その日、やけに浮かれた顔で愛車に跨ったリオンが、もうすっかり顔馴染みになっているマンションの警備員にゲートを開けて欲しいと笑顔で手を挙げた。
「今日は休みですか?」
「遊びに行こうって思ってるんだけど、どこか良いところないかな?」
ここの最上階に一人で暮らす恋人とデートだと内心浮かれるリオンだが、警備員には当然ながら付き合っている事は話していない為、本当に仲の良い友達だと思われていた。
いくら人と人との付き合い方が多種多様になってきているとしても、やはりまだ同性同士のカップルに対する偏見はあり、話す事で自ら不愉快な目に遭う必要もないし、またここに暮らす恋人の事を思えば自然と言葉を選び、当たり障りのない会話をするようにはなっていた。
今まで付き合ってきた彼女たちにはしたことのない配慮をするようになったが、これも成長した証だと自分を誉めてやりたくなったリオンは、警備員が天気も良いし公園でのんびりしたいと笑った為、それも捨てがたいと笑顔で返し、塗装の剥げかかってきた愛車を押してゲートを潜り、警備員に連絡を取って貰う。
程なくして重厚な大きな木のドアが開けられ、ドアを開けてくれた警備員に礼を言ってホテルのフロントのようなフロアに進んでいく。
落ち着いた照明が照らす壁はドアと同じで重厚さを感じさせ、床に敷き詰められている絨毯も毛足の長いもので、自転車を押して通るのは来る度に気が引けるリオンだったが、何しろマンションに地下駐車場はあっても駐輪スペースがない為、恋人の家にまで持って上がるしかなかった。
ホテルのフロント顔負けのフロアを通り抜けて大理石の床でいつも磨かれているエレベーターホールへと進めば、ゲスト用のドアが静かに開いて出迎えてくれる。
エレベーターは3基あり、一つはゲスト用で残りの二つが住人専用のもので、恋人と一緒ならば住人専用のそれに乗るのだが、リオンが一人で来るときはまだそちらに乗ることは出来なかった。
専用のエレベーターに乗るにはカードキーが必要なのだが、当然それを所持していない為、今日もいつものようにゲスト用に乗り込み、最上階のボタンを押したリオンは、ついつい癖でエレベーターに設置されている監視カメラを見つめ、先程の警備員が見ていると予想しながら笑顔でサムズアップを決めるのだった。
フロアに到着した事を音で教えられ、自転車を押してエレベーターを下りると、ついいつものようにきょろきょろと周囲を見回してしまう。
高級住宅街に建つ高級マンションの最上階、本来ならばそれでも少ない3部屋ほど部屋が作られる筈だったが、完成したときには一部屋だけになっていた。
その辺りの事情を少しだけ聞かされたことはあったが、二部屋分の売り上げが減ってまでも大胆な変更を行った理由など想像も付かないと苦笑した事を思い出し、フロアの中央部分にある一見すればシンプルなドアの前に立つ。
いつもそうなのだが、ブザーを押そうとするタイミングでドアが開く為、リオンがこのブザーを押したのは数えるほどだった。
今日もまたそのタイミングでドアが開き、おはようと出迎えてくれた恋人に満面の笑みを浮かべて手を上げる。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ。おはよう」
自転車を壁に立て掛け、休みの朝もしっかりと身なりを整えている恋人、ウーヴェにもう一度笑顔を見せた後、細身の身体を抱き締める。
「逢いたかった」
「昨日も逢っただろう?」
背中を抱いて思いを告げた途端、皮肉と呆れが入り混じった声が昨夜も逢っただろうと言い放ち、そんなつまらない事を言うのはこの口かと白い頬を軽く抓れば、メガネの奥のターコイズが一つの思いに染められて細められる。
自分とは違ってなかなか思いを素直に口に出来ない恋人だが、言葉ではなく態度でそれを示してくれている事をしっかりと読み取っている為、それ以上は何も言わずにキスをする。
「……ん」
「朝飯食ったか、オーヴェ?」
触れるだけのキスの後、そっと腰に手を回してくるウーヴェに問いかけ、長い廊下を二人並んでリビングへと歩いていく。
「まだだ」
「そっか。じゃあ一緒に食おう」
リオンの部屋どころかアパートのワンフロア総ての長さを合わせてもまだ余るほどの廊下からリビングとキッチンの間の短い廊下に進み、最近は使う回数が増えてきたらしいキッチンへと入ればコーヒーメーカーがコポコポと動いている音と食欲をそそる匂いが出迎えてくれる。
「ベーグルで良いか?」
「勿論!」
この間食べたイングリッシュマフィンは絶品だったが、今日のベーグルもそうだろうと期待を込めて大きく頷き、廊下を挟んだ向かい側のリビングへと駆け込んで荷物を置いて戻ってくる。
「今日は天気も良いし、どこか行かないか?」
「そうだな…どこに行く?」
美術館で少し気になる絵画展が行われていると教えられ、見てみたいかもと顔を輝かせると、意外そうに目を瞠られてしまう。
「オーヴェ?」
「…いや、随分と変わったなと思っただけだ」
「へ?」
出逢った当初はお互い余り良い印象を抱かず、その第一印象ががらりと変わったのは、ウーヴェの友人が巻き込まれた事件で再会したときだった。
その事件以降、何をどう思ったのかリオンが半ば無理矢理ウーヴェに連絡先を教えた結果、時々連絡を取り合うようになっていたのだが、その時ウーヴェが聞かされたのは絵で腹が膨れるかとの言葉だった。
良くある静物画で果物やパンが描かれているが、それを見る意味も分からなければ描く意味なんて理解できないと言い放ち、自分は芸術家には向いていないと肩を竦めたリオンを知っているだけに、まさか絵画展に行きたいと言われるとは予想もしていなかった。
そう苦笑混じりに告げられてしまったリオンは、口を尖らせて不満を訴えてみる。
「俺だって成長するってぇの」
「そのようだな」
その成長は嬉しいものだと、皮肉でも何でもない事を伝えるようにリオンの髪を撫でたた途端、尖っていた口が弧を描く。
「そんな顔をするからすぐに子供扱いされるんだ」
「んな…っ!!」
心底嬉しそうな顔に深々と溜息を吐いたウーヴェに、目と口を見開いたリオンが絶句するが、その顔があまりにもおかしかった為、堪えきれずに吹き出してしまい、更に絶句させてしまう。
「オーヴェのイジワルっ!!」
「知っていただろう?」
「この野郎っ!」
くすくす笑いながら握った手を口元に宛い、茶目っ気たっぷりに青い目を見上げれば、一声吼えたリオンがウーヴェの身体をしっかりとホールドし、首筋をぺろりと舐める。
「こらっ!」
「オーヴェも食いたいけどさ、今はベーグルを食いたい」
夜の色が滲んだ声で囁かれ、自然と身体を震えが伝ってしまいそうになるが、溜息を吐いてその震えを逃がしたウーヴェは、コーヒーも落ちたことに気付いて朝食の仕上げにかかろうと大きな広い背中をぽんと叩く。
「サーモンとチーズあるか?」
「ああ」
恋人のチーズ好きは付き合う前から知っていた為、付き合ってこの家から出勤する回数も増え始めた頃、クリニックで事務を一手に担ってくれている彼女が教えてくれた評判のチーズを取り寄せたりするようにもなっていたのだ。
だから当然買ってあると笑い、手伝えば極上の朝食を食べさせてやるとにやりと笑い、戯けた風な敬礼を返されるのだった。
天気が良い日は公園でデートなんて最高だよな。
オーストラリアで懸命に薬物からの訣別をしているだろうゼップが聞けば、幻聴を聞いたと頭を抱えてしまいそうな言葉を呟いたリオンに、珍しく同じような表情で目を細め、浮かれたような声でランチも用意したことだしとウーヴェが続ける。
二人がやって来たのは郊外にある市民の憩いの場でもある公園の一角で、ピクニックシートなど無い為、洗濯するつもりだったソファカバーをシート代わりにしていた。
ウーヴェの手作り-と言っても今朝の残りのベーグルサンドと、これまた昨夜の残りのハムやソーセージ、チーズと野菜のピクルス-ランチを、今まで使ったことがないが何故か家にあったピクニック用のバスケットに無造作に詰め込み、帰りはリオンが運転するからと言った為、お気に入りの白ワインもバスケットの中で居場所を得ていた。
公園に着いて水辺を歩きながら他愛もない話をし、人気の少なそうな、だが居心地の良さそうな斜面を見つけてソファカバーを広げたのだが、準備をするが早いか、リオンがフライドポテトをひょいと摘んで担いでいたボードに両膝を立てて座る。
「オーヴェ、乗れよ」
「…見ているだけで良い」
ウーヴェ自身は冬はスノーボードよりもスキー派だが、だがシーズンになれば毎月滑りに行く程好きでもなかった為、今までスノーボードやスケートボードなどに乗ったことはなかった。
だがリオンは今もスケートボードを持っているように、時間があればホームの傍の空き地に作ったハーフパイプもどきのもので遊んでいて、冬になれば職場の面々と一緒にボードをする為に出掛けたりもしていたのだ。
「あれ、乗ったことないか?」
「ああ」
リオンが目を丸くして問い掛けた事に苦笑し、お前を見ているだけで良いと笑みを深めれば、少しだけ何かを考え込んだ様を見せた後、何を思ったのか勢い良く立ち上がり、カバーの上ですっかりと寛いでいるウーヴェの手を取って満面の笑みを浮かべる。
「大丈夫だって」
「見ているから遊んでこい」
「つまんねぇ」
太陽を背負いながらその太陽顔負けの陽気さで誘ってくるリオンに眩しそうに目を細め、本当に見ているだけで良いと唇の両端を持ち上げれば、思いが通じたのかどうなのか、逆光の中少しだけ寂しそうな表情を浮かべられる。
「じゃあ後でな」
「ああ」
ボードに膝を立てて座ったまま斜面を滑り始めた姿に苦笑し、バスケットからワインとステンレスのカップを二つ取りだし、一つにワインを注いで遊びだしたリオンを見守る様に目を細める。
斜面をスケートボードに座ったまま何度も滑り下り、そろそろ休憩するかと斜面を登ろうとしたリオンは、何かを考え込んでいるような表情のウーヴェに気付いて声を掛けようと口を開くが、恋人が浮かべる表情が引っかかり、笑顔の裏で目まぐるしく脳味噌を働かせる。
こんな晴天の下、何を考え込んでいるのだろうか。
小走りに斜面を駆け上って勢い良くカバーの上に膝で滑り込めば、ワインが零れると少しだけ眉を寄せながらも笑みを浮かべてくれ、ああと今更ながらの思いに気付いて目を細める。
ウーヴェという男がこの街で生きている、それを知った日から数日後、ふとした切っ掛けで目にした子供のような笑み。
その笑顔を見ていたいと青天の霹靂のように思ってしまい、その後紆余曲折を経て知り合いから友達になり今のような恋人関係になれたが、その根底に存在するのはただ一つ、笑顔を見ていたいというあの時抱いた純粋な思いだけだった。
「どうした?」
「ん?何でもない。ワイン美味いか?」
ボードを脇に放り出して寝転がったリオンの問い掛けに、素っ気ないがそれでもしっかりと思いを込めて返事をするウーヴェに自然と笑みが浮かぶ。
「後でさ、晩飯何か買って帰ろうぜ」
「まだ昼も食べていないのにもう夜の話か?」
有るか無しかの風に乗って流れていく雲を見上げ、今夜はオーヴェ特製のグラタンが良いと笑えば、呆れたような声が降ってきたかと思うと額に小さな痛みが芽生える。
「って!」
「ミルクは半分で良いんだな?」
「ダンケ」
痛みに感じたのはよく冷えたステンレスのカップが額に押し当てられたからで、額の上で器用にバランスを取ってゆらゆら揺れるカップを掴み、中身が零れないように身体を起こす。
晴れ渡る青空の下で恋人と二人並んでのんびりと時を過ごす事など、今まで想像したこともなければ実践したこともなかった。
ウーヴェが感じているのと同じに、付き合い出して初めて経験する事がリオンにも多々あった。
こうした公園でのピクニックもそうだし、車で食事に出掛けた後、相手を気遣って自分はノンアルコールを飲む事もそうだった。
そして何よりも、恋人に笑顔を望む事も初めてだった。
今まで付き合ってきた彼女は両手に余るほどいたし、彼女とも呼べない短期間やその場限りの付き合いをする相手も数多くいたが、いつも傍にいて穏やかな笑顔や嬉しそうな表情、時には怒りや悲しみを見せて欲しい、その顔を見ていたいと願う相手などいなかった。
相手に笑顔だけではなく、喜怒哀楽の全てを見せてくれとの思いを抱くのは初めてだった。
「────飲まないのか?」
「ん?ああ、ぼーっとしてた」
思考を中断させるには優しい声が掛けられて我に返った素振りで苦笑し、カップを傾けながら斜面から続く遊歩道とその向こうに広がる水面を見下ろす。
この街の片隅と言うよりは場末の、いつ朽ち果ててもおかしくない教会に生後間もなくの頃捨てられ、その教会のシスターらによって育てられたが、まさか休日の午前中に恋人とピクニックに来るなどあの頃の己からすれば想像の遙か彼方だった。
絵に描いたようなデートなど今まで数えるほどもしたことがなかったと内心苦笑した時、今度もまた思考を中断させる優しい声が問い掛けてくる。
「何を考えているんだ?」
「…ちょっと暗い話」
「そうか」
「こんな風に公園でデートなんて初めてだなぁって」
カップを両手で包んでくるりと回転させた後、両膝を立てた上に顎を載せて頭を支えたリオンは、視線を頬に受けて顔を傾けて目を細める。
「そうなのか?」
「そう。…こんな風に遊んでメシを食うよりも他のことをしてた」
その内容を今ここで口にするのはかなり憚りがあるがと肩を竦めれば、白くて綺麗な手がそっと伸ばされて前髪を掻き上げて行く。
「ずっと…一人になるのが嫌だった」
だから取っ替え引っ替え彼女を作り、付き合っている時は必ずスペアとも言える存在がいたとも告白するリオンにウーヴェは無言で目を細めていたが、聞かされる言葉を止めることはなかった。
仕事をしている時もこんな表情でただ静かに話に耳を傾けているのだろうかと想像し、それが間違いではない事に気付くと、今まであまり話したことのない己の過去がするりと口から滑り出す。
「俺さ、笑わない子供だった」
「そうなのか?」
「学校に入るぐらいまでかな、殆ど笑ったことのない子供だった。写真とか見てもすげー顔してんの」
そんな写真、オーヴェには絶対に見せられませんと戯けた顔で告げると、不満を訴えるように前髪をくしゃくしゃにされてしまう。
「学校に入ってから笑うようになったのか?」
「…笑ってるとさ、みんなが勘違いするんだよ」
「勘違い?」
「そう。こいつはへらへら笑ってるだけだから弱いって」
「…………」
小学校に入学して一月が経過した頃、何とか笑顔を浮かべるようになったリオンに突っかかってきた三つ年上の子供がいたが、ぎこちなさが消えた笑顔で拳を握り、その鼻っ柱を文字通りにへし折ったのだ。
それを目撃した教師も保護者もただ唖然としか出来なかったが、孤児院で年長者から譲られた使い古した通学バッグをゼップに預けた後、痛みにのたうち回る上級生の襟首を掴んで引きずり起こし、人を見かけで判断するんじゃねぇと笑いながら唾を掛け、半狂乱になる保護者に中指を立ててゼップと学校を出たのだった。
そんな過去を知らされてしまったウーヴェだが、それでもただ目を細め、先を促すように前髪だけではなくくすんだ金髪を撫で続ける。
「それがあってからは…みんな色々手伝ってくれるようになったなぁ」
それなりに勉強も真面目にやっていたが、全てが自分の都合の良いように動いてくれたと当時を思い出して笑えば、やはりお前は暴君だったんだなとぼそりと呟かれてヘリオなんとかだっけとさらに笑ってしまう。
「カリギュラでも良いぞ?」
「また新しい名前を言う。覚えられないからヘリオなんとかで良いや」
「バカ」
ステンレスのカップを脇に置いて横臥し、斜めに端正な顔を見上げながら小さく舌を出した時、同じようにカップを置いたウーヴェが周囲を素早く見回した後、覆い被さるように身を折る。
「リーオ」
「────ん」
密やかな声で彼だけが呼べる名を呼ばれ、何を求めているのかを悟ると同時に間違えることのない優しいキスをされ、ガキだった自分の過去を知っても尚こんなにも優しく受け入れてくれるウーヴェが改めて好きだと胸の奥で呟くと、鼻の奥がツンと痛みを訴えてくる。
それを何とか誤魔化そうと腕を上げ、離れていく白っぽい髪に手を差し入れて引き寄せれば、いつもと同じように大人しく腕の中に収まってくれる。
「オーヴェ…オーヴェ」
「どうした?」
「うん……いつも言ってるけどさ」
腕の中でくぐもった声を挙げる恋人の耳に口を寄せ、いつもより思いを込めて囁けば、ちゃんとそれを受け止めて同じ思いを返してくれるように腕を撫でられる。
いい歳をした男が何を甘えていると冷淡に鼻先で笑い飛ばされそうな顔で身を寄せたとしても、彼ならば黙って認めて受け入れてくれる。
職業柄ではなくきっと人柄から黙って受け入れてくれているのだと気付き、もう一度愛してると囁いて頭を名残惜しさを隠さずに手放せば、小さく苦笑が聞こえた後、すぐ傍に同じように横臥してくる。
「リオン」
「うん?」
「そんな顔をするな」
「どんな顔してる?」
カバーの上で横臥しながら顔を寄せ、くすくすとにやりと違っていても同質の笑みを浮かべ合い、泣きそうな顔と鼻の頭に小さくキスをされる。
「うっそだぁ」
そう言えば最後に泣いたのはいつだったかとぼんやりと思い浮かべていると、子供をあやすように背中をぽんぽんと叩かれ、家にいる時と同じように顔を胸に押し当ててぐりぐりとしてみれば、これまた同じようにくすくすと笑いながらくすぐったいと返される。
「もう遊ばないのか?」
「遊ぶ遊ぶ!」
折角の晴天なのだ、遊ばないともったいないだろうといつもの顔で笑って起き上がると、放り出してあったスケートボードを片手に、片手でウーヴェの手をしっかりと握りしめる。
「オーヴェも一緒に乗ろうぜ」
「だからいいと言って…」
「はいはい」
苦笑しつつ腕を引こうとする恋人をじっと見つめ、メガネの奥の双眸が僅かに揺れた時を見逃さずに笑みを浮かべれば、仕方がないと言いたげな顔で溜息を吐かれてしまう。
「どうするんだ?」
「ん?ここに座るだけ」
ボードの後ろ半分に膝を立てて座り、空いている場所を掌で叩けば、何故こんな事をしなければならないと言い出しかねない表情で同じように膝を立てて座る。
「結構な斜面だな」
「気持ちイイぜ」
斜面に付いていた足を上げろと腿を叩いて伝えれば、細い板に何とか足を載せてくれた為、軽く反動を着けるように地面を蹴って両足を突き出して滑り出せば息を呑む気配が伝わり、ジェットコースターの疑似体験に思わず笑いが込み上げてくる。
「────っ!!」
生まれて初めてのボードの経験がこれだと言うのもおかしなものだが、斜面下の遊歩道に辿り着く寸前に踵でブレーキを掛ければ安堵の溜息が零れ落ちる。
「気持ちよかっただろ?」
「…………」
背後から覗き込むように問い掛けてみるが返事はなく、どうしたと更に身を寄せれば、白っぽい髪がふわりと揺れて肩にもたれ掛かってくる。
「意外と早くて驚いた」
「そっか?」
ほぅと溜息を吐いて空を仰ぐ顔に笑みを浮かべ、もう一度滑ろうと誘ってみれば小さいながらもああという声が返ってくるが、不意にウーヴェが立ち上がった為、リオンがバランスを崩して背後にひっくり返ってしまう。
「うわっ!!」
ぽてっとひっくり返ったリオンに少しだけ驚いたような表情になったウーヴェだが、くすりと一つ笑みを零した後、膝に手を付いて片手をリオンに向けて差し出す。
「ほら」
差し出された手を掴み、逆光の中で穏やかに笑うウーヴェに思わず泣きそうになったリオンは、少しだけ冷たいが限りなく優しい手を握って笑みを浮かべる。
今は物理的にだが、もし自分の心が傷付いて深く沈んでしまったとしても、きっとこうして手を差し伸べてくれるだろう。
それを疑わせない力強さと温もりを掌から感じ取り、ダンケともう一度呟いて身軽に立ち上がって痩躯をハグする。
「こらっ!」
さっきは黙ってキスをして抱きしめてくれた癖に、こちらが少しでも元気になったと分かった途端怖い顔をすると頭を抱えて身を屈めれば、腰に両手を宛がって調子に乗るなと睨まれる。
「オーヴェ、怖いって!」
「怖い顔をさせているのは誰だ?」
きゃーと甲高い声を挙げながらボードを小脇に抱え、斜面を駆け上がっていけば同じ速さで追い掛けられてしまう。
「ごめんごめんっ!」
「そのまま転がり落ちてしまえ」
怖ろしいことを笑顔で言い放たれてしまい、その笑顔は見たくないぜと嘯けば笑顔が好きなんだろうと畳み掛けられてしまい、口では勝てないことを悟ると同時、勝てないことが嬉しいと感じてしまう。
こんな風に負けることを認めて受け入れられるのも、心底惚れている相手だからこそだった。
ここまで人を好きになったこともなければ、自分の恋人は世界一だと誰彼構わずに自慢したくなるのも初めてだった。
遊歩道の端を歩く人を捕まえて自分の恋人は最高なんだと言い触らしたくなるが、そんな事をすれば間違い無くあの広い家の、誰も使うことのない一室でぽつんと寂しく膝を抱えなければならなくなる事に思い至って頭を一つ振ると話題を切り替える。
「オーヴェ、ほら、乗った乗った!」
「……本当に仕方のないヤツだな」
「でもそんな俺が好きなんだろ?」
さっきと同じように前に腰を下ろして足を載せる恋人の肩に顎を載せ、それでもそんな俺が好きなんだろうともう一度囁けば、ちらりとターコイズがメガネの下から振り返ってきて、頬に素早くキスをするともう一度足を上げろと促して地面を軽く蹴る。
「イヤッハァ!」
「っ!!」
さっきよりも速いスピードで斜面を下るボードの上、驚きに目を瞠るウーヴェと心底嬉しそうな顔で腰に腕を回して身体を寄せるリオンがいたが、青く晴れ渡った上空では太陽と白い雲がただ静かに二人を見守る様に見下ろしているのだった。
ぐったりとベッドに沈む恋人の背中にキスをし、いつまでも留まっていたい中からゆっくりと抜け出せば、鼻から抜けるような呼気がシーツに零れ落ちる。
肩で息を整える白い身体に覆い被さり、しっとりと汗が浮く頬にキスをすると気怠いながらも振り仰いでくれた為、思う存分塞いで吸って舐めた為に紅く色づいている唇にキスをする。
いつも胸に秘めている想いを伝えあう為のセックスをする様になったのも、漸く荒い呼気が落ち着いてきたウーヴェ相手が初めてだった。
今まではただ欲望の赴くまま、まるで獣が交尾するように彼女達を抱いていただけだったが、心の深い所までを理解して認めた上で受け入れてくれる存在であるウーヴェと出逢い、こうして身体を重ねて最奥で互いの思いを伝えあうようになってからは今までの女性関係を振り返ってぞっとしてしまう。
今にして思えば良く付き合ってくれていたと思うと同時、いつも荒んでいた心裡を突きつけられたように感じ、それが嫌で目の前の細くてもしっかりと筋肉の付いている身体に腕を回して顔を押しつける。
「どうした?」
「…何でもねぇ」
もぞもぞと腕の中で身動がれ、動くなと告げて汗の浮く素肌を舐めれば、そんな命令は聞かないと小さく告げられた後、逆に背中を抱きしめられる。
その温もりと掌の感触に目を閉じて少し力を抜いて抱きしめ続ければ、見下ろすターコイズがどんな感情からかは分からないが、小波に揺れる湖面の様に揺らいでしまう。
その揺らぎに息を呑んで鼻の頭同士を擦り合わせると、立てた膝で腰を挟まれてしっかりと抱きしめられる。
「リーオ」
夜にだけ聞く事の出来る色を滲ませた声に呼ばれ、甘える様に小さく鼻を鳴らして身を寄せる。
言葉に出す事は無かったが、それだけで深い所で何かを感じ取ってくれているのか、ゆっくりとあやすように背中を撫でられ、何度も何度も彼だけが呼べる名で呼ばれる。
「オーヴェ。もっと呼んで」
俺を呼んでくれと、今ここにいる自分だけを呼んでくれと、幼い頃から心の内側を蝕んでいた飢餓感に突き動かされて強請れば、育ての親であるマザー・カタリーナと同じ温もりと優しさを持つ手に背中だけではなく身体全体を撫でられ包まれる。
人として、また同じ男としてここまで優しくなれるのはどうしてだろうか、その疑問を口に出さずに胸に閉じ込め、望み通りに自分の名前だけを呼んでくれる恋人の腰に手を回し、ゆっくりと寝返りを打って逆に白い顔を見上げれば、細められた優しい目に見つめられる。
その瞬間、心裡に巣くっていた飢餓感が一気に消え去ったかと思うと、手足の先に向かってじわじわと暖かな何かが広がっていく。
その感覚にふるりと身体を震わせれば、小さな小さな笑みを浮かべたウーヴェが頭を囲うように手を付いて顔を覗き込んでくる。
「満足したか?」
「────っ!」
心の奥底、リオン自身もあまり意識することのない飢餓感を感じ取っていたかのような問い掛けに咄嗟に答えられずに痺れるような感覚が居座る手をで白い背中を撫で回し、馬鹿な事をと笑われるだろうが、純白の羽根が生えていた痕跡ではないのかと肩胛骨の辺りに手を宛がう。
今まで出逢ってきた人々の中、ここまでの優しさと温もりを持つ人と言えばマザー・カタリーナだが、彼女は文字通り母親代わりの存在であり良き理解者ではあっても、心も身体も繋がることの出来る相手ではなかった。
心身ともに深い場所で繋がることの出来るのは、この世でただ一人だった。
唐突に芽生えたその思いに唇を軽く噛みしめて思いを堪えれば、ガマンするなと優しくキスで諭される。
やっと手に入れた、心底待ち望んでいた相手のその言葉に目を伏せれば、瞼に暖かなキスが降ってくる。
どこまでも自分を受け入れ守ってくれる、そんな優しさと強さを感じ取り、ダンケと呟くのが精一杯で、目を伏せたまま顔を胸に軽く宛がい、感じる鼓動にじわりと歓喜が滲み出す。
さっきは羽根を探してしまったが、心の飢餓感により穴が空いたようなそこを温もりで埋め尽くしてくれたのは、しっかりと鼓動を刻んで今ここで同じように生きているウーヴェだけだった。
己が持つ言葉では言い表せない感謝の思いから額を触れ合わせて唇の両端を持ち上げれば、同じように笑みを浮かべてくれる。
ただそれが嬉しかった。
「オーヴェ」
「何だ?」
「うん────お前のような男に愛されるなんて…幸せだ」
黙っていてもこちらの気持ちを汲んでくれ、それら総てを引っくるめて受け入れてくれる、そんな強くて優しい男に愛される自分は最高に幸せだ。
心底の言葉を囁いて返事を待つが中々なく、だが焦ることも促すこともせずに背中を抱いていると、小さな小さな満足そうな震える吐息が一つ零れ落ちて消えるが、見上げた表情は相反して小難しいものだった。
「オーヴェ?」
「………人の言葉を取るな」
「事実なんだから仕方ないだろう?」
鼻を摘まれて思わず喉を詰まらせたような声を挙げ、素直じゃないなと瞼を平らにして告げた後、楽しげな笑い声に誘われて吹き出してしまう。
お互い胸の奥に秘めていた想いを身体の最奥で伝え合い、また今言葉に出して伝えられる事が嬉しくて、バカと繰り返す口を指先で軽く封じた後、素早く封印を解いてそっとキスをする。
「────ん…」
今感じた思いを、温もりを決して忘れる事が無いように願ってキスを終え、素肌のままの二人の上にコンフォーターを引きずり上げる。
「おやすみ、オーヴェ」
「ああ、お休み」
パジャマやその代わりのシャツを着ることをせずに目を閉じれば、いつもならばあまりいい顔をしないその行為すら受け入れてくれる、愛して止まない恋人の手が髪を撫でてくれた事に気付き、自然と浮かぶ笑みのまま眠りに落ちるのだった。
翌朝、恋人の家に泊まりに来た時には当たり前になった起こし方ではなく、最近なぜだか回数が増えた、レオナルドと名付けたテディベアの手で優しくない起こされ方をしてしまい、ベッドに起き上がって自分の髪と同じ体色の加害者を睨み付ける。
「おはよう、リーオ。いつもいつも早く起きろと言っているだろ?」
何度同じ事を言わせるんだと、ひょっこりとレオナルドの後ろから顔を出したウーヴェがにやりと笑い、レオナルドの右腕を高々と掲げたかと思うと、びしっとリオンの頭上に落下させる。
「ぁてっ!!」
「折角のオムレツが冷めるぞ?」
「ぃてて!起きるから止めてくれよ、オーヴェっ!!」
「俺がやってるんじゃない、レオナルドがやりたいと言っているんだ」
びしびしとクマの手を借りて攻撃をするウーヴェを涙目で睨み、この野郎と吼えてレオナルドごとベッドに押し倒す。
「こらっ!」
「うるせぇ!」
二人の間に挟まれて揉みくちゃにされたテディベアだが、邪魔だとばかりにリオンがその大きな身体を脇に投げ出した後、笑みに目を細めるウーヴェを見下ろして唇の片端を持ち上げる。
「おはよう、オーヴェ」
「ああ。おはよう。チーズオムレツが固くなるぞ?」
「ヤッハ!白ソーセージもあるか?」
「ああ」
お前の好物ばかりを用意してあると言い、前髪を掻き上げてくれる白い手を掴んで唇を寄せて軽く爪を噛めば何かを堪えるような小さな呼気が零れ落ち、それを確認した後に触れるだけのキスをする。
「今日も一日働くかー」
いつものように天職と言える刑事として働いてくると笑ってウーヴェの腕を引くと、大人しく引き起こされながらリオンが何よりも望んでいる穏やかな笑みを浮かべて小さく頷く。
「リーオ」
「うん。オーヴェも仕事頑張ってな」
その前に、腹が減っていては何も出来ないと満面の笑みを浮かべてベッドを飛び降り、放り出したレオナルドに謝罪するように抱き上げてキスをすると、クマがクマをハグしていると吹き出されてしまう。
「誰がクマだって?ん?」
「俺じゃないとだけは言えるな」
朝から憎まれ口を叩く恋人をじろりと睨むが、ハグしているテディベアが邪魔だと言い訳をし、食べられるのを待っている朝食の期待に早く応えてやろうと笑えば、それもそうだと同じ顔で返されるのだった。
昨日と同じよう、今朝も気持ちが良いほどの晴天が窓の外に広がっていた。
2010/06/06


