Glück des Lebens-6-

Über das glückliche Leben(UGL -Lion & Uwe -

 脳裏にこびり付いて消えない一つの笑顔があった。
 その笑顔は仕事で忙しくしている最中はそっと形を潜めているが、気を抜いた瞬間にまるで白昼夢のように浮かんでは存在を忘れるなと無言の圧力を掛けてくる。
 真冬のある休日の朝にたった一度、しかも離れた場所から目にしたそれなのに、忘れることが出来ないのはどうしてだろうか。
 今まで経験したことのないそれから苛立ちを感じ、今も脳裏に浮かんでいるその笑みを掻き消そうと無意識に頭を振れば、己の身体の下で白い豊かな乳房の持ち主が高い声を上げて背中に回した手に力を込める。
 彼女を抱いている時に他のことを考えることは日常茶飯事だったためにそれを悟られるような事はなく、今も脳裏に浮かぶ笑顔の理由を探りながら気持ちよくなるために体を動かしていた。
 一際高い声が挙がったことに気付き、そろそろ自身の限界も見えたと同時に背中に回っていた腕がだらりとベッドに落ちていき、今日はどうしても使って欲しいと懇願されたゴムの中に熱を出して肩で息をする彼女に覆い被さるように身を伏せる。
 忘失の瞬間、脳裏が真っ白になった時でさえもやはりその笑顔は浮かんでいて、意味の分からないそれに苛立ちを覚えて小さく舌打ちをすれば、彼女が何かを察したのか問いかけるような目つきで見つめてくる。
 「リオン?」
 「・・・・・・ああ、悪ぃ。お前に腹を立てた訳じゃねぇから」
 だから安心しろと笑みを浮かべて紅潮する頬にキスをし、気持ちよかったと中から抜け出せば、彼女の顎が僅かに上がって鼻に掛かった声がピアスの光る耳朶に届けられる。
 それを合図に寝返りを打って彼女の傍に横臥すれば、白い滑らかな腕が気怠げに持ち上がってリオンの肩へと回される。
 欲と熱を吐き出した後の身体は十分な睡眠を求めていて、このまま彼女の腕の中で眠りに落ちても良い、そう頭の何処かで思案したその時だった。
 ベッドの下に脱ぎ散らかしたジーンズから無機質な音が流れ出したのだ。
 その音が何を示すのかを嫌々ながら探すため、眉を寄せる彼女の身体を跨いでベッドから抜け出し、音の発生源である携帯を手に取る。
 「・・・・・・・・・シャイセ」
 「どうしたの?」
 「ボスの呼び出しだ。・・・・・・Ja」
 己の仕事が刑事である事を彼女には伝えていなかった彼は、誰が聞いても刑事だとは悟られない、一度聞いただけでは世間話としか思えない口振りと内容でヒンケルからの連絡を受け取りつつ、肩と頬で携帯を挟んで下着とジーンズを一纏めに手に取る。
 その姿からリオンが仕事に向かうのだと彼女が察しをつけるが、一眠りした後映画でも見に行こうと立てた予定が吹き飛んだ事にも気付き、一気に険しい表情を浮かべてベッドに身を起こすと裸のまま枕を抱え込む。
 「・・・今から来いってさ」
 全く人使いの荒いボスだと肩を竦めた彼は、ベッドの上で拗ねた顔で睨んでくる彼女に気付き、俺も誰かを睨みたいともう一度肩を竦めるが、涙目になった彼女に目を向けることなく部屋を出て行き、戻ってきたときにはすっかり出かける支度が出来ていた。
 「・・・・・・映画、どうするの」
 「仕事が入ったからな、無理だな」
 一応は悪いと思っている顔で告げ、枕を抱える彼女に顔を寄せてまた連絡をすると伝えると、一気に熱が冷めたような頬にキスをする。
 「仕事バカっ!」
 「仕方ねぇだろ?仕事をしないとメシが食えねぇんだよ」
 どこかの誰かさん達みたいに優雅に茶を飲んで笑っているだけで金が転がり込んでくる暮らしなどしていないと、自分とその見たことのないどこかの誰かを嘲笑うような笑みを浮かべて背中を向けた背中に枕が投げつけられるが、その直前にドアを閉めて枕の攻撃を避けると、最早彼女の存在など頭の中にないような顔で二度と訪れることのない部屋から出て行くのだった。

 

 もしも、この世の総ての事象に何かしらの意味があるのなら、人と人との出逢いが運命というのならばこの再会もそうなのだろうが、彼自身は幸か不幸か幼い頃に信じる神を捨て、運命という言葉をも捨て去った-と頑なに信じている-為、この出逢いはただの再会、しかもあまり喜ばしくない事での再会であるとしか思えなかった。
 一度目の運命の出逢いは、彼自身の公私に渡るパートナーであった女性が殺害された事件で、事件現場となった彼の職場にその青年が訪れた事だった。
 その事件はあっという間に解決したのだが、第一発見者であり被害者の元恋人という真っ先に疑われる要素をふんだんに持った精神科医と、そんな彼を参考人として意見を聞く為に署に招いた刑事という立場の二人が、少しの時を経ての再会がまた事件現場だという運命とは一体どんなものなのかと、思わず皮肉な思いを抱いてしまう。
 数人の制服警官と一緒に姿を見せた青年を見た彼、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーは、眼鏡の下でターコイズ色の双眸を驚きに瞠り、相手も似たような表情で見つめてきた事に気付くが、驚愕を消すことが出来ずにただ機械的に瞬きを繰り返す。
 「・・・・・・あれ、・・・バルツァー先生、でしたよね?」
 大きな手に手袋を填めながら同僚や制服警官と話しながらやって来た青年は、驚きに立ち尽くすウーヴェの姿を見つけると同じように足を止めて青い目を見開いていたが、次の瞬間、ウーヴェが一瞬にして目を奪われてしまうような笑みを浮かべる。
 その笑みは、己の目に飛び込んでくるもの総てが物珍しい子どもが見せるもののようであり、人生の明暗をつぶさに見つめてきた人だけが持ちえる達観したようなものでもあったため、自分よりも年下の彼がその両極端を内包した笑みを浮かべる事にウーヴェが驚愕に目を瞠ってしまう。
 精神科医として様々な患者と接するが、こんなにも相反する表情を同時に浮かべられる青年に目だけではなく興味も関心も一瞬にして奪われてしまうが、長年の訓練の成果で驚きの色を静かに掻き消すと、表情を無くした顔で笑顔の青年を見つめる。
 「まさかセンセイにまた逢うなんて思わなかったなぁ」
 ここが事件現場でなければ素直に聞き入れられる言葉だったが、場所が場所だけにウーヴェだけではなく青年の左右からも現場が何処であるかを思い出せと言った咳払いや睨みが投げ掛けられる。
 「確かに私もそう思わなかったよ。それに、また事件現場に居合わせるとはね・・・」
 これは一体どういう事なんだろうなと眼鏡のフレームを押し上げながら自嘲気味に呟けば、偶然ですねーと暢気な声が返されるが、冷静に考えれば、殺人事件を担当する刑事なのだから市内で起きた事件では当然ながら捜査するだろう。だから事件現場で会う確率が高いのは当然だったが、ウーヴェが殺人事件に出くわす確率が高いことについては不運としか言いようがなかった。
 その思いから皮肉に口元を歪めると、まるで路傍の石に蹴躓いてしまった不運を労うような気軽さでリオンがご愁傷様ですと告げたため、思わずその横顔を見つめたウーヴェだったが、蒼く澄んだ瞳に浮かぶ色と表情が違う気がしてわずかに目を細める。
 場違いな穏やかさすら漂う声や表情は見かけだけで、その裏に潜む別の顔があることを先日の事件の際に見せつけられていた為、その陽気さが本心なのか作っているものなのかの判断が付かずに悩んでしまうものの、双眸に浮かぶものが本心だろうと察して溜息を吐くが、背後にいた友人が服の袖を引いたために我に返って友人の横に並んで立ち、目の前の刑事達を端から順に一瞥して座っても良いだろうかと問いかける。
 「どうぞどうぞ」
 やけに愛想良く許可を与えられ、手を組んで小刻みに足を揺らす友人に落ち着けと伝えるためにその膝を軽く押さえ、大丈夫だと眼鏡の下から合図を送れば、不安に揺れていた目が僅かに落ち着きを取り戻す。
 そんなウーヴェの前で手袋を嵌めたリオンをヒンケルが呼び、落ち着きを失っている友人を宥める為にウーヴェが大丈夫だと告げると、血色が全く無くなっていた友人の顔に僅かに赤味が戻り、それを見計らったリオンが問いかける。
 「えー、話を聞かせて貰いたいんですが、構いませんか、センセイ?」
 「今回の第一発見者は私じゃない。こちらにいる私の友人だ」
 「あれ、そうなんですか?」
 ウーヴェの言葉に意外そうに目を瞠ったリオンだが、ヒンケルが頷いてその言葉を肯定したため、口の中で何事かを呟くものの気分を切り替えるように深呼吸をした後、第一発見者であり友人だと紹介された青白い顔の男の前に立つ。
 「シュヴァイガーだ。エルマー・シュヴァイガー。弁護士をしている」
 シュヴァイガーと名乗った男は蒼白な顔をしていて、目の前の惨劇に打ちのめされそうになるのを何とか堪えている様子だったが、隣にいるウーヴェを何度も見ては頷かれて落ち着きを取り戻しているようでもあった。
 「で、センセイはどうしてここに?」
 そのシュヴァイガーにではなくウーヴェに何故ここにいるんだと問い掛けると、ヒンケルとシュヴァイガーが目を瞠り、当のウーヴェもただ苦笑しつつも、今日は学会がありその帰りに友人と出会ったので事務所に立ち寄ったら荒らされていて、しかも死体を発見したと返されてリオンが頻りに頷く。
 「センセイ、よく死体を発見しますねー」
 「・・・・・・何も好きこのんでしている訳じゃない。それにさっきも言ったが今回の第一発見者は私ではない」
 人の言葉を聞いていなかったのかと返されて肩を竦め、相変わらずおっかないなぁと嘯くリオンを睨み付けたウーヴェは、シュヴァイガーが疲弊しきった顔で頭を抱えたことに気付き、咳払いをしてとにかく一刻も早く犯人を逮捕してくれと友人を思う気持ちを言葉にする。
 「そうですね、俺もなるべく早く逮捕したいです」
 でなければつい先程別れた彼女への未練が溢れ出しそうだと呟くリオンにヒンケルが瞬きをし、またふられたのかと問えば周囲から何勝何敗だとのからかいの声が挙がる。
 「残念ながら俺から振ったんですー」
 上司の言葉にリオンが舌を出しつつ返すが、これが彼らなりのコミュニケーションの取り方であることを知らないウーヴェとシュヴァイガーにしてみれば不謹慎にも思えるものだったため、ウーヴェの形の良い眉がくっきりと寄せられ、シュヴァイガーの顔が険しいものになったのを素早く見抜いたヒンケルが咳払いをし、気分を切り替えるぞと手を打つと、たった今までリオンの別れ話で盛り上がっていた皆の顔が一瞬で切り替わり、リオンも表情は変えなかったものの瞳に浮かぶ色を真剣なものに切り替える。
 「えー、じゃあヘル・シュヴァイガー、この死体を発見した時のことを教えて下さい」
 「・・・・・・今ウーヴェが言っただろう?学会の帰りに会場近くで出会って一緒に帰ってきた。その時に発見したんだ」
 弁護士と紹介されたシュヴァイガーだが、不測の事態が起きた時、例え弁護士といえども冷静さを欠くことを証明するような狼狽ぶりで語るが、それを聞いたリオンは素っ気ない顔で頷いてボールペンの尻でこめかみ辺りを突く。
 「そーですね、さっきそれは聞きました。でもそれはセンセイのことであってあんたの事じゃない。あんたはどのようにして発見したんですか?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「それとも、あんたの事務所なのにセンセイが先頭を切って入ってきたとでも言うんですか?」
 他の人ならばいざ知らず、この誰に対しても生真面目だろうセンセイが、友人相手とはいえそんな図々しい態度を取るだろうかと肩を竦めるリオンだったが、ウーヴェが意外そうに目を瞠り、シュヴァイガーには鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見上げられてもう一度肩を竦める。
 「・・・確かに、きみの言うとおりだ」
 リオンの言葉から何かを察したウーヴェの咳払いに気付いて意味もなく掌を膝に擦り付けたシュヴァイガーは、今日は依頼人と会い、市内のレストランで昼食を食べて店を出たときにウーヴェと出会い、一緒に電車でここの事務所に帰ってきたと返してリオンが頷いて先を促す。
 「今朝から事務所には誰もいなくて、出掛ける前に戸締まりをしたことは覚えている」
 だから当然室内に人がいるなどとは思わず、普通に鍵を開けて中に入ったら部屋が荒らされ、人が死んでいたんだと捲し立て、その一々を頷いて受け止めたリオンだったが、もう良いだろうとにかく早く犯人を逮捕してくれと、焦りや絶望の滲んだ声で叫ばれてしまい、仕方がないと言いたいのを堪える顔で肩を竦める。
 ウーヴェとシュヴァイガーが座っているソファから少し離れた床には死体から流れ出した血が描く模様があり、傍には凶器と思われるガラス製のオブジェが転がっていて、鑑識が写真を撮り証拠品を丁重に袋に詰めて運び出す様をぼんやりと見つめたリオンが犯人の目的は強盗だろうかと呟いて室内を見回す。
 「リオン、ちょっと来い!」
 「Ja」
 ヒンケルの手招きに頷いて踵を返すリオンだったが、何事かを思い出したように足を止め、ソファで顔色をなくしている弁護士と友人を心配している精神科医に一応は申し訳なさそうな顔で、この後事情を聞かせてもらうので署に来て下さいと伝える。
 「・・・私も行かなければならないのか?」
 「ひじょーに申し訳ないんですけど、センセイも一応第一発見者になるので、一緒に来て下さい」
 本当にセンセイは不運だと眉尻を下げるリオンにウーヴェが溜息一つでそれを了承するが、ウーヴェの隣から不満そうな声が上がる。
 「今夜、大切な裁判の打ち合わせがあるんだが・・・」
 「あー、打ち合わせ。大切ですよねー」
 シュヴァイガーの言葉にリオンが理解を示す顔で何度も頷いて腕を組むが、己の思いが通じたことに顔を明るくしたシュヴァイガーに不敵な笑みを浮かべた顔を突き出して目を細める。
 「自分のオフィスで人が死んでいるにも関わらずに打ち合わせに出かけようとする弁護士って信頼されるんですかねー?ねー、センセイ、どう思いますか?」
 「・・・何故私にそれを聞くんだ」
 リオンの言葉にシュヴァイガーが絶句して目を見張り、その横ではウーヴェが一瞬だけその通りだと言いたいのを堪えるが、どうやらそれをしっかりと見抜いていたらしいと気付くと、リオンの耳目の良さに無意識に体を一つ震わせてしまう。
 職業柄、言動からその人の性格や今感じていることなどを見抜く術を持っているウーヴェだったが、今陽気な顔で体が震えるようなことを呟くこの年若い刑事の心を読み解くのは難しいと気付き、見かけだけで能力を判断してはいけないと己を戒めるように言い聞かせる。
 「いや、ねぇ、そう思いませんか、センセイ?」
 「・・・確かに、そうだな」
 「おい、ウーヴェ!」
 リオンの更なる問いかけに己の思いを誤魔化すことをせずにウーヴェが同意を示すと、シュヴァイガーの顔色が変わって思わず尻を浮かせてしまう。
 「・・・仕事が大切なのも分かるが、殺人事件、だからな」
 「俺の事務所で勝手に死んでいる男にどうして時間を取られなければならないんだ!?」
 次の打ち合わせで次の仕事に繋がる成果が出せるかもしれないのにと、完全に立ち上がってウーヴェを睨むように見下ろしたシュヴァイガーだったが、白とも銀ともつかない髪を一つ振ったウーヴェが悲しげな色を瞳に浮かべて立ち上がるのを見、己が発した言葉の意味を今になって気付いたように目を見張る。
 「エルマー、まさかきみの口からそんな言葉を聞くとは思わなかったな」
 確かに、そこで殺されていた男はきみとは縁もゆかりも無い人かも知れないが、それでも人の命が奪われたのだと、どれほど手厳しいことを言われたとしても素直に受け入れてしまうような不思議な声が友人の言葉を非難すると、常に沈着冷静なはずの弁護士を生業とするシュヴァイガーの顔から血の気が引く。
 「・・・普段のきみならそんなことは思いもしないだろう」
 それほどまでに今夜の打ち合わせとその結果が重要なのかも知れないが、彼が言うように己の事務所で人が死んでいるにもかかわらず、警察の聴取に応じない弁護士を周囲はどのような目で見るだろうと悲しげに目を伏せながらウーヴェが呟けば、シュヴァイガーの足から力が抜けたようで、再度ソファに座り込んで額に腕を宛がって顔を上げる。
 「・・・ケーニヒ刑事」
 「へ?」
 「・・・ケーニヒと名乗らなかったか?」
 「あ、ああ、そうです。いやー、良く覚えてましたねー」
 自慢じゃ無いが人の名前を覚えるのは苦手だが良く覚えていてくれたものだと、くすんだ金髪に手を宛がって朗らかに笑うリオンを、まだ前の事件からそんなに日が経っていないだろうと呆れた顔で見つめたウーヴェは、参考人聴取には応じるが、こちらも一度クリニックに戻らなければならないことを告げると、リオンが考え込むように顎に手を宛がう。
 「そーですね。センセイは戻って貰っても大丈夫かと思うんですけど、ボスに確かめます」
 もう少しだけここにいてくれと言い残し、他の部下に指示を与えているヒンケルの元に向かったリオンは、手短に事情を説明したあと、くるりと振り返って親指を立てる。
 「?」
 「センセイ、連絡先を教えて下さい」
 すぐに連絡が付く携帯が良いと宣いながらウーヴェの前に戻って来たリオンだったが、これもまた溜息一つで理解を示したウーヴェが取りだした名刺に携帯の番号を書いて差し出すと、鄭重にそれを受け取ってジーンズのポケットにしまい込む。
 「ヘル・シュヴァイガー、詳しい話を署で聞かせて下さい」
 「・・・分かった」
 どうせこの様子では打ち合わせどころでは無いと、肩を落としながら立ち上がったシュヴァイガーに何かを言いかけたウーヴェだったが、自分とは全く関係の無い人の死によって今後の弁護士としての活躍が望めなくなるかも知れないことに落胆する友人の横顔に口を閉ざし、意味ありげに見つめて来るリオンの視線にも気付かないのだった。

 

 真冬の厳しい風が二重になっている窓を微かに揺らす中、後の予定を思えば重い溜息しか出てこないウーヴェは、予定よりも遙かに遅れて戻って来た彼を心配そうに出迎えつつも、明日の診察のリストをそっと差しだしてきた女性に軽く礼を言う。
 彼女は少し前から勤務する事になったリア・オルガで、先の事件で受付を任せていた女性が殺されてしまい、仕事上での不都合が生じた為に雇い入れたのだが、彼女の仕事ぶりは丸一日働く様を見ただけで満足できるほどのものだった。
 彼女を雇ったことに間違いは無かったと、受け取ったリストをデスクに置き、一人掛けのソファにコートとマフラーを置いたウーヴェは、少し離れた場所にじっと立つ彼女に気付いて苦笑する。
 「・・・リストをありがとう、フラウ・オルガ」
 「いえ。纏めておきましたが、もしも不都合があればすぐに作り直しします」
 「ああ、助かる」
 デスクの端に尻を乗せて少し遠くを見るような視線で彼女を見ると、仕事中には見る事の無い微苦笑を浮かべた顔に見つめ返される。
 面接の時には背中にさらりと流れていた長い髪を一つに束ねて仕事をする間は決して邪魔にならない様に纏め上げ、見た目も華美ではなく落ち着いた雰囲気を作り出している彼女だったが、何から何まで彼の理想通りだった訳ではなかった。
 クリニックの受付という仕事柄、患者や問い合わせの電話などにも応対して貰っているが、どちらかと言えば可愛らしさの残る顔には表情が殆ど浮かんでいないのだ。
 ここに来る患者が望んでいるのは心の平安だろうが、その患者に対し無表情で応対するというのはあまり好ましくないと彼は思うのだが、勤務条件や給料についての説明には一切口を挟まなかった彼女が、まだ雇い始めて数日という理由から彼が控え目にその事について切り出した直後、お言葉ですがこれが私の仕事のスタイルであり、誰に何を言われたとしてもこれを止めるつもりはありませんと、控え目だが意志の強さを滲ませた声で断言し、彼の口を閉ざしてしまったのだ。
 そこまで自分というものを持つのならば好きにすればいいと、ことの成り行きを見守る様に告げたが、意外な事に患者の評判は上々で、前に秘書をしてくれていた彼女のように癒してくれる笑みで出迎えられるのも好きだがオルガのように無表情に見えても実はしっかりと自分だけを見つめてくれる人は良いと、気難しい患者でさえも雇って数日の受付兼秘書を受け入れてくれたのだ。
 そんな不思議な空気を持つオルガが作るリストはケチの付けようが無く、これで十分だと笑顔で告げ、今日も一日お疲れ様、明日もよろしく頼むとウーヴェが笑いかけると、ようやくその時になって彼女の顔に安堵の笑みが浮かび上がる。
 「今日もお疲れ様、フラウ・オルガ」
 「お疲れ様でした、ドクター」
 オルガが疲れを労うような笑顔で頷いたため、ウーヴェも学会からの帰りに遭遇してしまった出来事をごく自然と切り出し、彼女の目を驚きに見開かせてしまう。
 「・・・殺人事件、ですか?」
 「ああ、帰りに友人と会って事務所が近いから寄ったら・・・」
 その事務所がひどく荒らされていて、部屋の中で男が一人死んでいたと呟くウーヴェの脳裏に浮かんでいたのは、オルガの前に秘書をしてくれていた女性の顔だった。
 どうやらそれはウーヴェだけでは無いようで、オルガの形の良い眉が顰められたかと思うと、殺人事件に二度も遭遇するなんて不運ですねと呟かれて苦笑する。
 「そう、だな。不運としか言いようが無いな」
 さっきも年若い刑事に同じことを言われたが、警察関係者でもないし監察医でも無い一介の精神科医が半年と間を置かずに二人の命が強制的に終わらされた現場に居合わせてしまうのは、運命の神とやらが悪戯心を起こした結果なのだろうなと肩を竦める。
 「それは、どう言えば良いのか分かりませんが、事件に巻き込まれたことは本当にお疲れ様です」
 ウーヴェの口調から冷たい思いを感じ取ったらしいオルガが遠慮がちな、だが事件に巻き込まれた形になったウーヴェへの気遣いをしっかりと言葉にすると、ウーヴェも己の言動が彼女に気遣わせてしまったことに気付き、反省の思いを込めて軽く目を伏せるが、オルガと視線を合わせて今度は皮肉も嫌みも無い心からのそれを顔に出すと、彼女の顔にも同じような笑みが浮かぶ。
 「ありがとう、フラウ」
 「いえ。・・・ドクターさえ良ければ、ですが、リアと呼んで下さい」
 彼女の申し出に驚きを示したウーヴェだったが、仕事上の付き合いが始まったばかりの女性のファーストネームを呼ぶことにまださすがに抵抗があったため、やんわりとそのうちに呼ばせてもらうだろうが今はまだこのままでいさせて欲しいと素直に告げると、ショックを受けるかと思っていた顔に笑みが浮かんだため、再びウーヴェの顔が驚きに彩られる。
 「もちろん、構いません」
 「ああ、ありがとう」
 互いをファーストネームで呼ぶ、その重みは昨今薄れてきているものの、人間関係に置いては古くさいと言われかねない考えを時々見せるウーヴェの精一杯の言葉にオルガも理解を示したように頷き、今日はお疲れ様でしたともう一度労いの言葉をかけ、明日の仕事の段取りを手短に伝えた後、診察室を出て行く。
 彼女の背中が見えなくなった時、天井を見上げて溜息をついたウーヴェは、二人に告げられた不運だという言葉を脳内で繰り返し、本当に不運だと口にする。
 日々の忙しさの中で薄れていった彼女の死。最期を迎えた顔が脳裏に浮かび、やるせない溜息をついた時、ソファに投げ出したコートから着信を告げる音が流れ出す。
 「バルツァーです」
 『センセイ?ケーニヒです』
 「ああ、きみか」
 コートから携帯を取りだして気怠げに耳に宛がったウーヴェは、ついその気持ちのままきみかと珍しくぞんざいな言い方をするが、電話の向こうでは俺ですと陽気な声が返事をし、可能ならこれから聴取に協力していただきたいのでそちらに向かうと教えられて目を見張る。
 「こちらに来るのか?」
 『Ja.第一発見者と言っても今回の場合本当にセンセイは不運なだけなので、今日の学会からの帰りの話だけ聞かせて下さい』
 「あ、ああ、それで良いのならこちらに来てくれないかな」
 警察署の独特の雰囲気を思い出すと胃の辺りに不快感が漂うウーヴェは、こちらに来てくれるという申し出をありがたく受けると、小一時間後にやってくる事を教えられて微苦笑する。
 「分かった」
 『じゃあセンセイ、後で行きます』
 陽気な声に苦笑交じりに頷いて分かったともう一度告げたウーヴェは、通話を終えた携帯をソファに投げ出し、この後ここで始まることを考えるだけで溜息が自然と零れるのだった。

 

 この日、二度目の出逢い-それは神の悪戯のようなもの-を果たした二人だったが、まさか自分たちの関係が刑事と事件関係者から先に進んだものになるだけではなく、互いの人生において存在しなかった日々を思い出すことの方が難しい、そんな関係になるとは予想すら出来ないことだった。
 リオンがどんな理由からかは分からないが、脳裏にこびり付かせているウーヴェの笑顔の意味や、ウーヴェが目の当たりにした、リオンの複雑な心境を如実に表す両極端な笑顔の意味なども当然この時の二人には理解出来る筈も無かった。
 二人がその意味を正確に理解するようになるには時という仲介者が必要になるのだった。


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2015.09.04
久しぶりの更新です(爆)タイトルも改題しました(脱兎)


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