この日のカインの仕事ぶりは、彼の事を快く思う人たちの口を借りれば一体何があったんだと不安を感じ、思わない人たちからすればざまをみろと鼻先で笑われてしまうようなケアレスミスが非常に多く、その事実が彼の落ち込みぶりに拍車を掛けていた。
リオンがスコーンを食べながら予測したとおりに恋人の落ち込む顔を見た彼も外見とは裏腹に落ち込んでいるのだが、それよりも何よりも、激しくショックを受けた事を示すように大きな黒っぽい瞳を最大限に見開き、真っ青を通り越した真っ白な顔で見上げてきた恋人の顔が脳味噌にこびり付いていて、振り払おうとすればするほどその顔が大きくなり、気付いた時には大きな瞳が涙に潤み始めたりもしていた。
いつもいつも泣かせるような言動をしている自分だが、童顔故に年齢よりも遙かに年下に見られる恋人が実際に涙を見せたのは数えるほどで、見掛けとは裏腹に強い心でいつも笑うことの出来る男だった。なのにそんな彼を酷く落ち込ませるほど強い言葉で恋人の行動を否定したのかと己の言動を振り返るが、出てくる答えは来るなと言ったのに来た千暁が悪いという冷笑混じりの言葉だった。
だがその言葉の裏にはわざわざ見つけてくれて持ってきてくれた事への感謝の思いが溢れているにも関わらずに素直にそれを口に出すことなど出来ず、また会社というカインにとっては食うか食われるかの戦いを繰り広げる場所に己が唯一身も心も許して安らげる存在がやってきた驚愕からあのように突っぱねてしまった事に気付き、自嘲に肩を揺らす。
恋人の事をいつもガキだとからかっているが、今回の件に関してはガキなのは自分の方だと自嘲を深くしたカインだったが、就業時間が終わりを迎えた事に気付いていつもに比べればのろのろと仕事を切り上げて気分転換するように深呼吸を繰り返して携帯を取り出すと、すでに覚えている番号をプッシュして耳に宛がう。
『・・・はいっ!!』
「・・・・・・今、終わった」
これから家に帰る事をぼそぼそと聞き取りにくい声で囁き、元気いっぱいの中にも落ち込んでいる気配が漂う言葉が気をつけて返ってきてくれと案じてくれた為、冷笑しそうになる心を抑え込んで短く分かっているとだけ返してしまえば、うんと短く返される。
今まで家に帰ることを電話で告げた事は無かった為にやや戸惑いを感じるカインだったが、この一言のおかげで大切な何かを守る事が出来た事までは察することも出来ず、一つ溜息を零して駐車場に停めてある赤いアルファロメオのドアを開けるのだった。
愛車をガレージに停めて玄関ではなくガレージに作ったドアを開けて家に入ったカインは、フットライトが照らし出す廊下を進んでリビングへと続くガラス張りのドアを開けて瞬きを繰り返す。
リビングに入った左手にはリオンやウーヴェが泊まりに来たときに利用するゲストルームと二階に上がる為の階段へと繋がる廊下があり、廊下側のドアに対面する形でベッドルームと千暁の部屋があり、リビングの南は大きな掃き出し窓とその上部が吹き抜けになっていて日差しが降り注ぐ為にそれがグランドピアノに直接降り注がないように遮光の為の布を渡しているのだが、そのピアノにもたれ掛かるように小さな身体が座り込んでいたのだ。
そんなところに座り込んで寝ていれば風邪を引くと苦笑し、彼の傍に歩み寄ったカインはそっと肩を揺らして眠りの底から彼を迎えようとするが、聞こえてくるのは穏やかな寝息だった。
帰ると電話をしてからまだ1時間も経過していないのに居眠りをしている恋人が不思議でもあり可愛くもあり、額に掛かる黒髪をそっと掻き上げた後、眠っている今だから素直になれる事を自覚しつつそっと姿を見せた額にキスをする。
「・・・・・・ん・・・?」
「風邪を引いても知らないぞ」
「・・・カイン・・・っ!お帰りっ!!」
大きな黒目がちの双眸が茫洋と見開かれるが、カインの灰色の瞳に己の姿を映し出した直後、勢いよく飛び上がって仕事の疲れを労うような笑みを浮かべる。
「カイン、今日はごめん」
「・・・・・・アキ、お前が作ったメシが食いたい」
「え?」
千暁が必死の思いでカインに謝罪をして許しの言葉を待っているが、返されたのは腹が減ったからメシが食いたいという日常茶飯事の言葉だった。
ぽかんと彼を見つめた千暁がじろりと灰色の瞳に睨まれて慌てて何度も頷くと、今日は美味しそうなベーコンが手に入ったからすぐに作ると笑みを浮かべる恋人の頭に手を載せたカインだが、それは明日の朝で良いと呟くと同時に千暁の身体を難なく抱え上げる。
「!?」
「────腹が減った」
「だから、今から作るって・・・!」
「そうじゃない」
今日一日カリカリしていてケアレスミスばかりをしてしまい、周囲の人間に不安と歓喜を与えてしまった責任を取れと顔を寄せられてカインの腕の中で限界まで身体を仰け反らせた千暁だったが、責任と空腹という単語が脳内でがっちりと手に手を取った為、慌てふためきながらカインの腕を押しのけようと無駄な努力をしてみるが、当然ながらそれくらいで弛むはずもなく、じたばたと暴れる千暁を荷物か何かの様に肩に担いだカインがベッドルームのガラスのドアを開け放って広い室内に相応しい広さを誇るベッドに千暁を投げ捨てる。
「ぼくは荷物じゃないっ!!」
「・・・うるさい」
「!!」
うるさいと言われそのままのし掛かられてベッドに押さえつけられてしまった千暁は、意味をなさない日本語ともドイツ語とも英語とも付かない言葉を喚くが、ある意味千暁よりも流暢な日本語でうるさいと言い放たれて言葉を失ってしまう。
「カイン・・・っ!!」
まさかこのままするつもりかと、かなりの確信と焦りを声に滲ませる恋人にもう一度うるさいと嘯いたカインは、腹が減った事を教える為に千暁の首筋に顔を埋め、コットンのシャツの裾から手を差し入れる。
「わわわ、ちょ、ちょっと、カインっ!!」
待ってくれ頼むから待ってくれと言い募り、視線だけでも息の根が止められかねない強い眼光に怯んでしまいそうになる己を叱咤し、今度は千暁からカインの身体に腕を回して身を寄せる。
「アキ?」
「・・・ちゃんと謝らせて欲しい」
さっきも謝ったがそんなものではなくちゃんときみの顔を見て謝りたいと囁いて腕の中から抜け出すと、照明に照らし出されたサイドテーブルからきらりと光るピアスを手にベッドに戻ってくる。
「・・・どこにあったんだ?」
「うん、そこのシャワーブースの排水口に引っかかってた。場所が場所だから心配だったから、一応アルコールで消毒しておいた」
少しでも不安な気持ちや焦燥感を解消して欲しいから、すぐにピアスを着けて欲しいと笑みを浮かべてカインを見つめた千暁は、白くて綺麗な指がピアスを摘んだのをぼんやりと見つめ、リオンの言葉を脳裏で響かせていた。
自分が知ることのない過去を共有する友人に嫉妬してしまう小さな自分が嫌だったが、やはり心の何処かでは寂しい思いが存在し、ピアスを着けようとするカインを直視する事が出来なかった。
そんな千暁の様子に気付いていたカインがピアスを再度千暁の掌に転がすと、着けてくれと目を細めて恋人の肩を揺らせる。
それで今回の事は全て帳消しにする事を告げて早くしろと促すカインに頷いた千暁は、穴が開いていて寂しさを現しているようなそこに慎重にピアスを着けると安堵の溜息を零す。
「うん。・・・やっぱりきみにはこのピアスが似合ってるね」
トラガスと呼ばれる場所で光る、本来の持ち主曰くのオモチャのようなそれだが、出会った頃から定位置で光っているそれを見た安堵から胸を撫で下ろした顔で千暁が小さく首を傾げ、もう無くさないように気をつけてねとカインの胸にとんと人差し指を押しつけて片目を閉じれば、再度ベッドに押さえつけられてしまう。
ただ驚きながらも今度は真正面からカインを見上げて本当にごめんともう一度謝罪をするが、その謝罪に対して返されたのはうるさいという一言と、言葉とは裏腹な優しいキスだった為、素直にそれを受け入れるように目を伏せて広くて大きな背中へと腕を回せばそのままベッドから抱き上げられ、背中がシーツから離れて愛すべき温もりに包まれる。
「カイン・・・」
「・・・あの後どうしたんだ?」
背中を抱かれたまま恋人の足の上に横抱きにされて座らされた事に気付いた千暁が窺うように顔を上げるが、視線は重ならずにただ問いかけだけが零された為に広い胸板に寄りかかるように顔を寄せて目を伏せる。
「ウーヴェのクリニックに行って・・・どうしてきみがあんなに怒ったのかを教えて貰った」
「ウーヴェに?」
「リオンが来て・・・彼から聞いた」
一つの小さなオモチャのようなピアスが垣間見せてくれた過去の光景を想像すれば今でも胸の奥で痛みを感じるが、過去を共有する自分に嫉妬するよりも今を共に生きているカインを信じてやって欲しいと言われたことを強く思い出そうとするが、やはり心の何処かでは自分が決して教えて貰う事のない過去の時間を共有する彼に嫉妬してしまうのだ。
再度小さな己を自嘲するように唇を歪め、自分に嫉妬する必要など無いことを教えられたと告げると、あっさりとした声がその通りだと肯定する。
「リオンは・・・幼馴染みと言うよりも兄弟みたいなものだ」
だからお前が嫉妬する必要など全くないんだと、いつもカインが発する声とは比べられない程の情が込められたそれに千暁が顔を上げて言い募ろうと口を開けるが、上と下の唇を白くて綺麗な指が封印するように立てに押しつけられてしまう。
「千暁」
発音しにくいと言われて気が付けばアキと短く呼ばれるようになった千暁の名前を、カインはどうしても伝えたい思いがあるときにだけしっかりと明瞭な発音で呼びかける事が多く、千暁もその言葉を聞けばつい自然と背筋を伸ばしてしまうことが多かった為、今もカインの足の上で背筋を伸ばして少しだけ近くなった灰色の双眸を見つめる。
「今もこれから先も・・・ずっと一緒にいたいのはお前だけだ、千暁」
灰色の切れ長の双眸に見据えられ、その眼光の強さとは裏腹な優しさと強さを秘めた声にリオンに言われた言葉が間違いではない事を教えられ、ぐっと唇を噛み締めた千暁は、封じるように押し当てられていた指をそっと両手で包んで掌を重ね合わせて胸元に引き寄せる。
「・・・・・・ごめん、カイン」
「俺とリオンが昔何をしていたのかを知りたいのか?」
「・・・違う。違うんだ、カイン」
過去そのものを知りたいと言うよりも、心の奥底で望んでいたのは、リオンとカインを繋ぐ見えない絆を形にしたピアスのように、自分たちの間にも目に見えるそれがない事が不安だったと、今度はウーヴェの顔と言葉を思い出しながら苦笑し、見えなくても形が無くても大切なものはここにあると示すようにカインの胸に掌を押し当てるが、分かっていたはずなのに不安になってしまったと肩を竦めると、その肩をカインの腕がそっと包んで抱き寄せられる。
「リオンと今に繋がるものがあるのに、ぼくには何も無い・・・それが・・・」
本当に不安で悔しくて仕方がなかったと、あの時自分のことを心配してくれる人達の前では絶対に口に出せなかった思いを告げると、再度顎を掴まれて視線を重ねるように促されてしまう。
「不安・・・だったんだ」
もしも自分がこの国に生まれ育っていて、きみが過ごしてきた天と地の狭間で呼吸をして大好きなピアノに打ち込めていたのなら、こんなにも不安に陥ることはなかったかも知れない事を告げると同時に、生まれたところなど関係が無いと断言されて目を伏せる。
「・・・ここに来てから・・・ぼくはきみにずっと寄りかかって一人では歩いていない、ずっとそんな気がしていた」
大学を休学し、失った視力を取り戻す為に必要だからと日本に泣きながら帰り、そして再びこの大地を踏んだ日から自分は何もしていないのではないのかとの思いが何処かにあり、つい卑屈になりそうな自分がいる事を告白する千暁の声を黙って聞いていたカインだったが、語り終えた合図のように吐息がこぼれ落ちた為、千暁の腰を掴んで横抱きから向き合うように身体を移動させると、額と額が触れあいそうなほど顔を寄せて黒目がちの双眸を覗き込む。
「千暁・・・お前はお前のままでいればいい。そのままでいてくれるだけで良い」
「でも・・・ぼくは・・・」
「俺がそのままで良いと言っているんだ。何を気にする必要がある?」
もしも周りの誰かが何かを言ったとしても、俺が家にいて帰る場所を守って欲しいと言っているんだと胸を張って自慢しろと強く告げる事で千暁の視線が彷徨うが、額に濡れた感触が生まれたかと思うと、俺がいつでも帰って休める場所を守ってくれと囁かれて千暁が目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて間近にある灰色の双眸を見つめ返す。
「カイン・・・?」
「リオンと俺があの頃欲しかったのは・・・ただ俺たちを受け入れてくれる存在だった」
カインがリオンの育った孤児院に一時期身を寄せていた事を断片的に聞かされていた千暁は、その頃の心境を聞かされて痛ましさに眉を寄せて身体も自然と寄せれば、背中に腕が回されて引き寄せられてしまう。
「・・・やっと手に入れた。────誰に何を言われてもお前を手放すつもりはない」
例え周囲から嘲られようが罵られようが、ようやく手にした温もりを手放すつもりなどないと、顔を見ていれば思わず千暁が血の気を失いかねない強い光を目に湛え、語気も荒く言い放ったカインに千暁が小さく頷くと、三度背中がベッドに沈み込む。
「・・・アキ・・・信じてくれ」
「ごめん、カイン・・・もう言わない」
自分の存在意義を疑うなと懇願されてようやく自分が後ろ向きな姿を恋人に見せていたことに気付いた千暁は、強くなりたいと願い、それが叶えられるように祈りながらカインの頬に掌を宛がって感情に震える唇で綺麗な弧を描いて目を伏せる。
その顔を見下ろしたカインがグレーの双眸を細めた後、唇の両端を同じように綺麗な形に持ち上げると千暁の顎を掴んで視線をぶつけさせる。
「次の休みにピアスを買いに行くぞ」
「え?」
「お前が買ってくれ」
形のないものを信じる強さを持っている事は知っているが、それでも不安を感じるのならば形のあるものを一緒に探しに行こうと提案されて一も二もなく頷いた千暁は、脳裏で白い髪の友人が一緒に見に行こうと誘ってくれた事を思い出すが、ごめんと小さく謝って目の前の赤い髪を抱き寄せるように腕を回す。
「・・・うん。一緒に買いに行こう、カイン」
リオンと張り合うつもりはないが、ぼくときみとを繋ぐものをこれから一緒に一つずつ増やしていこうとようやく納得した顔で笑い、耳朶を擽る低音でもちろんそのつもりだと囁かれて首を竦め、次いで耳朶を舐められたことに気付いて目元を赤くしてしまう。
「────良いな?」
「・・・っ、・・・うん・・・」
短く問われた言葉の意味を理解し、いつもならば羞恥からじたばたと藻掻く千暁だったがさすがに今日は素直になりたい思いからそっと頷き広い背中に両手を回すと、先程の続きだと言うようにコットンシャツの裾から大きな掌が滑り込んでくるのだった。
サイドテーブルの照明がベッドの端を照らし、ベッドのすぐ真上にある窓のブラインドの隙間から月明かりが室内へと滑り込むが、熱の籠もった切なげな声に遠慮するように控えめに室内に落ちていく。
シーツをきつく握りしめて与えられる快感に切なげに眉を寄せる千暁を窺ったカインが黒目がちの双眸が快楽に潤んできた事に内心で笑みを浮かべ、口に含んでいたものの先を舌先でこじ開けるように突くと、細い腰がびくんと跳ねて日本人にしては白い足が反動で跳ね上がる。
「────ぁ・・・あっ・・・!」
日本にいたときもこちらに留学してからも、カインと付き合い出すまではこんな風に口に含まれて強い快感を与えられた事がなかった千暁は、初めて抱き合ったときにただ驚きと羞恥に顔だけではなく身体全体を真っ赤にしていたが、慣れてきているがそれでもやはり羞恥を感じてシーツを握った手に額を押しつけるように顔を背ければ、気持ちが良いかと問われてシーツに黒髪を擦り付けるように顔を左右に振る。
気持ち良いかと問われても羞恥から頷くことが出来ずに唇を噛んでいると、すっかりと形を得ているものの根本を戒めるように握っていた手が離れて唇を優しく撫でられる。
その指に促されるように口を軽く開けると強引に指が差し入れられ、口を閉じることが出来なくなってしまう。
千暁が言葉に出して享受している快感を伝えることが出来ない為、二人の間で不文律がいくつか出来上がっていたが、その一つである行為を求めてカインが口に突っ込んだ指で舌を押さえて促せば、おずおずと指先を舐められる。
遠慮がちではあっても間違いなく思いを伝えてくる恋人を褒める代わりにねとりと吸い上げてやれば危うく指を噛まれてしまいそうになるが、寸前で思い出したらしい千暁が逆に口を大きく開けて熱の籠もった呼気の塊を吐き出すと、切なげに寄せた眉に何かを堪えるように力を込める。
「・・・アキ」
今まで自分が付き合ってきた女達にはする事の無かった気遣いを見せ、快感に眉を寄せる千暁の名を呼んで意識を向けさせたカインは、口に含んでいたものを出してそのまま伸び上がり、大きな双眸を半ばまで隠す恋人の目尻にキスを落として耳朶に口を寄せる。
「・・・・・・イイか?」
「だ・・・っ!カイン、・・・イヤ、だ・・・っ!」
カインの声に潜む淫靡な願いに気付いて快楽に染まっていた顔を一瞬して青くした千暁だが、いつもとは違う事を教えるようにカインが千暁の顔中にキスをし、先程は口に突っ込んだ指で腰を撫でてそのまま尻へと手を滑らせた事に気付いて身を竦ませる。
「カイン・・・っ!ま、だ・・・っ!!」
こんな風に互いに身を寄せて熱を感じ合い、極まった後に暖かな体温と思いを感じて眠りに落ちるような関係になったが、抱き合うときにカインが千暁の中に自身を入れた事はほとんどなく、いつもは先程のようにカインが千暁に快感を与え、その後同じような事を千暁がするだけだった。
そんな、ある意味ママゴトのようなセックスであっても千暁にとっては心底気持ちが良かったし、触れあう熱や肌からカインの気持ちを感じ取れるものだった為、それ以上の行為に関してはあまり必要に感じていなかったし、出来る事ならば忘れ去りたい記憶を引きずり出される行為でもあった。
さすがにカインとの熱の交歓の際に忌まわしい出来事を思い出す事は無いが、それでも無理矢理身体を開かされた恐怖を思い起こさせる場所への挿入だけは、例えカインがどれほど声を荒げようとも冷たい表情で言い放とうとも頑なに拒否してきたのだ。
その拒絶を今日もいつものように告げて唇の色が変わるほど噛み締めた千暁に気付いたカインが小さく溜息を零すが、今日はカインも引くつもりが無いのか、千暁の腿に形を変えた熱を押しつけて耳朶を口に含んで囁きかける。
「アキ、大丈夫だ」
「イヤだ・・・カインっ・・・!ごめ・・・っ、イヤだ・・・!」
謝罪と拒絶の言葉を繰り返す千暁を宥め賺せる為に頬に色の変わった唇にキスをし、さっきまで口で愛撫していたものに手を絡めて意識を逸らさせようとするが、一度拒否に傾いた心は容易いことでは戻らないようで、目尻に涙すら浮かべた顔でイヤだと繰り返され、これ以上すればそれこそ千暁が拒絶する原因を作り出した人間と同じになってしまう事に気付き、一つ深呼吸をして何とかその思いをやり過ごすと、震える千暁を背後から抱きしめて胸にぴたりと背中を触れさせる。
「アキ・・・分かった。もう言わないから泣くな」
「・・・ごめ・・・っ!」
「もう良いと言っただろう?だからもう謝るな」
ただ、もしもいつかお前が許してくれるのならばいつかお前の中に入りたいと囁くには強い口調で告げて無言で頭が上下したことに安堵の溜息を零したカインは、それならばいつものように二人で気持ちよくなろうと声質を変えて囁きかけると、腕を回していた薄い腹がぴくりと上下するが、程なくして千暁の腕がゆっくりと持ち上がり、後ろ手でカインの頭を抱えるように回されて自然と笑みが浮かび上がる。
「分かった」
少しばかり忙しいが、お前が望むのならば二人同時に達すればいいと囁きかけながらサイドテーブルに置いたローションを掌から溢れるほど垂らすと、すぐさま千暁の内腿に塗りつける。
「冷たい・・・っ!!」
いきなりのローションの冷たい刺激に千暁が竦み上がってつい声を荒げるが、これぐらい我慢をしろと睨まれて悔しそうに口を閉ざすと、その鬱憤を晴らすようにカインの頭をもう一度抱き寄せて薄く笑みを刷く唇に唇を押しつける。
キスの合間に準備を終えてくれと願う千暁の心が通じたのか、カインが唇を離す仕草をした為に顔を戻し、腹の前に回されていた手を掴んで手の甲にキスをすると、肩に顎を載せたカインがいつものように千暁の耳朶を口に含んで囁きかける。
「・・・アキ・・・愛してる」
「・・・っ・・・、ん・・・っ!」
閉じた足の間に感じるローションの滑りと熱に腰の辺りが軽く揺れ、千暁の前へと回された手が同調する動きで上下に扱く為に千暁の口から堪えきれない嬌声が流れ出す。
千暁が後ろを使っての行為を拒む理由を知っているリオンに相談すれば、コンドームが手元にはないがそれでも女を抱きたくなったときによく使った手を思い出せと言われて気付き、それ以降千暁の腿を使ってカインは自身の快感を得、千暁には今のように同時に前への刺激を与えて同時に達する事が出来る様にしてきたのだ。
世間ではどんな風に抱き合っていたとしても、自分たちはこの形で十二分に愛情も男としての本能を満たす事も出来ている事を確かめるように千暁の名を呼び、快感に潤んだ双眸に見つめ返されて唇の両端を持ち上げたカインは、自身も快感を得ていることを教えるように一際強く激しく腰押しつけると、千暁の腰がびくんと揺れて身体が逃げを打つようにずり上がろうとする。
「アキ」
片手で千暁の肩を押さえて片手で勃っているものを扱き続け、時には先端のくぼみに指の腹を押しつけて強い快感を与えると、噛み締めることが出来なくなった歯の間からカインの腰に直接響くような嬌声がこぼれ落ちる。
「・・・ぁあ・・・っ、あ・・・カ・・・イ、ン・・・っ!」
「・・・まだだ、まだだ、アキ」
この最高に気持ちが良い、天国に昇るような心地よさにまだ溺れていたいと千暁に告げると、快楽に染まった目で見つめられて満足するまでこうしていようと笑みを浮かべられる。
「────っ!!」
「・・・カイン・・・、・・・っ」
カインが伝えたように愛しているとはまだ言えない千暁が選んだ告白手段は、精一杯顔を振り向けてカインにキスを強請るやり方だった。
それも二人だけの決まり事で、当然それを理解しているカインが千暁の薄く開いた唇をそっと塞ぐが、呼吸困難に陥るほど深くキスを交わして唾液も混ぜ合った為、カインの口の中で千暁の嬌声がくぐもって溢れ、口の端を伝う唾液とともにか細い声として流れ出す。
あと少しで白くて眩しい光へと手が届く事に気付き、自分が先に達した方が千暁が楽だとの思いから千暁のものへと絡めていた手を離して腰を掴むと同時に腰を激しく押しつけ、程なくして訪れた白光を脳内で溢れさせる。
「・・・ハ・・・ッ、・・・っ」
カインが一足先に達した事を、自分のものではないものが腹に吐き出されたことで知った千暁は、肩で息をするような恋人を振り仰いでもう一度キスをし、今度は自分の番だと教えられるように手を再度宛がわれて腰を引く。
「アア・・・、ァ・・・っ、んん・・・ッ、んぅ・・・ッ!!」
その激しくなる手の動きに腰が揺れ呼気も荒く熱っぽくなるが、何かを堪えるように千暁の爪先が丸められた直後、先にカインが出した精の上に千暁のものが吐き出され、薄い腹が上下するのと同じリズムで落ちていく。
「は、あ・・・っ、あっ・・・」
いつものようにほぼ同時に今日も達した事に千暁が荒い呼気を整えつつ振り返ると、カインがそっと千暁の肩を掴んで寝返りを打たせると、今度は額と額を重ねて目を伏せる。
「・・・気持ちよかったか?」
「そ、んな事・・・っ!」
聞かれても答えられないと口早に千暁が叫んで顔を背けようとするが、それよりも先にカインが千暁の目尻と鼻先そして唇にキスをした為に動きが取れず、ただ大人しく恋人の労ってくれるようなキスを受け止め、遠慮がちではあっても自らが舌を絡めるように動かすと、嬉しそうな気配が重ねた唇や触れあった肌から伝わってくる。
それが不意に千暁の脳内で聞かされた言葉と混ざり合い、ああ、本当に自分は愛されていると気付くと汗ばむ背中に回していた手に力を込め、抱きしめる形に変化している背中をゆっくりと何度も撫でながら名を呼ぶ。
「・・・カイン・・・カイン・・・」
「何だ?」
「・・・こんな事、ぼくが言って良いのか分からないけど・・・」
もしも出来るのならば、きみが心身を休めることの出来る春の陽だまりのような場所を守りたいと囁き、間近にあるカインの端正な顔に朱が差したかと思うと今まで見た事がないような優しい目で見つめてきた為、呼吸を忘れた顔でまじまじと見つめてしまう。
バサリと落ちて額に掛かる前髪を掻き上げ、灰色の双眸には今まで希求してきたものを手に入れた人間特有の笑みを浮かべ、千暁の名を微かに震える声で囁いたのだ。
愛する人間のそんな顔を見てしまって平静でいる事は出来ず、ドキドキと鼓動が早まるのを押さえられないでいる千暁の胸に耳を押し当てたカインは、いつもに比べれば遙かに早いそれに気付くも何も言わずにただ黙って目を閉じ、愛していると何度も何度も囁く。
「・・・うん・・・」
そんなカインの頭を抱くように手を回し、ぼくもそうだと小さく答えた千暁は、断言できないけれど力の限り守り通してみせると男の貌で答えて恋人の背中を強く抱きしめるのだった。
すぅと浮上する意識で周囲を探り、広くてゆったりとしたベッドの中央で眠っている事を確認したカインは、隣から聞こえてくる穏やかな寝息に気付いて顔を向け、何か楽しい夢でも見ているのか、微かな笑みすら浮かべた恋人が穏やかに眠っていた。
あの日以来、金の力だけで陽の当たる場所へと這い上がる事を夢見て突き進んできたが、それだけでは辿り着けない事をこの元気いっぱいの小動物のような彼に教えられた事を思い出すと、ごく自然に笑みが浮かび上がり、眠っている恋人の額に口を寄せてキスをする。
この小さな恋人が自分を陽の当たる場所へと導いてくれた事を思い出し、またその場所を守りたいとも教えられた先日の夜を思い出すと、二人が微睡むことの出来る陽だまりをお前が守るのならば俺はそんなお前を守ると再度決意をし、口を寄せた額に額を重ねて背中を抱きしめる。
「────ん・・・?」
「・・・何でもない。まだ寝ていろ」
「ん・・・カイン・・・、も・・・」
寝息に混ざる情愛に素直に頷いて目を閉じれば、同じように背中を抱かれて安堵の溜息が自然とこぼれ落ちる。
「・・・お休み、千暁」
「う、ん・・・・・・カイン・・・す・・・」
寝息に紛れた告白をしっかりと受け止めたカインは、短い言葉で思いを伝えると、一足先に眠りに落ちた恋人を追いかけるように目を閉じるのだった。
そんなカインの耳には、トラガスに嵌められているクリスタルと小振りの赤のジルコニアのピアスが、ブラインドの隙間から差し込む月明かりに煌めいて微かに光っているのだった。
『────行くのか?』
『・・・・・・約束する。必ず戻ってくる』
もう冬も終わり春を謳歌し始めたある早朝、二人の青年が初めて出会った場所に立ち、太陽が昇り始めるまであと少しの、青と橙が混ざり合う絶妙な色合いの空へ向けてほぼ同時に煙草の煙を立ち上らせる。
『・・・お前は普段は最低だけど、約束だけは守るからなぁ』
『どういう意味だ、そりゃ』
『ん?そのまんまだろ?』
唇の端に煙草を挟んで男の貌で笑う年下の友人にカインの灰色の双眸が冷たく光り、勝手に言っていろ馬鹿野郎と吐き捨てはするものの、言われた事によって不快感を覚えている訳ではない事を教えるように、その口元には笑みが浮かび上がっていた。
『お前が約束をするのなら、俺はこれだな』
『なんだ?』
リオンの言葉に顔を振り向けたカインだったが、何やらごそごそと耳を触っていたリオンが掌に外したばかりのピアスを載せて差し出してきた為、軽く驚きに目を瞠ればさすがに照れたのか視線を逸らしながらリオンが早く受け取れと手を突きだしてくる。
『・・・ダンケ、リオン』
『おー。あっちに行っても連絡ぐらい寄越せよ。ゼップもまた遊びたいって言ってたぜ』
『お前らと一緒にいればケンカばかりだからうぜぇんだよ』
『言ってろ。お前からケンカ吹っ掛けてるんじゃねぇかよ』
旅立つ直前の他愛もない言葉のキャッチボールを繰り広げながらも、カインは差し出されたピアスを受け取ってコインケースにしまうと耳の横の軟骨を指さす。
『ここに決めた』
『・・・じゃあな、カイン。あっちで成功して億万長者になって帰って来いよ』
ジーンズの尻ポケットに両手を突っ込み、友人の成功を祈っている事を伝えたリオンにカインが唇の片端を持ち上げ、当たり前だ、マイバッハに乗って帰ってきてやると自信満々に頷くと、リオンの前に手を差し出して軽く握手をする。
『・・・じゃあな』
『おう。────行ってこい、カイン』
そろそろ始発電車が動き始める時間になったのだ、お前の夢を叶える為の一歩を早く踏み出せと笑い、いつか陽の当たる場所で再会しようとひっそりと告げると、カインが手を伸ばしてリオンのくすんだ金髪を小脇に抱え込んでぐしゃぐしゃに掻き乱す。
『何するんだよ!』
『お前もお前の夢に向かって突っ走れ。じゃあな、リオン』
『おー』
いずれ夢の果てでの再会を約束しあった友人達は、その短い言葉を交わすと決して振り返ることなくそれぞれの前に見えている道へと一歩を踏み出す。
そんな二人を太陽の先駆けのような空が、幸多きことを祈るように金色に滲み始めるのだった。
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2011/07/03


