Die Geschichte Frau B-B夫人の物語-

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 春を思わせるような暖かな空気が街を包んでいるある日の午後、本日最後の患者である某ドイツ貴族の流れを汲む女性の診察をしていたウーヴェは、患者の順調な回復ぶりに目を細めて喜び、不安を抱える患者を安心させる声で頷いていた。
 この調子だと薬の種類も減らせることが出来ると、何よりもそれが嬉しいと患者のカルテを万年筆のキャップの先でトンと叩いたウーヴェに笑顔で頭を下げた女性だったが、悩んだ挙げ句の告白と言うように胸の前で手を組み、聞いて下さいませ、先生と切り出した。
 「どうしました?」
 今はあなたの診察中です、どんな話でも聞きますよと笑顔を少しだけ控えて先を促したウーヴェの耳に思い掛けない言葉が流れ込み、さすがに咄嗟に理解出来ずにターコイズに疑問を浮かべて瞬きを繰り返す。
 「ブランケンハイム夫人、もう一度言って頂けますか?」
 「……わたくし、新たな趣味に目覚めましたの」
 「それは良いことですね」
 その趣味によってあなたが社会生活に前向きに取り組めるようになるのならばそれは大賛成だが、間違いでなければその新たな趣味はウィッピングだと聞こえたのですがと、言葉だけではなく表情にも最大限の注意を払いつつ問いかけたウーヴェの前、間もなく40歳になろうかという夫人が少女のように頬を染めて顔を背け、そうですと小さく頷いた。
 「……………また、大胆な趣味に目覚めましたね」
 「そう、ですわね…やっぱり先生もそう思われます?」
 もちろんそう思いますと断言したかったが、ここで下手なことを言って彼女の状態を悪化させたくないと気遣ったウーヴェは、曖昧に言葉を濁しながら何処でその趣味と接する機会があったのですかと、別の方向からのアプローチを試みる。
 「初めて見たのは…夫が隠していたDVDですわ」
 己の妻に見つかるような場所にアダルトDVD、よりによってSMのそれを隠すなと呆れそうになるのを何とか堪え、それがすごく楽しそうに見えたと教えられ、これは患者が今よりも前向きに生きるために必要なことなのかも知れないと思い直してデスクに肘を突いて手を組むと、にこりと笑みを浮かべる。
 「楽しそうに感じましたか?」
 「はい、それはもうすごく楽しそうで…」
 わたくしも一度やってみたいと夫にお願いをしたのですと小さな声で、だが先程に比べれば遙かに明るさを取り戻した声で教えられてそれにのみ安堵するように一つ頷き、ふと覚えた疑問を解消しようと問いかける。
 「それを見て、あなたはどちらが良いと思いました?」
 「どちら、とは?」
 「どちらの役割が楽しそうだと思いましたか?」
 「……ああ、そう言うことですのね。そうですわね…夫がわたくしの事をミストレスと呼んでいますわ」
 その一言から彼女が選択した役割を把握し、しかもその趣味の相手が夫である事に安堵感と一抹の不安を覚えたウーヴェだったが、所謂女王様役になった時はどんな気分だと問いかけて今までの悩みなどを一切忘れ去る事が出来ると、まるでその場にいる時のような顔で告げられて苦笑して頷く。
 「最近の診察ではいつも表情が明るくて安心していましたが、それが理由だったのですね」
 「ええ。夫の大きな身体も以前は怖くて仕方がなかったのですが、今は…夫が可愛く見えて仕方がないのです」
 彼女の来歴をある程度聞かされていたウーヴェは、彼女の実家が抱えている負債を肩代わりする代わりに結婚を申し込まれ、まるで一昔も二昔も前のような事情で結婚した為に愛情面ではお互いに稀薄で、その寂しさからついつい精神安定剤などに手を出してしまっていたが、今の趣味-つまりは夫婦でのSMプレイ-に目覚めてからは以前とは全く違う心境になったと告白され、喜ぶべきか悲しむべきか激しく悩みそうになるウーヴェの前で、貴族の血を受け継ぐ女性の見た目のたおやかさからは想像できない激しさの閨房話を多少の恥じらいと共に語っている。
 「……何か道具を使ったりするのですか?」
 「時々。でもあの人が一番喜んでいるのはわたくしの手ですわ」
 「手、ですか?」
 「ええ。手でこうして…」
 その言葉と同時にナイフとフォークより重い物を持ったことがない様な白くて華奢な手が振り上げられ、勢いよく振り下ろされる様から、己が叩かれたわけでもないのに痛みを感じたようにウーヴェが顔を顰めて椅子の中で尻をもぞもぞさせてしまう。
 「…あの、先生?」
 「何ですか?」
 「こういった趣味は…やはりよろしくないのでしょうか…」
 自分たち夫婦の関係が良い方に変化する切っ掛けをもたらしたものがSMプレイだというのはあまり良くないのだろうかと、不安を前面に押しだした顔で問われてしまうが、それに対してウーヴェはきっぱりといいえと告げて頭を左右に振る。
 「そういった嗜好はお互いの信頼関係の上で成り立っているものです」
 もしその信頼関係が無いのであればそれは単なる暴力行為で、ご主人もあなたもお互いを信頼しているからこそ、本来ならば叩かれる痛みや感じる恐怖を快感に転嫁させられるのですと、理解できる人は少ないかも知れませんがと告げると、彼女の顔に光が差したように笑顔が戻る。
 「ありがとうございます、先生」
 「今回の事を切っ掛けに、ご主人ともっと信頼関係を深めて下さい。他にも二人で楽しめる趣味は沢山あります。そちらにも目を向けて下さい」
 そうすることであなた方の夫婦間の空気が暖かなものになれば、きっとあなたが望んでいる子どもも出来るかも知れませんと、彼女が最も望んでいる事を笑顔で告げると、心底安堵したような顔で彼女がそっと頷く。
 「次は少し間を空けましょう。2週間後にお越し下さい」
 「はい」
 薬もひとまずは一種類だけにして大丈夫でしょうとカルテに丁寧に書き込んだウーヴェは、一人がけのソファから優雅に気品に満ちた姿で立ち上がる女性に合わせて立ち上がり、ドアの前まで案内すると、あなたの望みが叶うことを楽しみにしていますと笑顔でドアを開ける。
 「お疲れさまでした、ブランケンハイム夫人。こちらへどうぞ」
 ドアの前では無表情ながらも患者には受けの良いオルガが診察の疲れを労うように声を掛け、ウーヴェの手からカルテを受け取るとそのまま本棚の前のカウチソファへと彼女を案内する。
 「次回は二週間後になりますが、時間はどうなさいますか?」
 「そうね…今日と同じ時間でお願いできるかしら?」
 「はい。ではその時間でお取りしておきます」
 「よろしくお願いね、フラウ・オルガ」
 「はい。…夫人、今日はローズヒップとカモミールがありますが、どちらにいたしますか?」
 緊張を解きほぐすようにオルガが少しだけ表情を和らげて問いかけると、今日はローズヒップが良いわと答えられ、唇の両端を軽く持ち上げる。
 「ご用意致します、少しお待ち下さい」
 一礼を残して夫人の前から立ち去ったオルガは、程なくしてローズヒップと手作りのクッキーをトレイに載せて戻ってくる。
 「いつもありがとう。診察の後のこれが本当に嬉しいわ」
 「ありがとうございます」
 彼女の控え目な態度も好感が持てると相好を崩した夫人は、ローズヒップの芳香を楽しんだ後、診察の緊張で渇いた喉を潤し、クッキーを食べて笑顔で立ち上がる。
 「先生によろしくお伝え下さい」
 「はい。お気を付けてお帰り下さい」
 診察前の自信のない背中が今は真っ直ぐに伸びて彼女の気品すら表しているようで、重厚なドアを開けて出て行くまで見送ったオルガは、今日の診察を無事に終えた安堵に溜息を零し、同じようにホッとしているだろうウーヴェと自らの分のお茶を用意する。
 「お疲れさまでした、ドクトル・ウーヴェ」
 「……………ああ、うん……」
 「ウーヴェ?」
 いつもならば疲れていてもそれなりに笑顔で答えるウーヴェだったが、今日はどうも様子が変だった。
 デスクに肘を突いて手を組み、顎を支える姿でぼんやりと壁を見つめていたのだ。
 そのただならぬ様子に瞬きをしたオルガは、紅茶が入ったと窓際のソファセットにトレイを運ぶと、その動きに合わせてのろのろとウーヴェが立ち上がり、お気に入りのチェアにどさりと尻を落とす。
 「随分と疲れているのね」
 「………前向きになるのは良いことなんだろうが…」
 新しい趣味を持つのも良いが、万人に認められない趣味だと大変だなと肩を竦めたウーヴェに何のことだと問いかけたオルガは、それが患者の診察内容に関係する事だと気付いて口を閉ざす。
 ウーヴェがこうして診察内容を語ることは珍しいことだったが、彼女は極力自らはその話題に触れないようにし、彼が語ればただ黙って聞くだけの姿勢を貫いていた。
 それがウーヴェにとっても安心なのか、微苦笑を湛えつつ寝室の中はさすがに親しい友人でさえも分からないものだなともう一度肩を竦め、ローズヒップが揺れるカップをそっと持ち上げる。
 「…寝室の中…?」
 「ああ。……セクハラで訴えられたくはないからから言わないでおこうかな」
 「!!」
 さすがにその一言から何を言いたいのかを察した彼女が驚きに目を瞠って息を飲むが、ウーヴェの疲れが何に由来するのかを察し、お疲れさまでしたとしか労うことが出来なかった。
 「本当にお疲れさま、ウーヴェ」
 「ああ……人の情事を聞かされるのも結構疲れるものだな」
 「……そうね」
 凝り固まった肩を解すように肩を回して溜息を吐き、いつにも増して美味しく感じる紅茶を飲み干したウーヴェは、気になることがあるので図書館に行って来ると重い腰を上げる。
 「後はやっておくわ」
 「頼む」
 クリニックの戸締まりを頼むと告げて苦笑したウーヴェは、診察室の隣の小部屋で着替えを済ませてコートとマフラーを腕に引っかけた姿で出てくると、今日も一日お疲れさまでしたとオルガと労い合ってクリニックを後にするのだった。
 残ったオルガはウーヴェの様子が本当に疲労困憊している事が気掛かりで、最後の患者が一体どんな話をしたのかが気になってしまうが、セクハラになりそうだと言う言葉を思い出してその好奇心をグッと押し殺し、テキパキと後片付けを済ませるのだった。

 

 その夜、いつもより遅く仕事を終えたリオンがウーヴェの携帯を何度か鳴らしたが一向に返事が無く、また本を読んでいるのだろうと予測を立てながらウーヴェのアパートへと帰り着く。
 警備員に連絡を取って貰った時には慌てたように返事をしてドアを開けてくれた為、今は本を読んでいない事を知るが、ウーヴェの自宅前に辿り着いたリオンは、いつものように絶妙のタイミングでドアが開いて矩形に切り抜かれた光を背負ったウーヴェが苦笑混じりに出迎えてくれた事に肩を竦める。
 「まーた本を読んでたんだろ、オーヴェ」
 「……ああ」
 気になったことを調べていたらあっという間に時間が過ぎたと、己が意外と本の虫である事を告白したウーヴェは、疲れているのに心配させた事への謝罪の代わりに腕を伸ばしてリオンの冷えた頭を抱き寄せる。
 「お疲れ様」
 「うん。…今日の晩飯はどうしたんだ?」
 「……………」
 「食べて無いのか?」
 沈黙の訳が食事を抜いた事だとしっかりと見抜いたリオンが目を細め、本を読むのも構わないがメシを抜くことはダメだと告げ、眼鏡の下で左右に彷徨うターコイズを見つめれば、程なくして落ち着いたらしい双眸が伏せられて分かったと返される。
 「どうする?今から食うか?」
 「お前はどうなんだ?何か作ろうか?」
 二人並んで廊下を進んでリビングへと向かうが、ソファの上やテーブルの上にメモや付箋がはみ出している分厚い本が整頓されて小さなタワーを作っている事にリオンが呆れたように溜息を零し、ウーヴェが気まずそうに視線を逸らす。
 「ゼンメルのサンドでイイや。あ、サーモンあったっけ?」
 「ああ。チーズもあるぞ」
 「うん。じゃあそれを食う」
 食事の用意をしようとキッチンに向かったウーヴェの背中に着替えてくると声を掛け、ベッドルームで手早く着替えてリビングに戻ってくるが、一体何を調べていたのかが気になってソファの上で読みかけのまま伏せられている本を手に取る。
 「………………?」
 タイトルはリオンが見たことがないような堅物なもので、一体何だろうと本を矯めつ眇めつしてみるが、全く予想が付かずにページを捲っていくうちに時々出てくる挿絵だの何だののお陰でこの本がどんな類のものであるのかを理解し、顎に手を当てて考え込んでしまう。
 調べ物をしていたと言っていたが、一体この本で何を調べているのか。ある日突然にこの本に書かれているような事に目覚めたというのだろうか。
 それとも、自分とのそれに飽きを感じるようになってきたのだろうか。
 メモがはみ出している本や付箋が貼られている本のタイトルを見ると、この手の物語では必ず書名が挙がるものもあれば、内容を見なければ分からないものもあったが、とにかく今リオンが理解出来たのは、自分の電話にも気付かず、食事をする事も忘れるほどの集中力で調べているものが、今までのウーヴェの嗜好からすれば天地がひっくりかえったような驚愕を与える内容であると言う事実だけだった。
 まさかウーヴェがSMに興味を持つようになるなど、思いも寄らなかった。
 「リオン、出来たぞ」
 「あ、ああ、うん…なぁ、オーヴェ」
 「どうした?」
 キッチンから顔を出してリビングのドアの向こうから手招きするウーヴェにリオンが苦笑しつつ椅子に腰掛けて何でもないとへらりと笑みを浮かべる。
 「?」
 「何でもねぇ。…ほら、食おうぜ、オーヴェ」
 小さなテーブルに用意されたサンドとチーズのスライスだけではなく、薄切りにしたハムも何種類か用意されていて、リオンの腹の虫が悲鳴を上げるのと同時に美味そうと声も上がる。
 「どうぞ、召し上がれ」
 「ダンケ!」
 その、いつもの何気ないやり取りで食事を始めた二人だったが、そんな二人の話題に上るものはサッカーのゲームの事や、ひったくり犯を捕まえたら次から次へと被害者が出てきて大変だったという、笑い話にしてしまわないとやってられない様な事件への感想だった。
 そしてその後、いつものように大騒ぎをしながら結局二人でシャワーを浴び、バスローブ姿のまま二人で一つのベッドに転がり込み、熱を上げて限界まで身を寄せ合った後、一方は少しだけ何かを考える様に軽く眉を寄せ、もう一方は気怠げに碧の瞳を細めながらも、そこには変わることのない情愛を浮かべた後、静かに眠りに落ちるのだった。

 ウーヴェが調べ物を始めてから数日後の週末の午後、お互いの休暇が重なった為にリオンが鼻歌交じりの軽い足取りでウーヴェのアパートまでやってきたが、すっかり顔馴染みになった警備員がすかさず連絡を入れてくれる。
 本当ならば携帯ですぐに連絡が出来るのだが、ここ数日は家でもクリニックでも調べ物に時間を費やしている事をオルガから聞かされていた為、携帯の音ぐらいでは意識を取り戻さないことに気付いたリオンが警備員に頼んだのが効果覿面だったのか、待たされることなくロックが外れて来客用のエレベーターへと軽い足取りのまま進んでいく。
 「ハロ、オーヴェ!」
 いつものように絶妙なタイミングでドアが開き、平日に比べればラフな、だがそれでもリオンにしてみればきっちりとした身嗜みのウーヴェが笑顔でリオンを出迎えた為、小脇に抱えた荷物はそのままに、恋人の頬と唇に小さな音と共にキスをする。
 「マザーはお元気だったか?」
 「ちょっと風邪気味だって言ってたから、雑用を全部片付けてきた」
 「風邪?心配はないのか?」
 リオンの育ての親であり、彼が育った孤児院の子供達すべての親でもあるマザー・カタリーナの体調が悪いと聞かされて眉を寄せたウーヴェにリオンが小さく笑みを浮かべてダンケと告げ、心配顔の恋人の額に口を寄せる。
 「オーヴェに教えて貰ったハーブティを用意してきたから大丈夫だって」
 「…そうか」
 いつかリオンが風邪をひいたとき、数種類のハーブのお茶や吸引療法をウーヴェが教えたのだが、手軽に出来るハーブティを飲んで貰ったと教わって眉を開いたウーヴェは、何を持ってきたんだと問いかけるが、少しだけ高い位置にある青い眼が不気味な形に細められたことに気付いて不信感に顔を歪める。
 「んふー。お楽しみ」
 「は…?」
 一体何が楽しみなのかと問いかけるウーヴェにそれ以上は何も答えなかったリオンは、もう調べ物は終わったのかと問いかけながらリビングのドアを開け、テーブルやソファの上に本が積み重なっていない事を見て取ると安堵の溜息を零す。
 「ここのところずっと調べ物をしてるってリアから聞いてたけどさ、もう終わったのか?」
 「ああ。一段落付いた」
 調べ始めたらついつい深いところまで調べてしまうと苦笑するウーヴェにリオンが口笛を吹いてウーヴェの目を丸くさせる。
 「深いところってどんなところまで調べたんだ?」
 「うん?ああ、まあな」
 色々な嗜好があるという事だけは理解出来たと言葉を濁されてしまい、今度は不満を訴えるように口を尖らせる。
 「な、オーヴェ、その深いところにさ…」
 これから行ってみようぜと、ウーヴェの肩に自然と腕を回して白い髪に口を寄せて囁いたリオンの声に、眼鏡の下のターコイズが瞬きを繰り返して何を言っているんだと横目で見つめてきた為、そっと眼鏡を奪い取りながらベッドルームのドアを開ける。
 「リオン?」
 俺は義兄が出ている番組を録画したものを見たいと告げるが、何やら意味の分からない事を呟くリオンにそのままベッド傍まで連行されてしまい、その後まるで荷物か何かのようにベッドに放り投げられてしまう。
 「!?」
 突然のそれに驚いたウーヴェが後ろ手で身体を支えて上体を起こすが、それよりも先にリオンがウーヴェの上に腹這いになって夜の太陽のような笑みを浮かべる。
 「オーヴェ」
 「な…なんだ…?」
 まさかとは思うが、休日の真っ昼間からするつもりじゃないだろうなと声を低くすると、ウーヴェの身体を押さえつけながらリオンが持っていた荷物を乱雑に開け放ち、不気味な笑い声を上げつつウーヴェの鼻先にその箱を突きつける。
 箱に印刷されている写真やブランド名は青年男女ならば一度ならずも目にした事がある、いわゆるアダルト用品を専門に取り扱っている店の名前だった。
 「!?」
 「オーヴェが興味があるみたいだったから、買ってきた」
 しかも嬉しいことに俺たち向けのものが特価だったと自慢気に告げた後、箱から全てのものを取り出すが、ウーヴェはただ目の前の現実が信じられない様子で目を瞠っているだけだった。
 「お前…まさかとは思うが…それを…」
 使うつもりなのかと、一番聞きたくはないが聞かなければならない言葉を途切れ途切れに告げた途端、今更何を言っているんだとリオンが目を丸くする。
 「は!?」
 「興味あるから調べてたんだろ?」
 「な…っ!」
 この間ここに来たときに読んでいた本のタイトルは何だ、何とか嬢の物語ではなかったかと笑われ、さすがに俺でもあの本は読んだことがないと断言されて絶句したウーヴェは、リオンが誤解している事に漸く思い至った刹那、我が身がかなり危険な状態に晒されている事にも気付いてリオンの身体を押しのけようとする。
 「リオン、降りろっ!重いっ!!」
 「またまたー。この間思いっきり乗っても気持ち良さそうな顔してたクセに」
 数日前の夜を思い出せと爽やかに笑われ、真っ白になった脳味噌に恐るべき言葉が流し込まれる。
 「オーヴェのケツだったら…これぐらい平気だよな?」
 目の前で不気味に光っているのは、直径が3センチはある金属の玉が4つで、紐に繋がれてぶらりと揺れていた。
 「────っ!!」
 それが何であるのかをここ数日の調べ物の結果知ってしまったウーヴェは、リオンの顔をまじまじと見つめた後、そんなものが入ると思っているのかと絶望的な声で問いかけてあっさりと頷かれてしまう。
 「大丈夫だって。最初から全部は無理だろうけど、二つぐらいは入るって」
 「無理に決まっているだろうが、バカたれっ!!」
 「あー、なんでそんな事言うんだよ?やってみなきゃ分かんねぇだろ?」
 だからはい、大人しく足を開けと、思わずウーヴェが失神してしまいそうな事をさらりと呟くだけではなく、己の身体で押さえつけているウーヴェの綿パンのボタンを器用に外したリオンは、魚のように口をぱくぱくさせ蒼白な顔を激しく振って拒否を示すウーヴェに溜息を零し、さすがに機嫌を損ねた顔で見つめれば、やっと理性を取り戻したような顔でウーヴェがそうじゃないと小さく叫ぶ。
 「へ?」
 「興味があったのはSMと言う状況下に置かれたときの人の気持ちであって、俺がしたりされたりする事じゃない!!」
 「えー、何だよ、それ!」
 リオンの憤慨の声にウーヴェもそれを上回る声でその言葉は俺のセリフだと言い返し、だから俺自身はSMに興味はないと言い切ると、リオンの身体の下から抜け出して半分脱がされていた綿パンをずり上げる。
 「せっかくさぁ…」
 ウーヴェが肩で息をしながら服の乱れを整えている前ではリオンが拗ねた子供の顔でベッドで両手両足を広げて仰向けになり、己の勘違いから端を発した事への不満を現していた。
 「リオン…?」
 「SMに興味があるって事はさ、もう全部見せても良いって、今まで以上に気を許してくれるようになったんだーとか、いつものセックスがマンネリだから気分転換したいのかなーとか思ったのになぁ」
 拗ねたように横臥して頬杖を付くリオンの傍に座り、くすんだ金髪に指を絡め、たった今聞かされた言葉が図らずも夫人に告げた言葉と同じ思いを伝えているものでもあった為、少しだけ鼓動を早めながら金髪を撫でてそっと問いかける。
 「…そう思うのか?」
 「ん?気を許してるって事か?」
 「ああ。…患者に同じ事を言ったんだが…はっきりと確信を持てなかった」
 だから文献で調べて己の言葉の裏付けを取っていたのと、自分よりも遙かに恋愛経験があるお前ならば誰か一人ぐらいそんな関係を持った事もあるだろうが、やはりそう思うのかと問えば、リオンが髪を撫でていた手に口を押しつけながら寝返りを打ってウーヴェの膝に乗り上げ、ロイヤルブルーの瞳に力を込める。
 「気を許してない相手にSMなんてしてみろよ。ただの最低の暴力野郎になるし、彼女が拒否しているのにやってしまえばデートレイプかDVで訴えられるじゃねぇか」
 「……そう、だな」
 「だろ?」
 こう見えても俺も法に関わる仕事を生業としているのだと、さすがにこの時ばかりは双眸に真剣な色を浮かべて見上げてくるリオンにターコイズを伏せて小さく謝罪をしたウーヴェは、別にマンネリに感じているわけではないと小さな声で言い訳をする。
 「オーヴェ?」
 「……お前とのセックスは…その……」
 リオンの手が顎を擽る為に顔を背けて悪戯な指から逃れようとするが、しっかりと掴まれてしまって視線だけで逃げを打つが、オーヴェと名を呼ばれて逃亡を阻止されてしまうと、口の中で転がしていた言葉を言えと顎を押さえつけられて口を開けられてしまう。
 「……飽きる事は…ない…」
 「そっか」
 「……うん」
 「────オーヴェっ!」
 ウーヴェがさすがに視線を重ねられずにそっぽを向いたまま小さく頷いた直後、リオンが勢いよく起き上がったかと思うと、再度ウーヴェの身体をベッドに押し倒してその上に腹這いになる。
 「!!」
 「な、教えろよ、オーヴェ」
 「な…んだ…?」
 俺の事を信頼しているかと少し赤くなった目元にキスをした後囁いたリオンは、背中に腕が回されたことに気付いてにやりと笑みを浮かべる。
 「じゃあさ…さっきのボールじゃないけど、他のものは使っても良いよな…?」
 「…っ!!」
 首筋に顔を埋めながら問いの形で命令されてしまい、息を飲んだウーヴェのセーターがいつの間にかたくし上げられていて、もぞもぞと身を捩る事で抵抗するが、逆にその動きに合わせてあっという間に脱がされてしまい、アンダーシャツの代わりに着ていたタンクトップも一緒に脱がされてしまう。
 「リオン…っ!!」
 こんなに陽の高い内からはさすがに嫌だと、後でしたいことがあるんだと抵抗を示してみるが、首筋を舐められ耳朶を口に含まれて良いだろうと囁かれれば全身から力が抜けそうになり、再度綿パンを脱がされたその手を下着の中に差し入れられてきつく目を閉じる。
 「新しいジェルを試そうぜ、オーヴェ」
 「…っ…好きに、しろ…っ!」
こうなってしまえば逆らえば逆らうほど今のリオンの嗜虐性を煽ってしまう事に気付いたウーヴェが諦め混じりに呟くと、何を思ったのかリオンが顔を上げて真正面からウーヴェを見下ろす。
 「ウーヴェ」
 「どうした…?」
 「俺が怖いか…?」
 もしも怖いというのならばこのまま手を引くことも出来るとひっそりと囁いたリオンにウーヴェが軽く息を飲んで目を閉じた後、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
 視界に入り込む男の顔とその顔を縁取るように己の顔に流れてくるくすんだ柔らかな金髪にそっと手を宛がい、ロイヤルブルーの双眸に口づけるように頭を持ち上げると、そのまま腕を首筋に回して抱き寄せる。
 「リーオ」
 何もお前が怖い訳じゃない、このまま受け入れた後どんな風に自分が変わるのかが少し不安なだけだと己の中にある不安を口にしたウーヴェは、宥めるように背中を撫でられて吐息を零す。
 「大丈夫だって。────どんな風になってもお前はお前だからさ」
 だから俺に委ねてくれと頬にキスをしたリオンがウーヴェの身体をベッドに沈ませると、微かに震える吐息を零したウーヴェが信頼の証であるように目を閉じる。
 「オーヴェ、愛してる」
 「……ああ」
 その言葉で全てを許してしまう己をも許したウーヴェは、その後リオンの手で翻弄され、いつも以上に高い声を挙げ続けてリオンの顔を歓喜に染めてしまうのだった。

 

 ブランケンハイム夫人が二週間後の診察に訪れたが、いつもならば一人だが今日は夫と共にやってきた事を受付のオルガに告げてそれがウーヴェにも伝わった時、一体どんな顔で夫婦に会えばいいのかが分からないと激しく悩むが、仕方がないと腹を括って二人を診察室に迎え入れる。
 「こんにちは、先生」
 「こんにちは。今日も随分と顔色が良いようですね」
 己の患者の顔色が良くなっていく様を見るのはやはり嬉しいもので、一人掛けのソファに女王然とした姿で腰掛けた夫人の横では、大きな身体の男性が診察室をぐるりと見回すように首を巡らせていた。
 「どうぞこちらの椅子をお使い下さい」
 「あ、ああ、ありがとう」
 見かねたウーヴェが窓際のチェアをソファの横に置くと、遠慮がちに彼女の夫が腰を下ろす。
 「薬を減らしましたが、調子はどうですか?」
 顔色を見ていれば問題はないはずだと思いながらもやはり心配だった為に問いかけると、すっかりと気分も良くなったと夫人が頬に手を宛がうが、一方の手は隣で足を組んで腰掛ける夫の膝にそっと乗せられていて、その様子から夫人がウーヴェの言葉に従って信頼関係をより深めている事にも気付く。
 「今日はこちらには車で来られたのですか?」
 「ええ。夫に運転して貰いました」
 「そうですか」
 いつもならば家の者が運転する車に乗ってくるが、今日は夫婦二人で来た事を教えられ、薬はもう必要ないようですねと眼鏡の下で碧の目を細める。
 「え?」
 「今日は本当に顔色も良いようです。……ご主人と一緒にここまで来ることが出来たのです、もう薬は必要ないでしょう」
 「そう…ですわね」
 少し考え込むような顔の夫人に笑顔で断言し、後はもっとお二人がお互いを支えられるようになって下さいと告げると、二対の瞳がウーヴェに向けられる。
 「お互いを支えるのですか?」
 「そうです」
 あなた方が結婚した理由のような束縛するだけの関係ではなく、嬉しい時も悲しい時も傍にいてお互いがお互いを支えるのだと告げ、俯くブランケンハイム夫人の名を呼んで彼女の夫の名も呼んだウーヴェは、傍にいて手を差し伸べたりその手を取るだけでも支える事になるし、また支えられるものですと穏やかに告げると、夫婦がお互いの顔を見合わせる。
 「たったそれだけで…?」
 「相手の目を見てその手を取る。それだけの事でも支えになるのです」
 手を繋ぐ事でお互いの生身の温もりが伝わり、その事が手を離したときにより実感できるようになると、あの午後、閉ざされた視界に覚えた恐怖を和らげるように手を握られていた事から感じた思いを伝えたウーヴェに二人が軽く驚いたようだったが、程なくして納得したのかお互いに小さく頷きあう。
 「この調子では診察ももう少し間を開けても大丈夫でしょう」
 「……良かった」
 その時初めて彼女の夫が安堵の溜息を零し、実は密かに心配していた事をそれで伝えてしまうと彼女もそんな夫の顔に心が動かされたのか、夫の膝に置いていた手を夫の手に重ねる。
 「ここに来る回数が減る事は本当に良い事です」
 今まで後ろや下ばかりを見ていた心が上を向き、光の存在を思い出して前を向く姿を見ることは本当に嬉しいことだと己のことのように目を細めたウーヴェに、二人が揃って頭を下げる。
 「ありがとうございます、先生」
 「夫人によく頑張ったと言ってあげて下さい。彼女は本当に良く頑張りました」
 私はその手助けをしたまでに過ぎないと苦笑し、手を組んでその手に顎を乗せたウーヴェは、目の前で夫婦の絆をまた一つ深めたような表情に安堵の溜息を零す。
 「…これも新しい趣味のお陰ですわ」
 彼女が頬を染めながら囁いた言葉にウーヴェが週末の午後の出来事を思い出してしまい、思わずびくんと身を竦めてしまう。
 「先生?」
 「…何か他にも探されてはいかがですか?芸術鑑賞でも身体を動かす事でも構いません」
 夫婦間での秘め事にしかならない趣味ではなく、堂々と公表できる趣味を探すべきだと内心の焦りを何とか隠しながら提案したウーヴェの前、夫婦が同じ角度で首を傾げる。
 「でも…」
 「でも?」
 「……この人が…本当に可愛くて仕方がないんですの」
 まるで少女のように頬を染めて隣の夫へと身を寄せる彼女だったが、夫は夫でそんな妻が可愛いと思っているのか、大きな腕を伸ばして彼女の折れそうな細い肩にしっかりと回し、椅子とソファという二人を阻むものも意に介さずに抱き寄せる。
 「私も、最近は妻が可愛くて仕方がないんですよ」
 夫婦は似てくると聞くが本当だったんだなと頭の片隅が現実逃避のように冷静に思案するが、これからはもっと他にも二人で楽しめそうな事を探すつもりですと異口同音に返され、それがどうかベッドの中以外で行われる楽しみであることを激しく願いつつ、良いことですと表面上は笑みを浮かべて小さく頷く。
 「ありがとうございました、先生」
 「いいえ。次回は半年後にしましょう。……受付のフラウ・オルガにこちらをお渡し下さい」
 カルテに次回の診察予定をさらりと書き込み、薬は不要とも記すと、カルテをバインダーに綴じて彼女に差し出す。
 「では、失礼いたしますわ」
 「ありがとう、先生」
 「お疲れ様でした」
 初めてここに来たときには考えられない程の顔色の良さと、夫の腕に腕を絡めて笑顔で出て行く彼女の背中を見送ったウーヴェは、ドアが静かに閉まった途端、椅子の背もたれに深くもたれ掛かって天井を仰いで嘆息する。
 あの週末の午後、結局押し切られる形でリオンが買ってきた道具の大半を使われてしまったのだが-あの4つの金属の玉だけは断固拒否をした-、その事を思い出して身体が自然と震えるが、ひっきりなしに悲鳴とも嬌声とも付かない声を挙げていた己の姿を脳裏に描き出した時、誰に見られている訳でもないのに周囲を見回して口元を手で覆い隠す。
 自分の興味はあくまでもSM行為をする人々の心理であり、自らがそれを体験する事ではなかったし、まさか己が快感を得てしまうとは思ってもみなかった。
 リオンを信じているし、また二人の間にあるものは少々のことでは壊れない信頼関係だと思っていたが、あの午後の一時を過ごした後、確かに恋人が言うようにどれほど嬌態を見せようとも結局己は己だったし、またリオンもリオンだった。
 目には見えない信頼の証をお互いに見える形で表し、どちらもそれを受けとめたと言うだけだった。
 あの時、俺に全てを任せてくれと言われ、お前を信じていると告げる代わりに目を閉じて自ら身を委ねた事も思い出して一瞬にして真っ青になったウーヴェは、ドアがノックされたことに気付いて慌てて無表情を取り繕ってどうぞと声を掛ける。
 「お疲れ様でした、ドクトル・ウーヴェ」
 「フラウ・オルガもお疲れ様」
 お互いに疲れを労った後、簡単な事務手続きの質問をオルガが行い、ウーヴェがさすがにてきぱきとそれに答えると、彼女がソファにゆったりと腰掛ける。
 「夫人は半年後で良いのね。良かったわね、ウーヴェ」
 「ああ…本当にな」
 ウーヴェの喜びが患者の完治である事をしっかりと見抜いているオルガの声にウーヴェも安堵の色を隠さないで頷き、あの夫婦の行く末が幸せであればいいと告げて目を伏せる。
 「そうなって欲しいわね」
 「ああ」
 でなければ自分があんな目に遭ったのに割に合わないと、週末の午後を思い出してくっきりと眉間に皺を刻んだウーヴェにオルガが目を瞠って何の事と首を傾げる。
 「……何でもない」
 独り言だから気にしないでくれと咳払いをし、追求するように見つめてくる彼女の目から顔を逸らすように背後の二重窓の外へと視線を飛ばす。
 「今日も良い天気だな」
 「ええ、そうね。このまま春が来て欲しいわ」
 彼が話題を切り替えたことに気付いた彼女だったが、それ以上はあえて突っ込む事もせずに話題を合わせるように頷き、今日はスコーンを焼いてきたからメイプルシロップかイチゴジャムを付けて食べましょうと笑みを浮かべる。
 「そうだな…今日はカフェオレが飲みたいな」
 「用意するから待ってて」
 いつものように笑顔で立ち上がってお茶の用意をしてくれるオルガに感謝の言葉を告げたウーヴェは、今度は椅子ごと振り返って窓の外を見つめ、晴れ渡る青空に嬉しそうに目を細めるが、その脳裏にはリオンが真摯な顔で告げた言葉が巡っていた。
 あの後、信頼関係があるからこそ出来るのだと、愛していると何度も告げられて何とかその行為を受け入れていたが、あの道具類があればいつでも好きな時に使われる恐怖に一つ身体を震わせ、いくら信頼関係があろうとも、あの時の嬌態を見せるなどプライドが許さず、リオンがどれだけ怒り狂おうが喚こうが処分しようと決めてやっと愁眉を開くのだった。

 

 そんなウーヴェの視線の先では、恋人の驚くほど澄んだ瞳を思い起こさせるような蒼穹が窓の外に広がっているのだった。


2011/02/21


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