小さいながらも凛とした佇まいの王宮の廊下は寒々しかったが、それでも窓から入る日差しが寒さを和らげてくれていた。
その廊下を寒さなど感じていない顔のアドラーが歩いていたが、向かう先は己の職場ではなく、王宮の端に位置する部屋だった。
その部屋は王家の人間や限られた人だけが利用出来る図書室がある建物の中にあり、短い渡り廊下を進んでいくと、目的の部屋へと繋がる廊下が見えてくる。
その場に一歩足を踏み入れたアドラーの鼻腔を独特の匂いが擽り、無意識に安堵してしまう。
その匂いは遠い過去からも感じられるもので、その匂いにつられるように穏やかな笑みを湛えた顔が脳裏に浮かぶ。
常に己の目標であり決して超えることの出来ない存在であった兄、ヴェンツェルの顔に兄さんの好きな匂いだと小さく告げると、耳の奥に過去からの声が響いてくる。
アドラーには年の離れた兄がいたのだが、その兄は自国だけではなく他国にまで名が知れ渡る知者だった。
そんな兄が自慢だった弟だが、兄だけを溺愛し己を自らが腹を痛めて生んだ子どもとすら認識していないような母の為に離れて暮らさざるを得なかった幼少期を思い出してつい眉間に皺を寄せてしまう。
日頃からあまり表情は豊かではないアドラーが眉間に皺を寄せている、そんな顔をすれ違った人達が見れば、思わず顔を背けて声も潜めたくなってしまうほどだった。
己の顔を全く認識していないで廊下の角を折れ、いくつか並ぶ扉の前を進んだアドラーは、目的のドアの前に立つと控えめに扉をノックして返事を待つ。
「……あ、ああ、はい、どうぞ」
ノックの音に遅れて返事があり、扉を開ければ広いはずの室内が手狭に感じるほどの本や地図が雑多と積まれた様が目の前に広がる。
南に面した大きな窓からは午後の日差しが柔らかく入り、室内の寒さを和らげていて、その窓の前にある、これもまた本が山積みにされている机へと視線を向けると、本の間から栗色の髪が見え隠れする。
「…あ、アドラー様、こんにちはっ!」
栗色の髪の主に呼びかける前、天井まで届く本棚の前にいた金髪の少年が振り返り、踏み台から身軽に飛び降りて駆け寄ってくる。
「…ああ、こんにちは」
蒼い瞳に尊敬と畏怖の念を浮かべ、かなり高い位置にあるアドラーの顔を見上げた少年は、己の恋人がつい最近預かることになった親類だと紹介されたこの少年がすばしっこく動き回る様は食べ物を探して広大な森を駆け回る栗鼠などの小動物を連想させ、ついつい目元を和らげてしまっていた。
「博士、アドラー様ですよ!」
「……うん?ああ、今日はどうしたんだい、ベリエス?」
少年の声に本の山の向こうから声が聞こえ、少年の頭にぽんと手を乗せて合図をしたアドラーは、数日前に来たときはもう少し片づいていただろうと苦言を呈しつつ歩いていき、本の山となった机を回り込む。
「確かにきみに片付けてもらったんだけどね、うん」
いつの間にかこんな感じになってしまったんだ、うんと、言い訳じみたことを呟き、栗色の髪に手を宛う恋人に深い溜息を一つこぼすと、大きな窓にもたれ掛かりながら腕を組む。
「……兄さんも本に埋もれて死ねるのなら本望だと言っていたが…」
頼むからお前までその言葉を信奉した兄のように死ぬなと伏し目がちにぽつりと呟けば、羊皮紙に向かって書き物をしていた手が止まり、立ち上がると同時に少年にしばらく人払いをするように命じて出て行く背中を見送ると、目を伏せたままのアドラーの腕に手を重ねる。
「────アマ、どうしたんだい?」
頭一つ分高い位置にある伏せられた金の瞳を見上げたラープサーは、己の恋人が兄の話題を口にするとき、決して表情には出ない心が乱れているときだと知ってからはその思いを口にするように促していたが、今もまたそれをすると、アドラーが黙ったまま窓のカーテンを引いて陰になったと同時にラープサーの肩に額を押し当てる。
「アマデウス?」
「……少しだけでいい」
親衛隊の副長という重責を立派に果たし、王や王妃らからも信頼の厚いアドラーだったために、誰にも告げることの出来ない秘密をいくつも抱え込んでいた。
その秘密の一つが重くのし掛かっていることを短い言葉から察したラープサーは、広く厚い背中に腕を回し、こんなことで気持ちが鎮まるのならばと、無造作に束ねられている銀の髪を撫でて頬を宛う。
アドラーの気が済むまでこのままでいたかったが、悲しいかなこの部屋を出れば己の恋人はまた副長の貌になり、傍にいるだけで歓喜と苦痛を与える親友の元に戻らなければならないのだ。
その苦しみを思えばつい背中を抱く腕に力がこもってしまうラープサーだったが、腕の中から満足そうな小さな溜息が一つこぼれ落ちたことを知ると、逆に抱きしめられてしまう。
「……今日は早く帰れそうか?」
「ああ、早く帰れるかな、うん」
食事の用意をして待っているからなるべく早く帰ってこいと、顔を見ずに今夜の予定を告げたアドラーの腕の中で頷き、エリックにも伝えておくと教えられてもう一度頷く。
「分かったよ。今日は早く帰ろう」
「…………カレル」
エリック-先ほどアドラーを案内した少年-にも告げるとの言葉から傍にいろと言われているのだと気付いて端正な顔を両手で挟むと、頼りなげに見える金の瞳に口付ける。
「我が敬愛する親衛隊副長、ベリエス・アマデウス・アドラーに天と地の神の加護を」
そうして、副長の鎧を脱ぎ捨てた後はただのアマデウスになれば良いと告げ、目を閉じるアドラーの額に口付ける。
「行っておいで、アマデウス。きみならばやれる。大丈夫だ」
額へのキスとラープサーの言葉から力をもらったのか、目を開けたアドラーの顔には先ほどまでの気弱な色は全くなく、銀の狼と称される由来になっている琥珀色の瞳に強い光を浮かべる。
「行ってくる」
「うん。行っておいで」
カーテンの陰で交わされる恋人同士の会話はその言葉で終わりを迎え、カーテンを開け放ったアドラーが眩しそうに目を細めながら窓の外を見る。
冬の太陽はそろそろ姿を隠そうとしているようで、雲行きが怪しくなり始めたことに気付くと、グロッグを作ろうかと呟き、ラープサーから同意の頷きをもらう。
「良いね。うん」
「……あ、あの、博士、アドラー様、申し訳ありません、お客様が…」
ちょうどその時、扉が開いて心底申し訳なさそうな顔でエリック少年が二人に呼びかけたため、同時に顔を上げて苦笑する。
「構わないよ、うん」
ラープサーが微苦笑混じりに頷いてエリックを咎めないことを伝えると、少年の背後に黒髪の青年が姿を見せる。
「ベリエス!さぼってんじゃねぇぞ」
「人聞きが悪いな。俺はカールに用があって来たんだ」
何も仕事をサボっている訳じゃないと目を細めたアドラーは、エリックの頭をくしゃくしゃと撫でながら笑う己の親友であり職務上の上司でもあるケンプににやりと笑みを見せると、ラープサーに手を挙げてそれではよろしくと告げる。
「ああ、うん、分かったよ」
「フォルト、エリックの髪をぐしゃぐしゃにするな」
「おー、悪いな、エリック。カール、ベリエスの用が何かは分からねぇけど、無理難題なら無視しろよ」
「大丈夫だよ、隊長」
先ほど気分を鎮めてくれた恋人から離れ、いつも天国と地獄を味わわせてくれる男の傍に向かったアドラーは、背中に受けるラープサーの視線に込められた思いを感じ取るが、小さく一つ頷くだけで振り返らずにケンプと一緒に部屋を出て行く。
「博士」
「あ、ああ、うん。ああ、エリック、今日は早く帰ることにしたよ」
「分かりました」
ではそれまでは頑張って蔵書の整理に励みますと笑う少年に頷いたラープサーは、扉が閉まる前に見えた幸せと苦痛が綯い交ぜになった端正な横顔を思い出し、やるせない溜息を一つつくのだった。
その夜、アドラーとの約束を守るために早く帰宅したラープサーは、いつも以上に美味しい食事を二人で終え、飲もうと言っていたグロッグが満たされたカップを片手に暖炉の前に腰を下ろして本を読んでいたが、己のすぐ傍でお気に入りのガウンを毛布のように身体に掛けて横臥している銀髪の持ち主へと視線を向ける。
「……アマ、グロッグが冷めてしまうぞ」
「…………」
暖炉の火が爆ぜる音が小さく響くがそれ以外の音は聞こえてこなかったため、本を閉じて辛うじて見えている白い頬にキスをすると、ガウンの下から伸びてきた腕がラープサーの身体に回される。
こうして黙ったまま甘えるような仕種をする時は己の恋人の心が極度の疲労感を訴えているときだとも知っていたため、何も言わずにその身体に覆い被さって銀の髪をゆっくりと撫でる。
「…酔ってすべてを忘れられたらどれほど幸せだろうね」
でも悲しいかな、自分たちはどれだけ酒を飲んだとしても忘れられないものを抱えながら生きているんだと銀髪の間に見え隠れする耳に囁けば、背中に回った腕に力がこもる。
「私たちはきっと天国の顔をした地獄にいるんだろうな」
ラープサーの苦い思いがこもった述懐にも返される言葉はなく、ただアドラーが縋るように身を寄せるだけだった。
「だから…せめて今だけは何も考えないでいようか、うん」
二人こうしている間だけでも、天にいて地のことを考えるのはよそうとも囁くと、腕の中で己よりも遙かに丈夫な恋人が頼りなげに頷く。
「今日も一日頑張ったアマには贈り物をあげなければね。何が欲しい?」
さあ、ここにあるものならば何でも好きなものをあげると、少しおどけた風に問えば小さな掠れた声がラープサーの名を呼ぶ。
「そう。じゃあベッドに行こう」
ここも暖かくて気持ちが良いがベッドの方がもっと気持ちが良いだろうからそちらに行こうと誘って背中を撫でると、納得の証にアドラーがラープサーにキスをし、羞恥から急いで起きあがって部屋を出て行くのだった。
暖炉の前で取り残される形になったラープサーだったが、軽く火の始末をすると恋人を追いかけるように立ち上がり、グロッグのカップを両手に寝室に向かうのだった。
2015/03/10
【中世風ファンタジー♂×♂読みたい?】アンケート回答お礼コバナシ(その3)
おかしい。どうしてこんなに暗くなるんだ……!?


