珍しく遅い時間、スパイダーをやっと自宅マンションの駐車場に止め、やけに重く感じる足を何とか持ち上げて車から降り立った彼は、本当に珍しく蹌踉けるようにエレベーターへ乗り込み、壁に背中を預けて天井を見上げる。
今日は比較的ゆとりのある診察ばかりだったが、フラウ・オルガと昼食を食べに行こうとしていた矢先、兄から電話が入った。
楽しみにしていた昼食の味もろくに感じられないほどの疲労感を兄の電話がもたらし、いつまで経っても克服できないのかと内心自嘲していたが、そんな時に限って昼一番の患者は彼が最も苦手とする類の女性だった。
患者に嫌悪感を丸出しにしてぶつける事など、医者としての矜持も彼の自尊心からも許せるはずが無く、己が感じている不愉快さを必死の思いで腹の底に沈めて何とかその女性の診察を終えた。
その女性の診察が終わった直後、濃いめのコーヒーを運んできてくれたオルガが驚きのあまり硬直するような表情で彼女を見つめてしまい、そうだと気付いたのは今日一日の診察が終わり、お疲れ様でしたと無表情に頭を下げられた時だった。
それを思い出せば暗澹たる思いが芽生え、明日はなんとか気分を切り替えなければ彼女に申し訳ないと反省をした時、エレベーターが自宅フロアに到着したことを教えてくれる。
何とかエレベーターを降りてドアを開けた彼は、玄関の壁に手をついて身体を支え、今ばかりはこの広い家が疎ましいとすら感じる心で寝室へとたどり着く。
コートを脱いでスーツも脱ぎ、ネクタイのノットに白い指をかけた時、ベッドに投げ出した携帯が振動で着信を告げてくる。
いつもとは比べられない鈍重な動きでそれを掴んでボタンを押そうとするが、何故かそれが出来ずに画面に浮かぶいつでも呼びたい名前を無言で見つめてしまう。
程なくして通話が切れたことを静かになった携帯が教え、ベッドに再度投げ出して脱いだものをクリーニングに出す為の袋に無造作に突っ込み、パジャマにサボサンダルという家でくつろぐ時のスタイルになった彼は、疲れている足に動けと命じてキッチンへと向かい、壁の棚からバーボンのボトルを取り出し、大ぶりのグラスに注いで一息に飲み干す。
ナイトキャップにするには強すぎるしまた量も多いと思われるが、手にしているボトルを一本空けたところで見た目の変化は起きなかった。
それ故にもう一杯飲み干した後、グラスをシンクに置いて寝室へ戻ると、放り出したままだった携帯がまた振動していることに気付く。
先ほどのようにそれを手にして画面を見下ろしていると、さっき飲んだ酒が一気に回ったような目眩を感じ、震え続ける携帯を持ったままベッドに潜り込む。
先ほどから携帯を震わせているのは、ここのところ忙しくて声を聞くことしかできないでいた恋人だった。
いつもならばその声を聞いて心を落ち着かせて眠りに落ちるのだが、何故か今はその声を聞きたいと思えなかった。
早く切ってくれと願いながらきつく目を閉じると、微かな余韻を残して携帯が震えを止める。
やっと諦めてくれた安堵感と居留守を使った罪悪感が胸の中で混ざり合い、軽く唇を噛み締めて寝返りを打つ。
一息に飲んだバーボンが眠りへと導いてくれる事を強く望みながら再度寝返りを打ち、それでもやはり無視することの出来ない携帯を顔のそばに置いてお休みと呟く。
出来るのならば夢を見ない眠りに落ちたかったが、それが出来ない事も手に取るように分かっていることだった。
昼の兄の声が過去の忌まわしい出来事を引き連れて夢の中に響き渡る。
「────っ!!」
勢いよく飛び起きて激しい呼吸を繰り返し、無意識に両手をのど元に宛がって呼吸が楽に行えることを確認する。
いつしか習慣になってしまっている事だった為、意識することなくそれを行いながら肩で息を吐き、何度も繰り返してようやく落ち着く方法を思い出した様に深呼吸をし、サイドテーブルに顔を向けて時間を確認する。
次いで携帯を引き寄せ、震える手で操作をすれば着信履歴がまだ1時間も経っていない事を示してくれる。
酒の力で眠りに落ちようとしていた己を一頻り嘲笑った後、この後の長い夜をどのように過ごそうか思案し、手触りの良いシーツに背中を預けて額の上で腕を交差させる。
彼と父や兄の間にある見えない溝は物理的なものを遮るにはある程度役に立っているが、だが声はそれをものともせずに彼の元に届けられる。
顔も見たくなければ声も聞きたくない、それほどまでに嫌悪している父と兄だが、こうして声を聞き、なにがしかの言葉を交わした夜はどんな理由からか眠る事が出来なかった。
その結果、望みもしない過去が再現されたり形を変えて夢に現れるようになるのだ。
額の上で腕を交差させたまま横臥し、いつものように早く消えてしまえと念じている時、頭の後ろで微かな振動が響く。
こんな時間に誰が電話をしてくると、いつもならば問答無用で無視を決め込むが、兄の声から逃れられるのならば間違い電話でも何でも受けてやるとの思いから再度寝返りを打ち、携帯の画面を見て目を瞠る。
今回も電話を掛けてきたのは恋人だった。
さすがに三度目にもなると無視出来ないと苦笑し、ボタンを押して耳に宛がう。
「……Ja」
横臥したままだった為、かなり声がくぐもってしまうが、それを気に掛ける余裕も無く、ただ聞こえてくる言葉を待てば、声よりも先に賑やかな背後の気配が伝わってくる。
『…オーヴェ、寝てたよな?』
ごめんと小さく謝りながら問いかけてくる恋人に目を閉じ、大丈夫だと返せば沈黙代わりの賑やかな声が聞こえてくる。
『ごめんな、うるさいだろ?』
「どこにいるんだ?」
まるで目の前で謝っている時のような顔が思い浮かんで自然と笑みが零れてしまい、市内のクラブで飲んでいたと返されて瞬きを繰り返す。
「皆と?」
『そう。事件が片付いたから、その祝い』
恋人のその声に別の陽気な声が重なり、それが厳つい顔で睨みをきかせているヒンケルのものであることに気付き、先ほどよりも自然な笑みを浮かべて目を細める。
『来ないかなって思ったんだけど、出なかったから』
今から家に帰るところだと申し訳なさそうに告げられ、気にするなと苦笑混じりに返して細めた目を完全に閉じる。
耳に流れ込む恋人の声が心地よくて、短い眠りの間に見た悪夢も薄れていきそうだった。
『オーヴェ?』
「何だ?」
『まだ起きてるよな?』
「起きているから電話に出られるんだろう?」
伺うように問われて皮肉気に唇を歪めれば、少しだけ沈黙が流れた後、また後でと言われて一方的に通話を終えられる。
自分の皮肉気な態度が気に障ったのかは分からないが、通話が切れた事を教えてくれる音を聞きながら目を瞠り、携帯のボタンを無造作に押して枕元に投げ捨てる。
一体なんだったんだと思うよりも、やはり皮肉な態度が気に障ったのだろうとの思いが頭を過ぎり、今日は本当に反省ばかりの一日だったと自嘲する。
コーヒーを差し入れてくれた彼女の驚いた双眸と、皮肉を返してしまった後に無情にも切れた通話の音が恋人の声を思い起こさせ、結果、唇を噛み締めて何度も何度も寝返りを打つ羽目になり、先ほど感じた悪夢が薄らいでいく事など錯覚だとどこか遠くで誰かが嘲笑う。
どのくらい時間が経ったのかは分からないが、嗤っているのが己であると気付き、更に自嘲しようとした時、また携帯が振動した為、画面も見ずにボタンを押す。
「Ja」
『オーヴェ、さっきはごめん』
本当に謝らなければならないのはこちらだと内心で呟くがそれを言葉に出すことは出来ず、ただ沈黙していると陽気な声が響き渡る。
『開けてくれよ、オーヴェ』
「は?」
聞こえてきた言葉の真意が分からずに起き上がった彼だが、どこを開けろと言うんだと呟きながらも恋人の言葉にいち早く身体が反応していて、足がサボサンダルへと突っ込まれ、ガウンも何も羽織らずに寝室のドアを開けて冷え切った廊下へと出ていた。
静かに廊下を進みながらもう一度言えと告げれば、玄関を開けてくれとやけに真剣な声で返されるが、その言葉が聞こえた時にはすでに玄関前に立っていて、ロックを外してドアノブを掴んだ瞬間、同じ強さでドアを押されて壁に背中をぶつけそうになり、ドアの隙間から伸ばされた腕が肘を掴んで引き寄せられてしまう。
「っ!!」
「オーヴェ」
やっと開けてくれたと朗らかに笑う恋人の煙草の臭いが染みついているコートに頬を押し当てて呆然としていると、腕が背中に回って抱きしめられる。
「リ…オン?」
「うん。こんな時間にごめんな」
自分と違って規則正しい生活を送っているのにと、白っぽい髪に口を寄せつつ謝罪をする恋人の声に一瞬喉が詰まって奇妙な声を上げてしまう。
頭を抱き寄せられる事で言い表しようのない思いが胸の奥で声を上げ、それに負けた喉が押し殺したような声を迫り上げさせるが、それを口から出さずに飲み込めば、頭にあった手が両頬に添えられてコツンと額に額が触れてくる。
「ウーヴェ」
「────っ!!」
誰もが彼を呼ぶ名だが恋人にしか出来ない優しさで呼ばれて額から伝わる温もりに息を飲めば、澄んだロイヤルブルーの双眸に見つめられ、飲み込んだはずの言葉が迫り上がってくる。
今ここで抱えている思いを吐き出すことは出来ないことだった。それをすることは、予想する最悪の結末への一歩を踏み出させる事になるのだ。
その思いが喉に蓋をして言葉を封じ込めるが、抑圧された感情が全身へと震えとなって伝播する。
「いつまでもここにいたら寒いよな」
自分はまだコートも着込んでいると苦笑し、頬にキスを残して手を離した恋人を呆然と見つめていた彼は、まるで小さな子供のように手を引かれたことに気付いて腕を引っ張ってみるが、振り返った青い目に茶目っ気たっぷりに笑われてしまい、表面上は渋々ついて行く。
少し先を歩く背中を見つめていると、先ほど飲み込んだ思いが三度溢れ出しそうになり、目を閉じて苦笑混じりに首を振る。
この秘密は自分だけが抱えて墓にまで持って行くと決めたのだ。
その誓いを破るわけにはいかなかった。
寝室の自分のために開かれたドアを潜ってベッドではなく壁際のソファに座れば、コートとジャケットを脱いだリオンが同じように隣に座ってくる。
さっきも気付いた衣類に染みこんでいる煙草の臭いとアルコールの臭いだが、それを感じる事で一人ではない事をじわじわと感じ取ると同時に身体がゆっくりと傾き、隣の広い肩に頭を預けて目を閉じる。
「オーヴェ、寝てるところを起こしたよな」
本当に悪いと謝罪する手が頭に添えられて何度も髪を撫でられ、気にするなと告げようとするが、先ほどの声が喉に張り付いているのか声となっては出てこなかった。
だが伝えたい思いは存在していて、髪を撫でる手とは逆の手を掴んで指を絡めて引き寄せる。
「どうした?」
「……何でもない」
やっと出すことの出来た言葉を言えば、そうかと頭上で吐息混じりの声が聞こえ、繋いだ手を指の腹で撫でて更に身を寄せる。
「子どもみたいだよな」
珍しく甘えてくると言いながらも声は裏腹に嬉しそうで、悪かったなと気分を害したことを告げたが、その声も意識していなかったが小さな優しいものになっていた。
「リオン」
「何だ?」
働くことを放棄したような喉だったが、どうやら恋人の名を呼ぶ時だけは働いてくれるのか、いとも容易く名を呼ぶことが出来、内心で安堵の溜息を零す。
「今日はどこで飲んでいたんだ?」
「どこだっけ…警察署近くの店で打ち上げして、後はクラブに行って踊ってた」
「踊ってきたのか?」
「うん、そう」
凭れていた肩から頭を上げてその顔を見れば、嬉しそうな楽しそうな笑みを浮かべたリオンがロイヤルブルーの双眸を細めて額にキスをする。
「楽しかったから電話したんだけどな」
「…悪かった」
「良いよ」
電話に出たとしてもこんな調子だったら心配で踊ってられないからと、一転して真剣な顔で告げられて目を閉じ、再度肩に頭を預けて寄りかかる。
「悪い、リオン」
「それは何に対してだ、オーヴェ?」
自分自身理解していなかったが口から出た謝罪に対し、リオンが間髪入れずに問いかけてきた為に自問自答をするが、返せる答えは一つだけだった。
「電話に出なかった事だ」
本当に謝らなければならないことはまだあると思う心を押し殺しながら最も分かりやすいことだけで謝罪をすれば、仕方がないなぁと意味の掴めない呟きが聞こえた直後、唇に触れるだけのキスがされる。
「いつか話してくれるって決めたもんなぁ。待つしかねぇよな」
その呟きが意味することを理解した途端、押し殺した気持ちの総てが読みとられている事に気付いて呆然と目を瞠る。
風邪を引いた夜にも告げられた言葉が脳裏を過ぎり、その時の笑顔と飲ませて貰った命の水の味を思い出すと同時に、胸の奥底でひっそりとだが確実に染み込んでいる言葉も甦る。
それを胸の奥で温めるように目を閉じると、小さな小さな吐息が頭上に弾けて肩に腕が回されて抱き寄せられる。
「────リーオ」
「うん。どうした?」
「……寒い、な」
「そーだな。早く春が来れば良いのにな」
言葉に出来ない有りっ丈の思いを込めて寒いと囁けば、春を通り越して夏の日差しすら思い出させる熱を持った腕が肩を撫でつつ文句を垂れ、同じ口で額にキスをしてくる。
「でも、冬も必要かも」
「どうして?」
早く春が来てくれればいいと言っただろうと、解けていた手を再度掴んで指を絡めて疑問を浮かべれば、絡めた指が解かれてしっかりと手を握られてしまう。
逆らわずに手を繋いで同じように握り返せば、いつもこうしていられないと笑われて顔を上げる。
「リオン?」
「いつも手を繋いでいたいけどさ、真夏にはちょっと暑いって誰かさんが言いそうだし?」
にやりと笑みを浮かべて頬を突かれてしまい、そんなことを言うかと口を尖らせれば、すぐさま機嫌を直せとキスが一つ。
「冬があるからこそ……春は嬉しいだろうし」
寒く凍てつく冬があってこそ、春の暖かさが嬉しいと同じ事を繰り返し、勢いよくソファから立ち上がったリオンは、釣られて腰を上げてしまった彼をしっかりと抱き寄せて背中を撫でる。
「朝と同じでさ、春は必ず訪れるんだぜ、ウーヴェ」
「…………」
そうだなとも、そうであって欲しいとも返せずに沈黙していると、軽い音を立てて頬にキスをされ、先程のように手を引かれて寝室を出て行く。
「リオン?」
「ちょっと材料があるかどうか分からないけど、大丈夫かな」
「?」
訳が分からないと苦笑しつつも、やはりさっきと同じように手を引かれて大人しく付いていくと、キッチンへと向かった恋人が片手で冷蔵庫を開けて何やら物色し始める。
その後ろ姿を見ていると何を探しているのかが何となく理解出来た為、白ワインは冷蔵庫にないと告げ、ストックしている棚を指し示す。
「ダンケ、オーヴェ」
取り出した白ワインとレモンを調理台に置いてミルクパンを取り出した時、やっと片手しか使えない不自由さを思い出したらしい恋人に笑顔で腰を示されて首を傾げる。
「はい、ここ」
「………っ」
自分の腰に手を回していろと言われていることに気付き、そんな恥ずかしいことが出来るかと言いかけた口を一足早く伸ばした腕が否定をする。
広い背中に額を軽く触れさせながら目を閉じれば、良くできましたと真剣な声で誉められ、羞恥からうるさいと吐き捨てれば、はいはいと子どもに言い聞かせるように言われてムッとする。
だがそこで怒りを見せれば本当に子どもだとも思い、腰に回した腕をしっかりと掴んで力を込めれば、ぐぇという気持ちの悪い声が聞こえてくる。
「食ったもの全部出しても良いのか?」
肩越しに振り返られてふふんと鼻先で笑い、吐き出したのならば掃除をしろとも告げ、腕の力を緩めて身を寄せれば、白ワインのコルクを手早く抜いてレモンもスライスしていく。
冬によく飲まれるグリューワインは本来は赤ワインを使うが、実家で作ってくれたものは白ワインを使い、スライスしたレモンが入っている事をある日リオンに教えた。
それからは身体が冷え切っている夜や風邪を引きそうだと思った時、芯から温めてくれる白ワインで作ったグリューワインを飲むようになっていた。
ミルクパンでワインを温め、スライスしたレモンをマグカップに乱雑に投げ入れたリオンに、もう少し丁寧に出来ないのかと背後から苦情を言えば、見ないでよと奇妙なしなを作られてしまって絶句する。
「………バカタレ」
「ははっ。────はい、完成」
出来上がったらしく、マグカップを片手にリオンが振り返り、漂ってきたワインの匂いに目を閉じる。
「ベッドで良いか?」
無言で頷いて手を離すと再度手を握られてしまい、これはどうあっても離すつもりはないと気付いて溜息を一つ落とすが、伝わってくる温もりが気持ちよくて今度もまた大人しく手を引かれて寝室に戻る。
さっきまで感じていた罪悪感や自己嫌悪感、そして何よりもそれらを誘発した兄の声に縛られていた心が少しだけ解放されていく気がし、繋いだ手を離せないでいたのだ。
ベッドへと導かれて大人しく従って潜り込めば、ちょうどのタイミングでベッドヘッドに枕を立てかけられ、とんと肩を押されてもたれ掛かる。
「ほら、オーヴェ」
「…ああ」
そう言えば体調を崩した時もこうして命の水を与えてくれたと、風邪を引いた時のことを再度思い出し、湯気が立つそれにゆっくりと口を付ける。
広がるワインの香りとレモンの酸味がざらついていた舌に気持ちよくて、もう一口と口を付けるとカップを奪い取られて思わず上目遣いで睨んでしまう。
「美味い?」
「ああ」
だからもっと寄越せと手を出すが、掌に大きな掌が重ねられ、グリューワインではなくキスが与えられる。
「どうした?」
「味見してみた」
「バカ」
「ははっ。でもホントに美味いな。我ながらびっくりだ」
自分で作ったが最高の出来だと胸を張って自画自賛するリオンの顔が可笑しくて、小さく吹き出してマグカップで掌を温めると同時に内臓もじわりと熱を持ってくるのを感じていると、当然のようにクローゼットにしまってある自身のパジャマに着替えたリオンがベッドにするりと潜り込んでくる。
夜寝るときに隣に人の気配があっても目を覚まさなくなったのは、付き合いだしてどれくらいが経った頃だろうか。
リオンとお互いの家を行き来するようになるまでは、こうして同じベッドで一夜を明かす存在などいなかった。
ベッドで寝るときは一人が当たり前だったが、リオンはその思いこみをいとも容易く打ち砕き、笑顔でこれからはこれが当然だと抱き締めてきたのだ。
その夜を彷彿とさせる笑みと腕の温もりが肩に触れ、マグカップをサイドテーブルに戻して温まった息を吐きだせば、過去から続く悪夢の残滓も温められてその姿を滲ませていくようだった。
「美味しかった。ありがとう」
「どういたしまして」
お役に立てて光栄ですと笑った後、きまじめな顔で寝ろと促されるが、ベッドで横になる気になれないで首を左右に振れば、小さな溜息が聞こえて隣から温もりが消え去る。
「リオン?」
「ポーカーとガイスターだったらどっちが良い?」
眠りたくないのならば夜通しでも遊べるカードかボードゲームのどちらが良いと問われて伏し目がちに首を左右に振り、まだ温もりが残っているベッドをぽんと叩く。
「我が侭だなぁ」
「……うるさい」
文句を言いながらも嬉しそうに戻ってきて同じ場所に潜り込んだ恋人にもたれ掛かり、今日の飲み会の様子はどうだったと問えば、ハチャメチャだったと返されて苦笑する。
「どうしたんだ?」
「ヴァルプルギスの夜ってさ、あんな感じなのかなって」
残念ながら踊っていたのは魔女ではなく、狼男の親戚のような色気も何もない野郎連中ばかりだったが。
肩が冷えないようにコンフォートを二人の肩に掛けて身を寄せてくるリオンに目を瞠れば、幼い頃に一度見たことのある薪に火をつけて魔女の姿をした人たちが踊っている様が脳裏に浮かび、きっとオーヴェがそこにいれば恥ずかしくて逃げ出してるとも言われて絶句する。
どんな大騒ぎをしでかしたと睨んでみるが、にやりとロイヤルブルーの双眸が細められ、冗談だった事に気付いて口をへの字に曲げてやれば、何度目になるのか分からないキスがされる。
「ボスが浮かれ騒いでただけなんだけどな」
あの厳つい顔がアルコールで赤くなって騒げば、誰も近寄ることも出来ないだろうし、警官を呼ぼうにも刑事だと叫ばれればそれも出来ないだろう。
自然な様子で手を回して抱き寄せ、そのままずるずるとベッドに寝転がったリオンにつられて横になれば、さっきまで見ていた悪夢の残滓がまた頭をもたげそうになるが、それを待っていたかのようにリオンが覗き込んでくる。
その澄んだ双眸が告げている事を感じ取り、どうするべきか逡巡した心がやっとの事で告げたのは、短い一言だけだった。
「……夢を…見たくない」
小さな子供のように怖い夢を見たくない、だから眠りたくないと覗き込んでくる目を見ずに自嘲混じりに呟くと、言葉では言い表せない優しいキスが降ってくる。
いい年をした大人のする態度ではない事は分かっているが、幼い頃に植え付けられた恐怖の種は些細な切っ掛けを待ち望んでいるのだ。
その種に水をやった兄の声が不意に鼓膜の奥で響き渡るが、それをかき消すような声が耳に直接流れ込んでくる。
「オーヴェ」
その呼び方はリオンだけに許したもので、他の誰にも出来ないものだった。
それに気付いた心が芽生えそうになった恐怖をゆっくりと押し戻していく。
ほぅと無意識に安堵の溜息を零して腕を持ち上げ、覆い被さってくる広い背中に回してしっかりと抱きしめれば、嬉しそうな吐息が首筋に降りかかる。
「くすぐったいぞ、リオン」
「え?聞こえない」
くすんだ金髪に手を差し入れてくすぐったいと苦情を言うが、聞こえないと間延びした声で返され、わざと鼻先を押しつけられて肩を竦める。
「リオンっ」
「聞こえませーん」
悪戯小僧の顔で見下ろされ、ムッと唇を尖らせて目の前の頬を軽く摘めば、ひひゃいと情けない声が上がる。
その様がおかしさと同時に何とも言えない思いも呼び覚ましてくれて、今感じた思いを表情に出せば、情けない顔が一転して真面目なものへと切り替わる。
初めて出逢い、いくつかの事件を経験していくうちに気がつけばリオンがいない事など想像も出来ないようになった頃、付き合って欲しいと告白されたが、その時にも見た、実は密かに最も惚れている表情になった恋人に小さく頷き、ゆっくりと目を閉じる。
「オーヴェ、大丈夫だ」
「……ああ」
何に対するものなのかがはっきりと理解出来、不安も疑いもあるがそれでも信じられる言葉と表情にもう一度頷いて目を開ければ、一心にこちらを見つめる優しい双眸と視線が重なる。
以前も感じたが、一人の寒さを思い出すことで耐えるのではなく、隣に眠る温もりを信じることで夜を乗り越えてみよう。
言葉に出して伝えることが出来ない代わりに、もう一度背中をしっかりと抱いて目を閉じる。
「お休み、オーヴェ」
「………リーオ…」
一人にしないでくれと言う呟きは己の口の中で消えるべきものだったが、それでもしっかりと聞き取ったのか、腰に回した腕が言葉の代わりに一人にしないと教えてくれ、安堵の吐息を零して身を寄せる。
お休みと、優しい言葉とキスを額で受けて程なくすると、暖かな空気に包まれたまま深い眠りへと落ちていけるのだった。
安眠と安息をもたらしてくれた腕と温もり、そしてグリューワインだが、マグカップの底に少しだけ残っていた命の水、役目を果たしたことを自慢するように微かに照明の明かりを弾いていた。
2010.03.09/今回の命の水は白ワインです(笑)


