本日最後の患者の背中を見送り、無事に一日を終えた事に安堵の溜息を吐くと、お疲れさまでしたと労いの言葉を掛けながら事務を一手に引き受けてくれているオルガがやって来る。
「フラウ・オルガもお疲れさま」
「診察中に何本か電話がありました」
「ありがとう」
電話があったと言う人物の名前を書かれたメモを受け取り、旧知の教授や博士からで明日にでももう一度電話をすると伝言されていた事も教えられ、ならばこれは明日に回そうと天井を見上げて溜息を吐く。
「お疲れですね」
「…ああ。今日はやけに疲れたな」
町医者の様な時間に追われる忙しさではないが、精神的な疲労度はかなり高い診療科目の為、椅子にゆったりと腰掛けて眉間に刻まれつつある皺を指で解きほぐす。
「…リア」
「はい?」
デスクの上の資料を一纏めにしようとしていた彼女を呼び止め、悪いが何か飲みたいと顔を見ずに頼んだウーヴェを軽く見開いた目で見つめたオルガは、嫌な顔一つせず-それどころか勤務中はほぼ見ることの出来ない笑顔を浮かべて頷き、少しだけ待っていてくれと言い残して診察室を出て行く。
仕事が終われば名前で呼び合う親しい間柄ではあるが、ウーヴェが飲み物の用意をしてくれとオルガに頼むことは滅多に無く、余程疲れているのだろうかと自問するが、程なくして彼女が二人分のお茶と見るからに美味しそうなタルトを持ってきた事に気付いて間違いなく自分は今かなり疲れているのだと自答する。
いつも午後の診察の途中に休憩の時間を取るのだが、今日はそれも取ることが出来なかった事を思い出し、自分が休憩を取れなかったと言うことは当然ながら彼女もそうだったと気付き、本当に今日は忙しかったと苦笑する。
「本当に。美味しいサクランボが手に入ったからタルトにしてみたわ」
少し小振りのタルトの上にふんだんに盛られているのは、自然の艶やかさで光るチェリーだった。
「美味しそうだな」
「今年初のタルトよ。食べて」
タルトの載った皿と紅茶を差し出され、ありがとうと受け取ったウーヴェがタルトを囓ろうとしたその時だった。
「聞いてくれよ、オーヴェ!!」
何時かのように診察室の厳めしいドアが激しい音を立てて開いたのだ。
「きゃっ!!」
「リオン?」
デスクとドアの間、いつもは患者が座るソファに腰掛けようとしていたオルガが突如背後から聞こえた物音に飛び上がり、タルトを片手に口を開いたままのウーヴェが珍しくぽかんとした顔で飛び込んできた金色の暴風に目を瞠る。
「くそー!ジルのくそったれ!!」
がるるるると唸るような声を挙げ、オルガが座るソファの背もたれに拳を叩き付けたリオンにやっと我に返ったウーヴェがこほんと咳払いをして彼女に目で合図を送るが、リオンの大きな手がオルガの細い両肩に乗せられ、立ち上がれないと見つめ返される。
「リオン、どうした?」
「聞いてくれよ!ジルが…ジルベルトのくそったれが…!!」
「話を聞くからその言葉を言うな、リオン」
さすがにこのまま黙っているとリオンの罵詈雑言がエスカレートする事に危惧を抱いたウーヴェは、そっと片手を挙げてリオンの注意を引きつけ、お前が今手を乗せているのはリアだぞと苦笑する。
「あ、悪ぃ、リア!ごめんっ!!」
「良いわよ…それよりもどうしたのよ?」
あなたが血相を変えて飛び込んでくるなんて珍しいじゃないと、押さえつけられていた事で痛みを訴える肩を交互に撫でたオルガが苦笑しながら何かに気付き、自分は席を外しましょうかとウーヴェを見るが、リオンがそれを引き留める。
「リアも聞いて欲しいっ!」
「リオン?」
リオンが拳を震わせて歯を噛み締めた為、ウーヴェとオルガがほぼ同時に彼の名を呼び、次いで顔を見合わせる。
「お前はガキだからフェロモンがないんだよなぁって言われた…っ!!」
「は!?」
拳を握って吼えるリオンの言葉にこれまた二人で素っ頓狂な声を揃って発してしまい、フェロモンがないとはどういう事だとウーヴェが苦笑混じりに問いかける。
「ジルと話をしてたんだよ」
オルガがリオンにソファを勧め、自らは窓際のチェアを引っ張って来ようとするが、それを察したリオンがぶつぶつと同僚の文句を垂れながら彼女の手から椅子を取ると、ウーヴェが座っているデスクの傍に軽々と運んで腰を下ろす。
「あなたにフェロモンがないって?一体どういう話でそうなったの?」
何となく予測は出来るがと断りながら先を促すオルガに一つ頷いたウーヴェは、言葉には気を付けてくれと願いながらどうしたと掌を向ける。
「ジルが新しい彼女と付き合い出したって話になってさ、自分に彼女がすぐに出来るのは男の色気が溢れているからだって…」
不機嫌そうに腕を組んで足も組んだリオンは納得がいかない顔で口を尖らせるが、デスクにタルトがあることに気付き、一瞬だけ不機嫌さを吹き飛ばして満面の笑みを浮かべる。
「オーヴェ、これ食っても良いか?」
「だ……」
ダメだと言いかけたが、心底何よりも期待しているといった目で見つめられてしまい、珍しくウーヴェが内心で冷や汗をだらだらと流してしまう。
かなり疲れている今甘いものが欲しいと身体は訴えているが、目の前でこんな顔をした恋人に強請られてしまえば無碍にすることも出来なかった。
珍しく葛藤しているウーヴェだが、周りにいる二人はそんな彼の様子に気付かないのか、一人は小首を傾げて見つめ、一人は恐る恐る呼びかける。
「オーヴェ?」
返事をしてくれないのなら食っちゃうぞと、陽気な声で脅しを掛けられてしまい、半分だけ残しておけと苦渋の決断を告げると、そんなのは無理だ、食うか食わないかのどちらかだと返されて絶句する。
「ほら、誰だっけ、どこかのトチ狂った王様が言ってただろ?」
生か死か、それが問題だと手を組んで厳かに言い放ったリオンだったが、お前の場合はall or nothingだろうと睨まれ、更にハムレットだと言われて明後日の方を見て舌を出す。
「そんなのはどうでも良いからさ、これ、食いたい!」
「俺の分が無くなる」
だからダメだとどちらも子供じみた事を告げて睨み合った時、控え目な咳払いの音が聞こえ、二人同時にそちらへと視線を向ければ気まずそうな表情のオルガがそっともう一切れのタルトを差し出してくれる。
「良ければ食べて」
「ダンケ、リア!!」
その申し出が余程嬉しかったのか、一人掛けのソファに座る彼女に向けて腕を伸ばしたリオンは、驚きのあまり硬直する彼女にお構いなく細い身体を抱きしめる。
「…っ!!」
「もう腹減って倒れそうだったんだけど……あれ?」
驚く彼女と少しばかりの驚愕と少しばかりの読み取れない感情を目に浮かべ、仕方がないと言いたげに溜息を吐いた彼の前、リオンが青い眼を丸くして鼻を小さく鳴らす。
「な、なに…?」
「うん……リア、すっげーイイ匂いする」
「!?」
今日は珍しく下ろされていた緩やかなウェーブを描く髪に顔を突っ込むように寄せたリオンは、鼻先に漂う仄かな香りに目を閉じ、ああ、やっぱりリアだと呟いてごく自然な態度で更に身を寄せる。
狭いソファの上で背もたれとリオンの逞しい身体に挟まれたオルガは、どうすれば良いのかが分からないと言いたげに視線を彷徨わせ、驚きに今度は目を瞠るウーヴェと視線がぶつかった瞬間、最も見られてはいけない人に見られている罪悪感にきつく目を閉じる。
敬愛する上司でもあり貴重な異性の友人でもある彼にとんでも無い悪事を働いている様な錯覚に囚われ、首筋に掛かる吐息に自然と身体が震えてしまい、更にきつく目を閉じた時、総てを理解している優しい声が制止の声を発する。
「リオン、それ以上リアを困らせるな」
「え?ああ、ごめん。マジでイイ匂いしたからさぁ…」
名残惜しそうにもう一度鼻を鳴らしたついでに彼女の耳朶をぺろりと舐めたリオンは、お詫びだと言うように頬にキスをし、肩を竦めてデスクの横の椅子に戻って足を組む。
「………っ!!」
髪に隠れている耳朶を舐められる行為などそうそう経験する事はなく、身体が震える様な感覚に囚われソファの上で二の腕を抱いていると、立ち上がったウーヴェがいつもと全く変わらない静かな足取りで背後に回り、少し低い温度の掌で優しく肩を撫でる。
身体中に無意識に張り巡らせていた緊張の糸が解れ、ふぅと大きな溜息を吐いたオルガは、羞恥と気まずさと不意のそれに鼓動が早くなった事へのウーヴェに対する罪悪感からリオンを睨み付ける。
「ごめん、リア」
「まったく、どういうつもりなんだ?」
仕事中はきりりとした表情でいかにも仕事が出来る女性だが、仕事から一歩はずれれば年相応の女性で、白い顔に朱を掃いてぷっくりとした唇を尖らせるオルガにごめんともう一度謝ったリオンは、デスクに戻りながら少しだけ険しい表情を浮かべるウーヴェの動きを視界の端に納めつつ肩を竦める。
「俺にフェロモンがないって言うからさー」
「リアが言った訳じゃないだろう?」
「うん、そうなんだけどな」
つい優しいリアでちょっとしたテストをしてしまったと、肩を竦められて謝罪されたオルガは沈黙し、彼女の代弁をしていたウーヴェもただ苦笑して肩を竦める。
「なぁ、俺にフェロモンがないってそんな事ないよな?」
「………知るか」
「知らないわよっ」
リオンが眉尻を下げて問いを発し、一人はぼそっと不機嫌極まりない声で、一人は羞恥から来る怒りで飛び上がりそうになりながら小さく叫ぶと、更にリオンの眉尻が下がる。
「えー。ジルにはあって俺にはないって悔しいだろ!?」
そもそもの発端を思い出したのか、拳を握って再び吼え始めたリオンにオルガが呆然と目を瞠り、ウーヴェはと言えば目眩を覚えた頭を支えるように手を宛って深々と溜息を吐く。
「フェロモンがない事よりも、子供みたいだと言いたいんじゃないのか?」
「ガキって事?」
「ああ」
子供だから大人の色気など持ち合わせていない、そう言いたいのだろうと断言され、リオンの頬がみるみるうちに膨らんでいく。
「そんな顔をするから子供だと言われるんだ」
横に手を伸ばしたかと思うと、くすんだ金髪をさらりと掻き上げて姿を見せた額を指先で軽く突けば、頭全体ががくんと仰け反って奇妙な呻き声が聞こえてくる。
「んが…っ!」
「確かに…子供っぽいわね」
「リアまでそんなことを言うのか!?」
二人ともヒドイっ!!
大きな図体を磨かれているデスクに突っ伏して肩を震わせながら二人ともクランプスだ悪魔だと叫ぶリオンに、どさくさ紛れに何を言うんだと睨んだウーヴェだったが、小さく鼻を鳴らしながら顔を上げたリオンの目尻に微かに涙が光っている事に気付くと何故か沈黙してしまう。
どうやらそれは顔を赤くしながら様子を見守っていたオルガも同じだったようで、前髪を手で押さえつけながらどうせ俺はガキですよーと、口を尖らせるリオンに二人とも妙な沈黙を生み出してしまう。
「でもさぁ…フェロモンがないって言われたのはショックだったなぁ」
椅子に深々と腰掛け、長い足を組んで天井を見上げたリオンの声に我に返ったように目を瞠ったウーヴェが苦笑し、お前に男としての色気がない訳じゃないだろうと手を組めば、青い目がちらりと見つめてきて鼓動が一つ跳ね上がる。
「リオン…?」
「なぁ、オーヴェ」
「何だ?」
さっきとは違って今度はデスクに肘を突いて身を乗り出すリオンに逆に軽く身を引いたウーヴェがどうしたと返せば、いつも好奇心に満ちている双眸が細められ、まるで家で二人きりの時のように見つめられて再び鼓動を跳ね上げてしまう。
急に早くなった鼓動に内心ではかなり焦りつつも表だっては顔色一つ変えずに何だともう一度問えば、冬になればすぐに乾燥する唇をリオンがゆっくりと舐めていく。
その動きから誘発されるものに気付き、椅子の肘置きをきつく握って平静さを保ったウーヴェの視界、オルガが履いている赤いパンプスの先が過ぎる。
その赤と目の前の濡れた赤が混ざり合い、頭の芯が痺れるような感覚に陥ったその瞬間、リオンが吐息だけで名を呼んでくる。
「オーヴェ」
「だから…なんだと言っているだろう?」
文字通りの色目を使ってくるリオンに釣られてしまってはダメだと己を戒める為、デスクの下で拳を握って掌に爪を立てて気を紛らわせていると、リオンの唇に見惚れそうな笑みが浮かび上がり、ふっと緊張が解れていつもの見慣れた笑みを浮かべて椅子に戻る。
「な、リア、やっぱり俺ってガキ?」
ただ一人ぽかんと様子を見守っていたオルガに話しかけたリオンは、我に返った後控え目に化粧を施した目元を赤く染め、さっきとはまた違う怒りの表情で睨まれて目を瞠る。
「リア?」
「あなた達ね……ここがどこだか忘れているようね」
今のあなたの顔とウーヴェの蕩けきったような顔は一体何かしら。
彼女が足を組んで座っているソファの下を這うような低い低い声に、さすがにウーヴェも言われた事への反論をするどころではないと気付き、謝れ、今すぐ謝るんだリオンと捲し立てる。
「え、何で俺だけが謝るんだよ?」
その気になっていたのはオーヴェもだろうと盛大に驚いた表情で叫ばれ、今度こそ覚えた羞恥を隠し通すことが出来ずに目元を赤くしてしまう。
「リオンっ!!」
恋人のとんでも無い発言-実は正鵠を射ていて反論できなかった-に口をぱくぱくさせた後、お前は何て事を言うんだと拳を握って震わせたウーヴェだったが、その拳がリオンのくすんだ金髪にめり込む直前、ゆらりと立ち上がったオルガが二人のちょうど真ん中辺りにやって来たかと思うと、俯き加減に肩を小刻みに揺らしながらここはどこかしらと問いかける。
「………オーヴェのクリニックの、診察室」
「はい、ご名答。よくできました。ここは仕事をする所よね、ウーヴェ。そこであなた達は何をしようとしていたのかしら?」
リオンに向いていた矛先が己に向いたことを知ったウーヴェは、無言で頷きながら悪かったと謝罪をするが、それはそれは恐ろしいほどきれいな笑みを浮かべた秘書に思わず椅子ごと飛び退いてしまいそうになりながらも内心の恐怖を何とか押し殺し、場所柄も弁えずに悪かったと謝罪をすると笑みを浮かべたまま頷かれ、お前も素直に謝れと恋人を助けるつもりで見つめれば、あろう事か彼女に負けず劣らずの不敵な笑みを浮かべて足を組んでいる。
「リオンっ!」
「怒ったリアもキレイだな。うん、やっぱり良い匂いする」
「訴えるわよ、セクハラ刑事!!」
ついに落ちてしまった雷にウーヴェは首を竦めるが、リオンはと言えばけろっとした顔どころか、にこにこしながら頬杖を突いて怒りに目を吊り上げる彼女を見上げている。
「マジでキレイなんだけどなー」
怒り狂っているのにここまできれいな人は見たことがないと、やけに真剣な顔で呟いた後、腰に宛っていたオルガの手を掴んで引き寄せて恭しく手の甲にキスをする。
「ごめん、調子に乗ったな」
「~~~~~っ!!」
誉めるのは構わないが時と場合を選べと内心で激しく訴えたウーヴェの前、オルガが真っ赤になって口をぱくぱくさせている。
明日が週末の休診日でよかったと安堵の溜息を吐き、週明けには彼女のお気に入りのカフェかどこかで甘いものを買ってきた方が仕事も関係も潤滑になるだろうと、さっきとはまた違う溜息を吐いて己の恋人が巻き起こした騒動の尻ぬぐいに思いを馳せながらタルトにフォークを突き刺し、今シーズン初のそれをあまり味わう事が出来ないまま食べ始めるのだった。
脳味噌が溶けて流れ出しそうな熱と快感に溺れた時が過ぎ、気怠いながらもただ互いの荒い息遣いと胸に秘められている情を感じられる至福の一時、いつものように限界まで煽られ快感の坩堝に突き落とされ、そしてその張本人に引き上げられたウーヴェは、隣でもぞもぞと身動いだ後、ベッドから抜け出していった広い背中をぼんやりと見送りながら腕立て伏せの要領で上体を支え、額に張り付く髪を掻き上げる。
バスルームのドアが程なくして開き、タオルを片手に戻ってきたリオンにどうしたと視線で問い掛けると肩を竦められて首を傾げる。
「シャワー浴びるのは面倒だろ?」
今日もまた随分と可愛い顔を拝ませて貰いましたと、濡れたタオルを片手に笑みを浮かべられてしまい、冷めたはずの熱が戻ってくる。
「…可愛い顔とか言うな」
「えー、ホント見せてやりたいほど可愛いんだってば」
「うるさいっ」
悔しさに唇を噛みしめながらシーツの上に手を這わせた時、そこにあった何かに手が触れ、その物体の固さに一つ頷いてそれを鷲掴みにすると同時、笑みを浮かべているリオン目掛けて投げつける。
「ぃてっ!!」
「ふん」
「ふんって…!暴力反対ー!訴えてやるー!」
つい先程までの、同じ男から見ても惚れ惚れするような表情と背筋が粟立ちそうな強い光を湛えた双眸で見つめられていた時を思い出し、今ぎゃいのぎゃいのと騒ぐその表情のギャップに目眩を覚えそうになる。
「誰に訴えるんだ?ん?」
「そうだな…ボスとかはどうだ?」
「警部がまともに取り合ってくれる筈が無いだろう?」
リオンが天井を見上げて呟いた言葉に即答し、そのタオルを早く貸してくれと手を出せば、にやりと笑みを深められて嫌な気配に手が止まる。
「拭いて…」
「いらないから早くそれを貸せ」
恐らく告げられるだろう言葉を先読みして早く貸せと掌を向ければ、それが気に入らないのか唇が尖り始める。
「そんな事を言うんだ?へぇ…」
「……リーオ」
何もお前に身体を拭かれるのが嫌な訳じゃないと苦笑し、手間を掛けさせたくないと告げれば不満が僅かに解消される。
「別にお前なら良いんだけどな、俺は」
「何がだ?」
「ん?後始末ぐらいしてやるし、別に手間だなんて思わねぇよ」
ぶつぶつと文句を言う辺りまだまだ納得出来ていないのだろうと気付くが、抱き合った後の熱が冷めたばかりの身体はあっという間に熱をぶり返してしまう事が多々あった。
そんなある意味危険な身体を、清める為とは言え大好きな大きな手で拭かれてしまって大人しくしていられる程ウーヴェは枯れてもいなければ子供でもなかった。
それに幾ら翌日が休みとは言え続けざまに抱き合うのはさすがに疲れると内心で苦笑し、拗ねるなと呟いてシーツの上に座れば肩を竦めたリオンがタオルを差し出してくる。
こんな事をせずともシャワーを浴びれば済む話なのだが、確かにリオンが言うとおり身体全体が気怠くて、タオルを持って来てくれた事に心底感謝していた。
それを告げようと顔を上げたウーヴェは、やけに真剣な顔で見つめられている事に気付いて首を傾げる。
「どうした?」
「…オーヴェってさ、恥ずかしがり屋なのか違うのか、時々わかんねぇ」
「は?」
タオルで身体を拭いている時の不意の質問に目を丸くし、どういう事だと先を促せば、立てた片膝に小さな音を立ててキスをされる。
「丸見えでも気にしないもんなぁ。見てるこっちが恥ずかしくなっちまう」
「……………お前もだろう?」
人のことを言う前に自分もそうだろうと、つい先程バスルームまで素っ裸で歩いていったのは誰だと目を眇めれば、元気よく手を挙げられる。
女のように裸を見られる気恥ずかしさなどはさすがに持ち合わせておらず、また少しばかりの羞恥心も抱き合ううちに吹き飛んでしまったと苦笑し、汗だの何だのがこびり付いていた腹を拭いていると、リオンの大きな手がタオルを奪い取る。
「こら」
「良いから」
「リオンっ」
「しつこいぞ、オーヴェ」
「どっちがだ!」
ベッドの上、さっきまでは荒い息を吐きながら二人上になったり下になったりしていたが、今はタオルの奪い合いでベッドの上を転げ回る。
大の男二人が転げるにはさすがに手狭なベッドの上で好きなだけ言い合いながらタオルを引っ張っていたが、ウーヴェがその馬鹿らしさに気付いて手の力を抜く。
「────好きにしろ」
「ん、了解」
苦笑混じりに呟いたウーヴェは、貴重品でも扱うような優しさで身体を拭かれ、思わずくすぐったいと声を漏らしてしまう。
「そうか?」
「こら、止めろ」
「良いだろ?────ほら」
脇腹を丁寧に何度も拭かれて笑みが零れ、足をひょいと抱えられて拭かれて息を呑んだ直後、ウーヴェが最も恐れていた事が起きる。
担がれた足に小さな音を立ててキスをされたかと思うと、無防備に晒されているものへもキスをされてしまうだけではなく、そのまま口の中に納められてしまったのだ。
「────っぁ!」
「まだイケそうか?」
「…ムリだ…っ!!」
こうなる可能性が少なからずあった為にイヤだったんだと口早に叫びながら額を押さえて早くそれを止めろと睨むが、腹の上辺りで視線がぶつかり、口に含まれたままにやりと笑われる。
「リオンっ!」
「…止めたらオーヴェが大変だぜ?」
今どんな状態か理解出来るだろうと笑われ、瞬間的に熱を上げてしまったウーヴェは、頼むから止めてくれと腕で目元を覆い隠す。
「オーヴェ?」
さっきまでの熱に浮かされた時間が間も置かずに訪れる事への恐怖と同等の歓喜が胸の裡で鬩ぎ合い、その葛藤が胸中に溢れかえった瞬間、何故だか分からないが一粒の涙として目尻から転がり落ちる。
「オーヴェ…」
「…っ!!」
零れ落ちたそれに二人同時に呆然とするが、ウーヴェが器用に上体を起こして腕で支えた前ではリオンが意味の分からない沈黙に陥ってしまう。
「リオン…?」
おそらくは生理的なものだと判断し、肩で目尻を拭ったウーヴェがリオンを呼ぶが返事はなく、どうしたとその顔を覗き込むように身を折れば、ぼそりと低い呟きが聞こえてくる。
「絶対あれだよな、分かってないよなぁ…」
自分が一体どれだけ俺を誘っているか、絶対に気付いていないだろう。
「リオン?」
何を言っていると更に問い掛けた瞬間、ウーヴェの視界が一気に変化をもたらし、気がつけば背中がシーツに埋もれていた。
「ごめんな、オーヴェ」
「な…っ!!ごめんじゃないっ!止めろリオンっ!!」
「ムリ。それにそんな風にフェロモン垂れ流しちゃダメだぜ、オーヴェ」
「誰が垂れ流しているんだ!」
「お前」
「!!」
ウーヴェにしてみればとんでも無い言葉を笑顔で告げられてしまい、挙げ句には恨みがましい目で睨まれて思わず絶句してしまう。
誰もフェロモンなど出しているつもりはないと目を白黒させながら抵抗しようと藻掻くが、背中を抱き合っている時に見せられる強い光を浮かべた青い眼に見つめられると全身から力が抜けそうになる。
その隙を逃さなかったリオンに今度は両足を掴んで肩に担がれてしまえば最早抵抗らしい抵抗も出来なくなってしまう。
「────んっ…!!」
「明日の昼飯、俺が出すから」
だからこのまま続きをさせてくれと強請られ、冗談じゃないと一声叫んだウーヴェの足をぽいと手放したリオンが伸び上がり、ターコイズに焦りと僅かの怒りと羞恥を浮かべて睨み付ければ、そんな顔を俺以外に見せるなと唇に太い笑みを浮かべてちゅっとキスをされてしまう。
「止めるつもりは…」
「ないね。だからさっきごめんと謝っただろ?」
いい加減しつこいと睨まれて睨み返しながら小さく溜息を吐いたウーヴェの口から次いで零れたのは、リオンにしてみれば聞き馴染みのない名前だった。
「あ、またそんな小難しい名前を言う」
以前ネロかヘリオ何とかかと言われたが、そんな小難しい名前を覚えられないからヘリオ何とかで良いと開き直る恋人を見上げ、真面目に勉強しなかったからだと小さく笑えば、どうやらそれが勘気に触れたらしく、尖っていた口がにやりと左右に持ち上がり、再度足を担がれて引き寄せられてしまう。
「…っ!!」
「余を怒らせるとは良い度胸だ。逆らえばどうなるか、身をもって体験するが良いっ」
自分の事を暴君と呼ぶのならばその通りにしてやろうと、肩に担いだ脹ら脛にキスをしたリオンが笑みを深め、王に逆らえば命は無いぞと脅しを掛けて唇を舐める。
「こらっ!リオン!!」
止めろ離せと藻掻いてみるが、大きな熱い手が無防備にならざるを得ない場所に伸ばされ、直後に訪れたものに息を飲み、再度腕で目元を覆い隠す。
「大人しくしてた方が良いぜ、オーヴェ」
「うるさいっ…!!」
あまりにも悔しくて叫んだウーヴェは、言葉が消えるか早いか身体中を駆け巡った痛みにすら思える快感に身体を仰け反らせる。
「ん…っァア…っ!!」
「な?だから言っただろ?」
自慢気に目を細め、言うとおりにしなさいと命じるリオンに反論したかったが、今口を開けば出てくるのは熱が籠もってしまった嬌声だと気付き、唇を噛みしめて悔しさを飲み下し、渋々その言葉に従うのだった。
この後再度訪れた灼熱の時を、振り落とされないようにリオンの広い背中に手と足をしっかりと回して何とかやり過ごすしたウーヴェは、本人の宣言通り、翌日の昼食を好物のリンゴのタルトとともに奢らせようと決めた事で僅かに溜飲を下げるのだった。
週明けの月曜日、いつもの時間に出勤したウーヴェは、これまたいつものように一足早く出勤していた己の右腕でもあるオルガの挨拶をやや引き攣った笑顔で受け止めた。
「おはようございます、ウーヴェ」
「おはよう……その、リア」
「はい?」
良く考えれば自分だけが悪い訳ではなく、色気よりも食い気を地で行く勢いで朝食をがっついていた恋人も共犯なのだが、今ここにいるのは己だけだし、またここは二人の職場なのだから自分がまず謝るしかないと腹を括り、金曜日は悪かったと謝罪をするが、暫くの間は沈黙が流れるだけだった。
「……もう怒ってないわ」
「そうか」
「ええ。次に同じ様な事があれば、あのセクハラ刑事の事をアリーセに言うわよ」
「!!」
警察に訴えた所で何ら痛みを感じないだろうから、あなた達が秘かに恐れている女性に事の詳細を報告するわよと脅されて息を呑む。
ただでなくても心配性の余り行き過ぎる言動を取る事がある姉に、職場で不可抗力とはいえその気になったなどと知られればどんな事になるのかは火を見るよりも明らかだった為、気をつけると片手を挙げて宣言し、昨日リオンが見つけてきたケーキ屋に昼の休憩を利用して買いに行こうと苦笑する。
「それにしても…リオンにフェロモンがないなんて言った人は目が節穴なのかしら?それとも同じ男だから気付かないものなの?」
素朴な疑問だと言いながら手入れの行き届いた指を唇に宛がう彼女に苦笑し、リアから見てどう思うと問い掛けながらいつものジャケットに袖を通したウーヴェが己のデスクに戻った時、朝から飲むには最高の紅茶が注がれたカップがそっと置かれてあった。
「ダンケ、リア」
「今日はハーブティにしてみたの。ちょっと声が掠れてるみたいだったから」
ウーヴェの喉の調子を考えて用意してくれたお茶にもう一度感謝の言葉を告げたウーヴェは、彼女も同じようにソファに腰を下ろして飲み始めたことに胸の奥で安堵の吐息を零す。
「信じられないわね」
こんな事をあなたに言って良いか分からないけれど、あの時ここで抱きしめられたが、彼がフリーならば間違い無く寝ていたでしょうねとさらりと言われてしまい、飲んでいたハーブティが一気に得体の知れない苦い液体に変化したような錯覚に囚われる。
「ごめんなさい。あ、でもそんなつもりは全くないわ。私もこの間からお付き合いを始めた人がいるもの」
「そうなのか?」
「ええ。だからそれは大丈夫よ」
あなたの永遠の恋人を奪ったりしないわと目を細められ、それは良かったと、彼自身が自覚している以上に感情を込めて呟いてしまい、二人の間に奇妙な沈黙が生まれてしまう。
「あの子は人目を惹き付けたり、あんな事をされてもつい許してしまう雰囲気があるのよ」
もっとも、私よりもあなたの方がもっと実感しているはずだと告げられ、内心でのみ同意をしたウーヴェは、こちらの心理状況から苦くなったり甘くなったりするハーブティを飲み干し、そっとカップを下ろす。
「ねえウーヴェ」
「何だ?」
「色々問題を起こしたりするけれど、あの子といると本当に楽しいわね」
にっこりと嫌味のない、朝から見るには極上の笑みを浮かべたオルガの言葉に顎の下で手を組んで斜め上を見たウーヴェは、子供っぽいが決して子供ではない笑みを浮かべて名を呼ぶ恋人の顔を見上げた中空に思い描き、メガネの下でそっと目を閉じる。
「────そうだな」
リアの言うとおりに色々やってくれるが、一緒にいると時間を忘れる程楽しいと告げ、胸に溢れる思いを伝えるような笑みを浮かべれば、目の前の顔が一瞬にして真っ赤になる。
「リア?」
「…何でもないわっ。そろそろ支度に掛かりましょうか」
「そうだな」
今日もウーヴェの助言を求めてやってくる患者が多数いるのだ、その準備をしようと二人同時に立ち上がり、今週もよろしくとお決まりの挨拶をすると、ほぼ同時に気持ちを切り替える。
「今日のリストはそちらに用意してあります」
「ありがとう。ああ、今日は確かオーム夫人が来る筈だが…」
「はい。夫人が来られた時は控え室におります」
「よろしく頼む」
メンタルクリニックという場所柄、顔を見られたくないと願う人がいるが、今日予約を入れている女性もその一人で、彼女がいる間は控え室と呼んでいる小部屋で仕事をしていると告げられて頷き、公私において貴重な存在である彼女の為、やはり今日は昼の休憩を利用して極上のスイーツを買おうと決めると、仕事へと意識を切り替えるのだった。


