「────っ!!」
勢い良く飛び起き、無意識の行動で喉元に手を宛がって荒い息を繰り返す。
呼吸とともに夢の残滓も吐き出そうと思っているかのように長い時間肩を揺らしていたウーヴェだが、どれだけ荒い息を繰り返そうとも夢の欠片はしつこく脳味噌にこびり付いている事に気付いて自嘲し、汗で張り付く前髪を掻き上げる。
ベッドから見える総ての窓にはブラインドを下ろしてあったが、その隙間からひんやりとした闇が滑り落ちて床の上に広がっていた。
秋本番を迎えたこの頃だが、夜になると冷え込む日が増えてきていた為、寒さと夢に震える身体を片腕で抱きしめ、ベッドの足元に掛けていた愛用のガウンを手繰り寄せる。
その時、コンフォーターの上を滑るガウンから香りがふわりと舞い上がり、意識を切り替える絶好の機会だというように脳味噌が何の匂いなのかを探り始める。
ウーヴェが愛用する香水の匂いとは全く違うが、最近何処かで感じたことのある匂いだと気付くと、手繰り寄せた深いグリーンの最高級のシルクのガウンに皺が寄ることも気にせずに一纏めにすると何であるかを脳味噌が判断を下す。
それは、つい先日恋人にプレゼントした香水の残り香だった。
付き合い出して一年が経過し、今年の初秋、二人にとって避けて通れない問題で悩み苦しんだのだが、その問題が一先ずは落ち着きを見せた後、また以前と同じように手を繋いでキスをし、これからも二人でゆっくりと歩いていこうと互いの背中を抱き合った時、落ち込んだ俺を慰めなさいとやけに真剣な顔で恋人が命令をした。
落ち込ませたことは地の底に沈むほど反省しているし、信じたいと思っていても出来なかった弱い己について言葉に出来ないほど悔やんでいるが、腰に両手を当てて自信満々に言い放たれてしまうとさすがに鼻白んでしまい、一体何をして欲しいんだと恐る恐る問い掛けた彼の前、にたりと不気味以外の表現のしようがない顔で笑う恋人がいた。
恋人曰くの慰めをその夜にさせられ、翌日の昼過ぎまで目を覚まさない深い眠りに突き落とされてしまったのだが、脳味噌が沸騰しそうな熱に浮かされながら何度も恋人の名を呼んだ時、新しい香水が欲しいと囁かれた為に買い求めたものだった。
それから数日後-つまりは昨日の夜-彼の幼馴染みが経営するレストランへと向かう道中の車内で恋人にそれを手渡したのだが、その時は素っ気ない表情で受け取っただけだった為、どんな反応を示すのかを秘かに楽しみにしていた彼にしてみれば肩すかしを食らった様な気分になってしまったのだ。
だが、その後彼の家に二人で転がり込むように向かい、お前の手で付けてと夜の色香を滲ませた貌で言われ、望み通りローズ色の香水を適度に吹き付け終えた途端にベッドに放り出されてしまったのだが、その時ベッドにあったガウンを下敷きにした覚えがあった。
その時の香りがまだ残っていたのかとガウンから顔を上げて瞬きをした彼は、プレゼントした香水を随分と気に入っていた事を思い出し、もう一度そっとガウンを丸めようとするが、それを邪魔するようにサイドテーブルに置いた携帯が軽快な映画音楽を流し出す。
「Ja」
『ハロ、オーヴェ!』
耳に伝わる声はいつもと変わらない陽気なもので、仕事を終えて帰宅したことを教えてくれた為、お疲れ様と労いながらガウンの袖に腕を通すと、ふわりと全身を残り香が包み込んでくる。
「今日も遅くまで頑張っていたのか?」
『そうなんだって。酷い話だと思わねぇか、オーヴェ』
せっかくのサッカーのゲームを見逃したと鼻を鳴らす恋人に苦笑し、ちゃんと録画してあるから今度家に来た時に見ればいいと伝えれば、ぱぁあという擬音を着けたくなるような空気が伝わってくる。
『ダンケ、オーヴェ!愛してるっ!!』
「俺を?それともサッカーを?」
『んな…っ!オーヴェに決まってるだろ!?』
どうしてそんな事を言うんだ、あんまり言うのならば何時かのように慰めさせるぞと、獰猛な獣の声で脅されて肩を竦め、冗談だと笑えば小さく吹き出した後こっちも冗談だと返される。
その他愛もない遣り取りをしている最中、背中に羽織ったガウンから微かな残り香が鼻腔を擽り、携帯を当てた耳には陽気な声が流れ込んでいた為、つい先程まで心身のどちらをも雁字搦めにしていた夢の残滓の存在を感じる事は無くなっていた。
『なぁ、オーヴェ』
「どうした?」
声に金属音が重なり、程なくして息を吐く音が聞こえてきたことから煙草に火を付けた事を察し、火事には気をつけろと苦笑混じりに告げると、勿論ですときびきびとした声が返ってくるが、ダンケと唐突に礼を言われて首を傾げる。
「どうした?」
『オーヴェがくれた香水さぁ…あれ、みんなからも評判が良いぜ』
「そうなのか?」
『うん、そう。やっぱりオーヴェが選んでくれただけはあるよな』
へへと、まるで子どもが親兄弟を自慢するような声で自慢されてしまい、瞬時に気恥ずかしさを感じてしまったウーヴェだったが、嬉しそうに笑う恋人が如実に想像出来た事に笑みを浮かべ、気に入ってくれたのならば嬉しいと告げてコンフォーターの中に潜り込む。
ガウンを羽織ったまま寝るのはあまり好きではないが、背中から全身を包む様な残り香を手放すことは出来なかった。
『あれ、どうした、オーヴェ?』
「何がだ?」
『ん?何か…今ベッドの中か?』
さすがに鋭いと内心舌を巻きつつそうだと返せば、寝ていたのなら悪かったと謝罪をされる。
「大丈夫だ」
以前ならばその一言で終わっていたが、先日の一件以来、二人の関係において変化がないようでいて確実に変化をした事を示す為に小さく息を吸ってゆっくりと吐き出した後、訝る声で名を呼ぶ恋人に小さく告げる。
「……夢を見て起きただけだ」
だからお前が謝罪をする必要は無いとも告げると沈黙が流れ、逆に恋人の名を呼んで先を促せば優しい優しい声で名を呼ばれる。
『オーヴェ』
「…………うん」
『オーヴェ、一人じゃないってもう知ってるよな?』
「…知っているぞ」
『そっか?誰かさんはすーぐ忘れちゃうみたいだしー?』
少しだけ恨みの籠もった声が愚痴を零した為、悪かったなと機嫌を損ねた声を出せば、慌てふためいた気配が伝わってきた後、悲鳴が響く。
「リオン!?」
『あちっ!!灰が落ちたっ!』
ガキじゃあるまいし何故今頃になって根性を試すようなことをしなければならないと喚き、手で灰を払い落としている音を伝えてくる恋人に呆気に取られるが、次いで吹き出してしまうと更に恨みがましい声が名を呼んでくる。
『オーヴェぇー!?』
「…今のは不可抗力だと思わないか、リオン?」
『ガッデム!』
「こら」
恋人の得意の罵詈雑言が流れ出そうとしたことに気付いて窘めると素直に謝罪があるが、火傷は大丈夫かと問い掛けた彼に大丈夫だと明るい声が返す。
『あ、そうだ。昨日オーヴェのガウンに香水吹っ掛けたんだけど、まだ匂い残ってるか?』
「吹きかけたのか?」
『そう。襟元にシュって』
自分の存在を不在の時にでも感じて欲しいからと、ウーヴェが贈った香水をウーヴェが身に纏うものに吹きかけたと教えられて絶句し、襟元を鼻先に近付けると確かに香水の残り香が最も濃い場所であることに気付く。
今日はいつもと違って風呂から上がるとすぐにパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ為、ガウンの袖に腕を通していなかったのだ。
だから気付かなかったのかと納得すると同時にガウンの襟元を胸の前に寄せ集め、薄れ行く残り香を精一杯吸い込む事で恋人の存在をより一層間近に感じられるようにしようとしてしまう。
『明日は早く帰れるかも知れないから、明日までガマンな、オーヴェ』
恋人が告げる言葉の真意をしっかりと読み取ったウーヴェは、勿論我慢ぐらい出来ると口では言い放っていたが、ガウンの襟元を握る片手はやけに力が入っていた。
『そうだよな。ガマンぐらい出来るよな?』
そんな事でへこたれるような弱い男じゃないもんなぁと笑われ、襟元を握る手から力が抜けるが、代わりに身体の奥底からじわじわと温もりと力が湧き起こってくる。
一人じゃないと教えながらもこんな事に負ける弱さは持っていないと信じてくれる恋人に力を分け与えられ、寝返りを打って目を閉じる。
閉ざされた視界の奥、先日の夜に熱に浮かされて名を呼び続けた時、それに答える声と温もりが瞬時にして思い出され、冷え切っていた身体が温もりを取り戻す。
「……ダンケ、リーオ」
お前がそうやって信じてくれるから、また俺も自分を信じることが出来ている事を密やかな声に秘めて告げると、お役に立てて光栄です、陛下と返される。
「誰が陛下だ」
『お前』
「………陛下はお前じゃないのか?」
そうだろう、暴君と笑えば誰が暴君だと口を尖らせたようだったが、程なくしてそれも解消されて心配そうな声で名を呼ばれ、大丈夫だと頷いてもう一度ウーヴェだけが呼べる名を呼ぶ。
「リーオ」
『…うん』
短い言葉に込めた思いがしっかりと互いに伝わった事に気付き、どちらからともなく一頻り笑った後、そろそろ寝るとウーヴェが声を掛ければお休みのキスが返ってくる。
「お休み、リオン」
『うん、おやすみ、オーヴェ』
また明日精一杯仕事をして、それが終われば俺たち二人の時を過ごそうと誓い合い、どちらからともなく携帯にキスをした後通話を終える。
耳にキスとお前を信じていると折に触れ伝えてくれる恋人の声を脳裏に反芻させつつ目を閉じれば、先程まで居座っていた夢はいつしか薄れてしまっていた。
20余年を掛けても出来なかったそれを僅かの期間で成し遂げた恋人に舌を巻き、やはり大切な存在であると改めて気付いたウーヴェは、その思いを抱いたまま眠りに落ちていくが、伝えられた言葉と全身を包む残り香から一人ではない事をしっかりと感じているのだった。
2010/10/11


