Glück des Lebens-1-

Über das glückliche Leben(UGL -Lion & Uwe -

 南に面した大きな窓に吊したブラインドから入り込むのは、冬の冷えた空気を思わせるような日差しだった。
 ナイトテーブルに置いた目覚まし時計に時を告げられて瞬きを何度か繰り返し、視界と共に脳内もクリアにしていく。
 今日も一日が始まるのだ。
 一人で寝るには広すぎるダブルサイズのベッドで上体を起こし、大きく伸びをして意識もクリアになるように軽くストレッチを行えば、体内にいつまでも残っていたいと訴える夢の残滓が霧散していく。
 室内履きに足を突っ込み、ベッドの足下に放り出しておいたガウンに手を通し、部屋の隅にあるバスルームのドアを開ける。
 真正面にある大きな鏡に映し出された顔はまだまだ眠気を引きずった顔だったが、脱いだガウンやパジャマなどを洗面台に無造作に置き、右手奥にあるガラスで仕切られたシャワーブースのドアを開ける。
 少し熱めのシャワーを頭から浴びれば眠気も気怠さもすっかりと流れていき、背筋が伸びるような気持ちになる。
 同じガラスで仕切られた奥には高級ホテルのバスルームかと思えるような円形のバスタブがあるが、そこに湯が張られることは滅多になかった。
 手早く髪を洗ってお気に入りのボディソープで全身をくまなく泡立てて念入りに身体を洗った青年は、実家が手配してくれているメイドが取り替えておいてくれたバスローブに身を包み、タオルで髪を拭きながらシャワーブースを出る。
 今日は朝から予約を入れている患者が多く、忙しくなるだろうと予測を立てながら髪を乾かして身支度を整える。
 朝食はいつも診療所近くのカフェで食べ、昼も夜もほぼすべてが外食だった。
 自分一人の食事だがそれを用意することの意味が分からず、まるでレストラン並の広さと設備を誇るキッチンがあるが、使うものと言えば冷蔵庫とレンジぐらいだった。
 ベッドルームに戻り、だだっ広いクローゼットの中から種類は豊富にあるシャツとネクタイ、ジャケットを無造作に選んで身につけ、出勤の準備が整った事を大きな姿見で確認する。
 「良し」
 今日も一日働くかとの気合いを込めて軽く頷き、ベッドルームから出て行き、左手に伸びる長い廊下を静かに歩く。
 本来ならば3部屋ほどが作られるはずだった最上階のフロアだが、ここにあるのは青年が暮らすこの一部屋だけだった。
 土地のオーナーが青年の父の古くからの知り合いであり、また事業上のパートナー企業のオーナーでもあった。
 その繋がりからここにマンションを建てる計画を耳にした父が、相場にいくらか上乗せをするから最上階を買い取ると申し出、己の息子が開業した祝いにと、この部屋を与えたのだった。
 当初は親の脛を囓っていると思われるのが嫌で、また自身と父との確執からそれを受け取ることが出来ず、父や兄には内密に家賃と称した金を振り込んでいたが、ある時それが分かってしまい、今まで振り込んだ全額を返金された上にこの家を正式に譲り渡すという正式な譲渡契約書と権利書などの書類が、実家が抱えている弁護士から届けられた。
 さすがにそこまでされてしまえば逆らう事も出来ず、世間からすれば羨ましい限りの書類に渋々サインをした。
 他者からすれば羨むような環境だったが、ベッドルームがメインの一つとそれぞれシャワーブースが付いた客間が5部屋、バスルームが2つに20人ほどの来客があっても十分にもてなすことの出来る広さを誇るダイニングなど、一人暮では持て余すほどの広大な家で、メインのベッドルームとバスルームしか使わずに暮らしている。
 そんな青年、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーは、開院しているメンタルクリニックに通勤するため、玄関の壁のフックに吊しておいたコートを腕に掛け、これにだけは金を掛ける愛車、ボクスター・スパイダーのキーを手に家を出るのだった。

 

 隣の部屋の住人まで叩き起こすつもりかと文句を言われても仕方がない程の巨大なベルの音が、足の踏み場もない程散らかった室内に響き渡る。
 「……ぅーっ」
 まるで獣が唸るような、それとも地獄のフタが開いたことを喜ぶ悪魔達が歓喜に湧き踊っているかのような低い低い声が聞こえたかと思うと、いつまでもしつこく鳴り響く目覚まし時計に大きな掌が叩き付けられる。
 目覚まし時計が口を利いたとすれば、間違いなく痛いだろうがバカタレ、傷害罪で訴えるぞと言うだろうが、今のところ目覚まし時計が己の意思でもって喋るだけのテクノロジーを現代の人間は持ち合わせていなかった。
 眠気に負けきっている腕がずるりと重力に従ってベッド脇に垂らされると同時に、手の下にあった目覚まし時計も床の上に転がり落ちる。
 人間ならば即死かもしくは重態だろうが、この目覚まし時計はこうした酷い仕打ちは毎朝のことなのか、ただ沈黙しながらも正確に時を刻むだけだった。
 だがそれでは面白くないと考えたのかどうなのか、床の上に転がって天井を睨み付けていた目覚ましの文字盤の上、長針が一つ動いた瞬間、さっきとは比べ物にならない程の大音量でベルが鳴り響く。
 「!!」
 さすがにその音には眠っていられなかったのか、ギシギシとうるさいベッドに両腕をついて腕立て伏せの要領で起き上がった青年は、辺りをきょろきょろと見回し、断末魔のように鳴り響いた目覚ましを半目で睨み付けた後、がりがりと頭を掻いてベッドに座り込む。
 寝起きの悪さは天下一品で、育ての親や姉とも思っているシスターらに呆れられていたが、その癖は未だに健在で、しばらくの間腿に肘をついてただぼうっと、薄汚れた染みの浮いた壁を見つめている。
 こんな事をしていては遅刻するとくすんだ金髪の中身が警告を発した為、のろのろとベッドから立ち上がり、トイレの横に申し訳程度に付いてあるシャワーブースへと向かう。
 シャワーのコックを捻っても湯がなかなか出てこない為しばらくの間裸でぼうっとしていたが、突如シャワーヘッドが外れるような勢いで湯が流れ出し、その衝撃で目を覚ます。
 便器が濡れないようにバスタオルを被せ、更にぼろぼろのシャワーカーテンを吊してあるが、それの意味を失わせる程勢いよくシャワーを浴びて髪を洗い、安物の固形石けんで身体を洗った後、便器の上のタオルでがしがしと身体と髪を拭いていく。
 漸く目覚めた脳味噌だったが、今度は腹も目覚めたのか、ぐぅぅうと地を這うような音で腹の虫が空腹を教えてくる。
 何か食い物があっただろうかと、冷蔵庫の中身を思い浮かべながら簡易キッチンのようなそこに置いた冷蔵庫を開けて絶句する。
 冷蔵庫というのは基本的に飲食物を保管する為のものだが、どうして青カビや赤カビが生えた野菜や肉が保管されているのだろうか。
 朝から見たくない光景を目の当たりにして深々と溜息を吐いた青年は、これだけは昨日買い求めたために安全である事が証明されているミルクが入ったボトルに直接口を付ける。
 すべてを飲み干し、その辺に放り出してあったゴミ袋を大きく開けて冷蔵庫の中の食べられないものをすべて袋に詰めていく。
 こんな所をマザーやシスターが見れば絶句するどころか、涙を流して神に許しを請いかねないと気付き、芽生えた罪悪感から一瞬だけ目を閉じて黙祷を捧げ、気分を切り替えてそれらを処分する。
 贅沢を言えば朝食を食べたかったが、今片付けている冷蔵庫が日常茶飯事と化している為、ロクに食うものなど当然無く、クロスバイクに乗って出勤する途中にファーストフードで買って食べるしかなかった。
 今日もまたいつものようにMの字がでかでかと書かれた看板のお店にお世話になるかと、何となく寂しい思いを感じつつ、出勤するためにシャツに着替えネクタイをぞんざいに結んでジャケットの袖に腕を通せば、気分はすっかりと刑事に切り替わる。
 散らかり放題の部屋は次の休暇に片付けると苦笑した青年は、染みの浮いた壁に立てかけてある、唯一金を掛ける対象である、目が覚めるような鮮やかなブルーの車体のクロスバイクを肩に担ぎ、自転車に乗っても邪魔にならない短いブルゾンを着込んで革のグローブを着けて寒さに備える。
 「今日も元気に働くか」
 誰に告げるでもなく呟き、ベッドサイドの、ナイトテーブルにもダイニングテーブルにもなるローボードの上に飾られている写真立てに視線を向けた後、担いだ自転車の鍵を取り上げて部屋を出れば、お隣の部屋の住人が同じく出勤の支度をして部屋から出てくる。
 「おはよう、じいさん。今から出勤か?」
 「誰がじいさんだ。おはようさん、リオン。お前こそ今からか」
 「今日は寒くなるらしいぜ。道端で寝転がってくたばるんじゃないぜ」
 「言ってろ」
 口が悪くてもそれなりに相手を心配している口調でお互いに行って来いの挨拶を交わし、肩に担いだ自転車を揺らしてアパートの狭い階段を下りていく。
 「おーい、リオン」
 「どうしたー?」
 階段の踊り場から呼ばれて振り仰いだ青年、リオン・フーベルト・ケーニヒは、先程のじいさんが紙袋に入った何かを投げて寄越した為、自転車を下ろしてそれを受け取る。
 中に入っていたのは、薄切りの黒パンと同じく向こうが透けるような薄さのチーズだった。
 「ダンケ、じいさん」
 「気をつけてな」
 人からすれば朝食とも呼べないそれに有り難いと礼を述べ、リュックに放り込んで自転車に跨る。
 「行くかー」
 掛け声をかけ、雪が積もって滑る道を器用にクロスバイクで走っていくのだった。

 

 ウーヴェの仕事は、メンタルクリニックのドクトル、精神科医だった。
 若くして開業に漕ぎ着けたのだが、当初は駆け出しの精神医の元を訪れる患者がいるはずもなく、祖母から受け継いでいた財産を食いつぶす事になるだろうと思っていたが、歴史の教科書にも載る先祖を持つ女性を内密に診察し、彼女が回復したのを切っ掛けに資産家や実業家と言われる比較的金にゆとりのある人達を診察するようになってきた。
 飛び込みの患者などはおらず、皆それぞれがお抱えの主治医からの紹介状を持参でやってくる為、いわゆる町医者のような忙しさとは無縁だった。
 今日もそんな患者達の診察の予定が入っていたが、特に今診察に来る患者で注意を払うべき人はいなかった為、数は多いが気分的には楽だった。
 愛車のキャレラホワイトのスパイダーを走らせ、クリニックのあるビルの地下駐車場に滑り込み、所定の位置にスパイダーを納めて車から降り立つ。
 「おはようございます、ドクトル」
 「おはよう」
 顔馴染みの警備員の挨拶に笑顔で返し、駐車場からも直接行けるエレベーターで3階のクリニックまで上っていく。
 いくつかオフィスの事務所がある3階で降り、廊下の突き当たりの、木で出来た見た目は重厚でセキュリティは万全のドアのセイフティロックを解除しようとするが、ドアが僅かに隙間を作っていた。
 このクリニックに勤務するのは自分と秘書兼受付をしてくれている、カミラ・リーベントと言う名の女性だけで、後は定期的に来る清掃業者だけだった。
 一足先にカミラが出勤しているのかも知れないとドアを開けたウーヴェは、予想に反して室内には誰もいない事に気付き、メガネの奥の双眸を見開く。
 「フラウ・リーベント?」
 呼びかけながらドアを後ろ手で閉め、一体どこに行ったのだろうと待合室に視線を巡らせるが、小柄でいつも明るい笑顔で患者にも評判の良かったカミラの姿は見あたらなかった。
 待合室の毛足の長い絨毯の上を歩き、二つ並んだドアの間に置かれたデスクに手袋とマフラー、コートを置いた彼は、彼女が出勤している気配が無い事に首を傾げる。
 昨夜いつも通りに診察を終えてここを出る時のセイフティロックは万全だった。
 万が一異常な方法でロックが解除されれば一報が入るが、その連絡もなかった。
 受付のデスクに手を付き、どういう事だと眉を寄せつつ左の磨りガラスが嵌められた木のドアの違和感に気付く。
 診察室には患者のプライバシーに関わるものが溢れているが、それらすべては診察室と繋がった隣室に保管してあり、そこの鍵はウーヴェだけが持っていた。
 その為、特に鍵は掛けていないが、真鍮のドアノブに何やら汚れが付着していたのだ。
 掃除に入ってくれる業者が来るのはまだ先だった為、違和感の元である汚れを指先で拭えば、ぬるりとした感触が伝わってくる。
 「フラウ・リーベント、ここにいるのか?」
 問いかけつつドアを押し開き、室内を見回しても女性の姿がない事に溜息を吐き、ドアに手を掛けたまま真正面に置いたデスクを何気なく見遣り、見慣れないものを発見する。
 「?」
 その見慣れないものは、デスクの足下から顔を覗かせていた為、メガネの奥の双眸を細めて近寄り、飛び込んできた光景に絶句する。
 「…っ!!」
 デスクと座り心地の良い椅子の間、淡いピンクのスーツを赤黒く変色させたカミラ・リーベントが、恐怖を顔に貼り付けたまま変わり果てた姿で仰向けに倒れていた。

 

 警察署にメンタルクリニックで変死体が発見されたとの一報が入った時、リオンは己のデスクに尻を載せて同僚と先週の地元クラブの試合について盛り上がっている時だった。
 「リオン、行くぞ」
 「ヤー」
 ボスの一声に元気よく返事をし、手を振る同僚に帰ってきたらビールを奢れと指で命じるが、早く行けと急かされた為に舌を出して部屋を飛び出していく。
 「ボス、現場はどこですか?」
 「市庁舎広場に面したアパートだ」
 「へー。一等地にあるアパートに入ってるクリニックってどんな診察をしてくれるんでしょうね。俺、一度行ってみたいなぁ」
 「仕事でだが今から行けるぞ」
 「確かにそうだ」
 警察車両に乗り込み、リオンの運転で現場のアパート-実は車を使えば少しだけ遠回りになる-に向かった二人は、初動捜査の為に応援で来ている制服警官からの敬礼を受け、駐車場入口横の詰め所に顔をだす。
 「すっげ、金持ちばかりだ」
 「リオン?」
 「スパイダーにAMGにアルファロメオ…」
 駐車場ゲートの向こう、整然と並ぶ車種を呼び上げたリオンに、ここいらはお金持ちがオフィスを構えていたりそう言う人種を相手に客商売をしている店が多いからなと素っ気なく返し、リオンの襟首を掴んで引きずっていく。
 「ボス?」
 「ここはこいつらに任せて現場に行くぞ」
 小さな子供や犬猫じゃあるまいし襟首を掴んだまま引きずるなと、己よりも遙かに背の低いボス、ヒンケルに控え目に苦情を述べるが、小気味よいほど無視されてしまい、ちゃんと歩きますと宣言して上司の手の内から逃れる。
 駐車場から現場になったフロアまでは直通でいけるエレベーターがあり、二人で乗り込んで先に乗っていた警官から事件の概要を聞き始めた時、エレベーターが目的のフロアに到着した。
 ビルの外観は随分と重厚だったが、このフロアに限って言えば、廊下の大きめの窓から入る日差しが床を照らし、まるでどこかの城の廊下を思わせる雰囲気が漂っていた。
 居心地は悪くない、いや、どちらかと言えば居心地は良いだろう。
 そんな第一印象を抱いたリオンは、突き当たりのドアを開けて中に入る。
 まず驚いたのは、その室内の調度品の良さだった。
 刑事の安月給で暮らしているワンルームの部屋もそれなりに居心地は良かったが、ここと比べれば雲泥の差どころか、比べることすら失礼ではないかと思える居心地の良さが部屋中に広がっていた。
 メンタルクリニックだと聞いていたが、その待合室と言うよりは図書室の様な雰囲気があり、その雰囲気の元を探ろうと視線を巡らせれば窓から最も遠い壁一面が本棚になってあり、所々の棚には毎朝取り替えられているとしか思えない花がひっそりと、だが見るものの心を和ませるように飾られていた。
 本棚の前にはアンティークかと目を疑うようなカウチやソファが幾つか置かれ、その一つ一つが背の高い衝立で他者の視線を遮るように半分だけ囲われている。
 場所柄他者の視線が気になる人も多いのだろうか、そんな配慮がされた待合室だったが、壁に二つ並んだドアの左側が開け放たれ、鑑識の人間が忙しそうに出入りしている事から、現場がその部屋であることを知る。
 「ボス、被害者は?」
 「ここの事務員というか先生の秘書をしていたカミラ・リーベント、25才だ」
 警官の敬礼を受け流しながら部屋に向かうヒンケルの後に従って進むリオンだが、その視線は周囲に注がれていて、診察室と流暢な文字で書かれたプレートが掲げられたドアの前に向かうまでには待合室の様子を鮮明に記憶していた。
 診察室の中は待合室と似たような雰囲気だったが、部屋の中央にゆったりと座ることの出来る一人掛けのソファとデスクが向かい合って置いてあり、デスクの足下に白いチョークで描かれた線の端が見えていた。
 そのデスクを回り込んでこれまた座り心地の良さそうな椅子に目をやり、そのまま視線を足下に落としたリオンは、ヒンケルの背後で中腰になって上司の肩越しにピンク色のスカートを見下ろす。
 彼らの前、生前はさぞかし美人だったと思わせる顔に恐怖の色を貼り付け、カミラ・リーベントが死んでいた。
 「直接の死因は…絞殺?」
 「どうだろうな。出血によるショック死という可能性もあるな」
 仰向けで倒れている為か、顎の下に紫色になった筋状のものがくっきりと残されているが、淡いピンクのスーツもどす黒く染まっていた。
 「凶器はなんだと思います、ボス?」
 「どっちのだ?」
 スーツを染めた原因となった傷か、それとも首に残された痣の元かどちらだと、顔を振り仰いでくる上司に目を細め、直接の死因ですとだけ再度呟けば、ヒンケルが何か言いたげに口を開くが何も言わなかった。
 死体の左右に二人でしゃがみ込み、一見しただけで掴める特徴を頭に叩き込んでいた時、制服警官が足早にやって来て敬礼し、ヒンケルに耳打ちする。
 「ああ、ご苦労。こちらに来て貰え」
 その言葉に顔を上げたリオンは、誰かを呼んだ事に気付いたが、傍にいた鑑識の者に声を掛けて後で詳細な報告を頼むと告げれば、誰が見ても完璧だと思う資料を揃えてやると返され、場違いな笑みを浮かべて大きく頷く。
 「ボス、誰ですか?」
 「ああ、ここのボスだ」
 「へ?ああ、精神科医ですか」
 「そうだ」
 死んだカミラのボスであり、聞くところによれば、先月までは彼氏だったそうだ。
 その言葉に思わず口笛を吹いてしまったリオンの頭上に拳を落としたヒンケルは、天井まである本棚の横にある小さなドアが静かに開いたことに気付き、頭を押さえる部下に目配せをする。
 小さなドアから出て来たのは、色の白い痩身のまだ若い青年だった。
 「バルツァーさんですな」
 「はい」
 この度はとんでもない事になったと口先だけの悔やみを述べつつ手を差し出したヒンケルの後では、頭髪の色を顔中に広げたように蒼白な面持ちで姿を見せた精神科医の顔を凝視するリオンがいた。
 グレーと言うよりはシルバーや白に近い髪、緑より深いターコイズ色の瞳は上半分だけの細いフレームで縁取った眼鏡の奥で意志の強さを表すように光っている。
 自分の様なブロンドなどはその辺を歩けば山ほどいるが、こんなにも色素の薄い髪を見たのは初めてだった。
 スカンジナビア辺りに身内でもいるのだろうかと、思わず見とれてしまうリオンだったが、ヒンケルの声に我に返る。
 「バルツァー先生、うちの刑事を紹介します」
 「………刑事?」
 オウム返しに呟かれ、あ、驚いてらと素直に声に出した瞬間、ヒンケルにじろりと睨まれて肩を竦める。
 「初めまして、先生。リオン・H・ケーニヒです。捜査にご協力、ありがとうございます」
 びしっと、だが何処か戯けた風に敬礼をし、礼儀正しく名乗れば、眼鏡の奥の双眸が最大限に見開かれて見つめられてしまう。
 「どうかしましたか?」
 「……最近は見習い中の刑事も駆り出されるのか」
 口元に拳を宛って皮肉気に笑った顔に瞬きをしたリオンは、この場には相応しくないと思われる満面の笑みを浮かべる。
 「良く言われるんですよね。あ、あれですか?もしかして先生も良く言われたりしますか?随分若いのに腕は確かなんですかーって」
 皮肉には皮肉で返す、そう教えるように、顔には笑みを浮かべながらもロイヤルブルーの双眸には一切の笑みを浮かべずに言い切ったリオンの前、バルツァーと呼ばれた医師が目を瞠って絶句する。
 「…失礼」
 「人は誰しも外見で判断しがちですよね。お気になさらずに。俺も気にしませんし」
 眼鏡を指先で押し上げて腕を組む医師に、刑事はにこりと場違いな笑みを浮かべる。
 その姿をヒンケルがもの言いたげに見守っていたが、先程のように結局は何も言わないままだった。
 「この度はご愁傷様でした。もう何度も聞かれているかと思いますが、発見時の様子をもう一度聞かせて貰えますか?」
 先程の皮肉気な口調など感じさせない、陽気さすら感じる声で問いかけられ、腕を組み替えたウーヴェがちらりと刑事の身体越しに床を見やり、きつく眉を寄せて顔を背ける。
 「隣の部屋で話を聞いても良いですか?」
 その様子から何かを察したらしいリオンが上司に囁きかけ、鷹揚に頷かれて微苦笑を浮かべる。
 「先生」
 「…バルツァーで結構だ」
 「あ、そうですか?や、良かったー。昔先生って名前のろくでなしがいて、出来れば呼びたく無かったんですよー」
 ああ良かったと、心底安堵した顔で呟かれ、思わず寄せていた眉を開いたウーヴェは、背後のドアに向かって踵を返す。
 「リオン、お前に任せる」
 「ヤー」
 ヒンケルの言葉に嬉しそうに敬礼をしたリオンは、一足早く元いた部屋に戻ったウーヴェの背中を追いかけていくのだった。

 

 これが、リオン・フーベルト・ケーニヒとウーヴェ・フェリクス・バルツァーの初めての出逢いだった。

 

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2009/12/22
リオンとウーヴェの初めての出逢い篇。すべての始まりは、ここからです。
最後までお付き合い下さると嬉しいですm(_ _)m


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