街中の街路樹が色付き、茶色の大地が飽きたからと、黄金色の絨毯で覆い尽くすようになった11月の初め、久しぶりにテレビを通して妻の笑顔を観ていたヴィルヘルムは、彼女が本格的に復帰をするのは年明けになるだろうとの言葉を聞き、ならば己も年明けからフォトグラファーの仕事に戻らなければと、何処か他人事の顔で呟く。
彼女が怪我をする前までならば当たり前だった仕事だが、権威のある賞も取ってこれからというのに、以前のように仕事に対するモチベーションが湧き起こらず、どうして仕事に意識が、情熱が向かないのかと考えた時、深く考えるまでもなく、一人の男の顔が浮かぶ。
テレビがある棚の上に並ぶいくつかの家族写真。
若い頃の自分と彼女が笑う写真と良く似た顔立ちの彼は、遠い昔、事件に巻き込まれて思い出したくないと彼女が拒否したことで捨ててしまった、自分達の息子だった。
二人にとっての初めての子どもを捨てた夜が脳裏に蘇り、頭を振ってその光景を追い払おうとするが、袋の中から覗く二つの蒼い目に射竦めるように見つめられ、過去の幻影が現実の彼の身体を強ばらせる。
脳裏に蘇る夜から何年が経過したのだろうか。
その十年後に生まれたもう一人の子ども、ノアだけが自分たちの子どもであると、記憶の奥底へと封印した子どもだが、死んだものだと思い込む事で更に頑丈に封印をしたはずだった。
その子どもが、捨てた教会で生き延びただけではなく、今まで幾度か仕事をした事のある大企業のトップの傍で働いているなど、どうして想像出来ただろうか。
この夏に経験した事件は、妻の負傷とそれからの回復、そんな妻を支える為に自身の仕事をセーブする事など、経済的にも彼に大打撃を与えていたが、その中で偶然ーそれは神の思し召しか悪魔の悪戯か彼には分からなかったー出会ったのが、粉雪が降る夜、死んでも構わないとの思いながらも、それでも最後ぐらいは聖母マリアに看取られて欲しい思いから教会の聖堂に捨てた子どもと出会ってしまったのだ。
血を流す妻の傍で、きみは誰だとの言葉が零れたのは、捨てた子どもの事を既に封印し、己の子どもはノアただ一人だけだと、太陽が東から昇ることを疑わないのと同じ気持ちで信じていたからだった。
死んだと思い込んでいた子どもに助けられた、その事実は彼自身も意識することのなかった腹の奥底に揺らめいていた記憶の箱に、あの夜の粉雪と同じように静かに降り積もり、その重さで記憶の蓋が開いてしまったのだ。
トラムの中で調子が悪くなった時、手を貸してくれたシスターがまさかあの教会で遙かな昔に世話になった人だと思わず連れて行かれたが、その時も記憶の蓋は閉じていたため、似たような光景をどこかで見たが別のどこかだろうと思い込んでいた。
だから、その時、彼が現れたことに心底驚き、その場に居合わせたノアの存在と彼の姿から、総てを思い出してしまったのだ。
一度認識してしまえば、無視することもなかったことにすることも出来なかった。
その後、漸く地元の病院でのリハビリの許可が降りた事から、妻とともにウィーンに帰る準備をし、その前に世話になっていながらも礼を言わないのかと、ノアに責められたこともあった、彼への礼をするために、大企業の本社へと向かい、そこで初めて冷静に彼と向き合えたのだ。
礼を言うと自分は何もしていないと返したが、正直、彼の気持ちを考えるよりも、ここで彼に対して礼を言っておけば、今後顔を合わせることもないし思い出した過去は何とか開いたままの蓋の中に押し戻そう、自分たちの子どもはやはりノアただ一人だと思い込めるという強迫観念から礼を言ったが、その後、ウィーンに向かう列車の中、出発を待っている時に妻がぽつりと零した、地獄に落ちるとの言葉から、あの場では何も言わなかったが、彼女も自分達が対面した男が、ノアの存在によって上書きされてしまった自分たちの初めての子どもだと察した事に気付いたが、だからといって何も言えず、ただ妻の肩を抱くことしか出来なかった。
ウィーンに戻ってからはリハビリに専念する妻の傍で少しずつ仕事に戻り始めていたが、権威ある賞を取ったからと言って座っているだけで仕事が舞い込んでくる事などあまりなく、スタッフに指示を出して仕事を受けてもらったりと、少しずつ忙しくなり出していた。
そんな矢先に、ノアが文字通り血相を変えて書類を握りしめながら家にやって来たが、その時突きつけられた逃れようのないDNA鑑定の結果を知っても、事実を思い出した今、さほど動揺はなかった。
その時彼の心にあったのは、突きつけられた事実により、あの子が認知しろと訴えてくればどうしようという恐怖よりも、今まで巧妙に自らをも騙すように隠してきた過去をノアに知られてしまった恐怖の方が大きく、彼に対する法的手段や認知などはどうでも良い事だった。
人の顔色がそこまで悪くなるのかと驚くほど血の気の引いた顔でどうしてと詰め寄るノアにあの時説明することが出来ず、納得がいかない息子に初めて手を出してしまったのだが、その日以降、ノアとの連絡がつかなくなってしまったのだ。
愛する息子が音信不通になった事実は彼と妻に多大な衝撃を与えたが、いい年を下大人でもあるし、きっと一人でも何とかやっていけるだろうと安心したい一方、大切な子どもがと言う心配も大きく存在していた。
連絡がないのは元気な証拠と、妻まで空元気の見本のような言葉を口にするようになってから暫く経過した頃、今では自分たち親子にとって決して忘れることの出来ない場所となったあの教会で世話になっているという短いメッセージがノアから届き、慌てて返信をしたり電話をかけてみたりしたが、それが奇跡的なものだというようにまた音信不通になってしまったのだ。
居場所を教えられた安堵と、そこが己にとって悪夢の発生源である事をたった一度の連絡から知り、本能的に怯える気持ちと息子に会いに行きたい気持ちが綯い交ぜになり、その連絡以降、彼は夜眠りに落ちる際に睡眠導入剤の助けを得なければならなくなってしまっていた。
目を背け続けた過去を突きつけられ、愛する息子が大きく口を開けた過去の淵に一人佇んでいるが、その中に飲み込まれる夢を見ては嫌な汗とともに目を覚ます回数も増え、妻に心配されるほどになっていた。
眠りの浅い夜を越え、朝を迎えてもぼんやりとしたまま一日を過ごすことが多くなった彼だったが、夫の様子を気遣いつつも、妻がインタビューの仕事を受け、そこから徐々に復帰し始める事を教えられ、もう今までのように支え続ける必要はなく、己の仕事に戻ってもいい安堵と、心配だが妻はこれぐらいのことで沈んでしまうような存在ではない、今までどれ程辛く苦しいことがあろうとも、顔を上げて周囲を太陽のように照らす俳優だったと思いだし、素直に彼女の復帰を喜んだのだ。
その結果がテレビに映し出されていて、リビングのソファでそれを見ていたヴィルヘルムは、妻の本格的な俳優への復帰が年明けだと知ると同時に、旅行に行きたいという思いが心に芽生える。
今までならばフォトグラファーの仕事で国内外を訪れていたが、妻の看病の為に傍を離れることが出来なかった為、随分と長い間外界と断絶している気持ちになっていたのだ。
その気持ちを払拭できれば、この仕事へのモチベーションの低さも一緒に消え去るのではないかと、先の展望に光明を見いだした彼は、ラップトップを開いて妻とともに訪れたい旅先を探し始めるが、芸術の秋に代表されるような風景の良い欧州各地のサイトを見てみるものの、先程期待した心が浮上するような感覚が訪れず、一つ溜息を吐いてマウスをクリックしてしまう。
クリックしたのは色づく街路樹の写真だったが、次いで開いたページは、彼の過去やその他大勢の人達にとっても忌々しいであろう街の、今でもある種の象徴となっているベルリンの壁が映し出され、亡命先のテレビを通して見た当時の東ドイツの国家評議会議長と当時のソビエト連邦の最高責任者か誰かがキスをしている絵が映し出され、あの時常に感じていた辛気くさい空気と嫌悪感が沸き起こり、思わずブラウザを閉じてしまう。
歴史的な意義や風刺が利いたそのイラストだが、彼にとってはただただ醜悪なものに思え、気分の悪さを咳払いで追い払った後、もう一度ブラウザを立ち上げて旅行先を検索するが、その時、ふと一人旅という言葉が脳裏に浮かび、生まれ育ち彼女とともに逃げ出したベルリンを一人で訪れてみたいという思いが不意に芽生え、今まで避け続けてきた街への思いがわき起こってくる。
亡命した街へ、当時の西側と呼ばれた街を経由して辿り着いたウィーンから戻った時、あの街はどんな顔を見せてくれるのだろうか。
己の中のベルリンは、晴天も曇天もあるはずなのに常に色彩が喪われた世界で、人々が吐き出す空気や工場から立ち上る煙も総てが灰色のようだった。
亡命先で初めて色を感じた事を思い出し、灰色の世界に暮らしていた人達は、壁の崩壊によって総天然色の世界に足を踏み入れたのだろうが、その時何を感じたのかを急に知りたくなる。
亡命してきた自分達を哀れむような視線に唇を噛み締め、フォトグラファーとして成功してからは己を蔑んだ人々の醜悪さやその陰に隠れている悲哀を写真に収めてきたが、今あの街を闊歩する人々はどのような陰を抱えて壁が崩壊した後の世界で生きているのか。
もしあの時、亡命せずに今もあの街で暮らしていれば、自分は彼女は一体どうなっていたのだろうか。
灰色の世界でも思い描いた夢を叶えていただろうか。それとも、そんなのは一握りの人間だけが叶えられるものだと、若い内だけだ、夢だ何だのと言えるのはと、場末のバーで愚痴をこぼす老人にでもなっていただろうか。
選択しなかった道の先のゴールは何処なのかも想像出来ず、微苦笑しつつも一人でベルリンに向かいたい気持ちを抑えられなくなった彼は、スマホに仕事が終わったから今から帰る、良かったら俳優仲間と久しぶりにご飯を食べに行かないかという妻のメッセージにも気付かず、リビングから飛び出して国外で仕事をする時に使っている小さなスーツケースを引っ張り出してくる。
何日間の旅行になるのか、ベルリンの何処を訪れるのかも分からず、ただベルリンに行きたいという強い思いに突き動かされてスーツケースに手慣れた様子で荷物を詰めたヴィルヘルムだったが、その蓋を閉めた瞬間、理由も分からないで己を突き動かしていた衝動がふっと消滅したことに気付き、スーツケースの前に座り込んでしまう。
憑き物が落ちた、としか言い表せない顔でその場にへたり込んでいたヴィルヘルムは、何をそんなに慌ててベルリンに向かいたかったのかと呟くが、本当に行きたいのはここではないどこかだと胸の奥で呟き、自らの内から聞こえてくるその声に驚愕のあまり目を見開いてしまう。
その感覚は、遠い昔に鬱屈とした思いを抱え、灰色の空に押しつぶされそうになりながら感じていたものであり、人々から哀れみの目で見られ、同類だと思っていた男に妻をレイプされた結果、生まれた子どもを捨てざるを得なかった時にも感じていたものだった。
そう気付いた瞬間、座っている事も出来ない程全身の力が抜けてスーツケースに突っ伏すが、心の奥底から沸き上がってくる感情を堪えきれず、肩を揺らして嘲笑の声を上げてしまう。
今までならば愛する妻や息子が傍にいることが多く、こんな風に精神的に不安定になってしまってもどちらかが助けの手を差し伸べてくれていたが、今周囲を見回しても誰もおらず、嘲笑を自らに浴びせながらヴィルヘルムが思い浮かべたのは、逃げ出したという一言だった。
灰色の空気から、人々の哀れみの目から、妻の思いを優先する一心から生まれたばかりの我が子を捨てた街から逃げ出したのだ。
本当ならば何があろうとも逃げ出さずに向き合わなければならなかった事から、愚かにも逃げ出したのだ。
その結果が、逃亡の果てのこの街で得られた名声だと気付いてのろのろと顔を上げたとき、テレビボードの上に並べられた数々の受賞の証であるトロフィーなどが目に入り、瞬間的に立ち上がったかと思うと、そこに並ぶトロフィーや記念の楯を手でなぎ払う。
室内に響くそれらが床に落ちて壊れる音やぶつかりあう音にも肩を揺らして嘲笑していたヴィルヘルムは、トロフィーの破片を踏みにじりながら感情の籠もらない声で呟く。
「・・・僕は、逃げたんだな」
向き合わなければならなかった事から、生まれたばかりの子どもを抱きしめることもせずにただ妻の半狂乱の様子に怯え、その子どもを見捨てた上、良くしてくれた人達に後ろ足で砂をかける様に逃げ出したのだ。
己の半生は愚かにも面倒事に向き合わずに逃げ続けた情けないもので、そんな自分がこんな立派な賞を受け取る資格などないと嗤い続けるが、発作のようなそれが収まった後、ソファに倒れ込むように座り、己の本心と直面した疲労から目を閉じてしまうのだった。
ハイデマリーが夫からの返信がないことを訝りつつ自宅に戻ったのは、その日の仕事を終えた夕刻だった。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、夏に比べればあっという間に日が沈み、黄色や赤に色づく街路樹も人工の光にひっそりと照らされるようになっていた。
そんな中を久しぶりに仕事を終えられた満足と興奮にいつまでも頬を紅潮させながら自宅へと事務所スタッフの車で戻った彼女は、車内で何度かメッセージや電話をかけても返事がない夫にどうしたのかと小首を傾げながら自宅のドアを開け、夫の名を呼びながらリビングに向かう。
「ウィル?いるの?」
夫婦のどちらかが家にいるときは必ず玄関ポーチの明かりを点す習慣があったのだが、その明かりもなく、呼びかけに返事もないことから、どこかに出かけているのだろうかと、それにしては何か様子がおかしいと思いつつリビングのドアを開け、部屋の惨状に絶句してしまう。
「…何、何があったの…!?」
彼女の目の前に広がる光景は、まるで空き巣に入られた部屋のようで、テレビボードの上に並ぶ、夫だけではなく彼女自身も自慢に思っていた数々の受賞を示すトロフィーが床の上で砕け散っていて、彼女が国内外で受賞したトロフィーや楯も同じく床の上に散らばっていた。
テレビやソファといった家具は彼女が家を出たときのままだったが、自分たち二人が苦労を重ねながらやっと手にした賞などの記念品や、子どもが生まれた祝いに購入した有名な陶器メーカーのイヤープレートなども総て飾っていた棚から落とされていて、毛足の長い絨毯の上で粉々に砕かれていた。
呆然とその場に立ち尽くしていた彼女は、目の前の現実が信じられないと呟き、蹌踉めきながらソファへと向かうと、何時間か前の夫と同じようにソファに倒れ込んでしまう。
ソファから見える家具の総てのドアが開け放たれ、中身がリビングの床に散乱している事に気付き、ソファから飛び起きた彼女は、ベッドルームに駆けこむと貴金属や貴重品を収めているキャビネットを開けて安堵の息を零す。
キャビネットに並ぶ宝飾品や腕時計など、所謂金目のものには一切手が付けられておらず、強盗が入ったのに盗まれたわけではない事に気付くが、サイドテーブルに飾ってある去年のノアの誕生日に一緒に撮った家族写真がなくなっている事に気付き、その異様さに自然と身体が震えてしまう。
もし強盗がこの家に入ったのならば、真っ先に探すのは貴金属や金目のものだろう。
それらには手も付けずに、ベッドサイドに飾っている家族写真や自分たちの頑張りが目に見える形になったトロフィーや楯を壊す理由が分からず、一体どういうこととベッドに力なく座り込むが、そんな彼女の目に開け放たれたままのクローゼットの扉が飛び込み、一瞬で違和感を覚えてしまう。
「…え?」
彼女の違和感の元は、クローゼットの中に仕舞ってあるはずの、夫が国外に仕事に出るときに必ず使っていたスーツケースが無くなっている事だった。
その違和感に気付き、ベッドの上を這うようにクローゼットのドアの前まで近付いた彼女は、仕事の時に着ているポケットがいくつもついたベスト、スーツケースなどの夫にとっての必需品が無くなっている事に気付くと、ベッドから飛び降りて夫の仕事道具であるカメラを収納している部屋のドアを開け放ち、その場にへたり込んでしまう。
「そ、んな…」
身体の震えを止めることが出来ずに震えた声で呟いた彼女の前、家族や命の次に大事だと話していた、夫にとっては掛け替えのないはずのカメラ達が、無残にも壊されてリビングと同じように床の上に散乱していたのだ。
今まで撮り溜めた写真のネガやデジタルカメラで写したデータが収められたディスクやメモリーも、何故こんな酷い仕打ちを受けなければいけないのかと彼女に問いかけるように床の上で窓から入る夕方の残光に照らし出されていた。
こんな所を夫が見ればショックのあまり倒れてしまうのではないかと、連絡がつかなくなっている夫の気持ちを思って顔中から血の気を引かせてしまった彼女だったが、何故、一体誰がという疑問も浮かぶが、強盗の類いでは無いと知ってしまった今、家をこんなにも荒らしたのは夫自身か音信不通になっている息子しかいないことに気付き、愕然としてしまう。
いつも笑顔で己の思いを優先してくれる優しい夫が、今までの過去を消したいと思った結果、仕事道具であるカメラも、それで写した数々の写真も一緒に壊してしまったのだろうか。
夫が自ら壊したとは思えず、まただからといって連絡を絶ってしまったノアが帰ってきて両親が大切にしているものを壊すことも考えられなかった彼女は、床に座り込んだままどうしてと誰に問いかけるでも無く呟いてしまう。
目の前の惨状が、一体誰によってもたらされたものか、冷静に思案する余裕が彼女には無く、友人であり長年この業界で一緒に働くアルノーに電話をかける。
三回のコールで出たアルノーに彼女が混乱していることを教えるように口早に言葉を捲し立てるが、落ち着いてくれ、何があったと問われてハッと我に返り、震える深呼吸を繰り返した後、家に来て欲しいとぼそぼそと伝えてしまう。
『マリー、何があった?』
「アルノー、お願い、上手く説明出来ないの。家に来てちょうだい』
その言葉を伝えるだけで精一杯だった彼女は、わかった、とにかく今から向かうと答えられて安堵の溜息を零し、通話を終えたスマホを床に落とすと、顔を両手で覆い隠してしまうのだった。
駆けつけてくれたアルノーに家の中を見せた彼女は、彼女と同様の驚きを隠せない友人に、誰がこんなことをしたのかしらと、リビングのソファに力なく座りながら問いかけるが、言いにくそうにする友人へと顔を向け、誰がと問いかけること自体が白々しいと自嘲する。
「・・・・・・ウィルよね、きっと」
「そうは思いたくないが、外からの侵入の形跡もないし金目のものが残されている事を思えば、家のものがしたと思うのが妥当だろうな」
友人が気遣いつつ返してくれる言葉に頷きつつクッションを抱え込んだ彼女は、どうしてこんなことをしたのよと、今は不在の夫を思い浮かべている顔で呟き、クッションをきつく抱きしめる。
「どうしてよ、ウィル・・・!」
あなたや私が頑張って来た証のような記念品をどうして全て壊してしまったの、それと、同じく大切に記念日や行事毎に撮っていた写真も何故全て無くなってしまっているのか、その理由を知りたいと悲嘆にくれた声で呟いたハイデマリーの肩をアルノーが心配そうに抱き寄せ、きっと彼にとって堪え難い大きな何かがあったんだろうと目を伏せると、それは何と問われて返事に窮してしまう。
「それは・・・・・・」
「ウィルにしか分からない事よね・・・あなたに八つ当たりするなんて間違っているわね」
友人への八つ当たりを素直に詫びた彼女は、とにかく掃除をしなければならない事、家の中の惨状はリビングだけでは無くベッドルームも彼が仕事部屋としても使っていた部屋もだと流石に頭痛を堪える様な顔で呟くと、誰か事務所のスタッフを呼んで片付けさせるかと問われるが、ウィルがいなくなったことやノアがいなくなった事をあまり公にはしたくないから呼ばないで欲しい、呼ぶならマネージャーだけにしてと友人に懇願し、部屋の片付けをするためにソファから立ち上がる。
ガラスでできたトロフィーや瀟洒なデザインのものも粉々に砕かれてしまい、原型をとどめていなかった。
ここまで破壊するほどこれらに対して苛立ちを覚えていたのかと思えば、この賞を受賞した時のあの喜びようは一体何だったんだとの思いが芽生えるが、あの時の感動や感激に嘘偽りはなかったはずで、それらを目にしたくないという強い衝動に駆られて壊してしまったのだろうか。
己の過去の実績を壊してしまいたくなる様な衝動とは一体何か、そんな衝動を生み出した感情の根源は一体何かと思案しつつ掃除機でガラスの破片を吸い込んでいた時、奇跡的に真っ二つになっているノアが生まれた年のイヤープレートに気付き、手に取って破片を合わせてみる。
小さなカケラは仕方がないが、二つの大きな破片がピタリとくっ付き、このプレートを購入した時の光景が蘇る。
ノアが生まれたのは11月9日の夜で、陣痛が来たのになかなか生まれる気配が無く随分と産みの苦しみを味わってしまったのだが、無事に生まれた後に病室にノアと共に向かった彼女は、呆然とする夫に出迎えられ、やっと生まれたわよと、産着に包まれて眠る息子の顔を見せたのだ。
その時、夫が呆然としているのは長時間に及んだ出産から無事に妻と息子が帰還したことに感動しているからだと思っていたが、病室のテレビから流れ出すボリュームを下げられてはいるがそれでも歓喜のものとわかる声や、クラクションなどの人々の喧騒の声に気付き、息子を腕に抱いたまま彼女もテレビを見たのだ。
それは、彼女達が決して越えることが出来ないと思い、事実よほどの強運や事情がない限りは越えられなかったベルリンの壁、その間に存在していたチェックポイントを、満面の笑みを浮かべ、手を繋いだりポケットに手を突っ込みながら歓喜を押し殺しさりげなさを装って通過する人々の姿だった。
特に有名な、チェックポイント・チャーリーを東から西へ、また西から東へと行き交う人々の顔は歓喜に紅潮している様で、それを呆然と見守った二人だったが、急に泣き始めた息子の声に我に返り、泣き止まない息子をベッドにそっと寝かせると、どちらからとも無く手を伸ばして互いの背中を抱きしめあった。
『・・・壁が、みんな壁を越えられたのね』
『ああ・・・こんな日がまさか来るとは・・・』
しかも、自分達にとっても記念となる息子が生まれた日に、まさかベルリンの壁を市民が満面の笑みで大手を振って自由に行き来できる様になるなんてと呟いた彼は、小さな、それでも精一杯の泣き声をあげる息子を優しく抱き上げ、名前をノアにしないかと、涙ぐんだ目で彼女を見つめたのだ。
『・・・ノア?』
『ああ。壁が解放された日に生まれた男の子だ。僕達をまだ見たことがない世界にきっと連れて行ってくれる』
生まれたばかりの息子は新たな世界へと僕達を導いてくれるだろう、だからノアと名付けたいと穏やかさの中にも揺るがないものを秘めた声で告げられ、反対する理由もなかった為、夫の手からそっと息子を抱きとり、ようこそノアと微笑みかけたのだった。
その夜の光景を思い出し、つい涙ぐんでしまった彼女だったが、二つに割れたプレートにマジックで殴り書きされている文字があることに気付き、アルノーを呼んで一緒にその文字を読んでいく。
「・・・ベルリン、チャーリー・・・?」
「チェックポイント・チャーリー!?ウィル、ベルリンにいるの・・・!?」
今まで家族の間でも決して話題にすることのなかった街、ベルリンに一人で出向いているのかと、アルノーと顔を見合わせたハイデマリーは、とにかく夫の居場所がわかった安堵に胸をなで下ろすが、メッセージや電話に出てくれるだろうかという不安を拭い去ることはできず、友人の前で夫に震える手で夫に電話をかける。
『・・・マリーかい?』
「ウィル・・・!今ベルリンにいるの!?」
どうして何も言わずに一人でベルリンに行ったの、それよりも家の中やカメラを壊して一体どういうつもりと、電話に出てくれた安堵からつい捲し立ててしまったハイデマリーは、彼女の言葉が終わると同時に夫がポツリと呟いた言葉に限界まで目を見張ってしまう。
『・・・逃げ出した先で得たものなんて、何の価値も無い』
そんなものはただのガラクタだと、今まで聞いたことがない様な暗い声で笑われて思わず身体を震わせたハイデマリーは、とにかく、ベルリンにいるのならホテルを教えて、私も向かうからと口早に懇願するが、電話の向こうから聞こえてくるのは穏やかとは言い難い息遣いだけで、不安を覚えた彼女がウィルと夫の名を呼ぶ。
「ウィル、お願い、ホテルを教えて!」
『・・・マリー、もうノアの誕生日を三人で祝うことはできないね』
もうすぐ訪れる最愛の息子の誕生日を毎年の様に自分たち三人やその友人達と祝うことは出来ないだろうねと、感情の籠らない声で教えられて息を飲んだ彼女は、脳裏に再びノアが生まれた夜にテレビで見た光景が思い浮かび、ウィルと夫の名を叫ぶが、彼女の願いも虚しく通話は途切れてしまう。
その後何度掛け直そうが夫が電話に出ることはなく、居た堪れない顔で見つめてくる友人に情けない顔で笑った彼女は、ソファに力をなくした様に座り込んでしまうのだった。
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2020.09.29
やっと向かい合いました。こちらも二人、頑張れ。


