完全に閉ざしていなかった扉が開き、静かな人の足音ともう一つ、ゴムがついた何かで床を叩く音が、全速力で自転車をこいで帰ってきた疲労からうたた寝をしていたリオンの耳に静かに流れ込んでくる。
通常の人に比べ一音多いそれに、誰がやって来たのかをすぐさま理解したリオンだったが、振り返って己の予想を確かめる勇気が持てず、どうしようかと思案しているうちに息を呑むような音が聞こえ、次いでよろけているような音も聞こえて来て、咄嗟に立ち上がろうとするが、すぐ後ろに感じた人の気配とかすかに漂ってくる匂いから、己の予想が的中したことに気付く。
薄闇の聖堂の中、明かりがない事で冷え込みも厳しいそこに、ふわりと漂ったのは、水を連想させる、懐かしい匂いだった。
振り返ればクリスやアンナゾフィーに会いたいと言っていたウーヴェに会える。
なのに、振り返る勇気が何故か湧いてこず、己の情けなさに呆れ返っていたリオンだったが、背後から聞こえて来た声に肩をピクリと揺らす。
「・・・こんばんは。お邪魔してもよろしいですか?」
「こんばんは。もちろん、どうぞ」
ありがとうございますと、まるで初心者向けのドイツ語教室の教科書に出てくるような丁寧な会話を交わし、次に何が聞こえてくるかと白い息を吐いていると、雪が強くなりましたと独り言のように呟かれ、あぁ、どうりで冷え込んで来た訳だと苦笑する。
お互い、此処にいるのが半年近く顔を見ることが出来なかった相手だと気付いているが、どちらも隣に座ることが出来ず、穏やかな顔で見守っているマリア像を前後に並んで見つめつつ、本当に最近は冷え込みが厳しくなって来ましたと苦笑し合う。
「・・・冷え込みが厳しくなって来たので、足が痛みます」
「・・・そう、ですか」
「はい。・・・他にも、背中も、痛くなったりするのですが・・・」
以前ならその痛みを和らげてくれる手がいつも側にあったのですが、今は不在で、なかなか痛みが和らぎませんと、その不在の彼を責めるのではなく、事実を淡々と告げる声に振り返りそうになったリオンは、小さな溜息が聞こえた後、不躾ですがと断りを入れられて何でしょうと条件反射のように返す。
「・・・貴方は、その手の持ち主に本当に良く似ています。ですので、一度手を貸していただけないでしょうか」
突然のそれに申し訳ないと丁重に謝罪をしつつも手を貸してくれと再度頼まれて意味がわからずに左手を後ろに向けて突き出すと、その手の上下が温もりに包まれる。
「・・・あぁ、本当に良く似ている。こうしているだけで・・・心の痛みも和らいでいきます」
「そうですか・・・上手く言えませんが、痛みが和らいだのなら、良かったです」
ただ、この姿勢を続けると腕が変な方向に向いてしまいます、貴方が嫌でなければですが、此処に、隣に座りませんかと、穏やかさの中にも隠しきれない緊張を滲ませながら誘いをかけたリオンは、そうですねと同意をされて安堵し、程なくすると、二人にとっての定位置、ウーヴェのメンタルがボロボロの時に必須になるリオンの左手を抱え込みやすい席に静かに座る音が聞こえるが、握られていた左手が一度手離され、ひやりとした冷たさを感じて身体全体が震えてしまう。
「どうぞ」
離れてしまった事への強烈な寂寥感を押し殺し、隣に顔を向ける事なくマリア像を見つめながらどうぞと左手を差し出すと、手の甲がシャツの布地に触れたことに気づき、ついで少しだけ冷たい指が一本ずつリオンの指の間に収まっていく。
己の指の間にウーヴェの指が、それ以上正しい場所はないと言いたげに収まり、軽く曲げられた事に気付いたリオンは、逆にウーヴェを迎えるように指を曲げてしっかりと手を組み合わせるが、それでもまだ互いに顔を見る事は出来なかった。
顔を見れば堪えていた思いが吹き出しそうで、それを抑えきれない、受け止められない恐怖にどちらも囚われてしまっていた。
だから顔を合わせずにただ手を重ね合わせた二人だったが、ウーヴェが心底ホッとしたような声であぁ、痛みが消えましたと伝え、それは良かったとリオンが返した後、今度は俺の話を聞いてもらっても良いですかと不安を滲ませながら問い掛け、穏やかな声がどうぞと、組んだ手に揺るぎない力が込められ、先を促されたことに気付く。
「・・・俺、バカなんで、同じことを何回も何回も悩んで周囲に八つ当たりをしてしまうんです」
今回もまた同じ事で何もかも嫌になり、一人きりになりたいと言って、俺が守らなければならない人、守ってくれる人を残して家を飛び出しました、どうして同じことを繰り返すんでしょうねと微苦笑交じりに告げると、組んだ指先が手の甲を撫でる様に動き、くすぐったさを感じさせてくる。
「・・・同じ事で悩むのは、それだけそのことがあなたにとって重要な問題だからではないですか?」
軽い問題ならそもそも悩まないだろうし、ずっと悩んでしまうのならそれはあなたにとってどうしても手放せない悩みなのではないかと、診察室にいる時の様な声で返されて軽く目を見張ったリオンは、馬鹿ですよねと右手を頭に充てがうが、馬鹿ではありませんよと穏やかさと真摯さが混じり合う声に否定されて右手を握りしめる。
「・・・その悩みが手放せる様になるには時間という名医の力が必要かもしれませんね」
「・・・そうですね。でも・・・あなたの痛みを和らげるものがあるように、俺にも俺の悩みを軽くしてくれる人がいます」
その人に今の言葉を聞いてもらったら、きっとあなたと同じことを言ってくれるでしょうと笑みを浮かべ、ねぇとようやく軽くなった気持ちで同意を求めようとしたリオンだったが、胸元に当てられていた左手を強く引かれて身体を支えられずにそのまま倒れこんでしまう。
「────!!」
ウーヴェの足の上に倒れこんだリオンは、薄闇の中で俯いたままの為にはっきり見えない顔をこの時になって漸く見上げたが、その瞬間、少しずれている眼鏡をそっと外し、白とも銀ともつかない髪を抱え込むように右腕を回す。
「オーヴェ・・・!」
「・・・リ、オン・・・っ・・・」
眼鏡が無くなったことで顔にぽつりぽつりと落ちてくる滴に目を細め、組んでいた左手を解いて両手でウーヴェの頭を抱きしめると、湿り気を帯びた吐息が耳元に零れ落ちる。
「・・・・・・遅くなってごめんな、オーヴェ」
「・・・・・・んっ・・・・・・!」
震える背中を撫で、髪にキスをして涙が流れ落ちる頬にもなんどもキスをしたリオンは、遅くなってごめん、そもそも家出をして悪かったと告げると、震える呼気がリオンのシャツに落ちて床に零れ落ちる。
「・・・リ、オン・・・っ・・・!」
「うん。・・・もう、どこにも行かない」
もうお前を一人にしないから許してくれと、震える耳に囁き掛けて身体を起こしたリオンは、袖でウーヴェの頬を拭ってやると、涙に濡れるターコイズ色の双眸にキスをする。
「オーヴェ・・・俺の、オーヴェ」
遅くなったけど帰ってきたと、涙で濡れる頬を両手で包みながら目を細めると、ホームの幼い子供達と同じようにウーヴェが口の端を震わせながら口を尖らせる。
その、幼い子供のような仕草にふわりと笑みを浮かべて再度袖で涙を拭うと、ウーヴェが限界だと言葉にする代わりに震える手を伸ばしてリオンの頭を胸に抱き寄せる。
「・・・っ・・・リオン・・・っ・・・リー・・・っ!」
「うん。お前の傷にキスできなくて悪かった」
足が痛みを覚えた時、それを和らげることが俺の役目なのに、それを放棄してしまっていたことを許してくれと、互いに顔を見ることなく他人行儀な言葉を交わしている中で知った現状に謝罪をしたリオンは、ウーヴェが無言で何度も頷いたことに気付き、痛みを覚えていた背中に腕を回して抱きしめる。
「今は、平気か?」
「・・・いた、い・・・っ」
この傷を負った時よりももっと痛みが強い、お前がいなかったからだと涙声で非難されてごめんと謝りながらこめかみにキスをする。
「ごめん、オーヴェ。家に帰ったらずっと撫でてるから許してくれ」
お前専用の左手も持って帰ってきた、だから許してくれと冗談っぽくも半ば本気でウーヴェに懇願したリオンだったが、うんと言いながらも、お前が悪い、背中が痛いと繰り返しながらここまで感情を露わにするなど経験がなく、余程不安な思いにさせたのだろうと己の半年の行動を振り返りつつ震える背中をずっと抱きしめ続けるのだった。
ウーヴェがリオンの背中を発見し、声をかけることが出来ずに真後ろの長椅子に腰を下ろしていた頃、明日の日曜日のミサに参加は出来ないが午後からシュトレンを食べに来ると、ここで知り合い仲良くなったライナーと食事に出かけていたノアが、お帰りなさいと出迎えてくれたマザー・カタリーナに手土産のドーナツを差し出して笑う。
すっかりここの一員になって馴染んでいるノアに、マザー・カタリーナもブラザー・アーベルも以前からいるのが当然の顔で接していた為、ここに転がり込んできた時のような悲壮感はノアから消えていた。
安く借りてくれた倉庫を改装して作業場兼自宅にしてからもノアはこうしてここに顔を出すが、今週に入ってからは今夜が初めてで、今週は忙しかったのですかと問われて返事を濁してしまう。
日曜の夜の事があり、ここにきた時にウーヴェと顔を合わせればどんな言葉を告げてしまうか分からない恐怖や、やはり好きだとの思いを抑えきれない恐怖から足が遠のいていたのだ。
だが、ライナーとの食事をきっかけに訪れたノアは、フェンスの側にウーヴェの車が停まっている事に気付きつつも、ここまできて避けるわけにはいかないと腹を括ったのだが、そんな決意が空回りになるようにウーヴェの姿はなかった。
今夜は嬉しい事がいくつも重なりましたねと、マザー・カタリーナがノアのために水を出しながら笑みを浮かべた為、何かいい事があったのかとグラスを受け取りながらノアが問いかける。
「さっきウーヴェが子供達にアイスを持って来てくれたのです」
「へー。あ、そういえばウーヴェの車停まってたなぁ」
己の心の動揺を何とか押し殺しながら苦笑すると、聖堂にいますと答えられて瞬きを一つ。
聖堂にいるのならば、二人きりで話しが出来るかもしれないと、ウーヴェへの抑えきれない思いに恐怖を抱きつつも、やはり側にいて話ができる誘惑に勝てず、自分への言い訳の代わりに咳払いをしてグラスをテーブルに置く。
「・・・ちょっとウーヴェに話があるから行って来る」
「ええ、どうぞ」
ノアの言葉に何も疑わずに頷いてどうぞと促したマザー・カタリーナは、子供達のためにウーヴェが買って来たアイスの準備をしようと、キッチンに入ってきたライナーに声をかけ、一見すれば嫌々ながらも、その実さほど嫌ではない若いライナーの手を借りて子供達の顔に笑みが浮かぶのを楽しみにしながらアイスを食べる準備に取り掛かる。
マザー・カタリーナに送り出されて聖堂へと向かったノアは、ウーヴェに話があると言ったものの、何を話せば良いのかが分からず、片方の扉だけ開いている聖堂の前で足を止めてしまう。
薄闇に沈む聖堂に人の気配を感じ、ウーヴェがそこにいる事を確信するが、開けられている扉から入る勇気が持てず、振り返って背中を閉まっている扉に預けたノアは、粉雪が強くなりだした空を見上げ、雪と同様湿り気を帯びた白い息を吐き出す。
どのくらいそうしていたのか、組んでいた腕がしびれた為に組み替えようと背中を扉から剥がした時、微かに嗚咽の声が聞こえ、そのまま動きを止めてしまう。
その声は日曜日の夜に聞いたものと似通っていて、ウーヴェが聖堂にいると聞かされたことから、その声を挙げているのはウーヴェだと理性が判断し、感情が一瞬で沸騰してしまう。
「ウーヴェ!」
あの夜、ホテルの部屋を取って一夜を過ごしたのは、今も聞こえている嗚咽を止める為だったが、目の前でリオンの名を呼びながら涙を流すウーヴェを見て我慢できなかった。
その時感じた熱を再度感じつつウーヴェの名を呼んで中に入ると、薄闇の中に人影が二つ浮かび上がった事に気付き、自然と足を止めてしまう。
「・・・ノアか?」
「!?」
入口付近で足を止め緊張に肩を上下させるノアに掛けられた声は、予想しないものであり、また当然のものでもあるリオンのものだった。
「・・・リオン!?」
「ああ。────ちょっと今手を離せねぇからこっちに来いよ」
リオンの声に促されてゆっくりと進み、二人が腰を下ろしているベンチとは別の列に横並びに座ったノアは、緊張のあまり二人の顔を見ることが出来なかった。
それを不思議に思ったのか、どうしたと苦笑しつつリオンが問いかけるが、その声に顔を上げたノアの視界に飛び込んできたのは、リオンに抱き締められながら背中を震わせるウーヴェの姿で、理解していたし当然の光景だったが、強かに頭を殴られたような衝撃を覚えてベンチの背もたれを握りしめる。
ウーヴェを抱いた夜、涙が止まればいい、笑顔を見せてくれれば良いと願っていたが、時折見た笑顔は己に向けられたものではなく、初めて聞く熱のこもった声の合間に呼ぶのも己ではない名前だった。
それでも良いとあの時は思ったが、今こうして逸らすことの出来ない現実を突きつけられると、あの夜の己が随分と滑稽に思え、額を押さえて自嘲してしまう。
「・・・バカだな、俺」
「ノア?」
ノアの暗い小さな笑い声にリオンが敏感に反応し、一体どうしたとその名を呼ぶが、その時、腕の中でウーヴェの身体がびくりと竦んだことに気付く。
「オーヴェ?もう大丈夫か?」
その反応が、ノアが来たことによって涙が止まった結果だと思ったリオンだったが、ウーヴェが己の胸に手をついて顔を伏せた為、どうしたとウーヴェの腕をそっと掴みながら顔を覗き込むと、涙と鼻水で汚れた顔が蒼白になっていて、ウーヴェの心の中で何がどんなふうに作用したんだと眉を寄せるが、ウーヴェの身体越しにノアを見れば、薄闇の中でも分かるロイヤルブルーの双眸と視線が重なった瞬間、不自然な様子で逸らされる。
「・・・・・・」
二人の様子に暫く考え込んでいたリオンだったが、顔を伏せて微かに震え始めたウーヴェの背中に気付き、ああと全てを理解してしまう。
己の過去から考えついた一つの言葉を脳裏に浮かべ、顔を伏せたまま肩を震わせるウーヴェとまだ目を合わさないノアの様子から、己が考えたことはあながち間違いでも無いと確信したリオンは、小さく深呼吸をした後、震えるウーヴェの背中をさっきよりは強く抱き締めて肩に顎を乗せながらニヤリと笑みを浮かべる。
「なー、ノア。オーヴェと寝てどうだった?」
「!!」
「!」
その声音にウーヴェの顔がより一層蒼白になり、場違いな陽気な声にノアがまじまじとリオンの顔を見つめてしまうが、弟の視線にニヤリと太い笑みを浮かべた兄は、オーヴェと寝てどうだったと同じ疑問を投げかけ、腕の中で何かを察してもがくウーヴェの体を抑え込むように腕に力を込める。
「リオン・・・っ!!」
この感覚はここでオイゲンとリオンが対峙した時にも感じたもので、この後ノアの身に起こる事を簡単に想像できてしまったウーヴェは、リオンの腕の拘束を何とか解き、あの夜と同じ様にリオンに暴力を振るわせないために自らリオンの首に腕を回してしがみつく。
「ノアは悪く無い・・・!悪いのは・・・・・・俺、だ」
「ん?別に誰が悪いとか聞いてねぇって、オーヴェ」
お前とセックスをしてどうだったか聞きたいだけだと、呆然とするノアに陽気に問いかけたリオンは、気持ち良くなかったかとも問いかけるが、ノアが何も言えずに顔を伏せた事に初めて舌打ちをする。
「彼女がどうこう言ってたから元々はノンケだったよな?ああ、あれか、泣いてるオーヴェを見て抱きたくなったか?」
「!!」
「オーヴェが俺以外の前で泣く事なんて滅多に無いからなぁ」
あの顔を見てしまえば理性など吹っ飛んでしまうのも理解できると笑うリオンだったが、ノアも混乱の極地にいるウーヴェもリオンの真意を読み取る事が出来ず、恐る恐る顔を上げたウーヴェの視線に気づいたリオンが、どうしたといつもと全く変わらない調子で見上げてくる。
「どうした、オーヴェ?」
「・・・怒って、無いのか?」
「てことは、やっぱり寝たんだな」
その言葉にウーヴェが目を見張り、逆に口を固く閉ざしてしまうが、何があったか聞かせてくれとリオンの優しいキスで封印を解かれてしまい、腹を括ったウーヴェが先週の日曜日の出来事を素直に伝える。
「・・・お前を、裏切って・・・ノアと関係を持ってしまった」
悪かったと、いつかとは違って今回は自分から誘った様なものだと、俯くノアを庇うように真意を告げたウーヴェだったが、はい、よく出来ましたと、予想外の言葉を陽気に告げられてリオンの顔を真正面から見つめれば、ロイヤルブルーの双眸を優しく細め、口元にも穏やかな笑みを浮かべたリオンがいて、本当に意味が分からないと呟いてしまう。
「・・・隠されたり陰でこそこそされることを思えば、教えてもらえたほうが楽になる」
でも、一度きりのことだと思うがと微苦笑しつつリオンが上目遣いにウーヴェを見るが、涙の跡がくっきりと残る頬をリオンの指が摘んでいて、はい、お仕置きという意味と明るさが一致しない声が響いた直後、リオンほどは伸びないウーヴェの頬を軽く力を込めて引っ張る。
「・・・痛・・・っ!」
「はい、お仕置きは終わり」
俺が帰ってきたんだ、もう俺の代わりにノアとセックスをしちゃダメだぞと、まるで些細な悪戯をした子供を叱る顔でウーヴェを睨んだリオンは、抓られた頬を押さえながら呆然と見つめてくるウーヴェの目尻に口付け、俺がいない間にノアと寝たぐらいで俺が怒ったりするかよと耳に口を寄せて苦笑すると、ウーヴェの脳裏にマウリッツやリアの言葉が蘇る。
今までの己の行いを振り返ればウーヴェを許せないなどあり得ないはずだとの言葉にウーヴェが目を見張り、本当に良いのかと呟くと、ああというウーヴェだけが読み取れる本心の声が聞こえてくる。
「・・・ノア、ちょっとこっちに来い」
今度はノアに向けて呼びかけたリオンだったが、その声にも顔を上げることもなければ立ち上がることもなかった為、ウーヴェがあっと声を上げる間も無くその場から飛び上がってベンチを跨いだリオンは、驚きに目を見張る弟の前にしゃがみ込むと、太い笑みを浮かべたままノアの額に己の額を勢いよくぶつけ、直後痛そうな音と息を飲む音が聖堂内に響き渡る。
「────っ!!」
「リオン!」
突き上げるような頭突きを食らったノアが後ろに仰け反ってしまい、慌ててベンチの背もたれをつかんで体を支えると、今度は胸倉を掴まれて引きずり起こされてしまう。
「!!」
さっきは頭突きだったが今度は何だろうか、拳が飛んでくるのか、それとも蹴りを食らうのかと己の身体にもたらされるであろう暴行の種類を考え、どうせならば痛みが少ないものがいいと願いつつ観念して目を閉じる。
そんなノアの様子にリオンがニヤリと笑い、ウーヴェが次いで聞こえてくる暴力の音に耳を思わず塞いでしまうが、聖堂内に響いたのは、どこか滑稽さを感じさせる悲鳴だった。
「痛い痛いっ!!リオン、いてぇよ!!」
「ウルセェ。オーヴェの泣き顔を見てセックスもしたんだ、これぐらいガマンしろ!」
「痛いって!!ちぎれるっ!耳がちぎれるっ!!」
ノアの悲鳴にウーヴェが恐る恐る顔を上げると、そこにはノアの耳を思いっきり引っ張りながら笑みを浮かべるリオンと、痛いと涙目になりながら悲鳴をあげるノアがいた。
ウーヴェが想像した暴行シーンに比べれば遥かにチープな痛みを弟に与える兄だったが、だが与えられる痛みは本物で、ノアの目尻から涙が流れ落ち、ごめんと謝罪の声が響いた瞬間、リオンが満足そうに手を離してベンチの背もたれに尻を乗せる。
床にへたり込んだノアが泣き叫んだ羞恥に引っ張られていない方の耳も赤らめつつタバコに火をつけたリオンを見上げると、ニヤリと笑いながらお前とオーヴェが寝た件についてはさっきも言ったが、素直に告白したからもう何とも思っていないと、リオンが家出をする前まで二人に見せていた顔で頷いた為、思わずウーヴェとノアが顔を見合わせる。
「ただ、二人だけで楽しんだっての、気に食わねぇなぁ」
だから今度は三人で遊ぶぞと、聖堂で見せるには相応しくない、刑事の時によく悪魔とウーヴェが評していた笑みを浮かべて二人を交互に見ると、ウーヴェがその意味を察して青くしていた顔を赤くし、ノアも少し遅れて理解したらしく、引っ張られた耳だけではなく顔中を赤く染めてしまうのだった。
疲労困憊の顔で自宅に帰ると告げるノアを車に押し込み、呆気にとられるマザー・カタリーナとブラザー・アーベルに、明日シュトレンを三人で食いに来る、自転車はその時に持って帰ると、誰も逆らえない笑顔で言い放ったリオンは、呆然としつつもリオンが帰って来たことが嬉しいと目尻に涙を浮かべる二人を抱き締め、もう二度と一人でどこにも行かないと約束をし、ノアと似たり寄ったりの体たらくで助手席のシートに埋もれているウーヴェを振り返って苦笑する。
「オーヴェが疲れてるからそろそろ帰る」
「ええ。気を付けて」
二人に見送られて車を走らせたリオンは、ノアの作業場兼自宅は何処だと後部シートに問いかけ、目印になる建物と最寄駅を教えられてカーナビではなく脳内に叩き込んである地図で確かめる。
「おー、明日シュトレンを食ったら帰りに寄るか」
「・・・好きにしてくれ」
もう何をいう気力もないと笑うノアにリオンが情けないと小さく笑みを浮かべるが、助手席でぐったりするウーヴェの額に手を宛てがい、そっとウーヴェの手が重ねられて自然と笑みを深める。
半年ぶりに感じたウーヴェの温もりと鼓動。それはお互い同じだったようで、額に重ねた手を離せずにいたリオンに、ウーヴェがポツリと離したくないと本音を零す。
「・・・ああ、離す必要はねぇよ」
小さく言葉を交わしながらノアの家の前に車を止めたリオンは、後部シートで拗ねたような顔のノアに気づき、どうしたと問いかけつつドアを開けてやると、くそー、ウーヴェみたいな恋人を絶対に見つけてやると車内で叫ばれ、流石にウーヴェも驚いてシートから身体を起こす。
「ノア・・・?」
「目の前でイチャイチャしやがって・・・!」
ヤケクソ気味に叫ぶノアにウーヴェが目を丸くし、リオンが耐えられないと言いたげに車のボディを一つ叩いて肩を揺らす。
「お前なら良い恋人を見つけられるさ、ノア」
車から降りたって伸びをするノアの腰を一つ拳で叩いたリオンは、また明日とノアの肩を抱き、明日お前の家で三人で遊ぶぞと囁くと、みるみるうちにノアの顔が真っ赤になる。
「〜〜〜!!」
「ははは。チャオ、ノア」
良い夢を見ろよと告げて運転席に乗り込むと、ウーヴェが窓を開けてノアの背中に呼びかける。
「ノア・・・ありがとう」
「・・・うん。おやすみ、ウーヴェ。また明日!」
ウーヴェの声に吹っ切れたような笑顔で頷いたノアは、二人を乗せた車が車列の中に紛れるまで見送り、完全に見えなくなってからドアを開けて誰もいない静まり返った部屋に遣る瀬無いため息をこぼすが、それでもすっきりした表情を浮かべているのだった。
久しぶりに帰った自宅は、あの日何もかもが嫌になって家を出た時と何も変わっていなかった。
ウーヴェを支えながらベッドルームに向かうかと問いかけると、お前の部屋が良いと答えられて目を瞬かせる。
「俺の部屋?」
「・・・うん」
俯いたままの小さな声にリオンが了解と返し、ベッドルーム一歩手前から己の部屋に向かうと、ウーヴェの膝から力が抜ける。
「おっと」
ウーヴェを支えて何とか部屋に入るとベッドが綺麗に整えられていて、ウーヴェが使ったことを教えてくれていたが、そこにウーヴェを座らせると、いつかのように身体が傾ぎ、折りたたまれたコンフォーターの上にウーヴェが倒れこむ。
そんなウーヴェに覆い被さるように手をついたリオンは、いつだったか同じような景色を見たと気付き、ウーヴェが長期間の入院を終えて自宅に戻ってきた光景だと具体的に思い出した時、眼鏡を乱暴に外したウーヴェがリオンに向けて両腕を伸ばす。
「リーオ・・・っ!」
その、ありとあらゆる感情が込められた声にリオンが一瞬きつく目を閉じるが、同じ声で繰り返し呼ばれてしまうとこらえる事が出来ず、ウーヴェの両腕の間に身体を割り込ませる。
「・・・あぁ・・・リオン、だ・・・」
感情に揺れる声に、うん、ただいまと返すと、短くなった髪をウーヴェの手が撫で、耳朶を埋めるように嵌っているピアスを撫でる。
「ただいま、オーヴェ」
お前を一人にして悪かった、さっきも言ったがもうお前を一人にしないと、ウーヴェの耳に囁きかけたリオンは、背中にそろりと回された手に気付き、ウーヴェの顔の側に肘をついて身体を支えると、薄く開く唇にそっとキスをする。
「・・・うん」
そうしてくれ、もう二度とどこにも行かないでくれと、子供のような顔で本音を零すウーヴェに繰り返しキスをしたリオンは、目尻から枕へと流れ落ちる涙に気付き、目尻のホクロにもキスをするのだった。
窓の外、強くなった雪は何処かに消え、雲の合間から冬の星が久し振りに再会した二人を見守るように時折顔を隠しながら瞬いているのだった。
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2020.09.10
お帰り。ただいま。


