春から夏に向けての最も過ごしやすい季節になると、市場を彩る色彩にも初夏を連想させるものが増えてくる。
市場を行き交う人々の顔にも明るさが増しているようで、そんな人の間を擦り抜けて気になる店を覗き込んでいるのは、設備の点検の為に店を休んでいるベルトラン・デュバル青年だった。
予約の取りにくいレストランとして名前が売れ、店を開店した頃からの付き合いであるチーフと呼んでいる青年とともに店を切り盛りしているベルトランだが、先日来調子の悪かった食洗機がついに臨終してしまったのだ。
その修理とついでにではないが、日頃丁寧にしているつもりでもやはり彼方此方に経年の汚れが蓄積されている事に気付き、業者に店内の大掃除を依頼したのだ。
そんな訳で降って湧いたような休日を手に入れた彼は、休みにもかかわらずに朝から市場へやってきては気になる食材を見て回っていたのだ。
恰幅の良い女性が朗らかな声でベルトランを呼び、その声に顔を振り向けた彼は、己の視界に入ったそれに自然と口笛を吹いてしまう。
「どう、お兄さん。今朝収穫したばかりだよ」
「美味そうだな……味を試してみたいな」
彼の言葉に女性が胸を叩く勢いで頷き、用意してあったらしいそれを差し出して期待に満ちた目を向ける。
「……お、美味い美味い」
「美味しいだろう?」
「ああ、本当に美味しいな。今日はこれにするかな」
店は休みだが自身の食事-いつもは賄いメシのため、ロクに味わっている余裕など無かったそれへと上体を屈めて品定めを始めるが、女性の顔が険しくなる前に顔を上げてこれを一箱くれと言って携帯を取り出す。
「一箱?」
「そう。この味だったら店でも使えるし余る心配は無いから、一箱欲しいな」
「ありがとうよ」
彼の眼鏡にかなったそれを箱に詰めて貰い、料金の支払いをしようとした時、頬と肩で挟んでいた携帯から声が聞こえてくる。
『────ベルトラン?』
「おー、仕事中に悪いな。今大丈夫か?」
『ああ。そんなに長く話せないが、どうした?』
電話の主に少しだけ待ってくれと口早に告げて料金の支払いを済ませた彼は、後で返しに来ることを告げて荷物を台車に積んで己の車へと向かう。
「悪い悪い。今日の昼からは診察は休みだったな?」
『うん?ああ、そうだが…お前、こんな時間に暢気に電話出来るほど店は暇なのか?』
「詳しいことは後で話す。今日の昼飯はどうするんだ?」
石畳の上を台車で進むと当たり前ながらタイヤが大きな音を立ててしまうが、その音に負けない声で問いかけながら年季の入った白のプジョーのドアを開けて箱を放り込む。
『今日は昼からリオンも休みらしいから、店に行こうかと思ってたんだ』
「あー、そうかー。店に行く手間が省けたな」
『は?』
「買い物を済ませてそっちに行く」
『ベルトラン?』
「キッチンを借りるぞ」
詳しい事情は後で話すと繰り返し、訝る声を挙げる幼馴染みにSalutと声をかけて通話を終えたベルトランは、借りた台車を返しに行く為に元来た道を空になった台車を押しながら進み、その辺に置いておけと別の男性から顎で指し示されても不快に感じる事も無く片手を挙げ、今日の昼食次第では期間限定でこの店で仕入れても良いかもしれないと思いながら車へと戻り、そのまま今度は食材が豊富に揃っているデパートに出向き、ランチに食べる料理の材料を手早く買い求めるのだった。
幼馴染みからの電話に小首を傾げて一体何事だと呟いたのは、午前の患者の診察を終えて手元の資料を整理していたウーヴェだった。
今日は午後の診察は休診の為、午前中に総てを終わらせてしまえば昼からはゆっくりと恋人とともに羽を休める事が出来ると考えていたが、どうも先程受けた電話の内容からすると幼馴染みがここで料理を作るつもりらしく、今日の午後が潰れる可能性に気付く。
彼自身は仕方がないと腹を括れるタイプではあるが、恋人は午後からのデートを楽しみにしている筈で、予定が狂ったと知ればどれほど落胆するだろうかと思案しつつボールペンをくるりと回転させていると、ドアがノックされて書類の束を手にしたリアが入って来る。
「お疲れ様です、ドクトル・ウーヴェ」
「フラウ・オルガもお疲れ様。その書類は?」
「毎月購入している雑誌の請求書です」
「……そうか…今買っている雑誌ではどれが一番読まれている?」
「そうですね……やはり女性はファッション系のものが多いですが、クロスワードなども人気がありますね」
ここのクリニックを訪れる患者が抱える病に向き合うことは、個人差があると言ってもやはり大なり小なり苦痛を伴う為、少しでもそんな苦痛や不安を和らげて貰おうという考えから、待合室には雑多な種類の本が並べられていたのだ。
その中で特に読まれている本は背表紙などが擦り切れてしまう程だったが、クロスワードも人気だと教えられて定期的に購入しようかと苦笑すると、彼女が無表情のままひとつ頷く。
「クロスワードを何種類か置いてみるか」
「賛成です」
請求書の束を受け取るやいなや手早く目を通して己も覚えているものばかりである事を確かめると、その束をリアに差し出して後は頼むと告げて眼鏡を外す。
「明日の患者のリストになります」
「ああ、ありがとう────リア、今日の昼からの予定は?」
ウーヴェが目頭を指の腹で揉みほぐしながら彼女を呼ぶと、雇い主の気持ちが切り替わったことに気付いたリアがにこりと笑みを浮かべて小さく首を振る。
「今日は新しいケーキを作ろうかと思っているけど、それ以外の予定は無いわ」
「そうか…今からベルトランが来るらしい」
「こんな時間に?お店はどうしたの?」
彼を知る者ならば当然の問いにウーヴェが肩を竦めて頬杖を付き、先程電話が入って今からこちらに来てキッチンを使う事を告げると、リアの顔にじわりと歓喜の色が浮かび上がる。
「何を作ってくれるのかしら」
「ランチの予定を聞いていたから、それを作ってくれるつもりじゃないのかな」
頬杖をついて背後の二重窓の外を見れば、澄み渡る青空にひとつ白い雲がぽっかりと浮かんでいて、リオンの機嫌が悪くならなければいいと独り言を漏らしてしまう。
「今日はリオンと昼からデートだったの?」
「ああ。昼から休みだから何処かに行こうと言われていたが…大丈夫かな」
思わずこぼれ落ちる本音にリアが拳を口元に宛がって小さく笑い、ウーヴェの視線を受けて咳払いをする。
「ベルトランが美味しいものを食べさせてくれるのなら大丈夫じゃないかしら」
「……それもそうか」
「ええ」
突然やってくるとウーヴェの幼馴染みでありレストランのオーナーシェフであるベルトランの作る料理があれば、さすがにリオンも不満を訴えないだろうと彼女に心を読まれ、その通りだと素直に頷いたウーヴェは、待合室から微かに人の声が聞こえたことに気付いて立ち上がり、そんな彼の様子からリアが表情を切り替えて診察室のドアを開ける。
「ベルトラン!?」
「おー、リアもいたか。良かった良かった」
重厚な木の扉を押し開いて入ってきたベルトランにリアが目を丸くするが、何よりも驚いたのはそんな彼が抱えている段ボール箱から見え隠れしている食材などだった。
「キッチンを借りるぜ」
「え、ええ、それは良いけれど……ウーヴェ」
呆気に取られつつ振り返った彼女の横にやってきたウーヴェは、幼馴染みが抱えている荷物に同じく呆気に取られ、一体今から何を作るつもりなんだと問いかけ、出来上がってからのお楽しみだから仕事をしていろと片目を閉じられる。
「……お前、店はどうしたんだ?」
「ああ。調子が悪かった食洗機がついに壊れちまったんだ。で、店の掃除もやりたかったから、業者に頼んで大掃除をして貰ってる。そんな訳で今日は店は休みだ」
荷物をキッチンスペースに運びながら事情を説明する幼馴染みに素っ頓狂な声を挙げたウーヴェは、そんな理由ならば電話でも話すことが出来ただろうと呟くと、キッチンから顔だけを出したベルトランが美味いメシを食いたいのなら働けと顎を上げた為、うるさいぽよっ腹と憎まれ口を叩いて診察室へと戻れば、幼馴染み同士のやり取りに小さく口を開けていたリアが何秒か遅れて笑い出してしまう。
「リア、もちろんリアも食うよな?」
「私の分もあるの?」
「もちろん!後で来るキングの分もあるぜ」
だからリアも美味しいランチの為にあと少しだけ頑張って働いてくれと笑われ、その通りだと頷いた彼女は、診察室で不満げな表情をしつつも素早く仕事を終えようとしている己のボスを見習って仕事に戻るのだった。
クリニックの待合室に普段ならばあまりしない類の匂い-つまりは料理中の匂い-と音がふわりと広がり、その匂いだけで珍しく空腹感を覚えたウーヴェは幼馴染みの忠告に従って手早く仕事を終え、今は待合室のカウチソファに腰を下ろしてクロスワードに向き合っていた。
ウーヴェがここまで寛いでいる姿など当然目にしたことのないリアが驚きつつも、そんなリラックスの出来る雰囲気を持っている友人がいるからだと気付いてキッチンへと視線を向ける。
食欲をそそる匂いと音をさせているウーヴェの幼馴染みであるベルトランは、彼が作る料理や店の善し悪しは別として、彼自身の人となりで悪く言う人を見かけたことがないと思える、いわゆるいい人だった。
無条件で人がよい訳ではないだろうが、彼が声を荒げた姿など見たことが無く、もちろん彼に対して声を荒げる人も見たことは無かった。
そんなベルトランに対しウーヴェはと言えば、先程のように憎まれ口を叩いたり、ウーヴェにしては珍しくぞんざいな態度をとったりもしていたが、さすがに生後数ヶ月の頃からの付き合いがあるからか、お互いにそのような言動は当たり前だと思っているらしく、どちらの口からも互いに対する不満を聞いた事はなかった。
「……ウーヴェ、聞いても良いかしら」
「うん?」
リアが己のデスクで雑誌を読みながら疑問を口に出そうか思案していたが、ウーヴェが寛いでいる今ならば聞けるかも知れないと顔を上げ、ベルトランは何故料理の道に進んだのかと問いかけると、小さな頃から食べる事が好きだったと上の空でウーヴェが答える。
「食べるのは誰でも好きだけど、それだけで料理人になるのは少し違うんじゃない?」
「……そう言えばそうだな」
何故料理人になったのかを今まで聞いた事はないと、ようやく顔を上げたウーヴェが鳩が豆鉄砲を食ったような顔で呟くと、あなたも聞いていないのかとリアも同じ表情を浮かべた為、クロスワードを置いて鉛筆の尻で己の顎を突きながら天井を見上げる。
「…昔一度だけ聞いた事があるが…」
「え?」
「確かおじさんとおばさんに料理を食べさせたかったんじゃなかったかな?」
過去に理由を聞いた気がすると呟いたウーヴェだったがはっきりと思い出せないと苦笑して詫びるが、あいつのことだから些細な理由だろうと肩を竦める。
「おーい、ウー、仕事が終わったのなら手伝え!」
「………ワイン一本だぞ」
リアが更に口を開こうとした時、キッチンから顔を出したベルトランがごく当然の顔でウーヴェを呼びつけ、呼ばれた方もワインが一本だの何だのと呟きながらも立ち上がってキッチンへと向かう。
「キングはまだか?」
「もうすぐ来るんじゃないか?」
「そうか…じゃあリゾットの用意にも取り掛かろうか」
お前の恋人は無類のチーズ好きだから、今日のランチはチーズリゾットも作ると頷いたベルトランに俺の好物は無いのかとウーヴェが意地悪く問えば、お前が自分の料理を総て平らげたらリンゴのタルトを食わせてやっても良いと笑われ、意地の悪いことを言わずにさっさと食べさせろと瞼を真っ平らにしてしまう。
「まったく…いつまで経っても俺の幼馴染みはメシを食いたがらないんだからな」
ベルトランが背の高い鍋を覗き込んで満足そうに頷くが、それはどういう意味だと背後から響く声に肩を竦め、最近はキングのお陰でメシを食うようになったから良しとするかと先程の言葉に対する自己完結の言葉を呟き、目を細めるウーヴェに皿の用意をしてくれと料理人の顔で告げ、さすがに美味しいものを美味しく食べる方法をよく知るベルトランの言葉には素直に従って皿を出し、鍋から顔を出したそれに顔が少しだけ綻んでしまう。
そのささやかな表情の変化を視界の隅で捉えていたベルトランは、ウーヴェが食べ物に関して心を動かされている様を見るのが本当に嬉しいと改めて気付き、手早く鍋の中から皿に移して綺麗に盛りつける。
「さっき市場で箱買いしたんだよ」
「…ああ、だから賑やかな音がしていたのか」
「良い感じの店だったし、お前が気に入ったのならあの店で買っても良いな」
「俺の感想で決めるのか?」
「まあもちろん、それだけじゃ無いけどな」
皿に盛りつけたそれに顔を近づけて匂いを確かめるように息を吸ったベルトランは、困惑気味に目を細めるウーヴェに片目を閉じ、メインが出来上がるまでそれを食べていてくれと言って友の背中を押す。
「診察室のテーブルに用意をしたわ」
「ああ、ありがとう」
彼女の言葉に従って診察室に入ったウーヴェは、このクリニックで出来るだけのテーブルセッティングがされている事に感心し、準備をしてくれたお礼に一口どうぞと片目を閉じると、リアの顔に戸惑いと歓喜が浮かび上がる。
「良いのかしら」
「ああ」
どうぞと掌を向ければ、彼女が躊躇いがちにフォークを使って口に運ぶと何とも言えない絶妙な味に眼が細くなる。
「美味しい…!」
「……それは良かった」
リアの顔が美味しさに綻ぶ様を見守っていたウーヴェは、その笑顔を見れば料理人であるベルトランもきっと喜ぶと笑み混じりに伝え、皿をテーブルに置き、彼女の顔がこの後出てくるだろうメイン料理を想像して綻び、そんな彼女を見ているウーヴェの顔も綻びだした時、ドアが強めにノックされ、暢気な、だがどこか険しい声が投げ掛けられる。
「────俺も食わせて欲しいなー」
「!?」
その声に首を竦めたウーヴェが肩越しに振り返り、ドアに寄り掛かりながら瞼を平らにする青年を発見し、苦笑しつつ身体ごと振り返って笑みを浮かべる。
「仕事は終わったのか?」
「俺も食わせて欲しいなー」
彼女への批判というよりは彼女にだけ食べさせた事への批判をふて腐れた顔で告げたリオンは、苦笑しつつ近づいてくるウーヴェを眇めた目で眺めるが、ウーヴェの手が頬を撫でて額を撫でた後で鼻先にキスをしたために軽く驚き、次いで自然と浮かぶ笑みを咳払いで堪えようとする。
「ベルトランがお前の為にチーズリゾットを作っているぞ」
「マジで?」
「ああ。メイン料理もすぐに出来るそうだ」
だから機嫌を直してあと少しだけ待っていてくれと目を細め、頷くことで機嫌を直したリオンをテーブルに案内すると、キッチンからベルトランが呼ぶ声が響く。
「ウー、手伝ってくれ!」
「ああ」
リアに小さく頷いて合図を送り、椅子に横向きに座ったリオンの髪にキスを残したウーヴェが幼馴染みの手伝いをする為にキッチンへと向かい、そんな彼の背中を二人が見送るが、程なくしてリオンが椅子を軋ませながら天井を見上げた為、リアがそっと呼びかける。
「リオン…気分を悪くさせたならごめんなさい」
「へ?リアに腹を立てた訳じゃねぇって。それに本気で腹を立てた訳じゃねぇし」
「そうなの?」
「そうそう。ウーヴェが困った顔をちょっと見たかっただけだし、リアの前であんな顔でキスしてくるのを見られたから気にしないで良いって」
だからリアは何も悪くはないと、子どもの純真さと大人の狡猾さが入り交じった顔で笑うリオンに彼女も納得の溜息をつき、早く料理が食べたいわねと笑みを浮かべるのだった。
ダイニングテーブルではないクリニックのテーブル一杯に並んだ料理だったが、あっという間に空腹を抱えた成人男女によって姿を消してしまい、テーブルには食後のコーヒーとウーヴェが飲んでいるワインのグラスだけが並んでいた。
料理の大半をやはり予想通りにリオンが食べ、リアもそれなりに食べたのだが、彼女が意外に感じたのはこれらの料理を手際よく作り出したベルトランがウーヴェとあまり変わらない量しか食べない事だった。
ウーヴェが幼馴染みを腹が出ているとからかっているが、その体格からすればもう少し食べると感じた事を素直に告白すると、リオンも同意を示す頷きを繰り返す。
「そうだな…今日は少ないんじゃないのか?」
リアとリオンの疑問を受けてベルトランへと投げ渡したウーヴェは、今は食べるよりも食べている姿を見たかったと答えられて僅かに眉を寄せる。
「それよりも、だ。今日の料理はどうだった?」
己が食べたか食べないかよりも作った料理はどうだったと頬杖をつくベルトランに三人の口から異口同音に美味しかったと声が挙がり、何よりもの褒美を受け取った子どもの顔でありがとうと笑う。
「ねえ、ベルトラン、ひとつ聞いても良いかしら」
「ん?ひとつじゃなくていくつでも聞いてくれて良いぜ」
リアの呼びかけに顔を向けて先を促すベルトランに、先程ウーヴェに投げ掛けたものと同じ問いを告げると、何だそんな事かと言いたげな顔で彼が頭に手を当てる。
「料理をするのも食うのも好きだったからなぁ」
そう言えばいつかリオンにも聞かれたことを思い出した彼は、元々は子どもの頃に抱いた美味しいものをいつでも食べたいという願望だったが、いつの頃からか自分が作った料理を食べて欲しい人が出来たと目を細めてコーヒーを飲むと、三対の視線が己の顔に突き刺さるのを感じて目を瞠る。
「そんな人がいたのか?初耳だぞ」
慌てたように三人の顔を見るベルトランにウーヴェが呆れと驚きと若干の苛立ちを込めた声で非難するように告げるが、その声に対し隣の席で同じようにコーヒーを飲んでいたリオンが思わず吹き出しそうになって噎せ返ってしまう。
「どうした?」
「な、何でもねぇ…ベルトラン、そんな人いたんだー」
この中で何故ベルトランが料理の道に進んだのか、その道を選択させた原動力が何であるのかを唯一知るリオンが意味有りな視線でベルトランを見るが、驚いた顔で肩を竦める彼を見て苦笑し、自らはその話題に触れないことを目で伝えるとワイングラスを手にするウーヴェの手にしっかりと手を重ねる。
「うん?」
「その一杯でワインは終わりな、オーヴェ」
「まだ…」
「飲みたければ晩飯の時だな」
楽しければ飲み過ぎの癖がある恋人を言葉と視線とその大きな手でもって制止したリオンは、不満を僅かに浮かべるウーヴェの頬に小さな音を立ててキスをし、機嫌を直せと言外に伝えると不満ながらも仕方がないと言いたげな顔でグラスを置く。
「……で、どうして料理人になったのかっていうとだなぁ」
沈黙が生まれた為に咳払いをしたベルトランが椅子を軋ませながら自らの軌跡を手短に語り出す。
「俺の母はブルターニュ出身で、父とはフランクフルトで知り合ったそうだ。その母に食べて貰おうとガレットを作ったのが始まりだな」
「そうだったのか?」
「いつだったか生焼けのガレットをお前に食べさせたことがあっただろう?あれはお袋に食べさせる為に練習で作ったんだ」
「……………」
ベルトランが告白した生焼けのガレットを食べたウーヴェはその夜腹を下して大いに家族を心配させてしまったのだが、その後の大騒動も思い出したのか無意識に腹に手を宛がって眉を寄せてしまう。
「オーヴェ、生焼けのガレットを食わされたんだ?」
「ああ。ガレットだけじゃないぞ。石の代わりになりそうな硬いゼンメルも食べた事がある」
「凄いものを食べさせられたのね…」
リオンとリアの驚愕の声に無言で頷いたウーヴェにその失敗があってこその今の俺だと威張るように笑ったベルトランだったが、ウーヴェがテーブルの下で幼馴染みの臑を蹴り飛ばしたのか、痛みに呻き声を上げてテーブルに突っ伏す。
「練習台にされたんだ」
「そうだ。俺が練習台になってやったんだ、感謝しろ」
「……人の臑を蹴り飛ばしておいて良くそんな事が言えるな、お前!」
「うるさい、ぽよっ腹」
「またそれを言う」
幼馴染み同士の有り触れたやり取りだったが、他の二人にしてみればウーヴェの尊大な態度が珍しく、リアなどは滅多に見られないものを見た驚きにただただ呆気に取られてしまっていた。
「でもさ、オーヴェが練習台になってくれたから、今美味いメシを作れるようになったんだよな?」
だからお前の犠牲は無駄じゃなかったと笑って恋人を宥める為に頬にキスをしたリオンは、確かにそうだったがその度に胃薬の世話になるのは大変だったんだぞと肩を竦め、それでも機嫌が直っていることを示す様に己の腿に手を置くウーヴェに笑みを浮かべて頬杖をつく。
「で、お母様にはガレットを作ってあげたの?」
「もちろん。ゲートルートの初めての客も親父とお袋だったし、お袋直伝のガレットも裏メニューで作って欲しいと頼んだのも親父だった」
己の両親に食べさせたい為に料理の道へと進んだ事を告げられ、良い事ねと満面の笑みを浮かべて己を見る彼女に笑みを浮かべつつも、ベルトランの脳裏には遠い過去でありながら昨日の事のように鮮明に覚えている顔が浮かんでいた。
それは、ベッドの中でただ目を開いて天井を見つめているだけのウーヴェの横顔だった。
誘拐事件を境に感情を無くし、ただ毎日をベッドの中か椅子に座っているだけの幼馴染みとやっと再会出来た時、両親やウーヴェの両親から聞かされていた現実を突きつけられてしまい、表情もなく椅子に座っているウーヴェを抱きしめながら大声で泣いて大人達を驚かせてしまった事があったが、その時、大声で泣きながらも幼いベルトランの胸の中にひとつの決意が生まれていたのだった。
あの日、感情を失ったウーヴェの代わりに大声で泣きながら胸に秘めた思いがベルトランの人生を決定づけたのだが、その決意を知っているのはリオンのみでウーヴェ自身も知らない事だった。
さすがに幼馴染みに対してそれを口にするのは気恥ずかしく、もう一つの理由をリアに告げたベルトランは、今はその夢が叶ったから次の夢を目指していると笑うと、その夢は何だと三人から追求されてしまって肩を竦める。
「夢を口にすれば叶わなくなるからな。叶ったら教えてやるよ」
ベルトランの言葉にウーヴェが不満そうだったが、幼馴染みが新たな夢を持っている事に対しては賛成したいと思っている為、それが叶えばいいなと目を細め、ワインを飲み干して席を立つ。
「そろそろ片付けるか」
「ああ、そうだな…キング、運んでくれないか?」
「りょーかい」
後片付けなどが嫌いな筈のリオンだが、ベルトランの言葉に素直に頷いてテーブルの上のものを片付け始め、リアとウーヴェが診察室に持ち込んだテーブルを元に戻したりと、明日の診察に支障が出ないように部屋を片付け始める。
「ベルトラン、これは洗えば良いのか?」
「おー、洗ってくれるか」
キッチンの後始末をしながら肩を竦めたベルトランにリオンが苦笑し、オーヴェは予想以上にニブチンだなと肩を竦めると、肩越しに振り返ったベルトランが目を細めて先を促す。
「ベルトランが作った料理を食わせたい人ってオーヴェの事だろ?」
「……ああ」
「でもオーヴェはそれに気付いていない」
「そうだな」
「オーヴェってさ、時々信じられないくらいニブチンだよな」
「昔からそうだった」
リオンの言葉にベルトランが苦笑し、ウーヴェの鈍感さは幼い頃からだったと笑うと、自分自身への好意に対しては本当に鈍いと自分たちが付き合いだした頃の様子を思い出しているのか、激しく納得出来ると頷いたリオンにベルトランがもう一度苦笑し、当たり前だからではなく自分が好かれるとは夢にも思っていないんだろうと呟き、幼馴染みが己に向けられる感情に対してはかなり鈍感だった事を思い出す。
だがあの事件の後でそれも変わってしまった事も思い出してしまうと、つい心が重くなってしまう。
「今のあいつしか知らない奴らからすれば信じられないだろうな」
「そうだな…俺も付き合いだしてから分かった事だからな」
人の感情の機微には誰よりも賢いウーヴェだが、その能力がどんな理由から得られたのかに思いを馳せるとごく自然に二人だけが知る過去に繋がってしまい、どちらの口も重くなってしまう。
ベルトランは事件前後のウーヴェを知っており、リオンは断片的ではあっても直接本人の口から事件の概要とその後の家族関係の変化を知らされていた。
今のウーヴェを形作る要素の大半があの事件で得られたものである事実は悲しい事だったが、事情を知る二人はその全てを受け入れる覚悟は出来ている為、顔を見合わせて共犯者の笑みを交わしあう。
「さっきの話はオーヴェには秘密?」
「恥ずかしいから話すなよ」
だからさっきのように黙っていてくれともう一度肩を竦めたベルトランにリオンが不気味な形に目を細め、ラクレットかチーズフォンデュで手を打とう持ち掛ければ、オーゴットとベルトランが天を仰いで嘆息する。
「バート」
二人の間に微妙な沈黙が生まれた時、キッチンスペースにウーヴェが顔を出して懐かしい呼び方をし、何かあったのかと勘の良さを発揮する。
「何もないぞ?」
「そうか?」
「ああ。ただそこのキングにラクレットかチーズフォンデュを食わせてくれと脅されてただけだ」
「リオン?」
「久しぶりにベルトランの作ったチーズフォンデュが食いたくなったんだよ」
ただそれだけなんだ脅してなんかいない信じてハニー、と、捲し立てて胸の前で手を組んで懇願すると、ウーヴェの瞼が平らになって1ユーロとワインを一本寄付すれば許してやると尊大に言い放たれてがっくりと項垂れる。
「高くつくチーズフォンデュだな」
「うう…ちくしょう、オーヴェの白ワインも飲んでやる!」
店でキープしているワインを飲んでやるとやけくそ気味に叫んだリオンに、ウーヴェがそんな事をすれば10ユーロ貯金させてやると宣告して更に落ち込ませた後、ベルトランに何やら囁きかける。
「……気にするな。そんな事よりも、だ。しっかり食ったのか?」
「お前も見ていただろう?」
「ああ。見ていたが満足したのか気になっただけだ。どうなんだ?」
幼馴染みの食が細いことが気掛かりなベルトランの少し強めの口調にウーヴェが視線を彷徨わせるが、ひとつ咳払いをした後でリオンを憮然とさせてしまうような綺麗な笑顔でひとつ頷く。
「バート、信じてくれ」
「……ああ、分かった分かった。────おい、キング、そんな目で俺を見るな」
悪いのは俺じゃなくてお前の恋人だとウーヴェを顎で示し、自分に向けられる嫉妬の矛先を躱したベルトランは、背後で巻き起こるだろう痴話げんかの行く末を想像しながら後片付けに勤しむのだった。
数日後、いつものように大勢の客で賑わうゲートルートに出向いたウーヴェとリオンは、厨房で忙しそうに汗を流して働くベルトランの姿をいつもの席から見守り、やはりここで働くあの姿を見られる事は嬉しい事だと笑いあう。
そんな二人の席に忙しさが一段落ついたらしい彼が料理を運んでくるが、チーズフォンデュ用の鍋と材料であることに気付いたリオンが歓喜の舞を踊り出しかねない勢いで飛び上がり、同じく白ワインも運ばれてきたことにウーヴェの顔も満面の笑みを湛え始める。
己の好物を目の前にしても平静さを保っていられる程大人でもなければ、世の中を斜めにも見ていない二人だった為、ベルトランが自慢気に胸を張ってさあどうぞ満足するまで食えと告げると同時にチーズフォンデュに手が伸びる。
ウーヴェが進んで料理に手を付ける光景が彼にとっては心から望むもので、それを見る事が出来た幸せに胸を温かくし、幼馴染みの為にグラスにワインを注ぎ、その恋人の為にビールをグラスに注いでやると、ほぼ同時にダンケの声が投げ掛けられる。
「おぅ、気にするな。……どうだ、美味いか?」
「最高!オーヴェぇ、ブロッコリーとヴルスト交換しよう!」
「……ブロッコリーも良いが、アスパラも付けてくれればな」
「もちろん、喜んで!」
野菜よりも動物性タンパク質を食いたいと常日頃から宣言しているリオンの言葉にウーヴェが苦笑しベルトランも呆気に取られてしまうものの、二人が心底楽しんでいる事に気付いてさすがに今は料理人の顔で大きく頷く。
「…本当に美味しいな。ダンケ、バート」
「アスパラもヴルストもまだまだある。欲しくなったら言ってくれ」
あれから市場のあの店で購入するようになったアスパラも、馴染みの肉屋に特別に作って貰っているヴルストもまだまだあると気前よく胸を叩くベルトランに二人がまた同時に大きく頷き、出される料理を堪能しようと笑いあう。
そんな友人達の姿に料理を提供した彼も満足そうに頷くが、リオンがちらりとベルトランを見て片目を閉じ、先日の約束を守ってくれたから俺も約束を守ると伝えた為にベルトランもひとつ頷いて踵を返し、幼馴染みの顔が満足に染まっている事が何よりも嬉しい顔で厨房に戻って他の客の為の料理に取り掛かるのだった。
2012/06/03


