すっかり秋めいてきたある日のお昼過ぎ、仕事が終わったことを教えてくれる笑顔を浮かべるオルガに今日は少し肌寒いなと笑いながらアスコットタイを手直ししたウーヴェは、昼食はどうすると問われて小首を傾げる。
「リアはどうする?」
「昨日の残りをホットサンドにしたからここで食べるつもり」
木で出来た重厚な両開きのドアに休診中の札を掲げて戻ってきたオルガが肩を竦め、後は何かケイタリングでも頼もうかしらと、デスクのメニュー一覧表を差し出してくる。
「ケイタリングか…温まるものが食べたいな」
「そうね…ああ、そうだわ。最近角にお昼だけやっているスタンドが出来たの。そこにしましょうか」
ウーヴェのクリニックは旧市街にあり、観光客やら地元の買い物客やらが多数訪れる場所だった為、その人手を狙ってのレストランやカフェなどがあちらこちらにあるのだ。
そのうちの一つに買いに出掛けましょうと顔の前で指先を合わせて笑みを浮かべるオルガに苦笑し、温まるようなものがあるのかと立ち上がり、悪いが何か適当に買ってきてくれないだろうかと頼むと笑顔で引き受けてくれる。
もしあるのならメニュー表も貰ってくるわと笑顔で残し、診察室を出て行くオルガを見送ったウーヴェは、イスの背もたれに深くもたれ掛かり、本当に今日は肌寒いと苦笑したその時だった。
「オーヴェ、メシ!!」
「!?」
腹の底からの-本人曰く魂の叫び-声が響き渡ったかと思うと、診察室のドアが激しい音を立てて開き、その音に思わず飛び上がってしまう。
滅多にない驚きの表情で飛び込んできた金色の嵐を見つめたウーヴェは、咳払いを一つした後、うちはガストシュテッテでもなければカフェでもないとぼそりと呟く。
「んなの見りゃわかるって。オーヴェ、メシぃ!!」
ウーヴェの皮肉をきれいさっぱり黙殺し、本来は患者が腰掛けるソファに座り込んで音程の違う「あ」の音を連発したのは、今朝も元気に仕事に行ってくると携帯の向こうからキスと共に元気いっぱいに教えてくれたウーヴェの恋人、リオン・フーベルト・ケーニヒだった。
「だからガストシュテッテじゃないと言っているだろう?」
それに俺も今昼食を買いに行って貰っているところだと、先程の皮肉に呆れを混ぜ込んで低い声で告げると、リオンがそんなのはどうでも良いから何か食わせてくれと、今にも食って掛かりそうな勢いで顔を上げる。
「そんなに腹が空いているのか?」
「死にそう!腹と背中がくっつきそう!」
だからお願い何か食わせてと、今度は一転して情けない顔で手を組むリオンに何も言えずに漸くイスに座り直したウーヴェが呆れ混じりにと息を零す。
「朝は食べなかったのか?」
電話での声はかなり明るく、朝食を食べていないものの声ではなかったと苦笑すると、出勤途中のいつものインビスが臨時休業していた為に朝飯を食いそびれたと嘆かれて絶句する。
「それで…抜け出してきたのか?」
「ああ、うん、それは大丈夫。ちゃんとボスにも話してある」
嘆きつつもリオンが封筒を差し出し、受け取って中身を確認したウーヴェは、それが恋人が今抱えている事件に関係する資料であり、メンタルクリニックのドクターとして意見を求められている事を察すると、それを受け取ってデスクの一番上の引き出しにしまう。
「昼が終わってからで良いぜ、オーヴェ」
「分かった。……で、その間ここで食べていこうと思ったのか?」
「うん。ここなら何かあるかなーって」
「だからここはカフェでも何でもないと言っているだろう?」
自宅ならばともかく、食材をストックするための小さな冷蔵庫と小さなレンジぐらいしかないのに、一体どうすれば食べ物があると考えられる。
「えー!何も無いのかよ!?信じられねぇ!!」
ウーヴェの今度こそ呆れきった声にリオンが盛大に文句を垂れはじめ、いつもの大騒ぎにウーヴェが両手で耳を押さえると、ソファごとデスクに詰め寄ったリオンが更に盛大な文句を垂れ始める。
「今リアが近くのスタンドに買いに出掛けているから、何か買ってきて貰うか?」
「あ、さっきすれ違ったけど、そうだったのか!?今なら何でも食う!」
苦手な野菜の盛り合わせ-つまりはサラダであろうと、ウーヴェの好物のクヌーデルが山盛りのメインでも何でも食うとデスクに腕を投げ出して情けない声を出すと、腹の虫が盛大に喚きだし、深々と溜息を吐いたウーヴェはリオンの金髪をくしゃりと掻き乱しながら買い出しに出掛けているオルガに連絡を取る。
「リア?まだスタンドにいるか?」
ウーヴェがオルガにリオンが今にも死にそうだと喚いていることを苦笑混じりに伝えていくが、何を思ったのかリオンがウーヴェの手を掴んで掌にキスをした後、診察室を飛び出して行く。
「リオン?」
「オーヴェ、レンジを借りるぜ!」
開け放たれた診察室のドアからレンジを拝借と元気な声が返ってきたため、携帯の向こうで訝る彼女に悪いがリオンの為に何か買ってきてやってくれと苦笑混じりに伝えて通話を終え、診察室とは小部屋を挟んだ隣にあるキッチンスペースで何ごとかを始めた恋人の様子を見るためにデスクに手を付いて立ち上がったその時だった。
壁を挟んだキッチンスペースから奇妙な音が聞こえたかと思うと、リオンの悲鳴が響き渡ったのだ。
「んぎゃぉうっ!?」
「リオン!?」
その尋常ならざる声に目を瞠り、診察室を飛び出したウーヴェがオルガのデスクを回り込んでキッチンスペースに足を踏み入れ、目の前の光景にそのまま石像のように固まってしまう。
「ぅわ、わ、わわわっ、ちょ、オ、オーヴェっ!!」
キッチンスペースのドアノブに手を掛けたまま呆然と部屋の奥を見つめているウーヴェの前、あわあわと訳の分からない事を捲し立てながらリオンが手を振り回している。
「………お前、一体何をしたんだ…?」
恐る恐る、出来れば事実を聞きたくない、目を背けたいと願いつつもまたそれをしてはいけない事を十二分に理解しているウーヴェがぼそりと問いかけると、リオンがまるで叱られる事が分かって脅える犬のように上目遣いで見つめてくる。
「えーと…その………」
「まさかとは思うが…レンジで卵を温めたんじゃないだろうな?」
いくら何でもそんなバカなことはしないよな、リーオ。
ウーヴェがどうか違っていてくれと願いつつ問いかけた言葉に無情にもくすんだ金髪がこっくりと上下し、大きな体をそっとずらして背中で庇っていたレンジが見えるように移動する。
リオンの背後、信じられないが電子レンジが無残な姿を曝しているのを見てしまったウーヴェの肩が小刻みに揺れ、何かに気付いたリオンが上目遣いのままごめんと謝罪の言葉を口に出すが早いか、キッチンスペースに木霊する程の大声をウーヴェが張り上げる。
「バカタレ!!」
「ひーっ!!ごめ…っ!オーヴェ、ごめーん!!」
「リアが戻ってくるのをどうして待てないんだ!?」
大きな図体を小さく小さく丸めて床にしゃがみ込んだリオンの前、腰に両手を当てて仁王立ちになったウーヴェが珍しいことに大声を張り上げる。
「腹減ってたんだから仕方ねぇだろ!?」
しゃがみ込んだままの何とも情けない姿だったが、それでも仕方がないだろうとウーヴェを睨み上げたリオンは、怒っているのは自分であってお前じゃないとの言葉を拳と共に叩き付けられる。
「ぃたい痛いっ!!オーヴェ、痛えっ!!」
「もしレンジが爆発していたらどうするつもりだったんだ!?」
こんな小さなキッチンスペースでレンジが爆発でもしてみろ、間近にいたお前も無事では済まないぞと、己の言葉を想像するだけでぞっとするのか、身体を一つ震わせたウーヴェが声も震わせ、ぐりぐりとくすんだ金髪に拳を押しつける。
「オーヴェ、ごめーん!許してっ!!」
「全くお前は…っ!!」
「ウーヴェ、どうしたの!?」
頭ばかりを攻撃してこれ以上馬鹿になられては困るからと、今度はピアス穴が開いている耳朶を摘んで情け容赦なく引っ張ると、恥も外聞もない顔でリオンが謝罪を繰り返すが、その時オルガが戻ってきたようで、騒ぎを聞きつけて買ってきたものをデスクに置き、ひょっこりと顔を出して室内の惨状とウーヴェの激怒振りに呆然と目を瞠ってしまう。
「常識で考えても分かるだろう!?」
「でもこの間ベルトランがレンジでゆで卵を作ってたって!」
「あれは専用の容器を使っているから出来るんだ」
そんなものはここにはないと断言し、尚も言い訳じみたことを呟こうとするリオンを恐ろしい目で睨んだウーヴェは、背後のオルガの視線に気付いてちらりと振り返った後、一つ咳払いをして摘んでいた耳を手放す。
「痛ぇ…耳が取れちゃったらどうしてくれるんだよ」
「腕の良い医者を紹介してやる」
だから安心しろと言い放ち、憤懣やるかたない表情で踵を返してキッチンスペースを出て行くと、隣まで響くような音を立てて診察室のドアを乱暴に閉める。
その音を呆気に取られるオルガと情けない顔で見送ったリオンが聞いていたが、しんと静まりかえると同時にリオンがその場にしゃがみ込んで頭を抱える。
「ちょっとリオン、何があったの?」
室内の惨状から何となく察していたオルガだが、聞き取りにくい低い声で告げられた事実を知るとただ呆気に取られたように口を開いてしまう。
「………オーヴェが怒ってる…」
「誰でも怒るわよ。それよりもあなたは怪我をしていないの?爆発した卵が飛び散ったりしなかったの?」
オルガの優しい問い掛けに無言で頷いたリオンは、空腹も忘れてキッチンスペースを肩を落として出て行き、オルガもまた買い求めてきた昼食を三人で食べようと声を掛ける事が出来ず、何とも気まずい午後の診察時間を迎えてしまうのだった。
今日も今日とて忙しい筈のゲートルートだったが、本当に珍しい事に今夜は予約でテーブルが埋まることもなく、また予約以外の客が来ることも疎らで、偶然やって来た初めての客や常連客なども驚くほどだった。
だが最も驚いていたのは従業員一同で、これは一体どうしたことだとオーナーを筆頭に顔を見合わせながらも、もしかすると少し休憩すればどうだとの神様の思し召しではないかと都合の良いように笑いあっていた。
普段ならばまだまだ店を開けている時間だったが、今日はさすがに客の入りが見込めないと判断をしたベルトランは、チーフと相談の上早仕舞いをしてしまおうと従業員一同に告げたその直後だった。
客がやってくるドアではなく、仕入れ業者や従業員が出入りする厨房に繋がっているドアが外れる勢いで開いたかと思うと、頭髪の白さを顔中に広げた様な青年が無言で入ってきたのだ。
「あれ、ウーヴェさん?珍しいですね、ど……!?」
ウーヴェの突然の来店は珍しい事ではなかったが、挨拶も何も無くいきなりドアを開け放ち、足音荒く厨房を突き進んできた事に声を掛けたチーフが驚きのあまり目を瞠り、目の前を通り過ぎる端正な横顔をただ見送ることしか出来なかった。
「お、どうした、ウー…!?」
チーフの様子がおかしいことに気付いたベルトランが、シンクの前からひょっこりと顔を出して幼馴染みを発見し、少しふっくらとしている顔に笑みを浮かべたが、ウーヴェと名を呼ぶよりも早くに胸倉を掴まれてしまって目を白黒させる。
「お前がレンジでゆで卵など作るから大変なことになっただろうが!」
「はぁ!?」
立て板に水の如く捲し立てられたベルトランは、一体何のことだとにかく落ち着けと幼馴染みの肩に手を載せるが、じろりと睨まれてそっと両手を挙げる。
「少しは落ち着け、ウーヴェ。一体どうした」
その声にさすがに我に返ったらしいウーヴェがコホンと咳払いをし、そっと背後から差し出されたコップを受け取って水を一気に飲み干すと、拳で唇の端を流れ落ちかけた水をぬぐい取る。
「お前、あいつの前でレンジでゆで卵を作らなかったか?」
「は?あいつって…ああ、キングか?そう…だな…ああ、一度作ったか…!?」
そう言えば一度腹が減ったと騒ぐリオンを黙らせる為にレンジで手早くゆで卵を作り、ゆで卵とトマトとチーズのホットサンドを作ってやったと笑ったベルトランだが、過去の己は一体どれ程悪い事をしたのだろうかと訝るほど険しい顔でウーヴェに睨まれて口を閉ざす。
「だから一体どうしたってんだ?いきなりやって来てそうカリカリされても意味が分からんぞ、ウーヴェ」
頭から湯気を上げそうな程怒り狂っている幼馴染みは珍しいと思いつつも、キングと呼んでいるこいつの恋人は一体何をやらかしたと内心激しく突っ込んだベルトランは、とにかくいつものテーブルに座れ、俺が話を聞くと再度肩に手をかけるが、今度は睨まれても何処吹く風といった顔で肩に腕を回し、逃げられない強さでそのままカウンターにくっつけてあるテーブルに連行し、向かい合わせに腰掛ける。
「オーナー、店じまいしますね」
「おぅ、頼むわ、チーフ。チーフ以外は今日は上がってくれて良いぜ。今日もありがとうよ。お前らがいてくれるから俺は好きな料理を好きに作れるんだ。明日も頼むな」
ベルトランが心底思っている感謝の言葉をいつものように告げると、従業員一同満面の笑みで大きく頷き、お疲れ様でしたと厨房から出て行く。
「俺、レジチェックしてます」
「頼む。…さぁ、訳を話せ、ウーヴェ」
ベルトランが背後の棚からアップルサイダーを二本とグラスを一つ出すと、ウーヴェの手がボトルとグラスを引ったくってなみなみと注いだ後、先程の水のように一気にそれを飲む。
呆れつつも自分の口から語らせるしかないと腹を括っているベルトランも同じようにボトルを開けると、グラスに注がずにそのまま口を付けて深々と溜息を吐いたウーヴェを片目を閉じて見つめる。
「クリニックのレンジを爆発させたぞ」
「は!?」
「お前がレンジでゆで卵を作ったと言って、同じ事をしたらしい」
「ちょ、ちょっと待てよ、オイ。まさかとは思うが…」
「……冷蔵庫から取り出した卵をそのままレンジに入れたようだ」
「オーゴット!!」
聞かされた恐るべき事実にベルトランが天井を仰ぎながら額をぺちりと叩き、怪我はなかったのかと問い掛ける。
「ああ。奇跡的に無傷だったしレンジが変形したぐらいで済んだ」
だがこれはあくまでも運が良かった奇跡的な事であって、酷い場合にはレンジが文字通り吹っ飛ぶ程の事態になっていたかも知れなかった。
大学の頃に何かの文献でその映像を見たウーヴェは、レンジで卵を温めた結果がどのようなものになるのかを十分理解していた為、昼のリオンの行動に呆れよりも怒りとそれを遙かに上回る、無傷であった事への安堵感からつい怒鳴りつけてしまったのだ。
苛立つ気持ちを抑えられずにグラスにアップルサイダーを注いで同じように飲み干し、もう一度深く溜息を吐いたウーヴェは、昼の光景を脳裏に描いて頭を振る。
「はぁ…それで俺がゆで卵を作ったから、か」
「……お前が作らなければあいつも真似をしなかっただろう?」
ベルトランが呆気に取られたように呟けば、恨みがましい声でウーヴェが返すが、更に呆れたような声でベルトランがあのなぁと反論をする。
「お前、甘いのはまだ許せるが過保護になるのもいい加減にしろよ?」
「……別になっていない」
「なってるだろうが。確かに俺はレンジで作ったが、それを見て実行したのはあいつだ。あいつ自身に責任がある。ガキじゃないんだ。そうだろう?違うか?」
お前のその意見はナイフで人を殺すことが出来るからナイフなど危険だ、そんなものは使うなと言うのと同じだと冷静に反論され、さすがに黙り込んだウーヴェにベルトランが尚も口を開く。
「心配なのも分かるけどな。まあ怪我をしなかったから良かったじゃねぇか」
「そう言う問題か?」
「ああ。お前が一番心配したのはキングが怪我をすることだ、そうだろう?」
「……………」
さすがに物心付く前から付き合いのあるベルトランにはウーヴェの心の動きは手に取るように理解出来るのか、そのものずばりを指摘されて口を閉ざすと、グラスの縁を指先でなぞる。
「まったく…!本当にお前はキングに甘いんだからなぁ。まさかとは思うが、心配しすぎてキングのことを怒鳴りつけたんじゃないだろうな?」
「……………久しぶりに大声を出したから疲れた」
日頃から冷静で穏やかだと定評のあるウーヴェが大声を張り上げる事など滅多になく、その珍しい現象を今まで何度も見てきた-と言うよりは我が身で経験してきたベルトランがさぞかしキングも驚いただろうと盛大に驚いて肩を竦める。
「お前の癇癪玉は厄介だからなぁ」
「誰が癇癪持ちだ、ぽよっ腹」
「だから誰がぽよっ腹だって言うんだ!いい加減やめろよ、ウーヴェ」
「なら少しはダイエットをしろ」
さすがに幼馴染みには遠慮も容赦もないのか、ウーヴェがズケズケと周囲が言いにくい事を言い放ち、ベルトランが喉の奥で呻き声を上げる。
「お前ね、俺に八つ当たりするのやめろよ」
「お前以外の人に八つ当たりをすれば迷惑だろうが」
「オーゴット!何て理屈だよ!」
「うるさい」
口では何とでも言いながらも互いの心はしっかりと読み取れる幼馴染み達は、アップルサイダーをそれぞれ飲み干すと同時に溜息を吐き、もう落ち着いたかと問いを発すると苦笑混じりに小さく頷かれる。
「美味い白が手に入ったぜ。飲めよ、ウーヴェ」
「………車だ」
「チーフに送らせる。頼んで良いか、チーフ?」
少し離れたテーブルで会計のチェックをしていたチーフに声を掛けたベルトランは、快く引き受けてくれた彼に感謝感謝と笑みを浮かべ、カウンターを回り込んでボトルとグラスを持ってくると、手早くワインを開ける。
「メシはどうだ?」
「………要らない」
「ベーコンとチーズのガレットは要らないか?」
要らないと口を開いたウーヴェだが、腹の虫が珍しく反乱を起こして文句を垂れ、それを聞き止めたベルトランが笑みを浮かべて再度カウンターを回り込み、厨房の大型冷蔵庫から材料を取り出して手早く支度をしていく。
「ほうれん草はどうだ?」
「……サーモンとほうれん草が良い。チーズは今は欲しくない」
「分かった」
実はゲートルートの知る人ぞ知る裏メニューとして存在するガレットだが、ウーヴェは一人で来たときには必ずそれを注文するし、リオンと二人で来たときにはリオンがそれを注文していた。
「そう言えばうちの親父がまたお前とチェスをしたいと言っていたなぁ」
「おじさんは元気か?」
「ああ。毎日元気に母さんとケンカしてるそうだ」
ケンカするほど仲が良いとは言うが、あの夫婦のケンカは近寄りたくねぇと笑い、ほうれん草とサーモンの上に卵を割り入れて仕上げに掛かったベルトランは、同じものを後三枚手早く焼き上げるとそれぞれを皿に入れてカウンターに置くが、残り一枚はケイタリング用の皿に載せると持ち帰りやすいように袋にそっと入れる。。
「チーフ、ガレットが出来たぜ」
「わ、嬉しいな。ありがとうございます、オーナー」
「熱いうちにチーズを載せればちょうどいい具合に溶けるな」
ベルトランのアドバイスに従うように素早くテーブルから厨房へと向かったチーフに笑みを浮かべ、幼馴染み達も各々のガレットを食べ始める。
「……おばさんの味だな」
「そーだな。やっぱりガレットはお袋の味だな」
両親がフランス出身のベルトランにとってこのガレットは母親の味を代表するものだったが、毎日泥だらけになるまで一緒に遊んでいたウーヴェにとってもある種のお袋の味となっていた。
いつ食べてもやはり懐かしい味のそれをしっかりと味わい、いつにも増して美味しかったと素直に礼を言えばこの時ばかりはベルトランも真剣な表情で頷く。
「これを持って帰って怒鳴ったことを謝るんだな」
「……………」
「ウーヴェ。素直になれよ」
「……お前に言われなくても分かってる、ぽよっ腹」
悔し紛れに吐き捨てるウーヴェをじろりと睨み、本当に素直じゃないとウーヴェの額を指先で軽く突いたベルトランは、ケイタリング用の器に入ったガレットを差し出し、次に雨降って地固めるのならジャガイモの下処理をさせるぞと片目を閉じる。
「なぁ、一つ教えろよ、ウー」
「…何だ」
帰るために立ち上がり、準備できてますと笑顔で立ち上がったチーフに愛車のキーを預けたウーヴェにベルトランが懐かしい名前で呼びかけ、先を言えと振り返ると、頬杖を付いて笑みを浮かべる。
「キングと一緒で幸せだろ?」
「……レンジを壊されてるのにか?」
「ったく、だから素直になれって言ってるだろうが、このガンコ者!」
テーブルを軽く叩きながら吐き捨てる親友に目を細め、こちらもまた懐かしい呼び方をして感謝していると伝えたウーヴェは、驚くチーフに苦笑し、手間を取らせて悪いと軽く頭を下げる。
「バート」
「何だよ、ガンコ者」
「ガレットをありがとう。あいつが喜ぶ」
「へーへー。いい加減に雨ばっか降らせるんじゃねえぞ!」
ひらひらと呆れた顔で手を振りながら親友を見送ったベルトランだが、言葉とは裏腹にウーヴェがどれ程リオンを愛しているかを知っている為、深々と溜息を吐いて後頭部で手を組んで反り返る。
「あいつが素直になればなったで恐ろしいけどなぁ…しかしまぁ…」
キングもあいつの雷を受けたのなら少しは懲りて大人しくなるだろうと笑い、自分の願いを聞き入れて仕事以外の事を引き受けてくれたチーフのために何か料理を作ってやろうと厨房に入って支度をするのだった。
愛車を駐車スペースに停め、片手を挙げて帰ろうとするチーフにいくらかの紙幣を手渡したウーヴェだが、受け取りを拒否する彼の手にそっと握らせ、もしも気になるのならタクシーの領収書をベルトランの名前にしろと片目を閉じて共犯者の顔で笑う彼を見送る。
手には幼馴染み特製のガレット。これを渡して怒鳴ったことを謝れと言われたが、いきなり怒鳴りつけた事とその後の昼食を結局ひとりきりで食べさせた事を許してくれるだろうかという弱気な思いが芽生えてきて、のろのろとした足取りでエレベーターに乗り込んで壁にもたれ掛かる。
永遠に感じるような短い時間で到着したフロアに出たウーヴェは、ただ一つ存在するドアの横に立て掛けられた古びていても手入れが行き届いている自転車と、その自転車の傍で膝を抱えて座り込む青年を発見して苦笑する。
いつかもそうだったが、どうやらケンカをしたりウーヴェを怒らせたと感じた時は、ここでこうして自分の帰りを待つことにしたらしい恋人の様子に目を細め、そっと近付けば気配に気付いた顔が上げられ、みるみるうちに蒼い目が見開かれていく。
「こんな所にいたら風邪を引くぞ?」
視線を合わせるようにしゃがみ込み、くしゃくしゃと金髪を掻き乱してやると次第に俯いてしまい、小さく鼻を啜るような音とそれに混じって小さな小さな謝罪の言葉も流れてくる。
「オーヴェ…っ、ごめ…っ」
「……もう良い。もう怒っていないから顔を上げろ」
ぽんぽんと見えている後頭部を軽く叩き、釣られるように顔を上げたリオンに苦笑したウーヴェは、その鼻先に持ち帰ったガレットを突き付ける。
「…これ?」
「ベルトランがお前にといって焼いてくれたぞ」
「ガレット?」
「ああ。食べるだろう?」
いつもならばここで元気いっぱいの食うと言う声が返ってくるのだが、それが来れば仕方がないという表情で今日の昼の出来事も許そうというウーヴェの思惑だったが、それを外すようにリオンが再度膝を抱えるように俯いて折角だけど要らないと告げる。
リオンが食べ物を拒むことなど今まで無かった為にどうしたと眉を寄せれば、だってオーヴェを怒らせた、呆れられてしまったと今にも消え入りそうな声で呟かれ、深々と溜息を吐いた後、小さく小さく丸まる恋人の横に並ぶように腰を下ろす。
「リーオ」
「………っ」
「怒鳴って悪かった。びっくりしただろう?」
自宅玄関傍の壁に背中を預けて座り込む、そんな事を未だかつて経験したことのないウーヴェだったが、隣にいるのがリオンだと言う事実はいとも容易くそれをさせてしまう。
こんな所をベルトランが見れば顎が外れるほど驚き、腹の皮が捩れるほど笑い転げることは必至だったが、例え親友に甘いと言われようが過保護と言われようが、子供のような笑顔と、そしてそれに反する大人だけが持つ狡猾さにも通じる何かを併せ持つ恋人をつい甘やかしてしまうのだ。
それはどうすることも出来ないと胸の裡で親友に毒突き、そっと手を挙げてくしゃくしゃと手触りの良い髪を撫でると、頭だけではなく身体もゆっくりと傾き、寄り掛かるように身を寄せてくる。
「せっかくのガレットなのに要らないのか?チーズを載せて食べれば美味しいぞ」
「…っ…」
心の葛藤が読みとれるような気配が伝わってきて、もう一押しだと笑みを浮かべたウーヴェは、頭を撫でていた手で肩を撫でそのまま腕へと移動させて大きな体を可能な限り抱き寄せる。
「なぁ、リオン」
「………何…」
「この間、確かお前に言ったな?」
その思わせ振りな言葉にやっとリオンの頭が上がり、何を言ったと待ち構えるように見つめられてメガネの奥からじっと蒼い目を見つめ返す。
「今に繋がるお前の事を呆れることはないと言ったな?」
「…うん…聞いた」
でもそれは俺の過去であって今じゃないと、己の中の何かを否定するように自嘲するリオンに苦笑し、昼のあの事故で俺が怒ったのはどうして彼女が戻ってくるのを待てなかったのかと言う事と、万が一怪我をすればどうするつもりだったというそれだけだと囁き、ついでとばかりに金髪にキスをする。
「…あんな事をした俺を馬鹿に…」
「する訳が無いだろう?呆れたのはそんなに腹が空いていたのかという事に対してだ」
リオンの言葉を奪い取って否定をし、更に言いつのるだろう言葉を先読みして否定したウーヴェは、もぞもぞと大きな体が動いた後腕が伸ばされてしがみつかれたことに笑みを浮かべ、広い背中を抱いてぽんと叩く。
「俺を信じてくれ、リーオ」
お前を決して嘲ったりはしないと静かに、だがきっぱりと告げればしがみついた頭がこっくりと上下し、ごめんと胸が痛くなるような声で謝罪をされてしまう。
「もう良いと言っただろう?」
いつまでも謝り続けるのならばこのガレットは俺が食べる事にすると意地の悪い声を挙げれば、がばっと勢いよく頭が上がって涙を流す勢いでダメだと叫ばれる。
「じゃあ中に入ろう。ここで座っていると尻が痛い」
「うん─────オーヴェ」
「どうした?」
「ご……ダンケ」
ごめんと言いかけた口を一度閉ざした後、笑みを浮かべてダンケと笑うリオンに同じように笑みを浮かべて立ち上がったウーヴェは、早くそれを食べたいと背後から無言で強請ってくる恋人に内心苦笑する。
「もう今日のような事はするなよ?」
気をつけると神妙な顔で頷かれて仰々しく頷いて長い廊下を歩くと、背後から勢いよく抱きつかれて前のめりになる。
「こら!」
「オーヴェ、腹減った!!」
「分かったからもう少しだけ待て」
「待てねぇ!」
背後からしがみついて急かすリオンをじろりと睨みながらも、自然とキッチンへと向かう足が速くなり、テーブルに荷物を置くが早いかリオンがイスに座り込んで食べる用意を始めてしまう。
やれやれと溜息を吐いて支度をし、幼馴染みのアドバイスに従うようにスライスしたチーズをガレットに載せると程良く溶け出し、リオンの前にそれを差し出した瞬間、恐ろしいほどはっきりとした腹の虫の文句が響き渡る。
「どうぞ召し上がれ」
「ダンケ!」
ウーヴェの声に艶やかな明るい声が重なり、目の前の絶品ガレットがあっという間にリオンの腹に納まっていく。
その様を呆気に取られながらも、やっと戻ってきた恋人の日常の様子だと気付いたウーヴェが頬杖を突き、満足そうに溜息を吐くリオンの髪を撫でた後、新しいレンジを買わなければならないと苦笑すると、自分が壊したのだから弁償すると言い出すリオンに目を細め、気にするなと言いたかったがさすがにそこまで甘やかせる訳にはいかない事に気付いて頷くだけにする。
「ダチョウの卵をレンジで温めたらどうなるんだろ?」
レンジがぶっ壊れるのかなと、喉元を通り過ぎたものの熱さを忘れたような顔で笑う恋人にこればかりは呆れを隠さずに溜息を吐く。
「あ、そんな顔しなくても良いだろ?」
「お前は懲りると言うことを知らないのか?」
「えー、気になるだろ?」
「ダチョウの卵をレンジで温めてみろ、あんな小さなキッチンごと吹っ飛ぶぞ」
「げー」
バカタレとくすんだ金髪を指で突き、頼むから馬鹿なことを考えないでくれと真剣に見つめれば、反省したような顔で頷かれるが、次にまた何かを思いついたのか顔が輝き始める。
「じゃあさ、目玉焼きは…」
「黄身に穴を開けなければ爆発するかもな」
「うぅ」
どうしてもレンジで卵料理を作りたいというのならば、卵を解きほぐしてからにしろと苦笑すると、テーブルに懐くように上体を折る。
恋人の面倒くさがりぶりに溜息を吐き、頼むから今言った事は実践しないでくれともう一度告げてリビングでグリューワインでも飲もうと笑いかけ、一も二もなく賛成と笑われるのだった。
翌日、いつものようにリオンを送り出して出勤したウーヴェは、昨日の昼の事件以降どう接すればいいのか分からないと困惑していただろうオルガから満面の笑みで挨拶を受け、昨日は悪かったと謝罪をする。
総てはリオンが悪いのだとオルガが小さく憤慨し、許してやってくれと幼馴染みが呆気に取られるような甘さを見せた後苦笑したウーヴェは、当分の間レンジが無くて不便かも知れないがそれも我慢して欲しいとも告げ、今日の診察の準備を始めるのだった。
ウーヴェのクリニックに新しいレンジが届けられたのは、約束通りリオンの翌月の給料が入ったその日だった。
2010/09/18


