彼に、今まで訪れたことのない国で仕事をしないかというオファーが入ったのは、冬と春の境目のような日だった。
メールで届いたそのオファーだったが、ここしばらくの間地元を中心にした仕事が多く、そろそろ国外に出る仕事をしたいと思い始めていた頃だった事もあり、深く考えることなく詳細を教えてほしいと返信をしたのだ。
その、たった一通のメールが、彼の人生に大きな変化をもたらすことになるのだが、その時の彼にそんな予感も予兆も微塵も感じられるはずもなく、ただ指定された国での仕事がどのようなものになるのかにだけ心を奪われていた。
仕事のオファーをくれたのは現地で彼のようなフリーフォトグラファー達に仕事をコーディネートする友人で、その友人からのオファーだった事もあり、詳細のメールを受け取ったその日のうちに、スタジオで事務作業をしてくれている女性スタッフに日程の調整を頼んでいた。
それ程、この仕事の何に惹かれたのかは分からないが、何かが自然と背中を押しているような気がしていた彼は、後に、これが皆が言う運命なのかもしれないと気付くのだが、今は何もわからない状態でその運命が起こす波に身体一つで乗り込んでいくのだった。
そうして、オファーのメールからひと月後、仕事で国外に出向くことになれば必ず空港まで見送りに来てくれる友人-本当は実の兄とそのパートナー-に笑顔で後に繋がるような仕事をしてくると頷く。
「……ニュージーランドだったか、次の仕事」
「うん、そう」
ニュージーランドの正確には南島で仕事をして欲しいと依頼があったから行ってくると頷く彼に、関係性が少し複雑な過去を持つ兄であり友人である男が、彼によく似た顔に笑みを浮かべ、行ってこい、楽しんで来いと笑顔で頷き、その隣ではステッキを支えに穏やかな笑顔を浮かべながらも心配の色を隠せない顔で気を付けてと頷く男がいて、そのどちらに対しても少し長めに顔を見つめた後、大丈夫、行ってくるとサムズアップを決める。
「中東経由でクライストチャーチまで丸一日近く掛かるって」
「飛行機の中で退屈するな」
「そうだなぁ……まあオーディオサービスでも楽しむかな」
現地までの交通費は出してくれるらしいが、ビジネスクラスやファーストクラスは論外なので、窮屈な飛行機の長時間のフライトで体調を崩さないよう、また退屈にならないように気を付けると笑って肩に引っ掛けていた仕事道具を収めたバッグを引っ張り上げる。
「良い写真が撮れたら送る」
「ああ。楽しみにしてる。────ノア、気を付けて」
ステッキを突き、白とも銀ともつかない不思議な色の髪を少しだけ左右に振った後、隣にいるパートナーに軽く身を寄せた男の言葉に、ノアと呼ばれた彼が照れたような笑みを浮かべ、大丈夫、ありがとうと答えると、そんな彼の己と同じ色合いの髪に大きな手を乗せた友人が口の端を大きく持ち上げる。
「お前なら大丈夫だよな」
「もちろん、大丈夫だ」
今回のニュージーランドはまだ人が多いほうで、今まで仕事をしてきた中で最も過酷だったのは北極圏の仕事だった、今度は南極圏にも近寄れるかもと、仕事中に出会うかもしれない人々や自然に触れ合えるのを楽しみにしているからと、くすぐったそうに首を竦めた彼は、そろそろ時間だから行く、現地について落ち着いたら電話かメールをすると告げ、二人に手を差し出す。
過去に一つの事件で知己を得て以来、こうして友人関係が続いている彼ら三人だったが、彼が仕事で国外に出る際には必ず見送り、彼もまた現地につけば安心させるように電話をかけていたのだ。
家族のような付き合いだと、彼らの知人から言われたこともあったが、間違っていないし嫌じゃないとそれぞれ返していた。
そんな、居心地の良い空気の中から仕事のために国外へと旅立とうとする彼の背中に、くすんだ金髪をハーフアップにまとめた男が行って来いともう一度声をかけ、その声に肩越しに振り返った彼は、声をかけてくれた男に頷きつつも、つい視線でその隣で穏やかにただ見守ってくれている男を見つめ、行ってくると聞こえないほどの小さな声で呟き、彼の中に残る何かを断ち切るように首を一つ横に振ると、この先、どんな楽しいことが、好奇心を満たしてくれることが待っているのだろうかと己の心の奥底に気持ちを封じるように気分転換を図り、保安検査の列に並ぶのだった。
保安検査を受けるために進んだ背中が見えなくなってようやく二人がほぼ同時に溜息を吐き、行ってしまったなぁとくすんだ金髪に手をあてながら苦笑する男にそうだなと言葉少なに頷いた後、体を支えるためのステッキに掛けていた力を抜き、隣にいる己のパートナーの腰に腕を回した男は、どうしたと見つめられて何でもないと苦笑する。
「───本当に俺のダーリンは物覚えが悪いよなぁ」
何でもないことはないのにそういえばキス一つと、付き合って悲喜交々の日々を過ごしてきた中で約束したことをすぐに忘れるんだからと、白とも銀ともつかない髪を指で突いた後、頬にキスを受けてひとまずそれで許しましょうと溜息を吐く。
「────リーオ」
「ん? どうした、オーヴェ」
「うん……ちゃんと帰ってくるとは分かっているし仕事だから仕方がないけど、見送るのは寂しいな」
その言葉が、先程何でもないという言葉に誤魔化されようとしていた本音だと気付いたリオンは、確かに寂しいなぁと空港の高い天井を見上げ、同じようにウーヴェの腰に腕を回す。
「向こうについたら電話するって言ってたから、それを待ってようぜ」
「ああ」
今日はニュージーランドに飛び立つ友人、ノアを見送るために仕事を午前中で終えたが、このまま家に帰るのではなくどこかでディナーを食べて帰ろうとウーヴェの髪にキスをしたリオンの言葉に素直に頷いたウーヴェは、どんな仕事になるんだろうな、楽しみだなと寂しさをかき消すように笑い、駐車場に止めてある車に戻ろうと踵を返す。
二人並んで出口へと向かい、愛車の運転をリオンに任せて助手席に乗り込んだウーヴェは、空港傍の道を走っている時、彼が乗る飛行機が見えたことに気づき、どうか無事にノアを目的地にまで運んでくれますようにと願い、シフトレバーに置かれた手にいつものように手を重ね、右手薬指のリングの感触に無意識に安堵のため息を零すのだった。
中東を経由し、隣国のオーストラリアに到着した飛行機から降りた彼、ノア・クルーガーは、大きく伸びをして体の凝りを解そうとするが、長時間のフライトで体中が悲鳴を上げていて、体力がある若い青年といってもさすがに疲労の色は隠せず、目的地へ向かう己が乗る飛行機が駐機している場所へと向かう。
そのゲート前、一目で観光客とわかる人やビジネスだろうなと想像させる人々の中、ふとノアの目がゲートから少し離れたベンチで退屈そうに腰を下ろしている体格の良い男へと向けられる。
ノアの目が向いた最大の理由は、はち切れそうになっている半そでのシャツから出ている日に焼けた太い腕と、恐らくは肩から二の腕へと繋がっているだろうタトゥーの存在だった。
ノアが暮らすドイツ南部の大都市でもタトゥーは頻繁に目にするものだし、空港に見送りに来てくれた友人とそのパートナーの身体には、過去の事件を由来とする二人の絆を深めるためのお揃いのタトゥーが彫られている事も知っていた。
だから反感も忌避感も抱かないのだが、ただ純粋にそのタトゥーに興味を惹かれて思わずじっと見つめていると、深い深い海の色に似た双眸がノアの視線に気づいて向けられ、何だと首を傾げるように頭が少しだけ傾く。
タトゥーに興味があるとはさすがに声をかけられずに慌てて視線を逸らして駐機している飛行機が見える窓際のベンチに向かう。
そろそろ飛行機への登場案内が始まるのか、スタッフらが慌ただしく動き出し、その動きに釣られたようにベンチに座っていた人達も動き始める。
独特な慌ただしさの中、窓に映り込んだ先程のタトゥーの男は全く動じる様子も無く、ただ退屈そうに腕を組んでそのベンチに座っていて、窓の反射を利用して彼の動きを目で追っていたノアは、搭乗ゲートが開き、スタッフらが登場の案内を始めた事に中々気付かなかった。
自分の背後を人が通り過ぎる気配で何事かを察し慌てて人の流れを追うと、ゲートを続々と人が通過していて、荷物を肩に担いで搭乗券を表示したスマホを手にその列の最後尾に並ぶ。
このフライトが最終目的地に向かうもののため、あと少しの我慢だと己に言い聞かせつつ、スタッフの求めにスマホの画面を見せてゲートをくぐる。
己の座席に向かい、荷物を足元に置いて一息吐いたノアだったが、失礼と訛りの強い英語で呼びかけられて顔を向けると、そこには先程己が目で追いかけていた男が申し訳なさそうな顔で立っていて、ああと事情を察したノアがベルトを外して立ち上がる。
ノアが座っていたのは通路側で、どうやら男は窓側の席のようだったが、男の体格を思えばノアと座席の間を通ることが出来ず、通路に一度出ようとするが、良かったら窓側と席を代わってくれないかと囁かれ、青い目を瞬かせてしまう。
「通路側が取れなくて窓際になった」
「……ああ、そういう。良いよ」
男の言葉にノアが微苦笑しつつ気軽に頷いて窓際の席へと移動すると、ありがとうと礼を言いながら男が通路側の席に座る。
その瞬間、ノアの周囲の空気が言葉では表せない変化をしたようで、何か急に気温が上がっただろうかと首を傾げるが、出発前のチェックをスタッフが始めた事に気付き、慌ててベルトを締める。
「これは、君の荷物か?」
「あ、ああ」
座席の下に置いたバッグを示されて忘れていたと微苦笑しつつそれを受け取ったノアは、ありがとうと小さな笑みを浮かべて礼を言い、再度シートの下に荷物を押し込む。
窓の外は翼が少しだけ景色を占領していたが、何気無く窓の外を見ていたノアの耳に、さっきは俺を見ていなかったかいう疑問が流れ込み、驚きながら顔をそちらへと向ける。
窮屈なシートに大きな身体を押し込んだ隣の席の男が雑誌から目を離さずに呟いたことに気付き、気を悪くしたなら謝罪する、その、今から言うことも失礼かもしれないが、タトゥーが気になったと黙っているよりはと腹を括って見つめていた理由を話すと、雑誌が下ろされてなんだそんな事かと言いたげに、深い海の色をした双眸が見開かれる。
「……マオリのものだ」
「マオリ? と言うことは、ニュージーランドに帰るのか?」
この飛行機の行き先はニュージーランドで、男の言葉が意味することを考えて導き出された答えを口にすると、親戚がブリスベンで結婚式をした、それに出席した帰りだと己の想像とは違う理由で見つめられていた事に安堵したのか、日に焼けた厳つい顔にびっくりするほど子供っぽい笑みを浮かべた男がノアの問いに答え、半袖を捲り上げる。
驚くノアの目の前、資料でしか見たことがない、ポリネシアやミクロネシアなどの海洋国家の人々が施しているものとどこか共通点があるようなタトゥーが広がり、無意識に太い腕に巻きつくように彫られているそれをそっと触ってしまう。
「……興味があるのか?」
「……あ! わ、悪い……!」
初めてで断りもなく触ってしまって悪いと慌てて手を離すと気にするなと子供のような笑みが再び広がり、海の神と太陽とドラゴンを彫ってあると教えられ、思わず好奇心から見てみたいなぁと呟いてしまうと流石にそれには驚いたように男が沈黙してしまう。
「……不躾だよな」
「いや、別に構わないが、あんたはニュージーランドの何処に行くんだ?」
男の訛りの強い英語の問いにクライストチャーチと答えたノアは、観光かと問われて仕事だとも返すと、そうかと男が頷く。
「あ、そうだ。……これ、俺の作品」
機内アナウンスが出発を告げる中、足元のバッグから名刺がわりに使っている、カナリア諸島で撮影した天使の梯子と称される自然現象を写したポストカードを取り出して男に差し出すと、男がそれを受け取って裏面の連絡先や名前を見た後、写真を見て綺麗だなと目を細める。
「あ、ありがとう」
男の朴訥な褒め言葉にありがとうと頬を少し赤くしたノアは、あなたの名前はと問いかけつつ俺はそこにも書いてあるけれど、ノア・クルーガーだと告げ、フォトグラファーをしているとも伝えると、俺は立派な名刺なんて持っていないが、テッド・ハリスだと教えられ、口の中でその名前を繰り返す。
「ダニーデン近くで漁師をしている」
「漁師! それでその立派な体格かぁ」
最初はラガーマンかと思ったとようやく納得のいった顔でノアが笑い、メモ帳をジャケットのポケットから取り出そうとするが、忘れないようにと脳味噌に教えられた名前とダニーデンという町の名前らしきものを叩き込む。
「仕事が終わって時間があれば寄ってくれ」
「え?」
「この写真のようなものなら割と見ることができる」
漁師だから海で思わず目を奪われるような自然現象を目の当たりにすることも多いと、ノアのポストカードを見つめながら呟かれ、ありがとうと礼を言いながらダニーデンという町はクライストチャーチから近いのかと問いかければ、長距離バスで5時間とか6時間かと答えられて絶句してしまう。
「飛行機の方が早そうだな」
「そうだな」
でもバスでの移動もまあそれなりに楽しいぞと教えられ、それも悪くないなぁと呟いたノアは、スタッフに飲み物を問われ、今日はクライストチャーチに到着してもホテルに直行するだけだからとビールを注文し、テッドもビールを注文した為、二人の前にビールが置かれた時、それを手に取り乾杯と触れ合わせる。
「クライストチャーチでの仕事はどれぐらいになるか分からないけど、寄れそうなら寄ってみようかな」
「ああ、まあ小さな村だからあんたが気にいるようなものがあるかどうかは分からないけどな」
それでも良かったら寄ってくれ、ダニーデン周辺の観光地の案内ぐらいしてやれると、言い方はぶっきら棒ながらも親切な言葉にノアが嬉しいなと素直に頷き、ぜひ案内して欲しいなと笑みを浮かべる。
「仕事が終われば連絡してもいいかな?」
「気にせずに連絡してくれば良い」
もし、観光地などが気に入り、ホテル等も取れないのなら家に泊まれば良いからと、相変わらずのぶっきら棒さで家に泊まれば良いと誘われ、流石にそこまで甘えるのはちょっととノアが遠慮すると、代わりに一つ願いを聞いて欲しいと言われ、なるほどと内心呟いてしまう。
ノアが一時期身を寄せ、いまでも実家のように付き合いをしている教会とその付属の孤児院の人たちと付き合っていると見返りを求めない無償の愛が当たり前のように感じてしまうが、ギブアンドテイクが当然だとわずかに口の端を持ち上げるが、聞こえてきたのはある意味想像外の言葉だった。
「スマホの写真機能がうまく使えない。その使い方を教えてくれ」
「……え?」
そんなことで良いのかと目を丸くすると、今度姪っ子のダンスの発表会がある、その時一番可愛く写真を撮ってくれと言われたと、憮然とした顔で呟かれて呆気にとられたノアは、それぐらいなら何も気にする事ないのにと呆然としたまま返すと、周囲に頼める人がいないと呟かれ、そういう事なら喜んでと頷くと心底安心した顔でテッドも頷く。
「俺はクライストチャーチの親戚の家に今日は泊まる」
「そうか。俺はホテルに行って明日友人に会って仕事の打ち合わせかな」
お互い、飛行機が到着した後の予定を話していたが、長時間のフライトの影響かそれとも上空で飲んだビールの影響か、ノアが欠伸をしてそのまま眠ってしまう。
隣で今まで楽しく会話をしていたはずのノアが突如眠ってしまったことに流石にテッドも驚きを隠せなかったが、到着までの間眠っていればいいと苦笑し、己はノアが差し出したポストカードの何が気になるのか、じっと見つめては首を傾げ、また見つめるを繰り返しているのだった。
ドイツ南部の空港で友人達に見送ってもらってから何時間が経過したのかすぐに理解出来なかったノアだったが、真夜中の空港に到着し、予約を入れておいたホテルに連絡を入れて向かおうとした時、窮屈なシートから解放されて気持ちが楽になったと肩をぐるりと回したテッドが大きくて肉厚な手を差し出してくる。
「仕事、上手くいけば良いな」
「あ、ああ、うん、ありがとう。上手くいくように頑張るよ。テッドも漁師の仕事気を付けて」
仕事が終わって時間があれば必ず連絡する、そうしてくれと握手を交わしてお互いの仕事を頑張ろうと手を振って別れたノアの掌にいつまでも忘れることができない温もりが残り、その不思議さに首を傾げてしまうが、ホテルに早く向かおうと欠伸をこらえて出口に向かい、待機しているタクシーに乗り込んで予約してあるホテルに向かう。
到着したホテルは、観光客が利用するというよりはビジネスマンやホテル代を安くしたい人達が多く利用しているようなホテルで、照明を少し落としたチェックインカウンターで手続きを済ませてキーを受け取ったノアは、古くて小さなエレベーターに乗り込んで部屋に向かい、窓からの景色を楽しむ余裕もなく壁際の棚にカバンを置き、戸締りの確認だけを済ませてそのままベッドに飛び乗る。
シャワーを浴びる気力もなく、とにかく身体を横にして眠りたい一心でコンフォーターの下に潜り込んだノアだったが、あっという間に穏やかな寝息が流れ出し、ドイツから直線距離で約1万8千キロ離れた町で眠りに就くのだった。
この長旅が、良くも悪くもノアの人生を大きく変えるものになるのだが、眠りの園へと引きずり込まれたノアにそれが判るはずもなく、また、少し先の、変化をした未来に繋がる重大な出来事が目を覚ました後に待ち構えている事も予測できないことだった。