けば良い。もう無理って言う程泣けば────後は絶対、笑えるようになる」
 リオンがウーヴェの頬にキスしながら不明瞭な言葉で告げたのは、昨年己が経験したことから感じたものらしく、レオポルドがそれから何かを感じ取って口を開こうとするが、リビングのドアが開き、ハンナが転がるようにリオンの傍にやって来たため、一つ溜息を吐くことでそれを飲み込む。
 「ウーヴェ様、どうなさったんです?まぁまぁ」
 祖母のようだと彼女のことを称していたが、その片鱗を見た気がしたリオンは、背伸びをしてウーヴェの頭を撫でようとするハンナを気遣ってか、ウーヴェを床に下ろすとその場に座り込んでウーヴェの腕を引いて腿の上に座らせる。
 「まぁまぁ。そんなに悲しそうな顔で泣かなくても良いんですよ、ウーヴェ様。ハンナもギュンター様もみんなここにいますからね」
 ウーヴェを堂々と子ども扱いできる数少ない女性の言葉にウーヴェがしゃくり上げながら頷くが、ハンナの手が頭に乗せられると、その重みに負けたように涙がまた溢れ出す。
 「ハンナ、悪ぃんだけどさ、さっきも作って貰った命の水、また作ってくれねぇかな?」
 このままではウーヴェが脱水症状を引き起こしそうだし、何よりもオーヴェが笑えるようになる為に必要不可欠なんだと笑うと、ハンナも事情を察したのか、ウーヴェの頬を撫でて涙をエプロンで拭いた後、今からみんなの分も作るからレシピをもう一度教えてくれとリオンに笑いかける。
 「オーヴェ、キッチンに行くから立ってくれ」
 好きなだけ泣いても良いが、キッチンに今から行くから一緒に行こうと腕を引いて再度立ち上がると、ウーヴェが俯いたまま大人しく立ち上がる。
 「旦那様とギュンター様にも飲んで貰いましょうかねぇ」
 「そーだな。親父も兄貴にも必要かもな」
 それならばいっそのこと全員分を作ろうと笑い、それでは尚更リオンの手助けがいるとハンナが笑うが、ウーヴェが俯いたままリオンの腰に腕を回してしがみついていることに気付き、二人が顔を見合わせて肩を竦め合う。
 「・・・わたくしも一緒に作りますわ」
 「奥様」
 「あー、良いな、それ。オーヴェ、キッチンに行くぜー」
 だから離れてくれないかと暗に促すものの、逆に腕に力が込められてしまい、これは無理だと判断したリオンは、ウーヴェにしがみつかれたままキッチンに向かうが、その姿が遠い昔を彷彿とさせるものだった為、当事者の二人以外の大人が息を飲んでしまう。
 ウーヴェが幼い頃、我が儘を言ったり己の思うようになら無かったりしたとき、良くギュンター・ノルベルトやレオポルドの足腰にしがみついて引き摺られていたことがあったのだが、それを自然と思い出したハンナやイングリッドは懐かしいものを見たと小さく笑い、レオポルドも何度目になるか分からない溜息を零して髪を掻き上げる。
 「・・・何だか懐かしいわね」
 「そうだな・・・」
 今から命の水とやらを作るのならば俺はリビングにいるから出来たら持って来てくれと告げたレオポルドは、リビングのドアからアリーセ・エリザベスが顔を出したことに気付き、今の泣き声は何だ、まさかと呟いた為、無言で肩を竦めて娘の前に歩み寄る。
 「リオンがウーヴェを泣かせたんだ」
 「・・・ちょっとそこー!俺が泣かせたんじゃねぇからー!!」
 レオポルドの声が聞こえていたのか、ウーヴェを腰にしがみつかせたまま上体を振り返らせたリオンが、俺が泣かせたわけじゃねぇと廊下中に響き渡る声で叫ぶ。
 「お前が泣かせたんだろう、認めろ!」
 「くそー、ちくしょー、親父のくそったれ!」
 トイフェル、悪魔、くそったれと、恋人の前でその父に向けて堂々と罵詈雑言を吐き捨てるリオンだったが、痛いという悲鳴が小さく響いたことから、泣いていながらもやはり罵詈雑言の類いは許さないとウーヴェがリオンの身体を抓ることで意思表示をしたらしく、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいお願い許してオーヴェと、捲し立てるような謝罪の声が今度は響き渡る。
 その声と態度が先程書斎で見たものとはまったく違うものだった為、レオポルドらは呆気に取られていたが、次第に込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。
 ウーヴェが一人抱えていた秘密を知らされた衝撃に打ちのめされていたが、いつの間にかリオンの明るさに救われつつあることに気付き、本当にあいつの頭は一体どんな作りになっているんだと呟くと、イングリッドが口元に手を当てて鈴を転がしたような笑い声を上げる。
 「本当に、楽しい人だこと」
 「・・・ああ。ウーヴェが一緒にいる気持ちが分かるな」
 「ええ」
 一足先にキッチンに入っていたハンナを追いかけて入ったらしく、今度はキッチンから賑やかな物音が響いてくる。
 その物音は普段であれば決してするものではないため、家人達が何事だと訝りながら廊下に出てくる。
 「旦那様、一体何があったのですか?」
 レオポルドの運転手として長年勤めているブルーノが恐る恐る問いかけてきたため、リオンが暴れているだけだと答えると、ああ、彼が来ているのですか、どうりで賑やかだと思ったと笑われ、そう思うかとレオポルドが返す。
 「ええ。二度ほど車に乗せただけですが、彼は気持ちのいい男ですね」
 己の運転手にすら認められる魅力を持っているリオンが不思議で、本当にあの男はと呟いて口を閉ざす。
 「・・・後でハンナが美味い飲み物を持って来てくれる。それを皆で飲もう」
 「楽しみです」
 家人らに楽しみにしておけと告げてリビングに入ったレオポルドは、ソファで何事だと聞きたいがギュンター・ノルベルトの様子から口を挟めないでいるミカに気付き、無言で肩を竦めると、ミカもこれから作られる命の水を飲もうと笑いかける。
 「・・・ギュンター、お前も飲め」
 「・・・・・・・・・」
 さっき聞いた話は衝撃的だが、それを和らげてくれるかも知れない飲み物を飲んで、落ち着いたウーヴェとはそれからまた話をしようと息子の肩に手を置くと、年々似てくるとからかわれる息子の横顔が上下に小さく揺れるのだった。

 

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2016.10.29
命の水、プリーズ!


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